愚慫空論

共産主義のイメージ

私にとって共産主義のイメージは

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」

に集約されます。集約というよりも、これのみ、と言った方がいいでしょうか。この言葉を誰がどのような文脈で言ったのか、そういったことはあまり関係ない。この言葉のイメージがそのまま、私にとっての共産主義へのイメージになっている。

そしてこのイメージは、家族というイメージに結びついています。最も労働する能力のある者――家族の構成員だと、多くの場合、父・母――が働き、最も必要がある者――大抵の場合は、子ども――が多く取る。こうした「経済」がごく当たり前に実現される「場」が家族だからです。

人間が家族という形の「経済」を営むのは、人間以前の動物としてのヒトの性質に由来するものだと言っていいでしょう。ヒトの子どもは他の動物と比べれば、はなはだ未成熟な状態でこの世に誕生してきます。未熟な子どもは、それだけより多くの世話を必要とする。世話をするのが親の役目であり、それは普遍的な意味での「労働者」だということ。一般的な意味での経済においては、働く労働者からより多く受け取ることは「搾取」というイメージになりますが、家族という「経済の形」においては、多く受け取るのは愛情の表れ。決して搾取ではない。

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という「家族経済」を社会一般の経済の「形」にすることを目指す共産主義は、「幸福」のイメージにも結びついていきます。幸福な社会です。“家族的経済”はヒトの本来的運動であるところの――これを〈魂〉と呼びました――愛情で結びついたもの。愛情で結びついた形は、幸福の形です。つまり私にとって共産主義とは、社会における普遍的な「幸福の形」を追究、ということになります。

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が、普遍的な幸福の形の追究には、大きな壁が立ちふさがっています。普遍的が一歩でも具体的な方に歩み寄ってしまうと、それは胡散臭いものへと堕ちてしまうのです。

「幸福の形」は、人それぞれです。人それぞれに具体的な「幸福の形」がある。いや、ある特定の地域と時代で標準的な「形」は存在しうるといえるかもしれません。が、標準的は、普遍的具体的とが交わる部分集合ありではありが、、普遍的具体的となることはあり得ない。その理由は、ひとつは、ひとり一人がそれぞれ個性というものを持ち合わせているから。もうひとつは、普遍的具体的とは次元が異なっているからです。

普遍的具体化しようとする試みは、それがいかなるものであっても、たとえ善意に因るものであっても、それは愛情ではありません。愛情はあくまで自発的なものであり、人それぞれの具体的な形は、あくまで自発的に定められるもの。具体的個人が自発的に定めるから結果として具体的になるだけにことです。他人が具体的に強制する、また強制の意図がなくても他律的なれば、それは具体的個人の自発性を疎外してしまいますから、ハラスメントになってしまう。

“標準的”な共産主義は、生産手段の共有を主張します。この「共有」は具体的です。つまり、私有を廃して国有という形の“具体的”な「共有」の形を主張します。しかし、私がイメージするところの共産主義では具体的「共有」を必要としない。必要としないどころか、具体的に「共有」の在り方を定めることは必ず具体的個人の自発性を疎外するハラスメントになりますから、害悪です。すなわち「共有」は普遍的でなければならない、ということになります。

普遍的な共有というと“具体的”にイメージし難いところでしょうが、ここでも家族を考えてもらえばわかりやすい。すなわち家族が住まう“具体的”な家、家屋です。

家は、具体的には誰かの所有物です。父親か母親の所有あるいは共同所有。他人の所有物を借りているというケースも多い。が、ふつう、“私の家”と言うときには、所有の具体的な在り方については言及しません。英語で house と home の違いと言えば分りやすいでしょうが、ふつうの場合には、“私の家”と言ったときには home を指す。具体的には父母の所有物あるいは家族外の他人の所有物であっても、具体的個人である子どもが暮らす生活の「場」としての家は、子どもにとって“私の家”であるし、そう言っても誰も奇異には思わない。そして“私の家”は、同時に父母の家でもあり、兄弟がいればその兄弟の家でもある。つまり home という次元での家屋は、家族にとって普遍的共有物、ということになります。

普遍的共有物とは、「共感物」と言い換えてもよい。なぜなら home という次元は感情の次元だからです。ならば具体的とは論理的な次元だと言えるのか? 言えるでしょう。“誰の所有か”は法的・制度的な問題であり、論理的な問題と言えるからです。

共感物あるいは具体的所有物といった問題は、資本主義社会において生産の主要な場である「会社」についても当てはまる問題です。「会社」は具体的には株主の所有物です。が、その事実は、必ずしもその「会社」の従業員や顧客の共感物であることを妨げるものではない。妨げるどころか、所有者である株主にとっては所有する「会社」が多くの者にとっての共感物であることはたいへん有利なことで、そのことは所有者もよくわかっている。ゆえに所有者は従業員に忠誠を求め、社会には「会社」のイメージをアップさせるために多大なコストを掛けて広告を打つ。感情に訴えるわけです。

感情の次元に理路があるとするならば、それは論理とは言えないでしょう。呼ぶとするなら情理です。ということは、話を元に戻して、普遍的な「幸福の形」の追究は、論理において行なわれるものではなく情理によって追いかけられるべきもの、ということになります。「幸福の形」は決して論理的に言い表すことが出来るものではないのですから、理としては当然でしょう。

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そうであるならば、共産主義の問題は、「主義」という論理的イメージとは裏腹に、情理の次元の問題ということになります。つまり、私有か共有かといった具体的論理的な話ではなく、会社や国といった具体的な「形」が共感物となり得るかどうかといった感情的情理的な次元での問題だということです。

私は『〈子ども〉の経済』のエントリーにおいて、資本主義的「奪い合い」に対抗するものとして「分かち合い」と「与え合い」の2つを提示しました。そして、「分かち合い」は「奪い合い」と同じく希少性が前提、対して「与え合い」は過剰性を前提とする、としました。

自身の生命も含めて、モノを希少財と捉えるか過剰財と見るかは論理の次元の問題ではありません。それは個人各々の自発性の在り方に関わる情理の問題です。私は資本主義が「奪い合い」に、社会主義が「分かち合い」に、共産主義が「与え合い」にそれぞれ対応すると考えています。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」は、どう見ても過剰性が前提だからです。そしてそうであるなら、共産主義への道は、資本主義から社会主義への道の延長線上にあるのではなく、それぞれ別方向にあるということになります。


が、このことは共存も不可能だということではありません。共存は可能ですし、現に「家族経済」という共産主義的経済の「形」は、資本主義と共存しています。今日的問題の根源は、資本主義経済の源泉である希少性が過剰性を前提とすべき分野にまで侵食してきてしまっていることにあります。

ですから、この問題の解決は、“標準的”共産主義者が唱える社会主義的「分かち合い」では不可能です。具体的個人を希少性へ論理化した人権を基盤に社会主義へと制度を修正しても、過剰性の復権には繋がりません。むしろ希少性の侵食がより進む懸念があります。焦点は具体的な社会制度の改変にあるのではないです。

問題解決への道は感情の次元、“標準的”には「精神」と呼ばれるところにあります。意識改革と言ってもいいでしょう。希少性へと偏重してしまった精神を過剰性とバランスさせる必要がある。追究すべきはそのための情理です。

が、このことは具体的制度の改革は不必要だというのではありません。多くの場合、意識改革は具体的制度の変革に伴って起こります。私は減価する貨幣の導入がよいと考えていますが、それしかないというわけではないし、減価する貨幣を導入したからといって意識改革が必ず成るとは限らない。

重要なのは、減価する貨幣の導入に併せて新しい「エートス(行動様式)」を確立することでしょう。

もはや「良い戦争」の時代は終わった

志村さんが「良い戦争」という言葉を用いてエントリーをあげておられます。

志村建世のブログ:『良い戦争の条件とは(1)』
志村建世のブログ:『良い戦争の条件とは(2)』

 奇妙なタイトルと思われるでしょうが、近年に至るまで「戦争は絶対の悪である」とする思想は、世界で常に少数派でした。正義にのっとり、公明正大・人道的に戦って国益を守る戦争は、どこの国でも必要と考えられていました。その「良い戦争」の条件とは、何でしょうか。


いえいえ。奇妙どころか、近代における戦争というものを総括するのに、とても適したものだと思います。

「良い戦争」の条件を探るには、どのような戦争が「良い戦争」だったのかを観る必要があるでしょう。そして、近代という文脈において、「良い戦争」の最初はどの戦争だったのか? 思うにそれは、アメリカ独立戦争、そしてナポレオン戦争です。

歴史とはなにか (文春新書)

 国民国家という形態が普及したおもな原因は、軍事だ。ナポレオンが軍事の天才だったことに加えて、国民国家は戦争に強かった。
 君主制だと、君主は自分の財布からお金をはたいて、兵隊を雇って、訓練して、だいじにだいじに使わなくちゃいけない。大規模な常備軍を抱えておくことは、あまりに金がかかりすぎて、ほとんど不可能に近い。これにくらべて、国民軍は、ほとんど無限に多数の兵士を徴兵でき、短期間で大軍を動員できる。
 つぎに、国民軍が戦争に強い第二の理由だが、国民国家の時代になって、国民の最大の財産は「国土」だ、ということになった。そうなると、自分たちの財産である「国土」を、外国人の侵略から防御するのだから、国民軍の兵士たちは、ひじょうに勇敢に戦うのに決まっている。君主制の軍隊の兵士が、自分の給料をかせぐために戦うのとは大違いだ。フランスの場合は、それに加えて、自由・平等・友愛という「フランス革命の理想」を世界に普及する、というイデオロギーまで加わったので、ナポレオン率いるフランス軍は、無敵だった。


「良い戦争」とは、国民国家を契機づける戦争だと言っていいでしょう。

現代でも、戦争は「良い戦争」と演出されることが必須条件です。侵略軍は国防軍と言い換えられ、「国土」のみならず「財産(権益)」を守るためと大義名分が掲げられて戦争が遂行される。その胡散臭さはもはや明らかなのですが、それでも「演出」がいまだ止まず、戦争は行なわれています。

それはなぜか。

希少性の論理がいまだ有効だからです。国土という希少性。財産という希少性。人権という戦争に反対するときに用いられる概念も、前提は希少性です。戦争は人権という最も貴重な希少財を消費する。だから戦争反対という論理が組み立てられる。ところがその人権という希少性は、国土や財産といった希少財がなければ維持できない。だから一方で、人権を守るためには戦争は不可欠だという論理も組み立て得る。その枠組みは未だに乗り越えられていないのです。

そして、希少性の枠内から改めて「良い戦争」を定義付ければ、それは人命という希少性を損なうことなく国土や財産といった希少性を獲得すること、となります。

さて、今日は敗戦の日、一般に言われるところの終戦の日です。65年前の今日、敗戦という形で区切りが付いた戦争は、日本国民からみればだれがどう見ても「悪い戦争」でした。国土も財産も人命も失われた。

戦前戦中を生き抜いた経験のある方々の多くは、「悪い戦争」を通じて、国土や財産の希少性よりも人命の希少性の方が貴重なのだということを学習したのだといいます。戦前は欺されていたのだ、と。が、一方で、未だ人命の希少性よりも国土・財産の希少性を重く見る人もいる。この見方は戦争を知らない世代に広がっていますが、惨い戦争を生き抜いた人たちのなかにもその見方を捨てられない人たちもいる。戦争は二度としていはいけないといいながら、それでもどこか戦争の只中で過ごした時代を大切にしている人が多い。これはなぜか。

この答えは、希少性の論理の枠内を越えたところにあります。つまり、人間が本来的に持つ過剰性の領域の問題。あの時代、人間の過剰性は国土の希少性と国土のまつわる情緒性を軸に発露された。過剰性の見地から見れば、多大の希少性が失われる結果になった「悪い戦争」も、過剰性を大いに発露・蕩尽できた「良い戦争」だとみることができる。実際、当時の日本人の多くはあの戦争を「良い戦争」だと“信じて”いたはずです。

戦後「良い戦争」が「悪い戦争」となったのは、その判断基準が変わったためだということもできます。判断基準の変化が“欺されていた”という意識となって記憶に残っている。が、欺されるのはそれが自発的であったからであり、自発的であったということは過剰性が発揮されていたということでもある。

信じることから自生的に生じる自発性が、過剰性発露の構造なのです。

時代はめぐって現在は、かつてほど国土が過剰性を発揮する希少性として捉えられることはなくなってきました。それは、国民国家がいまや貴重なものではなくごく普遍的なものになったことと関係しているでしょう。が、その代わりに、軸となる希少財が人権に移ってきている。この場合の人権は、単に人命の意味ではなくて、もっと文化的なところも含んでいます。「文明の衝突」といった視点は、そのあたりからでてきているものでしょう。

いずれ戦争は人間が本来的に持つ過剰性の暴走なしではおこりえないことですが、その軸が人権に移ってきたということは、かつてのような「良い戦争」は起こりにくくなっているということでもあります。「良い戦争」を起すには、よほどの仕掛けが必要となっている。

が、戦争を生みだす論理は希少性の論理はいまだ有効性を保っていますから、戦争そのものはまだまだなくなりません。つまり「良い戦争」の時代は終わったて「悪い戦争」の時代に入った、ということです。

信じるなにかのためではなく、己の希少性を守るために戦争をしなければならない時代になってきた。君主制においての、国防軍と称するものが傭兵や奴隷兵の集団に堕ちてしまいつつあるのです。

〈子ども〉の経済

私は『自律性の罠』において「希少財である貨幣への欲求は自発的である」と言いましたが、これは本来的な意味での自発性ではありません。いわば二次的自発性です。

では、本来的な意味での自発性―― 一次的自発性とは何か。

マズロー マズローの自己実現理論です。

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1. 生理的欲求(physiological need)
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)

の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「承認の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」(deficiency needs)とする。生理的欲求を除き、これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機付けられた欲求を「成長欲求」としている。

人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)するとした。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行するものとした。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このように、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとした。


私のいう一次的自発性とは、マズローの「自己実現の欲求(self actualization)」に他なりません。

・生理的欲求(physiological need)
生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求
この欲求が満たされない場合、人間は生きていくことができなくなる。

・安全の欲求(safety need)
安全性・経済的安定性・良い健康状態・良い暮らしの水準など、予測可能で、秩序だった状態を得ようとする欲求
病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
この欲求を満たすために一生涯を費やす人が、世界にはたくさんいる。

・所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚
この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなり、鬱状態になりやすくなる。
この欲求が十分に満たされている場合、生理的欲求や安全の欲求を克服することがある。

・承認(尊重)の欲求(esteem)
自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求
尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。

・自己実現の欲求(self-actualization)
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化したいと思う欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。


1~4までの欠乏欲求が満たされ、人間が自発的に欲する自己実現の欲求が希少財への欲求であるはずがない。人間が希少財を善くする欲するのは、それは他人が欲することを知るからです。希少財である貨幣は、言葉と同じく他者によって意味づけられるもの。他者の欲求を自らの欲求としたとき、希少貨幣への欲求が始まる。だから希少貨幣への欲求は二次的なのです。

マズローは晩年に、自己実現の欲求を越えるさらに高次の「自己超越の欲求」(self-transcendence)があると主張しました。これは、思うに、創造性への希求です。またマズローは、この段階へは子どもでは達することは不可能だと考えました。

最高次6段目の自己超越の欲求は子どもに生まれることはない。が、ということは、5次の自己実現の欲求は子どもにも生じるということです。実際、4次までの欠乏欲求を満たされた子どもは素直に自己実現の欲求を発露させます。子どもが思い描く将来の「夢」は、希少財である貨幣を獲得するための手段などでは決してない。それは、〈子どもの夢〉は自発性が発露されるための回路であり、「夢」の実現は自己実現に他なりません。

〈子ども夢〉は奪うものではなく与えられるもの、すなわち贈与です。贈与の交換を通じて成長することが6次の自己超越・創造性の発露へと繋がる。そして、それを妨げるのが二次の自発性、すなわち他者の欲求を自己のものとすることです。

他者の欲求を自己のものとすることは、いうなれば「奪うこと」です。二次的自発性から希少貨幣への欲求が生じ、自生的にルールが生じる。自律的ルールが外的規範となり他律的になるのが「自律性の罠」ですが、現在はまさしく「奪い合いのルール」が支配する世界になっています。これは、〈子ども〉が他者の欲求を自己のものとして〈大人〉となり、その〈大人〉の自発性によってルールが組み立てられたことの帰結です。すなわち貨幣経済は〈大人〉の経済です。

「分かち合い」の経済学 対して〈子ども〉の経済は、与え合いの経済です。よく似たようなニュアンスで「分かち合いの経済」がいわれますが、これとは根本的に違います。“分かち合い”は希少性が前提ですが、“与え合い”は過剰性が前提だからです。過剰財の交換が〈子ども〉の経済であり、これは、「自己実現の欲求」からそのまま発露される一次的自発性により自生的に生じる自律的ルールによるもの、ということになります。

そして、楽観的に夢想すれば、〈子ども〉の経済は〈子ども〉に「自己超越の欲求」の発露を促すものです。

諜報謀略講座

諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス

“諜報謀略”とはいささか危なげな響きだが、きわめて真っ当な論考。企
企業経営という狭い意味での経営に留まらず、個人・国家の「経営」のための広範な知識が簡潔に提示されています。

 どうも諜報や謀略という言葉はタブーとされ、アレルギー反応を引き起こすような語感があるらしい。連載を始めるに当たって、そのような表層的な疑問や誤解をまず払拭しておきたい。

 インテリジェンスは必須である。国において。企業において。個人において。

「第1講:「諜報謀略」が個人、企業、国家の運命を左右する」


もっとも私は、「インテリジェンスが必須」とされること自体が不幸だと思いますが。

第1講:「諜報謀略」が個人、企業、国家の運命を左右する
第2講:プロフェッショナルがインテリジェンスを学ぶ理由
第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス
第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議
第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖
第6講:語られ得ぬ法華経の来歴
第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書
第8講:一神教における愛と平和と皆殺し
第9講:イスラームの葛藤
第10講:日本の多層・多神教の心象風景
第11講:キリスト教国家アメリカ中枢の黙示録的思考
第12講:古今東西、CIAの対日工作にまで通底する『孫子』の系譜
第13講:中国人と仲良くする方法(チャイナ的人間関係への棲み込み)
第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)
第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神
第16講:大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ)
第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの
第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話

『ハラスメントは連鎖する』(6)

 評価の強力な味方であり、情動反応の大いなる敵となるのは、自分自身をパッケージ化することである。自分のパッケージ化とは、自分で作り上げた自己イメージを、自分とみなすことだ。


俗にいわれる「自分探し」とは、自分とみなすことができる自己イメージを探すことに他なりません。

 情動反応に基づく学習をしている限り、自分は常に変化していく。情動反応によって創発するコンテキストも、その場その場で異なる。時間的に固定した自分というものはあり得ない。それゆえに、常に変化する状況に対応することができる。
 また、自分に対する理解も状況の変化、学習状態の変化に応じて常にアップデートされ続ける。自己のイメージは、仮想的に時間を止めた構想物であり、情動を感じる「今」の自分と切り離されている。


自分が安住することができる、すなわち周囲から評価を得ることが出来る「仮想的構築物」を求める。「自分探し」は、その肯定的なニュアンスとは裏腹に、自分自身への裏切り行為であり危険な行為です。

求める自己イメージが見つからず「自分探し」を続けることは自分を裏切り続けること。自分を裏切って不安が解消できるはずがありません。また、安住できる自己イメージが見つかっても、問題は解決しません。

 自分が過去にしたことや自分が想像することを固定化して、それが自分の人格を代表するものだと思ってしまうことがパッケージ化である。「自分は明るい人間だ」「自分は善人だ」といったものもパッケージ化の一種に過ぎない。


「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」。この「善意」はパッケージ化された善意です。

 本当はどのような評価基準を選んでパッケージ化するかに恣意性があるが、そこは暗黙の前提なので気がつかない。どんな行動も自分の自律性に基づいていないので、責任転嫁することが出来る。
具体的な例をあげれば、評価基準を愛国心にしようが人権にしようが、ともに恣意的であり絶対的な評価基準ではないということ。

 パッケージ通りに行動できなかった場合に限っては罪悪感を覚える。


そして、恣意的に定めたパッケージから外れた人間を「善意」によって断罪することになるのです。

 最も親しんでいる自分自身をパッケージ化してしまえば、他人もパッケージ化してしまうことは当然の帰結である。著名人を勝手にパッケージ化してしまえば、それを外的な評価基準として用いることが出来る。「誰々のようになりたい」と考えて、ますます本来の自分を置き去りにする。
 周りの人間に対しても、「自分はこういう人間だ」「あの人はああいう人間だ」と勝手に決めた上で、そのパッケージ同士の操作をコミュニケーションとして行なう。
 相手をパッケージ化して、そのパッケージに対する働きかけを現実に存在している相手に対して行なうのは、ストーカー行為と同じ悪質さをもっている。自分が勝手に作り出したイメージを他人に押しつけた上で、そのイメージに対してメッセージを投げかけるという行為は、他人の人格への攻撃以外のなにものでもない。



 パッケージ化には、何ら肯定的な意味もない。自分がどういう人間かを決めることに何の意味があろうか。自分に対しても他人に対しても、自分はどのような人間かを説明したり、自分の行為について先回りして理由を説明したりする必要はない。自分の理念を述べて行動を正当化することは臆病である。

 「他人の理解」に肯定的な響きを感じるひとも多いだろう。ところが相手を理解することに価値があるわけではない。相手の生命に配慮したコミュニケーションをとることが重要なのだ。そうすれば自ずと相手の全体像は把握されていく。
 これは人間に情動反応による創発の能力が備わっていることによって保証されている。


結婚しない(できない)若者が多くなってしまっていることが大きな社会問題になっていますが、この最大の原因は経済格差ではなく「臆病」でしょう。昔は見合い結婚が多かった。結婚するまで相手のことは何も知らなかったというケースも多かったといいます。今日ではそうした結婚形態を古き共同体の因習からの圧力だと捉えがちですが、その理解では本質を見誤ってしまいます。

見合い結婚が通常だった時代、女の子たちに将来の夢はと尋ねると「お嫁さん」「お母さん」という答えが多かった。この答えは“相手の生命に配慮したコミュニケーション”への希求の現われです。伴侶となる「他人への理解」よりも創発的コミュニケーションへの希求の方が高かった。自分自身への信頼度が高かったわけです。

 上官の命令に従い、どんな任務でも着実にこなす有能な仕事人間、結婚記念日には妻に花を贈る愛妻家、マナーを遵守する真面目人間、これらがアイヒマンのパッケージであり、彼はこのパッケージになりきっていた。
 そして彼にとって、ユダヤ人は虐殺対象のパッケージだった。


パッケージ化は決して自発的に起こるものではありません。情動反応が他者によって咎められ続けた結果、本来の自分の代わりに設定されてしまうものです。

子どもへのまなざし子どもへのまなざし
(1998/07/10)
佐々木 正美

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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