FC2ブログ

愚慫空論

権力者たち

細野大臣の発言が波紋を呼んでいるようだ。

細野大臣 最終処分場は県外で

原発事故で放射性物質に汚染されたがれきや土壌の最終処分場について細野環境大臣は4日の会見で「福島の痛みを日本全体で分かち合うことが国としての配慮だ」と述べ、福島県以外に設けたいという考えを示しました。
これは4日行われた就任会見で、細野環境大臣が明らかにしました。原発事故で放射性物質に汚染されたがれきや放射性物質を取り除く除染作業で出た土壌などの処分をめぐっては、先月、菅前総理大臣が福島県の佐藤知事に対し、一時的に管理する中間貯蔵施設を県内に整備する方向で検討していることやその施設を最終処分場にすることは考えていないという意向を伝えています。
4日の会見で細野大臣は、中間貯蔵施設について「具体的な場所や保管しておく期間については地元の理解がなくては進めることができない」と述べ、施設を設ける場所などについては今後、地元と十分話し合ったうえで決めたいという考えを示しました。 また、最終処分場については中間貯蔵施設とは別だという認識を示した上で、「福島の痛みを日本全体で分かち合うことが国としての配慮ではないかと思っている。福島を最終処分場にはしないということは方針としてできる限り貫きたい」と述べ、福島県以外に設けたいという考えを示しました。


読み終えて、酷い文章だと思った。特にリード。

放射性物質に汚染されたがれきや土壌の最終処分場について
福島の痛みを日本全体で分かち合うことが国としての配慮だ

これだけを見ると、「福島の痛み」=「放射性物質に汚染されたがれきや土壌」のように読める。そして「日本全体で分かち合う」と続くわけだから、大抵の読者は「細野は放射性物質を全国にバラ撒こうと意図している」は読む。そう読んだたいていの読者は憤慨する。それが波紋となっている。

これがもし"「福島の痛みを日本全体で分かち合うことが国としての配慮だ」と述べ”の部分がなければどうだろう? 最終処分場を福島県以外に設けることの最終的な判断はともかく、原発原発事故相が少なくとも今の段階で、福島に最終処分場をと、たとえ本心はそうであっても発言できるはずがない。

では、最終処分場について発言しなくてよいかというと、そうもいかない。なぜなら現実に放射性物質に汚染されたがれきや土壌は福島に大量にあり、それは「中間貯蔵」として福島に置かざるを得ないからだ。その現実があって、でも、福島県民に対しての「国の誠意」をとりあえずは見せるためにも、"最終処分場は福島以外”と言わざるを得ないのではないのか。

>細野大臣 最終処分の見通しも

細野原発事故担当大臣は4日、NHKなどとのインタビューで、放射性廃棄物を一時的に管理する中間貯蔵施設を福島県に整備する場合は、同時に最終処分の見通しについても提示したいという考えを示しました。
この中で、細野原発事故担当大臣は「中間貯蔵施設については、大変申し訳ないことに福島県内にお願いしなければならない状況だが、それを最終処分場にしないためにどういうやり方があるのか検討しなければならない。例えば、放射性物質を減量化する技術開発や、放射能レベルを下げる方法などを見極めた上で、最終処分のあり方について、政府として責任を持って考えたい」と述べました。
その上で、細野大臣は、「中間貯蔵の期間は、できるだけ短いにこしたことはない。現実的に中間貯蔵施設を何らかの形で具体的にお願いする時には、最終処分についての考え方も示さなければならない」と述べました。


同じくNHK ONLINE 福島ニュースから。

中間貯蔵施設については、大変申し訳ないことに福島県内にお願いしなければならない状況
現実的に中間貯蔵施設を何らかの形で具体的にお願いする時には、最終処分についての考え方も示さなければならない

細野大臣は正論を述べている。批判に値するとは私には思えない。
とりあえず今の段階では

つまり。
此度の波紋を生んだ原因は、まず第一にリードの拙さにある。
第二は、拙いリード文を読んで短絡的に嫌悪を吐きだしてしまったこと。
双方とも、読みが浅いと言わざるをえないのではあるまいか。
(細野大臣の真意はわからない。あくまで文章から読み取れることが出来る範囲での判断。)

これが結論ではない。ここまでは単なる指摘。問題はここからだ。

「福島の痛み」を放射能汚染と読んで、それを「全国民で分かち合う」ことには同意するべきではない。
しかしながら「福島の痛み」を「全国民で分かち合う」ことは、「正しい」とするべきだろう。

ここで考えなければならない。
では「福島の痛み」とは何なのか。
その大部分はやはり放射能汚染ではないのか。
放射能汚染さえなければ福島は復興できる。それを阻んでいるのが放射能であることは厳然たる事実なのだから。

東京電力福島第一発電所で起こってしまった「事象」とやらの帰結は何か。
それは、私たちは「正しいこと」を選択することができなくなってしまった、ということである。
福島が放射性物質の最終処分場とするかどうかは別にしても、とにかく福島は棄てなければならない。
運が良ければ、期間限定で済むかもしれない。
運が悪ければ、福島だけで済まないかもしれない。
が、とにかくまず、一旦は棄てなければならない。

放射能に対処するには、今のところ逃げるしか方法はない。
逃げることは棄てることである。
棄てれば必然的に「痛み」を伴う。

しかし、私たちは「棄てる痛み」を共有することもない。
なぜなら、私たちは自ら進んで「棄てる」ことを選択しないだろうから。
またこれは、すべきことでもない。そんなことをしても誰も救われはしない。

では、私たちには共有すべきものは何もないのか。
ある。それは「正しいこと」が選択出来なくなってしまった「痛み」である。
「良心の痛み」と言ってもよい。

ここまで理解出来たなら、改めて問わなければならない。
細野発言に憤慨する私たちは、「良心の痛み」を感じているのか、と。

確かに報道は拙い。拙い報道への反応も短絡的である。
だが、問題は、細野大臣の真意とやらにあるのではない。
私たち自身が未だに、どこかに「正しいこと」があると思い込んでしまっていることが問題なのである。
短絡的に反応をしてしまうのは、読みが浅かったからではない。
読みが浅くなってしまうのは、思い込みの結果に過ぎない。

もっと言ってしまおう。
憤慨は、良心の隠蔽である。
誰かに憤慨することで、良心への視線をそらせることが出来る。
悪しき者を見つけて非難することで、相対的に自身は「正しい」と思い込むことが出来る。
「正しい」と思い込むことが出来た者に、「正しいこと」が選択出来なくなってしまった「痛み」を感じろといっても無理な話だろう。

権力者は正しいあるべきだ。それは確かに正しい。
だが、「正しい」選択肢が存在しない状態で、どんな選択肢があるというのか。あるとすれば、とりあえずの選択肢しかないだろう。細野大臣は、正しくその選択をしようとしているのではないのか。
だがこれも、良心の隠蔽でしかない。

そもそも政治家とは、良心に従っては生きていけない哀しい人種でしかない。
しかし、良心を隠蔽する者に政治家を非難できる資格があるはずもない。
政治家は権力者だが、政治家を批判する者もまた権力者のである。
そして権力者とは、理念を掲げつつ自身を理念の埒外に置く者。
自身だって「正しい」選択は出来ないにもかかわらず、政治家に「正しい」選択をせよと迫る「市民」はまさに権力者である。

まだ言葉を連ねてみたいが、今日のところはこれまでにしておくことにする。

科学と宝くじ

常温核融合という現象があるらしい。

『常温核融合は本当だった!』 目次ページ

私が持ち合わせている科学知識では、上記HPに記載されている事柄が真実かどうかは判定できない。が、真実らしく見える。
(“らしく見える”が最もアブナイわけだけど)。

私が持ち合わせている「科学的常識」によれば、常温で核融合反応など起こりえない。

常温が意味するところは「低エネルギー」である。
核融合、核分裂、あるいは放射線の放出を伴うα崩壊やβ崩壊。
これらは原子の構造が変化してしまう核反応であるが、核反応は出入りするエネルギーの量が化学反応とは桁違いに多い。
原子力が過去「夢のエネルギー」とされた理由は、「桁違い」だったから。
現在人類が触れてはならないエネルギーとされる理由もまた「桁違い」だから、である。
放射線が基本的には人体に有害なのも、「桁違い」だから。
乳酸菌が放射能に効くはずがないのも、「桁違い」だからである。

だが、もし常温核融合が事実であるなら、私の「科学的常識」はひっくり返ることになる。
現在の「科学的常識」はニュートン力学であり、常温核融合の科学は量子力学ということになろう。

常温核融合では非常識にも、桁違いに低いエネルギーで元素の転換が起こる。
化学反応のレベルのエネルギーで、核反応が起こるのである。
私たちの身体運動を支える生体反応も化学反応である。
ということは、放射能の問題と私たちの健康の問題が必ずしも「桁違い」ではない可能性が皆無ではないということになる。

上記HPには、ルイ・ゲヴランというフランスの科学者が紹介されている。
「生体内における酵素やバクテリアの作用によって、一つの元素が別の元素に転換するという生物学的元素転換(Biological Transmutations)という理論を提唱したことで知られる」、らしい。
「科学的常識」に従えば生物学的元素転換理論など、「トンデモ」以外のなにものでもない。
だが常温核融合が事実なら、「トンデモ」とは言い切れなくなってしまう。
乳酸菌が放射能に効くはずがない、とは言えなくなってしまう。

乳酸菌が放射能に効く。
乳酸菌は放射能に効かないとは言えない。

この2つの言明の間には大きな隔りがある。
“効かないとは言えない”から“効く”へ科学的常識が移行する確率は、現時点では、宝くじで一等前後賞合わせて○億円を引き当てる可能性よりも低いだろう。
だが、可能性は零ではない。

“乳酸菌が放射能に効く”と捉えて、「米とぎ汁乳酸菌」を実践するのは非科学的態度である。これは議論の余地がない。
だが、“効かないとは言えない”と捉え、宝くじを買うつもりで「米とぎ汁乳酸菌」を実践することはどうか?
これも非科学的態度であると言えるのか。
科学的態度が真実を追究する姿勢であるとするなら、「時には宝くじを買う」ことを排除してはならないはずである。

宝くじは買わなければ当たらない。
これは“科学的云々”という以前に、真実なのだから。

関連記事:『米とぎ汁から乳酸菌溶液をつくる』

有効な戦術は村八分

宮台真司。


脱原発デモでなされた演説のようだが、説得力がある。
力まず、ごくあたりまえのことのように脱原発を語る。

宮台氏が提示する戦術は、原発推進議員落選運動。原発製造メーカー製品の不買運動。
要するに「村八分にせよ」と言っているわけだ。
ただし「正しい」情報に基づいて。自ら判断を下して。
そうすれば自ずと脱原発へ進んでいく、と。

宮台氏の演説の様子からは、「正しい判断から導かれる脱原発」への確信が窺い知れる。
そのことが説得力に繋がっている。
政治家に転身してくれればいいのに、と思ったりもする。


一般に、村八分はよいイメージは、ない。
その理由はおそらく、村八分には感情的だと思われているからだろう。
共同体内部の特定の人物とのコミュニケーションを排除する。
村八分へ至る原因が排除される側にあったとしても、人間そのものを排除するのは理に反している。
なぜ理に反するかというと、村八分が行なわれるような社会では、人は共同体から排除されてしまうと生活していくことが困難になると考えられているからだ。

それはどうも史実とは反するようだ。
しかし現在、村八分がそのように捉えられているのは事実だろう。

特定企業製品の不買運動は現代の村八分である。
企業への村八分と人間へのそれとを同一視してはいけないという主張もあるだろう。
だが、不買運動で企業が利潤をあげられなくなってしまうとどうなるか、考えてみるといい。
立場の弱い者から人員整理が始まることになる。

現代日本の社会構造で、企業から雇用を奪われることは直ちに生活困難へと結びついてしまう。
立場の弱い者ほどそういった状況にある。格差社会である。
特的企業への村八分は、不特定の弱者への村八分になってしまう。

だが、それでも、村八分は実行に移されなければならないと私は思う。
村八分すべき対象を的確に排除できるよう、村八分の方法を改善していかなければならないと思う。

というのも、フクシマ後の私たちは、別の不買運動も実施しなければならないからだ。
放射性物質の汚染された農産品は、たとえ生産者の生活がかかっていようと、また人生がかかっていようと、排除しなければならない。

村八分は善くない。
なぜなら、それは同調圧力に流され排除してはいけないものまで排除してしまうから。
冤罪で罰してしまうようなものであるから。

だが残念なことだが、村八分は善くないから実施すべきではないと言っていられる状況ではなくなってしまった。
それがたとえ風評であったしても、放射能汚染地域でとれた農作物は排除しなければならない。
たとえ優秀な製品を開発するメーカーであっても、原発関連企業であるならばその製品は購入してはならない。
他にどれだけ優れた政策を掲げた議員であっても、原発を推進する限りは落選に追い込まなければならない。
そうしなれば、私たち自身の生活が脅かされてしまう。
村八分は、自身の生活への脅威を排除することを目的とする集団自衛権の行使なのである。

村八分をしなければならない私たちに必要なのは、正しい情報である。
誤った情報は冤罪を生む。
ゆえに、村八分社会においては、誤った情報を発信すること自体が犯罪行為となる。
犯罪を犯す者は村八分ではなく、正統な権力によって処罰されなければならない。

放射能の臨在感

放射能には臨在感がある。

このフレーズがまず頭に浮かんだ。
で、「臨在感」という言葉がどのように定義されているのか調べてみようと思って検索をしてみたら、たくさん出てきたのが山本七平の『空気の研究』だった。

なるほど。
「空気」と放射能。

「空気」は実在しない。一方、放射線は実在する。
だから放射能に臨在感を感じるのは誤りかというと、そうでもない。
「空気」にも放射能にも共通の特徴がある。それは実在感がない、ということだ。
「空気」は実在しないのだから、実在感がないのは当たり前。
一方、放射能は実在するが、人間が持ち合わせている感覚に引っかかることはない。だから実在感が生じない。

臨在感というのは、実在感がないにも関わらず「何か」を感じてしまうこと。
科学的視点からすれば、重要なのは「何か」が実在するかどうかである。が、その視点からは臨在感は説明出来ない。こぼれ落ちる。

私たちは現在、多かれ少なかれ、放射線に怯えながら暮らしている。
圧倒的な放射能の臨在感に包まれているから。
この臨在感をもたらしたのは、いうまでもなく福島第一原発の事故である。

フクシマ以前は、放射能は特定の場所に偏在するものだった。そこに近寄りさえしなければ、それでよかった。
が、フクシマ以後、状況は一変した。放射性物質はバラ撒かれ、どこに実在してもおかしくない。実在を問題にする科学がその事実を次々に明らかにしていて、事実が明らかになる度に放射能の臨在感は増していく。

「科学的な議論」は、低線量の被曝が人体に影響があるか否か、激論を交わしている。
「科学的な議論」とは真に科学的な議論から科学を装った議論までを含むが、それが激論になるのは低線量被曝の科学的見解が一致していないからである。

「科学的議論」を行なう者は、科学的な見解が統一されれば放射能へ恐怖はなくなるだろうと考えている。
低線量被曝が人体に悪しき影響を及ぼすものであえ、良き効果をもたらすものであれ、事実が確定しさえすれば対処法も確立するから恐怖する必要はなくなる。
だが、本当にそうか。私には疑問だ。
私たちが恐怖しているのは、放射線の実在ではなく、放射能への「臨在」だからだ。
古来よりわれわれ人類は、「臨在」を畏れ敬ってきたのである。


毎日新聞のコラム欄「時代の風」に、坂村東大教授が『科学と「新時代の信仰」』と題して投稿している。
ここで為されている議論は「科学的議論」としか言いようがないものだが、「新時代の信仰」として取り上げられ疑問視されているのが、私も実践している「米のとぎ汁乳酸菌」。
坂村教授は、なぜそんなものを信じるかが理解出来ないという。

なぜ放射線ホルミシスは信じないで「米のとぎ汁乳酸菌」を信じるのか。

確かにこれは疑問であり、考えてみる余地がある。

放射線ホルミンスク効果は、科学的見解は分かれていて少なくともまだ結論は出ていない。そうした状況で、効果を断言するのはニセ科学と言ってよいだろう。
また、乳酸菌のような微生物に放射能を除去する効果があるとするのも、ニセ科学。
双方ニセ科学なのに、一方は信じられ一方は信じられない。この差異は何なのか。

この両者の差異は、実在感と臨在感の差異だということができる。
私たちがこれまで信仰してきたのは「臨在」である。しかし、フクシマ以後、私たちは「臨在」を怖れても、敬うことは出来なくなってしまった。そのかわり信仰の対象として台頭してきたのが「実在」ではないのだろうか。
つまり。信仰を支える感覚的基盤が、臨在感から実在感へと移行しつつある。
それが「新時代の信仰」なのではないのだろうか。

科学的立場すれば、いずれにせよ信仰は害毒であろう。
ものごとの客観的理解を妨げる。
だが、私はそうした立場には立たない。「生きる」ために信仰は欠かせないという立場である。
そして信仰の基盤が臨在感から実在感へと移行するのは、善きことであるように思う。

これはいまだ直観的な予想に過ぎないが、臨在感から実在感への以降は、〈システム〉から〈クラウド〉への移行を促すように思えるからだ。

« 新しい日記に行く  | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード