愚慫空論

国民主権なら、政治家は国民が育てるべき。

国民主権を支持する人で、この主張に反対する人はいないと思います。

ところが。政治資金、つまりカネのことでは、この意見に反対の人ばかり

クリーン、クリーン、クリーン...

今の世の中、何をするにもカネが要る。食べていくにも子どもを教育するにもカネが要る。
だったら、政治家を育てるのにだってカネが要るのは当たり前。
なのに、この「当たり前」が「クリーン」の話にしかならない。

企業献金はダメ。
これは要するに企業に政治家が育てられるというわけだから。

政党助成金もダメ。
これは政治家を育てるのじゃなくて、育った政治家にカネを与えるものですからね。

では、どうやって政治家を育てればいい?
市民が私財を投じて育てるしか方法はないのかな?
そんなことはないでしょう。税金を使って育てればいいんじゃないの?

以前にも書きましたが、私の思うところは次の通り。

選挙に立った政治家は、その得票数に応じて政治資金を助成すべし。
当選するしないは関係なし。落選しても高い支持を得た政治家は「政治家助成金」で活動を継続できる。そうすれば、選挙のために重要法案を投げ出す、なんてこともなくなるかもしれない。

当選した人だけが政治家ではないんです。志によって立てば、それだけで十分に政治家の資格あり、でしょう。政治家助成金は、志ある政治家を育てる糧になると思いますが? カネがなくても地道に主義主張を訴えていき、それが認められればカネにもなる。

その上で企業献金を受け取るのも良し。ただし、それはキッチリ公表はされるべし。選挙ポスターに政治資金の内訳の記載を義務づけるくらいのことをすればいい。そうすれば、その政治家は誰に育てられたのかがすぐわかる。ケータイでQRコードを読み込めば、リストがズラっと出てくるくらいのことは、訳ないでしょう。

国民主権というならこのくらいやってもいいと思いますけど、いかが?

『ハラスメントは連鎖する』(2)

『ハラスメントは連鎖する』では、ハラスメントを仕掛ける人(加害者)を「ハラッサー」、仕掛けられる人(被害者)を「ハラッシー」と呼びます。

ハラッシーがハラッサーからハラスメントを仕掛けられると、ハラッサーの〈魂〉は呪縛されます。呪縛が強まると、ハラッシーは自分が被害を受けているという認識すら捨てることになり、自分の精神的・物質的資源をハラッサーに奪われることになります。

 しかし人間は、自分の生気を奪われままでは生きていけない。そこでハラッシーは、奪われた資源をなんとか取り戻そうとする。とはいえハラッサーから奪い返すことは恐ろしくて出来ないので、ハラッシーは自分にハラスメントを仕掛けない人にハラスメントを仕掛け、その人の資源を奪い取ろうとする。つまり、ハラッシーはハラッサーになる。
 まるで、吸血鬼に血を吸われた人が、吸血鬼となって他人の血を吸うようなものである。こうして吸血鬼になった人を我々は「ハラッシーハラッサー」と呼ぶ。(P.45)

「吸血鬼の原理」がハラスメント伝播の原理 です。

「吸血鬼の原理」とはいかにも大袈裟なようですが、決してそうではありません。ハラスメントは〈魂〉を呪縛する。改めて〈魂〉とは何かといいますと、それは「自分の感覚」です。人間は生まれながらに生存していくための感覚を持っており、この感覚が生存の羅針盤。そして、「自分の感覚」つまり「自分自身」を信じることで生じてくるのが「生気」です。ハラスメントはこの「生気」を奪う。「生気」を「生き血」だとすれば「吸血鬼の原理」は決して大袈裟ではありません。

このことは46ページから示される「具体的情況」にもよく示されています。
(ここは実際に本にあたって読んでみてください。)

さらに。

 ハラスメントは家庭や職場に限られるものではない。社会全体にハラスメントの悪魔がとりつく場合もある。その典型的なケースは軍国主義や植民地支配といった問題である。

日本の軍国主義から生じたハラスメントの一端は、『偽りの成功体験』で引用させてもらったのでそちらを見ていただくとして、植民地支配ではどのようなことが起きるのか?

 彼は、あるひとつの小さな事件を目撃した。それは、朝鮮人の花嫁を輿に乗せた行列がやってきたのを一群の日本人の男どもが見つけ、面白半分にむりやり行列を止めて花嫁を降ろし、輿に乗り込んで周囲を一周させたという事件である。

このような出来事が植民地では終始生じていたのであり、そうして沢山の魂が植民地独特のやり方で傷つけられていった。この傷が、現代の我々に対して叫び声を上げているのである。
 この傷は、放置しておいても解消するものではない。なぜなら、植民地支配を受けた世代が死に絶えたとしても、その傷ついた魂を持つ人々によって育てられた魂には、同じ傷が刻印されていくからである。
 自分が苦しめられた記憶に正面から立ち向かって克服することを許されず、泣き寝入りさせられてその記憶を封印させられた者は、無意識のうちに同じ傷を自分より弱い人に負わせようとしてしまう。もっとも傷つけやすいのは、幼い子供である。

 最初の世代はまだましである。なぜなら、どうして自分の心が傷ついているかを知っているから。もし勇気を持って立ち向かうなら、自分の心の傷と正面から向かい合うことができる。
 しかし二代目以降は悲惨である。なぜなら、どうして自分の心が傷ついているのか、サッパリわからないからである。

 この傷を持つ若者が、学校で歴史の時間に、植民地支配の様相を知れば、なぜだかわからないが、何とも言えない感情がこみ上げてくるのは当然である。その直接の関連性を意識しなくとも、無意識の何かが作動するからである。

 このような傷が、「反日」という形で噴出していることは、我々にとってむしろ歓迎すべきことである。その思いは歪んだ形をしていても、正しい方向に向かって投げかけられているからである。
 もし彼らの心の傷が、植民地支配の知識を持たないために隠蔽されたままであれば、それは治癒することが不可能となる。彼らは理由のわからない憤激にさいなまれ、ハラスメントの悪魔を撒き散らすことになり、事態はさらにやっかいなものになる。
 せっかく「反日」という形で悪魔が姿を現わしているのに、
「そんな感情を抱くのはおかしい。日本に感謝しろ」
 とハラスメント的な対応をすれば、悪魔はさらに増殖する。(以上 P.65~68)



では、どのように「ハラスメントの悪魔」と対峙すればよいのか?

「強者の非暴力」であると著者はいいます。

 社会の本当の敵は「悪人」ではなく「悪意」である。悪意を持ったコミュニケーションに目をつぶるなら、それは悪意を増殖させる。それはまさに「悪魔」と呼ぶのがふさわしく、悪人よりずっと手ごわい。主たる敵を悪人だと取り違えて暴力を用いて排除をはかるなら、その暴力そのものが悪魔を増大させる。悪魔と戦うために暴力は無用であるばかりか、逆効果である。
 悪魔との戦いは非暴力に依るしかない。しかもそれは弱者の非暴力であってはならず、強者の非暴力でなければならない。
 言うまでもないが、これはモーハンダース・カラムチャンド・ガンジーの「サッティヤーグラハ」の思想である。これは直訳すれば「真実にしがみつくこと」であり、ときに「魂の力」とも言い換えられる。ガンジーの思想は、魂を呪縛から解放することを闘争の主たる目的とする。


引用だらけのエントリーはまだまだ続きます。

消費税増税がダメな理由を考えてみた

まず言われるのは、

・消費税は逆累進性があるから

でも、私はこれは正中を射ていないような気がします。というのも、この逆累進性は補うことが可能だから。

・生活必需品の税率を下げる
・生存に必要な最低消費額を定めて、消費税の還付を行なう

など、方法はいくつか考えられます。
(菅首相もその点について発言しているみたいです。ただの「発言」だけかもしれませんけど)

消費税増税の理由は社会保障費の増額ということですが、ならば、増税で得た財源で増税で生じた逆累進性を上回る保障を行なうことも可能なので、「大きな政府」を支持するのであれば、消費税の逆累進性がそのまま消費税増税はダメという理由にはなりません。逆に考えれば、消費税増税は所得再配分の理由付けにすることだって出来きるはずです。「大きな政府」とは大きな税収と大きな支出ですから。

私は基本的にアナーキストですので「大きな政府」には与しませんが、今の現状からいえば「大きな再配分」は必要だと思います。ならば当然「大きな税収」も必要。消費税は取る場所を間違えている、と思うのですね。デフレの状況下で消費税は大変拙いと思います。

デフレということはどういうことか? 経済が縮小しているということです。しかし、一方でGDPは伸びている。いや、2008年からの金融危機でGDPは縮小しましたけれども、それ以前はデフレとGDP増加という現象が並列していた。GDPの増加とは経済成長ですからデフレと矛盾するのですが、これは要するに、全体としてのお金回りは良くなったが、一部では巡りが悪くなった。その「一部」が私たち庶民に大きく関わる「実体経済」だということ。で、リーマンショック以降は、経済全体が縮小したので、もともと巡りの悪かった部分が更に巡りがわるくなった――と、そういうわけです。

デフレつまり物価が下がるというのは、モノに対するカネの量が減ったということ。一方でGDP増加とはカネは増えたということを意味する。ということはモノとカネとが循環する実体経済は縮小したにもかかわらず、カネだけが巡る金融経済は増加して、実体経済+金融経済(=GDP)は増えた。つまり

実体経済↓ 金融経済↑↑

という現象が起こっている。このことがいわゆる「経済格差」の震源であるわけです。

現在、南欧や東欧あたりでまたまた危機が表面化しているらしいですが、それでもぼちぼちGDPは増加しつつあるとは聞きます。が、デフレは相変わらず。で、消費税というのは実体経済への課税です。税はどんなものであっても経済を弱体化させるものですけれども、今の情況での消費税は、巡りが悪くなって弱っているところから取ろうというもの。しかもそれは庶民の生活に直結する部分。それがいいわけがないのです。

現在、菅首相は強い経済、強い財政、強い社会保障をかかげて選挙戦を戦っています。強い社会保障には強い財政が必要だし、強い財政には強い経済が必要。が、消費税増税では強いは作れない。政府がテコ入れをして強い経済を作るのだ、なんて言ってますけど、そんなことが出来るわけがないんです。経済を拡大させるのは、いつの時代も「民」であって「官」ではない。「官」が「菅」だからといってその法則は変わりません。政府ができるのは再配分であって“それは巡りの良いところから取って巡りの悪いとこへ流す”、というのが役割。その後は「民」の仕事です。どうもそこのところが解っていないような気がします。
(もっとも、今「民」で一番力をもっているのが金融資本ですが。)

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カネを金融経済から実体経済へ流す。その意味で所得税の累進課税強化は良い方法です。高額所得者は消費性向が低い――、つまり高額所得者ほどカネを金融経済へ流す。だから所得税累進課税強化は金融経済→実態経済のカネの流れを生むことになります。

が、もっと面白いのは、『静かなる革命2009』の馬場さんが提唱しておられる一般取引税(金融取引課税)でしょう。
(http://www.aya.or.jp/~babalabo/DownLoad/TransactionTax.pdf)
これは金融経済をほぼ直撃することになりますし、金融経済の巨大ゆえに小さな実体経済への消費税課税が必要なくなる、というものです。

また、オバマ大統領率いるアメリカではこんなのも出てきています。

『オバマ大統領、8兆円規模「金融危機責任税」』(YOMIURI ONLINE)

金融危機のおかげで実体経済は打撃を受けたばかりか財政出動でその尻ぬぐいまでさせられている。それからすれば、この程度は当たり前の話なんですが。

『ハラスメントは連鎖する』(1)

ハラスメントについては以前も取り上げましたが、改めて。

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ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)
ハラスメントとは何か? 〈魂〉の呪縛です。

では〈魂〉とは?

人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと。(P.92)


赤ん坊がどのように世界を捉えているかについての研究は、近年、急速に進展している。その結果、人間が白紙の状態で生まれてくる、というかつての信念は完全に否定された。赤ん坊は、独特の高度な世界の解釈システムを持って生まれてきて、それを成長に従って部分的に崩しては組み直す、という形でより複雑なシステムを構築していくと考えられるようになっている。(P.31)


呪縛されることなく育まれた〈魂〉は

 子供は、本来あるがままの豊かな人格をもって生まれてくる。親が子供をあるがままに受け止め、愛することができるのなら、この本来の自分に適合する形で人格が形成され、メッセージに対する深い識別能力を育てることができる。


〈魂〉が呪縛されるとどうなるか?

 ところが、親が子どもの「ためを思い」、野心を持たせ、競争に勝てる、社会に従順な人間に育てたいと考えると、本来の自分を捨てさせることになる。そのかわりに見せかけだけの「正常」な行為を産出する装置が組み込まれ、それが「自分」を構成するようになる。こうして本来の自分は「自分のなかの他人」となってしまう。


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創発的コミュニケーション 人間が生まれながらにもつ〈魂〉、つまり「独特の高度な世界の解釈システム」によってなされるのはコミュニケーションです。コミュニケーションはメッセージをやりとりすることによって成立しますが、このメッセージの意味性はコンテクスト(文脈)に依存します。そしてコンテキストは「学習」の過程で生じます。

ハラスメント 一方だけが学習の努力を続ける非対称が継続すると、Aはやがて疲労困憊し、茫然自失の状態に陥ります。こうなったときにBは、Aに対して自分にだけ都合の良いメッセージを送り込む。「あんたは私の言うことだけ聞いていればいいんだよ」 この攻撃によってAは呪縛をうけることになります。

この呪縛が成立する上で最も重要な条件は、AがBとの関係から離脱できないと思い込んでいることです。こうした「場」の典型が家庭、それも親子関係で「ハラスメント」は生じやすい。

ハラスメントは自分自身の感覚を裏切るように子供を仕向けていきます。親は子供に対して

「これをすると、おまえを罰する」
「これをしないと、お前を罰する」

というメッセージと

「これは罰ではないのだよ」
「わたしがお前を罰するような意地悪な人間だと思っているんじゃないだろうね」
「これをお前に許さないのは、お前を愛するからこそだ」

という2つの矛盾したメッセージを送ります。親の庇護なしに生きられない子供は、こうした親の欺瞞に荷担して自分自身を欺し、自分の感覚を信用しなくなります。親の欺瞞に曝される子供に唯一可能な合理的対応は、世界を解釈するためのシステムを、自ら破壊して混乱に陥ることだけです。

そうすると、世界が不条理に満ちているように思え、いつも不安を感じなければならなくなるが、その代償として親の欺瞞的なストーリーを守ることができる。そうして子どもは親の「愛」を買い取ることができる。もちろんこの「愛」は、まがい物にすぎない。


人生を正しく生きるためには、他者のものであれ自分のものであれ、メッセージの種類分けを正確に行なう能力が不可欠であるが、ハラスメント情況はその発揮を徹底的に阻害する。(P.29)


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ハラスメントがさらに厄介なのは、コミュニケーションがハラスメントの要素なしには成立しない、ということです。

 コミュニケーションというものはそもそも、自己満足では成立しない。
 典型的な例として、言語を考えてみればよい。自分の気持ちを百パーセント正しく表現できる音声の独自の組み合わせを開発したとしたら、それは他人には通じない。他人に通じさせるためには、自分にとっては外部にある言語の運用能力を身に付けなければならない。このとき、どうしても自分の魂にとっては外的であるものを、自分自身として組み込む、という過程が必要になる。


人間は外界のメッセージを解釈する高い能力を持つがゆえに社会を構成しているのであるが、この社会を作り出す能力は、本来の自分ならざるものを自分の中に取り込み、自分自身の一部だと思い込む能力として、他人によって悪用されうる。これは常に、自分自身の感覚を否定し、外的なメッセージの方が正しい、と思い込むことに結びつきうる。これがハラスメントの糸口を与える。それゆえ、コミュニケーションはハラスメントの可能性を常にはらんでいる。

『君が代』は結婚式の歌だった?



。..twitterから仕入れましたが、tweetのURLがわからない(泣)

菅直人は「クリーン」なのか?

菅直人は「クリーン」なのか?

この問いは、菅直人は裏切ったのか? と問い直すことが出来ます。
そのように問い直せば、消費税10%を掲げたことは裏切り行為であるといえます。

が、本当に菅直人は日本国民を裏切ったのか?
それとも、裏切らざるを得なかったのか?

菅直人は、いや、民主党は裏切らざるを得なかったのだ、という見解を示す方もおられます。

新ベンチャー革命:『民主党の豹変:極東戦争を防ぎ、国民の命を守るためだった?』

コチラの記事の要件は、

・民主党の変節は鳩山政権末期に起きていた。
・そのきっかけは韓国哨戒艦「天安」の沈没にある。
・この「事件」は米国戦争屋が仕掛けたもの。
・民主党は極東戦争を回避するために戦争屋に屈服した。
・消費税増税は、戦争屋の指示。

というものです。

こうした観察が正しいのかどうか、私にはわかりません。仮説としては成り立ちえると思っていますが、その仮説を検証する手段を持ち合わせていませんから、わからないとしか言いようがないのです。

とはいえ、わからないと言っているばかりでは話が進みませんから、この仮説が成立しているとします。つまり菅総理大臣は、裏切らざるを得なかった。裏切るしか選択肢はなかった。

問題はここから先です。一時的には裏切らざるを得なかったとして、菅直人はその裏切りをあくまで一時的なものと考えているのか? それとも、その裏切りを機に、日本国民を裏切る側に回ったのか?

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話はいささか飛びますが、ここで 大石内蔵助は「クリーン」だったか? という問いを考えてみたいと思います。

答えには2つあるでしょう。

1) 討ち入りの意図を隠蔽するため、大石は「バカ」を演じた。
   これは演技であったが、裏切りであったことにはかわりはない。
   ゆえに大石は「クリーン」ではない。

2) 大石の「バカ」の演技は討ち入りのための手段だった。
   ゆえに演技は裏切りではない。
   大石は「クリーン」である。

1)は「結果のクリーン」、2)は「意図のクリ―ン」と解釈できるでしょう。

1)と2)の見解は、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではありません。どちらを支持するのかという性質のものです。そして、大石内蔵助の人気を思えば、2)の見解がより大きな支持を集めているといえるでしょう。つまり、日本人は「意図」を基準に「クリーン」を判別しようとする傾向がある、といえるわけです。

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政治ブログ界隈では、変節した菅直人総理大臣への批判が盛んです。私はこの批判を故無きことだとは思いませんから、批判への批判をするつもりはない。が、気になることはあります。

それは、「結果のダーティ」から「意図のダーティ」を憶測しているものが多い、ということです。しかし、「結果のクリーン or ダーティ」と「意図のクリーン or ダーティ」とは必ずしも結びつきません。むしろ「意図のクリーン or ダーティ」を見るには、その人物の為人をみるのがイチバン、ということになります。日本においてスキャンダルが政治家の失点になるのは、スキャンダルが政治家の「意図のクリーン or ダーティ」を判別するポイントになると考えられているからでしょう。

では、その為人から判断して、菅直人は「クリーン」なのか? まったくわかりません。その為人を判断する情報に接することが出来ないからです。しかし、判断材料はあると思います。小沢一郎です。小沢一郎は、その「結果のダーティ」にもかかわらず、また数々のスキャンダル報道にもかかわらず、私は意図においては「クリーン」だと思っています。また鳩山由紀夫も同様に感じている。このお二人が菅直人をどう評価しているのか? ここが重要なポイントのように思います。

とはいえ、小沢一郎と鳩山由紀夫は絶対に「クリーン」だと確信しているわけではありません。そんな判断材料は持ち合わせていませんから。小沢鳩山が「クリーン」というのも、それもひとつの仮説でしかありません。が、私は、そういった仮説の組み立て方の方が「結果のクリーン or ダーティ」から判断するよりも良いようなな気がします。ここでいう「良い」は、「正しい」ではなくて「納得」が基準です。政治は「結果」が大切なのはいうまでもありませんが、それ以上に「納得」が重要だと思います。たとえ悪い「結果」でも「納得」があれば次のステップへ進めることが出来ますし、また「納得」を裏切られたとしてもそれは自己責任だと言えるからです。

偽りの「成功体験」

個人の物理的次元での「成功」は、周囲の認知によって精神的次元での「成功体験」へと変換される。そうした「成功体験」を誰もが必要としている。

『誰にでも「成功体験」が必要だ』のエントリーでそのようなことを述べました。

しかし、この「成功」⇒「成功体験」への回路は、しばしば「失敗」⇒「成功体験」の回路に置き換えられてしまうことがあります。「成功体験」は周囲の認知に左右されてしまいますから、周囲の認知の在り方によっては「失敗」も「成功体験」へと変換することができてしまいます。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

 靖国神社は、日本帝国が主体となった戦争で戦死した人々の例を慰める祭礼を執り行う機関である。しかしそれは同時に、戦死者の遺族をハラスメントに掛ける装置としても機能してきた。
 如何なる事情によってであれ、愛する夫や息子が死んだなら、遺族は大変な悲しみに襲われる。これは人間にとって普遍的で自然な感情である。この悲しみに沈む人々を見れば、その周囲の人も深い同情を覚えることになる。これも人間として当然の感情である。
 この悲しみの連鎖は、しかし、戦争を遂行しようとする国家にとって、まことに不都合である。戦死者が出るたびに、悲しみの衝撃が走れば、戦争を継続するのが困難になる。五人、十人なら平気であるが、何十万、何百万となれば、放置できない。
 そこで戦死者の霊が、靖国順者に祭られ、神となり、天皇の拝礼を受ける立場に立つという物語が創造された。これは死地に赴く兵士を鼓舞する機能を持つばかりではない。この物語は、遺族が、愛する者の死を、喜びをもって認識するという倒錯を生じさせる。
 これは確かに、短期的には兵士の死を遺族が乗り越えて生活を続ける上では効果がある。しかしこのとき、遺族が愛する者の死を受け止め、深い悲しみから立ち上がるという、治癒の過程が停止される。その代わり、愛する者が神となったことを喜ぶという物語が与えられ、悲しみが封印される。これを高橋哲哉は「感情の錬金術」と呼んだ。
 しかしこの錬金術によって、人間は普遍的な愛する者への死という悲しみの感情が消えてなくなるわけではない。それはそもそも不可能である。遺族にできるのは、悲しみを感じないフリをすることだけである。それで自分自身を欺すことはできるかもしれない。そえでも、無理矢理、封じ込められた悲しみは、深い傷となって心の奥底に抑圧され、疼き続ける。この疼きから逃れるために、遺族はますます深く靖国の者がたちに依存せざるを得なくなる。
 愛する者の死に際する「最大級の悲しみ」という感情に、「最大の喜び」というラベルを押しつけるという行為は、最大級のハラスメントである。


「失敗」が「成功体験」へと誤変換されてしまった「偽りの成功体験」は魂を呪縛します。それは「失敗」から逃れたいという、これまた人間の普遍的な感情が働くためでもあります。「偽りの成功体験」はそこへつけ込むのです。それも善意によって。

「偽りの成功体験」によって呪縛された魂は、「誤変換」の「正しさ」に拘泥することになり、他の「正しさ」を排除することになります。

日本の「勤勉」は個人戦

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)
神野直彦著『「分かち合い」の経済学』を読み始めましたが、最初のところで引っかかってしまいました。

スウェーデン社会を訪れると、栄西が中国の杭州に降り立ったときのように、母なる国を徜徉している境地に浸る。スウェーデンを旅すると、豊かな自然に抱かれ、心優しき人間の絆のぬくもりに包まれ、心安らかに生きることのできた幼き頃の日本社会に出会うことができるからである。スウェーデン人もヨーロッパの日本人といわれることを誇りにしている。


豊かな自然というが、日本とスウェーデンとで自然の在り様は大きく違います。日本は東アジアのモンスーン地帯、スウェーデンはずっと緯度の高い北欧です。自然の在り様が違えば人の在り様も違う。スウェーデン社会が“心優しき人間の絆”に溢れ“心安らかに生きることができる”というのはそうなのでしょうが、それは昔の日本社会の在り様ではない。昔の日本社会は人間同士の結びつきが強い“生命力溢れる”社会だったと私は思っています。しかし、それは必ずしも“心優しき”あるいは“心安らか”ではなかった。ここのところは少し過去を美化してしまっているのではないかと思います。

では、昔の日本社会はどんな社会だったのか? そこはやはり「勤勉革命」と大きく関係しています。

勤勉革命では家族労働が基本になっていきます。それは日本の傾斜地地形では家族労働が適しているからです。しかし、あらゆる種類の労働を家族で行なったわけではない。効率的な労働を行なうために、たとえば田植えといった作業は集落の共同作業で行なった。効率追及であった共同作業が、現在では「結い」という地域共同体の“心優しき絆”であるかのように思われていますが、これは実は「過去の美化」でしかない。このことは私自身の体験からも言えることです。

和歌山で暮らしていたときの話ですが、私たち夫婦も米作りをしようと思ったことがあります。休耕田はあちらこちらにあるので、田んぼはすぐに見つかった。問題は農業機械だった。水田は田植え前の田起こしと田植え、刈り入れに大変な労力を要します。ですので、それぞれに耕耘機、田植機、コンバインといった機械を使用する。私たちは安易に、田んぼが借りられるのなら機械も借りられるだろうと思っていた。ところがそうはいかなかった。機械は自分たちで購入する。それが「基本」だったんです。

この「基本」は労働の基本は家族労働だというところから来ています。「結い」はあくまで効率追及のための手段でしかなかった。だから、農業機械が発明されるや急速に普及が進み、共同作業が機械作業に置き換わっていった。こんな話も聞いたことがあります。“機械のおかげで嫌いな奴と一緒に仕事をしなくてもよくなった。”これが日本人のホンネであり、決して“心優しい”とはいえないものです。

日本人はよく「空気を読む」といわれますが、私が思うに、この慣習は必ずしも好ましくない人間関係を維持するためのテクニックです。共同体の構成員たちが本当に仲良く心優しいのなら「空気を読む」などといった必要はなかったはずです。でも、その必要があった。だからそのための技術がうまれたのでしょう。

これでは昔の日本社会は抑圧的でとても“生命力溢れる”とはいえないと思われるかもしれません。実際、昔の日本の地域共同体に暗く湿ったイメージを抱いている人も多いことでしょう。

日本の共同体の不思議なところは、労働は個人戦あるいは家族戦なのに、その成果は労働ほどに個人・家族の所有物という感覚が強くないところです。もちろん労働はまず家族のためですから、収穫物はまず家族のための使われる。が、その余剰を譲与することを厭わない。厭わないどころか、譲与のために余分な労働すら行なう。自分たちが生きていくのに必要以上の労働を行なって、その余剰物が共同体内を流通する。そこが「生命力」の源泉になっているのです。

というのも、労働は伝統的日本人にとっては「成功体験」だからです。余分な労働を行なって共同体に寄与する者は周囲から高い評価を得た。「働き者」という評価です。日本人はこの「成功体験」を得るために労働する。それは、一神教信者が“神に祈りを捧げる”のと同様の行為でもある。よく神に祈る者が「信心者」との評価をえるように、よく働く者は「働き者」という評価を得る。そして祈りが神と対峙する「個人戦」であるのと同様に、日本人の労働は自然と対峙する「個人戦」というわけです。

日本の会社共同体が繁栄してきた理由、そしてダメになった理由も「個人戦」「成功体験」「生命力」から見ることができるでしょう。多くの方がご存知でしょうが、会社共同体の中は決して“仲良く”“心優しく”ではありません。それは基本が「個人戦」だからです。その基本の上に「空気を読む」技術で効率的な労働を行なう。また余剰労働は評価され「成功体験」に結びつくから構成員の「生命力」が上昇し、それがさらなる労働意欲に繋がった。終身雇用制は日本人の「生命力」を引き出すのに適したシステムでした。

ところが成果主義という貨幣による評価が導入されることで“「生命力」の引き出し”がうまく出来なくなった。余分な労働は物理的次元の「成功」でしかなくなり、精神的次元の「成功体験」ではなくなってしまった。だから「生命力(force)」を引き出せなくなった、という悪循環です。

誰にでも「成功体験」が必要だ

内田樹の研究室:『成功について』

を読みました。

第三の「全員が成功するということはありうるのか?」というの質問はおもしろい。
もちろん答えは「ノー」である。
というのは成功者が「私は成功者だ」という自己認識をもつとしたら、それは、「私は非成功者だ」と思っている人間の「できることなら、この人と立場を入れ替えたい」という羨望を実感した場合だけである。

ここのところに引っかかりを憶えました。この「ノー」という答えには、「成功」とは“奪い合うもの”という「前提」がある。内田氏のことだから、当然この「前提」には無自覚ではなくて、

「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象である。だから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立する。

というふうに書いています。つまり“奪い合い”の「成功」と非“奪い合い”の「幸福」とを対比させている。

が、「成功」は本当に“奪い合い”なのか? 私はそうではないと思います。
『いのちの歌』のエントリーで、私は

人にとって最初で最大の成功体験は、その人自身がこの世に誕生してきたということ

だと書きました。この世に誕生してきたという「成功」は“奪い合い”でしょうか? 唯物論的な視点にたてば「イエス」でしょう。物質世界は有限なのだから、〈私〉という物質が存在するのは他所から物質を奪ってきた結果に他ならない。それはそうです。しかしそれでも、〈私〉を〈私〉と認識する〈私〉――ここでは〈魂〉とでも呼んでおきましょう――は、有限世界からやってきたものだとは誰にも断言できません。

私たちはこの世に生を受けてから、「成功」を積み重ねてゆきます。目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、言葉は話せるようになり、立ち上がって歩けるようになり、自他の区別がつくようになり――、これらはみな「成功」です。こうした「成功」が周囲に認知されて、「成功」は「成功体験」になる。人がこの世を生き抜いていく「生命力(フォース)」を育むのが、「成功体験」です。

子どもの物理的「成功」は周囲の認知によって精神的「成功体験」へと次元が変わる。子どもはは周囲の精神的次元での認知を受けることで〈フォース〉を大きくする。つまり〈フォース〉とは精神的次元での「力」です。子どもが大人になって有限の物理的次元の世界と戦うには、〈フォース〉が必要です。有限世界と戦うための物理的次元の「力」が〈パワー〉です。

物理的次元の「成功」が精神的次元の「幸福」へ繋がっていくためには、〈パワー〉の行使に際して〈フォース〉が伴わなければなりません。物理的次元と精神的次元を繋ぐのが「成功体験」です。

生産の三要素 ~産業革命と勤勉革命

一般に生産の三要素というと、土地・資本・労働があげられます。

これら三要素はそれぞれ別次元ではあります。が、近代社会では、この三要素はすべて貨幣によって価値が測定されてしまっていますから、その意味では別次元ということはできません。また実際、これら三要素はすべて物質性という枠で括ることが出来ます。

私は以前に、生産(労働者の虚実変換)には自然、時間、意欲の三要素が必要だとしました。これらの三要素はそれぞれ物質性(自然)、時間、精神性(意欲)ですから、同じ枠で括ることは不可能です。同じ枠で括ることが出来ないということは、この3つを定量的に扱うことは不可能だということですが、ここでは敢えて、

自然*時間*意欲⇒生産

という式が成り立つものとして考えてみます。

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産業革命という現象を「自然*時間*意欲⇒生産」からみてみます。

産業革命は生産量を増大させました。〔生産↑〕です。
では、自然、時間、意欲の各要素の動向はどうか? おそらくは

〔自然↑〕*〔時間↑〕*〔意欲↓〕⇒〔生産↑〕

ではないのでしょうか。

自然は物質性ですから、その要素はさらに土地・資本・労働に分けることが出来ます。産業革命の特徴は資本集約ですから、当然〔資本↑〕です。土地は変化なしと考え、労働負荷は減少したと考えると〔労働↓〕です。すると〔自然↑〕となったのは、〔資本↑〕が大きい為だと考えられることになります。

〔時間↑〕とは、労働者の拘束時間が長くなったということです。また〔意欲↓〕の意味するところは自発的労働が少なくなったということになるのでしょう。自発的な意欲の湧かない労働に長時間従事せざるを得ない状況――、それが「疎外」でしょう。

対して、勤勉革命をみてみます。勤勉革命は

〔自然〕*〔時間↑〕*〔意欲↑〕⇒〔生産↑〕

だったろうと思われます。勤勉革命は労働集約ですから、〔自然〕の内訳は〔資本↓〕〔労働↑〕です。
************************************

上記の分析が当たっているとして、どういったことが言えるか? それは、

・産業革命では生産の物質性に重きが置かれるようになった。
・勤勉革命では生産の精神性に重きが置かれるようになった。

ということです。日本人が「こだわり」を大切にする職人気質や「働かざる者食うべからず」といった道徳観を涵養するようになったのは、勤勉革命を経てきたがゆえなのです。

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