愚慫空論

『マタイ受難曲』で思い出すこと

昨日、久々にJ.S.バッハの『マタイ受難曲』を取り出して聴いてみた。一昨日のエントリーで、この音楽劇の主人公について触れてみたら、無性に聴きたくなった。CD4枚で演奏時間は三時間あまり。充実した時間だった。

この音楽を聴いていると思い出すことがある。それはまだ私が若かりし頃、ちょうど二十歳の時だったと記憶しているが、南アルプスのとある山小屋で夏休みにアルバイトをしていたときのこと。山で音楽を楽しもうと持ち込んだCDの中に、この曲が入っていた。音楽はCDウォークマンで聴いていた。

山小屋の管理人の奥さんはアメリカの人だった。あるとき、その奥さんが私の『マタイ』のCDを見つけ、問いかけて来たことがあった(日本語で)。彼女は牧師になるための学校へ通うくらい、熱心な信仰者だった。

彼女が問うたのは、「あなたはクリスチャンなのか?」という質問だった。私は「そういうわけではありません」と答えた。「ただ、音楽として楽しんでいるだけです」。

そのあといろいろと語り合った。といっても、あちらは日本語を上手く操れるわけではなく、私も英語は全然ダメで(暗号解読技術としての「英語」は多少修得はした。もっとも現在はそれも忘却の彼方)、込み入った話は到底ムリ。それでも、互いに考えを上手く伝えられないながらも、真剣に話をした。

イエスを知らないと否定してしまったペテロの悔恨。ピサロ総督がイエスに与えようとした恩赦を民衆が拒み、凶悪犯を解放してしまう場面。あるいは十字架上でイエスが息を引き取った後に天変地異が起き、それでやっとイエスが神の子だと悟る民衆の驚きと畏怖。そういった登場人物たちの感情には深く共感し、打ちのめされる。そんなようなことを私は語ったと記憶している。

そういう私に、彼女は「にもかかわらず、イエスを信じることはできないのか?」と重ねて問うた。私は「やっぱりできない」と答えた。彼女は納得せず、さまざまに問いを重ねてきた。私自身もなぜ信じられないのかが、当時はよくわからなかった。

今の私は、もうすでにこの思い出の時から倍以上の時間を生きている。なので、多少は整理もついた。もし再び彼女の答える機会があったとしたならば、あのときよりも雄弁に答えることが出来るだろう。もっとも、その答えは彼女を不愉快にさせる可能性が高いが。

「共感」と「共有」は違う。ナザレのイエスなる人物がいたであろうことは、歴史的事実として共有できる。が、その人物が罪なき無垢な創造者の子であり、かつ創造者と一体であり、さらに創造者は全知全能であるという「想定」は共有できない。「想定」を共有することが信仰であろう。他方、「想定」がどうであれ、同様の感覚器官と神経構造を持つ同じ生物種として、私も彼女もペテロも同様な感情反応をするであろう。ゆえに他人の感情反応は察知できる。こちらは共感である。

ところで、私は前エントリーで、「無垢な子ども」を「想定」してみた。こちらは、イエスとは無垢な点では同じだが、全くの無力。私たちの罪を救済する力など持ち合わせていない。それどころか、我々を罪人にしてしまう存在。もちろん「無垢な子ども」は「想定」でしかないわけだから、純粋に無垢な子どもなど実在はしていない。〈この世〉の子どもは「想定」ほどに無垢ではない。
(絵画の中の子どもは「想定」ゆえに無垢である。)

〈あの世〉の正体は純粋なる「想定」である。〈この世〉の子どもは純粋に無垢ではない。しかし、純粋ではなくとも私たちは子どもの中に「無垢」を見る。そう見ることで〈あの世〉と〈この世〉が重なるのである。神の子イエスの「想定」を信じる人も、その奇跡を歴史上の事実として見る。そう見ることで〈あの世〉と〈この世〉とを重ねている。

信仰とは〈あの世〉と〈この世〉とを重ねることである。ただし、完全に重なってしまうと信仰ではなくなる。それは科学になる。

「無垢な子ども」を想定してみる

東電社員の子どもによる投書が波紋を呼ぶ、ということがあったらしい。

『悪いのは東電ですか、政府ですか、それとも国民ですか悪いのは東電ですか、
   東電少年の「投書」で大激論』(現代ビジネス)


リンクは貼ったが、別に読んでみる必要はないと思う。子どもの無垢な視線が事の本質を鋭くえぐり出すことはままあるが、これは子どもの稚拙な意見に過ぎない。

私たちには「子どもは無垢」という憑依がある。ゆえに、子どもの発言には真剣に耳を傾けてみるという習慣がある。これは好ましい習慣だと思うが、しかし本当に子どもが無垢であるかどうかは別問題。東電少年は無垢とはいえない。取り上げたのは、「東電少年」というシチュエーションを拝借したかっただけのことである。
(「東電少年」がわからない方は、リンク先を1ページだけご覧になっていただきたい。)

もし、東電少年が無垢だったとした、どんな意見を発したろうか。

「ぼくの父親は東電社員です。東電は福島の原発事故で、世界中の人たちに迷惑をかけています。東電は悪いです。だから、ぼくもみなさんに謝りたいと思います。」

東京電力社員の子どもは学校でイジメに遭うということがあるそうである。子どもに責任はないから、イジメは理不尽だという意見に私も賛成する。これは反対のしようがない。だが同時に、イジメに遭うのは仕方がないとも思う。アタマでは容認はしないが、ココロではどこかで容認している。そもそもの原因は東電の理不尽な行いにある。アタマでは、東電と社員の区別はつけることができる。社員と子どもの区別はなおのことである。が、同時に、東電が理不尽に利益を上げ、子どももその 恩恵に浴しているという事実をアタマは把握している。ココロは、その2つを都合良く切り離すことを容易にはできない。フクシマの子どもたちを思うと、なおさら出来ない。仮に私が「イジメはだめ」と子どもたちに諭さなければならない立場にあったとしら、私は自分のココロに嘘をつかなければならなくなる。「イジメはだめ」という言葉にココロは伴わないだろうし、子どもたちはそれを見抜くだろう。

(ついでに言うならば、ココロが伴わないのは、「東電の利益」を自身も欲しているからである。もし「東電少年」が東電社員の子どもではなく、下請け協力会社非正規雇用者の子どもだったら、アタマとココロの乖離はずっと小さくなるだろう。)

だが、「東電少年」が本当に無垢であったとしたならば、私はアタマとココロの乖離を維持できなくなるだろうと予感する。

冷静に考えるならば、「無垢な東電少年」の言葉は、「現実の東電少年」の稚拙な主張以上に戯言だと言わざるを得ない。もとより子どもに責任はない。それは子どもの責任能力がないからである。責任能力のない者に責任の追及のしようがない。だから子どもの謝罪は無意味である。〈この世〉の論理に則るならば、「子どもは出しゃばるな!」と応えるのが正しい。

が、本当にその対応が正しいのか。これは分かれ目である。正しいとも言えるし、誤っているとも言える。判断する決定的な材料は、「無垢」を受け取るそれぞれのココロにしかない。

『再度〈強い絆〉と〈あの世〉について』を読んで頂いた方には、私が何を言いたいのか察して頂けると思う。「無垢」とは〈あの世〉の論理なのである。

今から2000年以上前、現在のパレスチナで十字架に磔になったひとりの人物がいた。その人は「無垢」な神の子であり、それゆえに何の罪もないにも関わらず、〈この世〉の人々の罪を背負って敢えて十字架に磔になった、と想定されている

その人物が訴えたのは「赦し」であった。彼の訴えがココロに響くのは、〈この世〉の罪を背負うべく〈あの世〉から降臨してきたと信じられているためである。それに比較すれば力はかなり劣るが、「無垢な子ども」にも同様の力がある。子どもは〈あの世〉の存在である。

『原発社会からの離脱』を読んだ

amazon の予約販売で注文し、昨日届いた。早速読んでみた。

本書を敢えて一言でいってしまえば、「愚痴」ということになろうか。日本は知識社会ではない、という愚痴。オビにあるように、「これからのエネルギー」と「これからの政治」について語られている。「これから」というのは知識社会のこと、要するに“日本も知識社会になりましょう”と言いたいわけであるが、日本社会の現状を分析すると愚痴になってしまう。本書はそんな本なわけだ。

もちろん愚痴とはいっても、そんじょそこいらの愚痴でないことは言うまでもない。この愚痴を読めば、日本社会の病状が概観できる。また、宮台氏も飯田氏も愚痴るだけの人でないことも言うまでもない。真摯に現実的な活動に取り組んでおられる。ゆえに希望も提示されるが、全体としてのトーンは愚痴っぽくなりがちに感じる。これは、それだけ日本社会の統治機構が愚昧だということであり、その現実を直視するがゆえに愚痴にならざるを得ないということだろう。

愚痴の規準は知識社会である。では、知識社会とはどんな社会か。

飯田 私がスウェーデンで感じたことですが、あの国は社会が変わるということを国民全体が前提としています。その上で、どう変わるかについて国民全体がコミットし、ルールややり方を絶えず積み上げながら、社会を営んでいる。(p.59)


知識社会とは、単に知識(情報)が溢れる社会のことではない。知識を軸(私の言葉でいうと〈強い絆〉)に、変わってゆく社会。そのことが社会の前提として社会の成員に共有されている社会のことを指す。そのような社会では、社会が変わるかわりに個人とそのライフスタイルは頑なに守られる。が、日本はそんな社会ではない。

宮台 その背景には、山本七平が言うように、日本人の多くに、自分たちの生活形式がどういうものであるのかということを反省的に理解する、宗教社会学的習慣がないということがあります。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は唯一絶対神を掲げる宗教だから、生活様式が神の意志を裏切っていないかどうかに絶えず関心を寄せます。日本には唯一絶対神ならぬアミニズム的存在――例えば妖怪――しかいない。近代化して学校ができれば「トイレの花子さん」が登場します。生活様式の変化を照らし出す不変の宗教的存在はありません。だから、モノだけではなくて、生活や時間の使い方全体がギミックになってしまうのです。(p.85)


そんな日本で変化の軸になるのは、実は卓越した「個人」である。福島県や東京都を始め、後半にはその実例がいくつか出てくる。が、軸が個人であるがために、その個人が脱落すると変化も止る。そして組織と個人では、組織の方が力が強いのが現実。日本社会が変わらないのは「組織的抵抗」が強いためであり、それが対談者ふたりの愚痴のものになる。

以下は私見。

日本社会が知識社会になどなれる道理がない。宮台氏も指摘しているように、それは宗教的だと言われるほどに長きにわたる文化の蓄積がある。そんなものが一朝一夕に変革できるはずがない。西洋と日本のこの文化的ギャップは、明治の頃から夏目漱石を始めとした文化人たちが懸念していたことで、今日に至ってそのギャップはかえって広がっていると見た方が良い。

日本では社会は容易に変わらない。その代わり個人は容易に変わる。
個人の多くが変われば社会が変わらざるを得ないのは当然。個人の変化を阻むのは社会の「空気」だが、逆に言うと「空気」が変わると社会も大きく変わる。

明治以降日本の社会が変わらなくなったのは、西洋流の知識が日本の個人を“変わらなくて良い”というメッセージを発する「空気」の発生源となったことである。身分制が崩壊した近代日本では知識人が社会の中枢を担うエリートとなり、組織を運営した。だからエリートほど変わらず、組織的に変化を妨害する。卓越した個人はその「空気」の軛を超えるが、実はそのような個人とは〈強い絆〉を保持した個人である。飯田氏の記した本書の「あとがき」を見てみればよい。

日本の〈強い絆〉の在り方は西洋とは異なる。中国とも異なる(ロシアとはもしかしたら似ているかもしれない)。日本は個人的に〈強い絆〉を〈世界〉と取り結ぶ。いや、〈強い絆〉を取り結ぶことで個人になる

日本の悲劇は、日本人が〈強い絆〉を取り結ぶことが難しくなってしまったところにある。〈強い絆〉があれば不安があっても前へ進める。「安全神話」が虚構に過ぎないのはいまや明らかだが、にもかかわら「別の神話」が作り出されようとする動きが未だ健在なのは、〈強い絆〉を喪失した者たちがそれを求めてしまうからだろう。

再度〈強い絆〉と〈あの世〉について

〈あの世〉とは、一般に死後の世界だと解釈される。それは間違いではないが、イコールでもない。生前の世界にも〈あの世〉は存在している。・・・・・・

前エントリーでは〈あの世〉について簡単に書いたが、もう少し説明が必要だと感じるので、当エントリーで付け加えておくことにする。その説明をするのにちょうどおあつらえむきな記事が日経ビジネスオンラインに出ていたので、その紹介から。

『放射能ストレスで前進する女と、立ち止まる男』
      ~1歩を踏み出せば、異なる風景が見えてくる

 目に見えない恐怖への“不安”が、未知なる将来への “決断”へと変わり始めた。母親たちが、「我が子」を守るために、家も、仕事も捨てて、新たな生活へと動き始めたという。
 「妻は仕事を辞めて引っ越そうと言い出した。僕の実家の近くに引っ越して、そこで新しい仕事を見つけてほしいと言うんです。今からあの田舎に帰って何をするって言うのか。我が家は家庭崩壊寸前です」


妻が見ているのは「我が子」という〈あの世〉の存在である。対して、夫が見ているのは〈この世〉。不安と対峙したときに「一歩」を踏み出せるかどうかは、〈あの世〉との回路である〈強い絆〉があるかどうかで決まる。〈強い絆〉があれば、家や仕事といった〈この世〉のしがらみを断つことができる。

前エントリーでも記したように、社会で生きていくには〈弱い絆〉は必要。だから〈弱い絆〉を断ち切ることが良いことかどうかは簡単に判断はできない。“決断”がきっかけで社会の中の「すべり台」を滑り落ちていく可能性がないではない。今の日本社会では、その可能性はかなり高いと言わざるを得ない。しかし、これらはすべて〈この世〉のことである。〈あの世〉としっかり繋がっている者は、判断基準が異なってくる。

 仕事を変える、ということは、ある意味、今の自分を形作っている属性のすべてを変えるということでもある。会社、肩書、収入……。そういった基本属性と呼ばれるもの、すべてだ。「変える」は、「それらを捨てる」ことでもある。そのことに男性は戸惑っていたのだろう。


子どもは〈あの世〉の存在である。親もまた同じ。子どもは未来を生きるであろうし、親は過去を生きてきた。〈この世〉とは〈我〉が存在しない時空であるから、過去や未来は〈あの世〉に他ならない。が、それだけではない。〈私〉が存続していても〈あの世〉には出会うことはできる。

子供を産んだ瞬間から女性は変わる

 つまり、何と言うか、女の人って、多かれ少なかれ、子供を産んだ瞬間から、それまで自分では考えもしなかった生き方、あるいは自分1人では「どうやったって無理」と信じていた生き方を歩き始めているんじゃないだろうか。いかなる不安も、ためらいも、産んだ瞬間に、“変える覚悟”に変わるんだと思うのだ。


強い絆であれ弱い絆であれ、絆はそもそも主観である。だから、女性がすべて産んだ瞬間に変わるとは言えない。「産まない」男は変わらないとも言えない。ただ、女性にそういった傾向があるとは、言えるかもしれない。

“変える覚悟”に変わった〈私〉は、変わる以前の〈私〉と同じ〈私〉ではある。しかし、同じ〈我〉ではない。生きている限り〈私〉は変わらない。が、〈我〉は変わる。“男子三日会わざれば刮目して見よ”という諺もある。この諺が含意するのは、「男子」とは“変える覚悟”を持つ者、つまり〈我〉は変わると識る者だということ。〈我〉が変われば〈この世〉はもはや〈この世〉ではない。

(“男子三日...”は中国の諺だが、あちらの倫理観では親が〈強い絆〉として重視される。孝は忠よりも重い。対して日本では、子どもの方が〈強い絆〉として重視される傾向がある。“変える覚悟”を持つ者が日本では「母」になり中国では「男子」になるのは、その傾向の違いからくるのであろう。男性原理的 or 女性原理的。)


最後に“変える覚悟”を持たない者の記事をひとつ、取り上げてみよう。

『酒やタバコは放射線より恐い』(池田信夫blog part2)

この記事で示されているデータは「正しい」のだろう。しかし、あくまで〈この世〉規準でしかない。ゆえに、こういった記事は「今の自分を形作っている属性」を“変える覚悟”を持たない者には歓迎される。しかし、〈あの世〉を規準に考える者にとっては納得がいかない。

〈この世〉規準が正しいのか、それとも〈あの世〉規準を採るべきなのか、このようなことは議論をしても始まらないかもしれない。規準が違えば話は通じない。ただ、通常「立派な大人」と呼ばれるような者は〈あの世〉規準を採用している者であることは、文明国でも未開地でも変わらない普遍的事実である。

〈強い絆〉と〈弱い絆〉の平和条約

〈強い絆〉とは何か。 それは〈あの世〉への回路である。

〈あの世〉とは、一般に死後の世界だと解釈される。それは間違いではないが、イコールでもない。生前の世界にも〈あの世〉は存在している。存在しているが可視化することはできない。

〈弱い絆〉は〈この世〉への回路であり、こちらは可視化でき計測可能である。 可視化でき計測できるということは、観察者としての〈我〉が確立しているということでもある。 〈我〉あるがゆえに〈我〉以外の〈他者〉と対比することができる。 また、「生きる意味」は〈我〉あるがゆえに求めることになるのだが、それは〈他者〉との比較では求めることはできない。 〈弱い絆〉をいくら積み上げても「生きる意味」には届かない。

計測不可能な「生きる意味」は、可視化できない〈あの世〉へと繋がらなければ発見できない。
その回路が〈強い絆〉である。

現代は〈強い絆〉が希少になってしまった社会である。計測可能な指標をこの世に蔓延らせ、可視化不能はものを死後の世界へと押し込め、その死すらも隠蔽する。だから逆に〈強い絆〉を求める真摯な者が先鋭化してしまう。カルトである。カルトは〈強い絆〉を妨害する社会を否定してしまうが、現代社会が〈強い絆〉を否定してきたことへの反動であろう。

人間が幸せに生きていくには「生きる意味」を識ることが必要であり、〈強い絆〉が必要である。〈弱い絆〉は必ずしも必要ではない。しかし人間は社会的に生き物である。社会は円滑に営まれるためには〈弱い絆〉が必要とするが、〈強い絆〉はときに社会の秩序を乱す。

〈弱い絆〉は「平和条約」である。〈強い絆〉が引き起こす武力衝突を平和的に解決するための知恵が〈弱い絆〉なのである。「平和条約」のない社会が平和に営まれるはずはない。が、「平和条約」を規定として社会秩序を維持しようとすれば、そこには暴力が必要となってくる。その暴力が〈強い絆〉を侵害してしまう。構造的な矛盾である。

この矛盾を解消するにはどうすればよいか。決定的な解決法はないかもしれない。だが、暫定的な解決法はあるかもしれない。それは「市場」である。

「市場」とは暫定的な「平和条約」を随時随所に取り結ぶ「場」である。今日グローバリズムが社会を席巻しているが、これは随時単一な市場を是とするもの。単一であるために市場への参加資格が制限され、そこへ格差が生まれてしまう。

〈強い絆〉を「市場」にて〈弱い絆〉へと交換することが出来ない者は、「平和条約」を取り結ぶことが出来ない。「市場」参加者が主導する社会が押しつけてくる「不平等条約」を受諾するか拒否するか、二者択一を迫られることになる。〈強い絆〉か〈弱い絆〉かの二者択一である。この社会の中で生きようとすれば、選択肢は受諾しかない。

このような社会は、「平和条約」は随時結ばれるかもしれないが、随所では結ばれない。ゆえに「平和条約」は随所に普及せず偏在することになる。社会は、単一の市場で結ばれる偏在した「平和条約」を規定とすることで秩序を構築しようとする。それがグローバリズムであり、市場原理主義である。これは合理的な社会であるかもしれないが、幸せな社会ではない。

幸せな社会では、誰もが〈強い絆〉をもち、それを順当に〈弱い絆〉へと交換できなければならない。それには誰もが「平和条約」を結べるように、「市場」が随所随時に開かれていなければならない。そのような社会では「平和条約」は、いつでもどこでも、常に暫定的である。暫定的であるがゆえに決定的に規定されることはない。〈強い絆〉と〈弱い絆〉との交換は、決定的な規定の下ではうまく行なわれない。

〈強い絆〉と〈弱い絆〉の交換が円滑に行なわれることは、「あの世」と「この世」が繋がるということであり、個々人の「生きる意味」と「社会的な役割」が結びつくことでもある。「幸せ」とはこのような状態を指して言うのであり、「幸せな社会」とは、誰もが「平和条約」を結ぶことができる社会のことである。

随所随時に「市場」を開催することができるだけの社会インフラは、すでに整っている。

日本にホンモノの政治家がいなくなった理由

『菅政権の最期』 田中良紹の「国会探検」

この国では「民主主義」をまともに教えていないから、民主政治について国民の多くはとんでもない勘違いをしている。「政局はけしからん」とか「権力闘争ばかりしてなんだ」と言うが、民主主義政治とは国民を守るために権力闘争をする事を言うのである。国民に主権があると言う事は、自分たちの生活を守ってくれないと思ったら、権力者を「ころころ変える」権利があるという事である。


民主主義には二種類ある。全会一致の民主主義と多数決の民主主義。この2つは、同じ民主主義とはいうけれど、まったく別物と考えたほうがよい。前者は「和の中の闘争」であり、後者は「闘争の結果としての和」。本質的に異なる。

前者と後者の「和」も本質的に異なる。前者の和は、私たち日本人が思い浮かべる和。“和をもって尊しとなす”の和である。後者は、端的にいうと、敵を皆殺しにしたのちに出現する和のこと。このような和を和だと考える日本人は、まずいない。

現代の民主主義はもちろん後者である。多数決で結論を出し、その決定に従わない者は“殺される”。国家にはその力があるがゆえに「暴力装置」なのである。ただし近代の民主主義では、そうした国権に対し人権が想定され、国権と人権とが憲法という「契約」を結ぶことで国家の形を構成される。この形は市民革命を経て確立したものだが、その市民革命が「闘争」であったことは疑いの余地がない。つまり、今日の民主主義国家という形態も「闘争の結果としての和」なのである。

そのような近代民主主義国家において、政治家の役割とはなんなのか。それは、主権者の委託を受けて闘争することである。この闘争はもちろん暴力を伴うものではない。暴力は闘争の結果として放棄されている。闘争に暴力を用いる者は「結果としての和=契約」を破る者として、暴力装置によって排除される。

議会は和をもって話し合う場所などではない。戦場である。ゆえに政治家は戦士である。
しかし日本では、政治家を戦士であるとは考えない。日本国民が政治家に求めるのは詐欺師である。日本人のいう「ホンモノの政治家」とは、「良心的で有能な詐欺師」のことでしかない。

日本は誰がどうみても官僚国家である。官僚組織は優秀な頭脳集団だが、それは単なる集団ではない。共同体であり利益集団であり、日本国民全体の利益よりも自らの属する共同体の利益を優先する性質をどうしても持つ。それが行き過ぎると官僚専横国家だが、現在の日本はまさにそれにあたる。

その官僚組織に対して、日本国民は闘争することを求めない。うまく誑かすことを求める。「官僚を使いこなせ」というのは、そういうことである。仮に官僚相手に闘争しようにも、政治家は圧倒的に戦力不足。人はいないしカネはない。国民が与えないからである。

闘争は公開の場で行なわれる。対して、詐欺は密室で行なわれる。公開で行なわれる詐欺はうまくいくものではない。それを試みたのは菅直人だったが、やはりうまく行きそうにない。幸いなことに菅直人は秦檜にならなくて済みそうだ

良心が密室で育まれることはない。超越者の眼差しを意識する者は密室にあっても密室にいないが、そうでない者には密室は密室である。日本人に超越者の眼差しを意識する者は少ないから、密室では良きことはまず行なわれない。そのことは日本人自身がよく知っていて、だからこそ密室政治を批判する。

にもかかわらず、日本人は政治家に詐欺師であるように選択を強いる。公開で闘争してはならないといい、政治家に闘争のための武器弾薬を与えない。日本の政治家は詐欺師になるしかない。日本の政治は政治家の良心に委ねられることになる。

密室でも良心を保つことができる者はいる。だが、それは常に少数である。密室において、多数の者が良心的であり続けることは奇跡である。日本では奇跡は起きなかった。現在の日本政治の惨状は、その結果でしかない。

菅直人が日本の秦檜にならなければいいが

昨日の茶番劇はひどかった。

東日本大震災と福島の原発事故。この国難に際して政治が内輪もめをしている場合ではなかろう、という批判は理解出来る。それはその通りで、まったくの正論だと思う。内閣不信任案を提出した自民や公明、民主の「造反者」たちに正当な理由など見当たらない。

だが私は、正当な理由が見当たらないからこそ、不信任案提出は意味があったと思っている。信用できないものは、できない。理由など後付、大義名分に過ぎない。人間の信用は理知的に為されるものではない。たぶんに感情的に為されるものである。

確かに内閣不信任案は否決された。ゆえに菅直人は形の上では日本の首相でありリーダーである。が、菅は本当の意味でリーダーとして機能しているのか? 昨日の政治劇を茶番と見る人間には、菅にリーダーたる資格があるようにはとても思えないだろう。菅は、形の上のリーダーたることに固執したのである。そして残念なことに、法治国家においては、形の上のリーダーを国のリーダーだと見なさなければならない。日の丸・君が代に反撥を感じても、とりあえずは敬意を表しておかなければならないのと同様に。

次、秦檜(しんかい)について。昔々の中国、南宋の宰相を務めた人物。詳しくはウィキペディアあたりを見ていただくとして、簡単に言ってしまえば「中国歴史上最大の売国奴」とされている人物。宋の国の国力が低下し、北方民族国家の金に圧迫されていた時代に20年宰相を続け、金と屈辱的な和解をした。と同時に、主戦派の岳飛をはじめとしてさまざまな「抵抗勢力」を陰謀を画策して葬り去った。そんな人物。

小沢一郎を岳飛に見立てる者なら「もうすでに菅直人は秦檜ではないか」と思うかもしれない。その意見に反対はしないが、私が言いたいのはそのようなことではない。右の画像を見ていただきたい。これは岳飛の墓の傍らに置かれている秦檜夫婦の像。つい最近まで、岳飛廟を詣る人は、この像に唾を吐きかけることが習慣になっていた。秦檜は1000年も前の人物だが、憎悪が連綿と続いていたということ。ちょっと日本人の感覚では信じられないものがあるが、「菅直人が秦檜になる」という のは、このような事態を指して言っている。菅直人の銅像が出来て、人々が憎悪とともに唾を吐きかけることが習慣になってしまう(そうなればいいと思っている人も少なからずいるかもしれないが)。

秦檜の像は、漢民族の民族的トラウマである。中華に棲まう漢民族から東夷とされた私たち日本人からしてみれば、中国人は傲慢極まりないように見える。それは「シナ」という呼称が気に入らず「中国」と呼ぶように強要(と感じるのもこれまた日本の傲慢なのだが)することからも伺える。その傲慢な中国が、北狄に圧迫され屈辱的な条約を結ばなければならなかった。中国から屈辱的に扱われた方からしてみれば、そんなことでトラウマになるほうがどうかしていると思ってしまうが、とにかくそのことが漢民族の歴史的トラウマとなった。秦檜の像は、その憂さ晴らしに、1000年もの長きに渡って憎悪の矛先となった。

日本は不思議なことに、民族的歴史的なトラウマとは無縁できた。第二次大戦の敗戦は、東京大空襲や2発の原爆を投下されての「過剰な」敗戦だったけれども、なぜか民族的トラウマとはなっていない。A級戦犯を靖国の合祀から外せという程度の主張はあっても、とても秦檜のようにはならない。日本人は良くも悪くも素朴なのである。

しかし、菅直人は秦檜になるかもしれないと、昨日の茶番劇を見ながら私は思った。なぜか。フクシマが日本の民族的トラウマになってしまう可能性は否定できないからである。

昨夜菅直人は、原発収束まで首相を辞めない旨の発言をした。東電は「工程表」なるものを発表したが、事態はますます悪化して、「工程表」が絵に描いた餅でしかないことは周知の事実となっている。つまり原発収束のメドは未だ立たず、そして、菅の言葉通りなら、菅が首相を辞任するメドも立たないということになる。

菅直人が自らの執念に忠実に少しでも長く首相でいたいと願うなら、それはフクシマの収束が1日でも長く先延ばしされることを願うことになる。そしてそれは、フクシマがもたらす被害がより大きなものとなることを願うことと等しい。菅直人自身はそこまで思っていないかもしれない。だが、人々がどのように受け取るかはわからない。秦檜が本当に売国奴だったかどうかの真実と、秦檜に対する印象とが一致しないように。ましてフクシマが民族的トラウマとなってしまったとき、自らの執着を原発収束と重ねてしまった菅直人に、憎悪の矛先が向かないと誰も保障することはできない。

昨日の茶番劇、鳩山には呆れるし原口には開いた口が塞がらないし、小沢は惨めだと感じるが、それよりもなによりも菅直人がひどい。ウソは良くないといったような話ではない。ウソを吐くのも政治家の仕事のうちである。菅がしたのはそんなレベルのことではない。憎悪をかきたてたのである。リーダーが憎悪をかきたてて、それでうまく収るわけがない。

菅直人がなおも地位に執着するなら、菅は秦檜の道を歩まなければならない。それは権謀術数の道である。幸いにも菅には仙石由人という憎悪を撒き散らすことにかけては極めて優秀な参謀もいるようだが、その企みが成功するほどに、菅は秦檜に近づいてゆくことになる。

憎悪を撒き散らしてはいけない。まして、災厄の元と憎悪とを重ね合わせてはいけない。

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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