愚慫空論

権力者はダブルスタンダードがデフォルト

権力者とは、理念を唱えつつも、自らをその埒外に置く者。
理念によってもたらされる利益のみを得、コストを負わない者と言い換えてもよい。
つまり。〈闘争〉が基盤の民主主義においては、理念とは〈闘争〉のための武器なのである。

権力を掌握しようとする者は、理念という武器を手に透明な〈闘争〉する。
そして透明な〈闘争〉に勝利して権力者になると、次は不透明な〈闘争〉を行なって自らを理念の埒外へ置いてしまう。
権力者が〈闘争〉に勝利するのは容易である。権力者なのだから。
その容易さが、権力者を不透明な〈闘争〉へと誘惑する。
その誘惑に勝てる権力者は、ほとんどいない。
ゆえに、“絶対的な権力は絶対的に腐敗する”ことになる。

これは明らかにダブルスタンダード。だが、それこそが権力者の標準的な姿だ。歴史的事実である。

ここでいう権力者とは、社会の中枢を占めるエリートのみを指すわけではない。
〈闘争〉が基盤の民主主義においては、主権者も権力者として振る舞う。
それは多くの場合、多数による少数の圧迫という形となって現れる。

たとえば原発。
“電気は文明生活に不可欠であり、原発は電気を生むのに不可欠”という「理念」のもと、原子力発電所が建設される。
権力者である主権者は、電気によってもたらされる利益は享受するが原発によって生じるリスクは拒否する。
その結果、東京の電力供給のために、福島・新潟に原発が建設されることになる。

福島・新潟にも“地域の発展”という「理念」の元、利益は与えられる。
だが、その理念の唱える権力者は、地域の住人ではない。
もっとも大きな利益を得る者も、地域の住民ではない。

一般の電力需用者は“電力の安定供給”という「理念」にコストを支払う。
この場合の権力者は電力会社だ。「理念」は実現されるが内実は「不透明」。
「不透明」であることが許される権力者が、最大の利益を得る者になる。

他には、沖縄。
“国土防衛”“日米同盟”という「理念」のもち、少数者である沖縄に負担が押しつけられる構図。
これなど、一般国民に利益があるかどうかすら定かでないが、負担を強いられている人々は確実に存在する。
そして「不透明」なところに、最大の利益を得ている者が必ずいる。
「不透明」ゆえに定かではないが、いないはずがないということは、誰もが薄々は知っているはず。

もうひとつだけあげるとすれば、年金だろう。
これは“老後の生活の保障”という「理念」を実現すべく設計された制度だが、その制度の下で「勝ち逃げ世代」と言われる多数の利益享受者と負担のみ強いられる世代とで区分されてしまっている。
そして、その制度の上に「理念」を実現する公務員が最大の利益者として君臨している構図。

これらはみな、民主主義によって出現した現実である。


話を一般にいう権力者たちの世界へ戻そう。

新たに民主党代表に選出され、総理大臣に就任した野田氏は2つの「理念」を提示した。
それは、代表選終了後の「ノーサイド」と、総理就任会見での「泥臭く」である。

権力者の権力行使の在り方は、表向きの理念ではわからない。「不透明」なところを見なければならない。

「ノーサイド」という言葉が通用するのは、透明な〈闘争〉を行なっていた場合だ。
多数決という透明な手続きで定まった代表なのだがら「ノーサイド」は当然なのだが、敢えてこの言葉を口にしたのは「不透明」な〈闘争〉があったということを認めたことに他ならない。
ここから期待されるのは「不透明」な〈闘争〉の切り上げであるが、しかし、〈闘争〉打ち切りは誰が利益になるのか考えなければならない。

「泥臭く」というのは、さらに疑わしい。“理念を唱えつつ、自らは理念の埒外に置く”という権力者の標準からすれば、「泥臭く」は国民にのみ押しつけるための方便のように捉えられる。野田総理が財務省の利益代弁者であると見なされていることが、この疑念を強くする。

今回の代表選の真相は、小沢vs反小沢という構図。小沢は、民主党執行部や検察、マスメディアという権力者たちに「不透明」な〈闘争〉を仕掛けられてきた。それは、小沢が彼らの「不透明」を「透明化」しようとする者(だとみなされた)からである。その構図に上にたったとき、野田代表の「ノーサイド」が何を意味するのか。「不透明」な〈闘争〉を止めよという意味は、「不透明」を「透明化」しようとする民主主義的〈闘争〉をやめよう、という呼びかけに他ならないのではないか。

もしそれが実現すれば、最大の利益を享受するのは、「不透明」な権力を行使し続けている既得権益者である。

つまり。「ノーサイド」が実現すると、一般国民のみ「泥臭く」なってしまうという可能性が高いということだ。

不透明な権力闘争

議会での結論は多数決で決する。
これが〈闘争〉が基本原理であり戦争の代替物である民主主義での「平和条約」の形である。
では、なぜ多数決が「平和条約」たりうるのか。
戦争での勝敗と同様に誰にでも直観的に理解出来るから。明瞭この上なく「透明」だから。

つまり。民主主義が「平和条約」であるための条件は「透明化」である。

しかし。原理原則は単純だが、単純にいかないのは世の常。
多数決で結果が出たにも関わらず、「遺恨が残る」といったようなことがしばしば起こる。
それは、その過程が「不透明」だから。

民主主義が権力闘争である。
にもかかわらず、民主主義国家であるはずの日本では、権力闘争というだけで忌避される。
なぜか。権力闘争は「不透明」に行なわれるという「刷り込み」がなされているから。
その主犯はもちろん、マスメディアにある。

民主主義の原理はごく単純なものだが、社会は複雑だ。複雑な社会はなかなか見通しが効かず、「不透明」なものになりがち。これは原理上致し方ないことである。ジャーナリズムの役割は、社会の複雑さを整理して見通しを良くし「透明化」することにある。国民は見通しのよい「透明化」された権力闘争を観戦することで、多数決で決着がつけられる「平和条約」を承認することができるようになる。

ところが、日本のマスメディアは「透明化」の役割を果していない。国民も期待しているとはいえない。


そんな日本のマスメディアの代表的存在が、昨日の民主党代表選という権力闘争において、「不透明」な役割を演じた。

<民主代表選>馬淵氏の対応、NHKが誤報 決選投票中継で

毎日新聞 8月29日(月)23時7分配信
 NHKは29日、民主党代表選の決選投票の中継で、馬淵澄夫前国土交通相の対応について「海江田万里経済産業相以外の候補」を支援すると誤って伝え、後に「海江田氏に投票」と訂正した。馬淵氏は代表選後、「海江田氏に投票した」と記者団に語っており、決選投票の結果に影響した可能性がある。

 NHKは同日午前11時から民主党代表選を生中継。決選投票の開始後、アナウンサーが「馬淵前国交相は今日午前の出陣式で、決選投票になった場合は海江田経産相以外の候補者に投票するよう陣営に呼びかけた」と実況した。

 その後、同じ番組の中で政治部記者が「正しくは馬淵さんが『増税すべきでなく、決選投票になった場合は、私の政策に近い海江田さんに投票していきたい』と表明した」と放送内容を訂正した。

 NHK広報局は「馬淵氏の決選投票への対応については投票開始後に伝えたが、その後、取材情報に基づいて改めて馬淵氏の対応を伝えた」とコメントした。


もともと、今回の民主党代表選はその構図からして「不透明」だった。対決の主軸は小沢vs反小沢。マスメディアもここだけは「透明化」していていたが、そこへ至った過程は「透明化」せぬまま。なぜ小沢が海江田支持という「不透明」な行動に出たのか、なぜ小沢が党員資格停止となったのか、なぜ小沢やその秘書達が刑事訴追を受けることになったのか、民主党代表選を「不透明」な構図へと導いてしまったその過程をなんら「透明化」することはなかった。ただ、権力闘争を「不透明」と喧伝するだけ。

そして、このNHKの「不透明」な挙動。これがどういった意図を持ってなされたのか、はたまた格別な意図はなかったのかは「不透明」だけれども、もともと「不透明」な民主党代表選をさらに「不透明」なものにしてしまったことは間違いない。そしてNHKの「不透明」な挙動は、NHK自身も「不透明」な権力闘争に参画している可能性を浮かび上がらせてしまう。

これら「不透明」な過程を経て、明瞭になった結論はなにか。再度の原発推進と増税であろう。不透明な社会の重圧感がますます高まってゆくことは明らかだ。

では、どうすれば?
何もしないという選択をするか?
〈闘争〉をするという選択をするか?
別の土俵を選ぶという選択をするか?

政策論争なき政策争い

民主党代表選、候補者が出揃ったらしい。

構図は結局のところ、小沢vs反小沢。これはマスメディアも盛んに報道するところ。
が、いつものことだが、マスメディアは肝心なことを報道しない。
この対立構図の本質は「政策を巡っての争いである」ということ。

マスメディアは、この対立を自民党時代の派閥争いと同一視する。
そして小沢を悪者に仕立てようと、「各種世論調査では前原人気」などと宣伝する。

たしかに、政策争いであるにもかかわらず、政策論争は一切ない。
なぜか。その理由は実に簡単。
民主党が政権交代を成し遂げた09年衆院選時のマニフェスト、これを守るか否かの争いだから。
つまり、指標となる政策はもうすでにはっきりしている。
はっきりしているから政策論争の必要がないだけ。
こんな簡単なことをマスメディアは報道しない。

とはいえ、派閥争いの一面は確かにある。
その原因は、政党としての明確な政策をなんらの政策論争もなく放棄し、小沢排除の論理のみで政権運営が進められていたからだ。マニフェスト放棄は単に小沢排除の副産物でしかない。
ゆえに、小沢陣営がマニフェスト回帰と明確に政策を掲げるほどに、派閥勢力争いの構図へと帰結してしまう。

が、民主主義とは本来そういったもの。政策争いと勢力争いが同一の構造へと帰結するものである。
ただ、それは政策論争を通じて国民に明示されなければならない。でなければ民主主義ではない。
小沢が主導した民主党はそれをやり、政権交代を果した。
菅・仙石・岡田を中心とするグループは、政策論争なしに勢力争いをした。反民主主義だ。
そして前原は、この路線を継承すると目されている。

すなわち、今回の民主党代表選は、民主主義vs反民主主義の勢力争いなのである。
それを反民主主義側に立ってマスメディアが応援している。
これでは政策論争などする余地がないのは当然の理であろう。

みんな「土人」にしてしまえ

『逝きし世の面影』さんに書き込んだコメントをお持ち帰り。

『NHK「核を求めた日本」原子力発電は核機微技術の確保目的』

『何の為の原子力発電だったのか』

自民党政調会長で元防衛大臣の石破茂がMBSの『報道ステーション』で自民党が『脱原発』に反対する理由として、『日本は絶対に核兵器を持つべきでない』とことわった上で、原発を持つことは一年以内に核兵器を開発できるという核の機微技術の確保による『抑止力』を意味し、剣道の寸止めのようなものであると、正直にも自民党の恐るべき内幕を説明している。

『石破と石原慎太郎との明確な違い』

報道ステーションの石破発言ですが、 機微技術の保持との原発の存在理由を述べる前に、『日本は絶対に核武装するべきでない』との前提発言を行っている。
ですからタモ神とか石原慎太郎など夢想的な右翼の現実無視の核武装論とは一線を画している事実を、護憲派が今のように完璧に無視するべきではないでしょう。
日本の原発ですが、経済性は真っ赤な嘘。
安全性に至っては正反対である事実は今では誰でもが知っている。
それなら何故、とんでもなく危険で天文学的な損害が出る原発を日本国が国策として何十年も推進していたかの謎ですが、 これは石破発言以外には無いのです。
客観的に正しい科学的事実は、善悪とは無関係に『事実である』と認める以外の選択肢は無いことに皆さんは余りにも無頓着過ぎないでしょうか。
石破発言ですが、『悪い』ことは事実ですが、同時に恐ろしいことではありますが『正しい』発言なのです。


以上、宗純さんの記事の主要部分。で、以下は私のコメント。

理性は力があってこそ

国家として自主独立を求めるのであるなら「核を求める」ことはどう考えても「正しい」ことです。日本国は平和国家を謳っていますけれども、「核を求める」ことと理念としての平和を謳うことは必ずしも矛盾しません。問題は、「核のある平和」か「核のない平和」かの違いにだけ。
理念を実現するの理性です。闘争が機軸の民主主義を議会という戦争代償行為で平和的に統合するのに、主軸となるのは理性をおいてない。そして、理性が万全でありさえすれば、核を所持していたところで何ら問題はない。使わなければよいのですから。

使わなければよいなら、所持しなければよい。確かにそれは理屈です。ですが空論です。核は力なのです。そして理性は力があってこそ意味がある。力を制御できるからこそ理性に意味があるのです。ですから、最高に理性的な国家とは最高の力である核を完全にコントロール出来る国家。そういった意味では石破議員が想定する国家こそが、実はもっとも理性的な平和国家。武力の放棄を謳った平和憲法を掲げ、最高の力である核を平和利用する。が、一方で、いざ有事というときのためにいつでも核を軍事転用するための備えは怠らない。民主主義国家としては完璧です。

ですが日本はその道を歩まなかった。国民の反対もあり歩もうにも歩めなかったという現実もあるでしょうが、それよりも重大な事実は、核を求めた権力者自己の保身が完全民主主義国家への道を歪めたことです。核施設は東京に、それも皇居に作るべきだった。天皇には核の守護神となってもらうべきだった。核という巨大な力を制御するには、理性が常に最高度の緊張感をもって保たれたければならない。すなわち臨戦態勢でなければならない。平和でかつ臨戦態勢であるという矛盾を実現するには、つねに自身に刃をむける「ダモクレスの剣」が必要。それは核施設を東京へ建設することで、容易に実現できたのです。

しかし、権力者はその道を選ばなかった。「原子力は安全」などと嘘をついた。国家よりも自身の保身を優先したわけです。石破議員も、なるほど主張は正しいが、所詮は口先だけ。自身は権力の果実だけを味わい、ゴミは国民へ押しつけたい。「正しい主張」の合間からその魂胆が透けて見えてしまいます。



このコメントは敢えてラディカルに「正しい」ことを書いたつもり。だが、これを「正しい」と感じるかどうかは別問題。護憲派のみならずとも、大抵の人は「正しい」と感じないだろう。私自身も「正しい」とは感じていない。たとえ石破議員のような自己保身優先の典型的な「悪の権力者」ではなく、「正義の権力者」が権力を握って完全な理想民主主義国家を建設したとしても、そんな「正しい」国家に私は住みたいとは思わない。

だが民主主義が〈闘争〉であり、「理性は力あってこそ」という「前提」が「正しい」のならば、この帰結もまた「正しい」はずだ。それを「正しい」と感じないとするならば、「前提」を「正しい」と感じないということ。そして、「感じない」ということは、〈闘争〉が、理性が誤っているということを意味しているわけではない。それはそれで「正しい」。ただ私たち日本人は、実はその「正しい」は採用していない、あるいは、採用したとしても部分的にしか採用しないのだ、ということを意味しているだけのこと。

では、私たちは何を「正しい」として採用しているのか。私が主張するのは〈折い合い〉である。民主主義を「正しく」主張しているつもりの日本人でも、結局は無意識のうちに〈折り合い〉を機軸に物事を考えてしまう。これは文化の力だと言っていい。日本の民主主義が歪んだものにしかならないのは、私たちの感性を支えている日本文化の力ゆえである。

そのように大づかみに捉えるなら、私たちの大きな選択肢もまた見えてくる。機軸に据えるべきは自身を支えている感性以外にありえない。日本の民主主義を歪んでいると判定するのはいいが、その判定を日本は歪んでいる、あるいは未熟であるという判断へと繋げてしまうのは、自身の感性の否定以外のなにものでもない。個々の人間であれ民族であれ、自身の感性を否定して創造的であることはできない。日本の民主主義が歪んでいるとするのならば、目指す方向性は日本に合った民主主義の創造であるはずだ。

日本人は辺境の民であり、日本文化は辺境の文化である。常により大きな文明の影響を受けてきたが、かといってその文化に染まりきってしまうこともなかった。それは「造りかえる力」を働かせて、日本に合うように創造的に造りかえてきたからだ。政治制度も、風俗も、慣習も、宗教ですら造りかえてしまう。孔子も悉達多も泥烏須も、日本では「土人」になってしまう。ならば、ルソーもホッブズもモンテスキューも、ケインズもマルクスもハイエクも、みんな「土人」にしてしまえばよいというだけのことだ。

〈折り合い〉は魔法

前エントリーに続いて、〈折り合い〉について。前回は〈折り合い〉の極端な例を紹介したので、今回は身近な例を。
経済学の船出

たとえば私が大学の教室で授業をしている最中に、『無縁・公界・楽』という本を学生に紹介したいと思ったとする。ところがその本は私の研究室の本棚にある。一つの方法は、私が自分で歩いて研究室まで行って、ドアを開け、本棚を探して持ってくるという方法である。
 しかし、魔法を使って教室にいながらにして本を手に入れることもできる。どうするのかというと、誰か適当な学生に向かって、作法に従って正しく「呪文」を唱えるのである。

 「私の部屋へ行って、『無縁・公界・楽』という本をとってきてくれませんか」

というような呪文である。するとあら不思議、教室にいながら望みの本を手に入れることができる。こんなものは魔法ではない、と思われるかもしれないが、魔法を「呪文を唱えるほかは何もしないで、自分の希望を実現する方法」と定義するなら、まぎれもなく先の方法は魔法である。
 大切なことは、本を取るように頼んだ私は、この場合、何らの暴力も権力も使っておらず、学生に強制していないという点である。学生もこの場合、強制されたという思いを抱くこともなく、気持ちよく進んでとりにいってくれる。
 もちろん、呪文の唱え方が下手だったり、私が日頃から根性の悪い魔法使いとして知られていたりすれば、いくら正しく呪文を唱えたつもりでも、学生は圧力を感じ、渋々とりに行くことになる。その場合には魔法は失敗であり、強制力が使われている。


上の例が「魔法」だと理解していただけたなら、「魔法」は〈折り合い〉であるということも直観的に理解していただけることと思う。

(引用させていただいた『経済学の船出』では、「魔法」は「呪縛=ハラスメント」と対置して説明されている。そして『論語』の思想を援用して「魔法」とは「礼」であるというが、大枠は網野善彦無縁論で、ここから貨幣とは何かを解き明かしていく。その議論は大変興味深いので、是非ともご覧になっていただきたい。)

この引用だけで本エントリーの目的は達しているが、もう少しだけ、直観的に話を進めてみる。

「魔法」は、どうやって伝播するのか。それは「空気」によってであろう。
「空気」とは、主成分が窒素と酸素の混合物である気体のことではない。
日本人を支配しているといわれる「雰囲気」のこと。

「魔法」は日本人だけが使うものではない。人間ならば誰もが使うことができるもの。
しかし、日本では、他の国々よりも「魔法」の有効範囲は広い。
日本は「空気」が支配する国であるということは、日本は「魔法」の国であるということと同義である。

日本においては、「ビジネス」の相手(「敵」)にですら「魔法」が通じてしまう。
ここでいう「ビジネス」とは商取引のことだけを指すのではない。
〈システム〉でのやりとり全てが「ビジネス」。
「ビジネス」と「魔法」の一体化は、社会の成員はみな「ビジネス」〈システム〉へと参加しなければならないという「空気」を生み、その結果として、もともとの「魔法」の場である共同体(ムラ社会)を圧迫、解体してしまった。
日本は未だムラ社会的気質を多く残してはいるのが、それは変質してしまったものである。

ムラ社会で強いと言われる「同調圧力」は、「魔法」〈折り合い〉ではない。
魔法が失敗した強制であり、呪縛・ハラスメントである。
日本のムラ社会には長い歴史があるが、それが呪縛の歴史であったはずはない。
人間は呪縛のなかで長く生きることなど、絶対に不可能だ。

日本のムラ社会が長く存続してきたという事実そのものが、ムラが「魔法」が正しく機能していた社会であるということの証明である。
そんな単純な事実を多くの人が見落としている。

小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉

私はここのところ、「折り合い」という言葉に惹かれている。

民主主義は闘争の果ての「平和条約締結」。この「平和条約」も「折り合い」である。
ただし、これは大きな「折り合い」だ。闘争も「大きな折り合い」であるという思想である。

〈世界〉は調和している。洋の東西を問わず、だれもがそのように考えている。
調和は「折り合い」。つまり〈世界〉は最終的には「折り合い」である。

ここで問うてみたいのは、「折り合い」の中身である。
「折り合い」の中身は闘争か。このように考えるのが「大きな折り合い」の思想だ。
対して、「折り合い」の中身もまた「折り合い」である、と考えることも出来る。
大きな「折り合い」は小さな「折り合い」から出来ているという思想。
これを「小さな折り合い」の思想と呼ぼう。

(以下「小さな折り合い」を〈折り合い〉、それに併せて闘争も〈闘争〉と表記する)。

現代社会で支配的なのは「大きな折り合い」の思想である。
民主主義然り。市場原理然り。自然観も「大きな折り合い」に拠っている。
「大きな折り合い」では〈個〉を〈闘争〉と定義づける。
「小さな折り合い」では、〈個〉もまた〈折り合い〉となる。

風の谷のナウシカ 〈個〉は〈闘争〉なのか〈折り合い〉なのか。
〈個〉は〈闘争〉であるべきなのか〈折り合い〉であるべきなのか。

私はここで、そのようなことを問いたいと考えているわけではない。
それ以前に、〈個〉が〈折り合い〉であるというのがどういったことなのか。「大きな折り合い」に思想が支配的になり、私たちは「小さな折り合い」の思想を見失っていると思う。
だから、〈折り合い〉である〈個〉とはどのようなものなのかを示してみたいと思う。それは「王蟲」である。

物語の中盤。戦争を始めた人間達は、戦争に勝つため、人類の生存を根底から脅かしている「瘴気」を兵器として使用する。 そしてその兵器開発の一環として生み出されたのが「粘菌」である。粘菌は突然変異を起こし、暴走する。これがナウシカが予知していた「大海嘯」だ。腐海の蟲たちは、粘菌を迎え撃つ。

ナウシカ00

ナウシカは粘菌を追いかける。そこで王蟲と再び出会う。

ナウシカ02

ここではまだ、ナウシカは自らを〈闘争〉と考えている。ゆえに王蟲も〈闘争〉と考えている。だから、粘菌には負けるいう理由で、ナウシカにとってかけがえのない存在である王蟲に帰れという。王蟲もまた、ナウシカを守るために帰れていうのだと思っている。

ナウシカはかけがえのない者の死を、自らの無力を悲嘆する。が、悲嘆に折れてしまいはしない。

ナウシカ04
ナウシカ06

かつて「引き出したもの」を、引き出したが意味がわからなかったものの「意味」を、ここで発見する。

ナウシカ07

ナウシカは、王蟲をはじめとする蟲たちが〈折り合い〉として生きていることを発見した。
森が「小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉」であるということを発見した。

ナウシカ14

そこでナウシカは、自らも〈折り合い〉であることを願望し、粘菌と蟲たちの〈折り合い〉のなかへ合流しようとする。
だがその願いは、果されなかった。王蟲に許されなかった。ナウシカは、人間社会に〈折り合い〉をもたらす使命を帯びた者として、人間社会に帰還していくことになる。


『ナウシカ』において、王蟲は〈折り合い〉への意志をもつ〈個〉として規定されいる。
だが、『ナウシカ』は架空の物語である。王蟲は実在しない。だが、王蟲が実在しないことは〈折り合い〉への意志を持つ〈個〉が存在しえないということを意味するわけではない。

実在の人間を除く生物は、〈個〉を持たないと考えてよいだろう。
〈個〉をもたない生命たちの〈世界〉は、ゆえに、〈闘争〉でもなく〈折り合い〉でもない。
〈個〉をもつ人間がどのように見るか、その「見方」の問題である。

食物連鎖ピラミッドという概念がある。
上位の者は下位の者を食物とするが、上位は下位と比較すると「生命量」は圧倒的に少数。
〈闘争〉と「生命量」のバランスで「調和=大きな折り合い」がとれていると考えるものだ。

だが、生物はほんとうに〈闘争〉をしているのか。
下位の種が多数の子を生むのは、種保存のための「戦略」なのか。
それは私たちの「見方」を反映したものでしかないだろう。

ならば〈折り合い〉を機軸とした「見方」から、世界観を組み立てることも可能なはずだ。
民主主義も市場原理といった社会統治の原理も、〈闘争〉ではなく〈折り合い〉を機軸にすることも可能なはずである。

【追記】

〈闘争〉〈折り合い〉は、『るいネット』で「私権原理」「共認原理」と呼ばれている概念と同じなのかもしれない。

民主主義を理解していない民主主義者

この手の批判記事は書きたくはない――とか言いながら、日本人が民主主義を理解していない、という別の実例を。

media debugger:『小出裕章氏「子どもを守るために大人は食べてください」への抗議』

安全な食べものなんてもうないから
子どもを守るために大人は食べてください

食べ物への汚染は永遠につづく――。
小出裕章さんはこう言った。
今、私たち大人に残された選択肢とは、“食べる”ことだ。


 これは『週刊金曜日』最新号(6月10日号)の特集「放射能と食」に掲載された小出裕章氏のインタビュー記事である。周知のように、小出氏は原子力工学の専門家として、約40年にわたって孤立無援に近い状況で反原発の立場を貫いてきた良心的な科学者であり、私も敬意を持っている。けれども――



本題へ入る前に、まず私自身の小出発言(大人はあきらめて食べてください)へのスタンスを明らかにしておこう。私は小出氏の主張には賛同できない。素朴に、食べたくないものは食べたくないから。だから、というわけではないけれども、media debugger氏の小出氏批判の論理に私は賛同する。

にもかかわらず、私はmedia debugger氏をここで民主主義の精神を理解していない者として批判してみたいと思う。批判点はここ、一点。

 小出氏の「どんなに放射能で汚染されていても」「大人はあきらめて食べてください」という主張は、小出氏の意図はどうあれ、畢竟、東電や政府の責任逃れを追認し、命の格差の固定化を容認する言説として利用されるだろうし、実際に利用されていると思う。


小出氏はいうまでなく科学者である。では、「大人はあきらめて食べてください」発言は、科学者としての発言か? 否。 media debugger氏が「贖罪意識」と指摘しているとおり、この発言は科学者としての枠を超えた、人間小出裕章の発言であると受け取るのが妥当なところであろう。では、「人間の発言」はどう受け取るべきか。その意図を汲み取るべき。ごく当たり前の話だ。

科学の世界では前提があって仮説を組み立て、仮説を検証するという作業を行なう。検証の結果、仮説が誤りなら前提も誤り。
だが、人間の世界は異なる。仮説から前提を検証することは不可能。ゆえに、科学的な態度とはべつの構えで接しなければならない。これもごく当たり前の話。

前エントリーで私は民主主義を「平和条約締結」だと比喩的に表現した。「平和条約締結」という行為に際して、もっとも大切なことは何か。いうまでもなく、当事者の「平和条約締結」への意志だ。
ただ、現実の問題としてはその「意志」がうまく表現できないこともある。戦闘中止を要請するために白旗を揚げたつもりが、薄汚れて白く見えなかった。笑えない話だが、実際にありそうな話でもある。そして私は、小出氏の発言は「白く見えなかった 白旗」だと解釈する。もしくは次のように言い換えてもいい。小出氏の提出した「平和条約」の内容は承諾できない、と。

このように解釈できるならば、問題の焦点は「白く見えない白旗」は白旗か否か? という次元へ移る。media debugger氏は科学的な態度から「白く見えない白旗」を白旗ではないと判断する。そしてそれは、科学的でない判断から白旗ではないと判断する政府・東電と、判断の根拠は違えども同じ判断なのである。さらにmedia debugger氏は、立場の異なるmedia debugger氏と東電・政府の判断が一致してしまった責を、media debugger氏と立場を同じくするであろう小出氏に求める。私はmedia debugger氏のこうした態度は、media debugger氏の論法を用いるなら、「平和条約」を締結を阻害する者である、と言わざるを得ない。

しかし実際のところは、小出氏が福島第一原発事故によって放出された放射性物質へのより良い対処法を意志しているのと同様に、media debugger氏も民主主義という「平和条約」の締結を意志している者であろう。にもかかわらず、自らの手で同志との連携を断ち切らんとする振る舞い。西田哲学的に「絶対同一的自己矛盾」とでも呼べばいいだろうか。

私が前エントリーで示したのは、民主主義の基礎は闘争であり、そのことを理解出来ていない者の具体例だった。今回の例は、闘争が民主主義というところまでは理解出来ているのかもしれない。だがその先、「平和条約」の意味は理解出来ていないと言うべきだろう。正しい闘争をし、過つ者を殲滅することが民主主義だと理解しているのだろう。「少数意見尊重」の精神が見事なほどに抜け落ちている。

しかし、それでは闘争はいつまでも終わらない。「白くない白旗」を白旗でないと判断されれば、闘争を継続するしか残された道はないではない。小出氏の意図を無視しての発言撤回は戦闘継続を意図していると受け取られても仕方がないし、それは小出・media debugger両氏とは相容れない政府・東電を利することになる。

国会で泣く大臣 電車で化粧をする女性

返す返すも日本という国は、本当に平和な国だ。

少し古いニュースだが、海江田経産相が国会で泣いてしまうという事件があった。
なぜ泣いたかはよく知らないが、伝え聞くところでは、その理由は自らの境遇なのだという。

大の男が...、などというつもりはない。男だから泣いてはダメ、なんて時代遅れ。
大臣だって人間だ。公衆の前で泣いたっていい。

が、海江田大臣は、民主主義国家の大臣(という呼称はおかしいんだけど)としては失格である。
なぜなら、国会は戦場だから。海江田大臣の涙は無防備な涙。
戦場で無防備な姿を晒すのは、愚か者のすることだ。

だが、海江田大臣だけを責めるのは酷というものだろう。
だいたい、日本人は国会を銃弾の飛び交わない戦場だとは考えていない。
民主主義の基礎は闘争だということを理解していない。

その不理解はしかし、日本人の長所でもある。
日本人は潜在的に、他人を「敵」と見なさない。自己に対する脅威だと思わない。
それゆえに、他人を無視することができる。必要以上に友好的な態度をとらなくてもよい。

日本はよく「安心社会」だと言われる。対して欧米は「信頼社会」。
他人に対する信頼する度合いは、日本人に比べ欧米人の方が高いという。

それはそうだろう。他人は潜在的に「敵」なのだから。
「敵」と共存するには、友好的に振る舞るまい、「平和条約」を締結しなければならない。
「平和条約」を締結するには、相手を信頼しなければならない。

欧米において、社会とは「平和条約」を締結する「場」である。
そして民主主義は、「平和条約」締結のための仕組みであり理念。
多数決の原理と少数意見の尊重がその両輪となっている。


現在、英国では若者の大規模な暴動が大きな問題となっている。
発端は、黒人男性を警官が射殺したことにあったという。
ネットによれば、暴徒の主要メンバーは

「警察に敵意を抱くコミュニティで育ち、疎外され、様々な社会的権利を剥奪された若年層の住民」

だという。

英国は紛れもなく先進国である。にもかかわらず、この状況。日本では考えられない。
確かに近年、特に若年層を中心に社会から疎外される人々は増えてきている。
しかし。
警察に敵意を抱く、ということは社会全体に敵対意識を持っていると考えてよいだろうが、
このようなコミュニティが日本に存在するというようなことは、ちょっと想像できない。

民主主義とは、こうした「敵」と「平和条約」を結ぼうという理念であり営為である。
それは確かに尊い。だが重大な欠点もある。
他人は潜在的に「敵」であるという点だ。

翻って日本はどうか。
日本人にとって、他人は「敵」ではない。
ゆえに、社会が機能しないような非常事態であっても、日本人は秩序を守る。
いや、「秩序を守る」といった理性的行動を採るのではない。
自らの安心を確保するために、利己的に行動するだけのことだ。
緊急時には、安心を確保するために「味方」を求める。
「敵」ではないのだから、容易に「味方」になることができる。

それが平常時では、無視という行動に繋がる。
顕著な例が、電車の中で化粧をする女性。
彼女がそのように無防備な姿を晒せるのは、そこが安心できる空間だからである。
彼女は「敵」はいないと確信している。
その確信は、国会で涙を流した大臣と同じものであろう。

「敵」がいないと確信できる。これは素晴らしいことだ。
だが、残念ながら、それでは民主主義はうまく機能しない。
民主主義は「平和条約」である。
「敵」でもない者と「平和条約」を締結する者はいない。
仮に結んだとしても、それが真剣なものになるはずがない。

皮肉なことだが、日本は平和な国であるがゆえに民主主義がうまく機能しない。

再度、〈システム〉と〈クラウド〉

再度、〈システム〉と〈クラウド〉について語ってみる。

まず、10の「要素」から成り立つ〈世界〉を想定してみる。

図1 クラウド 世界

10の「要素」から成り立つ〈世界〉の「関係」の数は、45個存在する。○が「要素」。線が「関係」になる。

図2クラウド クラウド


端的に、図2が〈クラウド〉である。
では〈システム〉はどのような形になるのか。

図3クラウド ハブ


これはハブ&スポーク型。一点集中型もある。

図4クラウド ハブ


図2〈クラウド〉は、各々の「要素」が直接に「関係」している。そのために「関係」の数が多い。図3図4の〈システム〉は、「要素」が構造化している。ために「関係」の数は少ない。

〈システム〉の利点は効率である。「関係」の数が少ない分だけ〈世界〉が把握しやすい。少ない情報処理能力で〈世界〉が体系化できる。それは〈世界〉が予め構造化されているからである。
対して〈クラウド〉は「要素」と「関係」が単に羅列されてあるだけのカオスである。


複雑さを生きる 今日、ネット空間が〈クラウド〉と呼ばれるようになったのは、混沌としたネット空間から何らかの「関係=意味」を引き出すことが出来るようになったからだ。それは情報処理能力が格段に向上した結果、超強力な検索機能が実現したからである。

が、人間は、もともとカオスのなかから「意味」を引き出す能力を備えている。〈クラウド〉とは、人間が「意味」を引き出すことが出来るカオスのことである。

人間に備わっている「意味」を引き出す能力は、仏教の「空」の思想と関連している。

  ひきよせてむすべは柴の庵にてとくればもとの野原なりけり

野原は〈クラウド〉。庵が「意味」で、柴は「要素」に相当する。

ここで重要なのは順序だ。まず〈クラウド〉が存在する。引き寄せる「主体」がいる。その上で「関係=意味」は「要素」に先立つ。ここでは、〈世界〉は予め構造化されてはいない。「主体」が引き寄せて始めて、「要素」が浮かび上がり〈世界〉は構造化する。

(「主体」とは〈世界〉の中の「要素」のひとつ。端的に「私」のこと)。

Googleでの検索を思い浮かべてみるといい。われわれはまず検索ワード(意味)を入力する。そしてボタンをクリックすると、コンテンツ(要素)が引き出されてくるのである。

〈システム世界〉と〈クラウド世界〉は、同じ〈世界〉であっても別世界である。たとえ〈世界〉を構成する「要素」がまったく同一であったとしても、「主体」に向かって立ち現れる〈世界〉の姿はまったく異なる。この差異は当然、〈世界〉へ接する「主体」の世界観および自己確立に影響を及ぼす。

「要素」が「主体」に先立つ〈システム〉では、〈世界〉は構造化されていなければならない。構造化されていない〈世界〉はカオスでありなんらの「意味」も持たないからである。〈システム世界〉での自己確立は、予め構造化された〈世界〉のなかで、「主体」をどこへ位置づけるかという問題になる。つまり、地図を俯瞰して自宅を発見するようなものであり、水平的である。

〈クラウド世界〉での自己確立は、「主体」が引き出した「意味」のアーカイブが自己の本体である。〈世界〉は、このアーカイブによって構造化される。アーカイブとはもちろん「主体」が辿ってきた道程を指すわけだから、自己探求を行なうならば道程を遡ることになり、垂直的なる。

水平的・垂直的は前々回を参照。
また、引き出す営為を私は〈術〉といい、発見し構造化することを〈学〉と呼ぶ → 『〈学〉と〈術〉』

最後に言葉について触れておこう。

〈クラウド〉のなかで垂直的に自己確立した「主体」が発する自己についての言葉は、主に「表出」になる。「蠱惑的」である。
対して〈システム〉のなかで水平的に確立された自己の言葉は「表現」に向かう。「判断的」だ。


蠱物としての言葉 「蠱惑的」「判断的」については、以下のブログ記事をどうぞ。

 光るナス:『「蠱惑的」「判断的」シリーズ』

もうひとつ。

 雑念する「からだ」:『新刊本「整体的子育て2」』

こちらで紹介されている「世界を動詞で語る」という方法論。詳しくはわからないが、たぶん「〈クラウド〉から引き出す」ことを言っているのだろうと想像する。近いうちに確認しておきたい。

日本人の劣化と民主主義

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』が議論を呼んでいるようだ。

私の理解力では内田氏が何を言いたいのかよくわかりかねる部分もある。だから、当たっているかどうかは自身がないが、同じような内容の文章をつい最近、読んだような気がする。

『反原発vs.原発維持 単線的な2項対立を乗り越え、社会の「総リスク」を減らす視点で議論をしよう』
 ――ジャーナリスト(恵泉女学園大学教授) 武田徹:ダイアモンド・オンライン


内田氏はきっと、原発のことだけを指して言っているわけではないと仰せになるだろう。だが、昨今の状況から主に原子力にまつわることであると言ってもそう外れてはいないだろうし、「劣化」は「単線的な二項対立」だろうし、「言論の自由という原理」もその目的はと考えると「社会の総リスクを減らす」としてまず、よかろう。

内田氏の方はよくわからないところもあるが、武田氏の主張は私にもわかりやすい。「単線的二項対立」は褒められたものではない。乗り越えられなければならない。が、単純に「単線的二項対立」は良くないものなのか。私は素朴に疑問を持っている。いや、それどころか、「単線的二項対立」こそが民主主義国家日本に決定的に足りないものなのではないか、と思っている。

民主主義という制度の基盤にあるのが「単線的二項対立」である。だいたい議会制民主主義というものが戦争の代替物なのである。戦争は「単線的二項対立」のもっとも端的に表れであるし、民主主義はその端的な表れを避けるために代替物。代替物という表現が悪ければ知恵と言い換えてもいいが、根幹に「単線的二項対立」があることには変わりはない。確かにそれは乗り越えなければならないものだが、乗り越えるよりも先にまず基盤が盤石でないことには始まらない。日本は、幸か不幸か、この基盤が盤石とは到底言えそうにない。「和を以て貴しとなす」お国柄。



「オープンで公正・客観的・正確な議論をし結論を出す習慣を日本人自身が身につけるべき」
「日本の会議は、自民党も民主党も、絶対に多数決をしない」
「自民党ではどうしても意見がまとまらない場合、反対者に欠席してもらって全会一致ということにしてしまう。民主党は結すらとらない」
「民主主義というものを理解していない」

そんな日本で「単線的二項対立」が可視化されることは、それは一方では「劣化」ではあるのだけれども、民主主義を根付かせるという方向性では良きことなのかもしれない。社会が進歩してゆく過程というわけだ。

 『進歩する社会は平等ではない』(月明飛錫)

マスメディアが凋落し、その他のメディアが存在感を高め、ソーシャルメディアが普及していくなかで、磯崎氏のようにポジティブな側面を見る人は少数派で、ネガティブな利用の仕方をしてしまう人が出てきているのかもしれない。幸いなことにソーシャルメディアの金銭的コストは低いので、貧富の差がそのまま格差になることはないが、情報に対する認識の格差が、この差を生じさせることになるのだろう。そして、いま情報の階層化、あるいは情報格差が生じるのは、社会が進むにあたって避けられない段階なのではないかと思う。

それを是正するための啓蒙活動は必要になると思うけれど、自分の発信する情報の価値について吟味したほうが、プラスのフィードバックがもたらされるという認識が広がれば、それが広まっていくのではないだろうか。

人間は「折り合い」を重ねながら生きていくものだ。「折り合う力」こそが生命力といってもいいかもしれない。「単線的二項対立」が呪詛になるのは「折り合い」を阻害するがゆえに、である。人間には、自らの生命力を発揮するため、「存在しないもの」とさえも折り合うことができる。そうした能力を備えている。

『「存在しないもの」との折り合いのつけ方について』(内田樹の研究室) 

が、「折り合い」のマナーは文化によって異なる。日本人のマナーは「小さな折り合い」である。対して民主主義に必要なマナーは「大きな折り合い」。「小さな折り合い」は「大きな折り合い」のために棄てられなければならない。「小さな折り合い」を棄てることが「単線的二項対立」なのである。「小さな折り合い」は超越的な「折り合い」である絶対神に捧げられなけれならない。そうした態度が民主主義や言論の自由を支えている。

このように見るならば、日本人を民主主義的であれと啓蒙する態度そのものが、実は呪詛でありハラスメントなのである。何千年にもわたって日本人が培ってきた生命力の引き出し方――「小さな折り合い」――を棄てよと矯正するものなのだから。たとえその先に「大きな折り合い」があるにせよ、私たちは絶対神に帰依することはまず不可能だろう。かといって、人間が作る国家といったようなものを「折り合い」の担保にすることは危険極まりない。「折り合い」の最終的な担保は「存在しないもの」でなければならない。

結論。日本人を劣化させてきた原因は、民主主義という呪詛なのである。ネット発言の劣化は、日本人劣化がソーシャルメディアの発達によって可視化された結果に過ぎない。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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