愚慫空論

『ハラスメントは連鎖する』(5)

 人間は理性や倫理観があるから正しい行いをするのではない。理性に頼っても、計算量爆発に遭遇するのがオチだ。正しい行いとは情動に沿いつつも、外界と調和した行動のことである。外的規範は、情動の声に従うことを阻害する。つまり、インターフェイスの暴走の原因は外的規範である。


インターフェイス暴走の結果として引き起こされる典型例が、犯罪です。犯罪を置かしてしまった者は、理性が足らない、倫理観が欠如しているとして非難されるのが常ですが、そうではない。犯罪の原因は、一般に考えられているのとは逆に、外的規範に従うべしと命令する理性の方にある。

 情動を抑え込み外的規範に従った姿、それは精神病質に他ならない。精神病質の危険性が指摘されているのに、外的規範に従うことを奨励するのはおかしなことだ。なぜなら外的規範の奨励は精神病質を理想とすることと同じだからだ。
 情動反応ではなく外的規範を絶対視することがハラスメントの本質である。精神病質が理想とされるのは、世界にハラスメントが蔓延した結果だ。問題を引き起こすのは外的規範であるにもかかわらず、それが正当化されているのがハラスメントの恐ろしいところである。
 これはまさに「人格に対する攻撃」と「人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令」の合わせ技という、ハラスメントの基本的と同じ構造になっている。

 ハラスメントを受けると、自分の感覚が信じられなくなっていくので、自分がハラスメントを受けたことを直視することが困難になる。そうなればハラスメントの正当化を信じた方が楽なので、教育やしつけの名の下にハラスメントは美化され奨励されていく。こうしてハラスメントは伝播し、悪循環を重ねていく。



教育やしつけによって子どもに与えられるのは「評価」です。子どもに外的規範を押しつけ、外的規範に従って行動したときに「評価」を与える。愛情とは相手をありのまま受け入れることですが、愛情を与えられず「評価」のみを与えられた続けた子どもは、外部的な価値観に沿って褒めてもらうことが生きる目的となって行ってしまいます。

 親に愛されてないという事実は、子供に劣等感を生じさせる。この劣等感は、子供の側に原因があるものではない。親の側から一方的に押しつけられた「謂われなき劣等感」だ。この劣等感を真に受け、自分の存在を受け入れられなくなると豊かに生きることが不可能になる。
 劣等感を感じた子供は、原因が自分にあると思い込んで、何とかそれを払拭しようとする。その有効な方法が、外部的な価値観に沿って頑張ることである。

そうして成長した子供が

 劣等感を感じると、その原因は評価の低さの方にあると思ってしまう。評価されると、自分は正しいことをしていると思い込んでしまう。結局、評価的視点から自由になるという発想には至らない。そして評価的視点を持っている限り、劣等感の本当の理由には気づくことができない。
 そのような情況で、なんとか劣等感を払拭しようとすると、際限なく評価されることを求め続けることになる。自分自身を受け入れることができず、「苦手なことを克服したい」「完璧な人間になりたい」と努力を続ける。しかし、このような目標設定それ自体が間違っており、満たされることはあり得ない。その結果、行動はエスカレートする。アイヒマンが虐殺に携わるに至ったことは驚くべきことではない。


貨幣経済システムが全域化してしまった現代社会で暮らす者の多くは、システムからのハラスメントにかかってしまっています。「勝ち組」「負け組」といった区分けも、貨幣による「評価」を自身が正当化しまっているために受け入れられている。自由な競争を是認し格差を肯定するのも、格差を否定し所得を再分配すべきと主張するのも、どちらも「貨幣による評価」という枠組みからは出ていない。評価的視点を保持し続けている。よって、劣等感の本当の理由に気づくことはできないのです。

 現代の日本は学歴社会であり拝金主義も幅を利かせている。これらは両方とも強力な評価的視点の表れで、テストでよい点を取れる人間が有能である、お金をたくさん持っていれば何でもできる、という価値観から成っている。このような価値観のなかで育つと、一旦否定した自分の情動反応を取り戻すことは難しい。
 情動反応によって自分の判断ができなくなると、外的規範をルールと見なし、そのなかで一番いい目をした人間が褒められるというゲームの参加者になってしまう。


(6)に続きます。

自律性の罠

文明の「血液」―貨幣から見た世界史
貨幣経済の肝要は、貨幣が希少財だという点にあります。

人間は希少財を欲する。これは誰に強制されるわけではなく、自発性に依ると言っていいでしょう。

貨幣経済は、希少財である貨幣への自発的欲求によって開始される。
そこで自生的に生まれてきたのが市場原理だと言うことができるでしょう。
ハイエクがいうところの「自生的秩序」です。

自発性から自生的に秩序が生まれ、自律性が生じていくことになる。
市場原理主義とは、この自律性に従うべきだとする考えです。

ところで、資本主義は単なる貨幣経済ではありません。
貨幣が増殖する仕組みを内蔵した貨幣経済です。

貨幣に対する自発的欲求を利用して、貨幣を創造することで人間の自発性を引き出す。
自発性を引き出すという点において、資本主義は社会主義よりもずっと優れていた。
社会主義の出発点は理念の理解による人工的秩序の元での自律性でしかなかったから、自発性を発揮させた資本主義には適わなかった。

が、この資本主義も限界に来ています。貨幣が希少財ではなくなったからです。
貨幣を増殖させる資本主義経済が、貨幣を希少財から過剰財へと変化させた。
にもかかわらず、人々はいまだ貨幣を希少財だと理解している。

それゆえ貨幣が希少財であったころに自生的に生じた秩序はいまだに有効だと信じられており、自律性が発揮されています。
ですが、その自律性が自発性を疎外するという事態が広がっている。

つまり、資本主義が限界に達した現在は、「自律性の罠」とでも呼ぶべき自縄自縛・自家中毒状態に陥ってしまっているわけです。


では、この自縄自縛状態から脱するにはどうすればよいか?

鍵は自発性です。自発性が資本主義を発展させてきたなら、資本主義の限界を乗り越えていくのもまた自発性でしかない。しかし、現在主張されている主たる方法論は、いずれも自律性を重視するものばかり。

すなわち、経済右派は未だ自発性を失った自律性に拘泥しており(極端な例が市場原理主義)、左派は人工的秩序による自律性に依拠しようとする。いずれの方法も自発性を疎外するものでしかなく、資本主義の限界を乗り越えていくことができるものではありません。

考えられる方法は2つ。

1は、貨幣を希少財へと戻すこと。
  具体的には兌換紙幣を復活させる、金銀本位制に戻ることです。

2は、貨幣を余剰財と捉えるところからの自発性に依ること。
  余剰財としての貨幣とは、減価する貨幣のことです。

我が子を喰らうサトゥルヌス

サトゥルヌス 右の絵は、ご存知の方も多いと思います。

『我が子を喰らうサトゥルヌス』

スペインの画家、ゴヤの作です。

ローマ神話に登場するサトゥルヌス(ギリシア神話のクロノスに相当)が将来、自分の子に殺されるという預言に恐れを抱き5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにしており、自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、伝承のように丸呑みするのではなく自分の子を頭からかじり、食い殺す凶行に及ぶ様子がリアリティを持って描かれている。

(Wikipediaより)


不条理を描き出した“おぞましい”という形容がピッタリの絵。

こんな絵画を引っ張り出してきたのはもちろん理由があります。それは『アースリングス』
この映画で描き出された「不情理」の“禍々しさ”が、ゴヤの絵画に描かれた「不条理」の“おぞましさ”と重なるように感じた――それがこの絵を持ち出した理由です。

もちろん、親が我が子を食い殺す「不条理」と、人間が動物を食い殺す「不情理」は重なりません。生物としてのヒトが他の動物を食い殺すのは、条理に適った「自然界の掟」とでもいうべきものです。にもかかわらず、『アースリングス』で次々と紹介される映像はおぞましい。そこにあるのは、明らかに「自然界の掟」からは逸脱した狂気だからです。

サトゥルヌスが狂気に侵されるのは、自己の破滅に対する恐怖からです。一方で『アースリングス』において、動物を殺してゆく人間たちに恐怖は存在しない。あるのは圧倒的な人間と動物の間の「圧倒的な非対称」であり、それゆえに人間には動物に対しての恐怖は皆無。だが、狂気は存在する。それが不思議なことに、恐怖からの狂気と重なる。
緑の資本論
『我が子を喰らうサトゥルヌス』と『アースリングス』に共通しているのは、狂気の発生源ではなくて、「圧倒的な非対称」が狂気によって遂行されるおぞましさなのです。

そういえば、中沢新一の『緑の資本論』に「圧倒的な非対称」と題された一章がありました。この書はごく乱暴にいえばテロリズム擁護の書なのですが、その擁護理由が「圧倒的な非対称」のおぞましさでした。サトゥルヌスの逸話を伝えるローマ神話(ギリシャ神話)では、サトゥルヌスはいずれジュピターにとって替わられることになるわけですが、その政権交代の正当性はサトゥルヌスのおぞましさによって裏打ちされています。

『ハラスメントは連鎖する』(4)

ハラスメントはアドルフ・アイヒマンのような人間を作り出す――今回は、ハラスメントの「効用」について。

「私はただ命令に従っただけだ」
 これはナチスによるユダヤ人虐殺を主導したアドルフ・アイヒマンの発言である。アイヒマンは虐殺の実行は自分の責任外のことであるとして、法廷で無罪を主張した。
 アイヒマンは決して嘘をついているのではなく、本当に良心の呵責すら感じていない。自分がある役割を演じられるかどうか、そして演じることによって褒めてもらえるかが全てであり、そのためなら人を殺そうが何をしようが関係がないというのがアイヒマンの姿勢である。残念ながら、この姿勢はアイヒマンに限ったものではない。

 アイヒマンは大量虐殺をしても、それが命令によるものである限り責任を感じることはない。なぜなら、外的規範に従っているからである。むしろ外的規範に従った行動が困難であればあるほど、ハラスメントを美化することができる。
 ハラスメントの美化は、外的規範に照らし合わせた評価を重要視することでなされる。愛情の不足は、外的規範への服従という結果をもたらす。
 アイヒマンは虐殺に関わった責任を転嫁する一方で、裁判で判決を受けるときに立ち上がらなかったことを指摘されたときには、顔を真っ赤にした。マナーが悪いという評価を自分に下したからである。アイヒマンは評価に一喜一憂する。


アイヒマンのような人格はかつては精神病質(現在は人格障害の概念に含まれる)と呼ばれたらしいですが、アイヒマンのような極端な例はともかく、現代社会では精神病質的な人間はごくありふれた存在です。また、通称「アイヒマン実権」と呼ばれる実験により、多くの人間が権威に服従して平気で他人を傷つけることが出来ることが示されてもいます。

  Wikipedia:『ミルグラム実験』(通称アイヒマン実験)

では、アイヒマンのような人間はどのようにして出来上がるのか? 前回提示した「魂・インターフェイス」という概念を用いて説明がなされています。

内部断絶 〈魂〉とは人間本来的の運動状態でした。

インターフェイスとは〈魂〉と外界とを仲立ちするところで、「学習」によって成長していきます。他人から見えるインターフェイスが「人格」です。

十分な愛情によって育まれたインターフェイスは、外界と魂との仲立ちの役割を十全に果します。「学習」とは常に生じる外界と魂との齟齬を「創発」によって埋めてゆく作業のことで、創発がくり返されることでインターフェイスは成長していく。創発は情動と感情によって励起されますから、創発が行なわれるには「自身の感覚」への自身の信頼が必要となります。自身の感覚への信頼を養うのが愛情の役割です。

 アリス・ミラーは、ありとあらゆる教育は有害だと指摘している。それは権威主義的な教育に限らず、反権威主義的なものについても同様である。
 教育をしたい、という欲求は、自分が受けた教育を正当化したいという欲求や、自分の都合のいいように他人を操作したいという欲求、もしくは自分が受けた屈辱を他人にも味わわせたいという欲求の表れであり、子供の成長を促すものでは決してない。
 それは教育をする大人が、自分は子供のために善意でやっていると思い込んでいる場合でも同じことだ。これらは全て闇教育であり、現代の社会に深刻な悪影響を及ぼしている。

 外的規範を正当化したり、しつけや教育が奨励されたりするときの根拠は、本能的行動が危険だという思想だ。理性を身につけて本能を抑えることが人間のあるべき姿だと考えるのである。
 魂とは人間が生来持っている運動状態である。本能とは、生存のための生まれつきの行動欲求であり、魂の声に他ならない。本能が危険であるという考えは、魂はそもそも不浄だという思想と同じである。
 人間社会には確かに多くの破壊的行動による問題が生じている。殺人はその顕著な例である。しかし、果たしてそれは本能的行動が原因なのであろうか。本能は、生存のために必要なことしか求めない。だから、本能を破壊的行動の原因にすることはおかしなことである。
 自己保存のために闘争をし、相手を死に至らしめることはあり得る。しかし、周囲に対して常に敵対的行動をとっていたら、自分が殺されてしまう可能性も増す。独立した殺害願望というものは、本能的なものとしてはありえない。
 もちろん、本能的行動が常に周囲との調和をもたらすというわけではない。飢餓状態にあれば、食物を求めて闘争することもあるだろう。だから、魂はもともと清らかであるという主張も成り立たない。
 魂は清らかでも不浄でもないし、善でも悪でもない。正邪や善悪の区別は評価基準があってはじめて言えることであり、評価基準は常に外的なものである。このことに目を向けず、魂が不浄であると主張することは、外的規範の絶対性を主張するための詭弁である。



その(5)へ続きます。

「民主主義の精神」の敗北

いつどこでだったかは忘れましたが、人間をコンピュータに喩えて次のように言ったことがあります。

「人がCPUで文化がOS,社会の制度はアプリケーション」

昨日参議院の選挙があって今朝その結果が出ましたが、議会制民主主義というのも制度ですから、上の例えでいうとアプリになりますね。このアプリは一般にはスグレモノという評判ではありますが、でも本当にそうなのか? 私の見るところ、日本文化というOSとのマッチングはあまり芳しくない。日本OSは非常に柔軟なOSなので、西欧製の議会制民主主義というアプリも資本主義というアプリもそれなりに走りはするが、いつもなんだかヘンテコな結果が出てきてしまっているような気がして仕方がありません。

今回の選挙結果もなんだかヘンテコです。いや、結果は結果ですから、それがヘンテコということはない。その結果を受けて政界の動き、これがなんともヘンテコな感じなんですね。

晴耕雨読さんがエントリー『菅政権に未来もないし、価値もない』にまとめておられる、岩上安身氏のツイートがそのヘンテコさを端的に表していると思うので、拝借します。

選挙前から言ってきたことだが、現在の民主党は、事実上、二つの政党の連立で、その亀裂は深まる一方。

菅政権を支える「反小沢・増税」のオリジナル民主党は、民主党を敗北に導いておきながら、「強気」の姿勢を崩さないのは、いざとなれば党を割り、「小沢派」を切って、自民党と連立するという切り札が残されているから。

官僚依存という点でも、オリジナル民主と自民党は共通する。


ひとつの政党が複数の勢力の連立というのは少し前までの自民党がそうだったわけで、何も民主党の専売特許ではありません。「複数勢力連立政党」が官僚組織に依存して政治を行なうという形が、日本OS上では議会制民主主義アプリは官僚組織というサブシステムを通してしか走らない構造になっているわけです。

本来、議会制民主主義アプリは「民意」というパラメータに左右されて政策という結果を出力する設計になっているはずなのですが、日本OS上で動作すると、それが「官意」にすり替わってしまうらしいのですね。

消費税増税について、「財務大臣を直近までやっていたため」と、はからずも、自ら、財務省の影響を強く受けてきたことを、明らかにした。

菅政権の本質は、もはや明白である。

官僚依存、そして自民党との連立を期待する政治勢力である、ということ。


さらに。

公職選挙法の縛りも解けたので、今まで書かずにきたことも書く。

選挙前から、何人かの与党関係者が、同じ言葉を口にするのを耳にした。

「菅政権は、民主党最後の政権となる」。

今までなら、小沢氏が党を割るのがパターンだが、その可能性は低い、という。

自民党の中に再編で結びつくカウンターパートが見つからないからである。

> 私もぶっちゃけ話を。 @iwakamiyasumi 氏も書いて居るが、反小沢系による民主党解体と大連立の噂、を聞いた。今回の参院選での異常で過酷な小沢派イビリは先方への手土産である、という信じがたいもの。

あちこちから出ていますよね。

> 消費税増税の民主を嫌って、おなじく消費税増税の自民を勝たせてしまった。我が国の民衆は愚かだと思いますか?

09年夏に民主党を支持した人にとって、菅政権は別の党。

支持できないとなったのは、ある意味では自然でしょう。


ここから見えてくるのは、2点。

実は“国民の生活が第一”“政治とは生活”と訴えていた「小沢派」こそが、議会制民主主義アプリを設計の通りに「民意」パラメータによって動かそうとしてた勢力である、ということ。これはつまり、「小沢派」こそ議会制民主主義を適正に作動させる「民主主義の精神」を体現している勢力である、ということでもあります。
他の勢力は、自民党やオリジナル民主党、公明党共産党も含めて「民主主義の精神」に沿った思考回路を持ち合わせていない。選挙前から連立を呼びかける愚を犯した某幹事長などその典型で、政治家が「民意の体現」であるということを全く理解していない。選挙という制度を政治家という特権階級への登竜門ぐらいにしか思っていないわわけです。そして、日本OSにはそうした特権階級を認めてしまう傾向がある。だから、官僚という特権階級へ登ってしまった者たちを受け入れてしまうし、共産党や公明党の背景にある「私製官僚組織」にも比較的寛容だったりする。また、そうでなければ、自分たちが示した「民意」とは別の政党に変わってしまったこと事態を許すはずがないのです。
(比例区の得票数では民主党が1位だったという結果からは、民主党の変節を許容したと受け止めることが出来ます)。

その点小沢一郎は、選挙結果を「民意の体現」だと受け止めていた。だからこそ「民意を預からなければ何も出来ない」という姿勢で選挙に臨んでいた。

が、今回の選挙結果で示されたのは、小沢一郎が求めようとした「民主主義の精神」の敗北だということでもあります。これが2点目です。

民主主義的な制度であるはずの選挙において「民主主義の精神」が敗北する。これ以上にヘンテコな話はありませんが、考えてみれば、「民主主義の精神」が選挙で勝利したのは前回の衆院選、ただ一度だけ。それも「民主主義の精神」の自力の勝利というよりは、自民党という利権集団への嫌気の結果と言った方がよいでしょう。

となればやはり、日本OSの上では議会制民主主義アプリは適正に作動しない、という結論になりそうです。

『ハラスメントは連鎖する』(3)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)
『ハラスメントは連鎖する』(2)では、強者の非暴力というところで話は終わりました。今回以降は「強者への道」がテーマになります。まずは「愛情の役割」について。

再び〈魂〉の話から。

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉に、いかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかもしれないが、魂と身体とを対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの働きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての働きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。


魂とインターフェース 次が「インターフェイス」です。
一般的には「精神」と呼ばれます。

 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂が剥き出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。お腹が空いたら泣く、おしめが濡れてしまったら泣く、寂しくなったら泣く、そして満足して快適な時は笑う、といった具合である。
 彼らは周りの人間に尊重され、配慮されることによって、必要なものを得ることができ、周りの人間とのやりとりを通じて成長を遂げていく。
 自然に成長していくなかで、魂と外界との間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手にわかる形に変換する装置のことである。


 それでは、インターフェイスはいったいどのように発達していくのであろうか。重要な役割をするのは情動と感情である。


・情動(エモーション):外界の変化に対する身体的反応で、一次と二次がある。
  一次:〈魂〉の働きによるもの。
   (例/大きな爆発音に驚いて身体を緊張させる)
  二次:学習によって発達したインターフェイスによるもの。
   (例/「爆発」という言葉に反応して身体を緊張させる)

・感情(フィーリング):情動をモニターすることで生じる脳内の反応。3種類ある。
  一次:一次の情動からの感情。
  二次:二次の情動からの感情。
  背景的感情:  

 背景的感情は身体状態に大きな変化がなくても常に生じている感情である。それは、生きているという感じ、今ここにあるという感じのことである。この感情ゆえに、私たちは自分の身体の全体像についてのイメージを保つことが出来る。
 このイメージは、生きていることによって不可避的に生じてしまう付随現象ではなく、脳が積極的に構成しているものである。


 インターフェイスが発達していくには、情動的身体反応が必要であり、それを感じる情動的感情が大きな役割を果している。そして、学習を通して発達したインターフェイスの今の状態は、生の感覚である背景的感情によって維持されている。
 学習には、物事を分類し判断するという過程があり、その結果、自分が世界をどのように見るか、物事をどのように取り扱うのかが変化する。
 では物事を適切に分類するということはいったいどういうことなのだろうか。

コンテキスト
右の「実際」が答えになります。

人間は情動によってコンテキストを捉え、コンテキストによってメッセージを意味づけします。

コンテキストは情動によって捉えられると言うことについては、

 赤ん坊が撫でられていたとする。それが本当の愛情ゆえの行為であれ、自分が優しいのだということを周囲の人間にアピールするための偽善的行為であれ、「撫でる」という行為としては同じである。
 しかし、赤ん坊はその行為が愛情によるものなのか、愛しているフリであるのかを、撫でる人間の微妙なしぐさ、表情、語りかける声、などの膨大かつ多種多様な情報から判断し、笑顔を見せて喜んだり、泣いて抵抗したりする。

 情動が生来備わっていることは、大きな意味を持っている。全く情動反応がないなら、コンテキストが捉えられないので学習は不可能である。受け取ったメッセージがいかなる意味をもつかを、メッセージのみからでは推し測ることはできない。
 さまざまな要素を相互作用したとき、それらの要素の性質を単純に足し合せた以上の性質が生じることを「創発=emergence」と呼ぶ。
 先ほどの撫でられている赤ん坊の例では、「撫でる」という行為に加え、撫でるひとの微妙なしぐさや表情が個別の要素である。そして、それを受け止めた赤ん坊の身体反応がコンテクストを創発し、自分が愛されているのか、欺瞞に利用されているのかを見極める。これは情動反応によってなされている。
 情動が生来的なものである以上、情動反応による創発も、学習された能力などでは決してなく、生来的なものである。


〈魂〉が剥き出しの赤ん坊は一次の情動に反応して学習するだけですが、インターフェイスが発達するにつれて二次の情動にも反応するようになります。もちろん、二次情動でも「創発」は働きます。そして

 現時点で創発について人類が有している科学的知識は、ほぼ皆無といってよい。

 創発が暗黙のうちに自律的に起きることは、人間の生命を生命たらしめている力である。そしてその能力は情動と感情のなかにこそある。


さらに。
ラベルづけ

意味とは、メッセージにラベルが貼り付けられることによって見出されるものだ。ラベルとはコンテキストの違いを表すものである。人間はメッセージに意味を見出して活動しているので、そのラベル付けシステムを持っていると考えざるを得ない。
 どのようなラベルを貼り付けるかは、情動反応によって創発したコンテキストに基づいて決まる。メッセージに対して、コンテキストに即したラベルが貼り付けられることによってはじめて意味が生じる。情動に基づいた意味づけ、コンテキストに基づいたラベル付け、それが学習の本質である。


「コンテキストに基づいたラベル付け」は、実は言語そのものです。五感で感知された現象(モノの形や色、大きさ、重さ、臭い、味など)が人が発する音声によってラベル付けされる。この現象とラベル付けには予めコンテクストがなければ言葉が意味を持つことはありえません。

また言語についてはもうひとつ重要な指摘がなされます。それは否定の概念は言語がなければ理解できない、ということです。

 (神経心理学者の)山鳥重の指摘によると、一旦理解した言語の記号的意味が前もってつかんだコンテキストにそぐわない場合には、コンテキストにあうように記号的理解の方が修正される。

これはどういうことかというと、例えば、赤ん坊が犬を指す「わんわん」という言葉を理解したとします。次に猫を指さして「わんわん」と言ったとします。そのときに周囲の大人が送るメッセージを赤ん坊は情動反応によってコンテクストにそぐわないと判断する。そして大人の「にゃんにゃん」という言葉を模倣したとき、コンテクストにそぐうものだと判断して猫=にゃんにゃんだと学習する。言葉の学習は否定の積み重ねであるということです。

ここで重要なのは、正しいの常に情動反応だということ。否定され修正されるのは言語の記号的意味の理解です。

(本書では孔子の「道」という概念を援用して、「選択」というラベル付けに関連する概念が必ずしも人類に普遍のものではない、ということを示します。)

 いつでもコンテキストに基づいたラベル付けができるなら、「選択」の必要は生じない。コンテキストを見失い「道」から外れた時に人は惑い、ラベル付けが「選択」の結果として行なわれる。

 私たち人間はすでに言語を獲得しているので、選択も否定も可能である。しかし、学習の本質は情動反応に基づいた意味づけを経験に対して付与することである。情動に基づかないラベル付けを、選択の結果、重ねていくことは本筋ではない。
 ところが人間は、その人生のなかでいつもうまく振る舞えるわけがなく必ずどこかで失端、コンテキストにそぐわないラベル付けをしてしまう。このような場合、恥を感じて「道」に立ち返ることが必要だが、自分の感覚に全幅の信頼を置いていないと、捉えた「道」の方が間違っているのかもしれないと考えがちである。これは、恥ではなく、罪悪感によるものだ。

恥と罪悪感

罪悪感の対象は、外的規範とインターフェイスとがずれてしまうことにある。だから、失敗したときには自分の魂を攻撃することになる。キリスト教に顕著な、外的規範に対して魂が不浄な存在であるという思想はこの典型である。
 そして罪悪感を覚えた結果、インターフェイスから魂を切り離し、外的規範に合せようとする。これはコンテキストを無視したラベル付けをすることに他ならない。
 一方恥は、魂とインターフェイスとがずれてしまうことを対象にしている。だから、間違いを犯した場合には、自分の外面的状態を反省する。まずいのは無感覚の状態であり、「道」に従ってラベル付けを修正することに重きが置かれる。


さて、ここまできて、やっと「愛情の役割」です。

 学習とは、ある出来事に即して情動が生じ、生じた情動を感情として捉え、感情と出来事に適切なラベル付けをするという順序で成立している。そして、学習の結果、情動が拡張され、拡張された情動がさらなる学習の機転となる、という形でループをなしており、学習をくり返すたびにループはどんどん豊かになってゆく。
 このループ自体は、生まれつきの所与のものであり、それが生命の生命たるゆえんである。だが、学習のループがきちんとまわるためにはいくつかの条件が必要である。

 大事なのは相手の行動を受容し、相応しい意味づけを提示することである。そのことによって、相手は自分の感じたとおり、つまり情動反応に沿って学習をすることができる。
 自分の都合に合わせて相手の行動を否定したり、意味づけを強制したりすることは、愛情に反する行為である。本当の愛情とは、相手に学習をさせようと否定や強制をすることではなく、相手の学習を阻害しないように受容と提示をもって望むことである。
 相手の情動反応を受け止めること、必要なラベルを提示すること、それが生命としての自然な役割の基本であり、愛情の役割である。


相手を罪悪感に誘導せず、恥を包み込むこと。そうすることで人間の感覚に全幅の信頼を置くことが出来るようになる。そういった人間こそが「強者」であり、「愛情の役割」とは強者を育てること、というわけです。

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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