愚慫空論

〔再掲載〕 知識

アキラさんがあげられている「野口先生の時代背景」シリーズ、その中でも特に

 『野口先生の時代背景 その6 ~〈世界〉を求める欲求 ~』
 野口先生の時代背景 最終章 ~「眩しい光」と「懐かしい闇」~

の2つを読んで、昔にあげた『知識』というエントリーを思い出してしまった。

近代的理性という「眩しい光」。光の蔭にできる「闇」。「光」になれてしまった私たちは、「光」が強くなることでかえって濃さをました「闇」に怯えるようになってしまった。

今ある「闇」は、「あたたかい闇」「懐かしい闇」ではないわけです。
底知れない空虚、不安と恐怖ばかりが惹起される「闇」。
おまけに具体的な脅威をもたらす「見えないヤツ」までまき散らされ、その「感覚に引っかからない放射性物質」による恐怖まで引き起こされるようになってしまった。
今 世の中でさんざん言われている「どうすればいいの?誰か教えて!」は、まさにこの状況の中で、周囲を照らす「光」を求める欲求なんですよね。


うん。「闇」は、光を当てて【知ろう】とするとますます深くなり、不安と恐怖ばかりが惹起される。が、〈識ろう〉とすれば、「闇」は〈闇〉になる。あたたかく、懐かしいものになる。アキラさんは、野口整体をそうした「闇」を〈識る〉方法だと仰るが、そうなんだろうと思う。私は野口整体のことは何も〈識らない〉けれども、樵という営みを通じて〈識る〉ことについてはいくらは知っているつもりだから、そう見当がつく。

というわけで、【知る】と〈識る〉とについて語った『知識』のエントリーを再掲載。尚、〈 〉や【 】等の表記は修正してある。

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理性に叛旗を翻す(笑)、2009年冒頭のエントリーです。


【知る】ことと〈識る〉こと。「知」と「識」の文字は合わさって「知識」という言葉になります。現代では、「知識」は【知る】ことの基礎的なもの、【知る】側の言葉として捉えられがちですが、もともとの「知識」は違うのではないか? 【知る】と〈識る〉はどちらも人間の精神作用ですが、似て非なるもの。その区別がつかなくなって、【知る】の側に大きく傾いてしまったのが、“我思う、故に我あり”に端を発した理性万能主義の近代ではないのか? そして、近代的理性が〈識る〉ことを抑圧し、人が人として〈生きる〉ことへの意義を見失わせてしまった...のではないでしょうか? 

〈生きる〉ことの意義は、決して【知る】ことはできず〈識る〉しかないもののように私には感じられます。




【知る】と〈識る〉について具体的に話を進めましょう。私は樵ですから、樹木の伐倒を例にとります。

伐倒方向立木を伐倒するには、まず伐倒方向を定めなければなりません。伐倒方向は、間伐で伐り捨ててしまって山の中へ放置するようなときは別ですが、搬出する都合を第一に考えて、伐倒方向を定めます。 右の図は、コチラの中からお借りしてきたものです(図そのものをクリックしていただくと、お借りしたページに飛びます)が、申し訳ないがこれは初心者向けと言わざるをえないもので、我々の作業では「作業困難」とされている方向へ伐倒するケースが多い。また、そちらへ伐倒することが出来ないようでは、一人前とは見てもらえません。

 ちなみに、上向き(山側)に伐倒するのが困難なのは、枝を張り出す都合で立木の重心はどうしても下向き(谷側)になってしまうからです。林には幾本もの木が立ち並んでいます。ある立木の上にも下にも、別の木がある。木の高さがすべて同じだとすると――針葉樹の人工林は、通常すべて同じ高さの木が並ぶ――上にある木は、下にある木よりも梢が高い位置に来ることになる。すると木は、上向きに枝を伸ばそうとしても上の木に光が妨げられ、逆に下向きに枝を伸ばすと下の木を受光を邪魔する形で伸ばすことが出来る。なので、木は斜面下向き方向に枝が多くなり、その枝の重みで立木の重心は下向き(谷側)に傾くことになるのです。

また、上側に倒すこと――我々はそれを“伏せる”と言いますが――には大きなメリットがある。出しひとつは、図で下向きが「不可」となっていることに関係するのですが、上向きだと伐倒した後着地するまでの距離が短いのです。すると、その分、木に掛かる衝撃が少なくなる。下向きだと衝撃が大きくなりすぎて、せっかく倒した木がバラバラに砕けてしまう恐れがあるのです。 もうひとつは、上向きだと木が軽くなること。上向きに倒してしばらく置いておくと、葉より水分が蒸散して乾燥します。これが下向き――木の元が上に、梢が下に――だとなぜか蒸散しない。それに着地の衝撃で枝が飛んでしまって、葉が少なくなるというのもある。現在は機械動力を使って搬出するので少々重くても出してしまいますが、昔、人力で搬出した頃には木が乾燥していなくて重いということは、非常に困ったのです。ですから、木を伐り倒すのは、“伏せる”のが決まりでした。


方向を定めたら、次は伐り込みの手順です。今はチェーンソーを使います。伐倒手順

まず、伐倒方向に向かって「受け口」を入れます。「受け口」の切り口は伐倒方向に対して垂直になるようにします。受け口を直径の1/4ほど伐り込んだら、今度は反対方向から「追い口」を伐り込んでいきます。

伐倒方向と立木の重心の傾きが同一方向である場合、「追い口」を伐り込むに従って立木は傾いてゆき、ついには傾く荷重に耐えられなくなって、木は伐り倒されます。ですが、“伏せる”ときのように、伐倒方向と重心の傾きが反対の場合、「追い口」を伐り込んでゆくと、追い口の方向に木が傾いてきます。そうなると、チェンソーは木に詰められてしまって、伐り進めることも、刃を木から抜くことも出来なくなってしまう。

クサビ そのような場合には、クサビを使います。右の黄色いのがクサビ。少しずつ伐り進めながら、少しずつクサビを打ち込んでゆく。この時に重要なのが「つる」の残し加減です。クサビを打ち込みつつ伐り進めても、ある限度以上に伐り進めて「つる」を少なくしすぎてはなりません。クサビを打ち込むことは、伐倒方向への力の加重をかけると同時に、木の梢の方向への力も加えることになります。「つる」が細いと、梢方向への荷重に耐えられなくなって「つる」が切れてしまい、そうなると伐倒方向への力の加重も無くなってしまって、立木そのものの重心の傾く方向へ倒れてしまい、事故の元です。また逆に「つる」を残しすぎるのも危険で、倒れていかないばかりか、無理にクサビを打ち込むと、梢方向への加重に木の幹が耐えられなくなって、幹が真っ二つに割れて裂け上がっていきます。そうなると、幹は木の加重に耐えられなくなるまで裂け上がって、耐えられなくなったところで折れて落ちてきます。こうした現象は逃げる間もなくあっという間に起き、また、どちらに落ちてくるか予想もつきませんから、非常に危ない。捻れの少ない素性の良い木ほど裂けやすいですから、困りものなのです。

これまでの説明で、立木の伐倒について理解していただけたでしょうか? 私の説明がつたないこともあるでしょうが、自信をもって“理解できた。もうすぐにでも木を伐れるぞ!”なんていう人は、おそらくいないだろうと思います。せいぜいのところ、“手順はだいたい飲み込めたが、実際にできるかどうか自信はない”といったところでしょう。それで当然です。

では、こちらの動画をご覧ください。ハーベスタと呼ばれる高性能林業機械です。


もちろん、ハーベスタだって素人がそう簡単に扱えるものではありません。しかし、これはベースになる機械は土木・建設に用いられるパワーショベルですから、パワーショベルを扱った経験がある人だったら“ちょっと慣れたらできるかな”くらいに思うかもしれません。ハーベスタを使えば、「つる」の残し具合だとか、「追い口」へのクサビの打ち込み加減だとか、そういったことに熟練する必要もなく比較的安全に作業できます。もし、林業に従事しなければならないとしたら、ハーベスタを使って作業をしたい――そう考える人が多いのではないでしょうか? 肉体的に、こちらの方が楽だと直観的にわかるでしょうし。


伐倒方法の手順などの知識を頭脳に仕込むことは、【知る】ことです。ですが、【知る】だけではなかなか大きな立木を上手に伐り倒すことは難しい。それには経験を経て〈識る〉ことが必要です。【知る】ことは、記述された言葉を理解することで得られます。では、〈識る〉ことは? 単に経験だけでは不足です。〈識る〉ためには〈対話〉が必要なのです。

では、〈対話〉とは? 立木の伐倒ひとつをとってもいろいろな場面で〈対話〉はできますし必要ですが、もっとも精妙な〈対話〉が要求される場面は、やはり「つる」の残し加減、クサビの打ち込み加減、うまく言語化することが困難な、「加減」が要求されるところでしょう。ハンマーでクサビを打ち込んだ時の手応えとか、ハンマーの一撃ごとにクサビが「追い口」に潜り込んでいく距離、立木の軋む音、傾き具合、時には風が吹く様子――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していく。こうしたことが、言語化することがそもそも不可能な〈対話〉であり、そうした〈対話〉を為すことを〈仕事〉というのです。

〈対話〉を為すことを〈仕事〉とは、また妙なことを。言葉を解する人間相手の仕事ならば対話が仕事ということもあるだろうけども、木は言葉を解しないのに対話はおかしい――そんなふうに思われる方もおられるでしょう。しかし、これは「仕事」という言葉を考えてみれば、それほどおかしなことではありません。

「仕事」とは“事に仕える”ということです。“仕える”のは、もちろん「私」、仕事を為す私です。では、「事」とは? 仕事は、そもそもが「私」が外部に働きかけを行ってなんらかの成果を得るための行為です。その「行為」を「事」と称する。してみれば“事に仕える”とは、「私」よりも「事」を上位において、そこに没入していくということになります。「事」に没入していくこと――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していくこと――は、相手が言葉を介す介さないなど関係なく、「私」の相手への行為から生じる相手の応答を感じつつ、さらに相手に行為していく、そうした「私」と相手との間の「行為-応答」の「やりとり」です。その「やりとり」を〈対話〉と呼んだだけのこと。この呼称は、言葉を解する「私」を上位とする思い込みからは出てこない発想かもしれませんが、「私」を下位に置く〈仕事〉の精神からは遠いものではないと思います。


ハーベスタを使用することは、肉体的な負担が少なく、比較的安全であり、さらには作業の生産性が上がり、良いことずくめのようですけれども、同時に〈識る〉ことができる機会が奪われてしまうことにもなります。もちろん、ハーベスタを扱うことはハーベスタと〈対話〉しなければなりませんから、ハーベスタについて〈識る〉機会は新たに生まれます。ハーベスタといったような機械との〈対話〉は、それはそれで素晴らしいことです。ときに機械の設計者が想定した以上の性能、機能を発揮することもある。ですが、基本的に機械といったものは、それが進歩すればするほど――進歩させるのは科学技術――人の〈識る〉範囲を狭くしていく。たとえば、さらに機械の能率を上げるため、またオペレータの熟練――オペレータが機械を〔識る〕こと――に依存しないように、機械の自動化を推し進めれば? もしくは、作業の過程を細かに検討し分業化を進めれば? そのような「進化」が進むごとに作業能率は上がるかもしれませんが、〈対話〉の機会は奪われ、人間は〈識る〉ことが出来なくなっていきます。そうして多くの〈仕事〉がたんなる作業になりさがってしまう。

ハーベスタのような機械を設計開発するには、科学によって積み重ねられた成果――【知る】ことの体系――が必要であったことはいうまでもありません。設計者は、機械の目的に合わせて【知る】ことの体系と〈対話〉をしつつ、設計を行う。また、設計されたものを形にするには、エンジニアたちのノウハウ――これも〈対話〉によって捉えられた〈識る〉こと――も必要です。機械の設計者、エンジニアたちの作業は〈仕事〉でありえるかもしれません。「私」を「事」の下位に置くことができるかどうかはいささか疑問ですが、彼らにとって、その作業は自己実現の方法となりえるでしょう。

しかし、そうした〈仕事〉は、機械に従って作業をしなければならない人たちから〈仕事〉を奪い、仕事人をたんなる作業員にしてしまいます。マルクスが唱えた「疎外」というやつですね。マルクスは労働者を疎外する主犯を資本としましたが、これまで見てきたような視点に立つと、疎外とは、〈識る〉が【知る】によって抑圧されること、とすることも出来そうです。


ヨキ

これは私が使っている道具です。一般的には「斧(オノ)」という方が通りがよいかもしれませんが、我々は「ヨキ」と呼び習わしています。ヨキの語源は、刃に施されている4本のスジにあるという話です(画像からも、見づらいですが見て取れます)。刃の反対側には3本のスジも施されてあるので、「ミキ」となってもおかしくはなかったはずですが、なぜがこれは「ヨキ」です。

ヨキは、樵にとっては武士の刀のような存在です。樵の世界でも今の世の中、さすがに機械化が進み、ヨキが活躍する場面はほとんどありません。木を伐るための道具は、もっぱらエンジン動力のチェーンソーか、さもなければハーベスタのような大型機械になってしまっています。ヨキは木を伐るための道具としてよりも、刃の背でクサビなんかを打ち込むための道具として使われることの方がはるかに多くなっています。

ヨキは、ノコギリという道具が発明されて以来、木を伐るための道具としての役割の主役からは降りてしまっています。それでも、ヨキが特別な存在である理由――明確にはわかりませんが、それは刃に施されたスジにあるのかもしれません。

斧という道具は、木材を建築物等に利用した文明には広く見られるものです。しかし、刃に3本、4本のスジを施すのは日本独特のもの。その意味は、1本1本のスジは「気」を表し、3本のスジは「ミキ」すなわち神酒、4本のスジは「ヨキ」すなわち4つの気――地・水・火・風――から生まれる五穀を表すもの。木を伐るのは今でも深い山中のこと、昔はなおのこと供え物を運ぶことなど出来ず、その気持ちを表すものとして斧の刃にスジを刻んで伐り倒す木に祈りを捧げた、ということらしいのです。

木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)
(2003/11)
西岡 常一

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そうした意味を、私はこの本で知りました。樵になる前の話です。そのときには、「ヨキ」の意味を頭には仕込んで【知る】ことは出来たかもしれませんが、木に供物を捧げようとした昔からの樵たちの心まではとうてい〈識る〉ことは出来ませんでした。樵に鞍替えして、多少は木との〈対話〉の経験もした現在は、少しはその心がわかるような気がします。

以前、知り合いのベテラン樵から、奈良の平城京大極殿復元に使う樹齢300年に近いヒノキの伐ったときの話を聞いたことがあります。吉野のとある山中にあったその木を伐るに当たって、仲間といろいろ伐り方について相談――適切な伐倒方向、倒れ具合の予測、倒した後の搬出の段取り等々だと想像しますが――したあと、いざ、木に刃を入れるという段になると、やっぱり足が震えたと言っていました。その心境はよくわかります。たかが木といえど、それを伐り倒すことを生業にしているといえど、自分よりも遙か齢を重ねたそのヒノキは、単なる樹木ではないのです。供物を捧げ祈りたい気持ちになっていくのは、ごくごく自然なことだと感じます。

木を伐り倒すことから、木へ供物を捧げようという心へ至る過程。こんなものは、とてもとても、論理的に説明できるものではありません。そうしたことを明確にしようとするときには、言葉の伝達力の乏しさに絶望を覚えざるをえない。しかし、では、言葉でそれらを表現することは全く不可能なのかというと、それはそうでもない。読み手の想像力、共感力に期待を託しつつ、自分の感覚をさまざまな方法で言葉に載せて〈対話〉するのであれば、もしかしたら理解してもらえるかもしれない。そうした期待は、言葉には十分持って良いのではないかと思ってもいます。


悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
(2008/05/16)
姜尚中

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姜尚中は、この著作の第3章のタイトルを「知っているつもり」じゃないか、としています。私の文章をここまでお読みいただいた方は想像つくかもしれませんが、「知っているつもり」をこのエントリーの表現の仕方で言い換えると、「識っているつもり」です。また姜尚中は、トルストイを引用しながら「科学は何も教えてくれない」とも言います。科学はわれわれが何をなすべきかということについて教えてくれない。教えてくれないだけならまだよいのですが、それに留まらず、人間の行為がもともともっていた大切な意味をどんどん奪っていくと言う。私もそれに全く同感です。

われわれはみな、自分たちは未開の社会よりはるかに進歩していて、アメリカの先住民などよりはるかに自分の生活についてよく知っていると思っている。しかし、それは、間違いである。われわれはみな電車の乗り方を知っていて、何の疑問も持たずそれに乗って目的地へいくけれども、車両がどのようなメカニズムで動いているかを知っている人などほとんどいない。しかし、未開の社会の人間は、自分たちが使っている道具について、われわれよりもはるかに知悉している。したがって、主知化や合理化は、我々が生きる上で自分の生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。

これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』の孫引きです。

自分が使う道具を含め、自分自身が住んでいる世界について知悉すること、〈識る〉ことは、自分が何者であるか、ということを〈識る〉ことにつながっていきます。いくら科学的な知識や、社会の仕組みについて理解し【知る】ことを重ねても、生きている意味などつかめないように私は思います。【知る】ことで出来ることは、せいぜい知らない者を下に見て、相手と比較することで自分の位置を確かめる程度のことです。それは、オレは金持ちだからエライとか、社会的に高い地位にいるからエライと考えるのと大して違わないように私には思える。そうした比較を知性だとか理性だとかというならば、そんなものを少しも欲しいと思いません。

私自身が何者であることを〈識る〉ことは、むしろ理性的でないところからもたらされるように思います。「我思う、故に我あり」ではなく、「我感じる、故に我なし」です。

「我なし」は間違いではありません。私自身を〈識る〉ことを「我なし」とは矛盾していますが、これはこれで正しいと思います。ただ、どのように正しいのか、そこを語る言葉を残念ながら私は未だ持ち合わせていません。語れるときが訪れたら――いつ訪れるかわかりませんし、訪れない可能性も高いですが――、エントリーをあげたいと思います。
  

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今の私は【知る】ことも、〈知る〉になりえることを知っている。また逆に〈識る〉ことが【識る】に堕ちていくのも識っている。

アキラさんが信奉しておられる野口晴哉という人は、〈識る〉ことを〈知る〉へ高めた人だったのだろう。そのような知識人は、昔は結構いたのだろう。

右は、〈識る〉と〈知る〉をともに究めていった人の「姿」だ。

それから比べると、今の知識人は、【知る】ことによって〈識る〉を【識る】へと貶めている者たちが大半のような気がする。霊的な病人というべき者たちだ。

霊的に不健康

のだ

画像は今朝の朝刊から。顔写真は私が貼り付けた。

タイトルとの関係は...、当然、ないわけがない。

それにしても、「霊的に不健康」とはどういうことか? 先のエントリーで性懲りもなく「霊」などというわけの分からないものを持ち出したが、そんなものを健康と結びつけるなんて、それこそ精神的に不健康なのではないか? そう感じられる方も多かろう。特に日本では。

ところが、どっこい。

WHO(世界保健機関)が定義する健康とは、こうだ。


健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.



私などが昔々教わった憶えがあるWHOによる健康の要素は、「身体的」「精神的」「社会的」の3つだったが、この知識は古くて、1999年に改訂されていたらしい。

といっても、「霊的に健康」のイメージはなかなかつかみにくい。特に無神論が蔓延る日本では。

では、外国の宗教を参考にしようではないか。

  「父と子と聖霊の御名において」
  ”In the name of the Father, the Son and the Holy spirit.”

クリスチャンはミサなどの儀式に参加すると、このように唱える。これは「聖なるもの」に対して誠実であらんとする態度を表明するためのものだと解してよいと思う。

ここから推測すれば、「霊的に健康」とは「聖なるもの=spirit」 に対して誠実であることができる状態と考えられるだろう。

そのことが腑に落ちたら、冒頭の画像へと戻っていただきたい。

民主主義体制下の政治家にとって「聖なるもの」といえば、国民に決まっている。
が、写真のお方にとっての「聖なるもの」はなんなのだろう? 勝海舟の子孫を崇め奉っているという噂も聞えてくるが、まあ、噂は噂だ。しかし、どう見ても日本国民が「聖なるもの」ではなさそうである。

もっとも、何を「聖なるもの」としようがそれは当人の勝手ではある。が、ほんとうは神を信じていないのに、問われれば「信じています」なんて答えるような輩は、「霊的に不健康」と言われるに違いない。写真の人物も問われれば「私にとって聖なるものは日本国民です」と答えるだろう。

残念なことに、日本は「霊的に不健康」な者に事欠かない。永田町や霞ヶ関や丸の内、大手町当たりで石を投げると、まず不健康者に当たるだろう。見かけは「身体的」「精神的」「社会的」に健康そうに見えるかもしれないが。

不健康者、いや、もっとはっきり病人と言っておこう、論うときりがないのでやめておくが、でも、もうひとりだけ。



写真ではなかなかの男前だが。

尾崎豊に共感するとかしないとか

毒多さんのところでの〈対話〉を、独自に見解を付け加えて勝手にまとめてみる。

 『「尾崎豊はイミフ!?」・・・共感しないのは何故?』(dr.stoneflyの戯れ言)

まず〈対話〉の出発点は、今の若者世代はあまり尾崎には共感しないらしいということが新聞記事に掲載されていた、ということだった。

 中日新聞:中日春秋(2011年10月22日)

そこから派生した〈対話〉の流れを整理してみると、

1. 若者世代が尾崎に共感しない理由、あるいは我々の世代が尾崎に共感した理由についての考察
2. 世代・時代に関係なく各々が尾崎に共感する理由、あるいは共感しない理由
3. 〈〉や【】といった表記について。

1.はガンダム世代VSワンピース世代でまとめた結論と共通する。

尾崎に共感した世代=ガンダム世代/反感を持つ世代=ワンピース世代

という図式が成り立ちそうだ。鍵は【社会】に対する距離感。我々ガンダム世代は【社会】に違和感を感じていた。違和感を抱えながらも【社会】に順応しなければならないという義務感へ繋がっていく肯定感と、違和感から反感へと派生していく否定感をともに抱えていた。これら二つが同根なのは言うまでもない。

だが、こうした違和感も、ワンピース世代から比べてみると、【社会】に対しての距離感が近かったことが原因だと判明してくる。

【社会】からの距離感が遠いワンピース世代以降もやはり、肯定感と否定感のジレンマを抱えている。肯定感は自分たちで〈社会〉を造り始めている手探り感になり、否定感は承認欲望を求める飢餓感へと派生。ここで、肯定感と否定感の境目になっているのが、

4. 偏差値教育の弊害

である。

2.については、特にまとめる必要も勝手な見解を付け加える必要もあるまい。よって、スルー。

3.は、もともとは私が「良心」を【良心】と表記したことから始まった。そこから、〈良心〉【良心】といったような書き方になったが、意味するところは〈 〉は純粋な状態、【 】は何か不純なプラスアルファがつくというものだった。それを今回、「spirits=霊」を規準に区分するところへ発展させた。

ついでの思いついたので言うと、世の中の〈〉付きのモノは、それを表現するのに歌や文章にのせることまでは大丈夫だけど、それがヒット曲やベストセラーになって独り歩きした時点で【】付きの別物を生む気がしますね。

その「独り歩きさせるもの」を「合理性」と言っているわけでして。
もう少し言いますと、独り歩きすると、それはモノであれ情報であれ、「商品」になるんです。だから、値段をつけることが心理的に可能になってしまう。

(「合理性」については、現在、魔法少女『まどか☆マギカ』シリーズで展開中)

〈歌〉が【歌】になることで、多くの+αはつきそうですね。商品ということもそうですが、〈歌〉では絶対聴こえない距離まで聴こえることになるし、聴こえない時を超えることもできる。「繋がる」ことができる。問題は【歌】【繋がる】から〈歌〉〈繋がる〉が抽出できるかどうか、かな、と

そう。で、何を抽出するかなんです。歌を〈歌〉たらしめているもの。私はspirits=「霊」だとするのが良いと思ってます。〈歌〉には〈霊〉が入っている。【歌】は霊が切り落とされている。〈贈与物〉というのは、〈霊〉が入っているです。〈〉は、「霊入り」の印。【商品】は霊なし。【】は「霊なし」の意味。〈霊〉がないから【システム】に乗っかることが出来る。


上の回答のネタ元は、先にも引用した中沢新一著『愛と経済のロゴス』。再度、掲載してみる。

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


すなわち、

 〈 〉 ← 「霊」が含まれる/ 【 】 ← 「霊」が含まれない

5.「歌」(に留まらず、あらゆるモノや表現には)「霊」が含まれる。

さらに5.から、6.霊と共感について。

話を尾崎に戻して〈霊〉という観点から見てみると、実は、尾崎に共感しないという若い世代の者たちだって、ちゃんと尾崎の〈歌〉を感じているんですね。だからこそ「ひとりよがり」とかいう印象を持つ。それはそれでいいんです。〈霊〉的な在り方は世代や時代で違うけど、でも、ちゃんと〈霊〉を感じはいる。そこを互いに確認できれば、どこかで〈繋がる〉はずなんですね。そういう〈繋がる〉ための営為を〈対話〉というんです。


7. 4.偏差値教育と 5.霊の、日本的ミスマッチ。

偏差値というのは、【貨幣】と同じで【偏差値】なんです。人間の知的能力から〈霊〉を断ち切ってしまうものなんです。だから、偏差値教育に適応してしまった者は、アタマはよくても霊性の低いアタマデッカチになってしまう。

でもこれは、西洋と東洋の「知」と〈霊〉の在り方が異なるところから来るんです。私たちは、「論理」に〈霊〉を感じないでしょう? むしろ「理屈」といって〈霊〉を断ち切るものだと感じる。私たちが〈霊〉を感じるのは「情理」の方です。

なぜそうなるか。私たち日本人は、個々の人間のみならずありとあらゆる「もの」に〈霊〉が宿っていると感じている。しかも、それはそれぞれ個別的に〈霊〉を宿していると感じている。山川草木悉皆成仏なんです。

でも、あちらでは、〈霊〉はぜ~んぶ神へと収斂してしまう。人間だけが例外的に個別に〈霊〉を宿すけれども、世界の〈霊〉は神によって体系付けられている。もちろん、この体系には人間の〈霊〉も組み込まれている。そして、人間に理性が備わっているのは〈霊〉があるからなんです。

ですからね、理性が組み立てる論理とは神が支配している〈霊〉の体系へ近づくことなんです。これは科学でも同じ。だから、科学者だって神を信じていられる。いや、科学者ほど神への信仰が強くなったりする。

感じ方が私たちと全然違うでしょう? 私たちは論理というと〈霊〉を断ち切るものであり、〈霊〉を断ち切ったからこそ近代文明は発達したのだと思い込んでいます。

いや、その「思い」は欧米人も同じでしょう。で、それが間違っている、あるいは行き過ぎたと感じ始めているのも同じ。だから霊性を取り戻さなければと感じ始めているだけど、あちらはもともと論理は霊的だから、霊的な論理と非霊的な論理を分ければいいということになっていく。でも日本人には、論理はぜんぶ非霊的なんです。そしてここが、偏差値の高い人間ほどバカになっていく根源的な理由です。


8.もうひとつ、アキラさんが現在展開中の「超越/内在」についても触れているが、これについてのまとめはまた別の機会で。

インキュベーター その2

情報の歴史を読む

 市場の原理をつくったのはイギリスでした。一七〇七年にスコットラゾドを併合して、大英帝国(大ブリテン王国)となっていたイギリスです。だいたい「チープ」という英語が「物々交換」とか「値段」とかを意味するアングロ・サクソン語で、チープジャックといえば行商人のことをさしていた国なのです。そして十八世紀以前、イギリスの投資家にとっては、アメリカ大陸がチープの対象になってきます。
 そこへもってきて、一七一七年にジョン・ローの私立発券銀行が国王直属の銀行に位があがり、ルイジアナ投機熱をあおりたてた。誰だってアメリカ大陸に投資すれば一獲千金を手にできる時代です。それから数年もたたないうちに、イギリスで最初のバブルがはじけ、フランスはジョン・ローのインド商会に投資しすぎていたために、ひどい煽りをくらいます。これがいわゆる「南海泡沫事件」です。史上最初の経済バプルですね。ということは、この段階でフィクショナルな情報文化の領域としての、つまり“鏡としての市場”ができていたということです。
 ジョン・ローの失敗は、のちにゲーテが『ファウスト』第二部でメフィストフェレスの商売としてとりあげます。しかし、それからまた数年もたたないうちに、今度はパリで商工会議所が設立され、一七二〇年代にはパリっ子は株式取引に夢中になっていく。そこにはジョン・ローが“ザ・システム”とよんだにふさわしい、何か目に見えない劇場的・市場的な虚構性がはたらいたわけでした。ロココはこうした市場の動向からもこぼれ落ちてきた美の意匠です。
 この一連の動向には、それまで隠されていた貴族や豪商たちの欲望というものは、それにうまく鏡をあわせるシステムさえあれば、それまで人類が知らなかったとんでもない可能性と危険性が引き出せるのだということを知らせます。それは何かというと、それが資本主義というものでした。


先に、インキュベーターはメフィストーフェレスであるという指摘はしておいた。
(以下、『まどか☆マギカ』のキャラであるインキュベーターは「キュゥべえ」と表記する。「インキュベーター」は、新たなベンチャービジネスを育てる者という、ビジネス業界における意味とする。)

そして、ジョン・ローはメフィストーフェレスである。ジョン・ローの企ては失敗したが、しかし、そのジョン・ローが“ザ・システム”とよんだ「なにものか」――欲望にうまく鏡をあわせるシステム、すなわち資本主義は今日も(大失敗しつつあるように見えるが)未だ生き残っている。つまり、未だメフィストーフェレスはこの世界に跋扈している。

インキュベーターの役割は、新たな「願い」に経済合理性を与え「ザ・システム」の中に繰り入れることだ。繰り入れられた新たな「願い」は、経済の世界では「イノベーション」と呼ばれている。

キュゥべえの役どころもまた同じである。新たな「願い」を「ザ・システム」の中に繰り入れることだ。ただ、もちろん、アニメの話だから違いはある。ここでは合理性は奇跡に置き換えられているし、「ザ・システム」とは熱力学第二法則に抗う仕組みにというものだった。そしてキュゥべえの悪魔性は、『まどか☆マギカ』で設定されている「ザ・システム」の悪魔性に由来する。

と考えていくと、現実世界のインキュベーターも、資本主義という「ザ・システム」に悪魔性があるならば、その役どころはやはりメフィストーフェレスのそれだということになるだろう。

では、資本主義に悪魔性はあるのか? そう問えば、その悪魔性はますます強まっている、というのが素朴な感触だろう。資本主義はどうしても「強欲」を涵養してしまう性質があって、経済グローバル化はますますその「強欲」を巨大なものにしてしまっている。

しかし、教科書的な資本主義についての理解、すなわち「社会に資本を投下することで資本を運動させ、その運動から利潤や余剰価値を回収する」といった理解からは、悪魔性は見えづらい。では、資本主義の悪魔性はどこにあるのか。

 「欲望というものは、それにうまく鏡をあわせるシステムさえあれば、それまで人類が知らなかったとんでもない可能性と危険性が引き出せる」

つまり、資本主義というシステムは「他人の欲望を欲望する」ことに合理性を与えてしまった、ということなのだ。そして、その道を切り拓いたパイオニアのひとりがジョン・ローだったということだ。それも、奇跡というべきか詐欺というべきか、とにかく「天才的」な方法を発明したのだった。

続く。

(『まどか☆マギカ』ネタのエントリーは、こちらから。
 → 『魔法少女まどか☆マギカ』

「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

『もしドラ』の枕詞で語られるベストセラー作家、岩崎夏海氏がフルスロットルで電波放出中なんだそうである。

 『ベストセラー作家だけど質問があるよ?』(ハックルベリーに会いに行く)

断わっておくが、私はここに並べられた質問に答えるつもりはない。というか、答えられない。私にとって岩崎夏海氏のイメージは、『もしドラ』の作者。昨年の紅白で特別審査員だったかを務めていて、マイクを向けられなにやら答えていたアタマの薄い紳士。この2つしかない。

では、なぜこんなエントリーをあげてみようと思ったかというと、その周囲の反応に「えっ?」と思ったから。とにかく、承認欲求、承認欲求、承認欲求! なのである。

これは私が紅白の中継で垣間見た岩崎氏のイメージとは大きく異なる。垣間見ただけだから自信をもって言えるわけではとうていないのだけれども、とにかく違う。実は、私はあのときの岩崎氏の様子をかなり鮮明に覚えている。というのも、あまりにもベストセラー作家らしからぬ感じだったから。たしか「熱演に接して創作意欲が湧いてきて、机に向かいたくなった」とかなんとか、田舎のオヤジが用意してきたつまらぬ世辞を不慣れな席でしゃべったみたいな、ひとつもふたつもパッとしない印象だった。「これがあの『もしドラ』の作者なの?」と、肩透かしを喰らったような気持ちになったものだ。

その岩崎氏が承認欲求の赤色巨星であるとは、ちょっと信じられない。もしそうなら、あの紅白の席でも、もっと気の利いた台詞を用意してきたであろうに。なにせ、ベストセラー作家なのだから。その気になればできるだろうに。
(もっとも、『もしドラ』に気の利いたようなセリフがあったような記憶はないのだが。)

だが、それにしても、この質問群は強烈だ。特に

 「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

こんな質問を公衆に向かって発することが出来るのは、よほどの神経を持っていると感じざるを得ない。「承認欲求!」という反応が集まるのも、無理からぬことだとは思う。

が、もし、私の直観が正しくて、岩崎氏は肥大した承認欲求からそんな質問を発したのではないとしたら?

そう疑問を立ててみると、では、スティーブ・ジョブズは承認欲求の巨星だったのか? という疑問が湧いてくる。で、ジョブズ死去に際して寄せられた多くの賛辞を思い返してみると、「ジョブズはユーザーのニーズには応えなかった」だ。つまり、もしジョブズが承認欲求の塊であったとするならば、きっとユーザーのニーズに応えたであろうが、そうしなかったわけだから、ジョブズはあれだけの成果を挙げて多くの人から承認を得ていたにもかかわらず、承認欲求には左右されない人物だった、だからこそあれだけのイノベーションを実現できたんだ、という結論が出てくることになる。

さあ、そこからもう一度、岩崎氏の質問に立ち返ってみよう。

 「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」

『もしドラ』は、読者のニーズに応えた作品だったのか?
それとも、読者の新たなニーズを開拓した作品だったのか?

「スティーブ・ジョブズのような人間」には二通りの解釈があって、ひとつはスケール。これは承認のスケールだ。もうひとつは承認の理由だ。なぜ、承認されたのか。この「理由」において、岩崎夏海とスティーブ・ジョブズは同様の人間だ、ということはできるはずである。

そうすると、岩崎氏を承認欲求の巨星と見た人たちは、何なのだろう。それはおそらく、スティーブ・ジョブズのスケールに焦点を置いて、そこから岩崎氏を見たのである。その動機は、彼ら自身の承認欲求だろう。ふつうの人は、とてもじゃないがスティーブ・ジョブズほどには承認を得られないと、思っている。それを岩崎氏は公衆に向かって発した。それをうけて、「岩崎夏海は、スティーブ・ジョブズほどに承認を欲している」と受け取った。それは自らがスティーブ・ジョブズほどに承認欲求を欲しているから。ただ、それを公衆に向かって求めることが出来ない、「ふつうの人」というだけのこと。つまり、承認欲求は電波を発した側にあったのではなく、受けた側にあったのだ。

こうなると、承認欲求はもはや「欲求」とするのは相応しくないような気がする。「欲望」である。「人間の欲望とは他者の欲望である」といったのはラカンだったが、まさにそれ、いや、その逆か。自身の欲求を他者の中に見たのである。

おっと、最後に断わっておかなければ。

以上の推論は、私の直観が正しいということが前提だが、その保証は全くない。ただ、電波受信側にこそ承認欲求が渦巻いているというのはありそうなことだとは思うが。とくに「はてな村」においては。

なむあみだぶつ。

追記:

今、気がついた。質問のアタマは、

 1.何でぼくのことを承認欲求の強い人間だと思うの?

だ。岩崎氏は自分で自分のことを承認欲求が強いとは思っていないということだ。

ということは、岩崎氏は、「オマエらこそ、承認欲求の巨星だろ?」とメッセージを発していると受け取ることもできるということだ。

インキュベーター その1

さて、いよいよ「インキュベーター」である。
もちろん、『魔法少女まどか☆マギカ』に登場してくるインキュベーターだ。

それは、右のような姿形をしているが、まあ、そんなことはどうでもいいだろう。この造形からメフィスト―フェレスを連想するのは難しい...というくらいのものだ。

それにしても、よくもまあ、こんな無謀なエントリーを構想してしまったものだ。上手く書ける自信はないし、今さらながら少し後悔している...。
(冒頭の“いよいよ”は自分に向けての掛け声みたいなもの。)

まず、材料を一通り並べてみることにしよう。

何をおいても、『魔法少女まどか☆マギカ』。これはいうまでもないだろう。
メフィスト―フェレスは既出。ジョン・ローは予告しておいた。

ジョン・ローについては、こちらのブログ記事を読んで頂くのがいいだろう。

 『最初のケインジアン/ジョン・ロー』(Electronic Journal)

それから、ベンチャービジネス業界においてのインキュベーター。これは、こちらの記事を紹介。

『「まどか☆マギカ」で考える「インキュベーター」の役割』(YOMIURI・ONLINE/磯崎哲也の起業案内)

「インキュベーター」は、そうしたベンチャービジネスを起業後の非常に早い段階から、起業に関する情報、資金、オフィスなどを支援してくれる存在です。アメリカでは、ポール・グレアム氏がやっている「Y Combinator」というインキュベーターが有名ですが、日本でも、いくつもインキュベーターが活躍しています。「いいインキュベーター」がたくさん出て来ることは、日本のこれからのベンチャーコミュニティーの発達にとって、極めて重要だと思います。

 しかし。

 今年に入って、この日本の「インキュベーター」の将来に大きなインパクトを与える出来事が起きました。それは「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメが一部で大きなブームを巻き起こしたことです。(半分冗談ですが、半分本気です(笑))。


この記事は要するに、「インキュベーター」という用語のイメージが悪くなった、ということは、アニメの「インキュベーター」と実業界での「インキュベーター」は別物、ということなのだが、あいやいや、そうではない、実は変わらないんだぞという話を展開したいと考えているわけだ。

おっと、材料紹介の途中だった。

ベンチャーとくれば、イノベーションはつきもの。

『まどか』のインキュベーター(「キュゥべえ」と呼称される)は、エントロピーが云々とデムパなセリフを吐いたりするわけだが、そのデムパを大まじめに解釈するのに、イリヤ・ブリゴジンの『混沌からの秩序』――にまではとてもではないが手が届かないので、これはいままでも散々引用させて頂いている安富教授の『経済学の船出』から、貨幣生成の機序について。

あとは、池田信夫先生のブログ記事から、自然利子率がどうの、といったところを参照させてもらうことになるかもしれない。

というとこいらで、材料は出揃ったかな。

以上を順序立てて料理したいというわけだが、ざっと見ただけでも、私の力量をまちがいなく超えている...。

が、こうやって予告をしてしまった以上、とにかく取りかからないわけにはいかないだろう。

どうにでもなれ。

続く。

神野直彦氏が素晴らしい件について

今週のマル激。

 「分かち合い」のための税制改革のすすめ 分かち合いの経済学

ゲストは神野直彦氏(地方財政審議会会長・東京大学名誉教授)

著書の『「分かち合い」の経済学』も良書だと思ったけれども、マル激でのお話はさらに素晴らしい。

視聴は有料なのが少し残念だが、この回だけでも515円の価値はあると思う。

そのうち、時間があれば、内容を紹介しつつ取り上げてみるかもしれないが...、時間はないかも。

【イデオロギー】とは過剰【連帯】である

最初に読んだときから、どこか違和感を感じていた。

『格差と若者の非活動性について』(内田樹の研究室)

マルクスの『共産党宣言』の最後の言葉は「万国のプロレタリア、団結せよ」でした。革命を呼号したパンフレットの最後の言葉がもし「打倒せよ」や「破壊せよ」であったとしたら、マルクス主義の運動はその後あのような広範なひろがりを見せたかどうか、私は懐疑的です。マルクスの思想的天才性は、彼が社会のラディカルな変革は「なによりもまず弱者たちが連帯し、団結するところから始めなければならない」ということを直観したこと、最初のスローガンに「戦え」ではなく、「連帯せよ」を選択した点にあると私は思っています。


一読して特におかしなところもなさそうなのだが、どこかでなにかが引っかかっていた。その引っかかりの正体が、昨日、富士の裾野で弁当を食べているときに、判明した。

 人間はデフォルトでネットワークマシンなんだ。

「連帯」は、人間にとっては言わずもがなのことなのだ。その言わずもがなをマルクスはスローガンとして掲げた。そのことが違和感として感じられていたのだ。

ではなぜマルクスは言わずもがなのことをスローガンに掲げる必要があったのか。

状況には2つの可能性が考えられるだろう。
 1.プロレタリアートがデフォルトな連帯が阻害される状況にあった
 2.人々はデフォルトなはずの連帯能力を消失した

内田氏の文章から推測するなら、マルクスの場合はどう見ても1.である。

今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。


今の日本の若者は「連帯」の能力を消失していると区別して書かれている。また、1.であると考えるならば、マルクス主義運動が広範な広がりを持ったことも合点がいく。「連帯せよ」のスローガンは言い換えれば「デフォルトを取り戻せ」になるからかだ。

(実際のところのマルクス主義が「デフォルト復帰運動」であったとは思えないが。)

では、なぜ、1.や2.の状況が生まれたのか。

1.の場合は、それが資本主義がもたらす弊害とするのが通説だろう。労働力は資本が生産手段を独占することで商品と化し、労働者は否応なく分断される。

2.は、内田氏が明記している。

それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。


この「イデオロギー」の内容は、私も同様のことを『偏差値教育の弊害』で書いている。が、同じことを書いても内田氏が書くと、洗練されていてわかりやすいこと。「格差」を感じざるを得ないが...、まあ、それはいい。

ここで考えたいのは、この「イデオロギー」が生じた理由だ。資本主義が生じた理由はいろいろと説がある。だが、「偏差値教育イデオロギー」が生じた理由には内田氏も触れていない。

数値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、処罰を加えたりすれば、すべての人間は「報償を求め、処罰を恐れて」その潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観を土台とする、この「能力主義」「成果主義」「数値主義」が「弱者の連帯」という発想も、そのための能力も深く損なってしまった。


素朴に考えれば、いや、素朴に考えることができるならば、このような教育が人間によからぬ影響を与えることはすぐに分かる。ではなぜ、素朴に考えることが出来なかったのか。素朴に考えることは、思考を洗練させるよりも容易なはずなのに。その簡単なはずのことが出来なかった。素朴に考えることもデフォルトのはずだから、それが出来なかったということは、何ものかによって阻害されたのだと考えるのだ妥当だろう。

その「何ものか」を考えるまえに、そもそも「イデオロギー」を生み出した世代の者たちはデフォルトな連帯を阻害された状況にあったのか、ということを考えてみなければならない。マルクスが「連帯せよ」とスローガンを掲げたのは連帯が阻害されていたからだった。その結果、労働者は搾取され、悲惨な状況に陥っていた。だが、高度成長を実現して国民が総中流となり、社会主義国家より社会主義的と言われた日本の労働者は、連帯を疎外されていたのか? まさか、であろう。高度成長実現に至るまでの時期だって、安保闘争にしたって、連帯は存在した。なにせ、「サラリーマンは気楽な稼業」だったのだ。

そう考えれば、この「何ものか」が見えてくる。「何ものか」とは、実は【連帯】なのである。デフォルトで素朴な連帯の上に、さらに上塗りされた過剰な【連帯】。上塗りをもたらしたのがイデオロギーだ。素朴な〈連帯〉は、〈イデオロギー〉によって強化されて【連帯】となり、〈イデオロギー〉も【イデオロギー】へと変質した。現在の日本人が、なにかというとすぐに陣営に分かれて下らぬ闘争を始めてしまうのも、過剰な【連帯】が蔓延っている所為だ考えれば納得がいく。

そのしわ寄せを喰らっているのが、非活動的と批判されている若者世代だ。

『いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる』(yuhka-unoの日記)

なぜ若者が何も言わないのか? 答えは単純。「言っても無駄だと思っているから」。


過剰【連帯】に浸っている者たちには、何を言っても無駄。実に的確ではないか。

まぁそれでも、私は今の時代に生まれて良かったと思っている。いくら景気が良くても、今よりジェンダー観が固定的で、セクハラパワハラアルハラが酷くて、「いじめられるほうが悪い」という言説がまかり通り、「外国は児童虐待が酷い。日本は家族を大切にするからそんなことはない」と無邪気に信じて児童虐待を見過ごしてきた時代より、今の時代のほうがずっとマシだ。


【連帯】の過剰性がいくらかなりとでも緩和されている、という現状認識。これも的確ではないか。

私は、今の若者世代は、年長世代の過剰【連帯】からの軛を脱し、ゼロから、いや、マイナスから新たな〈連帯〉の再構築を始めているのではないかと思っている。【イデオロギー】によってデフォルトが阻害されていたのを、デフォルトの状態へ戻そうと努力しているのである。過剰に空気を読んでしまったりするという性癖も、「連帯の作法」を再構築中だと見えば合点もいくのではないか。

失われた『北の国から』の光景が、『けいおん!』において復活しつつある。

 → 『けいおん!』(愚樵空論)

ソーシャルメディアは贈与経済を復活させるか

本日2本目。

ここのところ「共感経済」について意見を交わしている(つもりの)逍花さんの記事。

『ソーシャルメディアでの共感は価格メカニズムより残酷かもしれない』(月明飛錫)

人々の素直な共感が価値をもたらすのは理想的な世界であると思う反面、共感させる能力の格差が経済的影響を与えるようになるとすれば、それは今の格差の問題以上に、逆転が難しい残酷な時代をもたらしてしまう可能性があるのではないかと感じている。


逍花さんの懸念はもっともだ。商品経済下においてはこのような事態が引き起こされる可能性が高いと思われる。

ソーシャルメディアにおける情報発信力には、間違いなく大きな格差が存在する


商品経済においては情報もまた商品であり、情報発信力とは商品力に他ならない。ソーシャルメディアは悪くすれば、労働(身体)の商品化に引き続いて知性や感情(精神)の商品化を進行させる。いや、それはすでに進行しているから、拍車をかける、か。それとも逆に、商品化の流れに歯止めをかけることになるか。すなわち「近代化」の進行に歯止めがかかるかどうか。ソーシャルメディアがその帰趨を左右する位置に立っていることは間違いないだろう。
愛と経済のロゴス

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


この試みは大成功を収め、合理的な交換の原理は今や世界中を覆い尽くそうとしている。「グローバル化」だ。

が、そうした動きとは別に、いや、合理的な商品経済が爛熟のなかで、「共感消費」と「つながり消費」といった動きが出現してきている。「共感」も「つながり」も近代社会が葬り去ろうとした「人格性」に他ならないが、ここへきてそれが復活しようとしているようにも見えるわけだ。

この流れをどう見るか。商品経済のなかでたまたま起こった一過性の揺り戻しに過ぎないのか。それとも、近代社会を改造してゆく大きな揺り戻しになるかのか。逍花さんは前者と見たようだが、私は後者と見る。いや、見たい。

その立場から、上のブログ記事には以下のようにコメントを投稿しておいた。

懸念されていることは理解します。ですが、考慮すべき点が2点ばかり欠落していると私は考えます。

1. PV=共感ではないということです。確かにPVが多いと共感を集めやすいのは事実です。とにかく読んでもらわないことには話が始まりません。ですが、

 a.情報の閲覧
 b.情報の価値判断
 c.情報の価格決定

はそれぞれ別次元の問題です。

2.格差もまた情報であるということ。1.で示した3つのレイヤーは、a<b<c の順序で参照する情報の量が増大していきます。共感という能力は価値発見能力であると同時にバランス調整能力でもあるのです。つまり、人間は格差という情報を見出したならば、共感というバランス機能を発揮させるだろうということです。


(上のコメントは、『共感がおカネを集めるのであるなら』で提示した「情報の価格は個人が不合理に定める」ことを前段としている。)

「霊力」といったどうにもわけのわからないものを持ち出さなくても、「共感」が階層を重ねるようになっていくのであるならば、とてもではないがその価値判断は「簡単で合理的」にはいかない。

再び『愛と経済のロゴス』から。

 贈与と交換は、社会に運動をつくりだします。どちらも富の移動がにぶったまま、社会がどんよりと停滞した状態に陥るのを防ぐ力をもっているからです。とくに、贈与の場合、自分のもとにやってきた贈り物を、自分だけの富として、いつまでも手許に抱き込んだようにしているのは「悪」だとみなされました。贈与の環が動いていくことは、社会の全体を巻き込んだ一種の「事業」なので、それぞれの個人はその環の一部分の動きに責任があるのです。そこでそれぞれの個人は、自分の担当する贈与の環の一部分が、すみやかな流動を実現していくようにと、心を配ります。「贈与は宇宙をも動かす」と言われるのは、まったくそのような理由によるのです。


ソーシャルメディが情報を商品ではなく贈与物として取り扱うようになるならば、逍花さんの懸念は当たらないということになる。そして、それが私がソーシャルメディアに期待するところでもある。可能性は低くないと思っている。

想像して欲しい。もし、情報の価格を自分が決定できるようになったとしたら、どのような行動を取るだろうかを。

PVが多い、つまり世間の耳目を集めている情報には関心を持つだろう。だが、関心はまだ共感ではない。

関心を集める情報は共感をもつあるいは反感をもつ可能性は高い。それで共感を持ったとしよう。共感はブログ拍手、あるいはツイートといった行動を惹起するだろう。

しかし価格決定に至るには、低い共感のレイヤーでは足りない。価値判断が為されなければならない。価値判断には他の情報との比較が必要になる。その比較を必ずしも言語化する必要はない。不合理に直観的でかまわないが、他の情報への参照がなければ価値判断は下せない。

価格決定はそのさらに上のレイヤーになる。情報それ自体の価値判断に加えて、自身や相手の経済力の考慮に入ってくるだろう。さらに、相手が自分が対価として支払うであろう富をどのように扱う人物であるかの情報も重要だ。富を手許に抱えて滞留させる相手か、それとも社会起業なりを通じて社会へ還流を図る人物か。たとえ情報の価値判断が同じでも、相手の人物像の違いで価格決定は大きく異なるだろう。

以上のような共感レイヤーの上昇は、計算量の膨大さからいっても不合理にならざるを得ない。しかし、人間の「脳力」であればこなすことはできる。とはいえ、確かにデリケートで面倒くさい計算であることは確かだ。贈与経済が新たな形で復活するか否かは、ひとつには、ソーシャルメディアが実現し要求するであろう「膨大な計算」を人々が受け入れるかどうかにかかっている。

もう一点については...、また改めて。

『けいおん!』

当初、『偏差値教育の弊害 その3』で記事にまとめてみようと思ったが、それはやめにして、ここのところアニメ関連のエントリーが多いので、ついでにというわけではないが、『けいおん!』とタイトルしてみることにした。


とかいいながら、ここに貼り付けたのはなぜか『北の国から』(笑)

この授業風景は、HTTである。

HTTがわからない? 「放課後ティータイム」と読む。『けいおん!』で、唯・律・澪・紬・梓の5人が結成するバンド名だ。それ以上のことが知りたければ『けいおん!』を観るか、ネットで検索してみて欲しい。

純が語っているモノローグは「偏差値教育への憧憬」である。いや、屈折した「けいこちゃんへの恋慕」か。どちらでもいいが、純の焦りはガンダム世代、エヴァンゲリオン世代ならば理解出来よう。だが、ワンピース世代はどうか。『けいおん!』のような「空気系」に浸る世代はどうか。

涼子先生の授業は純が期待するものとは全く違っている。それはそうだ。目的が異なるのだから。純が期待する授業は【システム】に適応するための教育。【自我】を確立させるための教育。しかし、この授業はそうではない。〈自己〉を確立させるためのもの。


このたわいのない曲を聴いてみて欲しい。これだけ聴くと恋愛の歌のようだが、『けいおん!』に恋愛はない。同じ時間と場所を過ごす仲間がいるだけ。唯たちにとって、バンドは時間と場所を共有するための「方便」でしかない。梓はその「方便」に最初は不満を持つ。純と同じである。純は「方便」としての授業に不満を述べている。

だが、この2つは同じであるが、なんと違っていることだろう。同じだと意識するとかえって差異が浮かび上がってくる。『きたの国から』の授業からは、ノスタルジーを感じざるを得ない。もはや戻らない風景というわけだ。が、HTTには、形こそ違えども、戻ってこなかったはずのものが生き生きと甦っている。唯たちだって一応は「偏差値教育」の関門をそれなりにくぐり抜けるが、そのことはもはや人生の重大事としては位置づけられていない。重大事と位置づけざる得なかった世代とは隔絶している。

と、そんなわけなので、『けいおん!』を是非とも楽しんでみて欲しい。もしかしたら、ここには日本の未来への鍵が潜んでいるかもしれない(笑)

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