愚慫空論

日本も「理知的」になるしかないのか

MIYADAI.com Blog の記事(5/18)を読んでみた。

『「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき』

・・・原発にはコスト的にもリスク的にも環境的にも合理性や妥当性がないこと––は原子力ムラの専門家ならば全員すでに知っている。ならば、なぜ原発推進政策が止まらないのか。原子力ムラの元住民が教えてくれた。「今さらやめられない」からである。
・・・・・・
 今さらやめられない。これは単なる権益への執着を意味するものではない。実存や関係性に関わる意識を含むと解するべきである。やめようと言ったら、自らに矜恃を与える役割、役割を与えてくれる組織行動を否定することになり、自らの立つ瀬がなくなると意識されるのだ。
・・・・・・
 オーソドックスな社会学者なら、ここに宗教社会学的な背景の差異を見出す。・・・

この文章で宮台氏は4つのキーワードを提示し、糾弾する。

  〈悪い心の習慣〉
  〈悪い共同体〉
  〈過剰依存〉
  〈思考停止〉

では、日本人はいつから〈悪い心の習慣〉を持ち始め、〈悪い共同体〉を営み始めたのか。

 明治以降の日本は欧米に追いつき、追い越すことを恒に目標においてきた。この「目標」は戦後においても変わることはなかった。明治になると日本は欧米から技術、政治システム、文化などを輸入しはじめる。もっとも、政治、社会システムの領域では「日本的」ということが強調されもしたが、全体としては近代化の方向が模索されたことに変わりはない。
 とすると近代化とは何であったのだろうか。それは多岐にわたる変化の集合である。第一に国民国家の形成があった。国民国家とはそれまでの地域連合体としての国家を否定し、人々を国民という個人の変え、この個人を国家システムのもとで統合管理する国家システムのことである。第二に市民社会の形成がある。個人を基礎とする社会の創造である。第三に資本主義的な市場経済の形成があった。さらにこれらの動きを促進するために、科学的であることや合理的であることに依存する精神を確立する必要があったし、歴史は進歩しつづけるのだという「共同幻想」を定着させる必要もあった。
 明治維新以降の時代とは、このような壮大な変革にむけて日本が舵を切った時代でもあった。
 この変革にとって大きな壁になっていたのは、日本における共同体の存在である。後の詳しく述べるように、日本は共同体は自然と人間の共同体として、生の世界と死の世界を統合した共同体として、さらに自然信仰、神仏信仰と一体化された共同体として形成されていた。ここは進歩よりも永遠の循環を大事にする精神があり、合理的な理解よりも非合理な諒解に納得する精神があった。人々は共同体と共に生きる個人であり、共同体こそ自分たちの生きる「小宇宙」であると感じてた。
 それは間違いなく、近代化の前にそびえる壁だったのである。たとえ廃藩置県をおこない、国家システムを整備したとしても、そもそも人々に国民意識を持たせること自体が、つまり自分は日本人だと意識させること自体が、容易ではなかった。実際には国民意識は日清、日露のふたつの戦争をへてその確立に成功していくが、日本から共同体をほぼ一掃するのは戦後の高度成長の終焉まで待たなければならなかったといってもよい。 

内山節氏のこの記述に従うならば、日本人の〈悪い心の習慣〉は“自然と人間の共同体”の終焉とともに始まったことになる。ということは、日本の〈悪い共同体〉とは、その構成員から〈自然〉が抜けてしまったものを指すことになるだろう。

原子力ムラの構成員の中に〈自然〉が入っているはずのないことは、誰にも容易に想像がつく。
日本の共同体の終焉と日本人の〈悪い心の習慣〉とが比例していることは、次の2つの現象とも合致する。それは、

 1.時代が進むにつれ〈悪い心の習慣〉が蔓延るようになり、
    「平時」のシステムへの〈依存〉と〈思考停止〉が進んでいること。
 2.国家システムを運営するエリートほど〈悪い心の習慣〉を身につけてしまっていること。

原子力ムラの住民には〈自然〉はあくまで資源としてしか理解されない。が、この理解を科学的合理的とするのは原子力ムラの住民だけではない。日本の〈悪い共同体〉の住民の一般的な理解でもある。それは旧来の日本人の〈自然〉理解とは異なる。旧来の〈自然〉は「生の世界と死の世界を統合」する回路であった。「何が真理かという〈超越〉的事情」へと至る道であった。現在、その回路はほぼ切断されている。

「近代化」とは、〈自然回路〉の切断に他ならない。日本ではエリートほど〈悪い心の習慣〉を身につけてしまう理由もここにある。エリートとは高度な近代教育を修了した者だからである。言い換えれば、日本から〈古い共同体〉を一掃しようとする流れに最も適応した者。そのような者にとって「〈超越〉的事情」を斟酌することは、それまで積み上げた最適化の努力を放棄することに等しい。「自らの立つ瀬がなくなると意識される」のである。

日本において〈依存〉と〈思考停止〉が進んでしまうのは、悲しいことに怠惰のためではない。日本人はその道を選択し、勤勉に歩んできた。だからこそ日清・日露と戦争に勝利し、敗戦したとはいえ強大なアメリカと戦争することができる程度の国力を持つことも出来た。戦後も一時期は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われたこともあった。第二の敗戦と言われている現在、捉え直すべきなのは「過去の勤勉な努力」であろう。勤勉に〈回路〉を切断すべく努力してきた事実を受け止めなければならない。

その上で、「引き返す」か「今さらやめられない」かの決断をするべき時期に来ていると私は思う。もちろん原子力の話ではない。〈回路〉の話である。

〈自然回路〉へと立ち戻るか。
西洋流もしくは中華風の〈人為回路〉を確立すべく「前へ」進むか。

〈人為回路〉とは教義が確立されたいわゆる宗教である。どのような宗教であれ言葉で「規定された」教義は人為的虚構でしかないけれども、人間はその体系を信仰することで〈回路〉をつなぐことができる。この方法は都市的方法だと言える。

対して〈自然回路〉には言葉は必ずしも必要はない。「規定的な言葉」は邪魔になる。〈回路〉を確立するのは言葉にならない「声」。こちらは原始的方法である。日本は原始的方法を洗練させて珍しい文明を築いてきた。

理知的な言葉を重視しようと思うなら、「前へ」進むしかないだろう。ただし、それは数百年というオーダーの長い道程になろうだろうと私は思う。そしてその場合、日本という文明は「失われた文明」となる。日本列島に存在するのは「別の邦(くに)」になる。

また、この方法を選択するなら手本とするべき欧州は、近年(といってもここ100年くらい)徐々に〈自然回路〉へと回帰し始めているような気配もある。ニーチェが〈人為回路〉の中枢を担う宗教システムへの〈依存〉を〈思考停止〉だと糾弾したのは有名な話だし、スローフードやスローライフもニーチェと無関係ではない。だとすれば、「前へ」の選択をすることは回り道になってしまうかもしれない。

とはいえ、立ち戻ろうにも大きな障害が存在する。放射能である。

放射能は〈自然〉に人間を近寄れなくしてしまう。近寄れなくては声は聞けない。声を聞くことができなければ〈回路〉は確立されない。放射能は〈自然回路〉の確立を「物理的に」切断してしまう。宗教的な情熱は、切断されたがためにかえって高まるということはある。キリスト教の十字架やユダヤ教のディアスポラがその顕著な例(イスラム教のヒジュラも入るかもしれない)だろうが、これら「切断後の再接合(悲劇の共有)」は虚構つまり〈人為回路〉である。

宮台氏は豊かな人間関係資本を有する〈大きな社会〉を提唱する。その主張は合理的だと思うが、それが〈良い共同体〉つまり「健全な」市民社会となるためには、やはり〈回路〉が必要となる。宮台氏の〈大きな社会〉は人間だけの共同体であるから、必要とされる〈回路〉は人為のものとなる。そう考えると、(未だ現在進行中だが)「この程度」の悲劇で〈人為回路〉の形成に足る民族的トラウマとなるのか、といったような疑念も湧いて出てきてしまう。悲劇は小さいに越したことはないが、中途半端な規模だと新たな〈回路〉を確立できない――日本人の大半がクリスチャンやムスリムに改宗できればいいのだけども、そんなことはありそうもない。だから、こんな不謹慎なことを考えてしまう。

「サバイバー」とは「悪人」のことである

今日の話の出発点は、ビデオニュース・ドットコムの配信番組から。

『この震災を日本衰退の引き金にしないために』(有料)

有料配信のビデオニュース・ドットコムを私は以前に一時視聴していたことがあるが、途中で視聴を打ち切った。正直なところ、「宮台節」を嫌みに感じてどうもも好きなれなかった。しかし、震災以降の精力的な(無料)配信に共感して有料視聴を再開した。「宮台節」も震災以降、一皮剥けたような印象も受けている。

今回の配信内容の概要はビデオニュース・ドットコムの記事に記されているが、これは主に後半の内容で、前半に触れられていない。前半は「パニック」についてだったが、この話も大変面白かった。

この前半は、こちらの記事がほぼ同じような内容なので、紹介しておく。

 『パニックへの恐怖が災害時に被害を拡大させる』

(一言付記しておくと、“パニックを避けるため”といった言い訳は、責任の所在をウヤムヤにするために用いられることが多いとのこと。正確な情報を隠蔽する政府や当然の態度は、まさにそれである。)

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今回の東日本大震災が東北地方に与えた打撃は甚大で、しかも地域の活力は震災前から高齢化や人口減少に喘ぐなど、低下傾向にあった。しかし、その地域に国や今回被災を免れた日本の他の地域がどのような資本の投下を行うかによっては、この震災が地域の衰退傾向を転換する千載一遇の機会にもなり得ると広瀬氏は言う。ただし、その場合は相当の痛みを伴うことが避けられないだろうとも。


この「痛み」についての議論から話は興味深い領域へと入っていく。
此度の震災のような大規模な自然災害は、人々に厳しい「現実」を突きつけることになる。この「現実」には2つの側面があって、1つは生活インフラ等のこれまでの蓄積がすべて破壊されたという「現実」。もうひとつは、既存のものが破壊されたがゆえに、これまでとは違った新しいものを作り上げていくにはかえってチャンスになるという「現実」。

「現実」の2つの側面の、どちらかがより大きく立ち現れるか。社会レベルでは、それは、復旧を越えた復興になるか衰退を加速化させるきっかけになるかということだが、仮に社会が逃げることが出来ない「現実」に適応して復興・発展に向かったとしても、個人レベルでは必ず「現実」に適応できない弱者が出てくる。この場合、「痛み」とは不適応弱者が感じるものであり、社会的には弱者の存在そのもの。また、弱者を切り捨てることも「痛み」であり、それは簡単に容認できるものではない。

こうした議論を受けて、ゲストの広瀬弘忠氏(東京女子大学名誉教授は、「われわれはどうも、エモーション・オリエンティブ」だと発言する。感情志向、つまり情緒的。ゆえに合理的な議論、「産業構造を変えるチャンス」だなどいった議論はなかなか受け入れられない、と指摘する。ここでいう合理的というのは、弱者を切り捨てるのだという意味では必ずしもない。構造変換のチャンスを生かして復興を成し遂げ、その活力で弱者を救済しようという思考で、新自由主義的。これに対し、情緒的というのは、そういった合理論は“弱者の心情に配慮していない”といった意見を指す。

ここに見られる構図は合理的=ポジティブ/情緒的=ネガティブという二分法だが、広瀬氏の「エモーション・オリエンティブ」という言はこうした構図そのもの、こうした構図が支配的な現在の日本のことを指したのであろう。

その傍証として、日本には「サバイバー」という語に対する適切な訳語がない、という。「被災者」という言葉はあるが、これは情緒的にネガティブ。対して「サバイバー」は、情緒的にポジティブな者を指す。震災を超えて生き残った、九死に一生を得たという事実を幸運だっとしてポジティブに受け止め、「生き残った者の責務」を果そうと志向する者のこと。日本には「サバイバー」という言葉がないことで、震災等に有ってしまったものが自己をポジティブに「規定」することができない。「被災者」と呼ばれて自分自身でもそのように「規定」していってしまうことで、ポジティブに転換していく機会が奪われていってしまう。

私はこの議論に納得すると同時に、一方で疑問も持った。本当に「サバイバー」に対する訳語はないのか。 いや、「サバイバー」の概念はなくとも、「サバイバー」に類する観念が存在しないはずはない。指し示す言葉がないからといって指し示される情念がないとは言えないないし、異なった視野のもとで異なった言葉で呼ばれている可能性は高い。日本の文化的な蓄積は、西洋世界のそれに劣るものではない。

「サバイバー」とは「悪人」である。善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。

親鸞の「悪人正機」は「他力本願」とセットになっている。つまり他力本願がわからないと、親鸞のいった「悪人」の意味も捉えがたい。では、「他力」とはなにか。乱暴に言ってしまえば、それは「縁」である。

恵まれた境遇に生まれながらすべてを「苦」だと受け取ったブッダは、出家して苦行を重ねる。厳しい苦行で命を落としかけるが、スジャータという娘から供せられたミルク粥で命を取り留める。ブッダにとってスジャータは「縁」であり、ブッダの悟りの発端となった。絶対ネガティブである「一切皆苦」が、「縁」を「諸行無常」「諸法無我」と認識することによって、「苦」を空じられ、ポジでもネガでもない「涅槃寂静」へと至ることが出来る。

が、如何にブッダであっても、スジャータとの「縁」を自在に操ることはできない。自身の力ではどうしようもない。だから、「縁」は「他力」。

ブッダの教えが発展した大乗仏教では、悟りを開いた仏(如来)は絶対ポジティブだと「想定」された。そして浄土宗では、仏(阿弥陀如来)との「縁」は念仏を唱えることとされた。絶対ポジティブだから絶対他力であり、そこへ全面的に縋るのが「悪人」。つまり「悪人」とは「縁」に対して“開いている”者であり、「開く構え」が情緒的にポジティブなのである。

そのように捉えると「善人」は情緒的ネガティブとなるが、これは被災者ではない私たちが持つ「被災者」のイメージにも重なってゆく。被災者は「善人」であるから、救済しなければならない。「善人」を救済しないことは「悪」である。この情緒的構図は、原発震災を引き起こした東電に対しては、より鮮明に適用されている。

「開く構え」は、別の言い方をすると「信仰」になる。浄土宗の場合、この「信仰」は阿弥陀如来という「想定=教義」とセットになっている。が、“開く構え”は、かならず「教義」とセットになっていなければならないわけではない。教義なき信仰、阿弥陀如来に縋らない「悪人」。それが「サバイバー」である。いかなる「縁」に対しても、ポジティブに“開く構え”をとり続けることができる者。「縁」は必ずしも良縁とは限らない。そこは「諸行無常」であり、また、「縁」の良し悪しを規定するのは「我」であるから、「諸法無我」と悟れば、良し悪しに囚われることもなくなる。あらゆる「縁」に対して“開く構え”をとり続けることがやりやすくなる。

****************************

番組後半の最後で、宮台真司氏は『断絶平衡説』の話を持ち出す。これは生物進化論上の仮説で、地球上の生命は約二六〇〇万年ごとに大絶滅をくり返して来ていて、そのたびに大きな進化が起こっていると考えるものである。大絶滅後の生命大爆発。

この話は震災からの復興という議論とは重なる部分はあるが、枠を広げすぎて脱線している感がないではない。ただ私はこのような脱線は大好きなので、そこへ乗っかってさらに脱線を続けてみることにする。

生命が大爆発を起こしている海とは、「創発」の海である。前エントリーでは、そのようなイメージから書き出された「経済学」の本を紹介した。『経済学の船出』で基本原理に据えられている「創発」も、「信仰」と同じく情緒的ポジティブであると捉えている。『「もの」の経済』は、有形の、資源としての「もの」を配分するためのみならず、人々が情緒的ポジティブであるために、無形の「もの」をも配分することが目的になる。

宮台氏は、例えば学者の多くが俗にいう「御用学者」へと変質してしまう理由について、それを個人の資質の問題へと矮小化するのではなく、「システム」の問題に帰すべきだと主張する。それは氏の社会学者としての問題意識であろうし、学問としても成立しているのだろう。。同じように、情緒的にネガティブあるいはポジティブであることもまた、個人の資質の問題ではなく、その個人の置かれた(「もの」の)経済環境の問題として捉えるべきである。

必要な「もの」が必要とするところへ届ければ、「創発」が起こる。それが生命の原理であるとするならば、「創発」が起こらなかった(情緒的ネガティブに陥った)ということは、必要とされる「もの」が届かなかったからだと言えるようになる。そして、そのように言うことができるならば、ある個人が情緒的にポジティブもしくはネガティブであるということを、個人の資質や宿業に帰する決定論的な議論へと落ち込むことなく、システム論的な問題へと捉え直す道筋も見えてくるように思うのである。

「もの」の経済学

日本語の「もの」という言葉には、大きくふたつの意味がある。

1.人が感覚で感知できる有形の物体・物質。
2.あると考えられる無形のことがら。

1.は物理学で扱う「もの」。
2.は心理学で扱う「心」をも含む「もの」。
 「もののけ」というときの「もの」。

経済学はふつう、1.の意味での「もの」を扱う。
だから大半の理論が物理学に似せて構築される。
本書では1.と2.双方の意味での「もの」を扱おうと試みられている。
だから、ふつうの経済学とは全く違ったものになっていて、
また、それゆえに『経済学の船出』。

 普通の人の普通の感覚というものは、意外に鋭いものであり、「なんだか変だな」と感じることには、それなりの理由が潜んでいる。ただ、人間というものは、いろいろなことを思い込むように仕向けられると、これまた意外に弱い。そのため、「変だな」と思いつつも、「まあいいか」と受け流して、思考停止に陥ってしまいがちである。
 本書の目的は、社会や経済についての良識に基づいた理解を支えるための、理論的根拠を与えることである。ここで「良識」と呼ぶものは、「なんだか変だな」という感覚のことである。読者がその感覚を把持し、奇妙なものごとに出会ったときに、「まあいいか」とやり過ごさず、自分自身の内的ダイナミクスに基づいて、独自の思考を展開するための手がかりを提供すること、これが本書の目指すところである。


書き出しを引用してみたが、これだけ読んで経済学についての書だと思う人はいないだろう。

経済とは、必要な「もの」を必要されるところへ届けることである。
必要な「もの」が必要とされるところへ届くと、創発が起こる。
創発とは、生命あるものがその内的ダイナミクスに基づいて起こす「何ごとか」である。

生命のダイナミクスは、本書では「神秘」として取り扱われている。
しかし、それはあくまで合理的に。
「神秘」を非合理と決めつける枠組みへの批判が、本書の主題である。

 本書のタイトルに「海」が出てくるのは、宮崎駿のアニメーション映画『崖の上のポニョ』の影響である。この映画の主題は、生命の汪溢する海の姿を描くことであると私は感じた。劇中の「ステキな海! 魔法の力に満ちていて。まるでデボン紀の海に戻ったよう」というセリフが端的にそれを表現している。「創発の海」というのは、そのような生命の力に満ちた海をイメージしている。人類が自ら引き起こした地球の危機は、効率を改善したり、回収率を上げたりするような、小手先のことで何とかなるものではない。近代というものが立脚する基本概念を洗い出し、呪縛を抜け出して人類の持つ「創発」の力を取り戻すよりほかはない。これまでの経済学が志向したような、古色蒼然たる個人主義的分析的枠組みは、もはや何の意味もなくなっている。経済学は、生命の汪溢を実現すべく、ポニョの海へと漕ぎ出さねばならない。私は本書で、そのための第一歩を踏み出したいと考えている。


意欲的。野心的。挑発的ですらある。

なお、本書の著者である安富歩氏は、ブログも開設されている。
こちらも大変面白いので、紹介しておく。

『マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)』

邪悪なテクノロジー

「愚鈍で邪悪な人間たち」というのは端的に「人間というもの」と言うのとほとんど同義なのである。

『浜岡原発停止について』の最後を内田樹氏はこのように締めくくった。

なんとも微妙な文章で、どう読めばよいのか戸惑う。
人間を愚鈍で邪悪と「規定」していると読もうとすると、“ほとんど”という限定が邪魔になる。
とはいうものの、“端的に”という言葉が「規定」を強く示唆してもいる。


私は、あらゆるテクノロジーはそもそも邪悪なものだと思っている。
テクノロジーとは「都合の良いもの」だからである。
人間を取り巻く環境を都合のよいものとそうでないものとに選り分け、都合のよいもののみを抽出し、都合の悪いものは「外」へ捨てる。
Technology という横文字でいくら誤魔化しても、事の本質からは逃れられない。
テクノロジーを支えている科学そのものが逃れられないことを証明してもいる。

これはテクノロジーはもともとから価値判断を内包しているということでもある。

価値判断がなければ選別もできない。
生きるために必要なものは価値あるもの。

生きるために必要なものを価値あるものと判断することは邪悪とは言えない。
人間が愚鈍で邪悪に変質してしまうのは、都合の悪いものを「外」へ捨てるときである。

環境に「外」は存在しない。
自然はすべて繋がっているからである。
「外」とは、人間が人為的に作り出すものでしかない。
つまり「外」とは意識の外、忘却するというのと同義である。

原発関係者の「想定外」が、これと同じであることはいうまでもない。


生きるために選別をしなければならない人間が、愚鈍で邪悪に変質しないための方法はひとつしかない。
「外」を作らないこと。もしくは「外」を畏れ敬うこと。
つまり信仰すること。


原子力は、「外」を作ることを強要する。
しかし、自然環境に「外」はないから、人間が作ることができるのは現実には「内」でしかない。
現実には「内」であっても、それは人間にとっては畏れ敬わねばならない「外」である。
現実に存在する「外」である。だから、忘却することはできない。

「外」へ忘却することは愚鈍であり、忘却を強要することは邪悪である。
だが忘却を禁ずることはそれ以上の邪悪である。
それは「呪い」に他ならないから。

古来から人間は、人間の後からきたものを信仰することを邪悪と見なしてきた。
「外」は人間の意識が作り出した区分けでしかないが、その存在は人類よりも先である。
そえゆえ信仰することもできた。

原子力は忘却を禁じ、後からきたものへの信仰を強要する。
邪悪なテクノロジーとしか言いようがない。

都合の良い原子力

最初、タイトルを『原子力の効用』にしようかと思ったが、やめた。

使い方によっては、誰もが便益を享受できる。
その技法も確立されている。
“効用がある”と言えるのは、そんな場合である。

原子力に効用はない。
原子力にあるのは、都合が良いか悪いか。
原子力を都合良く利用する側にいるか、いないか。
その区別しかない。

原子力は小さな燃料で巨大なエネルギーを生み出す。
それが原子力の唯一の長所。
原子力の長所はそれしかない。

原子力の用途は爆弾と発電。主としてこの2つ。
原子力は巨大なエネルギーを発するがゆえに、その利用法は原始的なやり方に限られる。
エネルギーをそのまま放出させて爆弾にするか。もしくはお湯を沸かすか。

蒸気でタービンを回せば発電ができる。
が、お湯は再利用は難しい。汚染されているから。
従って、効率を上げることが難しい。


小が大を生み出す原子力は我々に夢を与えたこともあった。

小で大を動かすことを便利という。
便利な社会を望んだ我々には、原子力は未来であった。

小で大を制することを支配という。
支配を望んだ者にとっても、原子力は未来であった。

便利を追い求めようとすると、果ては自然を都合良く支配しなければならない。
我々は原子力を使えばそれができると期待した。
それが無謀な期待であったことに我々は気がついた。
無謀な企ては我が身に災厄となって降りかかってくることに気がついた。
だから、原子力は我々にとって都合の悪いものになった。

しかし、未だ原子力を都合良く利用しようとする者たちが存在する。
彼らの目的は支配であろうか。
だとするなら、誰を支配しようと企てているのだろうか。


国家は核の保有を意図する。
名目は平和であり、他国の支配へ対抗。
国家は常に支配を平和や秩序に言い換える。
そして核とは原子力の別名であり、中身はほとんど変わらない。

国家を率いる者たちは支配する意図などないと言うだろうし、それはそうなのかもしれない。
だが、我々は思い出さなければならない。
我々も自然の支配を意図していたわけではなかったことを。
ただ便利を追い求めていただけであることを。
それが意図せざる支配になってしまっていたことを。

自然からの逆襲を恐れるなら、我々は都合の良いものは放棄しなければならない。
それは支配の放棄であり、同時に支配からの脱却でもある。
原子力の放棄はその第一歩でしかない。

『言葉の効用』

虚構は言葉から生みだされる。
言葉が何ものかを規定したときに、虚構は生まれる。

人間は母親の胎内から生れでる。
だから、親子の関係は人間にとっては始原。
ここから創発が始まる。これは動かしようのない事実。

だが、その事実を言葉で「規定」してしまうと虚構になる。
事実と虚構は二項対立ではないのだ。

ジェンダーという言葉がある。文化的・社会的性差と訳される。
ジェンダーは、生物学的性差から派生した虚構である。
男と女という二種類の人間が存在する事実を、
「男」と「女」という言葉で規定してしまったがために生まれた虚構。

親子関係も同じ。親子関係を「親子」という言葉で規定すると虚構が生まれてしまう。

子どもが生まれたら、親は子に名前を授ける。
名前は言葉で出来ている。だから、名前も虚構にすぎない...のだろうか?

これには違和感がある。
わが子を規定しようと意図して名付ける親などいないであろうから。
親は名前に希望や祈りを託す。
期待は規定になってしまう。
が、希望や祈りは規定の枠をはみ出している。
ちょうど、こんぺいとうの角のように。


愛しい者の名前を呼ぶ者は、君子である。
虚構から効用を引き出す能力を徳といい、徳のある人物を君子といった。
君子の紡ぎ出す言葉は、こんぺいとうの形をしている。

角を削ぎ落とした言葉、規定しようとする言葉は呪いである。
昔には、他人にはむやみに本名を教えていけないという戒めがあったという。
心ない者に本当の名前を知られてしまうと、呪われてしまうから。
名前でもって規定されてしまうと、呪いになる。
たとえば「のび太のくせに」。これは呪いの言葉。

こんぺいとうの形をした言葉は祝福である。
規定の殻を突き破り、創発を促し、生命力を惹起する。

『虚構の効用』

社会的な生き物である人間には、絆を生みだす能力はデフォルトで備わっている。
と、同時に、虚構を生みだす能力もデフォルトで備わっている。

虚構の基本的な特性は、絆を変質させること。

虚構の根っこは、たぶん所有にある。
所有は見方を変えれば呪縛。

強い絆のなかに虚構が入り込む。
強い絆のなかでは、所有は共有へと形を変えていこうとする。
所有が呪縛であるなら共有は二重呪縛。ダブルバインド。
そして呪縛が引き起こすのがハラスメント。

濃密な絆のなかで育まれる感情は愛憎。
純粋な絆は愛。
呪縛に変質してしまった絆は憎。

また虚構には、強い絆を弱い絆へと変質させてしまう作用もある。
愛憎が絡む強い絆を切断し、弱い絆で結びなおす。
弱い絆の仲立ちをするのも虚構。
強い絆である所有を断ち切り、他の者の所有へと移転させる。
これは虚構の切断作用なくしてはできないこと。

愛憎が入り交じった強い絆に絡め取られた人間は、虚構による切断を望むようになる。

強い絆を弱い絆へと変質させる虚構は、複数の要素から構成される。
すなわち、システム。
システムが全域化すると、社会のあらゆる絆が弱い絆へと置き換えられてしまう。

強い絆は生命力を育む。
弱い絆は生命力を育むことができない。
個々の人間の生命力を育むことが出来なくなった社会は衰退していく。


では、虚構は排すべきものなのか。

極力排すべきという思考が、中国では老荘思想となった。
虚構の際を見極め「虚構の効用」を引き出すべきという思想は、儒教となった。
「虚構の効用」を引き出す能力を儒教では徳といい、徳のある人物を君子といった。
「徳」とは、弱い絆を強い絆へと再置換する能力。

「徳」を発揮させるのは大きな生命力が必要とされる。
が、生命力を育むのは強い絆。
だから儒教では、始原の絆、親子関係が重視されることになる。

ただ、儒教はのちに儒学となり、生命力と「徳」を育む体系全体が虚構へと堕ちた。
そうなると、体系全体が生命力を抑圧するものへと変質してしまう。
今の日本も、そのような体系に変質しつつあるように感じる。

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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