愚慫空論

『ホーシャノーの効用』

思いつきで、非科学的な駄文をひとつ。

大地震があって、原発が爆発して、大量の放射性物質が撒き散らされてしまったわが日本ですが。
そんな状況のなかで、にわかに「ホーシャノーは体によい」といった話が出回るようになりました。
もちろん低線量の放射能ですが。

ホーシャノーは体によい。すなわち、ホーシャノーには効用がある。

そこで連想してしまったのが、こちら。
ご存知、名著『風邪の効用』です。

あくまで言葉の表面からの連想だと念を押した上で、
話を強引に進めます。

**********

風邪には効用がある。
だから風邪の病原体は身体によいのだ。

こんなふうに言ってしまうと、
「そんな短絡的に言ってもらっては困る」
と、野口整体の人からきっとクレームがつくことでしょう。

風邪は治すべきものではない。経過するものである。
自然な経過を乱さなければ、風邪をひいた後は、あたかも蛇が脱皮するように新鮮な体になる。

これはつまり、人間の体に備わっている免疫力をうまく活用しましょう、というもの。
それが上手く出来さえすれば、体に良くないはずの風邪がかえって効用をもたらす。
毒をも活用する知恵、と言ってもいいのかもしれません。

実は、ホーシャノーは体によい、という人の論理もこれに似ています。
微量のホーシャノーを浴びると細胞が刺激を受けて活性化し、
新陳代謝が向上し、免疫と自然治癒力が高まる。
ホルミシス効果という仮説。

逆の仮説もあります。
どんなに低い線量のホーシャノーでも生物に対して障害作用をもつ。
LNT仮説。

私たちの身体は常に風邪の脅威に晒されている。
でも、抵抗力があるからいつも風邪を引くわけではないし、
引いても自然に経過させると体調のリセットになる。

自然界には常に微量のホーシャノーが存在するが、
私たちの細胞には自己修復能力があるので、ホーシャノーを「引く」わけではない。
引いても自然に経過させると...?

私の感覚からすると、LNT仮説よりホルミンシス効果を支持したい。
身体の抵抗力の織り込んでいるから。
でも、その感覚が、風邪とホーシャノーとを同じに扱うことに違和感を憶えます。
身体を構成する細胞といったミクロのレベルでは同じように扱えるかもしれない。
が、マクロのレベル、体調というバランスの点では全く異なった現れ方をするのではないか。

根拠はありません。そんな気がするだけ。

「風邪を引く」というのは、身体のバランスが狂うことでもあります。
身体には狂ったバランスの復元力も備わっているから、
風邪を引いても自然に経過させれば、かえって体調は良くなる。

しかし、ある程度以上にバランスが狂うと、復元力も失われる。
そうすると「風邪をこじらす」。
風邪をこじらせてしまうと自然な経過をたどれないから治療が必要になる。

人間の身体は「ホーシャノーを引く」ことに対しても、自然な復元力を備えているのか?
そして「ホーシャノーをこじらす」状態になったときの、治療は?

そう考えると、大変心許なくなってきてしまいます。
繰り返し言いますが、この不安に根拠はありません。

敢えていうなら、不安のもとは潜伏期間の長さでしょうか。
風邪は基本的に急性です。
潜伏期間は短く、復調も早い

対して微量のホーシャノーは、その影響が出るまでには長期間かかると言われています。
つまり慢性です。
慢性の病状では、身体の体調復元力など意味がありません。
復元力が徐々に冒されていくから、慢性なんです

だとするなら、『風邪の効用』に似た『ホーシャノーの効用』はない、ということになる。

でも、心配は要りません。
もともと『ホーシャノーの効用』なんてのは私の捏造品ですから。

こんぺいとうのイメージ

こんぺいとうの形は、人間の心に似ている。

その形はあちこちに角を出している。
それは、希望や向上心や祈りや
そんな諸々のものが外へあふれ出たもの。
生き生きとした人間の心の姿。

この形は一昼夜ではできあがらない。
長い時間をかけて根気よく育て上げるもの。

こんぺいとうによく似た形をした心は、生命の流れの中にいる。
流れは、いくつも角が飛び出た形にぶつかって、複雑に変化する。
人間はこの流れを感情として感じ取る。
なめらかに流れるときには心地よく、流れが悪いときはは居心地悪く。

人間は、心地よさを求めて角を育て上げていく。
角を伸ばしつつ、角を丸める。
角はやがて角でなくなり、なめらかな形へと成長していく。

あるいは寄り添いあって、流れをなめらかにしようとする。
角と角とを突き合わせると、流れは悪くなるばかり。
角とくぼみを、試行錯誤をくり返して、うまく組み合わせる。


角は時に、割れたり欠けたりして尖ってしまうことがある。
尖った角は、流れを悪くする。
流れが渦を巻き、憎悪になってしまうこともある。
憎悪の渦は、他のこんぺいとうも乱気流のなかへ巻き込んでしまう。

だから、尖ってしまった角は、丸めなければならない。
けれども、削るのは痛い。心だから。
欠けたところは埋めてやるのがいい。
渦が巻かないように、流れを調整してやるのがいい。
そうして、ふたたび角が成長するのを待つのがいい。

犬の後ろ姿に感じる不安

ここのところ、ずっと私の頭の中に居座り続けている「絵」がある。

井上孝治01


3月20日にETV特集で放映された
 『思い出の街が甦(よみがえ)る~写真家・井上孝治の世界~』 の中のヒトコマ。どうやら

想い出の街想い出の街
(1989/08)
井上 孝治

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の最後のページに掲載されている写真であるらしい。

この犬はいったい何を眺めているのか。
それとも、何かを待ち続けているのだろうか。


井上孝治という人は、どのような人だったのか。

戦後日本の生活を撮ったカメラマン。ろう者だったというものの、画面からは生活の音があふれている。鼻をたらした子どもや、ぼさぼさの犬、働く大人、未舗装の街。郷愁だけではなく、生きる人の匂いに惹き付けられます。

カメラ点を経営しながら昭和30年代の街と人々の暮らしを撮り続けたアマチュアカメラマン。福岡の人だったらしい。



(左上は撮影する井上孝治さん。以上、NHK・ETV特集のHPより。)


井上孝治写真館HPより

私は昭和40年代の大阪生れだが、これらの写真から伝えられる雰囲気にはなんとなく憶えがある気がする。さすがに街頭テレビを大勢で集まって観た記憶はないけれども、素っ裸になってみんなで水遊びをしたようなことはあったかもしれない。


そんな感触があるからだろうか、冒頭の「絵」の犬は昔の面影を眺めているような気がしてならない。そして少し寂しげな感じがする。

この寂しさは、1ヶ月前だったらば感じられなかったものかもしれない。寂しげに感じさせるのは、おそらくは私の中に巣食ってしまった不安だろう。

不安が、懐かしさを寂しさに変質させてしまった。

生命的設計思想

今回の更新は、軽く、記事の紹介だけ。

PO法人 場の研究所:
  生命的設計思想 ──「持つために在る」から「在るために持つ」へ


紹介した記事は決して軽くない。内容の濃さは大変なもの。感想を述べるだけでも、私の手にはあまる。だから紹介するだけ。

筆者は、名著『生命を捉えなおす』の著者の清水博博士。

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)
(1990/10)
清水 博

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この本の内容紹介も、私の手には余るので、セイゴー先生に委ねる。 松岡正剛の千冊千夜『生命を捉えなおす』 こちらを詠めば、概略は掴める。

是非。

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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