愚慫空論

自給自足は自然なこと

本年最後のエントリーもまた、屁理屈をこね回してしまいます(笑)

自給自足と社会分業は矛盾しない

“自給自足は自然なこと”と言われても、納得のいくひとは少ないだろうと思います。“自然”の意味を“原始的”と捉えるなら納得する人も多いでしょうけれど。

ですがこれは屁理屈ですから、“自然”は“原始的”の意味ではありません。“かくあるべし”といったような意味です。でも、そうなるとおかしなことになる。それが自然なことかどうかは別としても、現在は社会分業が行き渡っていて、それが現実だからです。一般的に自給自足は社会分業の対立概念だと捉えれていますし、対立概念のほうが現実ですから、“自給自足は自然”というと“社会分業は不自然”ということになり“現実は不自然”という理屈になります。とはいっても、“現実は不自然”というのはやっぱり無理がありますから、そこを回避しようと思うと“自給自足と社会分業は矛盾しない”、という屁理屈を放り出すことになってしまう。

というようなわけで、“自給自足と社会分業は矛盾しない”という屁理屈を進めようと思うわけですが、ここで鍵になるのは「自」という文字です。「自」は必ずしも「個」ではない。自給自足というときでも、その単位は必ずしも個人ではない。家族とか、それより少し大きな共同体などが単位になることが普通です。ということは「自」は「個」よりも大きな広がりを持っていることになる。もし仮に、「自」が社会にまで広がることができるのなら、社会分業は自給自足の一手段ということになり矛盾しないということにもなる。私がここで言いたいのは、「自」が社会になるのは自然なのではないのか、ひいては「自」がほぼ「個」と捉えられている現状は不自然ではないのか、ということ。やっぱり“現実は不自然”といいたいのですね(笑)

「自」を「個」へと細分化したのは貨幣

「自」を考えるならば同時に「他」も考える必要があります。「自」でないものは「他」だということですね。つまり自他を区別する「線引き」があるというわけです。

しかし、この「線引き」はやっかりなものです。一筋縄ではいかない。個人個人で異なるものでもあると同時に、多くの人の間で共有されるものでもある。「線引き」を共有している者同士を「自」だと捉えたりもする。例えば国家といった「線引き」を共有しているものが国民であり、国民であることを「自」であると考えたりするわけです。こういった「考え」をナショナリズムと言いますが、ナショナリズムを支持するからといってそれだけがその人の「自」であるかというと、通常はそうではない。“それだけ”の人は原理主義者と呼ばれ、あまり好ましくない捉えられる。ということは「線引き」は一様ではないのが通常である、と考えられてもいるということです。

しかし、現代社会で生活を営んでいる私たちにほぼ一様に浸透している「線引き」は存在します。それが貨幣ですが、そのことに私たちはなかなか気がつかない。というのも、貨幣は直接私たち自身を「線引き」するものではないからです。

人の価値を貨幣で測定してはいけない。これは人間としての常識です。この常識は“同じ人間は「自」である”という「線引き」によって支えられています。この「線引き」をヒューマニズムといいますが、このヒューマニズムは裏を返せば、「他」は貨幣で価値を測定してよい、貨幣で価値を測定されるものは「他」である、という「理」を導いていくことにもなります。この「理」と貨幣が私たちに生活の中に浸透するという現象とが、「他」の領域が広がっていく、社会が「他」と化してゆくという事態を生みだします。

そこへ拍車をかけるのが貨幣が「自」と化してしまう現象です。“あなたのおカネはあなたのモノか?”と問われて“No”と答える人はまずいないでしょう。誰もが自分のカネは自分のモノだと思っているし、カネが増えれば嬉しいと感じます。しかし、そもそもの理でいえば、自分の所持しているカネは自分のものではない。借り物でしかない。借り物なら「他」と捉えるのが「理」のはずですが、誰もそんなふうには思わないのが現実です。

貨幣は社会分業を円滑に進めるためのツールです。社会を「自」と捉えるなら、貨幣はより豊かな自給自足をもたらすツールです。しかし現実の社会は、物質的には豊かにはなっているかもしれないが、自給自足の世界から思い起こされる豊かさはほど遠いものになっています。貨幣が「自」と化し社会とその成員が「他」と化すことで、格差が拡大してしまっている。「自己責任」などという題目は社会が「他」と化したことを見事に表していますが、そこへの反論が根源的なところにまで届かないのは、誰もが貨幣を「自」としてしまっている現実があるからです。

貨幣によって人を「線引き」してはいけない。この常識は未だに強く残っています。しかし貨幣は「他」を領域をどんどん広げ、この常識は外堀を埋めてしまうような状況に追い込まれているなっている。「自」の範囲がどんどんと狭くなり、「個」へと細分化されてしまう。それは日本では「無縁社会」と呼ばれていますが、人権でも大和魂でも、この事態は進行を抑えられることはできない。なぜか。人権よりも大和魂よりも、貨幣のほうが身近だからです。身近であるがゆえに「情」が働く。「理」は遠くのものにでも働くが「情」は身近でないと働かない。そして結局、世の中を動かしているのは身近なところで働く「情」です。小さな「情」の集積が「理」など蹴散らして世の中を動かしていく。それこそが現実であり、人間の“自然な姿”というものでしょう。一方で社会分業を推し進め、一方で社会を「他」としてきたのは、「情」から生まれた人間のエネルギーです。

イノベーションは「自」の発見

今現在私たちが暮らしている日本の社会は、多くの者にとって生きていくのが難しい社会になってしまっています。こうなったのは自然の成り行きだったろうと私は思っています。社会を現在のような形へと不自然にリードしてきた者たちは確かに存在するでしょう。しかし、それだけで社会が変わるはずもない。そのリードを認めたから、こうなった。認めたのでなければ、社会が変わってゆくエネルギーなど生まれるはずもないのですから。

ですが、今の社会への成り行きを自然だと認めることと、今の社会をそのまま是認することとは違います。生きにくい社会はやはり不自然です。移ろいゆくのは世の常です。多くの者が不自然に感じ始めたなら、社会がまた変わってゆくのもまた“自然な姿”でしょう。

ただ心配なことはあります。それは「自」が失われてしまったことです。人間は「情」からエネルギーを生みだしますが、「自」を喪失した「情」から出てくるエネルギーは破壊的であることも多い。“覇気がない”などといって無理にエネルギーを出させようとすると、破壊的エネルギーを出してしまう。そのことが心配です。

「自」を喪失しているなら、まず失った「自」を取り戻すこと。失った「自」は、私たちの伝統や文化の中にあります。同じ形で蘇ることはないでしょうが、再生の芽はそこに必ずあるはずです。「自」の再発見もまたイノベーションです。

これまでのイノベーションはすべて、「貨幣=自」という軸を強化する方向で行なわれてきました。“新たな価値の創造”といっても、その価値自体が貨幣で測定できなければ評価の対象にならず、貨幣による評価対象が次から次へと生みだされることがイノベーションだということになれば、イノベーションは貨幣の測定機能を強化するものとなるに過ぎず、「貨幣=自」へと収束を促していくことにしかならない。しかし、新たな「自」が新たな価値を生みだすのならば、社会分業の発展とともに深化してきた「貨幣=自」の呪縛を解くことこそ最大のイノベーションになるはずです。

そう考えるなら、「社会=自」という方向性、すなわち“自給自足と社会分業が一致してゆく”という方向性は、屁理屈というわけでもなくなってくるでしょう。分けても日本人は、伝統的文化的に「社会(共同体)=自」という軸を持っています。今の日本の「無縁社会」の急激な進行が「社会=自」の解体と並行的に進んでいることも考え合わせれば、イノベーションの軸を「貨幣=自」から「社会=自」へと再転換させることは、日本人にとって「自」の再発見、日本という邦(くに)にとっては再生への道、ということになるだろうと考えています。

「適切な選択肢」に欠ける日本

NHKスペシャル・シリーズ 日米安保50年 第3回“同盟”への道

日米安保条約の文言は一言一句変わっていないが、その意味するものは50年間で、大きく変貌している。「基地提供」から「防衛協力」へ。「極東」とされた範囲は「世界」へ。「安保体制」は「同盟」とも呼ばれるようになった。こうした変貌の陰で日米関係をコントロールしてきたのは、通称ジャパンハンドと呼ばれるアメリカの対日政策担当者と日本の外務・防衛官僚たちだった。東西冷戦を背景に作られたはずの安保体制を冷戦後も維持、強化させる選択をした彼ら。その過程で国民的議論はあったのか。そこには、したたかなアメリカの戦略ときわめて限られた官僚たちの密接な連携があった。官僚中心に進められてきた日米関係の実態に迫り、あるべき日米関係の姿を探る。


アメリカが主権をもった独立国家としてしたたかな国家戦略をもつことは、その戦略の善悪の議論は別として、正当なことです。
また日本において国際政治の最前線にいる人たちが、日本が国家安全保障を含む国際政治のもっと積極的なプレーヤーたるべきと考えるも、また当然のことではあります。

それぞれはそれぞれで正当なことではある。だが、それぞれを足し合わせた結果も正当なことであるとは限らない。これもまた当たり前の話ですが、日本において、“官僚中心に進められてきた日米関係の実態”とは、アメリカの「正当」な国家エゴと、日本の一部の官僚たちのこれまた“正当”な官僚エゴとが単純に足し合わされたものでしかなかった。そして、そのしわ寄せを日本国民わけても沖縄県民が喰らった。

官僚は政治家を欺す。それも国家の代表たる総理大臣をも欺す。仲間うちであるはずの官僚も欺す。そのような者たちが国民を欺すのに何ら後ろめたさを感じていないであろうことは、容易に推測できることです。“沖縄の皆さんに我慢してお世話になっていく以外にない”“それが「政治の要諦」だろう”などと言えるのは、そういった心性なしにあり得るものではない。『第3回“同盟”への道』は、そういった心性の者たちの「成果」を抉ったものだったいえるでしょう。官僚による独裁ならぬ「詐裁」とでもいうべき実態です。

そういった心性は、『第4回 日本の未来をどう守るのか』でも表れていたように思います。

最近、尖閣諸島を巡る中国との問題や、北朝鮮軍による砲撃事件、北方領土を巡るロシアとの関係など、東アジアの安全保障情勢や外交環境は急激な変化にさらされている。また、普天間基地の移設の問題も、解決の糸口も見えずに棚上げにされたままだ。今、こうした課題と向き合うために何をすればいいのか。アメリカとどのような関係を築いていけばいいのか。アジアの国々とどう向き合っていけばいいのか。そして、どんな国家を目指していくのか。日本の安全保障について積極的に発言してきた専門家たちが集まり、日本の安全保障のあるべき姿について徹底的に議論する。

<出演者>
○福山哲郎  内閣官房副長官

○寺島実郎  日本総合研究所理事長 

○田中均   日本総研国際戦略研究所理事長

○添谷芳秀  慶應義塾大学東アジア研究所所長

○豊下楢彦 関西学院大学法学部教授

○キャスター・国谷裕子


福山哲郎は「日本は独自の外交をできたとかできなかったとかではなく、そういう外交を選択してきた」と述べました。しかし、このような発言に私は違和感を憶えざるを得ません。私自身、日本国民としてそのような選択をした憶えもないし選択肢を提示された憶えもない。誰かが選択したという事後報告すら明確に聞かされた憶えもない。 なのに“選択した”などと言われても、頷けるものではない。日米安保が(日米同盟ではなく)日本の安全保障、ひいては私たちの経済的に豊かな暮らしに一定の貢献をしたことは否定しませんが、それは単に“結果オーライ”というだけのことです。

その点について、田中均は「いつ戦争が起こってもおかしくない状況のなかで、結果として安全は保たれた」といった旨のことを発言をしました。そして豊下楢彦の指摘、日米同盟において主権国家同士で国家戦略が一体化することのへ疑義、それも国会の議論を経ずして行なわれたという発言に対して、「日本と米国は一体化したわけではない」と反論した。これらは、私には「官僚エゴ」の典型のように感じられました。すなわち、“われわれ官僚が主体的に判断し、結果として日本の安全と繁栄をもたらしたのだから、それで良いだろう”という傲慢です。

確かに官僚たちは“主体的”な判断を為しえるだけの情報と能力を持っているのでしょう。そのことは議論の後半「台頭する中国とどう向き合うか」が議題になったときによくわかったような気がしました。中国を軍事的脅威という視点のみから捉えることを批判し、日本が主体的かつ多角的に安全保障を捉えるという議論には聞かせるものがあると思いました。しかし、ここでも問題は「日本」という言葉が指す意味です。おそらく田中均の頭のなかでは「日本=官僚」に過ぎないのでしょう。主体的判断をする「日本」の中に日本国民は入っていないだろうし、政治家すらも入っていないかもしれない。

では、国民は主体的判断を為しえない愚劣な存在でしかないのでしょうか。右はそうとも言い切れない結果を示しているように思えます。つまり、適切な選択肢が与えられさえすれば国民は割合に「妥当」な判断を示す。この一例だけからは断定は出来ないでしょうけれども、しかし、この一例に限って見てみれば、「アジアの国々と国際的な安保体制を築く」と選択が過半数を示したことは、驚くべきことです。国民はマスメディアから恣意的に国民に与えられる情報に従属して判断しているわけではないことが示されているからです。

仮に日本国民には妥当な判断能力が備わっていると考えるなら、問題となるのは「適切な選択肢」でしょう。さすがに私も、私を含めた一般国民に「適切な選択肢」を見出す能力が備わっているとは考え難い。そこはやはり多様な情報に接し、それを分析する能力に長けた者から与えられなければならないと思います。そして日本に欠けているのは、まさに「適切な選択肢」なのだとも思います。

沖縄“平和”への代償

5日に放映された『シリーズ 日米安保50年 第2回 沖縄 “平和”の代償』

多くを語る必要はないように思います。これだけで十分でしょう。

平和の代償5



平和の代償4



平和の代償3



平和の代償2



平和の代償1

こうした大勲位カッカの姿勢こそが「政治の本質」であり「要諦」なのでしょう。
“申し訳ない”は、口先だけにしておかなければならない。そうでないと政治はできない。

大変に厳しい現実です。

誠意って


こんな「問い」が発せられるようでは、「政治」はダメということなんでしょう。

でも、こうした「問い」が受け付けられなくなってしまえば、邦(くに)は滅ぶと思います。

誰が隠したのか ~『隠された米軍』

昨日放映されたNHKスペシャル『シリーズ日米安保50年 第1回 隠された米軍』

“隠された”なんてタイトルですけど、もちろんのこと、隠した者がいるわけです。では、誰が隠したのか。
この番組で明らかにされるのは、隠したのは日本政府だということ。

米軍を隠す。具体例として挙げられるのは静岡県の東富士演習場。戦後、米軍の演習地として接収されていた土地を日本に返還し、自衛隊の管理とする。ただし、米軍はいつでも、米軍基地と同様に自衛隊の演習地を使用できる。その法的根拠を日米地位協定の記述を拡大解釈することで確保する。そして、その提案をしたのは日本の側であった、ということ。(「地位協定2-4-B」問題

これは妙なことだ、と思いました。

1960年代、アメリカは一般の日本国民の反撥を怖れていた。60年の安保闘争の結果です。そこで、アメリカは「親日家」ライシャワーを駐日大使として送り込んだ。そのライシャワーは、一部先鋭的な共産主義者が主導した部分があったとはいえ、闘争を支えていたのは一般国民の反戦意識だと分析した。そして、日本国民を米軍に“慣れさせる”ことを画策した。

その画策は、原子力潜水艦や空母については成功します。佐世保などでの入港反対デモの主体が学生であったことを分析し(米軍がこのような「分析」をどのように行なっていたのか、大変興味のあるところですが)、国民の反核アレルギーを徐々に沈めていった。

そんなライシャワーが「親日家」とはよく言ったものですが、それはともかく、アメリカに属するライシャワーがアメリカの利益になるように行動することは理解できなくはない。

が、日本政府の行動は理解しがたいものがあります。なぜ、率先して米軍の存在を隠したのか。その動機がよく理解出来ません。

番組には“大勲位”中曽根康弘カッカも登場なさっていました。米軍隠し、すなわち演習場の共同利用は、日本がアメリカから自立する――自分の国は自分で守る――ための第一歩だったと宣うておられた。が、番組の最後には、東富士演習場の米軍使用は事前申告があるだけも年間300日を越え、その実態の詳細は日本政府も把握していない、とナレーションがあった。ということは、米軍を隠したのは、結果として、対米自立ではなく、隠蔽された対米従属を促進したということになります。カッカはそのことを自覚しておられるのでしょうか?

おそらく自覚されているのでしょう。であるからこその“大勲位”なのでしょう。ただ、その“大勲位”の本当の 意味もまた“隠されている”。

本当の意味が隠された勲位なんか頂戴して、嬉しいものなのでしょうか? そこも私にはよく理解出来ません。

『北の国から』 見てました

ここのところ、時間があるとずっと『北の国から』を観ていました。

『北の国から』については説明は必要はないでしょうが、一応、Wikipediaのリンク を貼っておきましょう。

観たのは全24話の連続ドラマから、『83冬』『84夏』『87初恋』『 89帰郷』『92巣立ち』『95秘密』『98時代』『2002遺言』のSPド ラマ。要するに全部です。観だしたら止まらなくなって、次から次へと観てしまいま した(笑)

長いドラマを通して観るのはさすがに疲れましたが、その甲斐はあったように思います。単にドラマを楽しんだ、というだけのことではなく。

もともとこのドラマは文明生活への「抵抗」という要素があります。そこを体現しているのが黒板五朗という役柄であり、物語の背景になっている美しく厳しい自然です。またその部分が『北の国から』が支持を集める理由でもあるでしょう。

チャールズ・インガルス ただ『北の国から』の「抵抗」には、どうにも締まらない感があることは否めません。『北の国から』は、アメリカのテレビドラマ『大草原の小さな家』のコンセプトを参考にしたとWikipediaに記述がありますが、あちらの父親役チャールズ・インガルスが大変に男らしくカッコイイのと比べて、五朗は泥臭くカッコ悪い。もっとも、そのカッコ悪さこそが『北の国から』の持ち味であり良さであるわけですが。

黒板五朗 五朗のカッコ悪さは逆にカッコイイのだということは、これまで私も理解していました。共感もしていました。ですが、黒板純がよくわからなかった。純もカッコ悪いのは親父と同様ですが、純のカッコ悪さはどうしようもない。五朗が徹底的にカッコ悪いとしたら、純のカッコ悪さは中途半端です。なぜ、純はそんなキャラクターなのか、五朗の徹底的なカッコ悪さを際立たせるための役柄なのか。そこのところがずっと腑に落ちずにいました。

『北の国から』は意地悪な物語です。次から次への災難が降りかかってきます。ドラマの登場人物たちは災難に翻弄されながら、またみずからも過ちを犯しながら、不幸に堕ちてしまわないように懸命に「抵抗」します。五朗は周囲の助けを得ながら、ブザマだけれどもなんとか「抵抗」して足場を確保する。が、純は「抵抗」しきれずに堕ちる。堕ちた純を五朗がこれまたブザマに足場へ引き上げる。ドラマを観る側は足場に引き上げられたところで安堵し「暖かさ」を感じるわけですが、純の中途半端が「暖かさ」の演出のためでしかないとしたら、それはいささか作為が過ぎるのではないかと考えたりもしていました。そしてそう考えてしまうと、観ていて気分が悪くなる。これまでは『北の国から』については、一方で共感しつつも、一方でそういった印象も強かった。

黒板純 しかし、今回、見方が少し変わりました。純が中途半端にカッコ悪くなければならない理由がわかったような気がしました。

つまり。純の意識は、ドラマを観ている視聴者の意識であるということです。視聴者が五朗をカッコイイと言えるのは、五朗が他人だから。もし自分の父親が五朗のようなら、どうか。カッコ悪い、恥ずかしい、という「負の意識」を必ず持つでしょう。視聴者がそれを持たずに済むのは、視聴者だからです。が、純が私たちと同じ意識を持っているとすれば、「負の意識」は持たざるを得ないはず。そして、それは純が自分自身に抱いている意識でもある。

黒板蛍 五朗は子どもたちを一途に愛した。そのことは純も蛍もわかっている。しかし、逆に言うと、それだけなんです。「一途」を示すために五朗は東京から富良野へ純と蛍を連れ帰った。五朗の「一途」は富良野の自然と一体になっている。それを子どもたちに与えた。でも、それだけしか与えられなかった。私たちはその「一途」をかけがえのないものだと思いながらも、今の社会で生きていくにはそれだけでは足らないとも思っています。だから純も(蛍も)そう思う。足りないとどこかで思う。そのことが彼らの負い目になる。「一途」がかけがえがなく大切であればあるほど、「不足」の重さがのしかかってくることになる。『北の国から』の物語はそのように組み立てられています。

では、この「足りない」ものはなにか。金か。教育か。私は教育だと思いました。それも「思想」の教育が足らなかった。

『大草原の小さな家』では、子どもたちに「思想」が教育されます。その「思想」は親からのみならず、社会全体から与えられる。チャールズ・インガルスの生き方は彼の地の「思想」に即したものとして描かれ、承認されています。その承認がチャールズをカッコよく見せる。ところが『北の国から』では、黒板五朗の生き方は社会全体の「思想」に即したものとして描かれていません。仲間うちでこそ生き方は承認されていますが、その「思想」は時代遅れのものだと否定される。また、そのことを五朗自身が知っているために、結局、子どもたちに与えられるのは「一途」だけというようなことになってしまう。『大草原の小さな家』には「思想」の継続が、『北の国から』には「思想」の断絶がある。純は、その「断絶」を象徴する存在だということなのでしょう。

もっとも、最後の『2002遺言』では、五朗の生き方は承認される方向で描かれます。それに伴って純も、「一途」だけで完結することができる五朗の本当の凄さにやっと気がつく、といったところに落ちついて物語は結ばれます。物語としてはそれでいいでしょう。ですが、『北の国から』が描いてきた「断絶」は、物語のなかでは修復する方向へ向かいましたが、現実の世界ではますます大きくなってしまっている。ここは物語のようにはいかないところです。

黒板五朗を否定した日本の「思想」は、結局のところ、日本人を統合させる方向へは働きそうにありません。この新しい「思想」は「不足」ばかりを生み出していますが、かといって「一途」なところはまったく省みませんから、「負の意識」は大きくなるばかり。純のような半端者を大量生産することになってしまっています。こんなことでよいはずはないのですが...


参考:『真面目を真面目に考えてみた』(404 Blog Not Found)

「一途」は「真面目」と同じようだが、違うんですよね。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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