愚慫空論

共同体のイメージ

ネットワーク 不定時法の世界(4)からの続きです。

一元的「私」 不定時法の世界の住人は左のような感じ人たちでした。 そんな人たちが集まって集団を作ると、右のような感じになります。

共同体22 「私」 にぶら下がる 文化自然11 はほぼ同じものです。ですから、上のイメージは左のようにも表現できるでしょう。これらのイメージが、私にとっての共同体のイメージになります。

これだけではピンとこないでしょうから、別の角度からもう少し続けます。

森をイメージしてみます。私たちは、何をもって森を森と呼ぶのか。まずイメージされるのは、樹木が密集しているところというものでしょう。では、森は樹木がたくさんあるだけのところかというと、それだけではありません。最も目立つ存在は樹木ですが、木々の集まりの中には多様な生物の世界が広がっています。そこまでイメージすると、森は生態系としてイメージされることになる。そうみると、樹木は生態系の構成要素のひとつだということになります。

天然林 生態系としての森のイメージが共同体のイメージです。
「私」 は樹木。 文化 は下草など。 自然11 はそれらを育む土壌だと捉えればよいでしょう。
つまり森=共同体とイメージするなら、樹木=人間、下草=文化、土壌=風土、ということになるわけです。

「共同体」という術語は現在さまざまな意味で用いられます。時には社会とほぼ同義に用いられることもありますが、たいていは社会という人間の集まりの一形態として位置づけられます。つまり、概念としては社会の方が共同体よりも大きく、社会は共同体を包有します。が、私がここでイメージした共同体は社会よりも大きなものです。社会とは共同体という生態系の構成要素である人間に焦点を合わせたもの。生態系としての森ではなく、樹木の集まりを森として捉えたようなものです。つまり“木を見て森を観ず”が「社会」だということになります。

樹木である私たち人間が樹木のことだけを考えて作り上げてきた現代社会のその姿と、人の手によって単一の樹種が植えられ砂漠化した人工林の姿は、大きく重なるものがあります。

人工林11

「命の値段」から考えてみる

過失は許されるべきか。それとも赦されるべきか。

今回は不定時法からちょっと離れてみることにします(少しは関係あるのですけど)。

今回の元ネタはとある民事訴訟です。dr.stoneflyさんのところ村野瀬さんのところでも取り上げられています。「命の値段」という話です。
その事件は実話らしいのですが、私は実話として扱いたくない。欺瞞的かもしれませんけど、いやなんです。だから単にエントリーのネタとして扱うことにします。

事件の経緯をおふたりのエントリーからごく簡単に再構成してみます(実話とは異なるところがあるかもしれませんが、ネタですので)

・ハンデキャップを持った少年が、職員の過失により福祉施設で死亡した。
・賠償金が支払われることになったが、少年の逸失利益は保険会社により0と算定された。
・その算定に対して生命の価値は平等であるとして遺族が訴えを起こした。
 (賠償金=慰謝料+逸失利益で、慰謝料は認められている。)

逸失利益を0と算定された遺族の不満は共感できます。不満はおそらく、0とされたことよりも健常者と差をつけられたことでしょう。生命の価値は平等であるとの見地に立てば、算定の基準はどうあれ、結果としては理不尽なもの。その理は理解出来ます。

が、その理が全面的に正しいかというと、そうすんなりとはいかないことは容易に予想できます。逸失利益は生命の値段ではないという理だってそれなりに正しいと言えますし(この理と人命平等の理は裁判で争われるでしょう)、そもそも失われた生命に額の多寡にかかわらず値段を付けるという行為が誤っているという理もあるでしょう。

私がここで述べたいと思うのは、いずれの理が正しいのかといった話ではありません。

果たして遺族は許せないのか、赦せないのか。

原則として過失は許してはならないと私は考えます。理由は過失によって損害を被る者がいるからです。損害は補償されなければなりません。だから過失は許してはならない。保険という仕組みの目的は損失補填ですが、ということは、保険は過失を許さないためのものだということができます。過失を侵した者が損失を補填できない場合もあります。保険はそのような事態を防ぐ。防ぐことができなければ実質、過失を許すことになってしまう。逸失利益という考え方も過失を許さないというラインから出てきたもののはずです。

過失は許してはならないから、保険という制度が設けられた。その結果に差が生まれた。遺族はこの結果を許せないのか、赦せないのか。私は、赦せないのだと感じます。

遺族が赦せないと思うことは共感できます。が、同時にその思いを肯定的には捉えられないところもある。赦せないのは悪だとは言い切れないが、かといって善だとも言えない。善くないのです。が、善くないことを肯定するこ とに対しては、はっきりと悪だと感じます。つまり、赦せないことを正当化することは悪だと断言できる。

今回、赦せない遺族の思いを正当化しているのは人命平等という理です。ふつう、この理は善だと捉えられています。が、絶対的普遍的な善なのかは疑問です。少なくとも今回のケースに善として適用することが正しいかどうかは疑わしい。

遺族は具体的な誰かを赦せないわけではないのかもしれません。赦せない相手を強いてあげれば社会というところでしょう。逸失利益に差が生じるのは社会が歪んでいるためで、赦せないのはその歪みである――こういった論理も成り立ちえます。

しかしその論理とて、本当に社会の歪みを矯正するものかどうかは疑問です。仮に遺族の主張が認められて保険会社が算定が否定されたとします。となると、保険会社はその種の保険から撤退することも考えられます。そうなれば福祉施設は予想されるリスクに対応できなくなり、福祉施設そのものが運営が難しくなる。余計に歪みが増すのです。こういった可能性も十分考えられるし、実際、このようなことは産科医の分野で起こっています。

そうこう考えれば、相手が特定されようがされまいが、赦せないことの正当化はしてはならない悪だと考えた方がよいと思われます。そもそも赦せないことの正当化は憎悪の連鎖を生みだす基盤です。これは歴史をみれば明らかなことです。

不定時法の世界(4)

(3)からの続き
今回は、不定時法の住人はどのような人たちなのかという視点から話を進めます。

一元的「私」 不定時法の住人が時刻を定めるにあたって取り込むのは、次の三種類の情報です。

 1.周囲の環境からの情報
 2.他人の意向
 3.時刻法についての知識

少し説明します。が、1は特に必要はないでしょう。
3は、1日が24時間であるとか、一時(いっとき)は昼と夜をそれぞれ6分した「区切り」であるとかといった知識体系です。これは「制度」あるいは「文化」と言えます。さらにはソシュールがいったところの「ラング」だと言えるかもしれません。
2の「他人」は、1や3を共有する自身と同等の「他者」という意味です。

不定時法の住人はこれら3つの情報を統合して時刻を定めます――と言いたいところですが、この記述はちょっと違います。時刻は“定める”のか“定まる”のか、ここは微妙なところです。“定める”と考えればその主体は「私」ですが、“定まる”と考えれば主体は存在しないことになる。“定まる”場所(器)が「私」ということになります。

“定める”のか“定まる”のか、この差をいろいろと思索することはできます。が、ここではそこを追究しません。“定める”のか“定まる”のかが曖昧な、つまり主体となる「私」なのか、場所としての「私」なのかが曖昧な「私」を抱えるのが不定時法の世界の住人であると捉えればよいと考えます。


対して定時法の世界では、主体としての「私」は明確です。

定時法の世界では、時刻は“定める”ものでも“定まる”ものでもありません。“定まっている”ものです。ですから、“定まっている”時刻を“理解する”「私」が主体的な「私」ということになります。
(ここでいう“理解する”は通常の意味よりも広い意味です。“信じる”をも含むと考えて良いでしょう。)

二元的「私」 定時法の世界の住人は、“時計を見る”ことを学び“時間を見る”ことが出来るようになる過程で客観的な時間という「想定」をも会得します。主体的な「私」は「想定」の会得と同時に生まれるものでしょう。

この考えると主体的な「私」と「想定」の順序が入れ替わってしまうようですが、それはでよいはずです。私たち人間は生まれながらして主体的な「私」を抱えているわけではない。それは成長の過程のどこかで確立するものです。ならば、主体的な「私」は“理解する”能力修得後に確立されると考えることは可能です。

つまり主体的な「私」は、学習し想定する「私」の内部に生まれたものです。この「私」は「想定」の普遍性が強化されるに従ってともに強化される。すると、「私」「私」の分離も促されることになります。この分離が「自我の確立」といわれるものでしょう。

・定時法の世界の住人  ―― 二元的に分離した「私」。自我の確立。
・不定時法の世界の住人 ―― 一元的に融合した「私」。自我は不明確。

続きます。

不定時法の世界(3)

(2)からの続き。不定時法の“時間感覚の確立”についてでした。

不定時法の時間感覚 ここでも簡単な例をあげて説明することにします。

甲、乙、丙の3人がいるとします。もちろん不定時法の世界の住人です。「卯」「辰」「巳」・・・というのは江戸時代の時刻法の「一時(いっとき)で、約2時間です(『不定時法の世界(1)』を参照)。右の図は甲、乙、丙それぞれの時間の区切りを表しています。一時(いっとき)の長さが各人それぞれ異なっています。
『不定時法の世界(2)』では試験を例にあげましたが、甲と乙はその試験の受験者であったとしましょう。試験時間は「巳の時」。Aは試験開始の時刻、Bは試験終了の時刻です。甲と乙は同じ試験会場にいて同じ時間を共有した。試験開始とともに「巳の時」は始まり、試験終了とともに「午の時」へと移った。
丙は甲乙のふたりと同じ時間を共有していませんでした。だから、甲乙とは「巳の時」がずれています。その丙が乙と「未の時」に出会う約束をしていた。Cは乙と丙がであった時刻で、乙と丙にとってはこの時点から「巳の時」が始まります。

甲、乙、丙の3人は周囲の環境情報(太陽の位置など)からそれぞれ時刻を「区切る」感覚を体得しています。が、不定時法の時間感覚はそれだけで確立されるわけではない。他の者と「区切り」をすり合わせる感覚も同時に持ち合わせて“時間感覚の確立”になるのです。

不定時法の時間感覚では、世界の住人が同じ「区切り」を共有しません。日の出(明け六)から日の入り(暮れ六)という大きな「区切り」は共有されてはいます。が、その「区切り」も曖昧です。大きな「区切り」の中の小さな「区切り」はさらに曖昧で、住人それぞれがその時々の必要に応じて他の者との合意で「区切り」を定める。だから、「区切り」が多少ずれていても意に介しない。というよりずれていることが前提で、そのずれを調整する感覚をもってはじめて不定時法における“時間感覚の確立”になる。

対して定時法の世界では「区切り」はすべての住人に共有されていると暗黙のうちに想定されています。「区切り」が異なると、それは「区切り」を表示する時計という装置の誤りだと考えられる。たとえば、乙の持っている時計が12:50分を指し、丙の持っているものは13:10を指しているとします。ならば間をとって13:00にしよう――なんてことは定時法の世界の住人は考えません。どちらかの時計が狂っている、あるいは双方とも狂っていると考える。そのように考え、正しい「区切り」を想定することが定時法の世界での“時間感覚の確立”になるのです。

定時法の世界の住人は、この「想定」を“時計を見る”ことを学習する過程ですり込まれています。“時計を見る”の意味するところは“時間を見る”ということですが、時間は目に見えるものではありません。ここでいう「見る」の意味は“目に見えない法則に照らして、現象を解釈する”というくらいのものです。“時計を見る”についていえば「目に見えない法則」とは、“一定間隔で刻まれる時刻”という「想定」です。定時法の世界の住人は、この1つの「想定」を共有している。ということは、定時法の世界はひとつの「想定」に支配された単層的な世界だということができるわけです。

・定時法の世界  ―― 客観的・普遍的・単層的・剛構造
・不定時法の世界 ―― 主観的・限定的・複層的・柔構造

逆に不定時法の世界には、定時法の世界のような単一で支配的な「想定」はありません。ですから主観的・限定的なのです。同時にその住人は互いの主観をすり合わせる感覚も持ち合わせている。ということは、不定時法の世界の秩序の構造は柔軟なものであるということができる。

次はそのような不定時法の世界の住人について、さらに考えてみます。

不定時法の世界(2)

(1)からの続きです。

当然の話ですが、定時法の世界と不定時法の世界とでは秩序の在り方が異なります。それぞれの世界の住人の「秩序感覚」が異なると言ってもよいかもしれません。

定時法 ・定時法の秩序感覚

定時法の秩序感覚が形成されるにはある前提条件が必要となります。“時計を見ることができる”という条件です。この条件をクリアした人たちが集団をつくると、定時法の秩序感覚が形成されることになります。

具体的な例で説明しましょう。
とある試験があって、試験会場に受験生が集まっているとします。試験監督官もいます。試験時間は2時間で試験の開始と終了は監督官の合図で一斉に行なわれるとする。ごく普通の試験のスタイルです。

監督官は2時間という試験時間を遵守しなければなりません。監督官が勝手に2時間という時間を区切ってはいけない。監督官の合図は、監督官に時間を区切る権限が与えられていることを意味しません。定時法の世界ではこんなことは誰も疑問に思いません。 監督官は合図を出しますが、これは受験生が“一斉に”開始・終了を行なうためです。つまり受験生が恣意的に時間を区切ることを防ぐため。基準はあくまで2時間という客観的な「区切り」。監督官の権限は「区切り」を守るためのものあって、客観的な「区切り」という権威に従属するもの。

客観的な時間の「区切り」という権威の下に万人が平等――これが定時法の秩序感覚です。
(定時法の世界は、「法の支配」の世界とほぼ同じだと考えることができそうです。違いは、「法の支配」ではその前提となる「正しい法」というものの確立が困難なのに対して、定時法の世界では「正しい時間」の確立は容易だということ。)

不定時法 ・不定時法の秩序感覚

同じような試験を例にとって考えてましょう。ここでは試験時間は一時(いっとき)、つまり約2時間です。

不定時法の世界では、一時(いっとき)という「区切り」を定める権威は存在しません。一時(いっとき)は、みんなの合意で決められることになる。“そろそろ一時(いっとき)だな”といって、みんなが合意すれば、それで一時(いっとき)。これが不定時法の世界の秩序感覚の基本です。

試験でそんなことは考えられない、と思うかもしれません。私も思います。試験には、試験を課す者課される者という上下構造があります。この構造を越えて“みんな”になるとは考え難い。では、どうなるかというと、試験を課す者・監督官に一時(いっとき)という「区切り」を恣意的に行なうことが出来る権限が与えられることになる。その権限はみんなの合意によって与えられ、みんながそれに従う。ですからこの権限は、権威を背景にしてのものではない。いうなれば「お役目」なのです。

不定時法の世界が形成される前提条件ももちろんあります。それは、時間についての感覚を体得しているということです。お天道様の位置を見てとか、仕事のはかどり具合だとか、身の回りの何らか様子から時刻・時間を窺い知る感覚。そうした感覚が共有されることで、みんなの合意の上で「区切り」が恣意的に行なわれるという秩序感覚が形成されることになる。つまりここでの前提条件は、時間感覚の確立です。

・定時法の世界  ――“時計を見ることができる”が前提条件
               客観的な権威が秩序の基盤
・不定時法の世界 ―― 時間感覚の確立が前提条件
               みんなの合意が秩序の基盤

“時間感覚の確立”についてはもう少し言葉を継ぐ必要がありそうですが、それは次回。

不定時法の世界(1)

今回は時間の話。

不定時法というのは時刻を定める方法のこと。他に定時法があります。
現代社会で暮らしているわれわれが主に用いている時刻は、定時法で決められたものです。

時刻法

・定時法  ―― 時間を刻む間隔が常に一定である時刻法
・不定時法 ―― 時間を刻む間隔が一定ではない時刻法

定時法と不定時法の定義は、次のようにも言えるかもしれません。

・定時法  ―― 現代の新しい時刻法
・不定時法 ―― 昔の古い時刻法

定時法が普及したのは科学技術は発展して、一定間隔で時刻を計測することができる時計という利器が一般に普及したからです。時計が普及する以前は定時法にしたくてもできなかった。日本で定時法が採用されたのは明治六年のことだそうで、それ以前は不定時法。時代劇などで出てくる“明け六つ”だとか“丑の刻”だとかいうやつですね。

江戸の時刻
(江戸時代の時刻。コチラより拝借)


この江戸時代の不定時法は、よく次のように解説されます。
 (1)一日を昼と夜とに分ける
 (2)昼と夜をそれぞれ6等分する
 (3)6等分された時間の間隔を「一時(いっとき)」と表する
  (一刻≒2時間だが、季節によって長さが異なる。ゆえに不定時法)

でも私は、この解説は少し違うのではないかと思っています。疑問なのは「6等分」です。江戸時代には和時計という機械式でかつ不定時法に対応した時計があったそうですから、精度はともかく、技術的には昼もしくは夜を6等分できたのでしょう。が、疑問なのは、できたかできなかったかではありません。6等分しなければならないと当時の人たちが考えていたかどうかです。6等分ではなくて、6分すればよいと考えていたのではなかったか思うわけです。もちろん、6分といってもでたらめに6分ではなかったでしょう。出来ることならなるべく均等に6分する方が望ましいとは考えていたはずです。

しかし、“なければならない”と“望ましい”は、違います。この2つの間には断絶があります。

定時法の世界で生きている私たちは、時間は一定間隔で等分され“なければならない”と暗黙のうちに考えています。が、同時に私たちは自身に時間を正確に等分する能力がないことも知っています。不可能だから、その役割を時計へ託す。定時法の世界では、時間を分けるのは時計です。

が、時計が時間を分けると考えるのは妙な感じがします。時計は私たち人間が作った道具であり、道具である時計が時間を分けるという行為を主体的に行なうわけはないからです。私たちは時計によって客観的な時間が指し示されると考えますが、等間隔の時間の区切りは時計が作り出したものではありません。その区切りは私たち自身が“予め”作り出したものです。時計が表現している物理運動が時間として意味を為すのは、“予め”自身が等間隔に刻まれる時間という想定を持っているからです。

しかし、この“予め”は実は事後的なものでしかありません。時計という道具が普及し日常の生活の中へ入り込んでくることによって生まれた想定です。私たちはこのことを失念しているがために、時計の指し示す運動を客観的だと受け取ることになる。時計は私たち自身の時刻は等間隔という「思い込み」を映し出す鏡みたいなものでしかないのです。

不定時法の世界で生きている人たちは、こうした「思い込み」からは免れているといえます。この世界では時間を区切るのは私たち人間に備わった自身の感覚です。時間の区切りを時計という道具へ託さない。それゆえその区切りは不正確で曖昧です。でも、それでいいのです。不定時法の世界は、感覚の曖昧さを受容する世界です。だから、時間の区切りはなるべく等分である方が“望ましい”とは考えても、等分で“なければならない”とは考えなかったはずだと考えられるのです。

・定時法の世界  ―― 客観的・普遍的
・不定時法の世界 ―― 主観的・限定的

続きます。

尖閣諸島が中国の領土だとして

素朴な疑問です。

もし仮に尖閣諸島が中国の領土だとして、いったいどこに不都合があるのか?

正直申し上げて、私個人としてはべつに何の不都合もありません。


もうひとつ正直なことを申し上げますと、不快感はあります。間違いなく。“中国に領土を取られる”という不快感。

ですが、私は自覚は持っているつもりです。この不快感は、私自身が生みだした不快感に過ぎないという自覚。尖閣諸島が日本の領土だなどというのは、私の思い込みに過ぎません。
もちろん、私だけの思い込みではないことも知っています。多くの日本国民が共有する共同幻想です。

“尖閣諸島が日本領である”という思い込みは共同幻想であるがゆえに、“中国に領土を取られる”という不快感は容易に周囲と共有されることになります。そしてここに“不快感が共有される”という快感が生まれる。いつものように途中経過を素っ飛ばして結論してしまうと、この「快感」がナショナリズムといわれるものの中身です。

自覚を持つ私は、この「快感」に身を委ねるつもりはありません。委ねたら気持ちいいだろうな、幸せだろうな、とは思いますけど(苦笑) 


そんなわけで、私には特段の不都合はない。

尖閣諸島問題には漁業資源の問題、それから地下に膨大に存在するといわれている石油資源の問題が絡んでいることは、知識としては知っています。そうした資源の所属が問題になっていることも理解はしています。

しかし、そうした資源が日本国に所属しようが中国に所属しようが、私には直接関係はない。私に関係あるのは、そうした資源を私自身が消費できるかどうか、です。安価で購入できるかどうか。たとえ日本国に所属するものであったとして、高価で購入できないのなら何の意味もない。中国から買おうが日本から買おうが、消費者の視点から見れば商品は商品です。今、私たちが暮らしている消費社会は、世界各国の商品が溢れている。もちろん、中国の商品もです。尖閣諸島で採取採掘された資源が中国商品として日本で販売されても、消費者としての私は(不快感以外の)何の不都合も感じません。


このようなことをいうと、“オマエは自分の都合だけよけばいいのか!”という非難の石が飛んできそうです。こういった批判は大抵が「不快感」に基づくものでしょうから取り合うつもりはありません。ですが、実際の利害関係者(たとえば尖閣諸島付近で操業している日本国の漁業関係者)は、単に不快感だけではない。実際的な不都合があるでしょうから、“オマエは自分の都合だけよけばいいのか!”という批判には、取り合わないというわけにはいかないでしょう。

だた、取り合うとは言っても、正直に申し上げて、できるのは、“たいへんですね”と同情して差し上げることくらいのことです。私は当事者ではないのですから、実際の話、それが限界です。そして、同情というのであれば、同じく利害が絡む中国の関係者にも向けられるべきだとも思う。心情的には同じ日本語を話し容易にコミュニケーションが取れる日本側の肩を持ちたいのは山々ですけれども。

日本にも中国にも等しく同情する立場からみると、そもそも国境などといったことで争うことがバカバカしい。いやもちろん、当事者にとっては境界線が死活問題になることは理解出来ます。そこを理解するのはさほど難しいことではない。国境に限らず境界線を巡る争いは社会のどこにでもある問題で、社会人ともなれば多かれ少なかれ「境界線問題」に関わらずにはおれないのが現実だからです。


とはいえ、多くの場合、「境界線問題」は当事者同士の問題だと、当事者も周囲の者も認識するのが普通です。求められもしないのに何の利害関係もない人間が問題に介入してくることは、まずない。善意の第三者が介入して来るということが全くないとは言い切れませんけれども、そうした第三者が本当に善意なのかどうかは疑わしいところ。まず、疑われるのは当たり前ですし、善意のつもりで介入する方もまず疑われることを心得えておくのが当たり前。

ところが、「境界線問題」が国家同士の「国境線問題」となると、そうした「心得」はたやすくどこかへ素っ飛んでしまいます。実際的な利害関係は皆無であるにもかかわらず、自分にも介入する権利があるような錯覚に支配されてしまう。考えてみれば不思議なことです。


確かに国境が特別な境界線であることは間違いない。県境を越えるのと国境を越えるのとでは、同じ境界線でも感慨はまったく違う。それは私も認めますし、多くの人が共有するだろうと思います。が、そうした「感慨」が権利を主張する基盤となりえるのかといわれれば、私には疑問です。それとも、多くの者が「感慨」を共有しさえすればそれは権利の基盤となり得るのか? シオニズムをはじめ多くの宗教紛争を眺めると、この問いの答えは“Yes”となりそうですが...。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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