愚慫空論

「理と利」から「政治とカネ」を考える

田中良紹の「国会探検」 『増税の「理」と「利」』

 国民は「理屈」で動くものではない。「利益」で動くものである。その事を最も良く理解していたのはあの坂本龍馬である。凡百の勤皇の志士は「尊皇攘夷」を叫ぶだけだったが、龍馬は世の中を動かすのは「理」ではなく「利」である事を知っていた。薩長連合は理屈で出来たものではない。長州には鉄砲を薩摩には食糧を提供するなど、それぞれの藩の欲しいものを取引したから成り立った。それが日本の歴史を変えたのである。

 歴史を変えるとか、政治を行なうとはそういうことで、正論を百万回叫ぶより、欲しいものを呉れてやることだと知っていた龍馬はたぐい稀なる政治家である。この感覚は官僚的思考からは絶対に生まれない。官僚的思考は正しい理屈が実現しないのはおかしいと考えるのである。そして次にそれは国民が馬鹿だからと考え、最後に無理矢理にでも実現しようと考える。だから官僚政治は国民から嫌われる。


 ・正しい理屈が実現しないのはおかしいと考える
 ・次に国民が馬鹿だと考え、
 ・最後に無理矢理にでも実現しようと考える
 ・だから国民から嫌われる

このような思考回路、何も官僚というポジションについた人だけとは限りませんね。国民から嫌われるのは右翼も左翼も同じですが、その理由も同じではないでしょうか。官僚的思考が嫌われる。

官僚は権力を持っていますが、右翼や左翼は持っていない。だから“無理矢理にでも実現”とはなかなか生きませんけれども、思考回路は同じ。ただ思考の基盤が違う。回路が同じで基盤が違うから反撥し合う。こういった傾向を私は“権力志向”だとか“啓蒙主義”だとか“アマタデッカチ”とか呼んで嫌っているわけなんですけどね。これは今現在、権力を握っているかどうかは関係ない。権力を握りたいかどうかなんです。権力志向は世界を恣意的に切り分け対立構図を持ち込む。そうやって世界は錆びついていくんですね。

◆「利」を御する「理」

首相、政治主導を軌道修正…官僚にも協力要請

 菅首相は21日午前、首相官邸で各府省の次官らに訓示し、省庁間の政策調整について、閣僚・副大臣ら政務三役による調整と同時に、次官・局長らによる調整も容認する方針を示した。

 民主党政権は政治主導による政策決定を掲げてきたが、官僚排除により行政の混乱・停滞を招いた反省から、官僚に協力を求める姿勢を鮮明にした格好だ。

 首相は政権交代後、次官会議を廃止したことについて、「憲法の規定からいって、本来あるべき姿に近付いた」と強調する一方、「現実の政治運営の中では、反省、行き過ぎ、不十分な問題が色々あった。プラスマイナスを振り返り、より積極的な協力関係を作り上げてほしい」と指示した。

 「政治家も『自分たちだけで大丈夫』ということでは、物事が進まないこともしっかり理解している。遠慮なく大臣、副大臣、あるいは私に対して意見を言ってほしい」とも語った。


国民を裏切ることに余念のない空き缶政権ですが、この「裏切り=公約無視」と同時進行で進んでいるのが「政治とカネ」。要するに“小沢排除”ですね。

この同時並行が互いに深く関連していることは言うまでもないでしょう。「国民生活第一」「政治主導」の公約(民主党はマニュフェストといいます)を掲げて政権交代を実現させた小沢一郎を排除することと、その公約を反故にすることとは、どちらが欠けても「裏切り」は成就しない。両雄並び立たずというわけで(菅直人を「雄」とするのには甚だ抵抗感がありますが。まあ、それでも一応は総理大臣ですから)、歴史の法則のようなものですね。特に「裏切り」を画策する方は絶対に相手の存在を許しません。これは心理の問題ですが、裏切る者は怯えるからです。怯えるがゆえに、相手を許しておけない。

そんなリーダーに針路を託した日本は、ホント不幸です。そんな国がうまく行ったためしはありません。これもまた歴史の法則でしょう。

小沢一郎は官僚を全否定しているわけではありません。政治主導とはそういう意味ではない。優秀な官僚を上手く使え、の意で用いている。官僚主導になると「官の利」がのさばることになる。政治主導は「官の利」を抑えることでもあるんです。ところがその政治家を縛っているのが「政治とカネ」という「理」なんです。このような状態を「不条理」というかどうかは知りませんが、、権力志向の者たちはそういうことは感知できない。“官僚も悪い”“官も悪い”“小沢も悪い”。そして“自分たちは正しい”。

政治家だってカネは欲しい。欲しいだけじゃないて実際、要るのでしょう。政治活動にカネがかかる。政治だからといって、誰もがタダで動いてくれるわけじゃない。志があってもカネがなければ政治家になれない。それが現実だから、志を実現しようと思うとどこかのヒモ付きになるしかない。ヒモ付き、族議員です。

そもそも民主党は鳩山由紀夫の「族議員」のようなものでしょう。そこに小沢一郎がカネを引っ張ってきた。鳩山由紀夫は「理」の人ですが、それで居られたのはなんのことはない、鳩山が金持ちだったからです。鳩山族議員の頃の民主党が坊ちゃん育ちの集団だと言われていたのも、そのあたりも原因のあるだろうと思っています。しかし小沢が引っ張ってきたカネは、「利」からきたものだった。確証はないが、私はそう思っている。だからこそ政権交代も実現できた。でも、まだ「利」を御するには民主党は未成熟だと小沢は感じていたんでしょう。政権交代の前後、そのようにしばしば発言をしていました。そこから窺い知れるのは、小沢一郎が備えているであろう「利」を御する「理」です。また、それがあっての政治主導でもある。

◆カネが要るならくれてやれ

このように小沢一郎を持ち上げると、私を小沢シンパだと思われるかもしれません。今はそうです。でも、もとからそうではなかった。「政治とカネ」の大合唱があまりに酷いので、そのようになってしまった。

小沢一郎だってスネに傷を持つ身だと思っています。「クリーン」なんかでは決してないでしょう。また、本当に「クリーン」だったらば、「利」を御する「理」なんか備えることなど出来ようはずもない。「利」にまみれて「利」をくぐり抜けてきたから備えることが出来る「理」。理屈だけはなかなか到達できない「理」だと思います。

官僚は「官の利」をのさばらし暴走している。政治家がその官を抑えられない。その理由はいろいろあります。日本が好運だった時代には政治主導など必要なかったという事情もある。アメリカ追従官僚主導でおおかた平穏に行った(この時代の「平穏」を乱していたのは「理」をもった人たち――右翼と左翼――でした。とくに左翼は護憲を掲げて「平穏」を乱した。このあたりが護憲運動が嫌われた理由でしょう)。この「平穏」のなかで官は既得権益を多く獲得したが、時代は右肩下がりになったのが現在です。既得権益を守ろうとする「官の利」。日本から搾取して覇権を維持しようとするアメリカ。彼らが求めるのは日本国民の生活を第一に考えることをしない裏切り政権ですが、それがまさに今の菅政権です。その菅政権を支えているのが「政治とカネ」という「理」。不条理です。

ほとんどの日本国民は今の日本はおかしいと思っています。社会が行き詰まっていると感じている。このままでは立ちゆかないと不安に感じている。そんな状況をいかに乗り切ってゆくか。現在の日本の民主主義国家という体制を維持しながら乗り切っていこうするならば、やはり政治家に託するしかない。官僚を抑えられるのは政治家しかないからです。このままいけば国家は国民の抑えにかかる。裏切り者は必ずそのように行動します。裏切っている自分自身を誤魔化すために強権を行使するのです。そういったときに官僚組織が抑えにならないことは歴史が証明しています。「官の利」を確保するためにまず間違いなく国民を抑える側にまわる。そうなると、国民は激発するしか手がなくなる。

そうならないうちに政治家に活躍してもらうしかない。それには政治家が活躍できる下地を国民が作ることが必要。要するに政治家にカネをくれてやれ、ということです。

政治家助成金を創設せよ

無条件でくれてやれといっているわけではないのは言うまでもありませんね。もちろん条件はつく。情報公開です。

現在、政党助成金という制度がありますが、これはよろしくないと思います。政党に従属する「族議員」を増やすだけ。国民の声より政党の方針に従わざるを得ない。政治資金が出ないから。そして支持者の声と板挟みになる。今の民主党がまさにその状態ですね。統一地方選を戦えないとか言っている。資金のスポンサーと支持者とが分裂しているからそうなる。

この矛盾を解決するのはごく簡単なことです。「支持者がスポンサーになればいい」んです。政治家はスポンサーの意見に従わざるを得ない。だから企業献金禁止などといった「理」も出てくるわけですが、こういった「理」が不条理を生みだしてしまうのは、いままで述べたとおり。この「理」は“「利」より「理」”という権力志向の「理」なんです。“有権者の意思”という「理」を“カネがなければ政治活動ができない”という「利」よりも優先させてしまう。「利」を御する「理」ではないんです。

“有権者の意思”という「理」を政治家の「利」とする。そうするには政治家の得票をそのまま政治資金に結びつければよい。すなわち選挙の得票に応じて、政党を通さず、政治家個人に選挙資金を助成すればよい。これは資本主義と民主主義の両方に適った制度です。これが実現すれば、政治家の行動原理はガラリと変わるはずです。

政治家は、国民から政治資金を受け取る代わりに厳密な情報公開の義務を課されます。企業献金も受け取りたいなら受け取ればよい。いったん「有権者の理」=「政治家の利」という原則が出来上がってしまえば、企業献金など問題になりません。企業献金を受け取っている議員は「企業の利」を「自らの利」と有権者にみなされるだけのこと。そして、企業に参政権はないのです。

◆政治家を増やして議員を減らせ

政治家個人への国民からの直接助成は政治家の行動原理の変革をもたらすはずです。日本は代議士制の近代民主主義国家ですから、政治家の変革は国家そのものの変革にも即、繋がるはずです。

たとえば「一票の格差」の問題など、すぐに解決するでしょう。議会は自ら積極的に格差の解消に取り組むはずです。当たり前です。少ない得票で当選できたとしても、政治資金は少ないままだからです。それでは「政治家の利」につながらない。政治家たちは自ら進んで「利」を平等にしようと動くでしょう。これは国民にとって「理」であり「利」です。

政治家直接助成の「利」はこれに留まりません。最大の「利」は政治家の数が増えることです。現在の制度では、政治家とみなされるのは選挙に当選して議員となった者だけ。議員も“落選すればタダの人”とよく皮肉られますけれども、この原理が「政治家の利」を縛ばっている。直接助成はその縛りをなくします。

得票に応じて政治資金を得られるということは、落選して議員になることができなくても政治資金を得て政治家として活動できるということです。落選者も政治家として認められるということ。国民がその投票行動で候補者を政治家として認め、活動を支えるということです。支持者=スポンサーです。

そうなれば、国民の声に耳を傾ける政治家の数は増えていくことでしょう。政治家≒議員ですから、定数など関係ありません。政治家個人の志と能力で有権者の支持を獲得しさえすれば、政治家で居続けることは出来る。たとえ二軍(一軍は議員)であってもです。そして二軍選手が一軍を目指して競争するのは当たり前の話ですが、直接助成だと特定のスポンサーの意向を気にして歪な競争にならなくて済みます。

そうして政治家の層が厚くなれば、国民の声を汲上げるために議員の数を増やす必要はなくなります。むしろ議員は減らしたほうが意思決定はスムーズに進む。国民の声の汲上げは政治活動を下支えされた政治家たちが日常の活動で行なう。国民は選挙でその選別をすればよいことになるわけです。

ただ国民にとっての「不利」もあります。国民の政治資金の負担が増えることです。が、そこは民主主義のコストだと割り切ることが必要だと考えます。そうでなければ「利」を御す「理」など備えることはできない。「政治とカネ」などという「小さな理」も、政治資金を後ろ向きに捉えてしまう「国民の小さな利」から派生しているものです。

国民もそうバカではありません。「政治とカネ」の欺瞞には気がつき始めています。ですが「政治とカネ」の問題を主体的に受け止めることが出来る「理」が広がっていないために、まだ「小さな利」から抜け出すことはできていない。そのあたりが課題でしょう。

錆びついてゆく世界

今回も本を紹介するところから始めたいと思います。 松岡正剛著『誰も知らない世界と日本のまちがい』です。前回『銃・病原菌・鉄』の続きという位置づけです。イギリス・エリザベス一世以降の近代が取り上げられています。

◆「まちがい」「老化」「錆び」

本書は『17歳のための世界と日本の見方』の続編という位置づけになっています。ですから本書も“17歳のため”ということになるのでしょうけど、17歳に読みとける本だとは思えません。正直、私が17歳のときにはムリだったでしょう。ですが、面白く読めたとは思います。

歴史とは、そのつどの「異質の発生」との出会いなんですね。現代を語るなら、われわれのごく近傍の歴史にも異質や異例や異人があったことを、ちゃんとみていく必要があるんじゃないでしょうか。そうすれば、うんと大きなしくみだって、じつは変なところがいろいろあることにも気がつくんではないか。そこで、近代から今日に至るまでの世界と日本の流れを大きくはタテに追いながら、そのなかでできるだけ同時代的に共通する話題や問題をヨコやナナメにつなげて話していきたいと思います。

(オビより)


このように平易な調子で、知の巨人のひとりであるセイゴウ先生がタテヨコナナメに語ってくださるわけですから、面白くないわけがない。でも、17歳の私では膨大なセイゴウ先生の知識に振り回されて終わりになったでしょう。

幸か不幸か現在の私は17歳から2.5倍ほど歳を食ってしまっています。ですから少しは食いつくことができると思います。その証しというわけでもないのですが、タイトルに少し文句を付けたい。「まちがい」はあまり良くないと思います。「まちがい」で間違いではないのですが、「まちがい」と言われてしまうとどうしても「正答」を探すことになってしまう。しかし、本書は読み進むほどになにが「正解」かわからなくなってしまいます。

最終第十一講で“日本の苗代をとりもどしたい”と「正解」らしきものの提示はあります。でも、唐突感は否めない。途中に20世紀以降の西欧のさまざま「反省」――「まちがい」への気づき――は織り込まれています。第一講のドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』に始まって、フロイトやカフカやフッサールやハイデガーだって取り上げられている。そして“知識はもう十分だ、脱構築だ、(再)編集だ”という。「編集」というのはセイゴウ先生の専門分野ですからそこへ持っていきたいのはよくわかるのですが、「まちがい」→「(再)編集」というのは、ちょっと距離がありすぎるような気もします。

私が本書を読みながら感じたのは、“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついてゆく世界”というものです。そう、この「錆び」とは、前エントリーでいった「エイジング」「老化」と重なります。「まちがい」「正解」に切り分けるより、「エイジング」は「成長」でも「老化(錆び)」でもあると見る見方のほうが適切なように思った。またそう見ると、「(再)編集」とは「アンチエイジング」への精神論と見ることができるでしょう。

◆剣と聖書

右の画像は、オリバー・クロムウェルの銅像です。クロムウェルといえば清教徒革命。本書にも登場します。右手に剣、左手に聖書をもった姿でイギリスの国会議事堂の前に立っているそうです。

本書は、世界が“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついていった”原因は、イギリスの「まちがい」によるところが大きかったといいます(ここは「まちがい」が適切でしょう。ここでの「まちがい」は「野望」の言い換えです)。その「野望」を実現させたのが、剣に象徴される技術。「野望」を「まちがい」だと気付かせなかったのが聖書。その両方を抱えた人物の像がイギリスの国会の前に立っているというのは実に象徴的です。イギリスを中心にフランスがライバルとして、のちにドイツや日本も参戦した世界の「分配」競争。後にメインプレーヤーはアメリカに移り、いままた中国へと移りつつある国際情勢ですが、その原点がこの像によって象徴されているように思います。

クロムウェルが清教徒、つまりプロテスタントであるということも象徴的です。今日、世界が“異質を飲み込みながらどんどん大きくなり、どんどん錆びついていく”要因になっているのは、ひとつは相変わらず武器ですが、もうひとつは聖書ではなくなっています。貨幣、すなわち資本主義です。そして定説によれば資本主義・キャピタリズムはプロテスタンティズムから生まれた。歴史に繋がりを感じずにはいられません。

繋がるといっても歴史は一筋ではありません。左手にある聖書の後継者候補は他にもあります。ダーウィニズムやマルキシズム。ナショナリズムもそうでしょう。

ダーウィニズムにしてもマルキシズムにしても、その根本にあるのは「進化」です。ナポレオンが生みだしたナショナリズムだって「進化」と無縁ではない。社会は「進化」していくものだという大前提がある。「競争」の結果としての「進化」です。それをダーウィニズムでは「淘汰」と呼び、マルキシズムでは「革命」と呼んだ。呼び方の違いだけで本質は変わらないような気がします。違いは「編集」の仕方にあるだけ。どう「編集」しようが社会に対立構図を持ち込めば、そこから「錆び」が広がってゆく。対立構図から「競争」が生まれればいずれ勝敗は決する。「進化」とは“後出しジャンケン”か“勝てば官軍”のようなものでしかありません。勝っても負けても「錆び」は生じる。マルキシズムがその「負け錆び」の典型例でしょう。

◆日本という方法

しかし、キャピタリズムやマルキシズムが「エイジング」しかもたらさないという結論に私はならないとも思います。キャピタリズムの中にもマルキシズムの中にも「アンチエイジング」へと働く要素は見出すことはできるはず。問題はやはり「編集」の仕方にあるのでしょう。対立構図へと導かない「編集」の仕方。そして、「日本という方法」はそうした編集法を編み出すのに大いに参考になる。セイゴウ先生はそのように言います。

最後に本書の「おわりに」から少し引用します。

 この数年、私はしばしば「日本流」を標榜して、グローバリズムの過ぎたる悪禍をなんとか阻んではどうかと言ってきました。かつての日本も中国の社会文化を参考にして、さまざまな制度や文物をとりいれてきましたが、そのうちの半分くらいは「日本という方法」で編集してきたんです。漢字から仮名を案出し、仏教と神祗観を習合し、儒教を国学に練りなおしました。
 それが明治以降にネーション・ステート(国民国家)の仲間入りをするようになってから、欧米諸国の「まちがい」まで定着させるようになった。日韓併合や満州国の建国はそういう勇み足でした。ナポレオンやビスマルクに憧れすぎたようです。いま、そういう過誤はなくなったでしょうか。
 むろんまだまにあいますが、本書では「苗代」を例にして、グローバリズムの導入をいったん幼若な苗にして、それから本番で植え替えるという方法があるのではないかということを最終章で提案してみました。直撒き、ちょっと待ったという提案です。


実は、私にはまだ「苗代」の比喩が今ひとつピンとこないところもあるのですが、キャピタリズムもマルキシズムも「苗代」になるということはわかりるような気がします。また考えてみれば、マルキシズムなどは“キャピタリズムを苗代にコミュニズムへと植え替える”と捉えられなくはないですし、キャピタリズムにしても“貨幣を苗代にして社会を豊かにする”と見れなくない。ところがキャピタリズムは貨幣が直播きになり、マルキシズムではそこへ「進化」の図式を持ち込ちこまれために、直撒きキャピタリズムと直撒きコミュニズムの「競争」になった。

こうしてみると、これら「直撒き」はやっぱり「まちがい」と言っていいような気にもなってきます。いえ、はじめから「まちがい」で間違いはなかったんですね。

社会にもアンチエイジングが必要

新年が明けてもう半月も経ってしまいました。昔々、「月日は百代の過客にして、光陰矢のごとし」なんてのを教わった頃はまったく実感がなかったのですが、いまでは実感しまくり(^_^;  焦らずボチボチと思いはすれども、この実感は如何ともし難くて...

唯「環境」史観?

『銃・病原菌・鉄』を読みました。面白かった。オススメの本です。

銃と軍馬―― 16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのは、これらのためであった事実は知られている。なぜ、アメリカ先住民は銃という武器を発明できなかったのか?彼らが劣っていたからか?ならば、2つの人種の故郷が反対であったなら、アメリカ大陸からユーラシア大陸への侵攻というかたちになったのだろうか?
否、と著者は言う。そして、その理由を98年度ピューリッツァー賞に輝いた本書で、最後の氷河期が終わった1万3000年前からの人類史をひもときながら説明する。はるか昔、同じような条件でスタートしたはずの人間が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答えは、地形や動植物相を含めた「環境」だ。

(アマゾンの商品説明より)

著者のジャレド・ダイアモンドの立場は明確です。「人種による優越はない」。にもかかわらず、持てる人々と持たざる人々との差異は厳然として存在する。これはなぜか? その理由は「環境」にあるとしたのが本書です。 恵まれた「環境」で暮らしていた人々は「進歩」した社会を営むようになる。

「環境」には大きく2つの要素があります。まずは「発見」。
 ・栽培可能で利用価値の高い植物が自生しているか。
 ・家畜化可能で利用価値の高い動物が存在したか。

本書で明らかにされますが人類にとって有益な「種」は、思いの外少ない。ユーラシア大陸に偏在し、なかでも肥沃三日月地帯(メソポタミア)は「発見」の条件が恵まれていたらしい。

もうひとつの要素は「伝播」です。
 ・大陸は東西に長いほうが有利。
 ・地形的な障壁(砂漠地帯など)の有無。

ユーラシア大陸は「発見」「伝播」のどちらの要素も、他の大陸に比べて「進歩」にとって有利だった。

「進歩」のコースも定まっています。①から④へと「進化」していきます。

①小規模血縁集団(バンド) 
  数十人の血縁集団で、移動生活。
②部族社会(トライブ)
  数百人の血縁集団の集合体。定住生活で村落数は1。
③首長社会(チーフダム)
  数千人からなる階級化された地域集団。定住生活で村落集は1または複数。
④国家(ステート)
  5万人以上からなる階級化された地域集団。多数の村落と都市からなる。

当然のことながら、①から④へ「進化」するにつれて社会は複雑になり集権化していきます。さらに、「進化」は「競争」を促すことにもなる。「競争」はしばしば紛争という形になって表れ社会の攪乱要因になりますが、一方では「進化」をいっそう加速させる要因にもなります。

「競争」が「進化」を促す要因であるということは、「競争」が決着して社会が固定化すると「進化」が止ってしまうことからも例証できます。中国や日本がその実例で、これらの地域では「進歩」した技術を敢えて捨ててしまうという事態も起きた(日本の鉄砲の禁止など)。欧州では「競争」が決着することなく国家が「進化」を競ったために、他の大陸と比べて有利だったユーラシア大陸のなかでもより「進化」を大きく進めることになったと考えることもできる。『銃・病原菌・鉄』はそのような指摘もしています。

「進歩」は「エイジング」

著者のジャレド・ダイアモンドにはこの『銃・病原菌・鉄』に続いて『文明崩壊』の著作があります。そちらへ触れるのはまたの機会にしますが、そこでも著者の唯「環境」史観は健在。社会=文明を生命体になぞらえ、唯「環境」史観から文明崩壊の法則を探るというスタンスです。

社会を生命体と考えることは、社会の「進化」に一定の法則があることからもの合理性はあるでしょう。そしてそう捉えるなら、社会が「進化」していくことは成長していくこと、すなわち「エイジング」だと捉えてもよさそうです。人間の社会は、その環境に応じて子どもから大人へと「進化」していく。①の小規模血縁集団がもっとも幼く、④の国家になるほど成人になる。国家よりさらに成長した帝国を想定することもできるでしょう。

生育した大人が幼い子どもよりも生存競争において勝るのは法則と言ってよいでしょう。歴史はその法則の実例集です。が、社会を成長する生命体と考えるなら、もうひとつ避けては通れない法則があります。それは「エイジング」は「成長」であると同時に「老化」であるということ。大人の社会は子どもの社会に打ち勝ちますが、大人の社会は自身の「老化」によって朽ち果てる。これもまたひとつの法則と言ってよいでしょう。

「アンチエイジング」と精神論

現在、世界は「グローバル化」したとよく言われます。経済と情報通信のネットワークによって世界はひとつになりつつあるというのは、認めなければならない事実でしょう。また、同時に言われるのは「持続可能な社会」ということです。こちらのほうも、社会が地球規模でひとつになったということを前提として認めています。

社会がひとつになったという点でこれら2つは同じところに立ちながら、別々の見方をしているとも言えます。「エイジング」の2つの意味合いのうち、「グローバル化」と言われるときには「成長」の意味合い、「持続可能な社会」といわれるときには「老化」の意味合いをそれぞれ持つ。社会がグローバルへと「成長」したがために同時に「老化」も起こり、「持続可能な社会」の希求という「アンチエイジング」が求められるようになった。また「老化」に該当する現象はそれだけではなく、グローバル化に伴うさまざまな弊害も同様だと考えられます。

社会がひとつになってしまったことは自然な流れ、歴史の必然でしょう。良かれ悪かれ現実はそうなのですから、そのように捉えるしかない。そしてそう捉えるなら、残された選択肢は「アンチエイジング」しかない。これもまた唯「環境」史観から導き出せることなのかもしれません。

ただ、ここから先は唯「環境」史観の中身をよく考えてみる必要があります。人間の身体も精神も同じように環境に従うと考えると、唯「環境」史観は唯「物」史観と同等です。それでは先が見えない。身体は環境に否応なしに適応していくが、精神は環境に応じつつも自在に対応することが出来る。つまり唯「環境」論は精神論を担保する。(このように考えることはもはや唯「環境」論とはいえないかもしれませんが)そう考えなければ「アンチエイジング」はただ単に環境に反応した条件反射のようなものと考えざるを得なくなってしまいます。

大きく柔軟な身体へ

一般に「アンチエイジング」というと、すぐに思い浮かぶのは女性の関心の的である美容の分野でしょう。私がここで提示している社会の「アンチエイジング」は「美容の思想」に近いものでもあります。

「美容の思想」は「手入れ」の思想です。不断の「手入れ」によって「理想」へと近づけようとするのが美容の営為。そしてその「理想」の具体的な姿が赤ちゃんの身体です。大人の身体を赤ちゃんの柔軟な身体へと「手入れ」によって近づけていく。
(実際、美容にどの程度の効果があるのかという疑問はさておき...(^o^; )

社会の「アンチエイジング」が「理想」とするのは、①や②の社会形態を秩序付けていたときの精神となります。人間社会が“若かった頃”の秩序意識です。とはいうものの、それだけで大人の大きな身体、グローバル化したひとつの社会を支えられることは出来ません。そこは“大人”の秩序意識はどうしても必要。ただ「理想」は忘れてはならない。大人か子どもかの二者択一ではありません。二者択一なら大人が生き残るだけ。大人でありながら子どもの状態も保つことが必要であり、そのための「手入れ」です。

「手入れ」は、もちろん、実際の何らかの営為でなければなりません。今のところその営為の具体像を提示することは私にはできません。決まった形式や技法があるものなのか、それとも「理想」を追い求める精神がありさえすればいいのか。それもわかりません。ただ、参考になると思われるものはいくつかあります。最後にそれらを紹介しておきます。

晴耕雨読 『イスラム世界が「近代化」に“失敗”したわけ』
もしかしたらイスラム世界はすでに「アンチエイジング」の方法論を見出していたのかもしれません。
日本を守るのに右も左もない
   『世界が注目する日本人の可能性9~日本とは、アジアの希望である』

そのイスラムから見た日本の姿(失われつつある姿ではありますが。)
光るナス 『サビ落とし』
「サビ落し」は、美容に相当すると考えてください。ここには「手入れ」の思想も語られています。

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード