愚慫空論

【覚書】ネットワークとシステム

ここのところ、〈ネットワーク〉と〈システム〉について考え始めている。

〈ネットワーク〉と〈システム〉は重ねて見られるのが常識的な捉え方だろうけれども、元来、この2つは別物だと考えるべきだと思い始めているからだが。

そんなところにで面白い記述に出会った。

ISIS本座 『世界史の誕生とイスラーム』

 そこで、これらの枠組みを生かしつつも、そこにそれなりの「束」と「網」をもって歴史の総覧を掴むには、「ネットワーク論」のようなものを使ってみるといいのではないかというふうになってきた。一定時期の社会経済ネットワークが「世界」という大きさに達したところを研究していこうというのだ。
 この場合、ネットワークとしての世界の結節点(ノード)になるのは、その地域やその歴史を代表する「都市」である。
 都市はそもそもが政治・宗教・文化・交易・消費活動などの多様なネットワーク集積の上に成立しているものだから、都市の相互のつながりがある程度の規模に達したところに「世界というシステム」と「ネットワークという世界」との関係ができあがると見ればいい。こういう見方だ。
 この見方をとれば、そもそも世界史において何が最初の「ネットワークという世界」の出現で、それが「世界というシステム」にあたったのかということが見えてくるはずなのだ。


そうか。そういうことか。簡単なことだ。〈ネットワーク〉と〈システム〉を重ねているのは「都市」だったんだ。そして私たちは「都市文明」にどっぷりと浸り込んでいる。だから〈ネットワーク〉と〈システム〉が重なって見えてしまうのだろう。

もともと人間というものはネットワークマシンである。スタンドアローンで機能するようにはできていない。だから〈システム〉なしでも〈ネットワーク〉を構築することが出来る。〈システム〉なしの〈ネットワーク〉を「小さな社会」という。顔見知りの範囲で構築する社会される社会である。

だが人間は〈システム〉も構築することが出来る。“出来る”というと自由な選択が可能なようだが、そうでもない。居住環境によって「相」が変化する。まるでバッタのように。

蝗害


蝗害(こうがい)とは、トノサマバッタなど、相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。蝗害を起こすバッタを「飛蝗」「トビバッタ」と言う。また、飛蝗の群生行動を飛蝗現象と呼ぶ。


〈システム〉を編みだし「大きな社会」を構築する人間はまるでバッタの凶暴な「群衆相」のようだが、それは「都市」という居住環境と関係しているのかもしれない。「都市文明」が作り上げる〈ネットワーク〉が「大きな社会」である。

インターネットという〈システム〉には、「都市」なくして「大きな社会」を構築できる可能性が見いだせるように思う。人間は穏和な孤独相のままで「大きな社会」を組み上げるできるかもしれないということ。

穏和な人間が築き上げる「大きな社会」。これがいま、私が思い描く理想社会。

普遍と自然  ~02/06のツイートより




無尽(頼母子)講としての大相撲の八百長 - 逝きし世の面影http://tinyurl.com/4haaegy へのコメント。〈続きます〉 
02-06 08:58

「農の営み」とは「小さな社会」の精神、「農業」は「大きな社会」の精神なのです。つまり「農の営み」とは談合であり、「農業」とは「普遍」による“一面において”効率的な利害調整だということです。〈続)
02-06 09:01

「農業」と「農の営み」 (愚樵)/ 農業政策について話がでていますので、上のコメントの流れで少し。 私は「農業」と「農の営み」は似て非なるものだと考えています。使われる技術はほぼ同じだが、その精神は大きく異なる。〈続〉
02-06 09:01

「大きな社会」を統合するには「普遍」が必要です。キリスト教のような「普遍」です。しかし、「普遍」は宗純さんがかねがねご指摘の通り、“特殊の大きなもの”でしかない。そうであるからこそ「大きな社会」では“一面において”効率的という方法しか見出されないわけです。 〈続〉
02-06 09:00

「大きな社会」では談合のような効率的な利害調整法は見出されていません。市場原理がもっとも効率的という意見は多い一方で、貧富の差を拡大するという意見も根強い。「大きな社会」では、“一面において”効率的という方法しか見出されていないのですね。〈続〉
02-06 08:59

ところが現代社会のような「大きな社会」になると、談合は八百長と呼ばれ、悪徳になります。「大きな社会」での談合は、談合を行なう「小さな集団」の利益が優先され、その他の成員が損を被る。相撲の八百長は大した被害は出ないが、公務員による八百長などは納税者に甚大な被害を及ぼします。〈続)
02-06 08:59

どのような社会においても利害調整は必要です。政治とは利害調整に過ぎないと言ってもいいですね。「小さな社会(共同体)」においては、談合という名の利害調整は美徳とされます。それはもっとも効率の良い利害調整だからです。〈続)
02-06 08:59

ただ、留意しなければならないのは、「小さな社会」における談合としての「農の営み」には、その談合の仲間に自然も入っていたということです。そうした自然を特に「風土」といいます。〈続〉
02-06 09:01

「大きな社会」での「農業」は、自然を基盤としつつも、風土をその社会の成員とは見なしていません。だから「農業」は必然的に自然からの収奪になる。つまり、「農業」は自然を仲間外れにした人間だけによる八百長なのですね。その帰結が環境問題です。〈続〉
02-06 09:02

今話題のTPPは、「農業」が拠る「普遍」をさらに限定的なものにしようとする企てに過ぎません。 〈終わり)
02-06 09:02



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