愚慫空論

〈私〉を感じる

“〈私〉を感じる”という言い方は、あまり一般的なものでないかもしれません。
私はふだんから一般的ではない言い回しを多用しますので、私にしてみれば普通のことでしょうけど(笑)

一般的には「自意識」とか「自我」とか言われていること――といっても、こんな言葉は普通の暮らしのなかで使われることはまずありませんが――を、ここでは“〈私〉を感じる”ということにします。

なぜそんな言い方をするのか? それは、“感じる”ということの性質から出てきています。

私たちには感覚器官が備わっています。“感じる”のは、感覚器官が働らき、感覚器官から情報が脳へ送られることによって生じる。どういった時に“感じる”のかというと、それは「動き」があったときです。たとえば、私たちの周囲には空気が満ちているわけですが、空気が静止している場合には、空気を感じたりすることはありません。空気に動きがあったとき、私たちはその動きを感じ取る。そして、その“感じ”を日本語では「風」と呼ぶ。

静止画像を見るといった場合でも、動きはあります。この場合、動いているのは画像の方ではなくて、眼球の方。静止画像を見詰めるといったようなときでも、ヒトの眼球は微妙に震えているのだそうです。私たちは触覚でモノを探ろうとするときにはそのモノを撫でるのが普通ですが、それと同じように、眼球も見詰める対象を撫でている。撫でることで動きが感じ取られて、情報が脳に送られる。脳は視覚情報を補正してモノの輪郭を与え、それで私たちは「見る」ということを感じるわけです。

といったような具合に、“感じる”ということと「動き」とはセットになっていると考えてられそうです。では、“〈私〉を感じる”というのは、つまり「自意識」とか「自我」というものは、何に「動き」があって感じられることになるのか?


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞずけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

(宮沢賢一作『春と修羅』より)


ここで踏まえておくべきことが2つあります。1つは“〈私〉という感じ”は、感覚器官を通じての外部感覚ではなく、内的感覚であるということ。2つめは、自己同一性が惹起されるということです。

自己同一性とは、“昨日の〈私〉と今日の〈私〉は同じ〈私〉”ということ、つまり現在は過去から連続していうように感じられる、ということです。また内的感覚ということは、「動き」が〈私〉の外ではなく内部にあるということ。これら2つの条件を満たすもの――それは私たち自身の記憶です。

では、記憶は「動き」なのか、というのが次の問題として浮かび上がってきます。そこで宮沢賢治です。
賢治は“わたくしといふ現象”が“せはしくせはしく明滅”するといいますが、これは実は記憶のことではないのか、と思うのです。おわかりになっていただけると思いますが、記憶というものは曖昧なものです。明瞭な輪郭は案外ないものです。私にはその曖昧さは“せはしく明滅”するところから来ているように感じられます。が、一方で、確かに過去から連続しているようにも感じられる。その感じは“いかにもたしかにともりつづける”に通じます。つまり交流電燈(=蛍光灯)のように、明滅しているがそのようには感じられないということです。

以上のことは、私はヒトという動物がもつ記憶容量の問題と関連しているのではないか、と想像します。明滅していると感じられないほどに“せはしく”記憶情報を送り続けることができるくらい、ヒトの記憶容量は大きいということです。しかも、おそらくは、静止画像を見ているときと同じような「補正」が働くのではないか。 私たちが“〈私〉という感じ”を確固としたもののように感じられるのは、ヒトの脳の大きな記憶容量と補正機能の成果だといえるのではないのでしょうか。

予め定義づけられた〈世界〉へ跳び込む~「原罪」 と「悔恨の情」

このエントリーは“裏”で書いたものなんですが、故あって“表”に出します。

いえ、たいした“故”ではないのですけどね(笑)。ただ“裏”ですので、書き殴ってある、ただそれだけなんですけど。

*********************************


「何者」かによって予め定義づけられた〈世界〉。

「何者」とはもちろん、創造者すなわち神だ。
全知全能である神が創造した〈世界〉は、もちろん完全に調和した〈世界〉(のはず)。
われわれ人も創造者によって作り出された非創造物だが、「知恵の実」を食したことで、神が定義づけた完璧な〈世界〉から飛び出してしまうことになる。それが「原罪」であり「失楽園」。始祖アダムが「原罪」をおかしたことで、人は生まれながらにして「罪」を背負う。

主イエス・キリストは自ら十字架にかかることで、人を「原罪」から救い出した。人は神が定義づけ創造した〈世界〉に再び回帰することができる。が、それは無条件というわけではない。“キリストが人を「原罪」から救い出す”ということを信じなければならない。そこを信仰することによって、人は〈世界〉に回帰することができると“信じる”。

すなわち“信じる”ことが、“予め定義づけられた〈世界〉へ跳び込む”こと。
その“信じる”を支えるのが「悔恨の情」。

私たちは過ちを犯した。いつもいつも過ちを犯す。そしてそのたび悔い改めるが、それでもまた過ちを犯す。“正しき人”は、常に「悔恨の情」に苛まれる。信仰は“正しき人”を、神が定義づけた完全な〈世界〉へ招き入れることで、救う。


J.S.Bachの『マタイ受難曲』 第1曲と


終曲。


“Wir setzen uns mit Tränen nieder Und rufen dir in Grabe zu”

と歌われる響きには、悔恨からくる悲しみのうちに救済される喜びが滲む。
悲しみと喜び(あるいは安らぎ)が入り交じるのは「もののあはれ」とよく似ているはいる。しかし、やはり同じとは言い難い。『マタイ』のそれは、あくまでも“悲しみがあっての喜び”であり、感情もまた秩序づけられている。一方、「もののあはれ」にはその“秩序づけ”がない。喜びと悲しみはどこまでも渾然一体。

そう、私たちには(いや、“私には”かもしれない)、この“秩序づけ”すなわち“「何者」かによる〈世界〉の定義づけ”は必要ない。〈世界〉を己と他者に分けなくてもよい。だから、そもそも“跳び込む”こともない。それなしにでも十分「喜びと悲しみ」を“ただ、信ずる”ことができる。

いや、できたはずだった。

〈私〉自身への「不安」

久々にエントリーをあげたくなりました。

アキラさんちのエントリー、『「信頼」と「自立」を促すもの 前編』
こちらであれやこれやとコメントさせていただいているうちに、コメントでは物足りなくなってしまったという次第。

自分のブログを持っていてよかった(笑)


で、自分のエントリーでなにがいいたくなったのか? 

アキラさんのエントリーの趣旨は、人間(特に子ども)を育てるに当たって、人の心の中にどうしても生じる「不安」と「依存」から抜け出して「信頼」と「自立」を促すようにすべき、というもの。
人間はどうしても「不安」に苛まれる。その「不安」を取り除こうとして何者かに「依存」する。

では、その「不安」はどこから生まれるのか?

*********************************


〈私〉は〈他者〉を認識します。
  (〈他者〉とは、〈私〉以外の全ての存在のことです)

では、〈他者〉を認識する〈私〉とはいったい何なのか?

この問いに、ある一定の答えを出したのがデカルトでした。
すなわち、“我思うゆえに我あり”。

この「答え」は西欧人の世界観から生み出された「答え」です。なので、もともと西欧とは違った世界観を持つ私たち日本人にぴったりフィットする「答え」ではないのですけれど、どういう訳か、現在の私たちはこの「答え」を正解だと勘違いしています。それで、自分たちの世界観をこの「答え」に合せるよう修正しようとしています。

私たちが苛まれる「不安」のもとはこの「修正」にある、と私は思っています。

デカルトの「答え」は、次のような事態を引き起こします。
つまり、〈私〉を「思う我」と「“思う我”と思う我」の2つに引き裂くのです。

簡単に図に表わしてみると、下のような感じ。
(図では、「思う我」を〈私〉、「“思う我”と思う我」を〈私自体〉と表記しました)
私自体
〈私〉は〈私〉以外の〈他者〉を【外部感覚】によって認識します。
〈私自体〉は、〈他者〉を認識している〈私〉を【内的感覚】によって認識します。

「不安」の生じる場所は、〈私自体〉と〈私〉をつなぐ【内的感覚】です。
なぜならば、【内的感覚】は「私の内面世界」で生じるものであり、他の誰にも認識不可能な世界だからです。
“私は私である”、詳しくいうと“〈私〉と〈私自体〉は同じである”ということは、〈私自体〉にしかわからない。〈私〉=〈私自体〉を証明してくれる他者は存在しません。
その「不安」から逃れるために人は「依存」することになるわけですが、では、どこへ「依存」するのか?

依存先はひとつしかありません。すなわち【外部感覚】です。
【外部感覚】を「依存」できるものに仕立て上げようとする。
つまり【外部感覚】に確実性を求める。

この“【外部感覚】の確実性”を客観性といいます。
すなわち、〈私〉が2つに引き裂かれ「不安」に苛まれる人間は、客観性に依存するようになる。

また、客観性を確立する人間の能力は理性ですから、「依存」は理性にも及ぶようになる。
ここで生じるのが「理性信仰」です。

*********************************


では、この「不安」「依存」から脱伽するにはどうすればいいのか?

この先は、アキラさんの『後編』を待ってからにしましょうか( ̄ー+ ̄)

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード