愚慫空論

〈道徳〉的な〈帝国〉 

〈帝国〉―― 一部の階級が他の階級を奴隷として扱い搾取する〈システム〉
      奴隷とは〈意欲〉を強制される労働者のことです。

〈人民共和国〉―― 労働者が労働者の〈道徳〉に沿って建設する体制。
       ここでは労働者が自発的に〈意欲〉を発揮することができます。

定義からして〈人民共和国〉が〈道徳〉的なのはいうまでもありません。が、前回前々回と私は、現在の資本主義システムは〈道徳〉的な〈帝国〉なのだといいました。今回は、このカラクリについてです。

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そのカラクリの話は、イソップの有名な寓話から始めることにします。

ふれると何でも金になるお話

業突く張りの王様は願い事を言いなさいと言われて「触れるものは何でも金になるようにして下さい」と頼みます。その願いが聞きいれられ、触れるものは何でも金になりましたが、その願いは大変な事であったのです。

王様は娘に触ったとたん娘は金に変わってしまいました。食べ物を食べようとすると食べ物も金に変わってしまい、せめて水でもと思いましたが、喉に入ってから水は金に変わり窒息してしまうと思い、触るものが何でも金になる願いを取り消して欲しいと嘆願するお話です。


すべてが金に変わってしまって困り果てる王様の姿は、なにものも貨幣を通じてしか手に入れることが出来なくなった現代の私たちの姿と重なるものがあります。業突張りの王様は金をたくさん欲しいと願った。金がたくさん手に入るともっと生活が豊かになると勘違いしたからでしょう。が、金は生活を豊かにするどころか逆に困窮させてしまうことになり、王様は困り果てた。この姿は世の中に存在するすべてのモノを貨幣価値に換算してしまって、逆に生活を貧しくしてしまっている私たちの姿とよく似ているのです。

民主主義が主たる政治体制になっている現代、王様とは私たち主権者ひとりひとりのことです。そして、主権者はほぼそのまま労働者といってよい。イソップの寓話では金をたくさん手に入れて生活を豊かにしたいと願った挙げ句に困り果てた王様は業突張りでしたが、では現代の労働者もまた業突張りなのでしょうか?

確かにそうかもしれません。が、〈虚実〉変換を行なう労働者が王様のように業突張りということは原理的にありえないことです。というのも、王様の業突張りは、要するに労働者が生み出す〈実〉を金をたくさん手に入れることによって搾取したいと願望だからです。労働者は金を自ら生み出した〈実〉と交換します。金を〈実〉だと思い込んでいるからです。王様は身の回りにある〈実〉を金に変換することでより多くの〈実〉を手に入れたいと願いますが、聞き入れられたその願いは〈実〉→〈虚〉への変換能力でした。王様は触れるモノすべてを〈虚〉に変換してしまい、困り果てることになった。〈虚〉では生活できない――それがこの寓話の意味です。

王様の〈実〉→〈虚〉への変換能力は、労働者の〈虚実〉変換能力とまったく正反対のもの。つまり〈虚実〉変換能力を持つ者を労働者と定義するならば、その逆の能力を持つ者は非労働者でしかありえないわけです。では、現代の労働者は労働者でありなおかつ非労働者なのか? それは確かにそうですが、非労働者は労働者の〈道徳〉とは無関係な存在ですから、非労働者が生み出す社会は〈道徳〉的とはいえません。私は資本主義システムを〈道徳〉的だとしていますから、それは業突張りの王様の論理によって作られてはいないということです。

これが少し考えてみれば当たり前の話です。現代は民主主義、つまり労働者が王様です(ここでいう労働者には資本家も含まれています)。王様とは自らの論理に従って社会を作ることが出来る者のことをいうはずですから、現代民主主義では王様たる労働者の論理、つまり労働者の〈道徳〉に沿って作られる体制が現代の体制であるということになる。資本主義は民主主義によって支持されているシステムですから、それもまた労働者の〈道徳〉に沿った〈人民共和国〉になるはず。ところが現実をみれば資本主義は労働者の〈意欲〉を強制する奴隷を生み出す〈帝国〉になってしまっています。これはどこかにカラクリがなければそうなるわけがない。そのカラクリが「信用創造」です。

信用創造は業突張りな王様の〈実〉→〈虚〉への変換ではありません。何もない「虚無」から〈虚〉、つまり〈虚金〉を生み出すことをいいます。「中央銀行システム」と一体化した資本主義下での労働者は、「虚無」から生み出された〈虚金〉を〈実金〉に変換するべく労働を行なうのです。
(以下、「中央銀行システム」を支配する階級を金融資本とよび、労働者である資本家とは区別します。)

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私は前々回のエントリーで信用創造をごく単純化して説明しました。銀行(金融資本)Aは、企業(労働者)Bに100万円の融資を行なう際に、〈実金〉を10万円〈虚金〉を90万円という具合に貨幣を供給するのだという話でした。

労働者Bは金融資本Aに貨幣100万円を変換する契約・義務を負います(ここでは話を単純化するために利息は0だとします)。労働者Bが返還する貨幣は基本的にすべて〈実金〉です。つまり、金融資本Aが「虚無」から創造して労働者Bに貸し付けた〈虚金〉を、労働者Bは労働者の〈道徳〉に沿って〈虚実〉変換を行ない、労働者Bの「過去の労働」としての貨幣100万円を金融資本Aに引き渡すのです。

金融資本Aから借り受けた100万円のうち10万円は〈実金〉でしたから、労働者Bが〈虚実〉変換を行なったのはうち90万円です。労働者Bの行なった90万円分の〈虚実〉変換は、それはそのまま社会を豊かにしたといってよいでしょう。ですが、この〈虚実〉変換は、一面では金融資本Aとの契約・義務によって果されたものだといえます。言い換えれば、この90万円分の〈虚実〉変換は、労働者Bが実際に〈虚実〉変換を行なうより以前に先取りされていたのです。

金融資本は労働者に対し、どのような方法で〈虚実〉変換を行なうのか一切指図はしません。農業を行なって食料を生産するのか、工場を建設して耐久消費財を生産するのか、病院を建設して医療活動を行なうのか、そこは労働者の自発性に委ねられています。金融資本から資金をえた労働者は、自発的に自らの〈虚実〉変換を選択し社会を豊かにしてゆく。その意味では金融資本は〈道徳〉的です。労働者は〈虚金〉を労働者に供給することで、労働者の自由をより大きくするのですから。大きな自由を与えられた労働者は、より自由を大きくしようと〈道徳〉的に〈虚実〉変換を行ないます。

資本主義が大きく発展した秘訣はここにあります。それは金融資本が「虚無」から〈虚〉を創造し、労働者は金融資本が創造した〈虚〉を〈虚実〉変換して「〈実〉のストック」である社会を大きくするという二段構えの方法です。資本主義下での労働者は貨幣経済の枠組みの拡大を推し進めましたが、それは一方では量的な拡大、つまり人類の経済活動をすべて貨幣によって仲介されるへと変貌させていった。この分野はほぼ完了してグローバル経済と称するシステムに覆い尽くされようとしています。もう一方の質的拡大は、技術革新です。イノベーションによって労働者は、それまで貨幣で価値換算されなかったものを新たに貨幣の領域へと取り込んだ。資本主義労働者が成し遂げた〈虚実〉変換は、質量両面の拡大により、いまや膨大なものになっています。いまや身の回りの触れることが出来るモノが貨幣に変換されたと言ってしまっても良いくらいです。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を
人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

(1976/09)
ミヒャエル・エンデ
こうしてみると金融資本と労働者の共同作業はまったく良いことづくめのようですが、では現実もそうなのかというと、それはそうではありません。労働者は〈道徳〉的に〈虚実〉変換を行なって社会を豊かにしていったにもかかわらず、そして実際社会は豊かになっているにもかかわらず、労働者はどこか貧しくなったように感じてしまう。大きな自由を供給されたはずなのに、なにか大切な自由を奪われてしまったような感じがする。それは漠然とした「感じ」ではなくて、事実、労働者は金融資本から〈虚〉による自由を与えられる代わりに、ある大切な自由を奪われているのです。

では、その大切な自由とはなにか? それは〈虚実〉変換を行なわない自由です。

人は生きていくためには何らかの〈虚実〉を行なわなければなりません。もともと人には〈虚実〉変換を全く行なわない自由はありません。ですが、適度なところで〈虚実〉変換を止める自由はある。その自由は“足を知る”という言葉で表わされます。資本主義労働者は“足を知る”自由を奪われている。現代の王様である労働者は業突張りなのではないです。金融資本から与えられた大きな自由を受け取ってしまったために、大切な“足を知る”自由を奪われてしまった。金融資本と交わした契約を守るため(契約を守ることは道徳的です)、自ら適切なところで労働を止めてしまうことが出来ない。それが資本家も含めた資本主義労働者の姿です。

私が現代の資本主義システムが〈道徳〉的な〈帝国〉だというのは、以上のような意味においてです。すなわち、労働者は自発的に〈虚実〉変換を行なう自由は認められている。その意味では〈道徳〉的。ただし、自発的に〈虚実〉変換を止める自由は認められていない。その意味では奴隷であり、資本主義システムは〈帝国〉だといえるのです。しかも〈帝国〉が認める〈虚実〉変換にはひとつの制約があります。それは効率的に貨幣換算できる〈虚実〉変換に限られる、というものです。金融資本から〈虚金〉を受け取った労働者は〈実金〉で還さなければならない。貨幣でなければ契約違反です。だから必然的に、労働者が〈虚実〉変換において発揮する自発性は貨幣価値に換算できる方向へ限られてしまう。システムによって強制される。その意味でも資本主義労働者は奴隷であり、中央銀行システムの元での資本主義システムは〈帝国〉であるということができるのです。

この〈帝国〉を支えているのは〈虚金〉も〈実金〉も同じ貨幣であるという労働者の錯覚です。そう思い込んでしまうのは仕方のないことです。労働者にとって貨幣は「過去の労働」であることが当たり前で、その〈道徳〉を遵守する以上誤解するのは当然なのです。
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虚実

これは『404 Blog Not Found』経由で引っ張ってきた、青木秀和著『「お金」崩壊』のなかの図です(少しだけ手を加えています)。この図は虚実入り交じった資本主義システムの姿を端的に現わしています。
(すべての循環は「中央銀行」から出発していることに留意してください。)

「404 Blog Not Found」から文章もお借りしてきましょう。

これこそが、「複素経済学」の全体図である。上の円が虚部、下の円が実部。上では資金が、下では資源が循環している。上をeconomy、下を ecologyと言い換えてもいいだろう。


economy と ecology を仲介するのが労働者です。ということはつまり、〈虚〉と〈実〉の「複素経済学」は労働価値説によって一元的にみることができるということです。ただ私の虚実の見方は「404 Blog Not Found」のそれとは違います。「404 Blog Not Found」では ecology を実、economy を虚と見なしていますが、私の見方ではecology・economy ともに〈虚実〉変換です。ただし労働者の〈道徳〉からするとeconomy は〈実実〉交換なのです(だからこそ『虚金と実金』で指摘したとおり、「等価交換=市場原理」が成り立つのです)。

それでは本書のタイトルの命題、お金はなぜ崩壊しうるか。

今やお金の大部分が、上の円に属するからだ。上の円は「虚部」。人間の共同幻想が生み出しているからだ。もう少し正確に言うと、ブレトン・ウッズ体制が崩壊、貨幣が「無本位制」になったときに「虚」となったと言える。

P. 150

世界の金融資産は、一九九五年からの一〇年間、六〇九五兆円(五十三兆ドル)からなんと一京三八〇〇兆円(百二十兆ドル)にも達している。にも関わらず、この間に世界総生産は、三〇〇〇兆円(二六兆ドル)から四〇〇〇兆円(三五兆ドル)になったにすぎない。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/contribute/g/02/index4.html


GGP (Gross Global Product)が3割増しにしかなっていないのに、金融資産が倍以上になる。なぜそれが可能になったかといったら、金融経済が完全に「仮想化」されたからだ。「モノ」の裏付けがないからこそ、たった10年で倍以上(年率8.5%)という「成長」が可能になったのだ。

それだけなら、問題とは言えない。「その分インフレが進んだだけ」という言い方も出来なくはない。問題は「虚経済」の急成長に耐えられるほど「実経済」が大きくないこと、にも関わらず両方の経済がリンクしていることにある。虚が虚、実が実だけで回っているならいい。しかし圧倒的に多きな虚で実を手に入れようとした時、実はどうなってしまうのだろうか。
(下線強調は愚樵)

ブレトン・ウッズ体制が崩壊、貨幣が「無本位制」になったときに「虚」となった

この見立ては正確ではないと思います。貨幣はすでに17世紀イギリスで〈虚〉になり始めていったし、また現在でも完全に〈虚〉になったわけではありません。労働者にとって〈実〉は「過去の労働」だからです。金が「実」と見なされたのも単なる共同幻想ですから、ブレトン・ウッズ体制の崩壊で貨幣が「無本位制」になったのは共同幻想の「軸」が交換しただけのことに過ぎません。

問題は「虚経済」の急成長に耐えられるほど「実経済」が大きくないこと

問題は〈虚〉を労働者が〈虚実〉変換して〈実〉にしなければならないと契約されていることです。現在の金融資本主義は労働者の〈虚実〉変換能力に信用をおいて信用創造をおこなうだけでなく、金融資本の信用の上に信用創造をおこないます。つまり「信用創造の二乗」です。そうやって「虚無」から創造された〈虚金〉は、最終的には労働者によって〈実〉に変換されなければ収まりがつかない。そこが大問題なのです。

現在の金融危機とはなにか? 「金融資本の信用の上の信用創造」(金融派生商品、デリバティブ)の破綻です。その破綻による損害は「金融システムの安定」という大義名分の元に国家が介入して金融資本が労働者とは無関係に「虚無」から呼び出した損失を補填します。その政府の資金はとりあえずは〈虚金〉ですが、いずれ納税者(労働者)が〈実金〉に変換しなければなりません。政府はその線に沿って将来の増税を計画していることは、社会に少しでも関心のある人ならご存知のはずです。

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もう少し続けたいところですが、長くなったので一旦切り上げることにします。次回は、労働者の〈道徳〉の視点から、環境問題、経済格差・貧困の問題、抑止力の問題などに触れてみたいと思います。

労働者の〈道徳〉

今回のエントリーは前回から引き続きで、労働者の〈道徳〉とはなにか? ということでした。

労働者の〈道徳〉とは――前エントリーからの用語を使えば――〈虚〉を〈実〉に変換すること、と定義できます。

“〈虚〉から〈実〉への変換”とは、別の表現で言い表せば“無から有を作り出す”、あるいはもっと簡単に言うと“生産する”です。これらの言葉で言い表される行為は労働者の道徳である以前に義務であり、また労働者にしかできないことでもあります。それらをまとめてここでは〈道徳〉と表現しているわけです。

(労働者が“無から有を作り出す”と考えるのは労働価値説で、ここでは労働価値説に拠っています。“無から有を作り出す”のは労働者ではなく自然であるという考え方もあって、重農主義のケネーなどがそういった考え方に立っています。私が考えるところでは、これら2つの考え方は基本的に同じです。違いは「無」と「有」の線引きの違いだけです。)

〈虚〉と〈実〉についてもう少し具体的なイメージを説明しましょう。たとえば、ある建物を建築する計画があるとします。この建築計画そのものは、いうまでもなく〈虚〉です。知的労働者は建物の設計図を作成しますが、これも設計図の段階ではまだ〈実〉とはいえません。完全に〈実〉になるのは、計画・設計に従って建物が完成したときです。

建物を建てるという一連の行程の中では、建築計画をプロデュースする資本家も設計図を引く知的労働者も実際に建物を施工する肉体労働者も〈虚〉→〈実〉という方向に携わっているという意味では同じ労働者です。ただ役割が分担されているだけです。しかし、実際の社会においては資本家、知的労働者、肉体労働者の間には「階級」が存在するようにも思えます。この階級は必ずしも労働者の〈道徳〉を阻害するものではないのですが、階級がそれぞれの役割分担の範囲を超えて各々の労働者の〈意欲〉を阻害するようになったとき、階級は「階級」として機能するようになります。

労働者の〈虚実〉変換には3つの要素が必要です。それは自然(資源)、時間、そして労働者自身の〈意欲〉です(資本や生産手段、労働者の肉体は資源に含めて考えます)。これら3要素のうち労働者の内側にあるもの、つまり〈道徳〉となりうるものは〈意欲〉だけです。建物を建設するという〈虚実〉変換において、資本家、知的労働者、肉体労働者の3階級がその〈意欲〉を共有して互いの〈意欲〉を阻害しすることなく互いにに向上しあうような状態、この状態が労働者の〈道徳〉としては最高の「状態」です。が、ある「階級」が〈意欲〉を独占するような状態に陥ると、他の「階級」は「疎外」されることになります。「疎外」とは〈意欲〉をわがものとできず他から強制される状態であり、〈意欲〉を強制される労働者とは奴隷に他なりません。

(各階級が〈意欲〉を阻害し合わないように導くこと――これがドラッカーが言うところの「マネジメント」でしょう。)

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ここでもうひとつ寄り道をして、共産主義について考えてみます。

共産主義とはどういった状態なのか、端的に表わすのが“能力に応じて働き、必要に応じて受け取る”という言葉です。この状態は労働者の連帯によって生み出される――これが共産主義の「革命思想」でしょう。

私は共産主義が想定するこの「状態」を支持します。一方で、この「状態」に至る過程を想定する「革命思想」は支持しない。なぜか? それは、資本家もまた労働者であり革命によって排除する必要などないからです。

労働者の〈道徳〉から考えてみましょう。労働者は〈虚〉を〈実〉に変換します。労働者が〈道徳〉にそって労働することで築き上げられるもの――小は労働者自身の日々の暮らし、大は小を支える社会です。つまり労働者は自身の日々の暮らしを支えると同時に社会をも築き上げている。労働者は“(社会を築くために)能力に応じて働き、(社会から)必要に応じて受け取る”ために労働する。それがもっとも高い意味での労働者の〈意欲〉です。

社会とはつまり、「〈実〉のストック」です。ただここで留意しておかなければならないのは、この〈実〉は“移ろいゆくもの”であるということ。言い換えれば〈実〉は〈虚〉に還ろうとする性質をもっているということ。時間とともに摩耗・腐敗してゆき、貯金することなど不可能、ましてや金利を取ることなど言語同断です。労働者の労働あるいは〈道徳〉とは、減耗して〈虚〉に還っていく〈実〉を〈実〉のまま留め置きつつより大きくすること、ということができます。

資本家が支配する企業は、いうなれば小さな社会です。企業という「〈実〉のストック」が労働者の労働によって大きくなれば、資本家はより大きく搾取することが出来るようになります。これは確かにそうです。が、企業も社会の一部です。このことを知らない資本家はいませんから、資本家も間違いなく労働者です。また、資本家がそれ以外の「階級」の者たちから搾取した資産も、ただ溜め込んで置くだけでは意味がない。そのことは資本家ほどよく知っていますから、その資産は投資に回される。投資された資産をもとに労働者は〈虚実〉変換を行ない、さらに社会を大きくする。〈意欲〉の共有さえ行なわれていれば、このような資本循環の過程は疎外をもたらすものでもなんでもなく、労働者の〈道徳〉に沿ったものだといえます。
(ただしそれは、その資本が〈実〉であるときに限っての話です。その資本に〈虚〉が混じるとどうなるかは、次回の話とします。)

念のためにいっておきますが、私は資本家がその他の階級の労働者を疎外してきた事実がない、と言っているわけではありません。その事実は確かにあったし、現に今でもあります。しかし、その事実は資本家が必ずその他の労働者を疎外するという法則を導くわけではない。モラルの高く企業の社会的責任をよく弁えている資本家ならば、疎外を行なわないこともありえるし、そのような資本家も世の中には少なからず存在することもまた事実です。

共産主義への革命思想は資本家を労働者の枠から閉め出し、資本の増殖運動は労働者を疎外するとして資本家と労働者が階級闘争すべきだと説きました。また、そうした思想に基づく国家も実際に建設されました。共産主義の前段階としての社会主義国家です。階級闘争の結果出来上がった社会主義国家で起きた現象は、これまたある階級による他の階級の疎外でした。疎外を行なった階級は知的労働者、端的にいえば共産党という官僚組織です。

社会主義は計画経済です。知的労働者が設計図を描き、その設計図に従って肉体労働者が社会を建設していく。史上初の社会主義国家ソ連では、ソ連という国家建設の意義が誰の目にもはっきりと映っていたとき、この計画は素晴らしい勢いで実現されていきました。〈意欲〉が共有されていたからです。が、すぐに〈意欲〉は共有されなくなり計画は肉体労働者たちを「疎外」していくものに堕ちていきました。

一部の階級の者が他の階級の者たちを奴隷として扱い搾取していく体制を〈帝国〉と呼びます。奴隷とは疎外され〈意欲〉を強制される労働者ですから、ソ連はまぎれもなく〈帝国〉でした。実際、ソ連にはノーメンクラトゥーラという貴族も存在していたといわれます。そうした貴族階級が存在するようになってしまったことは社会主義国家ソ連の失敗の象徴のようにいわれますが、それは違います。ソ連には初めから階級が存在していた。誤魔化して存在していないことにしただけのことです。ある階級が〈帝国〉を支配するようになれば、そこが貴族化するのは歴史の必然です。

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労働者の〈道徳〉と「階級」の間には、以上見てきたように、直接の関係はありません。「階級闘争」は、労働者の〈意欲〉を共有するためではなく、どの階級が他の階級を疎外するか、要するに支配権争いでしかありません。社会が大きく複雑になれば階級が発生するのは当然のことで、階級間で争うことは〈道徳〉に反することです。〈道徳〉に沿うのは、どのような階級に属するものであれ〈虚実〉変換の一翼を担う労働者として社会を大きくしていこうとする〈意欲〉を共有することです。

日本は一時、社会主義の理想にもっとも近い国だといわれた時期がありました。その時期に日本を特徴付けるのが「労使協調」です。この言葉表わすのは、「労(働者)」と「使(用者)」という階級があることを認めた上で、互いに〈意欲〉を共有(協調)しよう、ということです。また日本型社会主義には「官(僚)」という上位階級が存在しており、現在ではこの階級の貴族化が批判の的になっていますが、国民全体の社会建設の方向性がほぼ共有されていた時期では、「官」は社会の設計者としての役割を十分に果たしていました。この頃の日本は〈帝国〉ではなく、〈人民共和国〉であったということができます。

(〈日本人民共和国〉が可能だったのは、東西冷戦の構造化でアメリカ〈帝国〉の抑止力に“ただ乗り”することができたからでしょう。)

ここで少し「護憲」について触れておきましょう。9条を世界に輸出していくには、その相手国に「輸出品」を受け入れる下地を作ることが重要です。その「下地」が〈人民共和国〉ですが、今まで見てきた通り、〈人民共和国〉は「階級闘争」で建設できるものではありません。「階級闘争」は〈帝国〉を作るだけあり、〈帝国〉は9条を受け入れません。9条を受け入れる〈人民共和国〉とは、労働者の〈道徳〉に沿って建設された社会のことを指します。
(〈帝国〉が必ずしも国家ではないのと同様に、〈人民共和国〉も国家であるとは限りません)。

現在、世界を覆い尽くしつつあるグローバル化した資本主義経済システムは〈帝国〉になってしまっています。資本主義それ自体は〈人民共和国〉にもなり得る制度ですが、現行の〈中央銀行システム〉が創造する〈虚金〉が駆動する資本主義経済システムは、どうしても〈帝国〉になってしまいます。それも、労働者の〈道徳〉を限界まで利用する〈システム〉です(それができるのは、前エントリーでも言ったとおり、〈システム〉が〈道徳〉的だからです)。

次回は、〈システム〉が〈道徳〉的であるにもかかわらず〈帝国〉となる理由について見てみます。その理由は、前回の最後で指摘した“2番目”の理由でもあります。

負債としての貨幣

もう一度、用語の定義をあげておきます。

〈実金〉――これは私たち労働者が普通に“お金”と認識している貨幣のことです。労働者は労働力を商品として売り、その対価として賃金を受け取ります。この賃金が〈実金〉。つまり〈実金〉とは労働の成果、マルクスの言い方でいえば「過去の労働」です。

〈虚金〉――偽金の意味ではありません。ホンモノだが〈実金〉ではない貨幣。これを〈虚金〉と呼ぶことにします。

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前エントリーであげたこの定義では、〈実金〉は「過去の労働」だが、〈虚金〉については単に“〈実金〉ではない”としただけでした。“ホンモノ”という意味は“〈権威〉がある”ということであり、素朴な労働者の貨幣観では〈実金〉=ホンモノになりますが、実はホンモノの中には〈虚金〉もある。「負債としての貨幣」とは〈虚金〉を端的に表わすものです。

そうはいっても少しわかりにくいかもしれません。「負債」と言われても、私たちはどうしても〈実金〉を借り受けたものを想像してしまうからです。が、これは銀行の本当の機能を知れば理解できるでしょう。

私たちは銀行に貨幣を預けます。この貨幣はもちろん〈実金〉です。銀行は預金者から預かった貨幣を企業や個人に融資します。私たちの“普通の”理解では、銀行に預け入れた貨幣は〈実金〉だから、銀行から貸し出された貨幣も〈実金〉にはずだ、というもの。が、それは違うのです。銀行から貸し出される貨幣には〈実金〉も混じっているがその大部分は〈虚金〉なのです。

もう少し具体的に説明しましょう。たとえば、銀行Aに100万円の預金が預けられているとします。この100万円は〈実金〉です。企業Bが銀行Aに100万円の融資を求め、Aが応じたとします。“普通の”理解では、預金者から100万円預かって100万円貸し付けたのなら、Aの金庫は空のはずです。ところが実態はそうではない。AからBに貸し出される貨幣のうち〈実金〉は10万円だけ。90万円は〈虚金〉です。ですからAの金庫にはまだ90万円の〈実金〉が残っています。では、90万円はどうしたのか? 銀行Aが作ったのです。銀行にはそれが認められているのです。この〈虚金〉を作ることを「信用創造」といいます。

(実際の信用創造の仕組みはもっと複雑で、発券銀行である中央銀行と複数の市中銀行のネットワークの中で貨幣が創造されます。)

(信用創造の仕組みは17世紀のイギリスで始まった「金匠手形(goldsmith's note)」が始まりだといわれています。金匠手形と信用創造については、動画『Money As Debt』が解りやすいので、ぜひご覧ください。 テキスト版もあります)

なぜこの〈虚金〉造りを「信用創造」というのか? その理由はこうです。銀行Aが企業Bに融資を行なうには、銀行Aの企業Bへの「信用」が必要です。その「信用」があると判断した銀行Aは企業Bと契約を交わし、貨幣を創造した上で融資した。だから「信用創造」なのです。
企業Bへの「信用」によって創造された貨幣は、言い換えれば企業Bの銀行Aへの負債として生み出された貨幣でもあります。ですから、上で述べたように〈虚金〉とは「負債としての貨幣」なのです。

このようにして創造された〈虚金〉は、中央銀行発行の紙幣として企業Bに融資されます。ですから〈権威〉あるホンモノの貨幣です。企業Bはそのホンモノの〈虚金〉を他の企業Bで働く労働者や他の企業への支払いに充てることができる。他の企業や労働者もホンモノですから信用して受け取ります。こうして〈虚金〉は経済のなかに流通していくことになります。

さて、ここで思い出してもらいたいのが前エントリーで取り上げた「国債の日銀引き受け」です。私は国家が発行する国債を日銀が引き受けて新たに貨幣を発行される貨幣は〈虚金〉だといいました(国債は国家の負債ですから、ここでもやはり「負債による貨幣」です)。そして〈虚金〉の発行は〈道徳〉に反するので貨幣の〈権威〉を傷つけることになり、ひいては〈システム〉を崩壊させることにもなりかねない。ところが銀行による〈虚金〉の発行では、貨幣の〈権威〉にはまったく傷がつかないように見えます。資本主義は信用創造を行なう〈中央銀行システム〉のもとで大いに発展を遂げてきた事実があるからです。これはどういうことなのでしょうか?

〈中央銀行システム〉による〈虚金〉発行がこれまでのところ上手くいっていた理由は2つあります。ひとつは〈虚金〉の発行と貨幣の〈権威〉が切り離されていることです。ホンモノの貨幣の発行は中央銀行、〈虚金〉の発行は民間の市中銀行と役割分担がなされています。そして〈中央銀行システム〉下では、貨幣システムの〈権威〉の動揺は民間の金融機関の危機として捉えられる。貨幣を権威づけている中央銀行・国家は、民間のシステムの救済という形で活躍する体裁になる。ですから〈権威〉の行動は〈道徳〉に反するような形には映りにくい。

そして2つ目の理由ですが、こちらの方がその理由としてはより大きなものがあります。それは簡単に言ってしまえば、労働者が自主的・積極的に〈システム〉を支えてきたということ。〈権威〉と〈虚金〉発行とが分離されて〈道徳〉が批判すべき焦点がわかりにくく欺されていた、というだけではなくて、〈システム〉の在り方が〈道徳〉的だったということです。

次は、この2番目の理由を詳しく述べるために少し寄り道をして、労働者の〈道徳〉について考えてみることにします。

実金と虚金

まず言葉の定義から。

〈実金〉――これは私たち労働者が普通に“お金”と認識している貨幣のことです。労働者は労働力を商品として売り、その対価として賃金を受け取ります。この賃金が〈実金〉。つまり〈実金〉とは労働の成果、マルクスの言い方でいえば「過去の労働」です。

〈虚金〉――偽金の意味ではありません。ホンモノだが〈実金〉ではない貨幣。これを〈虚金〉と呼ぶことにします。

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私たちの社会常識のなかには“借りたお金には利息を付けて返さなければならない”というものがあります。

“貨幣に利息”という考え方は、おそらく貨幣というものが誕生し流通するようになるとともに生まれたものでしょう。が、それが常識となったのは、貨幣史の中でも最近のこと。つまり近代になってからのことで、それ以前の社会では“貨幣に利息”という考え方は、良くない考え方というのが常識でした。

しかし、そうは言われても、やはり私たちには“貨幣に利息”という考え方は根強いものがあります。これは考え方というよりもむしろ感覚といった方がいいかもしれません。借りたお金を返すのはもちろんのこと、利息を付けて返すことも、現代人である私たちの道徳観に合うものだからです。

では、この「感覚」はどこから来ているのか? そう考えたときに出てきたのが〈実金〉という概念です。私たち労働者は、世の中に出回っている貨幣はすべて〈実金〉だと錯覚している。この「錯覚」から“借りたお金には利息を付けて返さなければならない”という道徳観が生まれてきているのではないかと思うのです。

このことを考えてみるのに貨幣以外のモノを借りることを想定してみましょう。たとえば車を借りた場合です。

借りた車は返さなけれなりません。それもただ返すばかりでなく、なるべく現状を維持したまま返すのが常識というものでしょう。家族や親しい友人などから車を借りた場合は現状維持で返せば事足りる場合も多いでしょうが、それでもなにか謝礼を添えることもある。借りた人との間柄がさほど親しくない場合、謝礼は常識になります。ということはつまり謝礼を添えるということは、私たちの道徳観に沿った行為であるということです。

これが業者から借りた場合になると、謝礼は単に道徳というだけではなく契約・義務になります。レンタカーを借りる際には車両保険が付けられますが、だからといって壊して返してよいというものではない。それは道徳的ではない。また、謝礼(レンタル料)を支払うことも、それが契約であるとはいえ道徳観から逸脱するものではありません。

現状維持で返却し、謝礼を添える。この〈道徳〉のもとにあるのは、借りたモノが〈実〉であるという感覚です。この〈実〉は何もないところから生まれてきたものではない。家族・友人であろうが業者であろうが、車を所有しているのは過去の労働」という〈実〉があるからで、私たちはそのことをよく理解している。というのも、私たち自身が日々〈実〉を生み出している労働者だからです。そして、その〈実〉を貨幣という形で受け取り、他の〈実〉と交換している。消費社会に生きる賃金労働者にとって貨幣は、〈実金〉以外のなにものでもありません。

ですから、貨幣を借りるときも車を借りる場合と同じ感覚になるのも当然のことです。貨幣は車と違って摩耗の心配はありませんが、〈実〉ですから謝礼に相当する利息はつけるのが道徳的。もし業者(銀行や貸金業者)から借りるのであれば、利息を付ける契約を交わすのも常識、ということになるわけです。

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労働者の素朴な〈実金〉感覚が支えているのは利息の正当性だけではありません。市場原理(マーケットメカニズム)も〈実金〉感覚からくる〈道徳〉によって支えられています

マーケットメカニズムとは需要と供給が貨幣の価格測定機能によって均衡するという考え方であり、大変に説得力のあるものです。が、この説得力は、すべては〈実〉であるというところが前提になっています。

貨幣経済において、財はマーケットメカニズムによって価格決定されるといわれています。需要をするのは消費者であり供給を行なうのは生産者(主に企業)ですが、需要と供給も当然のことながら〈実〉でなければなりません。〈実〉に対して〈虚〉を引き渡すのは、通常は「詐欺」とよばれる行為です。

実は、需要の〈実〉と供給の〈実〉の価格を均衡させる貨幣が〈実〉である必要はありません。というよりむしろ、〈虚〉であるから均衡させることができる。マーケットメカニズムは確かに有効な仕組みですが、実際にそのような ものが実在しているわけでありません。端的にいってしまえば虚構ですが、虚構だからこそ本来ならば測定不可能な 〈実〉の価値を価格という〈虚〉の形で切り取ることができ、切り取ることができるから均衡させることができる。

価格の均衡という機能に関しては、貨幣は〈虚〉であってよい。が、これはあくまで「価格の均衡」という〈虚〉に関する部分についての話です。〈虚〉によって中継ぎされるとはいっても実際の取引はあくまで〈実〉ですから、その時の貨幣は〈実〉でなければならない。つまり〈実金〉でなければならないはずです。

このことは「偽金」を考えてみればよくわかります。例えば、ある「モノ」の価格がマーケットメカニズムによって1万円であると決定されたとします。「モノ」は労働の成果つまり「過去の労働」であり〈実〉です。ですから、ここで交換される貨幣もまた「過去の労働」であり〈実〉でなければなりません

ここでは「モノ」と1万円の「過去の労働」同士が均衡しているかどうかは別問題です(その話は別の理論体系の話になります)。問題は、その双方が〈実〉であるかどうか、です。マーケットメカニズムは虚構ですが、その虚構は虚構を信用する者同士が虚構の指し示す基準に従って〈実〉の取引を行なうことではじめて機能します。ですから、もし、「モノ」との交換で差し出された1万円が偽札であったとしたら、「モノ」の供給者は当然のことながら受け取りを拒否するでしょう。仮にその偽札が極めて精巧に出来ていて、受け取った供給者が別のところで別の者を欺すことができるであろうとしても、偽札と知って取引する者はまずいない。それは道徳観に反するからです。偽金で支払うことも受け取ることも、虚構の信用を剽窃することに他なりません。

「偽金」が〈虚〉であるのは明らかです。が、私が冒頭で掲げた定義では、「偽金」は〈実金〉でも〈虚金〉でもありません。貨幣がホンモノかニセモノかは通貨発行権を持つ者が発行した貨幣かどうかということですが、そのことと貨幣が〈実金〉か〈虚金〉どうかは直接関係がない、ということです。というのも、貨幣がホンモノかどうかは通貨発行者の〈権威〉の問題ですが、〈実金〉か〈虚金〉は労働者・消費者の〈道徳〉の問題だからです。

〈権威〉と〈道徳〉の関係は、貨幣に限らず微妙なものです。〈権威〉と〈道徳〉は互いに支え合う共依存の関係にあるといっていいでしょう。もちろん、貨幣の問題においてもそうです。

現在、貨幣経済システムが不安定な状況にあるということが盛んに喧伝されています。そのなかでしばしば「国債の日銀引き受け」が議論の俎上に登ることがあります。「国債の日銀引き受け」は法によって禁止されている行為ですが、なぜそれが禁止されるのか? 〈権威〉と〈道徳〉、〈虚〉と〈実〉という視点から見てみるとわかりやすい。

政府が発行する国債を発券銀行である日銀が引き受ける。これは要するに“紙幣を刷ってバラ撒く”ということです。「過去の労働」とは関係なくバラ撒かれた紙幣は、ホンモノの貨幣ではあるが〈虚金〉です。「国債の日銀引き受け」が行なわれるとインフレになる、つまり資産価値が下がるといわれます。ほとんどの人にとって資産は〈実〉であるはずですから、「国債の日銀引き受け」によって〈虚金〉がバラ撒かれると、〈虚〉によって〈実〉が薄められることになります。このことは〈道徳〉に反することであり、その反道徳的行為が権威者によって行なわれるとその権威性は失墜することになる。通貨発行者の〈権威〉が失墜すると、貨幣そのものが〈虚〉と見なされるようになってしまいますから、そのインフレは通常のものとは異なり制御不能の悪性インフレに陥る。このことは、日銀のホームページにも書かれてありますが、歴史上の教訓でもあります。

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以上の話から見えてくるのは、〈権威〉と〈道徳〉は〈実〉によってバランスが保たれる、ということです。
〈権威〉も〈道徳〉も、言ってしまえばどちらも〈虚〉です。〈道徳〉は〈実〉を求める〈虚〉であり、〈権威〉は〈実〉を秩序づける〈虚〉。もし〈権威〉の秩序づけに〈虚〉が入り混じってしまうと〈道徳〉と衝突し〈権威〉の威厳が保たれなくなってしまう。このことは貨幣システムにも当てはまるということは、上の「国債の日銀引き受け」の例で見たとおりです。

“〈権威〉の秩序づけに〈虚〉が入り混じる”ということは、別の表現で言い換えると“〈権威〉が腐敗する”ということです。ということは、〈権威〉の秩序づけには必ず〈虚〉が混じってしまうということです。もちろん貨幣経済システムも例外ではありません。いえ、例外どころか、現在の資本主義貨幣経済システムはその成り立ちから〈虚〉が混ぜ込まれていた。つまり〈虚金〉が〈システム〉のなかに巧妙に組み込まれているのです。現在の金融危機はその〈虚〉が膨らむだけ膨らんだ挙げ句に起こっている現象です。

金融危機は単に経済システムの危機というだけではなく、モラルハザードつまり〈道徳〉の危機という面をも色濃く持っています。これは大変に危機的な状態で、〈システム〉の破綻は〈道徳〉の破綻に直結しかない危険を孕んでいるということです。〈システム〉を維持する〈権威〉と〈道徳〉の崩壊が同時に起これば、そこに出現するのはどうしようもない無秩序だからです。

では、なぜそのような事態に陥ったのか? そして有効な解決策がないように見えるのか? この疑問は、なぜ〈虚〉が未だに明らかにならないのか、という疑問でもあります。

は、その疑問に答えるために、資本主義経済システムに当初から混ぜ込まれた〈虚〉について見てみることにします。

「日本」人は抑止力を必要としている

いま大騒ぎの抑止力について、ちょっとだけ。


普天間に駐留する米海兵隊に抑止力はあるや否や? 

鳩山総理は、よ~くお勉強した結果「あることがわかった」と宣ったらしい。
(“よ~くお勉強”を額面通り受け取ってよいかどうは、ちと疑問。)

が、私がネットで見聞きする範囲では、「そんなの、ない」というのが多いようです(特に左派の意見)。

確かに、わが日本国が他国から攻撃されるのを未然に防ぐ力という意味での抑止力からすれば、普天間の海兵隊には「そんなの、ない」が正解らしく思えます。当のアメリカ自身も、そのことはよくわかっているんだ、という話もある。だから普天間は移転ではなく無条件に撤廃だ――うん、それはその通りだと思います。

けれど、私はその議論にはどこか矛盾があるような気がします。

普天間の海兵隊には「抑止力」は存在します。ただしそれは、アメリカ「帝国」を守るためのもの。 いえ、直接的には、アメリカ「合衆国」の国民や財産を守るためですが、それがひいてはアメリカ「帝国」――アメリカを中心とする世界秩序――を守ることになる。そして、日本は多くの人が指摘するとおり、アメリカ「帝国」の属領です。ということはつまり、普天間の米海兵隊は、間接的には「日本」を守るために機能しているということになる。

いま、「日本」にわざわざ「」をつけましたが、その心は、「日本」≒日本だが、まったく「日本」=日本ではない、ということ。つまり「日本」はアメリカ「帝国」の属領としての日本の意味であって、それは私たち日本国民が帰属する国家としての日本とほぼ同義だけれども、多少違う部分もある。最近ではこの“多少”が多少でなくなって明瞭に「格差」として露呈するようになっているわけですが。

(鳩山総理が“よ~くお勉強”なさったのは、この「日本」と日本の違いなのかもしれません。)

米海兵隊は日本にとっては必要はない。が、「日本」にとっては必要。で、日本≒「日本」である。であるならば、私たち日本国民はどちらに帰属しているのか? 問題はここです。

おおざっぱな答え。
経済的には「日本」に帰属し、法的・精神的には日本に帰属している。つまり、私たちが日々営む生活のほぼ大半は「日本」に属している、ということ。ということは、海兵隊は、私たち日本人にとっても抑止力として機能してはいる。ただ、ここのところは、日本人でありながら「日本」という枠外から閉め出されてしまった人がたくさん存在するようになったし、「日本」に留まることが出来てはいても、そのことが年々難しくなってきている――経済「格差」ですね。

「」でくくった「日本」および「帝国」とは、一時代前の(いわゆる帝国主義時代の)帝国とは異なります。かつての帝国は顕在的な帝国でしたが、現在は潜在的。顕在的というのは、領土という形で誰の目にも比較的解りやすい形で存在していたということ。で、潜在的とは経済を主軸としているということ、になります。

現代の経済「帝国」においては――その本拠地たるアメリカにおいては、ずっと以前から「帝国」>合衆国でした。だからアメリカは歴史ある「格差」大国なんです。属領日本はといいますと、古き良き(?)自民党政権時代はかろうじて日本>「日本」でした。それを逆転させたのが小泉―竹中の時代です(中曽根以降という説もあり)。「日本」>日本となった結果、日本は新たな「格差」大国となった。


さて、ここで抑止力に話を戻しましょう。

日本という観点からみた場合、海兵隊の抑止力はアメリカ合衆国のためのものでしかないから、必要はない。それはいいでしょう。で、この答えは必然的に次の疑問を提起することになります。では、自前の抑止力は必要か否か?

ここで答えは別れることになります。すなわち、(おおざっぱに)右派は必要だと答え、左派は必要ないと答える。そしてこのそれぞれの答えが、右―改憲、左―護憲という立場の違いとなっている。

私は改憲・護憲でいうと(未だに?)護憲の立場を崩していません。が、ここでの左派の意見とおかしいと私は思う。つまり、海兵隊は日本という観点から見れば抑止力ではないとしながら、独自の抑止力は必要としない理由では「日本」――「帝国」の世界秩序――の観点に立って、都合良く観点を切り替えてしまう。これは欺瞞ではないのでしょうか。
(私自身もかつてはこの欺瞞に気付かないでいましたが・・・)

日本に独自の抑止力は必要ない、中国や北朝鮮は日本に攻め入るメリットがない、と考えることができるのは、そこに秩序があるからです。そして、この秩序が機能しているのは、アメリカ合衆国という「官憲」がいるから。確かにこの官憲は横暴であり、問題が多いのは事実です。が、それでも、その官憲がいなければ世界の秩序がどうなってしまうかわからないのは、現実だといってよいでしょう。つまり、アメリカがいなくなれば、海兵隊に抑止力が存在しなくなれば、中国や北朝鮮が日本に攻め入る理由はない、とは言えなくなってしまう。

このことは日本に(沖縄に)海兵隊がいるいないには直接関係はありません。海兵隊がグアムにいようが本土にいようが機能して秩序が守られておりさえすれば、つまり「帝国」の秩序が守られておりさえすれば、“日本に合衆国の抑止力はいらない”とは言えます。が、残念なことに合衆国の抑止力≒「帝国」の抑止力なのであり、その抑止力が機能しているからこそ「帝国」は利益を上げ、その“おこぼれ”で「日本」もまた潤っている。その構図があって、日本国民もまた「日本」人として日々の経済活動を営んでゆくことができているわけです。

ということは、です。私たち「日本」人は、そう単純に海兵隊の抑止力を否定できない、ということです。もちろん、軍事基地が近くにあるのは迷惑この上ないことは間違いない。が、それは巡りめぐって私たち「日本」人の利益になっている。そういう構造のなかで私たちは日々暮らしている。〈システム〉の全域化とはそういうことです。

日本的個人

2日の朝いつもの習慣でTVを付けると、こんな番組が流れていました。
にっぽん紀行 ひとり 桜の里で 山口・向畑集落

山口県岩国市の向畑地区。かつて300人が暮らした山あいの集落には今、藤村キヌヨさん(89歳)が残るだけになった。藤村さんが毎年心待ちにしているのが、樹齢800年の山桜の開花だ。集落の面影が消えていく中、昔と変わらず満開の花を見せてくれる。桜を見るためにかつての住民たちもやって来る。たった一人の集落の、冬から春までの暮らしを追い、その心模様を見つめた。案内人は俳優の三國連太郎さん。
たったひとりとはいっても、生活の世話は街に暮らす息子さんが見てくれています。毎日30分かけて、やってくる。息子さんの家にはキヌヨさんの部屋も用意はしてある。けれども、キヌヨさんは山を下りようとしないし、息子さんも降りろとは(はっきりとは)言わない。他に誰もいなくなった集落で、ひとり生きている...。

この番組を彩っているのは、ある種の郷愁です。キヌヨさんと息子さんの心模様。番組自体の焦点は無縁社会一歩手前のところで踏みとどまる“親子の絆”に焦点があてられていましたが、しかし、キヌヨさんの「心模様」は、あきらかに「無縁」を志向しています。キヌヨさん親子の縁は、キヌヨさんの“無縁志向”をも認めた上でのもの。そして私には、“無縁志向”まで含めて郷愁が感じられるような気がします。

無縁を志向するキヌヨさん個人の〈主体〉とは、いったいどのようなものなのか?
日本的個人

 日本の伝統的な生命観をよくあらわしている言葉に「山川草木、悉皆成仏」というのがある。山も川も草も木もみな成仏できる、という意味である。
・・・・・
 人間も生物も土や石もすべて仏性をもち成仏できる。この日本特有の生命観は、存在するすべてのものは仏性をもっているという認識からはじまる。人間もまた身体の奥に仏性を秘めている。この仏性こそがもっとも大事なものであり、いつかは悟りを開いていく種のようなものである。
 私は日本における伝統的な個の形成、個人の確立は、この感覚と結びついて成立したのだと思っている。自分の仏性をみつめるように、自分のなかにある自分自身をみつめる。そうして自分自身を磨こうとする。それが伝統的な日本における個の形成だったのではなかったか。
・・・・・
かつていわれたような、日本人は個の形成が弱いという見解は正しくなく、欧米と日本では個の形成のされ方が違うということである。さらに述べれば、すべての存在するものの奥に仏性があると考え、それをみつめ、自分の仏性を開いていくことに究極の自己形成をみいだしていた精神が、その前提としてあったのではないかと。
 日本の伝統的な自己形成は、他の人々に対して主張しない自己形成であり、思いつめたような自己形成なのである。それは極めて個人主義的な自己形成であり、孤独さを媒介にして生まれる個の確立だといってもよい。そして、そういう心情を今日の私たちも無意識のうちに受け継いでいるから、ときに私たちも「自分だけの世界」を守ろうとしたりする。
(下線は愚樵による)
清浄なる精神清浄なる精神
内山 節

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「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」。これはあきらかに西洋流とは異なります。
西洋流の「個の確立」は、他の人々との関係のなかでおこなわれる。すなわち、他の人々に対して〈私〉を主張するかたちで個という〈自我〉の形成を試みる。ですから、西洋流の〈自我〉(=個の確立)は、その成り立ちからして社会的文明的です。それに対して、日本的個人のそれは社会を前提としてない。極端に言ってしまえば“動物的”な「個の確立」です。

(内山節はここで伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』という文章を紹介しています。この文章は、上記のような日本的個人の在り方を文学研究を通して考察したものです。明治になって欧米の文学が入り、それを参考にしながら近代文学が発生したとき、なぜ「私小説」という日本特有の形式が生まれたのかという問いから発して、「日本的個人」の精神性に迫っています。
なお、この文章は書籍としても出版されていますが、ネット上からPDF文書で読むことが出来ます。)

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では、“動物的”言い換えれば(文明以前の)“自然な”「個の確立」は、どういった条件でもたらされるのか?

それは、ひとつは自然豊かな日本列島という風土の影響も大きいのでしょうけれども、もうひとつ思い当たるのは、子育てのありかた。これはつい最近、アキラさんがテーマとして取り上げられ、私もお邪魔していろいろと対話をさせていただきました。

光るナス『「信頼」と「自立」を促すもの(前編)』
     『      〃       (中編)』
     『      〃       (後編)』

そちらから、文章を孫引きさせてもらいますと、
人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。・・・・・人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることがだいじなのです。
そして、できるだけ条件のない状態で、自分を認めてくれる人をもつということは、その人をそれだけ大きく信頼することであり、ついでその人を基準にして、そのほかのいろんな人を信頼していけることになるわけです。

・・・・・・・・・・・・・
過保護とはどういうことかといいますと、理屈っぽくいえば、子どもが望んだことを望んだとおりやってあげて、やりすぎるということです。・・・・・
けれども、子どもが望んでいることを、やりすぎるほどやってやれるということは、それはたいへんなことで、めったにできることではないと思います。
ですから本当は、過保護というほど、子どもの要求にこたえることができる育児というのは、現実にはないかもしれない。
たいていは、子どもの希望や要求を拒否したり、無視していることが多いと思います。

・・・・・・・・・・・・・
子どもというのは、自分の望みがまずかなえられなければ、本質的には周囲のいうことは聞けないのです。自分の望んだことを望んだとおりに、十分してもらえている子どもが、相手のいうことを心から聞きはじめるのです。

佐々木正美 著『子どもへのまなざし』より
赤ちゃんにとっては「私がここにいます」と大人の注意を喚起することが、唯一の生活手段。注意を惹き損なったら死んでしまう。だから依存の時期にあっては、赤ちゃんは大人の注意を要求する動作を絶え間なく続ける。
赤ちゃんが大きくなって歩けるようになっても、この依存の時期を脱却しない限りは、大人の目に触れるように大人の注意を集めるように行動する。

依存の時期においては子供の頭はまだ発達していないから、叱られるのも褒められるのも区別がつかない。感じるのは大人の注意だけ。ただ周りの人の注意の集注密度だけを感じ、それを要求している。
生理的に親の注意を体で感じる。注意が少なければすぐに空虚を感じる。だから注意が注がれているとおとなしいが、注意が逸れると悪戯をする。

親の嫌がるようなことをすると親は叱って止める。褒める時は上の空だが、叱る時は本気になる、そこで子供は叱られることばかりやるようになる。
ほかのことで親の注意が集められなくなると寝小便などをする。そうなれば冷静な親でも真剣になって叱る。
注意が集まっているという安心感がそこに生まれる。
だから叱られようと褒められようと、注意を集められるということを無意識に快感に感じその方向に伸びようとすることは、植物が太陽の方向に伸びようとするのと少しも変わりはない。やはり自然の情。
親は叱言を言ったつもりでいても、親の考え通りにはならない。注意を集めて叱られると目的達成だ。シャワーを浴ぴるようにお母さんの叱言を聞き、そうしてまた次の注意を集めることを考える。
着物を汚したら良いとか、障子を破ったら良いとか、次から次と手段を考え出して行く。

この時期の子供達にはまだ善悪の意味は判らない。判るのは親の注意の集注密度だけ。それだけを求めて生きている。それが空気を吸って生きていると同じような生存のエネルギーとなっている。
だから、親が他の事が忙しく注意が逸れた時に子供が病気になる。親の注意が逸れることによって子供の中に親の注意を喚起する要求が亢まって、病気という現象を起こすことになる。
怪我、転ぶ、着物を汚す、みな同じ。

野口先生・育児についての資料からのノート
未だ善悪の意味を解せず、親の注意の集中密度だけに“動物的”に関心を注ぐ赤子の時期の欲求をできるだけみたしてやる。どれほど満たしてやってもそれは過保護とはならない。そうした子どもへの接し方が子どもの「信頼」を育む。ヒトが未だ“動物的”である時期に培われる「信頼」は、人間社会への「信頼」を飛び越えて、もっと根源的な人間がヒトとして“動物的”に生きる「生命力」への「信頼」となる。「生命力」への「信頼」が子どもの「生命力」を喚起し、それが「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」へと繋がる――これは、私の空論ですが(笑)

 西欧的に考えると、いわば認識主体である自我(セルフ)が確立されることを成長といいますよね。確固としたセルフが想定されていて、そこに向かって子どもの頃から伝統的な個人主義的教育法を施すわけです。
 私の知人がドイツに嫁いで実際に経験したんですが、これは凄いですよ。お昼寝から目覚めた子どもが傍らに誰もいなかったら泣くじゃないですか。これはどこの国でもたぶんそうでしょう。それで隣の部屋にいた彼女は急いで子どものところへ行こうとした。ところが肩を押さえて止めた人がいたんですね。
 旦那さんの母親、つまりお姑さんです。「こらえなさい。ここであなたがこらえなかったら、あの子は駄目になる」って、お姑さんは言ったそうですよ。日本なんかとは根本的に違う教育なんですね。我が儘も徹底的に叱られますよ。そうして押しも押されもしない、社会的に自立した西欧人が出来上がるわけです。
 日本人の場合は、そういう観点で見れば自己確立が遅いのかもしれません。しかし、これは仏教的な見方かもしれませんが、確立したとおもった自己も無常なんですね。・・・・・
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引用ばかりで申し訳ありませんが、最後にもうひとつ。
中沢:レヴィ=ストロースは「野生の思考」というものを研究してきた文化人類学者です。未開社会の神話に完全に同化しきって研究をすすめてきた人で、ことあるごとに「自分は新石器時代人だ」とか「新石器時代人の思考を生きているだけだ」と言っています。
 その人が「自分が最も共感を持てる宗教は仏教だけだ」というようなことを書いています。僕はここに「野生の思考」と言われているものと仏教徒の、内面的な共通性を直感するんですね。
河合:ええ、そうですね。
・・・・・・
中沢:ここでレヴィ=ストロースが言わんとしているのは、こういうことだと思うんです。未開社会の「野生の思考」のなかでいちばん大事なのは、人間と動物とがおたがい兄弟のように、あるいは親子のようにつきあって、結婚したり、語り合ったり、渡り合ったり、命のやりとりをすることなのですね。神話は「動物たちはかつてみんな言葉をしゃべっていた」とも言っています。かつて人間と動物はまったく対等な存在同士としてたがいに話し合っていたし、高い文化を持っていたのはむしろ動物のほうなのです。人間は動物と結婚したおかげで、お返しに文化を手に入れることもできた、と考えられていた。
 これは動物と人間の間に徹底的な対称性を考えようとしている思想です。たしかに現実の世界にあるのは厳然たる非対称の現実です。人間のほうがなんと言ったって技術を持っているから、動物に対して優位に立っています。現実は確かに動物を圧倒しているわけですが、それでも思考のなかではそれは正しくない状態で、宇宙の中にこんなふうに発生してしまった非対称を、何とか思想によって正そうとして、神話というものはつくられてきたんだというのがレヴィ=ストロースの考えです。
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“非対称を思想によって正すために神話が作られた”という思想は、それこそ西欧人レヴィ=ストロースの思想だと私などは感じますが、それはさておき、動物と人間の対称性(というか共通性)、「生命力」、「孤独さを媒介にして生まれる個の確立」、そして「野生の思想」、仏教、これらには根源的な共通性を感じます。冒頭で取り上げたキヌヨさんの〈主体〉は、こうした文明以前の、つまり人間以前の“動物的”ヒトとしての〈主体〉なのではないのか、と想像します。

世界はすでに分節している

・アキラさんへ
そちらのコメント欄へ投稿する代わりに、こちらへエントリーとしてあげさせてもらうことにします。

こちらのコメント欄に記した

>「有」を「無」に返す方向で働くのが「生命力」 という話の続きです。

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この話を続けるのに、他人様の言葉をお借りすることにします。拝借するのは、こちら。

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)東洋哲学覚書 意識の形而上学
  ―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)

(2001/09)
井筒 俊彦

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 一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。そうでなければ、存在論ではあり得ても、形而上学ではあり得ないのだ。
 だが、そうは言っても、言語を完全に放棄してしまうわけにもいかない。言語を超え、言語の能力を否定するためにさえ、言語を使わなくてはならない。いわゆる「言詮不及」は、それ自体が、また一つの言語的事態である。生来言語的存在者である人間の、それが、逆説的な宿命なのであろうか。


『大乗起信論』では、「世界」のことを「真如(しんにょ)」と呼びます。そしてこの「真如」という名は仮名(けみょう)、つまり仮の名だという。なぜ、そんなことになるのかというと、それは「言詮不及」のゆえに、というわけです。

つまり、「世界」もしくは「真如」と呼ばれる何も欠けたところのない存在を、私たちは想起することができる。けれども、その「全一的存在」に名前を付けた途端に、私たちはその名前以外の何者かをも想起してしまう。全一的存在のはずが、どこかしら欠けた存在に堕ちてしまうわけです。だから、「真如」という「全一的存在」の呼び名は本当の名前ではない、仮の名だ、というふうにいうわけです。

なんだか随分と屈折した物言いのようですが、けれど、それこそが「生来言語的存在者である人間の逆説的な宿命」ということなのでしょう。

>『本来だったらずーっと連続していて、どこかで区切ることなど出来ない世界を、「区切る」ことによって認識していくというのがヒトの知覚行為だろう。
光るナス:『名前を与えられる』より)

ということであり、私たちが名前を付けることができるのは、「区切ったもの」、つまり分節したものだけである、ということなわけです。ということは、私たちが世界と呼んでいる時点で、実は世界は不完全なものでしかない。言葉とは元来、そういったものだ、ということです。

だから、本当に完全な(全一的な)世界(=「真如」)は、呼べない。という以前に認識できない。 「その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達」です。そして、認識出来ないということは、言い方を変えると「非顕現」であり、「無」であり「空」である。また逆に、私たちが認識出来るつまり「有」である、ということは、“すでに分節している”ということになる。

*********************************

さて、以上を踏まえた上で、「名前を与えられる」ということについて少し考えてみます。

子どもが誕生してきた、ということはすなわち、世界から分節した、ということです。だから、そこに名前を与えることができる。名前を与えた、ということは、分節してきた(=「有」となった)ことを「承認」するということでもある。ですから、命名というのは「祝福」になる。

しかし、命名が「祝福」にならず「呪い」となるケースも出てきます。これは「承認」の在り方に関わってくる問題です。つまり「承認」には、分節してきた存在(=子ども)が、全一的な世界(=「真如」)へ回帰することが前提の「承認」と、分節を分節のまま留め置くことが前提の「承認」とがある、ということです(前者が「祝福」、後者が「呪い」です)。

私たちは、愛する人の名前を呼びかけます。このとき私たちの中で生じている「欲望」は、“全一的存在への回帰”への「欲望」です(この「欲望」=「力」を、私は「生命力」と呼んでいますが、実際、“私があなたとなり、あなたが私となること”を希求する欲望は、生きてゆく力を呼び起すものです)。そして、本当の名前が“全一的存在への回帰”へ向かうことができるものだと“信じる”のであれば(“信じる”のも、これまた「欲望」=「力」です)、同時に本当の名前は“分節のまま留め置く”こともできる、と“信じる”ことができるようになる(このときの「力」を「権力」と呼んでいます)。

考えてみれば、「権力」というものは、“「無」から「有」を生み出す力”でもあります。上の「仮名(けみょう)」のところに立ち返ってみますと、私たちは全一的「真如」を想像し、名前を付けることができる。しかし、名付けた途端に「真如」は「真如」でなくなる。これは見方を変えると、私たちが「非真如」というものを生じせしめた、とも言うこともできるわけです。

(“「無」から「有」を生み出す”と“「無」から「有」が分節する”は、同じ意味のようですが全く違うことに留意してください。“生み出す”場合の「無」はいうなれば「虚無」。“分節する”場合は、すべての始まりとしての「始原の無」です。)

ということは、「権力」を発動させて名前を呼ぶときには、名前で指し示されている存在を「虚無」へと返そうとしている、と考えることもできそうです。“「虚無」へと返す”、これは「呪い」に他ならないと言っていいでしょう。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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