愚慫空論

〔再掲載〕 知識

アキラさんがあげられている「野口先生の時代背景」シリーズ、その中でも特に

 『野口先生の時代背景 その6 ~〈世界〉を求める欲求 ~』
 野口先生の時代背景 最終章 ~「眩しい光」と「懐かしい闇」~

の2つを読んで、昔にあげた『知識』というエントリーを思い出してしまった。

近代的理性という「眩しい光」。光の蔭にできる「闇」。「光」になれてしまった私たちは、「光」が強くなることでかえって濃さをました「闇」に怯えるようになってしまった。

今ある「闇」は、「あたたかい闇」「懐かしい闇」ではないわけです。
底知れない空虚、不安と恐怖ばかりが惹起される「闇」。
おまけに具体的な脅威をもたらす「見えないヤツ」までまき散らされ、その「感覚に引っかからない放射性物質」による恐怖まで引き起こされるようになってしまった。
今 世の中でさんざん言われている「どうすればいいの?誰か教えて!」は、まさにこの状況の中で、周囲を照らす「光」を求める欲求なんですよね。


うん。「闇」は、光を当てて【知ろう】とするとますます深くなり、不安と恐怖ばかりが惹起される。が、〈識ろう〉とすれば、「闇」は〈闇〉になる。あたたかく、懐かしいものになる。アキラさんは、野口整体をそうした「闇」を〈識る〉方法だと仰るが、そうなんだろうと思う。私は野口整体のことは何も〈識らない〉けれども、樵という営みを通じて〈識る〉ことについてはいくらは知っているつもりだから、そう見当がつく。

というわけで、【知る】と〈識る〉とについて語った『知識』のエントリーを再掲載。尚、〈 〉や【 】等の表記は修正してある。

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理性に叛旗を翻す(笑)、2009年冒頭のエントリーです。


【知る】ことと〈識る〉こと。「知」と「識」の文字は合わさって「知識」という言葉になります。現代では、「知識」は【知る】ことの基礎的なもの、【知る】側の言葉として捉えられがちですが、もともとの「知識」は違うのではないか? 【知る】と〈識る〉はどちらも人間の精神作用ですが、似て非なるもの。その区別がつかなくなって、【知る】の側に大きく傾いてしまったのが、“我思う、故に我あり”に端を発した理性万能主義の近代ではないのか? そして、近代的理性が〈識る〉ことを抑圧し、人が人として〈生きる〉ことへの意義を見失わせてしまった...のではないでしょうか? 

〈生きる〉ことの意義は、決して【知る】ことはできず〈識る〉しかないもののように私には感じられます。




【知る】と〈識る〉について具体的に話を進めましょう。私は樵ですから、樹木の伐倒を例にとります。

伐倒方向立木を伐倒するには、まず伐倒方向を定めなければなりません。伐倒方向は、間伐で伐り捨ててしまって山の中へ放置するようなときは別ですが、搬出する都合を第一に考えて、伐倒方向を定めます。 右の図は、コチラの中からお借りしてきたものです(図そのものをクリックしていただくと、お借りしたページに飛びます)が、申し訳ないがこれは初心者向けと言わざるをえないもので、我々の作業では「作業困難」とされている方向へ伐倒するケースが多い。また、そちらへ伐倒することが出来ないようでは、一人前とは見てもらえません。

 ちなみに、上向き(山側)に伐倒するのが困難なのは、枝を張り出す都合で立木の重心はどうしても下向き(谷側)になってしまうからです。林には幾本もの木が立ち並んでいます。ある立木の上にも下にも、別の木がある。木の高さがすべて同じだとすると――針葉樹の人工林は、通常すべて同じ高さの木が並ぶ――上にある木は、下にある木よりも梢が高い位置に来ることになる。すると木は、上向きに枝を伸ばそうとしても上の木に光が妨げられ、逆に下向きに枝を伸ばすと下の木を受光を邪魔する形で伸ばすことが出来る。なので、木は斜面下向き方向に枝が多くなり、その枝の重みで立木の重心は下向き(谷側)に傾くことになるのです。

また、上側に倒すこと――我々はそれを“伏せる”と言いますが――には大きなメリットがある。出しひとつは、図で下向きが「不可」となっていることに関係するのですが、上向きだと伐倒した後着地するまでの距離が短いのです。すると、その分、木に掛かる衝撃が少なくなる。下向きだと衝撃が大きくなりすぎて、せっかく倒した木がバラバラに砕けてしまう恐れがあるのです。 もうひとつは、上向きだと木が軽くなること。上向きに倒してしばらく置いておくと、葉より水分が蒸散して乾燥します。これが下向き――木の元が上に、梢が下に――だとなぜか蒸散しない。それに着地の衝撃で枝が飛んでしまって、葉が少なくなるというのもある。現在は機械動力を使って搬出するので少々重くても出してしまいますが、昔、人力で搬出した頃には木が乾燥していなくて重いということは、非常に困ったのです。ですから、木を伐り倒すのは、“伏せる”のが決まりでした。


方向を定めたら、次は伐り込みの手順です。今はチェーンソーを使います。伐倒手順

まず、伐倒方向に向かって「受け口」を入れます。「受け口」の切り口は伐倒方向に対して垂直になるようにします。受け口を直径の1/4ほど伐り込んだら、今度は反対方向から「追い口」を伐り込んでいきます。

伐倒方向と立木の重心の傾きが同一方向である場合、「追い口」を伐り込むに従って立木は傾いてゆき、ついには傾く荷重に耐えられなくなって、木は伐り倒されます。ですが、“伏せる”ときのように、伐倒方向と重心の傾きが反対の場合、「追い口」を伐り込んでゆくと、追い口の方向に木が傾いてきます。そうなると、チェンソーは木に詰められてしまって、伐り進めることも、刃を木から抜くことも出来なくなってしまう。

クサビ そのような場合には、クサビを使います。右の黄色いのがクサビ。少しずつ伐り進めながら、少しずつクサビを打ち込んでゆく。この時に重要なのが「つる」の残し加減です。クサビを打ち込みつつ伐り進めても、ある限度以上に伐り進めて「つる」を少なくしすぎてはなりません。クサビを打ち込むことは、伐倒方向への力の加重をかけると同時に、木の梢の方向への力も加えることになります。「つる」が細いと、梢方向への荷重に耐えられなくなって「つる」が切れてしまい、そうなると伐倒方向への力の加重も無くなってしまって、立木そのものの重心の傾く方向へ倒れてしまい、事故の元です。また逆に「つる」を残しすぎるのも危険で、倒れていかないばかりか、無理にクサビを打ち込むと、梢方向への加重に木の幹が耐えられなくなって、幹が真っ二つに割れて裂け上がっていきます。そうなると、幹は木の加重に耐えられなくなるまで裂け上がって、耐えられなくなったところで折れて落ちてきます。こうした現象は逃げる間もなくあっという間に起き、また、どちらに落ちてくるか予想もつきませんから、非常に危ない。捻れの少ない素性の良い木ほど裂けやすいですから、困りものなのです。

これまでの説明で、立木の伐倒について理解していただけたでしょうか? 私の説明がつたないこともあるでしょうが、自信をもって“理解できた。もうすぐにでも木を伐れるぞ!”なんていう人は、おそらくいないだろうと思います。せいぜいのところ、“手順はだいたい飲み込めたが、実際にできるかどうか自信はない”といったところでしょう。それで当然です。

では、こちらの動画をご覧ください。ハーベスタと呼ばれる高性能林業機械です。


もちろん、ハーベスタだって素人がそう簡単に扱えるものではありません。しかし、これはベースになる機械は土木・建設に用いられるパワーショベルですから、パワーショベルを扱った経験がある人だったら“ちょっと慣れたらできるかな”くらいに思うかもしれません。ハーベスタを使えば、「つる」の残し具合だとか、「追い口」へのクサビの打ち込み加減だとか、そういったことに熟練する必要もなく比較的安全に作業できます。もし、林業に従事しなければならないとしたら、ハーベスタを使って作業をしたい――そう考える人が多いのではないでしょうか? 肉体的に、こちらの方が楽だと直観的にわかるでしょうし。


伐倒方法の手順などの知識を頭脳に仕込むことは、【知る】ことです。ですが、【知る】だけではなかなか大きな立木を上手に伐り倒すことは難しい。それには経験を経て〈識る〉ことが必要です。【知る】ことは、記述された言葉を理解することで得られます。では、〈識る〉ことは? 単に経験だけでは不足です。〈識る〉ためには〈対話〉が必要なのです。

では、〈対話〉とは? 立木の伐倒ひとつをとってもいろいろな場面で〈対話〉はできますし必要ですが、もっとも精妙な〈対話〉が要求される場面は、やはり「つる」の残し加減、クサビの打ち込み加減、うまく言語化することが困難な、「加減」が要求されるところでしょう。ハンマーでクサビを打ち込んだ時の手応えとか、ハンマーの一撃ごとにクサビが「追い口」に潜り込んでいく距離、立木の軋む音、傾き具合、時には風が吹く様子――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していく。こうしたことが、言語化することがそもそも不可能な〈対話〉であり、そうした〈対話〉を為すことを〈仕事〉というのです。

〈対話〉を為すことを〈仕事〉とは、また妙なことを。言葉を解する人間相手の仕事ならば対話が仕事ということもあるだろうけども、木は言葉を解しないのに対話はおかしい――そんなふうに思われる方もおられるでしょう。しかし、これは「仕事」という言葉を考えてみれば、それほどおかしなことではありません。

「仕事」とは“事に仕える”ということです。“仕える”のは、もちろん「私」、仕事を為す私です。では、「事」とは? 仕事は、そもそもが「私」が外部に働きかけを行ってなんらかの成果を得るための行為です。その「行為」を「事」と称する。してみれば“事に仕える”とは、「私」よりも「事」を上位において、そこに没入していくということになります。「事」に没入していくこと――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していくこと――は、相手が言葉を介す介さないなど関係なく、「私」の相手への行為から生じる相手の応答を感じつつ、さらに相手に行為していく、そうした「私」と相手との間の「行為-応答」の「やりとり」です。その「やりとり」を〈対話〉と呼んだだけのこと。この呼称は、言葉を解する「私」を上位とする思い込みからは出てこない発想かもしれませんが、「私」を下位に置く〈仕事〉の精神からは遠いものではないと思います。


ハーベスタを使用することは、肉体的な負担が少なく、比較的安全であり、さらには作業の生産性が上がり、良いことずくめのようですけれども、同時に〈識る〉ことができる機会が奪われてしまうことにもなります。もちろん、ハーベスタを扱うことはハーベスタと〈対話〉しなければなりませんから、ハーベスタについて〈識る〉機会は新たに生まれます。ハーベスタといったような機械との〈対話〉は、それはそれで素晴らしいことです。ときに機械の設計者が想定した以上の性能、機能を発揮することもある。ですが、基本的に機械といったものは、それが進歩すればするほど――進歩させるのは科学技術――人の〈識る〉範囲を狭くしていく。たとえば、さらに機械の能率を上げるため、またオペレータの熟練――オペレータが機械を〔識る〕こと――に依存しないように、機械の自動化を推し進めれば? もしくは、作業の過程を細かに検討し分業化を進めれば? そのような「進化」が進むごとに作業能率は上がるかもしれませんが、〈対話〉の機会は奪われ、人間は〈識る〉ことが出来なくなっていきます。そうして多くの〈仕事〉がたんなる作業になりさがってしまう。

ハーベスタのような機械を設計開発するには、科学によって積み重ねられた成果――【知る】ことの体系――が必要であったことはいうまでもありません。設計者は、機械の目的に合わせて【知る】ことの体系と〈対話〉をしつつ、設計を行う。また、設計されたものを形にするには、エンジニアたちのノウハウ――これも〈対話〉によって捉えられた〈識る〉こと――も必要です。機械の設計者、エンジニアたちの作業は〈仕事〉でありえるかもしれません。「私」を「事」の下位に置くことができるかどうかはいささか疑問ですが、彼らにとって、その作業は自己実現の方法となりえるでしょう。

しかし、そうした〈仕事〉は、機械に従って作業をしなければならない人たちから〈仕事〉を奪い、仕事人をたんなる作業員にしてしまいます。マルクスが唱えた「疎外」というやつですね。マルクスは労働者を疎外する主犯を資本としましたが、これまで見てきたような視点に立つと、疎外とは、〈識る〉が【知る】によって抑圧されること、とすることも出来そうです。


ヨキ

これは私が使っている道具です。一般的には「斧(オノ)」という方が通りがよいかもしれませんが、我々は「ヨキ」と呼び習わしています。ヨキの語源は、刃に施されている4本のスジにあるという話です(画像からも、見づらいですが見て取れます)。刃の反対側には3本のスジも施されてあるので、「ミキ」となってもおかしくはなかったはずですが、なぜがこれは「ヨキ」です。

ヨキは、樵にとっては武士の刀のような存在です。樵の世界でも今の世の中、さすがに機械化が進み、ヨキが活躍する場面はほとんどありません。木を伐るための道具は、もっぱらエンジン動力のチェーンソーか、さもなければハーベスタのような大型機械になってしまっています。ヨキは木を伐るための道具としてよりも、刃の背でクサビなんかを打ち込むための道具として使われることの方がはるかに多くなっています。

ヨキは、ノコギリという道具が発明されて以来、木を伐るための道具としての役割の主役からは降りてしまっています。それでも、ヨキが特別な存在である理由――明確にはわかりませんが、それは刃に施されたスジにあるのかもしれません。

斧という道具は、木材を建築物等に利用した文明には広く見られるものです。しかし、刃に3本、4本のスジを施すのは日本独特のもの。その意味は、1本1本のスジは「気」を表し、3本のスジは「ミキ」すなわち神酒、4本のスジは「ヨキ」すなわち4つの気――地・水・火・風――から生まれる五穀を表すもの。木を伐るのは今でも深い山中のこと、昔はなおのこと供え物を運ぶことなど出来ず、その気持ちを表すものとして斧の刃にスジを刻んで伐り倒す木に祈りを捧げた、ということらしいのです。

木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)
(2003/11)
西岡 常一

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そうした意味を、私はこの本で知りました。樵になる前の話です。そのときには、「ヨキ」の意味を頭には仕込んで【知る】ことは出来たかもしれませんが、木に供物を捧げようとした昔からの樵たちの心まではとうてい〈識る〉ことは出来ませんでした。樵に鞍替えして、多少は木との〈対話〉の経験もした現在は、少しはその心がわかるような気がします。

以前、知り合いのベテラン樵から、奈良の平城京大極殿復元に使う樹齢300年に近いヒノキの伐ったときの話を聞いたことがあります。吉野のとある山中にあったその木を伐るに当たって、仲間といろいろ伐り方について相談――適切な伐倒方向、倒れ具合の予測、倒した後の搬出の段取り等々だと想像しますが――したあと、いざ、木に刃を入れるという段になると、やっぱり足が震えたと言っていました。その心境はよくわかります。たかが木といえど、それを伐り倒すことを生業にしているといえど、自分よりも遙か齢を重ねたそのヒノキは、単なる樹木ではないのです。供物を捧げ祈りたい気持ちになっていくのは、ごくごく自然なことだと感じます。

木を伐り倒すことから、木へ供物を捧げようという心へ至る過程。こんなものは、とてもとても、論理的に説明できるものではありません。そうしたことを明確にしようとするときには、言葉の伝達力の乏しさに絶望を覚えざるをえない。しかし、では、言葉でそれらを表現することは全く不可能なのかというと、それはそうでもない。読み手の想像力、共感力に期待を託しつつ、自分の感覚をさまざまな方法で言葉に載せて〈対話〉するのであれば、もしかしたら理解してもらえるかもしれない。そうした期待は、言葉には十分持って良いのではないかと思ってもいます。


悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
(2008/05/16)
姜尚中

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姜尚中は、この著作の第3章のタイトルを「知っているつもり」じゃないか、としています。私の文章をここまでお読みいただいた方は想像つくかもしれませんが、「知っているつもり」をこのエントリーの表現の仕方で言い換えると、「識っているつもり」です。また姜尚中は、トルストイを引用しながら「科学は何も教えてくれない」とも言います。科学はわれわれが何をなすべきかということについて教えてくれない。教えてくれないだけならまだよいのですが、それに留まらず、人間の行為がもともともっていた大切な意味をどんどん奪っていくと言う。私もそれに全く同感です。

われわれはみな、自分たちは未開の社会よりはるかに進歩していて、アメリカの先住民などよりはるかに自分の生活についてよく知っていると思っている。しかし、それは、間違いである。われわれはみな電車の乗り方を知っていて、何の疑問も持たずそれに乗って目的地へいくけれども、車両がどのようなメカニズムで動いているかを知っている人などほとんどいない。しかし、未開の社会の人間は、自分たちが使っている道具について、われわれよりもはるかに知悉している。したがって、主知化や合理化は、我々が生きる上で自分の生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。

これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』の孫引きです。

自分が使う道具を含め、自分自身が住んでいる世界について知悉すること、〈識る〉ことは、自分が何者であるか、ということを〈識る〉ことにつながっていきます。いくら科学的な知識や、社会の仕組みについて理解し【知る】ことを重ねても、生きている意味などつかめないように私は思います。【知る】ことで出来ることは、せいぜい知らない者を下に見て、相手と比較することで自分の位置を確かめる程度のことです。それは、オレは金持ちだからエライとか、社会的に高い地位にいるからエライと考えるのと大して違わないように私には思える。そうした比較を知性だとか理性だとかというならば、そんなものを少しも欲しいと思いません。

私自身が何者であることを〈識る〉ことは、むしろ理性的でないところからもたらされるように思います。「我思う、故に我あり」ではなく、「我感じる、故に我なし」です。

「我なし」は間違いではありません。私自身を〈識る〉ことを「我なし」とは矛盾していますが、これはこれで正しいと思います。ただ、どのように正しいのか、そこを語る言葉を残念ながら私は未だ持ち合わせていません。語れるときが訪れたら――いつ訪れるかわかりませんし、訪れない可能性も高いですが――、エントリーをあげたいと思います。
  

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今の私は【知る】ことも、〈知る〉になりえることを知っている。また逆に〈識る〉ことが【識る】に堕ちていくのも識っている。

アキラさんが信奉しておられる野口晴哉という人は、〈識る〉ことを〈知る〉へ高めた人だったのだろう。そのような知識人は、昔は結構いたのだろう。

右は、〈識る〉と〈知る〉をともに究めていった人の「姿」だ。

それから比べると、今の知識人は、【知る】ことによって〈識る〉を【識る】へと貶めている者たちが大半のような気がする。霊的な病人というべき者たちだ。

霊的に不健康

のだ

画像は今朝の朝刊から。顔写真は私が貼り付けた。

タイトルとの関係は...、当然、ないわけがない。

それにしても、「霊的に不健康」とはどういうことか? 先のエントリーで性懲りもなく「霊」などというわけの分からないものを持ち出したが、そんなものを健康と結びつけるなんて、それこそ精神的に不健康なのではないか? そう感じられる方も多かろう。特に日本では。

ところが、どっこい。

WHO(世界保健機関)が定義する健康とは、こうだ。


健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.



私などが昔々教わった憶えがあるWHOによる健康の要素は、「身体的」「精神的」「社会的」の3つだったが、この知識は古くて、1999年に改訂されていたらしい。

といっても、「霊的に健康」のイメージはなかなかつかみにくい。特に無神論が蔓延る日本では。

では、外国の宗教を参考にしようではないか。

  「父と子と聖霊の御名において」
  ”In the name of the Father, the Son and the Holy spirit.”

クリスチャンはミサなどの儀式に参加すると、このように唱える。これは「聖なるもの」に対して誠実であらんとする態度を表明するためのものだと解してよいと思う。

ここから推測すれば、「霊的に健康」とは「聖なるもの=spirit」 に対して誠実であることができる状態と考えられるだろう。

そのことが腑に落ちたら、冒頭の画像へと戻っていただきたい。

民主主義体制下の政治家にとって「聖なるもの」といえば、国民に決まっている。
が、写真のお方にとっての「聖なるもの」はなんなのだろう? 勝海舟の子孫を崇め奉っているという噂も聞えてくるが、まあ、噂は噂だ。しかし、どう見ても日本国民が「聖なるもの」ではなさそうである。

もっとも、何を「聖なるもの」としようがそれは当人の勝手ではある。が、ほんとうは神を信じていないのに、問われれば「信じています」なんて答えるような輩は、「霊的に不健康」と言われるに違いない。写真の人物も問われれば「私にとって聖なるものは日本国民です」と答えるだろう。

残念なことに、日本は「霊的に不健康」な者に事欠かない。永田町や霞ヶ関や丸の内、大手町当たりで石を投げると、まず不健康者に当たるだろう。見かけは「身体的」「精神的」「社会的」に健康そうに見えるかもしれないが。

不健康者、いや、もっとはっきり病人と言っておこう、論うときりがないのでやめておくが、でも、もうひとりだけ。



写真ではなかなかの男前だが。

尾崎豊に共感するとかしないとか

毒多さんのところでの〈対話〉を、独自に見解を付け加えて勝手にまとめてみる。

 『「尾崎豊はイミフ!?」・・・共感しないのは何故?』(dr.stoneflyの戯れ言)

まず〈対話〉の出発点は、今の若者世代はあまり尾崎には共感しないらしいということが新聞記事に掲載されていた、ということだった。

 中日新聞:中日春秋(2011年10月22日)

そこから派生した〈対話〉の流れを整理してみると、

1. 若者世代が尾崎に共感しない理由、あるいは我々の世代が尾崎に共感した理由についての考察
2. 世代・時代に関係なく各々が尾崎に共感する理由、あるいは共感しない理由
3. 〈〉や【】といった表記について。

1.はガンダム世代VSワンピース世代でまとめた結論と共通する。

尾崎に共感した世代=ガンダム世代/反感を持つ世代=ワンピース世代

という図式が成り立ちそうだ。鍵は【社会】に対する距離感。我々ガンダム世代は【社会】に違和感を感じていた。違和感を抱えながらも【社会】に順応しなければならないという義務感へ繋がっていく肯定感と、違和感から反感へと派生していく否定感をともに抱えていた。これら二つが同根なのは言うまでもない。

だが、こうした違和感も、ワンピース世代から比べてみると、【社会】に対しての距離感が近かったことが原因だと判明してくる。

【社会】からの距離感が遠いワンピース世代以降もやはり、肯定感と否定感のジレンマを抱えている。肯定感は自分たちで〈社会〉を造り始めている手探り感になり、否定感は承認欲望を求める飢餓感へと派生。ここで、肯定感と否定感の境目になっているのが、

4. 偏差値教育の弊害

である。

2.については、特にまとめる必要も勝手な見解を付け加える必要もあるまい。よって、スルー。

3.は、もともとは私が「良心」を【良心】と表記したことから始まった。そこから、〈良心〉【良心】といったような書き方になったが、意味するところは〈 〉は純粋な状態、【 】は何か不純なプラスアルファがつくというものだった。それを今回、「spirits=霊」を規準に区分するところへ発展させた。

ついでの思いついたので言うと、世の中の〈〉付きのモノは、それを表現するのに歌や文章にのせることまでは大丈夫だけど、それがヒット曲やベストセラーになって独り歩きした時点で【】付きの別物を生む気がしますね。

その「独り歩きさせるもの」を「合理性」と言っているわけでして。
もう少し言いますと、独り歩きすると、それはモノであれ情報であれ、「商品」になるんです。だから、値段をつけることが心理的に可能になってしまう。

(「合理性」については、現在、魔法少女『まどか☆マギカ』シリーズで展開中)

〈歌〉が【歌】になることで、多くの+αはつきそうですね。商品ということもそうですが、〈歌〉では絶対聴こえない距離まで聴こえることになるし、聴こえない時を超えることもできる。「繋がる」ことができる。問題は【歌】【繋がる】から〈歌〉〈繋がる〉が抽出できるかどうか、かな、と

そう。で、何を抽出するかなんです。歌を〈歌〉たらしめているもの。私はspirits=「霊」だとするのが良いと思ってます。〈歌〉には〈霊〉が入っている。【歌】は霊が切り落とされている。〈贈与物〉というのは、〈霊〉が入っているです。〈〉は、「霊入り」の印。【商品】は霊なし。【】は「霊なし」の意味。〈霊〉がないから【システム】に乗っかることが出来る。


上の回答のネタ元は、先にも引用した中沢新一著『愛と経済のロゴス』。再度、掲載してみる。

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


すなわち、

 〈 〉 ← 「霊」が含まれる/ 【 】 ← 「霊」が含まれない

5.「歌」(に留まらず、あらゆるモノや表現には)「霊」が含まれる。

さらに5.から、6.霊と共感について。

話を尾崎に戻して〈霊〉という観点から見てみると、実は、尾崎に共感しないという若い世代の者たちだって、ちゃんと尾崎の〈歌〉を感じているんですね。だからこそ「ひとりよがり」とかいう印象を持つ。それはそれでいいんです。〈霊〉的な在り方は世代や時代で違うけど、でも、ちゃんと〈霊〉を感じはいる。そこを互いに確認できれば、どこかで〈繋がる〉はずなんですね。そういう〈繋がる〉ための営為を〈対話〉というんです。


7. 4.偏差値教育と 5.霊の、日本的ミスマッチ。

偏差値というのは、【貨幣】と同じで【偏差値】なんです。人間の知的能力から〈霊〉を断ち切ってしまうものなんです。だから、偏差値教育に適応してしまった者は、アタマはよくても霊性の低いアタマデッカチになってしまう。

でもこれは、西洋と東洋の「知」と〈霊〉の在り方が異なるところから来るんです。私たちは、「論理」に〈霊〉を感じないでしょう? むしろ「理屈」といって〈霊〉を断ち切るものだと感じる。私たちが〈霊〉を感じるのは「情理」の方です。

なぜそうなるか。私たち日本人は、個々の人間のみならずありとあらゆる「もの」に〈霊〉が宿っていると感じている。しかも、それはそれぞれ個別的に〈霊〉を宿していると感じている。山川草木悉皆成仏なんです。

でも、あちらでは、〈霊〉はぜ~んぶ神へと収斂してしまう。人間だけが例外的に個別に〈霊〉を宿すけれども、世界の〈霊〉は神によって体系付けられている。もちろん、この体系には人間の〈霊〉も組み込まれている。そして、人間に理性が備わっているのは〈霊〉があるからなんです。

ですからね、理性が組み立てる論理とは神が支配している〈霊〉の体系へ近づくことなんです。これは科学でも同じ。だから、科学者だって神を信じていられる。いや、科学者ほど神への信仰が強くなったりする。

感じ方が私たちと全然違うでしょう? 私たちは論理というと〈霊〉を断ち切るものであり、〈霊〉を断ち切ったからこそ近代文明は発達したのだと思い込んでいます。

いや、その「思い」は欧米人も同じでしょう。で、それが間違っている、あるいは行き過ぎたと感じ始めているのも同じ。だから霊性を取り戻さなければと感じ始めているだけど、あちらはもともと論理は霊的だから、霊的な論理と非霊的な論理を分ければいいということになっていく。でも日本人には、論理はぜんぶ非霊的なんです。そしてここが、偏差値の高い人間ほどバカになっていく根源的な理由です。


8.もうひとつ、アキラさんが現在展開中の「超越/内在」についても触れているが、これについてのまとめはまた別の機会で。

インキュベーター その2

情報の歴史を読む

 市場の原理をつくったのはイギリスでした。一七〇七年にスコットラゾドを併合して、大英帝国(大ブリテン王国)となっていたイギリスです。だいたい「チープ」という英語が「物々交換」とか「値段」とかを意味するアングロ・サクソン語で、チープジャックといえば行商人のことをさしていた国なのです。そして十八世紀以前、イギリスの投資家にとっては、アメリカ大陸がチープの対象になってきます。
 そこへもってきて、一七一七年にジョン・ローの私立発券銀行が国王直属の銀行に位があがり、ルイジアナ投機熱をあおりたてた。誰だってアメリカ大陸に投資すれば一獲千金を手にできる時代です。それから数年もたたないうちに、イギリスで最初のバブルがはじけ、フランスはジョン・ローのインド商会に投資しすぎていたために、ひどい煽りをくらいます。これがいわゆる「南海泡沫事件」です。史上最初の経済バプルですね。ということは、この段階でフィクショナルな情報文化の領域としての、つまり“鏡としての市場”ができていたということです。
 ジョン・ローの失敗は、のちにゲーテが『ファウスト』第二部でメフィストフェレスの商売としてとりあげます。しかし、それからまた数年もたたないうちに、今度はパリで商工会議所が設立され、一七二〇年代にはパリっ子は株式取引に夢中になっていく。そこにはジョン・ローが“ザ・システム”とよんだにふさわしい、何か目に見えない劇場的・市場的な虚構性がはたらいたわけでした。ロココはこうした市場の動向からもこぼれ落ちてきた美の意匠です。
 この一連の動向には、それまで隠されていた貴族や豪商たちの欲望というものは、それにうまく鏡をあわせるシステムさえあれば、それまで人類が知らなかったとんでもない可能性と危険性が引き出せるのだということを知らせます。それは何かというと、それが資本主義というものでした。


先に、インキュベーターはメフィストーフェレスであるという指摘はしておいた。
(以下、『まどか☆マギカ』のキャラであるインキュベーターは「キュゥべえ」と表記する。「インキュベーター」は、新たなベンチャービジネスを育てる者という、ビジネス業界における意味とする。)

そして、ジョン・ローはメフィストーフェレスである。ジョン・ローの企ては失敗したが、しかし、そのジョン・ローが“ザ・システム”とよんだ「なにものか」――欲望にうまく鏡をあわせるシステム、すなわち資本主義は今日も(大失敗しつつあるように見えるが)未だ生き残っている。つまり、未だメフィストーフェレスはこの世界に跋扈している。

インキュベーターの役割は、新たな「願い」に経済合理性を与え「ザ・システム」の中に繰り入れることだ。繰り入れられた新たな「願い」は、経済の世界では「イノベーション」と呼ばれている。

キュゥべえの役どころもまた同じである。新たな「願い」を「ザ・システム」の中に繰り入れることだ。ただ、もちろん、アニメの話だから違いはある。ここでは合理性は奇跡に置き換えられているし、「ザ・システム」とは熱力学第二法則に抗う仕組みにというものだった。そしてキュゥべえの悪魔性は、『まどか☆マギカ』で設定されている「ザ・システム」の悪魔性に由来する。

と考えていくと、現実世界のインキュベーターも、資本主義という「ザ・システム」に悪魔性があるならば、その役どころはやはりメフィストーフェレスのそれだということになるだろう。

では、資本主義に悪魔性はあるのか? そう問えば、その悪魔性はますます強まっている、というのが素朴な感触だろう。資本主義はどうしても「強欲」を涵養してしまう性質があって、経済グローバル化はますますその「強欲」を巨大なものにしてしまっている。

しかし、教科書的な資本主義についての理解、すなわち「社会に資本を投下することで資本を運動させ、その運動から利潤や余剰価値を回収する」といった理解からは、悪魔性は見えづらい。では、資本主義の悪魔性はどこにあるのか。

 「欲望というものは、それにうまく鏡をあわせるシステムさえあれば、それまで人類が知らなかったとんでもない可能性と危険性が引き出せる」

つまり、資本主義というシステムは「他人の欲望を欲望する」ことに合理性を与えてしまった、ということなのだ。そして、その道を切り拓いたパイオニアのひとりがジョン・ローだったということだ。それも、奇跡というべきか詐欺というべきか、とにかく「天才的」な方法を発明したのだった。

続く。

(『まどか☆マギカ』ネタのエントリーは、こちらから。
 → 『魔法少女まどか☆マギカ』

「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

『もしドラ』の枕詞で語られるベストセラー作家、岩崎夏海氏がフルスロットルで電波放出中なんだそうである。

 『ベストセラー作家だけど質問があるよ?』(ハックルベリーに会いに行く)

断わっておくが、私はここに並べられた質問に答えるつもりはない。というか、答えられない。私にとって岩崎夏海氏のイメージは、『もしドラ』の作者。昨年の紅白で特別審査員だったかを務めていて、マイクを向けられなにやら答えていたアタマの薄い紳士。この2つしかない。

では、なぜこんなエントリーをあげてみようと思ったかというと、その周囲の反応に「えっ?」と思ったから。とにかく、承認欲求、承認欲求、承認欲求! なのである。

これは私が紅白の中継で垣間見た岩崎氏のイメージとは大きく異なる。垣間見ただけだから自信をもって言えるわけではとうていないのだけれども、とにかく違う。実は、私はあのときの岩崎氏の様子をかなり鮮明に覚えている。というのも、あまりにもベストセラー作家らしからぬ感じだったから。たしか「熱演に接して創作意欲が湧いてきて、机に向かいたくなった」とかなんとか、田舎のオヤジが用意してきたつまらぬ世辞を不慣れな席でしゃべったみたいな、ひとつもふたつもパッとしない印象だった。「これがあの『もしドラ』の作者なの?」と、肩透かしを喰らったような気持ちになったものだ。

その岩崎氏が承認欲求の赤色巨星であるとは、ちょっと信じられない。もしそうなら、あの紅白の席でも、もっと気の利いた台詞を用意してきたであろうに。なにせ、ベストセラー作家なのだから。その気になればできるだろうに。
(もっとも、『もしドラ』に気の利いたようなセリフがあったような記憶はないのだが。)

だが、それにしても、この質問群は強烈だ。特に

 「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

こんな質問を公衆に向かって発することが出来るのは、よほどの神経を持っていると感じざるを得ない。「承認欲求!」という反応が集まるのも、無理からぬことだとは思う。

が、もし、私の直観が正しくて、岩崎氏は肥大した承認欲求からそんな質問を発したのではないとしたら?

そう疑問を立ててみると、では、スティーブ・ジョブズは承認欲求の巨星だったのか? という疑問が湧いてくる。で、ジョブズ死去に際して寄せられた多くの賛辞を思い返してみると、「ジョブズはユーザーのニーズには応えなかった」だ。つまり、もしジョブズが承認欲求の塊であったとするならば、きっとユーザーのニーズに応えたであろうが、そうしなかったわけだから、ジョブズはあれだけの成果を挙げて多くの人から承認を得ていたにもかかわらず、承認欲求には左右されない人物だった、だからこそあれだけのイノベーションを実現できたんだ、という結論が出てくることになる。

さあ、そこからもう一度、岩崎氏の質問に立ち返ってみよう。

 「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

『もしドラ』は、読者のニーズに応えた作品だったのか?
それとも、読者の新たなニーズを開拓した作品だったのか?

「スティーブ・ジョブズのような人間」には二通りの解釈があって、ひとつはスケール。これは承認のスケールだ。もうひとつは承認の理由だ。なぜ、承認されたのか。この「理由」において、岩崎夏海とスティーブ・ジョブズは同様の人間だ、ということはできるはずである。

そうすると、岩崎氏を承認欲求の巨星と見た人たちは、何なのだろう。それはおそらく、スティーブ・ジョブズのスケールに焦点を置いて、そこから岩崎氏を見たのである。その動機は、彼ら自身の承認欲求だろう。ふつうの人は、とてもじゃないがスティーブ・ジョブズほどには承認を得られないと、思っている。それを岩崎氏は公衆に向かって発した。それをうけて、「岩崎夏海は、スティーブ・ジョブズほどに承認を欲している」と受け取った。それは自らがスティーブ・ジョブズほどに承認欲求を欲しているから。ただ、それを公衆に向かって求めることが出来ない、「ふつうの人」というだけのこと。つまり、承認欲求は電波を発した側にあったのではなく、受けた側にあったのだ。

こうなると、承認欲求はもはや「欲求」とするのは相応しくないような気がする。「欲望」である。「人間の欲望とは他者の欲望である」といったのはラカンだったが、まさにそれ、いや、その逆か。自身の欲求を他者の中に見たのである。

おっと、最後に断わっておかなければ。

以上の推論は、私の直観が正しいということが前提だが、その保証は全くない。ただ、電波受信側にこそ承認欲求が渦巻いているというのはありそうなことだとは思うが。とくに「はてな村」においては。

なむあみだぶつ。

追記:

今、気がついた。質問のアタマは、

 1.何でぼくのことを承認欲求の強い人間だと思うの?

だ。岩崎氏は自分で自分のことを承認欲求が強いとは思っていないということだ。

ということは、岩崎氏は、「オマエらこそ、承認欲求の巨星だろ?」とメッセージを発していると受け取ることもできるということだ。

インキュベーター その1

さて、いよいよ「インキュベーター」である。
もちろん、『魔法少女まどか☆マギカ』に登場してくるインキュベーターだ。

それは、右のような姿形をしているが、まあ、そんなことはどうでもいいだろう。この造形からメフィスト―フェレスを連想するのは難しい...というくらいのものだ。

それにしても、よくもまあ、こんな無謀なエントリーを構想してしまったものだ。上手く書ける自信はないし、今さらながら少し後悔している...。
(冒頭の“いよいよ”は自分に向けての掛け声みたいなもの。)

まず、材料を一通り並べてみることにしよう。

何をおいても、『魔法少女まどか☆マギカ』。これはいうまでもないだろう。
メフィスト―フェレスは既出。ジョン・ローは予告しておいた。

ジョン・ローについては、こちらのブログ記事を読んで頂くのがいいだろう。

 『最初のケインジアン/ジョン・ロー』(Electronic Journal)

それから、ベンチャービジネス業界においてのインキュベーター。これは、こちらの記事を紹介。

『「まどか☆マギカ」で考える「インキュベーター」の役割』(YOMIURI・ONLINE/磯崎哲也の起業案内)

「インキュベーター」は、そうしたベンチャービジネスを起業後の非常に早い段階から、起業に関する情報、資金、オフィスなどを支援してくれる存在です。アメリカでは、ポール・グレアム氏がやっている「Y Combinator」というインキュベーターが有名ですが、日本でも、いくつもインキュベーターが活躍しています。「いいインキュベーター」がたくさん出て来ることは、日本のこれからのベンチャーコミュニティーの発達にとって、極めて重要だと思います。

 しかし。

 今年に入って、この日本の「インキュベーター」の将来に大きなインパクトを与える出来事が起きました。それは「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメが一部で大きなブームを巻き起こしたことです。(半分冗談ですが、半分本気です(笑))。


この記事は要するに、「インキュベーター」という用語のイメージが悪くなった、ということは、アニメの「インキュベーター」と実業界での「インキュベーター」は別物、ということなのだが、あいやいや、そうではない、実は変わらないんだぞという話を展開したいと考えているわけだ。

おっと、材料紹介の途中だった。

ベンチャーとくれば、イノベーションはつきもの。

『まどか』のインキュベーター(「キュゥべえ」と呼称される)は、エントロピーが云々とデムパなセリフを吐いたりするわけだが、そのデムパを大まじめに解釈するのに、イリヤ・ブリゴジンの『混沌からの秩序』――にまではとてもではないが手が届かないので、これはいままでも散々引用させて頂いている安富教授の『経済学の船出』から、貨幣生成の機序について。

あとは、池田信夫先生のブログ記事から、自然利子率がどうの、といったところを参照させてもらうことになるかもしれない。

というとこいらで、材料は出揃ったかな。

以上を順序立てて料理したいというわけだが、ざっと見ただけでも、私の力量をまちがいなく超えている...。

が、こうやって予告をしてしまった以上、とにかく取りかからないわけにはいかないだろう。

どうにでもなれ。

続く。

神野直彦氏が素晴らしい件について

今週のマル激。

 「分かち合い」のための税制改革のすすめ 分かち合いの経済学

ゲストは神野直彦氏(地方財政審議会会長・東京大学名誉教授)

著書の『「分かち合い」の経済学』も良書だと思ったけれども、マル激でのお話はさらに素晴らしい。

視聴は有料なのが少し残念だが、この回だけでも515円の価値はあると思う。

そのうち、時間があれば、内容を紹介しつつ取り上げてみるかもしれないが...、時間はないかも。

【イデオロギー】とは過剰【連帯】である

最初に読んだときから、どこか違和感を感じていた。

『格差と若者の非活動性について』(内田樹の研究室)

マルクスの『共産党宣言』の最後の言葉は「万国のプロレタリア、団結せよ」でした。革命を呼号したパンフレットの最後の言葉がもし「打倒せよ」や「破壊せよ」であったとしたら、マルクス主義の運動はその後あのような広範なひろがりを見せたかどうか、私は懐疑的です。マルクスの思想的天才性は、彼が社会のラディカルな変革は「なによりもまず弱者たちが連帯し、団結するところから始めなければならない」ということを直観したこと、最初のスローガンに「戦え」ではなく、「連帯せよ」を選択した点にあると私は思っています。


一読して特におかしなところもなさそうなのだが、どこかでなにかが引っかかっていた。その引っかかりの正体が、昨日、富士の裾野で弁当を食べているときに、判明した。

 人間はデフォルトでネットワークマシンなんだ。

「連帯」は、人間にとっては言わずもがなのことなのだ。その言わずもがなをマルクスはスローガンとして掲げた。そのことが違和感として感じられていたのだ。

ではなぜマルクスは言わずもがなのことをスローガンに掲げる必要があったのか。

状況には2つの可能性が考えられるだろう。
 1.プロレタリアートがデフォルトな連帯が阻害される状況にあった
 2.人々はデフォルトなはずの連帯能力を消失した

内田氏の文章から推測するなら、マルクスの場合はどう見ても1.である。

今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。


今の日本の若者は「連帯」の能力を消失していると区別して書かれている。また、1.であると考えるならば、マルクス主義運動が広範な広がりを持ったことも合点がいく。「連帯せよ」のスローガンは言い換えれば「デフォルトを取り戻せ」になるからかだ。

(実際のところのマルクス主義が「デフォルト復帰運動」であったとは思えないが。)

では、なぜ、1.や2.の状況が生まれたのか。

1.の場合は、それが資本主義がもたらす弊害とするのが通説だろう。労働力は資本が生産手段を独占することで商品と化し、労働者は否応なく分断される。

2.は、内田氏が明記している。

それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。


この「イデオロギー」の内容は、私も同様のことを『偏差値教育の弊害』で書いている。が、同じことを書いても内田氏が書くと、洗練されていてわかりやすいこと。「格差」を感じざるを得ないが...、まあ、それはいい。

ここで考えたいのは、この「イデオロギー」が生じた理由だ。資本主義が生じた理由はいろいろと説がある。だが、「偏差値教育イデオロギー」が生じた理由には内田氏も触れていない。

数値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、処罰を加えたりすれば、すべての人間は「報償を求め、処罰を恐れて」その潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観を土台とする、この「能力主義」「成果主義」「数値主義」が「弱者の連帯」という発想も、そのための能力も深く損なってしまった。


素朴に考えれば、いや、素朴に考えることができるならば、このような教育が人間によからぬ影響を与えることはすぐに分かる。ではなぜ、素朴に考えることが出来なかったのか。素朴に考えることは、思考を洗練させるよりも容易なはずなのに。その簡単なはずのことが出来なかった。素朴に考えることもデフォルトのはずだから、それが出来なかったということは、何ものかによって阻害されたのだと考えるのだ妥当だろう。

その「何ものか」を考えるまえに、そもそも「イデオロギー」を生み出した世代の者たちはデフォルトな連帯を阻害された状況にあったのか、ということを考えてみなければならない。マルクスが「連帯せよ」とスローガンを掲げたのは連帯が阻害されていたからだった。その結果、労働者は搾取され、悲惨な状況に陥っていた。だが、高度成長を実現して国民が総中流となり、社会主義国家より社会主義的と言われた日本の労働者は、連帯を疎外されていたのか? まさか、であろう。高度成長実現に至るまでの時期だって、安保闘争にしたって、連帯は存在した。なにせ、「サラリーマンは気楽な稼業」だったのだ。

そう考えれば、この「何ものか」が見えてくる。「何ものか」とは、実は【連帯】なのである。デフォルトで素朴な連帯の上に、さらに上塗りされた過剰な【連帯】。上塗りをもたらしたのがイデオロギーだ。素朴な〈連帯〉は、〈イデオロギー〉によって強化されて【連帯】となり、〈イデオロギー〉も【イデオロギー】へと変質した。現在の日本人が、なにかというとすぐに陣営に分かれて下らぬ闘争を始めてしまうのも、過剰な【連帯】が蔓延っている所為だ考えれば納得がいく。

そのしわ寄せを喰らっているのが、非活動的と批判されている若者世代だ。

『いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる』(yuhka-unoの日記)

なぜ若者が何も言わないのか? 答えは単純。「言っても無駄だと思っているから」。


過剰【連帯】に浸っている者たちには、何を言っても無駄。実に的確ではないか。

まぁそれでも、私は今の時代に生まれて良かったと思っている。いくら景気が良くても、今よりジェンダー観が固定的で、セクハラパワハラアルハラが酷くて、「いじめられるほうが悪い」という言説がまかり通り、「外国は児童虐待が酷い。日本は家族を大切にするからそんなことはない」と無邪気に信じて児童虐待を見過ごしてきた時代より、今の時代のほうがずっとマシだ。


【連帯】の過剰性がいくらかなりとでも緩和されている、という現状認識。これも的確ではないか。

私は、今の若者世代は、年長世代の過剰【連帯】からの軛を脱し、ゼロから、いや、マイナスから新たな〈連帯〉の再構築を始めているのではないかと思っている。【イデオロギー】によってデフォルトが阻害されていたのを、デフォルトの状態へ戻そうと努力しているのである。過剰に空気を読んでしまったりするという性癖も、「連帯の作法」を再構築中だと見えば合点もいくのではないか。

失われた『北の国から』の光景が、『けいおん!』において復活しつつある。

 → 『けいおん!』(愚樵空論)

ソーシャルメディアは贈与経済を復活させるか

本日2本目。

ここのところ「共感経済」について意見を交わしている(つもりの)逍花さんの記事。

『ソーシャルメディアでの共感は価格メカニズムより残酷かもしれない』(月明飛錫)

人々の素直な共感が価値をもたらすのは理想的な世界であると思う反面、共感させる能力の格差が経済的影響を与えるようになるとすれば、それは今の格差の問題以上に、逆転が難しい残酷な時代をもたらしてしまう可能性があるのではないかと感じている。


逍花さんの懸念はもっともだ。商品経済下においてはこのような事態が引き起こされる可能性が高いと思われる。

ソーシャルメディアにおける情報発信力には、間違いなく大きな格差が存在する


商品経済においては情報もまた商品であり、情報発信力とは商品力に他ならない。ソーシャルメディアは悪くすれば、労働(身体)の商品化に引き続いて知性や感情(精神)の商品化を進行させる。いや、それはすでに進行しているから、拍車をかける、か。それとも逆に、商品化の流れに歯止めをかけることになるか。すなわち「近代化」の進行に歯止めがかかるかどうか。ソーシャルメディアがその帰趨を左右する位置に立っていることは間違いないだろう。
愛と経済のロゴス

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


この試みは大成功を収め、合理的な交換の原理は今や世界中を覆い尽くそうとしている。「グローバル化」だ。

が、そうした動きとは別に、いや、合理的な商品経済が爛熟のなかで、「共感消費」と「つながり消費」といった動きが出現してきている。「共感」も「つながり」も近代社会が葬り去ろうとした「人格性」に他ならないが、ここへきてそれが復活しようとしているようにも見えるわけだ。

この流れをどう見るか。商品経済のなかでたまたま起こった一過性の揺り戻しに過ぎないのか。それとも、近代社会を改造してゆく大きな揺り戻しになるかのか。逍花さんは前者と見たようだが、私は後者と見る。いや、見たい。

その立場から、上のブログ記事には以下のようにコメントを投稿しておいた。

懸念されていることは理解します。ですが、考慮すべき点が2点ばかり欠落していると私は考えます。

1. PV=共感ではないということです。確かにPVが多いと共感を集めやすいのは事実です。とにかく読んでもらわないことには話が始まりません。ですが、

 a.情報の閲覧
 b.情報の価値判断
 c.情報の価格決定

はそれぞれ別次元の問題です。

2.格差もまた情報であるということ。1.で示した3つのレイヤーは、a<b<c の順序で参照する情報の量が増大していきます。共感という能力は価値発見能力であると同時にバランス調整能力でもあるのです。つまり、人間は格差という情報を見出したならば、共感というバランス機能を発揮させるだろうということです。


(上のコメントは、『共感がおカネを集めるのであるなら』で提示した「情報の価格は個人が不合理に定める」ことを前段としている。)

「霊力」といったどうにもわけのわからないものを持ち出さなくても、「共感」が階層を重ねるようになっていくのであるならば、とてもではないがその価値判断は「簡単で合理的」にはいかない。

再び『愛と経済のロゴス』から。

 贈与と交換は、社会に運動をつくりだします。どちらも富の移動がにぶったまま、社会がどんよりと停滞した状態に陥るのを防ぐ力をもっているからです。とくに、贈与の場合、自分のもとにやってきた贈り物を、自分だけの富として、いつまでも手許に抱き込んだようにしているのは「悪」だとみなされました。贈与の環が動いていくことは、社会の全体を巻き込んだ一種の「事業」なので、それぞれの個人はその環の一部分の動きに責任があるのです。そこでそれぞれの個人は、自分の担当する贈与の環の一部分が、すみやかな流動を実現していくようにと、心を配ります。「贈与は宇宙をも動かす」と言われるのは、まったくそのような理由によるのです。


ソーシャルメディが情報を商品ではなく贈与物として取り扱うようになるならば、逍花さんの懸念は当たらないということになる。そして、それが私がソーシャルメディアに期待するところでもある。可能性は低くないと思っている。

想像して欲しい。もし、情報の価格を自分が決定できるようになったとしたら、どのような行動を取るだろうかを。

PVが多い、つまり世間の耳目を集めている情報には関心を持つだろう。だが、関心はまだ共感ではない。

関心を集める情報は共感をもつあるいは反感をもつ可能性は高い。それで共感を持ったとしよう。共感はブログ拍手、あるいはツイートといった行動を惹起するだろう。

しかし価格決定に至るには、低い共感のレイヤーでは足りない。価値判断が為されなければならない。価値判断には他の情報との比較が必要になる。その比較を必ずしも言語化する必要はない。不合理に直観的でかまわないが、他の情報への参照がなければ価値判断は下せない。

価格決定はそのさらに上のレイヤーになる。情報それ自体の価値判断に加えて、自身や相手の経済力の考慮に入ってくるだろう。さらに、相手が自分が対価として支払うであろう富をどのように扱う人物であるかの情報も重要だ。富を手許に抱えて滞留させる相手か、それとも社会起業なりを通じて社会へ還流を図る人物か。たとえ情報の価値判断が同じでも、相手の人物像の違いで価格決定は大きく異なるだろう。

以上のような共感レイヤーの上昇は、計算量の膨大さからいっても不合理にならざるを得ない。しかし、人間の「脳力」であればこなすことはできる。とはいえ、確かにデリケートで面倒くさい計算であることは確かだ。贈与経済が新たな形で復活するか否かは、ひとつには、ソーシャルメディアが実現し要求するであろう「膨大な計算」を人々が受け入れるかどうかにかかっている。

もう一点については...、また改めて。

『けいおん!』

当初、『偏差値教育の弊害 その3』で記事にまとめてみようと思ったが、それはやめにして、ここのところアニメ関連のエントリーが多いので、ついでにというわけではないが、『けいおん!』とタイトルしてみることにした。


とかいいながら、ここに貼り付けたのはなぜか『北の国から』(笑)

この授業風景は、HTTである。

HTTがわからない? 「放課後ティータイム」と読む。『けいおん!』で、唯・律・澪・紬・梓の5人が結成するバンド名だ。それ以上のことが知りたければ『けいおん!』を観るか、ネットで検索してみて欲しい。

純が語っているモノローグは「偏差値教育への憧憬」である。いや、屈折した「けいこちゃんへの恋慕」か。どちらでもいいが、純の焦りはガンダム世代、エヴァンゲリオン世代ならば理解出来よう。だが、ワンピース世代はどうか。『けいおん!』のような「空気系」に浸る世代はどうか。

涼子先生の授業は純が期待するものとは全く違っている。それはそうだ。目的が異なるのだから。純が期待する授業は【システム】に適応するための教育。【自我】を確立させるための教育。しかし、この授業はそうではない。〈自己〉を確立させるためのもの。


このたわいのない曲を聴いてみて欲しい。これだけ聴くと恋愛の歌のようだが、『けいおん!』に恋愛はない。同じ時間と場所を過ごす仲間がいるだけ。唯たちにとって、バンドは時間と場所を共有するための「方便」でしかない。梓はその「方便」に最初は不満を持つ。純と同じである。純は「方便」としての授業に不満を述べている。

だが、この2つは同じであるが、なんと違っていることだろう。同じだと意識するとかえって差異が浮かび上がってくる。『きたの国から』の授業からは、ノスタルジーを感じざるを得ない。もはや戻らない風景というわけだ。が、HTTには、形こそ違えども、戻ってこなかったはずのものが生き生きと甦っている。唯たちだって一応は「偏差値教育」の関門をそれなりにくぐり抜けるが、そのことはもはや人生の重大事としては位置づけられていない。重大事と位置づけざる得なかった世代とは隔絶している。

と、そんなわけなので、『けいおん!』を是非とも楽しんでみて欲しい。もしかしたら、ここには日本の未来への鍵が潜んでいるかもしれない(笑)

偏差値教育の弊害 その2

その1では、小沢一郎氏を政治的社会的に亡き者にしようとする偏差値エリートと、そこと〈闘争〉しようとする主にネット上の〈小沢一郎〉という「民意」を取り上げ、実は双方とも偏差値教育に害された者たちで、そうした〈闘争〉から降りる選択もあるのだ、という話をしてみた。

で、今回は「その2」だ。

『思考途中の記事を叩いてネットの最良の部分を潰してしまう人たち』

ここで槍玉に挙げられている「潰してしまう人たち」。彼らもまた偏差値教育の弊害に害されてしまった人たちだ。

他人と比較して、競争することは必ずしも悪いことではない。だが、偏差値は良くない。純粋な競争は、社会という場あるいは学校という場の絶対的な水準を上げることに寄与するが、偏差競争では、そのような動機付けを生みにくい。それは、内田樹氏が指摘していることだが(具体的な記述は忘れた)、偏差値競争においては自身の学力を上げるよりも、他人の学力を下げる方が合理的だからである。その帰結として、学校、あるいは社会という場全体のパフォーマンスが低下してしまう。日本が陥っているのはこの悪循環であり、「潰してしまう人たち」は、この循環に大いに貢献している。

言っていることが正しいか間違っているか以前に、人として最低限の礼儀を欠いているように思われる。それも、言う意味のあることを100or140文字で分かりやすく伝えるために仕方なく礼儀を欠いてしまったのではなく、はじめから必要もなく相手をバカにしているように見受けられる。


この見立てに賛同するが、敢えて弁護してみる。

彼らの行動は適応の成果なのである。施された偏差値教育が要請するところを敏感に感知し、それに適応した結果が「潰してしまう」行動なのだ。そのように「個」が形成されてしまっている。ゆえに、彼らのそうした行動への批判は、批判側は人格攻撃のつもりではないとしても、彼らにとっては人格攻撃と受け取られてしまう。彼らの他人への攻撃は、自身の「個」の確立を確認するための行為であって、彼らの意識では決して攻撃ではない。“事実を指摘しただけ”としか思っていない。

こうした「個」は「自我」である。他人との差異を際立たせることで確立されていく。大人から「個性的であれ」といわれつつ偏差値教育の場へ送り込まれてしまった子どもたちが、その要請に従って確立した「個」なのである。

では、こうした攻撃にどのように対処すればよいのか。思考途中だと明記して防御戦を張るというのも手だが、消極的。気にしないのが一番だが、ただ気にするなと言われても無理だろう。気にしないでいられるためには、自分の「個」の在り方を意識することだ。方法は2つある。

ひとつは、神という絶対者の前に「自我」を確立する方法だ。神ではなく正義でもいい。事の善悪を絶対的に判定する絶対規準を信奉する。そこに従って他の「我」からのコミットメントの善悪を判定すればよい。その判定は絶対者を背景にするわけだから、自身が揺らぐことはないだろう。

だが、日本人に絶対者を信仰することなど出来るだろうか?
それが出来ないというのなら、もうひとつ。「自己」という「個」の確立を行なうこと。

「自己」というのは、自身と他者との関係性のアーカイブである。他人との差異を際立たせることで確立する「自我」が自己肯定感を他者への優越感に求めてしまうのに対し、「自己」の自己肯定感は他者から好意的に評価されることによって生まれる。あるいは、自身が他者を好意的に評価することによって生まれる。逆に、他者からの悪意に満ちた評価は自己肯定感を低下させる。

が、「自己」を確立しようとする者にとって恐ろしいのは、他者を悪意をもって評価することだ。傷つけられた肯定感の防御反応として致し方ないところはあるのだが、それが進みすぎると「自己」が消失してしまう。そうなってしまうと、それまで自身に寄せられた好意と自身が寄せてきた好意とが無駄になってしまう。

怖れるべきは何なのか。肯定感が傷つくことか。「自己」を失うことなのか。そこを見極めていさえすれば、他人からの攻撃の多少の痛みは、「多少の痛み」でしかない。


このようにして確立された「自己」も、相当に強力なものだ。ときに「自己」を守るために自身が消失することも厭わない。

 士は己を知る者の為に死す

のである。

共感がおカネを集めるのであるなら

『まどか』ネタは一回休み。でも、今回の話も実は繋がっている。そこは最後に少しだけ触れる。

またもや「月明飛錫」から記事を拝借。

『キックスターターが集めた資金が1億ドル突破、「ウォール街占拠」新聞も7万5千ドルを調達』

最近のキックスターターの興味深い成功例は、「ウォール街を占拠せよ」運動の新聞発行プロジェクトが、7万5千ドルの資金を集めたことだ。共感がお金を集めるとはこういうことか、と納得した。


私も理屈抜きで納得できる。しかし、同時に物足りなさも感じる。その理由を記すまえに、もうひとつ記事を紹介を紹介。こちらは日経新聞から。

アップルと音楽業界「攻防」再び 舞台は「iCloud」  価格決定巡り深い溝

米アップルが12日に全世界で始めた「iCloud」。ところが売り物であるはずの新たな音楽配信機能が日本では利用できない事態になっている。新サービスを使えばクラウドを通じて購入した楽曲をパソコンや音楽プレーヤーなど複数の端末に自動配信できるが、この仕組みについての契約を巡り、アップルと日本の音楽業界が合意に至っていないのが原因だ。同社は音楽のネット配信サービス「iTunes Store」でも、日本進出が米国より2年遅れた過去を持つ。背景にはアップルが楽曲の値決めをする「価格決定ポリシー」と、それに反発する音楽業界との深い溝がある。


価格を決めるのはJASRACかアップルか。

配信事業者は、ユーザーが望む価格が安く、自由で便利な買い方ができるサービスを追求する。一方、音楽を提供する側は適正な収益を確保しなければ永続的な事業モデルを構築できない。ネットが普及した中でこれらを両立させる仕組みが確立できていないことが根底にあるのではないか


ユーザーが自由で便利な買い方ができるサービスを求めるというのはそうだろう。だが「安い価格」を求めているのはほんとうか。

これは、設問の仕方の問題でもある。“あるコンテンツを手に入れるのに、価格は高い方が良いか安い方が良いか?”と問われれば、ユーザーは誰だって安い方が良いというに決まっている。しかしこの設問は、コンテンツが希少財であるという前提に立っている。

しかし現在、デジタルコンテンツは希少財ではない。ユーザーもそのことを理解している。だから共感に対して対価を支払うという消費行動を採るようになっている、と言えるのではないだろうか。

そもそも情報は共有財であり、希少財であるモノとは基本原理が異なる。デジタルであろうがアナログであろうが、情報は消費されることによって増殖していく。消費によって失われていくモノと、性格は正反対なのである。IT技術が発展する以前は、情報はモノに付加する形でしか伝播させることが出来なかった。ゆえに「付加価値」という形態でモノの価格へ従属させるしかなかったが、現在は違う。IT技術は、情報を「純粋な情報」として取り扱うことを可能にした。

にも関わらず、いまだ現在、情報は希少財のごとく取り扱われている。情報をモノとして扱う著作権という概念が行き渡っている所為だ。JASRACかアップルの「闘争」も、共有財を希少財として取り扱うことが前提。もっというと、共有財を希少財へと変換させるプラットフォームを巡る争いなのである。そのプラットフォームを所有している者は莫大な利益を手にすることが出来る、というものだ。

情報はその原理からいえば、価格決定が一部の者によって独占されるべきものではない。私が物足りなく、かつ、歯がゆく感じる理由はここにある。

では、情報の価格決定が誰が行なうべきか。ユーザーが、各々の共感に基づいて、不合理に決定すべきなのである。

(このあたりの理路は、『『街場のメディア論』を読んでみた』で展開してある。)

IT技術の進展は、情報を「純粋な方法」として取り扱い可能にすると同時に、共感による出資の裾野を広げた。共感による出資は今に始まったことではなく、「パトロン」とはそうした出資が可能な人種、つまり共感を貨幣経済上で実現させることができる者のことであるが、IT技術はそこを大衆化させたことで、共感による貨幣循環の流れを作り出そうとしている。だが、それはまだまだ不完全だ。共感という「不合理」が「合理性」を超えるには、価格決定も不合理になされるところまで行かなければならない。需要と供給の均衡点という「合理性」から価格が導かれているようでは、まだ不足なのである。

私が物足りなさ、歯がゆさを感じているのは「不合理」による価格決定プラットフォームが未だ実現していないことにある。しかし、いずれ実現されるだろう。そう遠い将来ではないと思う。私と同じようなことを考えている企業家が必ずどこかにいるはずだ。

さて最後に、『まどか』と交わる話に触れておこう。2点ある。

ひとつは「合理性」について。ここは『メフィストーフェレスは合理性の中に棲む』などで既に書いた。不合理な「共感価格決定プラットフォーム」については、まどかの「願い」に絡めて再度、触れてみることになるかもしれない。

もうひとつは、共感と欲望の差異だ。共感は抑制が効いている間は共感であるが、抑制の蓋が外れると欲望へと変貌する。ここにまたしてもメフィスト―フェレスが絡む。このあたりはゲーテが『ファウスト』の第2部を書くにあたって下敷きにしたといわれる「ジョン・ローの失敗」にも触れつつ、記事を書いてみることにしたい。『魔法少女まどか☆マギカ』が『ファウスト』を下敷きにしているのなら、ジョン・ローのことまで視野に入っている可能性があり、そうであるならそれはインキュベーターの性格設定に関わっているはずだ。またこれは、現行の金融資本主義の本質に関わる問題でもある。

合理性は人間を「入れ替え可能」にする

またもや『魔法少女まどか☆まぎか』 ネタを。

宮台真司氏も『まどか』について語っているようだが、

『まどか☆マギカ』はおじさんが見ても意味のある作品―宮台真司 (月刊SPA!

13日にもラジオで語っていたらしい。その内容を要約してくれているブログ記事があるので、まず、そちらを紹介。

TOKYO FM『TIME LINE』宮台真司の『まど☆マギ』論要約(愛と苦悩の日記)

ここには「救済系」「ループ系」「空気系」などとアニメについて分類がいろいろ出てくるが、このあたりは関心のない人にはわからないかもしれない。ここでは『まどか』は要するに「救済系」なのだと理解しておけばよいだろう。

「救済系」については、『エヴァンゲリオン』では承認されたいから救済するという動機づけ。主人公の碇シンジの最終目的は周囲に、父親に認められることだった。

 ・・・

時代との関連で言えば、15年前の『エヴァンゲリオン』はその前のオウム真理教の事件と関連しており、自己意識を保とうとするために「救済」するというとんでもない事件だったことがわかってくる。

碇シンジもそうで、自分が承認されたいから世界を救うというむちゃくちゃな話になっている。これは後に「セカイ系」と呼ばれる。

当時は「承認」が主題になっていたということを、アニメの作者が意識的あるいは無意識的に作品のモチーフとして組み込んでいる。


ここで「自己意識」と言われているのが「自我」だ。

しかし『まどか☆マギカ』におけるまどかの救済は、自分自身が消え去ることで世界全体のルールを変えることが目的になっている。ルールの変わった世界では誰も自分のことを覚えていないという結末になる。


同じ「救済」であっても、『エヴァ』は「自分」が保たれ(世界よりも自分)、逆に『まどか』は「自分」は消失してしまう(自分よりも世界)。この差異は、「自我」と「自己」の確立の在り方の違いからくる。

「自我」とは、端的に言えば

  我思うゆえに我あり

の「我」のこと。『エヴァンゲリオン』の主人公シンジはこの「自我」が弱い。その弱さを補完するために他人からの「承認」を求める。『エヴァンゲリオン』が当時強く支持されたという事実さは、「自我の弱さゆえの承認」が時代のモチーフになっていたことを意味する。

ここからふたつの流れが派生する。

1.は、「承認」を得られないのは「努力」が足りない所為だ、と捉える流れ。これは「自我の弱さ」を正面から受け止め、克服しようとしたものだ。このときに使われる武器が「合理性」である。

私は『まどか』の物語に登場するインキュベーターは合理性の象徴であり、人の心の中に棲むメフィストーフェレスだという解釈を展開しているわけだが、ある契約をすれば「願い」と引き換えに合理性が得られるなどというのは、アニメのなかの設定でしかない。現実世界では、合理性を獲得するには努力が、―――特殊な「努力」が必要である。しかも「努力」とその成果(「願い」)は等価交換ではないので、どれほどの「努力」を支払えば「願い」が手に入るかはわからない。この交換レートは人それぞれで違って、そこは不条理としか言いようがないものだ。

とはいうものの、「自我」の弱さを克服しようと願っている者にとっては、「不条理」という答えはなかなか受け入れがたい。そこで、「承認」が得られる→社会的成功→合理性獲得→「努力」が結実、という「方程式」が組み立てられることになる。また実際、この「方程式」はそれなりの確率で成立はするし、大半の者に成立した幸福な時代もあったのである。

しかし現在、この方程式が成立する確率が激減すると同時に、別の現象が顕著になってきている。

システムの中で自分たちが入れ替え可能な存在として翻弄されているという強い意識が背景にある。にもかかわらず、そのままでは希薄になってしまう絆や、他者への強い思いを相対化してくる強力なシステムと徹底して闘うという意思も描かれる。

こうしたモチーフはやはり多く映画を観ると、どんどん高まってきていることが分かり、時代とシンクロしていると言える。


〈システム〉を駆動させるのは合理性である。その合理性は、もとはといえば、各々の「願い」から生まれたものだ。が、合理性を得た「願い」は自律性を獲得してしまう。その結果、自律した〈システム〉は「願い」を持つ者たちを阻害するようになっていく。〈システム〉が発展するにつれ、「方程式」の成立確率は低くなり阻害される率が高くなっていく。

だが、これはもともとの「願い」の性質から生じる当然の帰結だ。というのも、“我思うゆえに我あり”の「自我」が強くなるほど、他人はどうでもよくなるからだ。我が我であるのは、我が思惟する存在であるからある。思惟は合理性を導き、我が正しいことは他人が提出する他の合理性との闘争に勝利することによって証明される。そして合理性はその性質上、一点に収斂していこうとする。結果、少数の勝者と圧倒的多数の敗者に区分されることになる。そして、敗者は合理的な〈システム〉にとっては「入れ替え可能」なパーツに過ぎなくなる。

これは「自我」と正面から向き合った結果であり、受け入れるしかないものだ。

もうひとつ派生した2.の流れは、ある意味、逃避である。「自我の弱さ」に正面から向き合い、克服しようとしたわけではなかった。「オタク」や「萌え」は、こうした逃避から生まれてきたものだといえるだろう。だが、バーチャルな世界へ没入は、一貫した逃避というだけではなかった。奇妙なことだが、「自我」からは目を背ける替わりに、「自己探求」が行なわれていた形跡がある。

「自己」は「自我」とは異なる。その確立の在り方は

  あなたがいてこその私

というものになる。強度な関係性、つまり「絆」によって確立されるのである。もちろん、ここの「あなた」は入れ替え不可能なものだ。

   (自己確立の在り方については →『不安を引き受ける日本人』

私が面白いと思っているのは「ループ系」と言われるものだ。ループ構造は『まどか』の物語の中にも採り入れられているが、要するに、過去を何度もやり直せてしまう、という設定のこと。何度もやり直して最適解を見つけるという、もともとはコンピュータ・ゲームの構成からくるもの。

この、リアルな世界ではありえない「ループ」は、「自我」的視点から見れば逃避に他ならないが、「自己」的視点から見れば、そうではない。バーチャルな想像の世界のなかではあるが、何度もやり直して最適解を見つけるというシミュレーションは、最適な他者との関係を探究して「自己」を確立させていくことに繋がっていく。消極的な逃避のはずが、いつの間にか積極的な自己構築の意味合いを帯びだしている。そればかりか、「ループ脱出」が「脱システム」にもなっているというのは宮台氏の指摘であるが、ということは、「自己」確立が〈システム〉外で行なわれるようになってきているということだ。

この流れは、1.の「自我」確立とは全く異なる。合理性をテコに確立される「自我」は、〈システム〉なくして成立することはない。

(以上の1.の流れは「ガンダム世代」、2.は「ワンピース世代」に相当すると言えそうだ。
  →『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』 )

ずいぶんと大回りを大回りをして、やっと話が『まどか』へと移る準備が整ったところだが、すでにかなり長くなってしまった。

続きは次回。

【良心】の民主化

私たちが暮らし日本という国は、中世ヨーロッパのの暗黒社会の時代の再現になってしまっているのかもしれない。最近、そんなふうに考えてしまうことがある。

ヨーロッパ中世の農奴たちは、教会に搾取され、領主に搾取され、それでもそれなりに幸福な人生を送っていたのだろうか。現代に生きる私たちもそのようになれたらそれはそれで幸福なのだろうが、残念ながらそのような幸福に恵まれるのは、一部の信仰心に篤い人たちだけ。中世には当たり前だった宗教共同体は、現代では珍しい存在でしかない。

現代人は、もはやそのような幸福は受け入れられないはず、だった。宗教改革、市民革命、産業革命を経て、そのような時代とはとうにおさらばしたはずだった。が、私たちの目を眩ませている虚構を取り払ったみれば、なんのことはない、私たちも農奴とさしてかわらない状態に置かれてしまっていることに気がつく。

私たちが社会を営んでいくのに、秩序は必要である。ゆえに国家はなくてはならない。
私たちが社会を営んでいくのに、エネルギーは必要である。ゆえに、電力会社を倒産させてはならない。
私たちが社会を営んでいくのに、健全な経済は必要である。ゆえに金融機関は救済しなければならない。

これだけではない。

日本国が安泰であるためには、アメリカ合衆国が必要である。ゆえにアメリカを救済しなければならない。

もっとも、「アメリカ救済」はマスメディア等で表立って論じられることはない。名目は経済の活性化。だが、名目は目くらましの意味でしかない。

ヨーロッパ中世においては、近代国家はいまだなく、国家の座に座っていたのは領主だった。
エネルギーは、大部分は自給自足だったので、電力会社に相当する存在はなかったと考えて良いだろう。
金融機関に相当するのはカトリック教会だったろう。キリスト教共同体ネットワークに参加する費用として、教会は領主とはべつに「十分の一税」を徴収したという。今日ではこれはもっと合理的な姿、金利というものに形を変えている。
アメリカ国債購入、TPPの負担は、十字軍遠征の費用といったところだろうか。

領主はのちに専制国家へと統合されていくが、これは市民革命で潰えていった。秩序は必要「ゆえに」領主も必要という論理が成り立たなくなったためだ。「ゆえに」はゆえにではなくなった。カトリック教会も同じだ。「ゆえに」が揺らいでプロテスタントが興隆していった。産業革命は、あらたな「ゆえに」を創出した。現代の社会に暮らす私たちは、中世社会とは異なった「ゆえに」に囲まれて暮らしているが、その状態は農奴と変わらない。農奴であることの中に幸福を求めようとしている。だが、それもそろそろ限界に近いようだ。

ルターが起こした宗教改革のキモは、聖書を教会から開放したことだ。キリスト教共同体の住民にとって、聖書とは【良心】であったろう。カトリック教会は【良心】を独占することで、共同体ネットワークを支配した。それが、ルターによって聖書がラテン語からドイツ語へと翻訳され、グーテンベルクの印刷術でもって広く普及するようになると、【良心】は広く庶民に行き渡ることになった。【良心】が民主化されたのである。

この【良心】の民主化が、マックス・ヴェーバーの説に従うならば、資本主義を発現させた。市民革命も産業革命も、ともに【良心】の民主化の波及効果だ。ノーテンキな左翼は勘違いをしているが、市民革命の原動力は民衆の反乱だったかもしれないが、その主目的は「財産」という【良心】を専制国家から守ることだった。大衆の反乱はその先兵となったに過ぎない。もし市民革命が〈良心〉的であったなら、財産権よりも生存権が優先されたはずだ。しかし、生存権が国民の権利として認められるのは、20世紀に入ってからのこと。そして21世紀の現在、どうみても財産権は生存権よりも強力に保護されている。それは市民革命が【良心】によってひきおこされたことに起因している。近代とは【良心】の民主化なのである。

(先兵としての大衆の反乱は、私には、ジャスミン革命から始まった「アラブの春」、そしてアメリカのティーパーティーおよびウォール街占拠デモと被って見える。)

16世紀末、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂を建設するためにカトリックが発行し始めた免罪符は、ルターの目には【悪心】と映ったろう。21世紀初頭、ティーパーティーはウォール街占拠デモの者たちも、同様の【悪心】を見出しているのだろう。日本においても、小沢一郎を支持する勢力、反原発運動が【悪心】を見出して闘争しようとしている。ともに振りかざしているのは、民主化され分裂してしまった【良心】である。

だが、分裂してしまったといっても、【良心】の核心は保持されたままだ。それは貨幣であり資本だ。私たち自身の自我愛から派生した「貨幣愛」が【良心】の蔭に隠れた【悪心】への気づきを阻んでいる。

ここを見据えるなら、さまざまな「ゆえに」が揺らいでいる現在、陰謀を企てている者が(いるとすれば)打つべき手は「【良心】の衣替え」だろう。具体的には金銀本位制の復活であろうか。そうすることで【闘争】をリセットし、新たな「ゆえに」を創り上げようと企てるだろう。

しかし、私たちが思い描く「民主化」とはそういったものではないはずだ。自我愛に確立による【闘争】の道でなく、自己愛が広げる〈おりあい〉の世界のはず。少なくとも和を以て貴しと為す日本人にとっては。

メフィストーフェレスは合理性の中に棲む

お約束(?)の『魔法少女まどか☆マギカ』の続き。『まどか』の話「【良心】との闘いと書いておきながら、そこには触れていなかったから、書かないわけにはいかない。

私は【良心】を次のように定義した。

【良心】とは「固定化され良心」だが、もう少し説明しておくと、
 ・人は自身の心の中に悪心が生じるのを嫌う。
 ・そのために、【悪心】が生じてしまう事象そのものにコミットメントするのを避けようとする。
 ・コミットメント回避のための口実として使われるのが、【良心】である。


私の『まどか』理解をごく単純に言ってしまえば、魔法少女=【良心】/魔女=【悪心】であり、魔法少女が魔女に堕ちるように【良心】も【悪心】へと堕ちていくというものだ。そして【良心】の陰で育つ【悪心】は、あらたな【良心】との闘争によって退治されることになる。

少女たちがインキュベーターに魂を売り渡す代償として手に入れる「願い」は、まだ少女たちの心のなかにある間はまちがいなく〈良心〉である。が、インキュベーターの手を借りてしまうとそれは【良心】へと変貌する。【良心】は魔法少女がそうであるように、闘うことを運命づけられてしまう。【良心】は、【悪心】に打ち勝つことでしか【良心】でいられない。【良心】が【悪心】を必要とするのである。

なぜそんなことになってしまうのか。それは人の弱さとしか言いようがないのかもしれない。

 汝の右手のなすことを左手をして知らしむる勿れ

福音書に出てくる有名な教えだが、この教えが示すところは、裏を返せば、人間は承認されたい生き物だということである。右手に宿った〈良心〉は、みんなに知られ、承認されたい。人間の弱さだ。それを左手にすら知らせるなというのは、正しい教えであるとしても、惨い言葉である。

(ちなみにいうと、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』にでてくる大審問官は、イエスを人間の弱さを顧みない惨いやつだといって批判するのである。)

メフィスト―フェレスは、この人間の弱さに付け入る。メフィスト―フェレスは別の名を合理性という。合理性の手を借りることができれば、抱いた〈良心〉の正しさを証明することが出来る。すなわち承認を強制的にでも得ることが出来る。〈良心〉という「願い」も実現できる。そればかりか、合理性は〈システム〉を組み上げ組織的に「願い」を実現させ、社会を変革する原動力にもなっていく。

(『まどか』の物語のなかでは、インキュベーターは少女の「願い」を奇跡でもって叶える。奇跡は合理性の正反対だが、ここが「正反対」であってこそ物語になる。)

合理性によって実現された〈良心〉は、もはや【良心】である。合理的であるがゆえに、正しく実現された。弱い人間はそう思い込む。だが、人間に取り憑いた「正しさ」は【悪心】から目を背けさせる。『まどか』では、魔女は非常に抽象的に描かれ通常人には見えない存在だと設定されいる。、魔女がもたらす害悪は人の弱い心へ付け入る。人が自殺したりするようなところには魔女がいるということになっている。ならば、毎年3万人以上もの自殺者が出てしまう日本は、魔女がそこらじゅうに徘徊していることになる。

多くの自殺者を生み出しているのは〈システム〉である。それはもはや不合理なものに堕ちてしまっている。だが、現在の〈システム〉も、はじめから不合理であったわけではない。それなりの合理性があったからこそ多くの人々から承認され、〈システム〉として機能することが出来るようになったのだ。そのなれの果てなのである。現在、〈良心〉的な者たちは、〈システム〉を【悪心】だと見なしている。

不合理が生じれば、そこに〈良心〉が生まれ、合理性を得て【良心】となり、既存の〈システム〉と闘うことにある。そうして社会は進歩してきたのである。『まどか』の物語のなかでインキュベーターは、

「もしボクがいなかったら、君たち人類はいまだに洞穴暮らしだ」

というが、これは作り物のアニメの作りものの言葉ではないのである。

まだ言いたいことがあるので、続きを書くことにしよう。

女と男のガラパゴス

10月3日のエントリー『日本力』の続編。

まず紹介するのはこちら。

 『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」』
    (共同体社会と人類婚姻史)


大変に面白い。こちらを拝見したとき、これも一種の「ガラパゴス」だと思った。そのために『日本力』の続編と位置づけたわけだ。

なお、本エントリーのタイトルを『女と男・・・』としたが、女が先で男が後という順番は意識したものだ。断じて『男と女・・・』ではない。それは、「ムラ」というかつての日本の共同体においては、女性の充足こそが統合の機軸だったからである。
(現在でも家庭という「ムラ」のおいては、その傾向は色濃く残っていると思われる。)

貞操観念などという余計な観念を取り払って読めば、周りの女性達が充足できるように、皆で情報を交換し、性的な期待を掛け合っている姿は、非常に思いやりに溢れた光景であるといえます。

最大の共認充足である性の充足は村の活力そのものですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。

日本の農村では、女たちが充足し、安心していることが共同体の維持・統制に必要不可欠であり、村の活力=皆の共認充足=性充足であることを皆で共認していました。


引用はしないが、リンク先の村人たちの「会話」に是非とも目を通して欲しい。「常識」に囚われていなければ、以上のような結論に帰結するのは当然といえる。もっとも、マインドコントロールされた「常識」を覆すのはなかなかに困難なことではあるが。

この「常識」の機軸になっているは貞操観念というやつだ。そして貞操観念とは所有観念の変形である。

貞操観念や純潔などという観念は、男の独占欲に女たちが応えた結果であり、女たちにとっては、充足を制限されるだけの不自由極まりない規範です。

しかし。現代の女性にも貞操観念の正体が男の独占欲であることは直感できるだろうけれども、だからといって「不自由極まりない規範」とまで言えるかどうか。かなり無理があるのではないだろうか。

これは、ガラパゴス化の条件が満たされていないためであろう。『日本力』で私はこのように書いた。

ガラパゴス化に必要な条件とは、各々の会計主体が安定的に儲けることができれば存続していくことができるという経済環境だ。

別の言い方に直せば、ガラパゴス化の条件とは、主体の安全保障が保たれているということである。男女間の「交渉」において大きなリスクを負うのは女性の方だ。「ムラ」という共同体のなかでは、女性のリスクは必ずケアされた。その条件が満たされてこその「性のガラパゴス化」なのである。

思考の枠を広げてみよう。では、なぜ日本においては、このような「ガラパゴス」が広がったのか。

パックス・トクガワーナの江戸時代に商品経済がガラパゴス化したことはまだ理解しやすい。だが、こちらの「女と男のガラパゴス」は、徳川期に始まったわけではない。「共同体社会と人類婚姻史」の主張に従うなら、縄文時代から連綿と続いていたものである。日本だってずっと平和な時代だったわけではない。戦国時代もあった。また、現代に目を向ければ、戦後が平和な時代だったという主張に異論を差し挟む者はいないだろう。だが、婚姻史という側面から見ると、現代は過去よりも平和な時代ではないという結論になる。

しかし、経済が軸になる生活実感という面でみれば、確かに現代は平和な時代とは言えないのである。では、現代の経済面での戦乱はいつから始まったのか。これは間違いなく幕末の開国からだ。商品経済がマスプロダクト・マスセールへと変化していったのと軌を一にするのである。



ヨーロッパ覇権以前 ヒントになるのは、この図であろう。これは16世紀以降のヨーロッパ覇権以前、つまり近代化が始まる以前にも世界経済は統合されつつあったということを示すものだ。13世紀世界システムの8つのサブシステムのおおまかな「形」である。注目すべきは、日本はこの〈システム〉の中には入っていないという点。ここに「女と男の安全保障」が日本で維持された理由が隠されているように思う。
(図は、『松岡正剛・千夜千冊1402夜』からお借りした。)

この図が示すのは、まさに「HISTORY」である。男の男による男のための歴史。軍事面のみならず、経済面でも主体は男性であったということだ。ゆえに、このシステムの安全保障の主体もまた男であり、充足の形も男性が主軸になってしまう。日本がこのシステムに組み込まれるのは19世紀後半であり、そこから日本においても経済戦乱時代が始まることになる。

私たちが暮らしている現在は、女性も男性化することで充足を満たそうと試みる時代になっている。そしておそらくは戦乱の最終局面である。だが、「次」が見えているわけではない。最終局面の底が割れて、さらなる戦乱が続く可能性も高いのだ。

ジョブズが愛される理由

いまさらながらだけれども、スティーブ・ジョブズが死んだ。いや、死んだと報じられた。一昨日のことだ。

その日、私はネット上をあちらこちらと彷徨いながら、次々と湧き上がってくるジョブズへの弔意の表明を、少し突き放して眺めていた。アップル社がコメントしたように、確かに世界はジョブズのおかげで良くなった。それを否定するつもりはない。でも、ジョブズはその対価を受け取ったではないか。私たちが暮らす社会は「等価交換」をルールとする社会である。ジョブズのもたらしたイノベーションを手にしたユーザーは、それに見合う対価を支払ったはずだ。それともユーザーたちは自らの支払った対価が過少だったと思っているのだろうか? そんなことはあるまい。身銭を切るのである。過大と評価するのが人情というものであろう。

(実は私は過大だと評価しているので、アップルの製品は購入していない。まあ、単にカネがないだけの話だが。)

にも関わらず、どうみてもスティーブ・ジョブズはユーザーから愛されている。なぜか。

その答えを一端を、今朝、またもやネット上で見つけた。最近愛読している「月明飛錫」の記事だ。

『ブルトンの贈り物―想像力を喚起して行動を促す言葉』

 
 春はまもなくやってきます。
  でも、私はそれを見ることができません。



ブルトンが盲人に贈ったというこの言葉は、この言葉を見る者たちにも贈り物をした。それは「春を見る」という悦びだ。目の前の盲人と違って、目が見える私は春を見ることが出来るという事実の再発見を贈った。その結果、盲人には寄付がたくさん集まった。

ジョブズが為した仕事も、ブルトンの言葉と同じ作用をユーザーにもたらしたのだろう。ジョブズのおかげでユーザーは新しい価値観を発見した。その対価は金銭では賄いきれない。賄いきれない分がジョブズへの愛となる。

つまり、アップルというブランドの製品を購入するということは、共感消費というわけだ。必ずしも合理性に基づいて消費をしたわけではない。

共感消費、いいではないか。

と、私は思わない。特に『魔法少女まどかマギカ』を観た後では。ここにだってメフィスト―フェレスはいる。

この続きはまたあとで。

『魔法少女まどか☆マギカ』

またもやアニメの話になってしまう...。

ネット上で評判がすごい『魔法少女まどか・マギカ』。とうとう観てしまった。

『エヴァンゲリオン』を超えているとの評価も多いが、確かに肯ける。非常に抽象度の高い内容で、さまざまに考察意欲を掻き立てるのも、道理だろう。

ただ、私にとってはとてもわかりやすい内容だったと言っておく。なぜなら『まどかマギカ』は【良心】との闘いの話だからだ。

ネタバレを厭わず、内容を説明する。

『魔法少女まどか』というくらいだから、もちろん魔法少女が登場してくる。また魔法少女とはべつに魔女も登場する。どちらも魔法を使うが、魔法少女は善玉、魔女は悪玉。魔法少女になるには、この手のアニメによくあるパターンだが、未知の何者か契約することが必要。その何者かは『まどか』ではイヌとネコともつかない生物。少女はこの生物に何かひとつ願いごとをかなえてもらうことを対価に、魔女との闘いの世界へと身を投じてゆく。

ここまでは初期設定。以後、ストーリーが展開して行くにつれ、裏設定が明らかになる。

まず判明してくるのは謎の生物の役どころ。これが実はメフィストーフェレス。そう、ゲーテの『ファウスト』に出てくるあの悪魔だ。願いの代償として魂を奪う。では、魔女との闘いの生物に身を投じることが魂を売ることに相当するのか? 否。さらに深刻な裏設定が明らかなる。実は、魔女とは魔法少女のなれの果てなのである。魔法少女は魔法との闘いに勝利すると報酬を手にすることができる。それは闘いによって生ずる穢れを浄化できるというものだが、遅かれ速かれ、魔法少女が魔女に堕ちてしまうことを避けられない。魔女へ堕ちるのは魔法少女の運命なのである。

ここまででも相当に深刻な展開だか、それに留まらない。謎の生物は初期には愛称ぽい名で呼ばれるが、後に真の名が明らかなり、それはインキュベーターという。何をインキュベートするのかはもはや明らかだが、問題はその目的。魔法少女が魔女へと堕ちるときに発生する精神エネルギーの回収なのである。インキュベーターを遣わして来たのは地球外の高度な文明という設定で、そこは精神エネルギーを実現させる技術を擁しており、もっとも効率的にエネルギーを回収できる「鉱山」が感情豊かな思春期の少女たちというわけなのだ。

まさに悪魔だ。

しかし、インキュベーターのほうはこれでも少女たちに好意的なつもりなのだ。彼はこのようにいう。

「君らだって残酷に家畜を殺して食べるだろう? それと同じさ。でも、それに比べれば、ボクまだ曲がりなりにも君らを知的生命体と認めてやっている。ちゃんと自由意志を認めて、契約するかどうか尋ねただろう?」

間違いなくメフィストーフェレスである。

このアニメはこの設定だけでも十分に『魔法少女まどか・マギカ』というタイトルから予想されるものを裏切っているが、主人公まどかの「活躍」もまた、それを裏切るものだ。なにせ、まどかが魔法少女になるのは最終話なのだから。

まどかの役回りは、まどかの周囲の魔法少女たちの運命を見守ることである。インキュベーターはまどかを勧誘する。まどか自身も幾度となく魔法少女になろうとする。が、なかなか果たせない。魔法少女にならなけば魔女との闘いには参加できないから、結局、見守るしかない。その過程で魔法少女たちの運命とインキュベーターの正体を知っていくのである。

このアニメのストーリーはまどかの成長物語であり、その点はふつうの「魔法少女もの」と変わらない。ただ、まどかは闘わない。戦闘を通じて成長するのではない。魔女との闘いに参入する条件となる「願い」、メフィストーフェレスであるインキュベーターに魂を支払っても手に入れたい「願い」を探す物語なのである。

この点、ゲーテの『ファウスト』を下敷きにしていながら、始点と終点が逆転している。

『ファウスト』は、知を極め尽くそうとして満足できなった人間が、満足を求める話だ。ファウストは満足を求めてメフィストーフェレスと契約した。そこが物語の出発点。しかしファウストの求める満足は、どれもこれも最後のところでことごとく成就しない。それは悪魔の力を借りているがゆえの当然の結末なのだが、ファウストはそれでも満足を追求してやまず、ついには理想社会の建設に乗り出し、満足な「夢」を見て、事切れる。そしてメフィスト―フェレスが契約に従って魂を回収とする瞬間、「救い」が訪れる。かつてメフィスト―フェレスの力を借りたファウストに誑かされ狂気に沈みそして救われたグレートヒェンが、聖母マリアとともに舞い降りてくる。

『まどか』では、まどかが悪魔と契約するよりも先に、悪魔の力を借りて「願い」を成就させることの結末を知る。それは「絶望」なのだが、まどかはこの「絶望」の果てに「願い」を見出す。だからまどかの出発点は、即、終着点なのだ。ファウストは求め続けた果てに「夢」を見た。「夢」と「願い」は同じだが、ファウストは「求める」ことに悪魔の力を借りる。最終的には自身の力で「夢」を見、そのことが「救い」に繋がるわけだが、まどかは最後の一歩手前まで自身の力で「願い」を探し求める。最後の最後、「絶望」を超えるために悪魔の力を借りるのである。

それは『ファウスト』に即して言うならば、グレートヒェンがその「願い」を成就させするためにメフィスト―フェレスと契約してファウストになる、とでも言えばいいだろうか。つまりまどかは、周囲の魔法少女達、これはひとりひとりがみなファウストなのだが、彼女らを救うためにグレートヒェンになろうとし、ファウストになると決意するのである。

こうした見てみると、『魔法少女まどかマギカ』は同じアニメの『エヴァンゲリオン』を超えているにとどまらず、もしかしたら下敷きにした『ファウスト』さえも超えているのかもしれない。また、たとえ中身は『ファウスト』には及ばないにしても、『まどか』は『ファウスト』よりもずっとアクセスしやすい。なにせ「魔法少女アニメ」なのだから。

さて、ここいらで【良心】との闘いの方へ話を移したいわけだが、ここまでですでにかなり長い文章になってしまった。よって、次回へ話を持ち越すことにする。最後に動画をひとつ、貼り付けて今回の締めとする。なお、「劇場版」というのはネタらしい。



小沢一郎、ようやくの宣戦布告か

本日から始まった小沢一郎事件の裁判。容疑がなんなのか、どんな経緯で裁判に至ったのか、もう忘れてしまったが、とにかく今日から始まったらしい。初公判での小沢氏の発言がネット上に発表されている。
(NHKなどより、こちらが見やすい。)

目に留まったのは
それ以上に、本件で特に許せないのは、国民から何も負託されていない検察・法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒とく、侵害したことであります。

こうした主張はネット上ではさんざん見聞きしているけれども、小沢氏の言葉として出てきたのは初めてではないだろうか。

これから記者会ということらしいが、どんな言葉を述べるのだろうか。官僚主権国家へ宣戦布告するのだろうか。

この世界の〈システム〉は弱者を搾取するように出来ていて、そのことに弱者自身が気づかず容認してしまっている。それは〈小沢一郎〉であってもとても覆せないだろうけれども、せめて国家ぐらいは国民の味方であって欲しいもの。

小沢氏にはがんばってもらいたい。

『逆襲のシャア』

前回、『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』という本を参考に、アトム&ジョー世代からワンピース世代までを概観してみた。ここで語らなければならないのは、なぜそれが『逆襲のシャア』につながるのか、ということだ。

ワンピース世代は既にニュータイプであると前回書いた。これは『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』でも指摘されていることだ。だが、このニュータイプの形は、ガンダム世代が望んだ形とは違ったものになってしまっている。ずっと小さいのだ。『逆襲のシャア』の結末は、ニュータイプの共感力がガンダムという機械を触媒に物理的なパワーを発揮して、シャアが企てた地球への小惑星を回避するというもの。ここには〈システム〉を超えた〈世界〉への憧憬がある。それはガンダムの世界設定から予め予期できたことではあったが、〈世界〉へのアクセスがニュータイプであるために必要だという提示だ。

だが、ワンピース世代のニュータイプはどうなのだろうか。彼らには仲間へのアクセスは必要だろう。だが、〈世界〉へのアクセスは必ずしも必要でないように思える。ここのところがシャア・アズナブルと重なるのである。

ニュータイプはガンダムの物語の鍵だが、これには2つの捉え方がある。1は、新たな才能と捉えるもの。ギレン・ザビがその典型。2.は精神的(宗教的な)革新と考えるもの。シャアの父親、ジオン・ダイクンの捉え方だ。アムロもこの系譜になる。

シャアも本来ならば2.の系譜へ連なるべき存在だった。しかし、ザビに父親を殺され、母となる(かもしれなかった)ララァも失った。そのために、一時はアムロと共同戦線を張るも、結局、1.へと堕ちた。父親を希求したクエスを才能として扱い、地球を2.への革新を拒む既得権益とみなして破壊しようとした。〈世界〉へアクセス出来なかったのだ。

対してアムロも、父に棄てられ母は自ら棄て、ララァも失う。だが、逆に失ったことを〈世界〉へのアクセスの足がかりにした。2.の道を進んだのだった。

はたしてワンピース世代以降のニュータイプたちは、どちらの道を進むのだろうか。『「ワンピース世代」の反乱』の予測によるなら、1.へと進みそうな気配である。ソーシャルネットワークへのスキルなどは、ニュータイプとしての才能であろう。ただしここではフクシマの影響は考慮に入れられていない。

ヨコに〈絆〉を展開させているという点では、アトム&ジョー世代とワンピース世代は変らない。大きく違うのはその規模だ。アトム&ジョー世代は、第二次大戦で崩壊した日本という〈システム〉を仲間と同一視して再構築を目指した。原子力という〈世界〉へのアクセス手段は、〈システム〉再構築という大きな目標から派生してきたものだった。そして現在、そのアクセス法は誤りだったということが明白となった。

もっとも、明白となったにも関わらず見えない者も少なからずいる。それは未だ〈システム〉構築の実績に溺れている者。あるいは〈システム〉に過適応してしまった者たちだ。【良心】的な人たちである。

ワンピース世代はもとより〈システム〉にあまり関心がないように見える。彼らは彼ら自身の個を確立するのに〈システム〉を必要としない。〈システム〉が彼らとその仲間を抑圧するなら闘うという、どちらかといえば消極的な構えである。実はこの構えは、江戸時代のムラの構えとよく似ているのだが、残念ながら現在は江戸時代ではない。そのような彼らに、ガンダム世代はどのように接していくべきか。

答えは出ているように思う。アムロの道を選ぶと示すことである。彼らはガンダム世代のように〈システム〉を必要としないが、その代わりに〈世界〉もまた必要としない。そのような形でニュータイプになった。ガンダム世代は〈システム〉の縛りを脱してニュータイプへと変貌するのに〈世界〉を必要とした。そして現在、フクシマの事故は否応なくすべての世代に〈世界〉との関わり方を問うている。

現段階では、いまだにアトム&ジョー世代が社会の主導権を握っているは事実だ。ゆえに、マスメディアあたりで為される議論は〈システム〉の在り方を巡るイデオロギー闘争にしかならない。彼らの捉え方では、脱原発もひとつのイデオロギーでしかない。ここの積極的にかかわっていくことは、シャアの道だ。アムロの道はそうではない。技術は大いに利用する。だが、技術をイデオロギーの下へは置かない。ニュータイプの力を引き出すために使うのである。

そしてこれは、ガンディーの道にもつながってゆく。ガンディーは機械=技術について、どのように答えたか。

ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。



『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』

前々回のエントリー『勝利を目的としない闘争』を書きながら、思い浮かべていたのはなぜか『逆襲のシャア』だった。


なぜそんなものを思い浮かべたかはこれから書くわけだが、それにしても、我ながら突飛な連想だと思う。が、ここは愚樵空論である(笑)

といっても、実は私の中では下地はあった。それは『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』を読んだこと。
「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱
ワンピース世代はやがて反旗を翻す

 この先の時代、ガンダム世代よりも上の支配層にチャレンジする新しい若者は、何を武器に登場するのだろうか。われわれの社会はマクロで見ればひずみに満ちている。ガンダム世代が70歳を迎えるまでにあと30年ある,その頃まで今の枠組みを若者たちが納得して、年老いた私らを支えてくれるだろうか。そのようなガンダム世代に都合の良い未来がくるとは思わない方がいい。
 ワンピース世代の価値観は、自由と仲間にある。そして社会という顔の見えない集合体は、彼らにとっては守るべき仲間には属さない。社会が若者を搾取しようとするどこかの段階で、社会が彼らの仲間を傷つけるだろう。そのときにワンピース世代は仲間の側に立って立ち上がる。
 ワンピース世代のチャレンジャーはどう反旗を翻すのか。
 ホリエモンがしたように、もう一度カネとチエを集めて攻めてくるかもしれない。
ないしはソーシャルネットワークを使って老人たちから見えない形で攻めてくる可能性もある。
そんな世代間の闘争が、残念ながらこれから先、再び、そして三度起きてくる。
ガンダム世代が、ワンピース世代の若者に雇用機会を始めとするさまざまなチャンスを平等に与えられない以上、いつか若者の仲間を社会が傷つけ、仲間を守るために若者が社会に立ち向かう日がくることだろう。
 そして、何とかそれらのパワーを権力で押さえ込まずに、解決の道を見つけてあげられないと、われわれガンダム世代も含めて未来は暗いものになるだろう。
 なぜそう思うのか? もしこれら若いワンピース世代の闘争を権威でつぶしてしまったとすると、その後の時代に現れるワンピース世代よりもさらに若き挑戦者たちはおそらく武力と集団を武器に現れる。そしてそれは先進国としての終わりを意味するであろうからだ。

 ガンダム世代が若者を傷つけずに国難を乗り切ることができるのか。
そこに、ワンピース世代とガンダム世代の闘争を回避する鍵がある。

ここのところが引っかかっていたのだ。

話を進めには少しこの本の中身を紹介する必要がだろう。私の勝手な見解も織り交ぜて、意訳してみる。

この本は、あるひとつの仮説に基づいて構成されている。各世代ごとに独自の性格があって、それはその世代に広く支持されたアニメ番組の性格を反映しているというものだ。『鉄腕アトム』『あしたのジョー』『ガンダム』『エヴァンゲリオン』『ワンピース』である。アトムとジョーは団塊の世代、それ以降ガンダム世代、ワンピース世代と続く。

 極論を繰り返す。戦後の日本社会は『鉄腕アトム』と『あしたのジョー』に影響を受けた団塊の世代が作り上げた。その団塊の世代が引退の時期を迎えている。
 そして現在の日本経済を上級管理職として動かしているのは40代から50代前半の新しい世代である。彼らが生まれたときにはすでにアトムはミッキーマウスと同じ子供向けの玩具であり、彼らの学生時代にはジョーたちの街は都市計画で整備され、代わりにバブルの象徴である高層オフィスがそびえたっていた。
 団塊の世代にとって日本社会は自分たちが作り上げるものだったが、新しい世代にとっては完成した社会だった。それは政治面では官僚支配と自民党の一党独裁、経済面では財閥系企業集団の下の系列経済というゆるぎない形に仕上がっていた。



団塊の世代は〈システム〉に対して根本的な懐疑は抱かない。イデオロギー闘争はあった。だがそれは〈システム〉の在り方を巡る争いであって、その闘争を通過することで、逆に〈システム〉を作り上げていった。彼氏らが〈システム〉へ寄せるナイーブな信頼は、自身の実績への信頼でもあるのだ。


この歌は、そうした「勝ち逃げ世代」の達成感を見事に反映している。


しかし、完成された社会にデビューした新たな世代には、上の世代の達成感には違和感があったのだろう。


ガンダム世代が少年期にはゆるぎないと感じていた社会システムは、彼らが社会人になった後、次第にほころびを見せていく。89年に年号が平成に変わり、時を同じくしてバブルが崩壊していく。そして90年代の地価下落から就職氷河期、北海道拓殖銀行破たん、山一証券廃業などの金融破たん、21世紀に入って以降もデフレ不況へと続く「失われた二十年」というべき時期をガンダム世代の社会人たちは駆け抜けていく。

 「会社がやられちまえば、病気だ怪我だって言えるかよお」
 「相手が会社なら人間じゃないんだ!」
 「悲しいけど、これビジネスなのよね」


 さて、管理職としてのガンダム世代から見て、何とか理解できるのは30代前半の社員まで、彼らの価値観で言う軟弱社員までである。「逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ」とPCの画面に向かいながら歯を食いしばってくれる世代までは、何とかその行動に共感できる。しかし、会社にはまったく理解できない連中が入社し始めてくる。

その連中の価値観は自由と仲間。世界の勝利者とは「一番自由でいられる者」であり、最も大切なものは違う職場で違う夢を追いながらも心の奥で共感し合える「家族のような仲間たち」である。

アトム&ジョー世代からワンピース世代にかけて、変容していったのは〈絆〉の形であった。

〈システム〉に建設に邁進していればよかったアトム&ジョー世代は、共に働く者同士が「家族のような仲間たち」であった。〈絆〉は会社にあり、ヨコに広がっていた。だがその代償として、家族の中にあったタテの〈絆〉は希薄になっていった。ガンダム世代は、家族のなかで充足されるべきタテの〈絆〉を〈システム〉の中に求めざるを得なかった世代ともいえるだろう。

それはアムロ少年の成長過程を見れば明らかだ。〈システム〉へ囚われてしまった父親にに捨てられ、代わりにリュウやマチルダ、ランバラルといった「親」に育てられたというものだ。そしてその成長の過程で「ニュータイプ」という形の〈絆〉を掴むが、といってもそうした「親」たちも〈システム〉の一員であり、アムロが〈システム〉に参入することによって「親」となったわけだから、アムロは〈システム〉から自由にったわけでは全くない。〈システム〉の不条理を肌で感じつつも、〈システム〉の成員にならなけば自己を確立できないというジレンマがここにある。これが「ガンダム世代の憂鬱」の中身である。

エヴァンゲリオン世代にも、ガンダム世代と同様のジレンマがある。憂鬱の度合いはおそらくガンダム世代よりも強いだろう。シンジと父親との確執。父がシンジの友をシンジの手にかけさせたときのシンジの反乱。そして、エヴァという〈システム〉を「みんなとの〈絆〉」といったレイの透明な存在感。アスカは〈システム〉の中のエリートだったが、彼女は壊れていくのである。

ワンピース世代になると、こうしたジレンマを抱えることはなくなる。彼らの価値観は〈システム〉からの自由だからであり、それを支える〈絆〉は職場を超えた「家族のような仲間たち」という形でヨコに広がっている。彼らはガンダム世代が希求した(形とは違っているかもしれないが)「ニュータイプ」なのである。


ここで最初の引用へ戻ってもらいたい。『ワンピース世代』は、こうした分析に基づく警告の書なのである。

ここで一旦切り上げて、次回へ続く。

日本力

日本力 エバレット・ブラウンと松岡正剛の共著。ざっと読み飛ばしたが、以下の部分が目に留まった。

ものに生命を与える日本人

ブラウン 江戸時代のデザイン文化は多彩だったでしょう。
松  岡 とても多様多彩多技でした。
ブラウン それがなくなったのは、大量生産になったからなんでしょうね。聞いた話ですが、明治時代、たとえば焼物屋さんや金属細工師は芸術的にレベルの高いも のをつくっていたけれども、海外に向けてたくさん売りたいということで、つくりやすいものをスタンダードにしてしまった。それが当時、日本に来た外国人が非常に残念がったことなんです。
松  岡 マスプロダクト、マスセールの問題だねえ。
ブラウン そう。当時、来日したヨーロッパ人は、日本の技術の高さに圧倒されたんです。日本の細工のレベルは、ヨーロッパの人にとっては母国では見られないほどにすぐれていたんですね。残念ながら、明治のころから日本の経済システムはグローバリゼーションの勢いで、すぐれた細工技術を置き忘れてしまいました。


高い技術力と多様性。いまどきの言葉でいうと「ガラパゴス化」だ。乱暴に言ってしまえば「日本力」とはガラパゴス化していく能力なのである。

マルチチュード かつての日本人は、現在のような無知蒙昧な有象無象ではなかった。それは、ネグリ=ハートが唱えるところのマルチチュードではなかったのかと思う。

まず最初にマルチチュードという概念をもっとも一般的で抽象的な形で理解するために、人民という概念と対比してみることにしよう。人民は〈一〉である。人びとの集まりが多数の異なる個人や階級からなることはいうまでもないが、人民という概念はこれらの社会的差異をひとつの同一性へと統合ないしは還元する。これに対してマルチチュードは統一化されることなく、あくまで複数の多様な存在であり続けるのだ。
・・・
もっともマルチチュードは多数多様なものであるとはいえ、バラバラに断片化した、アナーキーなものではない。その意味でマルチチュードの概念は、群衆や大衆や乱衆といった複数の集合体を指示する他の一連の概念とも対比されなければならない。群衆を構成する異なる個人または集団はバラバラで、共通の要素を分かち合うという認識を欠く。
・・・
他方のマルチチュードは、特異性同士が共有するものにもとついて行動する、能動的な社会的主体である。マルチチュードは内的に異なる多数多様な社会的主体であり、その構成と行動は同一性や統一性(ましてや無差異性)ではなく、それが共有しているものにもとついているのだ。


非常にわかりにくいが、ここはごくごく単純にガラパゴス化している社会と捉えてみてもいいと思う。多様な差異が〈一〉へ収斂することなく〈多〉のままでいて、かつ有機的な統合を保っている。

それがなぜ、有機的な統合が失われてしまったのか。「ガラパゴス」がマスプロダクト、マスセールに変貌していったのか。そして無縁社会といわれるようにまで社会がバラバラになっていってしまったのか。その答えは「ガラパゴス化」という言葉に接したときの私たちの反応のなかにある。

「ガラパゴス化」を積極的な意味合いで捉える向きも少なくはない。だが、それはやはり少数で、大方は消極的なニュアンスで捉える。要するに儲からないというわけだ。収益という〈一〉が多様性へと向かおうとする性向を妨げているのである。 冒頭の引用に出てくる外国人の残念だという言葉も、もとをたどれば原因は収益という〈一〉だ。明治以降の日本は儲けなければならない理由があった。ひとつは明治政府が掲げた富国強兵の目的の為であるが、そんなことよりも深刻な理由があった。それは、明治という時代の日本は江戸時代よりも貧しくなってしまったからだ。

江戸時代の日本は豊かな国だった。その理由は単純明快で、搾取する者がいなかったからである。当時権力を握っていたのは武家だった。だが、彼らは一般に貧しかった。裕福だったのは庶民の方だった。江戸時代は貨幣経済が発達したが、それによって困ったのは武家の方だった。古い歴史教育では農村は貨幣経済の発展で困窮したように教えたが、そんなのは真っ赤な嘘で、農民も含めて庶民全体が豊かになった。中期以降の江戸時代は、豊穣な貨幣経済が展開されていたのである。

その結果、商品経済はガラパゴス化した。外国人が驚いたのがこれである。

ガラパゴス化に必要な条件とは、各々の会計主体が安定的に儲けることができれば存続していくことができるという経済環境だ。それは現代でも同じで、「ガラケー」と言われた日本独自の高機能携帯電話は、機械の代金を通話料へ転嫁するというシステムによって安定的に収益が確保できたためにガラパゴス化することが可能となった。

もっと典型的な例はラーメンだ。国民食と言われるほどの人気を誇るから、基礎体力は抜群である。そこを背景に商品が多様化し、商品の多様化が需要の多様化を掘り起こした。ラーメンは今や日本を代表する、というよりも、日本的なものを代表する商品になっている。海外からの観光客に聞くと、寿司に次いで満足度が高いのがラーメンだという。 (寿司はさしずめ、日本のiPhoneだろう。)

江戸時代は特定の商品だけでなく、あらゆる商品がガラパゴス化した。商品経済そのものがガラパゴス化していたのである。海外からやってきた異邦人達は、日本の品物はなにもかもが現代のラーメンのように感じたのだった。『日本力』に記されているのは、はその名残であろう。

だが、特定の商品群がガラパゴス化すること、経済そのものがガラパゴス化することとは大きな違いである。これを可能にしたのは、ひとつは先に記した支配層が搾取をしなかったこと、もうひとつは鎖国経済であったことだ。国全体が豊かになってり、国富が流出も流入もせずに上手く循環していた。そのため大部分の会計主体が安定的にそこそこ設けることができる経済が発展していた。ガラパゴス化していても労働力の再生産が可能だったのである。

では、なぜ日本は貧しくなったのか? 原因は為替だった。

当時の日本は、東日本が金本位制、西日本は銀本位制という経済体制だった。これは東は佐渡金山、西は石見銀山が存在が大きかったから。といって、東西がブロック経済になっていたわけでは当然なくて、東西の交易も活発だった。ということは、金銀の間で両替が行なわれていたわけだが、この両替比率が日本は閉鎖経済だったため、当時のグローバルス単ダートとは異なっていた。開国後の日本は国内と国外との為替比率の差を悪用されて、大量の金を流出させてしまった。

当時、金から見ると、海外の銀は国内の銀よりも安かった。国内においても、金銀の価値比率は金>銀だったが、海外では金>>銀だったのだ。そうすると、海外の銀を日本に持ち込めば、金が安く手に入ってしまう。そして金の流出は、金本位体制下においては、国富の流出に他ならない。このため、開国後に日本は急速に貧しくなった。東北あたりの寒村で婦女子が売られた『おしん』の世界が展開したのは、この時代だったのだった。幕末時代の徳川政権には、この事態を食い止める術がなかったのだ。

日本近代化の出発点はここにある。貧しくなってしまって、収益を上げる必要に迫られたのだ。その結果が「マスプロダクト、マスセール」だった。そしてそれは「日本力」が喪失の始まりでもあった。

日本が短期間で近代化に対応できたのは、鎖国時代のガラパゴス化の賜だ。豊穣な商品経済が展開したために、庶民までもが読み書き算盤に習熟して貨幣経済に適応する必要があった。また、多様な商品展開は多様な技術者〈多〉を育んだ。技術者が育つ土壌が醸成されていた。

参考:『なぜ日本は短期で近代化できたのか  母なる中国文化』(pikarrrのブログ)

経済全体の貧困化は、そうした高度な労働力を近代的な資本主義的労働者〈一〉へと収斂させていったのだった。

時間軸を現代へ戻そう。

高度成長期までの日本は、まぎれもなく〈一〉であったろう。だが、その果てにやってきたバブル期は〈多〉への移行しつつある時代ではなかったのか。あの時代は確かに驕慢な時代ではあったが、一面では、労働者は資本主義的〈一〉から脱却して〈多〉へと移行しつつあったのではないか。今では考えられないが、フリーターがもてはやされたいたのだ。

バブルは所詮徒花ではあるが、バブル崩壊後の日本経済の低下は、どうみても徒花が弾けたという域には留まっていない。幕末期に起こったような「合法的」な国富の流出。売却できない米国債の大量購入、郵政民営化、TPP。いずれもこの流れである。さらに幕末期にはなかった支配層による搾取が行なわれている。先進国のなかで、国家による所得逆配分が行なわれいるのは日本だけなのである。

そんな経済環境のなかでガラパゴス化なとどいった悠長なことをやっていられないのは現実であろう。だが、ここで見定めなければならないのは、問題が経済環境に適応できていない現実にあるのか、それとも経済環境そのものにあるかだ。
逝きし世の面影
経済そのものガラパゴス化は、多様な商品経済を生み出しただけではない。豊穣な精神も生み出した。幕末期から明治にかけて、外国人が日本人の驚いたのは商品だけではなかったのである。

【震災】津波で流れた金庫の23億円返還に欧米驚き(you tube)

この欧米の驚きは、その名残であろう。

追記:江戸時代の暮らしぶりについての面白いブログ記事がありますので、参考までの紹介しておく。

つれづればな:
 『脱原発と江戸明け暮れ考 「衣の巻」』
 『脱原発と江戸の明け暮れ考「食の巻」』
 『脱原発と江戸の明け暮れ考「住の巻」』


勝利を目的としない闘争

どうも日本国という〈システム〉は崩壊への復帰限界点を越えたように思える。

岩下さんのところへ投稿したコメントをこちらにも掲載してみる。

『東京高裁に「も」失望した。もはや日本はド~なるんだろう』(岩下俊三のブログ)

「日本国」というシステムの劣化はもはや誰の目にも明らかですが、先日の東京地裁判決といい、此度の東京高裁判決といい、双方とも判決の名に値するとは思えず、システムの劣化はとうとう復帰限界点を超えてしまったかの印象をもってしまいます。

日本国憲法第76条第3項
【裁判官の独立】「全ての裁判官はその良心に従い独立してその職権を行いこの憲法及び法律のみ拘束される」

民主主義体制下の法治国家においては、ことの善悪を裁定するのは最終的には裁判官の役割とされています。その裁判官に対して憲法が「独立して良心に従え」とわざわざ命じているのは、とどのつまり、国家というものは国民の「信」によって成り立っているのだという真実が背景にあるから。それが欧米流の表現だと神と対峙したときの「良心」ということになる。「良心」こそが最後の砦、いえ、もう少し穿った言い方をすれば、良心的であるとの「信」が国家というシステムを維持するための最終ラインなのです。

その最終ラインが突破されてしまった。かなりの人間がそのように感じたはずです。そして不思議なことに、そのように感じてしまうと、かなり以前からその最終ラインはすでに突破されていたのだと気がついてしまうようになる。原発裁判の判決なども、今、我々が立っている地点から観れば、もうすでに最終ラインを突破している。

これは恐ろしいことです。その上、私たちの上には増税が襲いかかってくる。

ホントに、「もはや日本はド~なるんだろう」と嘆くしかない。しかし嘆いてばかりはいられない。私たちは明日を生きなければなりません。

もっとも懸命な選択肢は、日本を棄てることでしょう。どこかの国に移住し、そこで根を下ろす。ただし、この「どこか」はかなり難しい。腹立たしいのは、この選択を現実にチョイスできるだけの立場にある者は、この「どこか」をおそらくは知っていることです。だが大半の者は日本を棄てることなど思いも及びません。あの福島からでさえ避難できずにいるというのに。

では、どうすればいいのか。答えは簡単に見つかりそうにありません。


そう。難しいのだ。だが、何か方法はあるはず。そして、あるとすればそれはガンディーの方法だろうと私は思っている。非暴力・不服従だ。

そんなことを考えていたら、すぐにガンディーの方法に沿うと思われる提案を発見した。

『自主避難者は、自分で裁判を起こしてはどうか?勝つ気がなければ、割と簡単!』
  (マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

さて、このまま放置すると、自主避難者が賠償を受けられる可能性は極めて低い。一旦、この委員会が、自主避難の賠償の「基準」を示せば、政府も東電もそれを盾にして、最小限のケースを認めることでお茶を濁そうとするだろう。そのあとで裁判を起こしても、日本の司法は行政べったりなので、救済される可能性は無に等しい。高額の弁護士費用を払ったところで、何十年も争って、ようやくわずかな救済が得られる、という広島、長崎、水俣などのパターンが関の山であろう。

そうすると、事態を変えるには、今、行動を起こすしか無い。ではどうするのか。私の考えでは、

今すぐ、裁判を起こす

である。裁判なんかで救済されない、と言っておきながら、一体、何を言っているのか、と思われるかもしれないが、この裁判の名目は救済であるが、狙いは救済ではない。何を狙うのかというと、

無数の裁判を起こして東電と政府に圧力を掛ける

ことである。


勝つ気がなければ、裁判を起こすのは簡単である。

こんなことをして、お金をもらえるかというと、多分、無理である。何をやりたいのかというと、損害賠償請求を、多くの自主避難者が起こすことで、東京電力や政府が悲鳴をあげるようにしたいのである。5人や10人なら、屁の河童であろう。しかし、500人とか1000人が、訴訟したら困るであろう。5000人とか10000人とかが訴訟したら、悲鳴をあげるであろう。


安富教授のことだ。ガンディーのことが念頭にないはずがない。そしてガンディーの方法に沿うならば、勝利を目的としないこの〈闘争〉の目的は、単に東電や政府といった既得権益への嫌がらせではない。それは新たな〈信〉を求めることを目的としなければならない。

以前、毒多さんのところでハンストの是非について対話したことがあった。それは山口県上関町への原発建設反対を主張するため、若者たちが山口県庁前でハンストを決行したという事件を受けて記されたもの。若者たちの主張は是とするが、ハンストという手段には違和感を感じるという内容だった。

『「ハンガーストライキ」…やっぱ、何かが違うよね』(dr.stoneflyの戯れ言)

これも、その時に投稿した私のコメントを掲載してみる。

ガンジーのケースを考えてみたいんです。

ハンストが示威行動だというのはそのとおりでしょうけど、私が思うに、ガンジーの場合は、示威した相手が他のケースと異なるんですよ。ガンジーが示威したのは、当時インドを支配していたイギリスではないんですよ。イギリスに支配されていたインド人民だったんですね。敵ではなく味方に示威した。

それに対して他のケース、寂聴にせよ、上関の若者にせよ、煙突男にせよ、示威の相手は敵です。ここのところが大きく違う。

ガンジーのハンストが味方に大きな共感を呼んだ理由はごく簡単なことだと思います。それは、餓えている人が当時のインドには多かった(今も多いかもしれません)。ガンジーは餓えずに済ますことが出来た人なのに、ハンストをすることで餓えている人たちと同じ苦しみを共有しようとした。だから支持され、民族自決への道を切り拓くことになったんです。

そう観ると、その他のハンストがあまり共感を得ない理由も見えてきませんか? 誰だって餓えたくはないんです。餓えたくはないのに、ハンストによって示威されると強制的に飢餓感を共有させられるような気がする。だから目を背けたくなる。しかし、否応なく餓えている人は強制を感じないでしょう。それ以前に実際に餓えているのですから。

つまりです。ガンジーは戦略的にも戦術的にも適ったハンストを行った。が、他のケースは示威する相手も方法も誤っている。人権など省みない者達を相手に人権を建てに取り、餓えたくもない人間に餓えを感じさせる。甘えだとか、そういった次元の話ではないんですね。ガンジーのハンストの成功を、上っ面だけ真似ただけのことなんです。

翻って、もし勝利を目的としない原発事故自主避難裁判闘争が行われなら、その真の相手は、東電でも政府でも裁判所でもなく、国民でなければならない。勝利を目的としないということは、もはや国家に〈信〉を置いてはいないということだ。皮肉なことだが、裁判に訴えるのは、国家に〈信〉がないことを訴え、そのことによって新たな〈信〉を創造する機縁とするためだ。

放射能の恐怖は実感しづらい。ゆえに、国民全体の〈信〉にまではなかなか及ばないだろう。だが、その恐怖に強制ではなく共感する者も大勢いる。想像力豊かな人たちだ。新たな〈信〉が創造は、そうした想像力に富んだ人たちの間から始まるのは、歴史の鉄則といっていいだろう。

このような手段を採らなければならないことは、誠に残念なことである。だが、国家という〈システム〉が崩壊への復帰限界点を超えたと認識するならば、これは正当でしかも人道的な方法だ。非暴力・不服従の方法が上手くいかなければ、あとは内戦への道を行くだけになってしまいかねない。

最後にひとつ付記しておく。あくまで陰謀論的な妄想だが、日本国という〈システム〉の崩壊を願う人々がこの世界には存在すると考えられなくはないのである。争いが起きれば起きたで武器の需要が見込める。〈システム〉を再構成するならするで、そのためのリソースの需要が見込める。そういった需要は世界の支配者にとっては非常にありがたい需要なのである。

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