愚慫空論

買いだめは健全な行動

素晴らしいブログ記事を見つけた。

いや、見つけたという言い方は不正確。佐々木俊尚さんがツイッターで紹介されているのをみて、アクセスしてみた。

『不安であることの正しさについて』

僕らは不安であっていいんだ。
それは僕らの中の危険の感知装置が鳴っていることだから。
自分で量りきれない恐怖があるときに僕らは不安になるだろう。そして、僕らは今存在する危機に対して、その可能性の正確なサイズや輪郭をつかめないでいる。
その不安は僕らのものだ。
警報を切ってはいけない。

かつては煽動のプロがいて、大衆の不安を煽って暴動を起こしたりしたこともあったろう。しかし、僕らは暴動は起こさない。せいぜいささやかな買い占めを、それができる地域でしているに過ぎない。
僕らは誰かに煽られて不安なのか、僕ら自身の芯の部分から出てきた不安なのか。

うん、うん。満腔の同意。このブログ(「心が大事」というタイトル)の著者の村松村松恒平さんは、私と似たような考え方をする人なんだと思う。そして、私などよりずっと良い文章をお書きになる。

私たちは、不安なときには不安であっていい。“あっていい”ことを村松さんは「正しい」と表現しておられるが、私は「健全」と表現しておこう。健全な不安は、健全に安心を生もうとする。諸外国から賞賛されている緊急時の日本人の秩序正しさは、健全な不安が生んだ健全な反応なんだろうと私は思う。

大きな災害があって、危機的な状況に陥っている人々が沢山いる。被災地では物資は不足している。そんななかで被災地から離れた場所にいる人たちが、不安に駆られて目の前にあるものを買いだめる。大きく俯瞰すればその行動は正しくないといえるし、買いだめを止めましょうという呼びかけは正しいといえる。が、私はこうした「正しい」呼びかけには胡散臭さを感じる。「権力志向」を感じる。

大きく見てみれば、人々は目の前の商品を秩序正しく購入しているだけである。確かにその行動は普段とは違う。が、被災地に送るべき物資を寄こせと言っているわけではない。被災地に送られているからここには届きませんと言われれば、多くの人は納得する。普段とは違うが常軌を逸しているわけではない。大きく見て被災地に物資が必要だと言っている人が、大きな枠を壊わすわけではない人々の小さな行動を批判する。自分が「正しい」と思っている人は、この矛盾に気がつかない。

「正しい」は、心の「健全」を害してしまうことが多い。

「正しい」が社会に必要なのは言うまでもない。何が正しいかわからなければ、信頼することが出来ない。ことに、原子力発電のように巨大で複雑で危険なシステムが破綻したとなれば、「正しい」情報による信頼は不可欠になる。そこが欠ければ風評被害のような機能障害が起こる。近代社会の経済は巨大で複雑なシステムであり、私たちはそのなかで暮らしているのだから、システムの機能障害は私たちに被害を及ぼす。東電の「計画停電」なるものも、そうした機能障害の一種だ。

大きく狂ったシステムを立て直すには「正しい」がなくてならない。が、得てしてこの「正しい」は行き過ぎる。行き過ぎて「健全」を害することになる。そうすると「正しい」が「不健全」なシステムが出来上がってしまう。

私たちが頼っている、あるいは否応なく飲み込まれているシステムは、起きるずっと前から「正しい」が「不健全」なものへとなりつつあった。此度の震災は、そのシステムにずっしりと大きな負荷をかけることになるのは間違いない。はたしてシステムは元通りに復調するのだろうか?

社会の上層、つまりこれまでシステムをリードしてきた人たち、ことにシステムから大きな恩恵を受けていた人たちは、この問いに“Yes”と答え、“復調(復興)させなければならない”と答えるだろう。が、正直なところ、私は懐疑的だ。たとえ復調したところでシステムの「不健全」が大きくなることは避けられないだろうし、そのしわ寄せを受けるのは下層部にいく。

今、私たちは岐路に立っているのだと思う。
「正しい」を採るか「健全」を優先させるか。

私は「健全」を優先するときに来たのだと思う。

「健全」は自発性のなかに宿る。そして自発性を引き出すには自分自身に“耳を澄ます”ことが必要になる。外部基準から組み立てる「正しい」による自律性は、自発性を妨げる。自律性の高い人ほどその傾向は強い。

もちろん「正しい」を全否定するわけではない。今後も「正しい」は必要不可欠なことに間違いはない。ただ、今後はその適用限界を見極めることが大切なってくる。つまり自律性の限界。その先は自発性に委ねる。委ねるべき自発性が見当たらないと感じるなら、それは「健全」が足りないということだ。


ああ、そうそう。同じく佐々木さんが紹介されていた別の記事も挙げておきます。

『大声で語られる「正しさ」への同調ではなく、自分の心に従って行くことの大切さ。
  /Togetter -「高橋源一郎さん 卒業式ができなかった学生諸君すべてへ贈る祝辞』


壮大な実験の結論は出た

(※ 20日にアップしたつもりが下書きになってました)


昨日の夜、NHK朝の連続テレビ小説『てっぱん』を観た。

昨日の朝に録画したものを、地震が起きた11日朝の放送分(これも録画)に引き続き、観た。朝8時はとっくに仕事の最中なので、また夜はすでに寝ている可能性が高いので、朝の録画を夕飯時に眺めるのがここのところの習慣になっていたわけだが、11日の夜は当地は停電で、観ることがかなわなかった。それ以来、1週間ぶり。震災前の「続き」を観たわけだが。

私の言いたいことは察しが付くだろうと思う。物語は確かに「続き」だが、それを観ているこちらの方にはこの1週間で大きな断絶が生じている。だから「続き」を続きとして何の疑問もなく受け止められない。同じ物語の「続き」を観ながら、どこかに居心地の悪さを感じてしまった。

この原因はいまさら言うまでないことだが、それでも敢えて言葉を探していたら、タイトルのような言葉が浮かび上がってきた。11日の地震で明らかになったこと。それは原子力発電が実は壮大な実験であったということ。そしてその「結論」が、悲惨な結果を伴って出たということ。 ...いや、結果はまだ現段階では出尽くしていない。これ以上の結果が出ないことを祈るしかない。

報道を眺めていると、福島の事故はレベル5でスリーマイルと同等になった、と報じている。ネットでは海外ではレベル7と報じているところもあるとか、国内でもだれそれが6.5だと発言しているとかいった情報が流れてくる。そういった深刻度レベル判定がどのように判定されるかは意義のあることだろうが、その結果がいかなるものであろうと、「結論」は揺るがないだろう。というのも、私たちの「居場所」がすでに変わってしまったから。原発は社会を維持するのに必要なインフラという認識から、社会に害悪をもたらすものという認識に置き換わった。数字で結果を評価しようとする試みは、「居場所」を変えさせないための策略という感じすらしなくもない 。

私たちの「居場所」は変わってしまった。このことはたぶん多くの人が共有する感覚だと思う。そしてたぶん、“変わった”ことは感じられるが、まだまだ“定まった”とは感じられないという感覚も共有されると思う。つまり、この「結論」はまだ中途半端ということ。定まらなければ完全な「結論」とはいえない。

だとするなら、これからどういったことが始まるか。居場所探し、つまり「自分探し」が始まるということになるのだろう。ついこの間まで「自分探し」というと否定的なニュアンスを持って語られてきた。それが社会丸ごと「自分探し」になる。これまでは社会は動かないものだと多くの者が捉え、だから揺れ動くの自分だけで、居場所が定まらないのは自己責任だと言われた。しかし、これは根底から変わる。

ただ問題は、どのように変わるかということ。どこへ“定めて”完全な結論とするかということ。 社会を元の場所へ戻そうという動きも大きく出てくるだろう。一時「復興ニューディール」などという言葉が出てきたりしたが、それもそうした動きのひとつだ。その後には、震災増税などといった企てが続くのだろう。こうした動きをする者たちは元の社会で我欲が満たされるポジションを確保していた者たちであり、原発という実験を私たちに実験と知らせぬままに執り行っていた者たちだ。“被災しなかった者はカネを使え”などというお説教も、おそらくはそうした類のものだ。そんなご説をありがたく賜っていると“カネのない者は身体を提供しろ”と後に続きかねない。そんな社会は決して元の社会ではない。元の社会にはもう戻らない。

昔々、中国の有名な詩人は「国破れて山河あり」と詠んだ。今回の事態はこの詩とは反対に「山河破れて国家あり」といった状況になってしまったようにも思える。とんでもない異常事態だ。山河敗れて人はなく、人なくして国家があるわけがない。そしてこの国家が人々を欺して山河を破る実験を行なっていたとするなら、破るべきは国家ということになる。

これは何も“革命を起こせ!”などと扇動したいわけではない。もちろん、私たちを欺した者を免罪してよい法はないが、そこにばかり気を取られていると、さらなる苦しみを味わわなければならない羽目に陥りかねない。いま、私たちがまず向き合うべきなのは、破れようとしている山河だろう。こんな事態だからこそ、優先順位を取り違えないようにしなければならないと思う。

静かな朝

静かな朝。
冷え込んだ空気のなかで、富士山の優美な姿がよく見える。
心なしか、いつもよりも静かな感じさえする。

だが。

昨夜からの停電が復旧して、TVやネットから流れてくる映像は黙示録的世界。
携帯のツイッタ―とラジオから情報は得ていたけども、映像を見てみると想像を遥かに超えた惨状が広がっている。

言葉がない。


たぶん、これから日本は変わる。
変わっていかざるをえないだろう。

願わくは、この被害が、失われつつあった絆を取り戻すきっかけとなりますように。

もし、そうならなければ。
日本はほんとうに、黙示録の世界へ沈み込んでしまう。

いまこそ「心」を取り戻せ。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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