愚慫空論

国民主権なら、政治家は国民が育てるべき。

国民主権を支持する人で、この主張に反対する人はいないと思います。

ところが。政治資金、つまりカネのことでは、この意見に反対の人ばかり

クリーン、クリーン、クリーン...

今の世の中、何をするにもカネが要る。食べていくにも子どもを教育するにもカネが要る。
だったら、政治家を育てるのにだってカネが要るのは当たり前。
なのに、この「当たり前」が「クリーン」の話にしかならない。

企業献金はダメ。
これは要するに企業に政治家が育てられるというわけだから。

政党助成金もダメ。
これは政治家を育てるのじゃなくて、育った政治家にカネを与えるものですからね。

では、どうやって政治家を育てればいい?
市民が私財を投じて育てるしか方法はないのかな?
そんなことはないでしょう。税金を使って育てればいいんじゃないの?

以前にも書きましたが、私の思うところは次の通り。

選挙に立った政治家は、その得票数に応じて政治資金を助成すべし。
当選するしないは関係なし。落選しても高い支持を得た政治家は「政治家助成金」で活動を継続できる。そうすれば、選挙のために重要法案を投げ出す、なんてこともなくなるかもしれない。

当選した人だけが政治家ではないんです。志によって立てば、それだけで十分に政治家の資格あり、でしょう。政治家助成金は、志ある政治家を育てる糧になると思いますが? カネがなくても地道に主義主張を訴えていき、それが認められればカネにもなる。

その上で企業献金を受け取るのも良し。ただし、それはキッチリ公表はされるべし。選挙ポスターに政治資金の内訳の記載を義務づけるくらいのことをすればいい。そうすれば、その政治家は誰に育てられたのかがすぐわかる。ケータイでQRコードを読み込めば、リストがズラっと出てくるくらいのことは、訳ないでしょう。

国民主権というならこのくらいやってもいいと思いますけど、いかが?

『ハラスメントは連鎖する』(2)

『ハラスメントは連鎖する』では、ハラスメントを仕掛ける人(加害者)を「ハラッサー」、仕掛けられる人(被害者)を「ハラッシー」と呼びます。

ハラッシーがハラッサーからハラスメントを仕掛けられると、ハラッサーの〈魂〉は呪縛されます。呪縛が強まると、ハラッシーは自分が被害を受けているという認識すら捨てることになり、自分の精神的・物質的資源をハラッサーに奪われることになります。

 しかし人間は、自分の生気を奪われままでは生きていけない。そこでハラッシーは、奪われた資源をなんとか取り戻そうとする。とはいえハラッサーから奪い返すことは恐ろしくて出来ないので、ハラッシーは自分にハラスメントを仕掛けない人にハラスメントを仕掛け、その人の資源を奪い取ろうとする。つまり、ハラッシーはハラッサーになる。
 まるで、吸血鬼に血を吸われた人が、吸血鬼となって他人の血を吸うようなものである。こうして吸血鬼になった人を我々は「ハラッシーハラッサー」と呼ぶ。(P.45)

「吸血鬼の原理」がハラスメント伝播の原理 です。

「吸血鬼の原理」とはいかにも大袈裟なようですが、決してそうではありません。ハラスメントは〈魂〉を呪縛する。改めて〈魂〉とは何かといいますと、それは「自分の感覚」です。人間は生まれながらに生存していくための感覚を持っており、この感覚が生存の羅針盤。そして、「自分の感覚」つまり「自分自身」を信じることで生じてくるのが「生気」です。ハラスメントはこの「生気」を奪う。「生気」を「生き血」だとすれば「吸血鬼の原理」は決して大袈裟ではありません。

このことは46ページから示される「具体的情況」にもよく示されています。
(ここは実際に本にあたって読んでみてください。)

さらに。

 ハラスメントは家庭や職場に限られるものではない。社会全体にハラスメントの悪魔がとりつく場合もある。その典型的なケースは軍国主義や植民地支配といった問題である。

日本の軍国主義から生じたハラスメントの一端は、『偽りの成功体験』で引用させてもらったのでそちらを見ていただくとして、植民地支配ではどのようなことが起きるのか?

 彼は、あるひとつの小さな事件を目撃した。それは、朝鮮人の花嫁を輿に乗せた行列がやってきたのを一群の日本人の男どもが見つけ、面白半分にむりやり行列を止めて花嫁を降ろし、輿に乗り込んで周囲を一周させたという事件である。

このような出来事が植民地では終始生じていたのであり、そうして沢山の魂が植民地独特のやり方で傷つけられていった。この傷が、現代の我々に対して叫び声を上げているのである。
 この傷は、放置しておいても解消するものではない。なぜなら、植民地支配を受けた世代が死に絶えたとしても、その傷ついた魂を持つ人々によって育てられた魂には、同じ傷が刻印されていくからである。
 自分が苦しめられた記憶に正面から立ち向かって克服することを許されず、泣き寝入りさせられてその記憶を封印させられた者は、無意識のうちに同じ傷を自分より弱い人に負わせようとしてしまう。もっとも傷つけやすいのは、幼い子供である。

 最初の世代はまだましである。なぜなら、どうして自分の心が傷ついているかを知っているから。もし勇気を持って立ち向かうなら、自分の心の傷と正面から向かい合うことができる。
 しかし二代目以降は悲惨である。なぜなら、どうして自分の心が傷ついているのか、サッパリわからないからである。

 この傷を持つ若者が、学校で歴史の時間に、植民地支配の様相を知れば、なぜだかわからないが、何とも言えない感情がこみ上げてくるのは当然である。その直接の関連性を意識しなくとも、無意識の何かが作動するからである。

 このような傷が、「反日」という形で噴出していることは、我々にとってむしろ歓迎すべきことである。その思いは歪んだ形をしていても、正しい方向に向かって投げかけられているからである。
 もし彼らの心の傷が、植民地支配の知識を持たないために隠蔽されたままであれば、それは治癒することが不可能となる。彼らは理由のわからない憤激にさいなまれ、ハラスメントの悪魔を撒き散らすことになり、事態はさらにやっかいなものになる。
 せっかく「反日」という形で悪魔が姿を現わしているのに、
「そんな感情を抱くのはおかしい。日本に感謝しろ」
 とハラスメント的な対応をすれば、悪魔はさらに増殖する。(以上 P.65~68)



では、どのように「ハラスメントの悪魔」と対峙すればよいのか?

「強者の非暴力」であると著者はいいます。

 社会の本当の敵は「悪人」ではなく「悪意」である。悪意を持ったコミュニケーションに目をつぶるなら、それは悪意を増殖させる。それはまさに「悪魔」と呼ぶのがふさわしく、悪人よりずっと手ごわい。主たる敵を悪人だと取り違えて暴力を用いて排除をはかるなら、その暴力そのものが悪魔を増大させる。悪魔と戦うために暴力は無用であるばかりか、逆効果である。
 悪魔との戦いは非暴力に依るしかない。しかもそれは弱者の非暴力であってはならず、強者の非暴力でなければならない。
 言うまでもないが、これはモーハンダース・カラムチャンド・ガンジーの「サッティヤーグラハ」の思想である。これは直訳すれば「真実にしがみつくこと」であり、ときに「魂の力」とも言い換えられる。ガンジーの思想は、魂を呪縛から解放することを闘争の主たる目的とする。


引用だらけのエントリーはまだまだ続きます。

消費税増税がダメな理由を考えてみた

まず言われるのは、

・消費税は逆累進性があるから

でも、私はこれは正中を射ていないような気がします。というのも、この逆累進性は補うことが可能だから。

・生活必需品の税率を下げる
・生存に必要な最低消費額を定めて、消費税の還付を行なう

など、方法はいくつか考えられます。
(菅首相もその点について発言しているみたいです。ただの「発言」だけかもしれませんけど)

消費税増税の理由は社会保障費の増額ということですが、ならば、増税で得た財源で増税で生じた逆累進性を上回る保障を行なうことも可能なので、「大きな政府」を支持するのであれば、消費税の逆累進性がそのまま消費税増税はダメという理由にはなりません。逆に考えれば、消費税増税は所得再配分の理由付けにすることだって出来きるはずです。「大きな政府」とは大きな税収と大きな支出ですから。

私は基本的にアナーキストですので「大きな政府」には与しませんが、今の現状からいえば「大きな再配分」は必要だと思います。ならば当然「大きな税収」も必要。消費税は取る場所を間違えている、と思うのですね。デフレの状況下で消費税は大変拙いと思います。

デフレということはどういうことか? 経済が縮小しているということです。しかし、一方でGDPは伸びている。いや、2008年からの金融危機でGDPは縮小しましたけれども、それ以前はデフレとGDP増加という現象が並列していた。GDPの増加とは経済成長ですからデフレと矛盾するのですが、これは要するに、全体としてのお金回りは良くなったが、一部では巡りが悪くなった。その「一部」が私たち庶民に大きく関わる「実体経済」だということ。で、リーマンショック以降は、経済全体が縮小したので、もともと巡りの悪かった部分が更に巡りがわるくなった――と、そういうわけです。

デフレつまり物価が下がるというのは、モノに対するカネの量が減ったということ。一方でGDP増加とはカネは増えたということを意味する。ということはモノとカネとが循環する実体経済は縮小したにもかかわらず、カネだけが巡る金融経済は増加して、実体経済+金融経済(=GDP)は増えた。つまり

実体経済↓ 金融経済↑↑

という現象が起こっている。このことがいわゆる「経済格差」の震源であるわけです。

現在、南欧や東欧あたりでまたまた危機が表面化しているらしいですが、それでもぼちぼちGDPは増加しつつあるとは聞きます。が、デフレは相変わらず。で、消費税というのは実体経済への課税です。税はどんなものであっても経済を弱体化させるものですけれども、今の情況での消費税は、巡りが悪くなって弱っているところから取ろうというもの。しかもそれは庶民の生活に直結する部分。それがいいわけがないのです。

現在、菅首相は強い経済、強い財政、強い社会保障をかかげて選挙戦を戦っています。強い社会保障には強い財政が必要だし、強い財政には強い経済が必要。が、消費税増税では強いは作れない。政府がテコ入れをして強い経済を作るのだ、なんて言ってますけど、そんなことが出来るわけがないんです。経済を拡大させるのは、いつの時代も「民」であって「官」ではない。「官」が「菅」だからといってその法則は変わりません。政府ができるのは再配分であって“それは巡りの良いところから取って巡りの悪いとこへ流す”、というのが役割。その後は「民」の仕事です。どうもそこのところが解っていないような気がします。
(もっとも、今「民」で一番力をもっているのが金融資本ですが。)

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カネを金融経済から実体経済へ流す。その意味で所得税の累進課税強化は良い方法です。高額所得者は消費性向が低い――、つまり高額所得者ほどカネを金融経済へ流す。だから所得税累進課税強化は金融経済→実態経済のカネの流れを生むことになります。

が、もっと面白いのは、『静かなる革命2009』の馬場さんが提唱しておられる一般取引税(金融取引課税)でしょう。
(http://www.aya.or.jp/~babalabo/DownLoad/TransactionTax.pdf)
これは金融経済をほぼ直撃することになりますし、金融経済の巨大ゆえに小さな実体経済への消費税課税が必要なくなる、というものです。

また、オバマ大統領率いるアメリカではこんなのも出てきています。

『オバマ大統領、8兆円規模「金融危機責任税」』(YOMIURI ONLINE)

金融危機のおかげで実体経済は打撃を受けたばかりか財政出動でその尻ぬぐいまでさせられている。それからすれば、この程度は当たり前の話なんですが。

『ハラスメントは連鎖する』(1)

ハラスメントについては以前も取り上げましたが、改めて。

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ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)
ハラスメントとは何か? 〈魂〉の呪縛です。

では〈魂〉とは?

人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと。(P.92)


赤ん坊がどのように世界を捉えているかについての研究は、近年、急速に進展している。その結果、人間が白紙の状態で生まれてくる、というかつての信念は完全に否定された。赤ん坊は、独特の高度な世界の解釈システムを持って生まれてきて、それを成長に従って部分的に崩しては組み直す、という形でより複雑なシステムを構築していくと考えられるようになっている。(P.31)


呪縛されることなく育まれた〈魂〉は

 子供は、本来あるがままの豊かな人格をもって生まれてくる。親が子供をあるがままに受け止め、愛することができるのなら、この本来の自分に適合する形で人格が形成され、メッセージに対する深い識別能力を育てることができる。


〈魂〉が呪縛されるとどうなるか?

 ところが、親が子どもの「ためを思い」、野心を持たせ、競争に勝てる、社会に従順な人間に育てたいと考えると、本来の自分を捨てさせることになる。そのかわりに見せかけだけの「正常」な行為を産出する装置が組み込まれ、それが「自分」を構成するようになる。こうして本来の自分は「自分のなかの他人」となってしまう。


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創発的コミュニケーション 人間が生まれながらにもつ〈魂〉、つまり「独特の高度な世界の解釈システム」によってなされるのはコミュニケーションです。コミュニケーションはメッセージをやりとりすることによって成立しますが、このメッセージの意味性はコンテクスト(文脈)に依存します。そしてコンテキストは「学習」の過程で生じます。

ハラスメント 一方だけが学習の努力を続ける非対称が継続すると、Aはやがて疲労困憊し、茫然自失の状態に陥ります。こうなったときにBは、Aに対して自分にだけ都合の良いメッセージを送り込む。「あんたは私の言うことだけ聞いていればいいんだよ」 この攻撃によってAは呪縛をうけることになります。

この呪縛が成立する上で最も重要な条件は、AがBとの関係から離脱できないと思い込んでいることです。こうした「場」の典型が家庭、それも親子関係で「ハラスメント」は生じやすい。

ハラスメントは自分自身の感覚を裏切るように子供を仕向けていきます。親は子供に対して

「これをすると、おまえを罰する」
「これをしないと、お前を罰する」

というメッセージと

「これは罰ではないのだよ」
「わたしがお前を罰するような意地悪な人間だと思っているんじゃないだろうね」
「これをお前に許さないのは、お前を愛するからこそだ」

という2つの矛盾したメッセージを送ります。親の庇護なしに生きられない子供は、こうした親の欺瞞に荷担して自分自身を欺し、自分の感覚を信用しなくなります。親の欺瞞に曝される子供に唯一可能な合理的対応は、世界を解釈するためのシステムを、自ら破壊して混乱に陥ることだけです。

そうすると、世界が不条理に満ちているように思え、いつも不安を感じなければならなくなるが、その代償として親の欺瞞的なストーリーを守ることができる。そうして子どもは親の「愛」を買い取ることができる。もちろんこの「愛」は、まがい物にすぎない。


人生を正しく生きるためには、他者のものであれ自分のものであれ、メッセージの種類分けを正確に行なう能力が不可欠であるが、ハラスメント情況はその発揮を徹底的に阻害する。(P.29)


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ハラスメントがさらに厄介なのは、コミュニケーションがハラスメントの要素なしには成立しない、ということです。

 コミュニケーションというものはそもそも、自己満足では成立しない。
 典型的な例として、言語を考えてみればよい。自分の気持ちを百パーセント正しく表現できる音声の独自の組み合わせを開発したとしたら、それは他人には通じない。他人に通じさせるためには、自分にとっては外部にある言語の運用能力を身に付けなければならない。このとき、どうしても自分の魂にとっては外的であるものを、自分自身として組み込む、という過程が必要になる。


人間は外界のメッセージを解釈する高い能力を持つがゆえに社会を構成しているのであるが、この社会を作り出す能力は、本来の自分ならざるものを自分の中に取り込み、自分自身の一部だと思い込む能力として、他人によって悪用されうる。これは常に、自分自身の感覚を否定し、外的なメッセージの方が正しい、と思い込むことに結びつきうる。これがハラスメントの糸口を与える。それゆえ、コミュニケーションはハラスメントの可能性を常にはらんでいる。

『君が代』は結婚式の歌だった?



。..twitterから仕入れましたが、tweetのURLがわからない(泣)

菅直人は「クリーン」なのか?

菅直人は「クリーン」なのか?

この問いは、菅直人は裏切ったのか? と問い直すことが出来ます。
そのように問い直せば、消費税10%を掲げたことは裏切り行為であるといえます。

が、本当に菅直人は日本国民を裏切ったのか?
それとも、裏切らざるを得なかったのか?

菅直人は、いや、民主党は裏切らざるを得なかったのだ、という見解を示す方もおられます。

新ベンチャー革命:『民主党の豹変:極東戦争を防ぎ、国民の命を守るためだった?』

コチラの記事の要件は、

・民主党の変節は鳩山政権末期に起きていた。
・そのきっかけは韓国哨戒艦「天安」の沈没にある。
・この「事件」は米国戦争屋が仕掛けたもの。
・民主党は極東戦争を回避するために戦争屋に屈服した。
・消費税増税は、戦争屋の指示。

というものです。

こうした観察が正しいのかどうか、私にはわかりません。仮説としては成り立ちえると思っていますが、その仮説を検証する手段を持ち合わせていませんから、わからないとしか言いようがないのです。

とはいえ、わからないと言っているばかりでは話が進みませんから、この仮説が成立しているとします。つまり菅総理大臣は、裏切らざるを得なかった。裏切るしか選択肢はなかった。

問題はここから先です。一時的には裏切らざるを得なかったとして、菅直人はその裏切りをあくまで一時的なものと考えているのか? それとも、その裏切りを機に、日本国民を裏切る側に回ったのか?

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話はいささか飛びますが、ここで 大石内蔵助は「クリーン」だったか? という問いを考えてみたいと思います。

答えには2つあるでしょう。

1) 討ち入りの意図を隠蔽するため、大石は「バカ」を演じた。
   これは演技であったが、裏切りであったことにはかわりはない。
   ゆえに大石は「クリーン」ではない。

2) 大石の「バカ」の演技は討ち入りのための手段だった。
   ゆえに演技は裏切りではない。
   大石は「クリーン」である。

1)は「結果のクリーン」、2)は「意図のクリ―ン」と解釈できるでしょう。

1)と2)の見解は、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではありません。どちらを支持するのかという性質のものです。そして、大石内蔵助の人気を思えば、2)の見解がより大きな支持を集めているといえるでしょう。つまり、日本人は「意図」を基準に「クリーン」を判別しようとする傾向がある、といえるわけです。

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政治ブログ界隈では、変節した菅直人総理大臣への批判が盛んです。私はこの批判を故無きことだとは思いませんから、批判への批判をするつもりはない。が、気になることはあります。

それは、「結果のダーティ」から「意図のダーティ」を憶測しているものが多い、ということです。しかし、「結果のクリーン or ダーティ」と「意図のクリーン or ダーティ」とは必ずしも結びつきません。むしろ「意図のクリーン or ダーティ」を見るには、その人物の為人をみるのがイチバン、ということになります。日本においてスキャンダルが政治家の失点になるのは、スキャンダルが政治家の「意図のクリーン or ダーティ」を判別するポイントになると考えられているからでしょう。

では、その為人から判断して、菅直人は「クリーン」なのか? まったくわかりません。その為人を判断する情報に接することが出来ないからです。しかし、判断材料はあると思います。小沢一郎です。小沢一郎は、その「結果のダーティ」にもかかわらず、また数々のスキャンダル報道にもかかわらず、私は意図においては「クリーン」だと思っています。また鳩山由紀夫も同様に感じている。このお二人が菅直人をどう評価しているのか? ここが重要なポイントのように思います。

とはいえ、小沢一郎と鳩山由紀夫は絶対に「クリーン」だと確信しているわけではありません。そんな判断材料は持ち合わせていませんから。小沢鳩山が「クリーン」というのも、それもひとつの仮説でしかありません。が、私は、そういった仮説の組み立て方の方が「結果のクリーン or ダーティ」から判断するよりも良いようなな気がします。ここでいう「良い」は、「正しい」ではなくて「納得」が基準です。政治は「結果」が大切なのはいうまでもありませんが、それ以上に「納得」が重要だと思います。たとえ悪い「結果」でも「納得」があれば次のステップへ進めることが出来ますし、また「納得」を裏切られたとしてもそれは自己責任だと言えるからです。

偽りの「成功体験」

個人の物理的次元での「成功」は、周囲の認知によって精神的次元での「成功体験」へと変換される。そうした「成功体験」を誰もが必要としている。

『誰にでも「成功体験」が必要だ』のエントリーでそのようなことを述べました。

しかし、この「成功」⇒「成功体験」への回路は、しばしば「失敗」⇒「成功体験」の回路に置き換えられてしまうことがあります。「成功体験」は周囲の認知に左右されてしまいますから、周囲の認知の在り方によっては「失敗」も「成功体験」へと変換することができてしまいます。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

 靖国神社は、日本帝国が主体となった戦争で戦死した人々の例を慰める祭礼を執り行う機関である。しかしそれは同時に、戦死者の遺族をハラスメントに掛ける装置としても機能してきた。
 如何なる事情によってであれ、愛する夫や息子が死んだなら、遺族は大変な悲しみに襲われる。これは人間にとって普遍的で自然な感情である。この悲しみに沈む人々を見れば、その周囲の人も深い同情を覚えることになる。これも人間として当然の感情である。
 この悲しみの連鎖は、しかし、戦争を遂行しようとする国家にとって、まことに不都合である。戦死者が出るたびに、悲しみの衝撃が走れば、戦争を継続するのが困難になる。五人、十人なら平気であるが、何十万、何百万となれば、放置できない。
 そこで戦死者の霊が、靖国順者に祭られ、神となり、天皇の拝礼を受ける立場に立つという物語が創造された。これは死地に赴く兵士を鼓舞する機能を持つばかりではない。この物語は、遺族が、愛する者の死を、喜びをもって認識するという倒錯を生じさせる。
 これは確かに、短期的には兵士の死を遺族が乗り越えて生活を続ける上では効果がある。しかしこのとき、遺族が愛する者の死を受け止め、深い悲しみから立ち上がるという、治癒の過程が停止される。その代わり、愛する者が神となったことを喜ぶという物語が与えられ、悲しみが封印される。これを高橋哲哉は「感情の錬金術」と呼んだ。
 しかしこの錬金術によって、人間は普遍的な愛する者への死という悲しみの感情が消えてなくなるわけではない。それはそもそも不可能である。遺族にできるのは、悲しみを感じないフリをすることだけである。それで自分自身を欺すことはできるかもしれない。そえでも、無理矢理、封じ込められた悲しみは、深い傷となって心の奥底に抑圧され、疼き続ける。この疼きから逃れるために、遺族はますます深く靖国の者がたちに依存せざるを得なくなる。
 愛する者の死に際する「最大級の悲しみ」という感情に、「最大の喜び」というラベルを押しつけるという行為は、最大級のハラスメントである。


「失敗」が「成功体験」へと誤変換されてしまった「偽りの成功体験」は魂を呪縛します。それは「失敗」から逃れたいという、これまた人間の普遍的な感情が働くためでもあります。「偽りの成功体験」はそこへつけ込むのです。それも善意によって。

「偽りの成功体験」によって呪縛された魂は、「誤変換」の「正しさ」に拘泥することになり、他の「正しさ」を排除することになります。

日本の「勤勉」は個人戦

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)
神野直彦著『「分かち合い」の経済学』を読み始めましたが、最初のところで引っかかってしまいました。

スウェーデン社会を訪れると、栄西が中国の杭州に降り立ったときのように、母なる国を徜徉している境地に浸る。スウェーデンを旅すると、豊かな自然に抱かれ、心優しき人間の絆のぬくもりに包まれ、心安らかに生きることのできた幼き頃の日本社会に出会うことができるからである。スウェーデン人もヨーロッパの日本人といわれることを誇りにしている。


豊かな自然というが、日本とスウェーデンとで自然の在り様は大きく違います。日本は東アジアのモンスーン地帯、スウェーデンはずっと緯度の高い北欧です。自然の在り様が違えば人の在り様も違う。スウェーデン社会が“心優しき人間の絆”に溢れ“心安らかに生きることができる”というのはそうなのでしょうが、それは昔の日本社会の在り様ではない。昔の日本社会は人間同士の結びつきが強い“生命力溢れる”社会だったと私は思っています。しかし、それは必ずしも“心優しき”あるいは“心安らか”ではなかった。ここのところは少し過去を美化してしまっているのではないかと思います。

では、昔の日本社会はどんな社会だったのか? そこはやはり「勤勉革命」と大きく関係しています。

勤勉革命では家族労働が基本になっていきます。それは日本の傾斜地地形では家族労働が適しているからです。しかし、あらゆる種類の労働を家族で行なったわけではない。効率的な労働を行なうために、たとえば田植えといった作業は集落の共同作業で行なった。効率追及であった共同作業が、現在では「結い」という地域共同体の“心優しき絆”であるかのように思われていますが、これは実は「過去の美化」でしかない。このことは私自身の体験からも言えることです。

和歌山で暮らしていたときの話ですが、私たち夫婦も米作りをしようと思ったことがあります。休耕田はあちらこちらにあるので、田んぼはすぐに見つかった。問題は農業機械だった。水田は田植え前の田起こしと田植え、刈り入れに大変な労力を要します。ですので、それぞれに耕耘機、田植機、コンバインといった機械を使用する。私たちは安易に、田んぼが借りられるのなら機械も借りられるだろうと思っていた。ところがそうはいかなかった。機械は自分たちで購入する。それが「基本」だったんです。

この「基本」は労働の基本は家族労働だというところから来ています。「結い」はあくまで効率追及のための手段でしかなかった。だから、農業機械が発明されるや急速に普及が進み、共同作業が機械作業に置き換わっていった。こんな話も聞いたことがあります。“機械のおかげで嫌いな奴と一緒に仕事をしなくてもよくなった。”これが日本人のホンネであり、決して“心優しい”とはいえないものです。

日本人はよく「空気を読む」といわれますが、私が思うに、この慣習は必ずしも好ましくない人間関係を維持するためのテクニックです。共同体の構成員たちが本当に仲良く心優しいのなら「空気を読む」などといった必要はなかったはずです。でも、その必要があった。だからそのための技術がうまれたのでしょう。

これでは昔の日本社会は抑圧的でとても“生命力溢れる”とはいえないと思われるかもしれません。実際、昔の日本の地域共同体に暗く湿ったイメージを抱いている人も多いことでしょう。

日本の共同体の不思議なところは、労働は個人戦あるいは家族戦なのに、その成果は労働ほどに個人・家族の所有物という感覚が強くないところです。もちろん労働はまず家族のためですから、収穫物はまず家族のための使われる。が、その余剰を譲与することを厭わない。厭わないどころか、譲与のために余分な労働すら行なう。自分たちが生きていくのに必要以上の労働を行なって、その余剰物が共同体内を流通する。そこが「生命力」の源泉になっているのです。

というのも、労働は伝統的日本人にとっては「成功体験」だからです。余分な労働を行なって共同体に寄与する者は周囲から高い評価を得た。「働き者」という評価です。日本人はこの「成功体験」を得るために労働する。それは、一神教信者が“神に祈りを捧げる”のと同様の行為でもある。よく神に祈る者が「信心者」との評価をえるように、よく働く者は「働き者」という評価を得る。そして祈りが神と対峙する「個人戦」であるのと同様に、日本人の労働は自然と対峙する「個人戦」というわけです。

日本の会社共同体が繁栄してきた理由、そしてダメになった理由も「個人戦」「成功体験」「生命力」から見ることができるでしょう。多くの方がご存知でしょうが、会社共同体の中は決して“仲良く”“心優しく”ではありません。それは基本が「個人戦」だからです。その基本の上に「空気を読む」技術で効率的な労働を行なう。また余剰労働は評価され「成功体験」に結びつくから構成員の「生命力」が上昇し、それがさらなる労働意欲に繋がった。終身雇用制は日本人の「生命力」を引き出すのに適したシステムでした。

ところが成果主義という貨幣による評価が導入されることで“「生命力」の引き出し”がうまく出来なくなった。余分な労働は物理的次元の「成功」でしかなくなり、精神的次元の「成功体験」ではなくなってしまった。だから「生命力(force)」を引き出せなくなった、という悪循環です。

誰にでも「成功体験」が必要だ

内田樹の研究室:『成功について』

を読みました。

第三の「全員が成功するということはありうるのか?」というの質問はおもしろい。
もちろん答えは「ノー」である。
というのは成功者が「私は成功者だ」という自己認識をもつとしたら、それは、「私は非成功者だ」と思っている人間の「できることなら、この人と立場を入れ替えたい」という羨望を実感した場合だけである。

ここのところに引っかかりを憶えました。この「ノー」という答えには、「成功」とは“奪い合うもの”という「前提」がある。内田氏のことだから、当然この「前提」には無自覚ではなくて、

「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象である。だから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立する。

というふうに書いています。つまり“奪い合い”の「成功」と非“奪い合い”の「幸福」とを対比させている。

が、「成功」は本当に“奪い合い”なのか? 私はそうではないと思います。
『いのちの歌』のエントリーで、私は

人にとって最初で最大の成功体験は、その人自身がこの世に誕生してきたということ

だと書きました。この世に誕生してきたという「成功」は“奪い合い”でしょうか? 唯物論的な視点にたてば「イエス」でしょう。物質世界は有限なのだから、〈私〉という物質が存在するのは他所から物質を奪ってきた結果に他ならない。それはそうです。しかしそれでも、〈私〉を〈私〉と認識する〈私〉――ここでは〈魂〉とでも呼んでおきましょう――は、有限世界からやってきたものだとは誰にも断言できません。

私たちはこの世に生を受けてから、「成功」を積み重ねてゆきます。目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、言葉は話せるようになり、立ち上がって歩けるようになり、自他の区別がつくようになり――、これらはみな「成功」です。こうした「成功」が周囲に認知されて、「成功」は「成功体験」になる。人がこの世を生き抜いていく「生命力(フォース)」を育むのが、「成功体験」です。

子どもの物理的「成功」は周囲の認知によって精神的「成功体験」へと次元が変わる。子どもはは周囲の精神的次元での認知を受けることで〈フォース〉を大きくする。つまり〈フォース〉とは精神的次元での「力」です。子どもが大人になって有限の物理的次元の世界と戦うには、〈フォース〉が必要です。有限世界と戦うための物理的次元の「力」が〈パワー〉です。

物理的次元の「成功」が精神的次元の「幸福」へ繋がっていくためには、〈パワー〉の行使に際して〈フォース〉が伴わなければなりません。物理的次元と精神的次元を繋ぐのが「成功体験」です。

生産の三要素 ~産業革命と勤勉革命

一般に生産の三要素というと、土地・資本・労働があげられます。

これら三要素はそれぞれ別次元ではあります。が、近代社会では、この三要素はすべて貨幣によって価値が測定されてしまっていますから、その意味では別次元ということはできません。また実際、これら三要素はすべて物質性という枠で括ることが出来ます。

私は以前に、生産(労働者の虚実変換)には自然、時間、意欲の三要素が必要だとしました。これらの三要素はそれぞれ物質性(自然)、時間、精神性(意欲)ですから、同じ枠で括ることは不可能です。同じ枠で括ることが出来ないということは、この3つを定量的に扱うことは不可能だということですが、ここでは敢えて、

自然*時間*意欲⇒生産

という式が成り立つものとして考えてみます。

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産業革命という現象を「自然*時間*意欲⇒生産」からみてみます。

産業革命は生産量を増大させました。〔生産↑〕です。
では、自然、時間、意欲の各要素の動向はどうか? おそらくは

〔自然↑〕*〔時間↑〕*〔意欲↓〕⇒〔生産↑〕

ではないのでしょうか。

自然は物質性ですから、その要素はさらに土地・資本・労働に分けることが出来ます。産業革命の特徴は資本集約ですから、当然〔資本↑〕です。土地は変化なしと考え、労働負荷は減少したと考えると〔労働↓〕です。すると〔自然↑〕となったのは、〔資本↑〕が大きい為だと考えられることになります。

〔時間↑〕とは、労働者の拘束時間が長くなったということです。また〔意欲↓〕の意味するところは自発的労働が少なくなったということになるのでしょう。自発的な意欲の湧かない労働に長時間従事せざるを得ない状況――、それが「疎外」でしょう。

対して、勤勉革命をみてみます。勤勉革命は

〔自然〕*〔時間↑〕*〔意欲↑〕⇒〔生産↑〕

だったろうと思われます。勤勉革命は労働集約ですから、〔自然〕の内訳は〔資本↓〕〔労働↑〕です。
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上記の分析が当たっているとして、どういったことが言えるか? それは、

・産業革命では生産の物質性に重きが置かれるようになった。
・勤勉革命では生産の精神性に重きが置かれるようになった。

ということです。日本人が「こだわり」を大切にする職人気質や「働かざる者食うべからず」といった道徳観を涵養するようになったのは、勤勉革命を経てきたがゆえなのです。

やっぱりPS理論はおもしろい

シムダンス「四次元能」から
  『PS理論の基本:先ずはオイラーの公式から』
  『PS理論の基本2=超越すること』
  『PS理論の基本3=オイラーの公式の変形』
  『PS理論の基本4=指し示しとは』

おもしろい! というだけで、何がどう面白いのか、まったく言葉に出来ないところが悔しいですが。

まあ、しかし、せっかくだから、恥をかくと思って少しだけ私自身の言葉を綴ってみましょうか。

「自在」という言葉あります。「自由自在」に「自在」ですね。私はこの「自在」という言葉を「制約から生まれる自由」というふうに理解しているのですが、この理解は言葉にしてしまうと一見矛盾しています。「制約」と「自由」は正反対の意味ですからね。

が、“「制約」と「自由」は正反対”という理解こそが実は「制約」です。というのは、この理解は同一次元で縛られているからです。物理的な制約が別次元で精神的な自由を生む――、これは私たちに人類が持つ文化がそうです。ひとりひとりに身体という制約があり、生存して行かなければならないという制約があり、また生存条件には風土という制約があり――と物理的にはさまざまな制約を受けて私たちは生きているわけですが、文化とは、こういった制約があればこその自由つまり「自在」だ、といえます。もし、本当に人間が何の制約もなく自由に生きることができたなら、文化などというものが生まれるはずがありません。

文化が「自由」? 「自在」? そういわれてもピンとこないかもしれません。実は私も漠然とそう感じているだけで、確証はないんです。確証はないながら、しかし、さらに、「制約から生まれる自由」の“生まれ方”や“自由の行き先”にはある一定の法則があるようにも感じている。PS理論というのは、その法則を表わすものかもしれない、と思うわけです。だから、おもしろい! と感じるのですね。

PS理論の基底には「オイラーの公式」があるのだそうです。

オイラーの公式

これは虚数iを介して増加や減少を表す指数関数と回転や振動を表す三角関数とがシンプルに結合するものだそうですが、私のごくごく粗雑な理解では、PS理論は、実数とともに別次元の虚数を用いて、次元の異なる話――超越性と現実性、精神性と身体性、観念論と唯物論といったような――を、シンプルに結合するもの、のようです。で、この「結合」が「=(等式)」ではなくて「⇒(指し示し)」だいう(私はこの「指し示し」に「自在」をみるわけですが...)。 PS理論はそれだけではなく、もっといろいろな展開もあるみたいですが、これ以上は本当にサッパリわかりませんので、もう、バンザイ\(^o^)/ 

と、いうわけで、何が何だからわからないエントリーでしたが、とにかく、PS理論が発展して、世界の謎を解き明かしてくれたらいいな、と思います。

『いのちの歌』

本日3本目のエントリーになりますが、意欲のある時に遠慮なくアップことにします。

前回のエントリーを書いているときに私の頭の中に流れていたのが『いのちの歌』でした。
『いのちの歌』とは、志村さんが約3年ほどまえに紹介されたもの。

『志村建世のブログ:いのちの歌』

この歌は一度聞いてから私にとっては忘れられないものとなっていまして、折に触れては思い出しているのですが、前回、「成功体験へ還る」と書きながら、では、人の成功体験はどこまで遡ることが出来るのかと考えたときに、またしてもこの歌が飛び出してきたのでした。

父さんがいて 母さんがいて 家族がいて みんながいて
そしてあなたが生まれた けっして一人ではなかった
みんなで守るよ そのいのちを 心と体 傷ついても
あなたのいのちは変らないよ 美しく光り輝いてる


人にとって最初で最大の成功体験は、その人自身がこの世に誕生してきたということでしょう。
この歌詞は、その成功体験を共有します、というものです。この歌を紹介した志村さんの記事には「この歌を聞いた女子少年院の少女たちは号泣した」とありますが、これも当然のこと。挫折を味わっている者に、そしてその挫折と対峙しようとしている者に、この歌が効かないわけがありません。

やや強引に思われるかもしれませんが、私はこの『いのちの歌』と『君が代(民の世)』に、共通する部分も感じます。それは両者とも「祈り」であるということ。『いのちの歌』の方には「祈り」だけなく「決意」も混じりますが、やはりベースは「祈り」だと私は思います。そしてその「祈り」とは、自然に生まれ出たものへの祝福です。あなたが生まれ出てきたことには何の理由もない。強いていえば、神の意志で生まれてきた。つまり人智を越えている。だから尊いのだ――「祈り」とは、そういったメッセージであるとも思うのです。

勤勉革命 ~日本の成功体験

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

「勤勉革命」とは『歴史人口学で見た日本』の著者速水氏が提唱した概念で、「産業革命」との対比概念になっています。

勤勉革命は江戸時代初期から中期にかけて日本で見られた現象で、まず

・農村の世帯の在り方が大世帯制(15人~20人)から小世帯制(4~6人)へ変わった。
・結果、結婚する者の割合が増え、人口増加。
・労働が小世帯の家族労働となった。

なぜそうなったのかというと、

・兵農分離が行なわれて城下町(都市)が成立。
・都市=消費地/農村=生産地という構図が出来、交易が成立。
・日本の傾斜地地形では、小規模の家族労働が最適。

となったと考えられるわけです。で、小規模家族労働となったために、

・資本に相当する家畜数が減少し、労働集約型の生産形態へ移行。
・長時間の労働が美徳という倫理観が成立。 という欧州の産業革命とは逆の現象がおこった。しかも、

・年貢を取られるということはあったが、農村は基本的に自治であり、
・自分たちの労働の成果を(すべて)搾取されず、生活水準が向上。

ということになった。日本人の識字率が同時代の先進国であった欧州と比べて断然高かったのも、高い生活水準と比較的自由な交易があったためで、「読み書き算盤」は交易のために必要だったから、と推測できます。ヨーロッパのように農村に支配者の屋敷があって、交易を独占するといったことは日本にはなかった。それどころか、生活水準の向上とともに富士講や伊勢講といった形での旅行すら庶民によって行なわれるようになったわけです。

以上の江戸時代日本の体験は、成功体験だったといってよいと思います。欧米では産業革命、市民革命という成功体験を経て国民国家意識が成立させていったように、日本人は勤勉革命の成功体験によって日本人という共同幻想を培ってきた。江戸期の日本はもちろん近代国家ではありませんから「国民」という意識があったとは考えられませんが、おなじ日本人という「仲間意識」を持つことができるようにはなったことと考えます。

日本人が日本国民という「国民国家意識」を持つようになったのは、おそらく日清・日露戦争での戦勝という成功体験を受けてのことでしょう。途中、明治維新という変化がありましたが、これが大きな内乱にならず単なる「政権交代」で済んだのも日本人という「仲間意識」があったおかげであると同時に、政権の在り方が日本人の「仲間意識」とは深く結びついていなかった。それは人口の多くを占める農民たちは「寄合」による直接民主制だったからでしょう。

日本が太平洋戦争で大敗北を喫したときに効いたのも「仲間意識」でした。人は挫折感を味わったときには自らの成功体験へと還るもの。それは共同幻想でも同じことでしょう。日本人の「国民国家意識」は敗戦で挫けてしまいましたが、「仲間意識」は戦争で成立したものではないので大きく影響を受けなかった。そのことが「一億総懺悔」そして「9条」へと繋がっていった――というのが私の愚考するところです。

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ちょっと付録。

以上の見地から右翼と左翼を眺めてみると、次のようになります。

・右翼
一度挫けたはずの日清・日露戦争発の「国民国家意識」を復活させようとする立場。

・左翼
欧米の成功体験を真似ようとする立場。

左右とも日本人の「仲間意識」を一段低いものと見て、出発点は違いますが「国民国家意識」を持とうとする点においては同じです。が、私はそのどちらにも賛同できません。挫折にいつまでも執着するのも、他人の成功体験を羨むのも、私には「元気になる方法」とはとても思えません。日本人が元気をなくしつつある現在、もう一度自らの成功体験へ還るのがいちばんです。

(ただ、それも今となっては大変に難しいとは思います。その理由についてはまた機会を改めて書くことにします。)

いまどきの「競争力」

村野瀬さんが「競争力」とは何かと問うておられるので、考えてみましょう。

まず考えなければならないのは基準です。競争というからには何らかの基準が必要です。殴り合いのケンカなら暴力という基準が必要ですが、ここでいう「競争力」の基準は暴力ではない。お金、貨幣を基準としての競争、その競争を競い合うパワーが「競争力」ということでしょう。

この「競争力」には2つの種類があります。その1を「拡張競争力」、その2を「競争競争力」と呼ぶことにします。

拡張競争力
拡張のための競争力ですが、では何を拡張するのか? 貨幣経済をです。この拡張はイノベーションによってもたらされます。
拡張競争力は、さらに2つに分類できます。その1は未開拓の分野への拡張。その2は、共同経済への侵食による拡張です。その1を「純粋拡張」、その2を「侵食拡張」と呼びましょう。

「純粋拡張」はテレビを考えてもらえばよいでしょう。テレビの登場で創出されたのは“新たな”娯楽です。既存の何かに置き換わる形で登場したわけではない。ラジオや映画に割かれる時間を奪ったということはありますが、共存できないわけではないし、現に共存しています。パソコン、インターネットという技術も「純粋拡張」と言っていいでしょう。

「侵食拡張」を考えるには、サービス業を考えればよいでしょう。たとえばクリーニング業です。もともと衣類を洗濯するという労働は家事労働で無償のものです。無償だから共同経済なのですが、クリーニング屋は、無償の労働を有料で引き受けることで成立しています。これは貨幣経済vs共同経済(無貨幣経済)という軸でみると、貨幣経済の共同経済への侵食になっていると見ることが出来るわけです。

競争競争力
こちらは貨幣経済内部での競争。村野瀬さんが問うているのはこの競争競争力の方でしょう。
競争競争力は、価格競争を考えてもらうのがいちばん良いです。テレビを生産するにしても、クリーニング業を営むにしても、良質の品質・サービスをより安価な価格で提供して、他業者との競争を勝ち抜いていく。この競争は市場原理に基づく競争だといってもいいでしょう。

また、拡張競争力を外向きのパワーだとするなら、競争競争力は内向きのパワーだと考えることが出来ます。

では、いまどきの「競争力」はどういった状態になっているのか?

拡張競争力 < 競争競争力

つまり、外向きのパワーよりも内向きのパワーの方が大きくなってしまって、経済が内側から崩壊しつつある。「格差」は、その崩壊の兆候というわけです。

いわゆる新自由主義を信奉する市場原理主義者は、競争競争力が拡張競争力を引き出すと主張します。が、これは明らかに誤りです。拡張競争力を引き出すがもっとも大きいのは貨幣を介さず経済活動が行なわれる共同経済なのです。

ここでもうひとつ用語の整理をしておきます。「力」という用語を「パワー(power)」と「フォース(force)」の2つに分けておくことにします。「競争力」はパワーですが、「拡張競争力を引き出す力」はフォースです。
(私はこれまでパワーを「権力」、フォースを「生命力」と呼んできました。)

「拡張競争力を引き出す力」がフォースであるということは、拡張競争力はパワーであると同時にフォースでもあるということです。というのは、人間の営みである経済が拡張していくということは、それだけ人々が生活しやすくなってゆくということであり、伸びやかに「生命力=フォース」が発揮できるということになるからです。

しかし拡張競争力は、フォースの源である共同経済を侵食してきた。そのことがフォースの低下を招き、ひいては拡張競争力を減退させ、競争競争力が世の中を覆うようになった。「格差」はそこから生じてきたのです。

競争競争力の源泉は“貨幣という権威”、すなわち「貨幣愛」です。現代の経済社会はこの「貨幣愛」を中心に回っている。だから拡張競争力を引き出すにも「貨幣愛」でということになる。貨幣経済の新たなフロンティアを拡張できる才能は高い報酬で、ということになる。ところがえてしてこの「拡張」は共同経済への侵食だったりする。それが「貧困ビジネス」といわれるものです。

企業が大きな内部留保を抱えつつ労働者に分配しないのは、競争競争力が主軸の社会になってしまっているから。内部留保はパワーであり、競争社会はパワーの奪い合いですから、大きなパワーを持っている者が有利なのは当たり前。これは、同じくパワーである軍事力の論理とまったく同じなのです。

『我らが世』

  君が代は
  千代に八千代に
  さざれ石のいわおとなりて
  苔のむすまで


ご存知、我らが日本国の国歌『君が代』です。

今、このタイミングで『君が代』といえば、サッカーW杯でしょうか。対カメルーン戦を私は見ていないんですけど(時間が遅すぎ)、君が代はスタジアムに流されたはず。その後のゲームは大方の予想を裏切っての勝利ということで、一応日本に帰属する私も“わがイレブン”の勝利には喜びを感じずにはいられません。

しかし、少し立ち止まって考えてみると、『君が代』というのは妙な歌です。いえ、歌としては別におかしくはないのですが、W杯やオリンピックのような国際試合に演奏されることが多い国歌としてはいささかそぐわない雰囲気がある。というのも、この歌は「勝利」とは全く無縁なのですね。

国歌というのは「国家の建設」を歌ったものが一般です。日本と対戦したカメルーン共和国の国歌ですと、

 O Cameroun berceau de nos ancêtres,
 Va, debout et jaloux de ta liberté.
 Comme un soleil ton drapeau fier doit être,
 Un symbole ardent de foi et d’unité,
 Que tous tes enfants du Nord et Sud,
 De l’Est à l’Ouest soient tout amour!
 Te servir que ce soit le seul but
 Pour remplir leur devoir toujour.


 おお、カメルーン、私たちの先祖の揺りかごよ、
 行け、立ち上がって、君の自由を大切にして。
 太陽のように君の誇らしい旗は
 信義と団結の燃えるような象徴であるに違いない。
 北と南の、東と西の、
 すべての君の子供がすべての愛であらんことを!
 君に奉仕することが彼らの義務を常に果たすための
 唯一の目標であらんことを。
(出典はコチラ)

といった具合。アメリカの『星条旗よ永遠なれ』、フランスの『ラ・マルセイエーズ』も似たような調子です。
「国家の建設」という行為が成し遂げられる → 勝利 という図式があるのです。

ところが『君が代』の場合、「国家の建設」は所与なのです。他の国歌に見られるような“創り上げる!”といった気概や高揚感はなくて、もうすでに出来上がっている国がいつまでも続くように――、という静かな祈願になっている。自己完結していると言っていいかもしれません。

対戦前に歌われる国歌としては違和感が感じられる理由は、この自己完結感でしょう。自己完結ということは、戦う相手を必要としていないということです。それはつまり戦いそのものを必要としていない、ということでもある。日本人は戦わずして日本国を創った。いや、創ったというより自然と出来上がっていた。『君が代』というのは、そういったメッセージを発している歌、自己完結への希求の歌だと思うのです。

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「自己完結への希求」から連想されるのは、9条です。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する

「正義と秩序を基調とする国際平和」=「自己完結」です。「国権の発動たる戦争」は「自己完結」を乱す、ゆえに放棄する。これが日本人の9条の受け止めかたなのではないか、と私は思う。

が、この受け止め方は世界標準ではありません。世界標準では「国家は建設するもの」であり、そこには戦いと勝利が必要です。ちょうど日本人が対カメルーン戦で味わったような愛国心、これを味わうには必ず敵が必要なのですね。だから戦いは放棄できない。戦いを放棄してしまえば己もなくなってしまう。戦いを放棄すれば「自己完結」すると捉える日本式とはまるで正反対。この差異は、国は「自然に出来上がった」とする感性と、「国は創り上げる」とする感性の差異に根ざしたものでしょう。もっといえば、「人間は自然の一部である」とする感性と「人間は万物の霊長である」とする感性の違いだとも言えます。

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「自己完結」の行き着く先は、当然のことながら「平和」です。“平らな和”という文字自体が「自己完結」のイメージそのものです。そして、自己完結した平和な世界では、我も君もないのです。9条を護持しようとするいわゆる護憲派は、君→天皇→国家・国権→人権抑圧 という思考回路を働かせる向きが多いのですが、これは世界標準であり「自己完結」を妨げる方法です。この方法では「平和は(人為的に)創り上げる」道を選ぶしかなく、そうなるとその手段が問われることになる。そしてその手段に暴力はどうあっても不可欠ですから、自己矛盾に陥ってしまう。この道ではいつまで経っても希求する「平和」へ辿り着けません。

平和な世界では我も君もないのであれば、『君が代』は『我らが世』です。実際、“君が代は~♪”を“我らが世は~♪”と歌っても何の違和感もありませんし、意味にも何ら変わりません。


仲間外れのない社会を創るには

前々回からの続き

仲間外れはよくない。だから仲間はずれのない社会を創らなければならない。では、どうやったら仲間外れのない社会を創ることが出来るのでしょうか?

私の考えを先に述べましょう。そのために必要なことは

仲間外れにすることを「引き受け」ること

です。毎度のことながらおかしなことをいうと思うでしょうが、「引き受けること」は「容認すること」とは違います。

前々回のエントリーに人生アウトさんがコメントをくださいました。

私はこの「仲間はずれ」を「仕方ない」という言葉で理解しています。
いじめ問題を考えてもそうですが、好きこのんで「仲間はずれ」をする人は少ない。
けど、「仕方ない」ならどんなこともやってしまう。免罪されてしまう。


「仲間外れ」は「仕方がない」 → だから〈私〉には責任がない。
「仲間外れ」は「仕方がない」 → だから〈私〉には責任がある。


人生アウトさんが提示したのは上の論理です。では、下の論理は間違いなのか? いいえ、私はそうは思いません。下の論理も「あり」だと思う。上は「容認」下は「引き受け」です。どちらも正しい論理のうち、「容認」を選ぶか「引き受け」を選ぶが、そこは自由です。が、この自由は〈責務〉からの解放を意味するのではなくて、〈責務〉と対峙することを意味します。

「容認」は言い換えれば「依存」です。外的条件の「仕方がない」に依存して、〈私〉が責務を果すことを放棄する。同様にいうなら「引き受け」は「自立」です。ゆえに、「仕方がない」ことは自己責任です。〈私〉は責務を果せなかった。だから〈私〉に責任がある、というわけです。

では、〈責務〉とは何なのか? それは社会を豊かにすることです。〈私〉が生存し豊かに暮らしていくには社会が豊かにならなければならない。それが〈私〉に課せられた〈責務〉です。「仲間外れ」は社会を貧しくします。「容認」の論理を選択することは、社会の豊かさに依存して自らは社会の豊かさに貢献する〈責務〉を放棄することになる。だから非道徳的なのです。

しかし、そうはいっても私たちも有限な世界で生きている以上、どうしても「仕方がない」に遭遇することになります。「仕方がない」を自己責任として「引き受け」ることが道徳的に正しいとしても、そのすべてを「引き受け」ていたのでは身が持たない。では、どうすればよいか?

そこは社会がその豊かさでもって、〈私〉が「引き受け」られなかったことを容認しなければなりません。そうしなければ〈私〉は“仕方なく”「引き受け」を止めてしまうことになるでしょう。それは社会を貧しくしてゆく道となります。

このことも勘案に入れると、仲間外れのない社会を創るには

仲間外れにすることを「引き受け」られないことを「容認」すること

ということになります。こうすることで〈私〉は〈生命力〉を十全に発揮でき、結果として社会は豊かになる。

なお、ここでいう「社会の豊かさ」とは物質的な豊かさを意味していないことは明らかです。「社会の豊かさ」とは〈私=個人〉が〈生命力〉を発揮できる環境のこと。そして、個人の〈生命力〉の総体としての「社会の豊かさ」が「仕方がない」ことを「仕方なくない」ことへと変えていくのです。

「クリーン」を求める

田中良紹氏の『「クリーン」で「国民主権」は守れない』を拝見しました。

大変納得のいく論説だと思いました。けれどただひとつ、どうせならもっとハッキリと断言して欲しかったとは思いました。すなわち、

「国民主権」は「クリーン」ではない

と。これは当たり前の話で、「クリーン」で守れない「国民主権」が「クリーン」であるわけがありません。

コメント欄には氏の意見に賛同する多くの声が寄せられています。が、その賛同者たちも“「クリーン」では「国民主権」は守れない”ということは理解しつつも、実は“「国民主権」は「クリーン」”だと思いこんでしまっているのではないのか? そうした疑念を持たずにはいられません。

というのも、私自身が以前はそのように思い込んでいたからです。深く考えることなく「国民主権」は「クリーン」だとなんとなく思い込んできた。この“なんとなく”を日本人は共有しているのではないか、と私は思うのです。

それだから、日本人は政治家のスキャンダルを追及せずにはいられない。「国民主権」を体現するのは選挙によって選ばれた政治家であり、「国民主権」が「クリーン」でなければならないのなら、当然、政治家もまた「クリーン」でなければならない。だが現実には政治家は「クリーン」ではいられない。というのも日本国民自身が「クリーン」ではないからです。

私は、自身が決して「クリーン」ではないことを日本人はどこかで自覚しているように思います。にもかかわらず、日本人には「クリーン」を求める抜きがたい性質がある。自覚しているからこそ「クリーン」を渇望する、とでも言いましょうか。「クリーン」は日本人の強迫観念のようなものになってしまっている。

この性質は前近代的なものです。政治を“聖なる政(まつりごと)”と捉える心性がまだ日本人には根強く残っているということなのでしょう。日本国が近代国家としてやっていくには、この性質は甚だ具合がよくない。田中氏の論説は、日本国が「国民主権」を奉じる近代国家であることを所与とし、政治に「クリーン」を求める性質を革新していくべきだ、という立場に立ったものです。

が、保守である私はこの前提に疑問です。日本人が所与とすべきは「国民主権」よりも「クリーン」の方ではないのか? これから艱難に直面するであろう日本人の行く末を考えたときに、柄に似合わない「国民主権」の衣装に身体の方を合せていこうとするのは“角を矯めて牛を殺す”、つまり亡国へと繋がっていくのではないかと思うわけです。

日本人がその活力を発揮するのには、「クリーン」を希求する方向性の方が身の丈に合っていると思われるからです。「クリーン」でない「国民主権」は、その実は闘争です。「国民主権」を制度として支えている選挙は、模擬戦争です。が日本人の性質は闘争は嫌う。だから未だに日本では選挙は盛り上がらない。日本人が活力を発揮するのは「和」を実現させる方向性であり、「和」と「クリーン」と深いところで結びついている。日本人は、政の中心に「クリーン」を求めその周囲に「和」を築くこうとする。「和」を築くときに私心があってはならないのです。私心を捨てて事に仕える。すなわち「仕事」です。

日本人が日本人として自身で未来を築いていこうとするなら、「国民主権」と「クリーン」のどちらを優先すべきか、根っこから捉え直してみた方が良いように思います。

仲間外れにするのはよくない

〈道徳〉的な〈帝国〉の続きを書くつもりでしたが、やめました。
途中まで書きかけてはいるんですが。某所でゴタゴタしたせいもあってか、なんとなく続きを書く気力が失せました。別の話をしてみます。

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サンデル教授の授業が大人気のようで、検索してみるとあちこちのブログで取り上げられている模様。私も遅ればせながら、そこに連なってみたいと思います。

取り上げるのは初回放送の「殺人に正義はあるか」から『Lecture2 サバイバルのための殺人』です。ここではミニョネット号の遭難事件という実際にあった出来事が紹介されていました。その事件の経緯は、

・ミヨネット号が陸から遠く離れた公海上で難破。
・4人の船員が救命艇で奪取するが、食料はわずか(カブの缶詰2個)、水は雨水しかないという状態
・4人は4日目に缶詰をひとつ開けて、分かち合った
・5日目にウミガメを捕まえ殺して、食料とした
・18日目には2つ目の缶詰を食べてしまい、完全に食料が尽きた。
・20日目に、3人は衰弱した少年1人を殺して、食料とした
・24日目に3人は救助された。
・母国(イギリス)に戻った3人のうち2人が殺人罪で起訴された

と、こんな話でした。サンデル教授の授業では、この事件で実際に発生した「食人」という行為の是非が問われます。

この授業の様子を見ながら、私は不思議に思ったことがありました。それは下線を引いて示した部分。カメを殺して食べたという点について、だれも疑問に思った者はいなかった。当たり前といえば当たり前の話なのですが、それで済ましてしまっては哲学としては失格でしょう。

次のような仮定をしてみます。もし捉まえて食べたのがウミガメではなくクジラだったとしたら? クジラを食べる文化を持つ日本人には理解しにくいことですが、世界にはクジラやイルカを「仲間」と見なして殺してはいけない、と主張する人たちも存在します。事件があった当時はそのような人はいなかったでしょうが、いたと仮定したとしたら、どうでしょう?

また次のような仮定も考えてみることができます。事件が起こったのが奴隷制度のある時代の話で、殺され食料とされた少年がもし奴隷下級の者だったとしたら? 残りの者たちは殺人罪で訴えられたでしょうか?

人は動物ですから食料なしに生存はかないません。食料を得るためには殺さなければなりませんが、それは生きていくためにどうしても必要な行為です。が、その対象は無限定というわけではない。そこには道徳的な制約が加えられます。食人はいけない。人殺しはいけない。それは確かにそうですが、それでは十分な答えになっていません。もっと根本的には、「仲間」は殺してはいけない、のです。

「仲間」は殺してはいけない、これは逆にいうと「仲間」でないものは殺してもよい、ということになります。ウミガメは仲間でなかったから、殺しても罪に問われることはなかった。もし少年が奴隷であったなら、殺しても罪に問われる可能性は低かったであろう。また現代であっても、敵、つまり「仲間」ではないと認定されたら、それが例え人殺しであっても罪に問われることはない。戦争で兵士が敵を殺害するのは、英雄的行為であって罪ではありません。
もっとも英雄的行為というのは、敵と罪を認定する権力者の視点に立ったときの話です。実際に戦場で敵を殺す兵士は、兵士自身の視点から「仲間」か否かを判断しています。そしてその視点からは権力が認定した敵がイコール兵士自身が認定する「仲間」ではない、とは限らない。兵士自身は「仲間」と認定しているのに、権力が敵と認定してるために殺さなければならない事態が戦場ではたびたびおこる。だから、兵士は心を病むことになる。

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話をサンデル教授の授業に戻しましょう。今度は『Lecture1 犠牲になる命を選べるか』から。
ここではある架空の選択が「あなた」に突きつけられます。 ・あなたは高速で走行する車の運転手で、その車のブレーキが壊れていることに気がついた
・車の進路には5人の人がいて、このままでは5人は確実に死亡する
・ハンドルを切って進路を変えることはできるが、そこにも1人いて、その場合はそちらの1人が死ぬことになる
・1人を殺すか5人を殺すか、あなたの選択は?

そしてもうひとつ。

・あなたは上の暴走する車を見ている傍観者である
・そのままでは進路上の5人は死ぬ
・ところが、あなたは人を1人車の進路上に突き落とせば5人を救えることに気がついた
・1人を殺すか5人を殺すか、あなたの選択は?

上のケースも下のケースも、最後の問いかけは“殺すのは1人か5人か”という問いになっています。ところがこの問いかけに対する学生の答えは上と下とでは異なる。上では1人、下では5人を選択する者が多い。この食い違いからサンデル教授は「帰結主義」と「定言的な考え方」というふたつの原理を導き、その両者は相容れないとします。

(帰結主義――行為の結果に道徳性を求める。上のケース。
 定言的な考え方――ある種の必要条件・義務・権利のなかに道徳性を求める。下のケース。)

しかし、道徳性の判断が相反するような2つのケースも「仲間」という視点から見れば統一的に理解できると私は思います。

まず、上のケース。このケースでは、運転手である「あなた」にとって1人も5人も「程度に仲間ではない、という言うことができます。「同程度に仲間ではない」というのは、「仲間」か否かは「あなた」の行動で決定されるわけではない、「あなた」がどちらを選択しようが1人と5人の危険度に変化は生じない。つまり1人と5人は「あなた」が行動する以前にすでに「仲間はずれ」になっているのであって、あなたが「仲間外れ」にするわけでない。
対して下のケースでは、「あなた」が1人を突き落とすという行為は、他ならない「あなた」自身がその1人を「仲間外れ」にしてしまう。道徳的な判断の分岐点は、殺すか否かではなく、「仲間」から外すかどうか。「仲間」ではない者は殺すこともやむを得ない。

もう少し言葉を付け加えておきましょう。上の「仲間」云々の話は「人殺し」=「仲間外れにする」と考えると理解できません。人は「人殺し」よりも先に「仲間外れにする」ことを行い、「仲間外れ」は殺すことを許可する――そういった順序で考えるということなのです。

このことは、上のケースの次のような仮定を加えて考えて見ればわかります。つまり、もし、1人が「あなた」の知り合いだったしたら? この場合、1人と5人は「あなた」にとって「同程度に仲間ではない」ではありません。ゆえに、「同程度に仲間ではない」時のように功利主義的に1人を殺すという選択は出来ない。しかし、かといって、5人を殺すことを選択してしまえば、「あなた」は周囲から非難を浴びることにはなるでしょう。というのも、1人と5人を「同程度に仲間」と思っている周囲の者は、「あなた」は1人が「あなた」の「仲間」であるという理由によって、5人を「仲間外れ」にしたと受け取け取ってしまうからです。

この「あなた」と周囲との「仲間の程度」の齟齬は、ミニョネット号事件にも当てはまることです。1人を仲間はずれにして生還した3人は、殺された1人を「仲間」と認識する者たちによって罪を問われた。3人と周囲の者との「仲間の程度」に齟齬がなかったウミガメ殺害は罪に問われなかった。また、もし1人が奴隷であったなら、これもまた齟齬はないだろうから罪には問われないだろうと推測されます。

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以上のことをまとめてみますと、次のようになるでしょうか。

・道徳の適応範囲は「仲間」うちだけ。
・「仲間はずれにする」ことを人は非道徳的だと感じる
・人の「仲間」認識には濃淡がある。
・社会には、ある程度までは「仲間」範囲の共通認識が存在する。
・ある程度以上では人にそれぞれ「仲間」範囲は認識は異なる。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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