愚慫空論

情報は余剰物になった

まずは「余剰物」の定義。

使用価値はあるが交換価値はゼロのモノ・サーヴィス

これまで「余剰物」といえば、例えば豊作すぎて廃棄されることになった農産物。市場に供給すると価格が下がりすぎてしまい、農家の収支が赤字となります。

そうした「余剰物」は、容易に贈与に回されます。せっかく育てた作物を捨てなければならない羽目に追い込まれた農家に、“捨てるならください”と申し出れば喜んで分け与えてくれるでしょう。

現代、ネット上にある情報は、基本的には「余剰物」になってしまいました。
交換価値、すなわち価格は“フリー”。しかし、使用価値までなくなってしまったわけではない。

使用価値の高い情報は、ネットの複製技術により“フリー”を強いられ、半ば強制的に贈与物とされます。
おなじ「余剰物」でも農作物と情報との間には違いがあって、それは、最初から「余剰物」を生産する農家はいないが、情報発信者は最初から「余剰物」を生産するという違いです。

この違いは、モノの原理と情報の原理の違いに由来するものです。すなわち「モノの原理は専有」「情報の原理は共有」です。


貨幣の使用価値はそもそもゼロですが、交換価値はいくら多量にあってもゼロになることはありません。
貨幣とは、交換価値そのものだからです。

交換価値がゼロの「余剰物」と交換価値そのものの貨幣が等価交換なされることは原理的にもありえません。
「余剰物」の交換は、贈与の交換になります。

では、貨幣を介した「余剰物」の交換は不可能か? いいえ、貨幣が「余剰物」になれば贈与の交換、すなわち贈与経済が生まれる可能性が出てきます。

では、貨幣が「余剰物」となるには? 
貨幣が「余剰物」になりえない原因は、貨幣の価値保存機能と価値測定機能にあります。
ですから、価値保存機能と価値測定機能のない貨幣ならば、「余剰物」となりえます。

減価する貨幣には、価値保存機能と価値測定機能がありません。
減価する貨幣は、貨幣でありながら「余剰物」なのです。
減価する貨幣はに交換機能はありますから、「余剰物」の交換を媒介する機能は存在します。

減価する貨幣は、贈与経済を実現させる可能性を秘めています。

贈与経済のもうひとつの始め方

ここでは贈与経済=「減価する貨幣を基軸とする経済」と考えることにします。

まず触れておくべきは“もうひとつ”というところでしょう。“もうひとつ”というからにはすでにひとつということです。減価する貨幣に関心がおありの方はすぐピンと来ると思いますが、それは地域通貨です。減価する通貨は地方自治体や地域の任意の団体が自主的に発行する地域通貨とセットで語られることが多いです。

では、“もうひとつ”とは何なのか? いえ、実はこちらの方もすでに方々で語られていまして、それは電子マネーです。減価する貨幣と電子マネーとが親和性が高いということも、減価する貨幣に関心のある方はすでにご存知のことだと思います。
実際に企業が発行している電子マネーには有効期限があったりして、簡易的ながら減価する貨幣として機能しているものもあります。

しかし、そういった電子マネーが贈与経済を実現させているかというと、そうはなっていない。有効期限があるということは、消費への意欲を高める結果にはなったとしても、それはいまだ等価交換の枠内のことであって、贈与というところにまで飛び出してはいません。

このことをなぜかと考えたときに思いついたのは、有効期限が長すぎるということと、もうひとつは「定価」というものの存在が贈与への障壁となっている、ということです。「定価」とは外部基準であり、お金を支払うものが自発的に定めるものではない。ところが贈与はあくまで自発的な行為ですから、「定価」という外部基準があって人々がそこに疑問を持たないところでは、自発的贈与はなかなか起きてこない。そのように考えているわけです。

(もうひとつ付け加えるならば、そうした減価する電子マネーは企業から贈与されていることも原因の一つだと考えられます。ただ、これは贈与とはいっても無条件ではなくて、企業のマーケティングの一方法と見なされている。だから電子マネー保持者はそれを「特権」として捉えている、ということです。『ベーシックインカムの難点』でも述べましたが、人々は「特権」を贈与することはしないものです。)

では、電子マネーから「定価」を撤廃させる方法はあるのか? その方法があるというのが、このエントリーの趣旨です。「定価」を撤廃させる方法、それは“「定価」を定める”です(笑)

そういうと、“なんだ、冗談だったのか”と思われるかもしれませんが、いえ、冗談ではありません。“定価を転配するには定価を定める”は確かに端折った言い方ではありますが、冗談ではない。そのことをこれから説明します。

まず、新聞を思い起こしてください。仮に定価3000円としておきましょう。1ヶ月3000円の定価を支払えば、毎日新聞が宅配されてくる。その紙面には、さまざまな情報がパッケージとして詰まっています。新聞の「定価」は、個々の記事、個々の情報に付けられている価格ではなくて、新聞という情報パッケージに付けられている価格です。これは一冊幾らの雑誌でも同じことです。

雑誌などでよくあることですが、私たちは雑誌の中の特定の情報(マンガ雑誌なら、贔屓の作家の贔屓の作品)を見るためだけに、仮に雑誌の定価を300円だとすると、その300円を支払ったりします。雑誌の側は読者のそうした行動を見越して、まだ実績のない新人の作家を登場させ、300円という「枠」を使って育成したりします。

こうした新聞・雑誌の構造を簡単に図示すると、(図1)
もうひとつの贈与経済1
という感じになります。読者は定価を発行者に支払い、発行者から情報発信者へと報酬が支払われる。この場合、情報 ひとつひとつに「定価」がついているわけではなくて、個々の情報の値段ははっきりしません。
(図には表わしませんでしたが、発行者には読者以外に広告主からも収入がはります。読者は不特定多数ですが広告主は特定される。なので、新聞・雑誌などの発行者は広告主の意向に左右され、情報を発信する発信者に圧力を加えるという事態が起こりえるわけです。)

ついでに単行本のように情報発信者がひとり(もしくは特定少数)の場合は(図2) もうひとつの贈与経済2
となります。この場合、情報の「定価」ははっきりしています。

これら2つのかたちは、旧来の紙媒体を介しての情報発信のかたちです。そしてそのかたちはそのままネットにも引き継がれています。
(ネットの場合は、発行者の力が紙媒体ほど強くないので、どちらかというと図2の場合が多いように見受けます。有料発信のメルマガや「ビデオニュース・ドットコム」など。図1のケースは新聞・雑誌の有料配信ですが、あまり振わないようです。)

ですが、インターネットは新しい技術です。新しい技術で旧来のモデル(思考)を模倣してもあまり意味はないでしょう。事実、現在力をもちつつあるのは次のようなモデルです。(図3)。
もうひとつの贈与経済4

この図3には具体的な企業名(Google)と入れてしまいましたが、もちろんこのモデルを担っているのはGoogleだけではありません。が、「Google」と入れると一番ピンと来やすいのではないかと思います。 このモデルは、読者からお金が入ることはありません。基本的に読者は無料で情報を入手できる。大変に結構なことです。「Google」はさまざまな広告主からお金を集めそれを情報発信者に分配しますが、このIT技術に基づく「分配」は、等価交換でも贈与でもない、単に分配としか呼称のしようがないものです。
(あくまで個人的な感想ですが、私はこの「分配」にはどことなく不気味さを感じます。それは、金融工学といわれるものに対して抱くのと同種の不気味さです。ここには人間味といったものが全くない。にもかかわらず、それが経済の中軸の位置を占めてしまう。経済は人間の人間的な営みではないのか、と思ってしまいます。)

話が少々脱線気味なので、元に戻りましょう。話は贈与経済についてでした。贈与経済というのは、等価交換よりもずっと先、人類が社会的な生物と誕生すると同時に存在していたものでしょうが、そうした古い仕組みがネットという新しい技術によって復活する。こんなモデルが考えられると思うのです。(図4)

もうひとつの贈与経済3
図4は、「Google」が行っていた「分配」を読者自らが行う、というものです。私は先に、“「定価」を撤廃するには「定価」を定めればよい”と言いましたが、これがその図になります。“「定価」を撤廃するには「定価」を定めればよい”は言い換えれば“まず「定価」を支払って、その「定価」を読者が自身の意志によって分配する”ということです。

「定価」が想定され、消費者がその「定価」を受容して交換を行うのは等価交換です。ですので、図4のモデルでは、取引の第1段階は等価交換になります。図1,図2の取引はここで終了でしたが(図3では取引そのものがない)、図4のモデルはここでは終わりません。「定価」を読者自身が分解するという作業が入ります。つまり等価交換であったものを分解してしまうのです。

この「分解」に際して重要な点があります。分解されたものが減価しない貨幣として振る舞うようにしてはならないということです。分解された定価が減価しなければ、分解後の分配もまた等価交換になってしまいます。減価がなければ、読者には分配しないという選択肢が残ることになりますが、ここが問題で、この選択肢がのこればどうしてもこれを選択する人間が多くなる。そうなると、結局行き着くところは図3の無料モデルになります。

ですから、分解後は減価するものとして扱わなければなりません。言い換えれば、読者は定価格の減価しない貨幣を支払って定価額の減価する貨幣を購入する。減価する貨幣では分配しないという選択肢を選ぶ圧力が減り、読者は積極的に分配しきろうとするでしょう。

そして、ここが最も重要なことですが、この分配に際して基準になるのは読者自身のみです。読者が良いと感じれば分配比率を高くすればいいし、反感を感じれば分配を0にしてもよい。定価といった外部基準に頼ることなく、あくまで自身が主体的に自身の資源の配分を行う。それが贈与です。

減価しない貨幣が基軸の経済体制では、自身が主体的に配分を行うということがなかなかできません。貨幣の性質自身が分配しない選択を後押しするようになってしまっています。ですから人々は、どうしても生活上どうしても必要な交換に際して、等価交換という虚構(よく考えてみると何が“等価”なのか、本当は判断がつくはずがない)に依存するようになる。そしてその虚構を操作するものが経済を支配し、人々は虚構によって疎外されていくことになるのです。

減価しない貨幣が基軸の経済体制の中で減価する貨幣による経済を作ろうと思えば、まず「特区」を作る必要があります。「特区」なしでいきなり減価する貨幣を流通させようとしても、その取り組みはなかなか上手くいかないでしょう。図4のモデルは「定価」がその「特区」になっています。読者は自らの選択で「特区」へ入っていくことができる。ここがこのモデルの大きな特長で、地域通貨のように特定の地域に居住していなければ「特区」へ立ち入る機会が提供されないといったことはない。基本的にはネットに繋がっていれば「特区」へアクセスすることができる。

しかも「特区」へのアクセスが自由なのは読者だけではありません。情報発信者も自由にアクセスできます。紙媒体時代の図1・2では、情報を発信しようとする者は発行者の管理下に入っていく必要がありました。ネット時代の図3 ・4ではその必要がありません(図3も現行では特定の発信者に限られていますが、原理的には誰でも発信は可能です)。ですから、図1の構図のもとで生じる“マスゴミ問題”も原理的には生じにくいと考えられます。

今現在、図4のモデルを実現させるためのツールは揃っているはずです。であるなら、次に必要なのはツールを使う意志と能力を持った者が出現すること。果たしてその「出現」はあるのか、それ以前にここで私が示した「意志」が共有されることになるのか、甚だ疑問ではあります。「意志」が共有されなければ「出現」もありませんが、「意志」共有のためにはまず「意志」表示がなくてはなりません。

貨幣は必要か?

実はタイトルは少し舌足らずです。今の社会において“貨幣は必要か?”と問うてみても、その答えは決まり切っています。もし今の社会から貨幣がなくなれば、社会は社会の体を為さなくなるでしょう。貨幣は間違いなく必要です。

私が問いたいのは“今の社会において”ではなくて、“未来の理想社会において”。未来に理想社会などといったものが実現するかどうかは知りません。が、そういったものを夢想することができるのは人間の特権でしょう。そしてその特権を行使しつつ現在を問うことは、こちらは今を生きる人間の義務です。

未来の理想社会において貨幣は必要か? 私の答えは必要である、です。

ただし、その貨幣は現在の貨幣とは異なります。たびたび取り上げる「減価する貨幣」もその答えのひとつですが、それだけではないかもしれません。私が考える未来の貨幣はあくまで「属人的な貨幣」です。

現在の貨幣は属人的ではありません。よく“きれいなお金”“きたいないお金”などといったことが言われますが(政治資金はきれいでなければならない、とか)、そもそも貨幣自体にきれいもきたないもありません。“きれい”だとか“きたない”とかいう形容は属人的な要素であり、人は後付で貨幣にそういった要素を付加しますけれども、そんな要素が貨幣の本質ではないことは、実は誰もが知っています。だから、たとえ“きたない”お金であることがわかっていても、人はそれを受け取ることを容易に拒否できない。きたなくても、お金はお金なのです。

なぜそういったことになるのか。答えはカンタンで、貨幣の本質は概念だからです。概念は“きれい”とか“きたない”とかいった人間の感情的な側面とは無縁だから概念なのであり、またそれゆえに外部基準として機能します。外部基準とは属人的ではなく、客観的な基準といったものです。


もともと人間は社会的な動物です。なぜ社会的なのか? それは動物としての身体能力が他の種と比べて劣るために社会を形成した方が生存競争に有利だった、といったところでしょう。そうした人間にとって、人間が形成する社会は決して客観的な存在ではありません。社会には自らの生存が関わっているのですから、そこにはどうしても感情が絡む。感情が絡むということは属人的なのです。ある人にとっての社会の価値は、その人自身の価値と無関係なところで測定できません。

ところが現代の社会はそのように作りになっていません。現代を支配する大きな社会は「近代社会」ですが、これはその社会を構成する人々の個々の価値観とは無縁のところで作り上げられている。すなわち貨幣の性質を基軸に作り上げられている。こんな社会が人々の営みの隅々にまで浸透してしまうと「無縁社会」になってしまうのは当然のことです。

属人的な社会を作る人間は、その社会を維持するためにモノやサービスの交換を行います。社会とはモノやサービスの交換の場だと言い換えてもよいでしょう。属人的な社会においてなされる交換は、当然のことながら属人的です。その属人的交換を贈与というのですけれども、現代社会を作り上げている交換は非属人的な等価交換であり、この等価交換が「無縁社会」を作り上げる根本の原因なのです。

現代の貨幣は概念であるがゆえに、その価値は減ずることなく不変です。現代の価値が非属人的であるのは、この不変性に由来しています。誰の手にあろうが、貨幣は貨幣としてその保持者とは無関係に“不変に”存在している。そういった貨幣が、もともと属人的であったはずの交換の仲立ちをするために、交換が非属人的なものに変質してしまう。その結果、交換の場である社会も非属人的になってしまうわけです。

しかし、そういった非属人的貨幣にも大きな利点はあります。それは「大きな社会」を実現したことです。いわゆるグローバリズムの結果として出現した「大きな社会」は、その害悪も大きなものです。しかし、この害悪は大きいから出てきたものではなくて、もともと近代社会に存在した害悪が社会が大きくなったために害悪も大きくなっただけのこと。社会が大きいことは、それはそれでよいことなのです。

というのも、社会はそこの中で暮らす人間にとっては保険の役割を果たすものでもあるからです。現代のグローバル社会はその保険機能が機能不全に陥っているわけですけれども、保険機能がしっかり機能するのであれば、社会は大きい方がよいはずです。

保険が機能する社会を「暖かい社会」といってよいでしょう。現代の社会は大きいが「冷たい社会」です。冷たくなってしまったのは非属人的な等価交換が原因です。もし貨幣がなくなれば「暖かい社会」は復活するでしょう。貨幣なしの交換は属人的な贈与になり、“暖かさ”は属人性から出てきますから、その社会は必然的に「暖かい社会」になります。ただし、その社会は「小さな社会」でしかありえません。貨幣という媒体を介しない交換は、人と人とがリアルに出会う必要がある。つまり物理的な制約が大きいのです。

(概念の長所は、物理的な制約を超えられるということです。それは当たり前の話で、概念はリアルなモノではないからです。インターネットという技術が爆発的に進化しつつある今日では、リアルでない物理的な制約を超えた交換があちこちで見られるようになっています。私はその交換を基本的に贈与だと観ていますが、しかしまだその贈与が社会を構築するようになるところへは至っていない。現代社会の構築原理は未だに等価交換です。ですので、ネットの中の交換も基本的には“暖かい”贈与であるはずが、等価交換原則の“冷たさ”に引きずられたアンチ贈与(ハラスメント、もっというと「呪い」)が多く見られます。)

理想の未来社会とは、いうなれば「暖かく大きな社会」です。もう少し具体的にいうと、属人的な贈与交換が物理的制約を超えて行われる社会となります。そうした社会がいかにして実現できるか、そこを考えるのには、どうして貨幣の性質というところへ考えが及ばざるを得ません。

貨幣が概念であるという本質は、そこは本質ですからどうにも買えようがありません。が、貨幣が概念であるということが直ちに非属人的ということになるのか? もしそうなら私たちの選択肢は「大きくて冷たい社会」or「小さくて暖かな社会」のどちらかしかなくなるわけですが、そうではなくて、貨幣がその本質は概念でありつつ属人的であることができるなら、「大きくて暖かい社会」も選択肢の中に入ってくることになります。

結論を言ってしまえば、貨幣が非属人的になるのはそれが不変であるからです。貨幣には3つの機能、すなわち交換媒体・価値測定・価値保存の機能があるとされていますが、このうち価値測定・価値保存は貨幣の不変性から出てくるものです。不変な貨幣によって価値が測定されるから、モノあるいはサービスの価値は属人性から離れて客観的なものとして捉えられる。また貨幣そのものの価値が不変とされるから貨幣を保持しているだけで保険となり、社会の保険機能が機能しなくてよくなってしまう。「大きくて冷たい社会」は、実は貨幣の概念性から出てきているのではなくて、貨幣の不変性から出てきている。もちろん貨幣の不変性はその概念性なしでは成り立ちませんが、概念性が直ちに不変性というわけではない。概念性を保持しつつ不変性を破棄することはできる。その具体的な形が「減価する貨幣」ということになるのです。

「減価する貨幣」には、従来の貨幣がもつ価値測定・価値保存の機能がありません。そうするとどのようなことになるか? 不変な貨幣によって外部基準としての価値測定がなくなれば、人はその価値を自ら測定するほかなくなります。自ら価値を測定するということは、その価値測定が否応なく属人性を帯びるということです。そうすると、「減価する貨幣」を介しての交換は属人性を帯びた交換、つまり贈与の交換ということになり、「減価する貨幣」は「属人的な貨幣」ということになるのです。

(「属人的な貨幣」を通じて交換がなされる場は「暖かい社会」となりますが、別の見方をするとそれは「市場」です。ただし、この「市場」の読みは“しじょう”ではなくて“いちば”と読みます。非属人的な減価しない貨幣による経済では、「マーケット」すなわち「市場(しじょう)」が架空のものでありながら現実的な機能をもつものとして想定されますが、「減価する貨幣」に経済では架空の「市場(しじょう)」は出現しません。ネット上のやりとりを介したバーチャルな取引であっても、それは取引する当人同士の属人性とは切り離されていない「市場(いちば)」です。「減価する貨幣」による経済では、単層で少数の「非属人的市場(しじょう)」の支配は成立しなくなり、替わりに無数で複層的な「属人的市場(いちば)」が社会を支えることになる。メカニカルな市場(しじょう)による社会支配から、市場(いちば)による有機的な社会維持へと構造が変化するのです。)

また「減価する貨幣」には貨幣自体に保険の機能がありませんから、人々はどうして保険機能を社会に求める以外になくなります。実はこのことが「減価する通貨」を導入するに当たっての最大の心理的障壁になります。しかし社会に保険機能を求めるなら、その社会の基本原理はどうしても属人性に基づいたものでなければなりません。「減価する貨幣」はそれ自体属人的ですから、「減価する貨幣」を導入しさえすれば、自然に社会は保険機能が機能する「暖かい社会」になるのです。

というようなことで、未来の理想社会に必要なのは「減価する貨幣」であるという結論になりました。ただ、途中でも述べたとおり、これが唯一の方法というわけではないでしょう。他にも良い方法はあろうかと思います。

ベーシックインカムの難点

といったようなタイトルでエントリーをあげるとベーシックインカム反対派だと思われるかもしれませんが、それは違います。私は基本的にはベーシックインカムが目指す方向性には賛成です。
賛成なんですけれども、手放しというわけではない。ベーシックインカムには、見過ごせない難点があるように思う。今回はそこらあたりのことを話してみたいと思います。

私が感じるベーシックインカムの難点とは、ズバリいうと“隷属の二乗になる”ということです。
方々のベーシックインカム賛成派の議論を眺めてみて思うのは、この「隷属」についての視点が欠落しているように思うのです。

では、隷属とはいったいどういうことか?

その1は、「貨幣への隷属」です。
私たちが暮らしていくためにどうしても必要な経済は、現在の日本ではほぼ100%貨幣によって支配されています。私たちの労働は貨幣によって価値が測定され報酬が支払われる。報酬とした得た貨幣と交換で生活に必要なモノやサービスを入手する。また貨幣を蓄積して将来への備えとする。現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たないといっても、少しも過言ではないでしょう。

このことがなぜ「貨幣への隷属」なのか? 

答えはカンタンです。“現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない”と考えているからです。

が、これでは答えになっていないと感じる方もおられるでしょう。このことを説明するには、まず「隷属」とはどういうことなのかというところから始める必要があります。

「隷属」は辞書で見てみると
れい‐ぞく【隷属】[名](スル)

1 他の支配を受けて、その言いなりになること。隷従。「本国に―する植民地」
(Yahoo!辞書より)
となっていますが、ここでいう「隷属」は辞書の意味とは少し意味合いが異なります。たんに“他の支配を受けて、その言いなりなる”なら、命令を受けてその命令に唯々諾々と従うことのようですが、そうではない。それをさらに越えて“命令を受けたわけでもないのに自発的に従う”、このことを指して「隷属」というのです。

私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない。これは一見、疑いようのない事実であるように見えます。いえ、確かにこのことは事実ではあるのです。しかし、この「事実」は「真実」ではありません。つまり、貨幣がなくても人間は暮らしていける。歴史的な視点で眺めてみれば、人類は貨幣なしで暮らしてきた期間の方がずっと長かったというのが「事実」です。にもかかわらず、私たちは“貨幣なしでは暮らしていけない”と“自発的に”考えています。この“自発的な状態”を指して「隷属」というのです。


今現在、「貨幣への隷属」を最も端的に表わす言葉は“働かざる者食うべからず”でしょう。もともとこの言葉が用いられた文脈は現在のそれとは異なるのですが、現在では、二重の意味で「貨幣への隷属」を示す言葉になってしまっています。

まず“働かざる者”はほぼイコール“貨幣収入のない者”の意味で使われます。これはつまり、働くという行為が貨幣によって価値測定されることを前提にしているということであり、ここから貨幣によって無価値とされた労働は労働ではないという結論が導かれる。そして、貨幣を持たない者(←稼げない者ではないことに留意)は“食うべからず”とされてしまう。まことにおかしな倫理観ですが、「貨幣への隷属」にどっぷり嵌ってしまっている人はそのことになかなか気が付きません。いえ、気が付こうとしないのです。

ベーシックインカムがこの“働かざる者食うべからず”に対する反論という形で提示されることが多いのは、ベーシックインカムに関心のある方ならご存知のことでしょう。

この「ベーシック・インカム」という、「働かざるもの、食うべからず」と真っ向から対立する概念について、一番の疑問は、無条件でお金をもらえるとしたら、誰も働かなくなってしまうのでは? という点で、一番納得したのはこの部分。

 ベーシック・インカムに対する答えられるべき疑問として、無条件の所得給付は労働意欲を減退させるのではないか、という疑問をあげ、フロムは以下のように回答する。現行の世の中の仕組みは、飢餓への恐怖を煽って(一部のお金持ちを除き)「強制労働」に従事させるシステムである。こうした状況下では、人間は仕事から逃れようとしがちである。しかし一度仕事への強制や脅迫がなくなれば、「何もしないことを望むのは少数の病人だけになるだろう」という。働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」だとされる。


“働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」”。この意見には私も同感です。がしかし、それでも私はベーシックインカムは労働意欲を減退させることになると思う。それは、ベーシックインカムが「無条件の給付」ではないからです。

ここで留意しておくべきは、「無条件の給付」と「無条件の所得給付」の違いです。「無条件の給付」とは、すなわち贈与です。無条件に贈与を受ける人間は、「病人」でもない限り、自発的な労働を好むようになる。それは社会的な動物として生まれてくるヒトという生物種の本能でしょう。「無条件の給付」は無条件の贈与であり無条件の認知です。自発的に労働するに至らない子どもは無条件に贈与を受けることで社会的に認知されたと感じ、労働が可能な成人へと成長すると、こんどは社会的に認知されるために無条件の贈与を行うようになる。「無条件の給付=無条件の認知」を与えられなかった子どもは、長じても自発的に労働する大人とはなりません。

ですが「無条件の所得給付」は贈与ではありません。「所得給付」とは貨幣の分配ですが、貨幣は所詮は概念に過ぎません。人間は概念を操る生き物ですけれども、概念を給付されても無条件にそれを認知だとは感じません。無条件の概念の給付は「特権」として捉えられることになります。
(今日の日本の子どもたちが陥っている病理の根っこはここにあるのでしょう。子どもたちは無条件に貨幣という概念を給付され、その貨幣がモノと交換できることを学習して、自らが特権を有した存在だと勘違いをしてしまうようになります。)

ベーシックインカムがもたらすであろう害悪は、特権をバラ撒いてしまうことです。自らの特権があると考える人間が、自ら進んで労働をするとは考えられません。特権は人を怠惰へと導くことになるでしょう。
(特権を特権と捉えて自制する精神は、無条件の譲与から育まれます。ところがベーシックインカムが実現してしまうと、まず「無条件の概念給付」から始まってしまいますから、「無条件の贈与」を与えられる機会がスポイルされてしまいます。それはすなわち、「無条件の贈与」が労働によってもたらされることが学習できなくなるということです。)

ベーシックインカム賛成派が「無条件の贈与」と「無条件の所得給付」を混同してしまう原因は、「貨幣への隷属」です。「貨幣への隷属」に囚われてしまっているために貨幣が概念に過ぎないことを見落とし、その概念の給付を求めるようになる。これ「隷属」のその1です。


「隷属」その2は、「暴力への隷属」です。

「貨幣への隷属」に囚われると貨幣は概念に過ぎないことを見落とします。実際、貨幣経済では貨幣は財産としてモノと同等以上に扱われます。
財産を収奪するのは暴力です。ベーシックインカムには莫大な財源が必要ですが、その財源は暴力によって確保されなければなりません。国家が合法的に税として徴収するとはいっても、貨幣は財産だと認知されているわけですから進んで提供しようとする人は少ないはずです。もしそういう人がいるとすれば、それは「国家への隷属」に囚われているということになります。

しかし、ベーシックインカムが実現されるには暴力装置である「国家への隷属」が欠かせません。ベーシックインカムの給付を受ける人はすすんで「国家への隷属」に囚われていくでしょう。国家に隷属することでベーシックインカムという特権を享受できるからです。
逆に、ベーシックインカムのために多額の納税を強いられる人は反撥することになるでしょう。しかし、ことによると、その反撥には「国家への隷属」に囚わた者たちから“非国民”というレッテルが貼られることになるかもしれません。しかもベーシックインカムは合理的な仕組みではありますから、この“非国民”のレッテルは同時に“非合理な者たち”を意味することにもなります。

現在でも“非国民”なるレッテルはしばしば見かけます。このレッテルには、それを貼ろうとする者の方が“非合理”だという認識が今は一般的ですから救いがありますが、それが逆になってしまったとしたら恐ろしいことになります。もし“非国民”=“非合理”のレッテルが出来上がってしまうことになると、それに対抗するのは非常に困難なことになるでしょう。こうしたレッテルは、隠然とした暴力として機能することになります。


というようなわけで、私はベーシックインカムについては大きな懸念を抱いています。冒頭で述べたとおり、ベーシックインカムが目指す方向性には賛成ですが、実際に制度が導入されるとなると、賛成派が予期せぬような事態に陥ってしまうのではないかと懸念します。かつてのアメリカの禁酒法のように、合理的な結果を期待したのに大変に不合理な結果になるということになりはしないかと思うわけです。

もちろん、成功する可能性がないわけではありません。「貨幣への隷属」「暴力への隷属」が「隷属の二乗」にならずに「隷属のキャンセル」となる可能性はあると思います。ただ、その可能性が高いとは思えません。

ベーシックインカムが目指す方向性を実現するためには、まず「貨幣への隷属」から逃れる必要があるでしょう。そのための有力な手段が減価する貨幣であると私は考えています。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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