愚慫空論

内心は「無」である

dr.stoneflyさんがまたもや「内心について」のエントリーをあげておられます。それを受けて、思うところをいくつか雑然と並べてみることにします。

『「語られる内心のベクトル」…と受け手の構え』

そのエントリーには、愚樵流図表の改良版が掲げられていますが、私はさらに改良せずそのまま拝借します。


これまでの話は、まず内心を抱える発話者がいることを出発点にして、発話者が内心を表現するときの志向性を考えてきました。つまり発話者が受け手を想定して為される表現が「私的」なのか「公的」なのか、といったような話でした。

ここで考えてみたいのは、〔発話者→→受け手〕という一方通行の想定ではなくて、受け手もまた発話者、つまり双方がメッセージのやりとりしてコミュニケーションを行う場合です。上のdr.stoneflyさんの図でいきますと、発話者のベクトルA or Bのメッセージを受け取った受け手は、今度は発話者となって、フィードバックA or B2をメッセージとして返す、という想定です。

このメッセージのやりとりには、4通りが考えられることになります。

1.ベクトルA→フィードバックA
2.ベクトルA→フィードバックB2
3.ベクトルB→フィードバックA
4.ベクトルB→フィードバックB2
(フィードバックAおよびB2は、それぞれベクトルAおよびBと同じ性質を持つものと考えます。)

このうち4つのうち、2.と3.は同じものだと考えてよいでしょう。つまり、発話者と受け手が入れ替われば2.と3.は同じことになるわけですが、発話者と受け手とが常に入れ替わりつつメッセージを発し合うのがコミュニケーションなのですから。2.と3.とは同じことだと考えて差し支えありません。

それでは1.のケースから見ていきます。コミュニケーションを為す双方が、相手を【private】な領域にいると捉え、「告白」を行い合うコミュニケーションです。このコミュニケーションは、私がこれまで「対話」あるいは「創発的コミュニケーション」としてきたものだと考えてよいでしょう。

参考:『創発的コミュニケーション』

また『贈与とハラスメント』では、下のような図を掲げましたが、

創発的コミュニケーション

この図が表わしているのも、やはり1.のケースです。

また『贈与とハラスメント』では、次のような図も掲げました。

ハラスメント

この図が表わしているのは、2.および3.のケースになります。コミュニケーションを為す片方が常に「告白」、片方が「正当化」。こうしたコミュニケーションを「ハラスメント」と呼んだのでした。

参考:『ハラスメント(1)』

それでは、4.のケースはどうなるのか。互いが互いに「正当化」しあうコミュニケーション、これを一般的に「討論」と呼びます。

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次に考えてみたいのが、「創発的コミュニケーション」「ハラスメント」の図に出てくる「学習」です。この学習とはいったいどういうことなのか? この問いに対する答えは、dr.stoneflyさんのエントリーでの、人生アウトさんのコメントにあります。

『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』より

Q.内心を語るとはなにか?

A.
ネットをやっていて、(特に若い人は)誰もが感じたことがあるでしょう。
「自分の気持ちなんか誰もわかってくれなかった。どんなに気持ちを語っても、勝手に括られて終わるだけだ」「ネットにはかろうじて、同じような仲間が集っている」

微分的に考えて、私達の気持ちというのはどこにあるのでしょう? 一秒前に考えた私と、一秒後の私が同じである保証はどこに?(なんか哲学ぽい)
言葉で闊達に語ることのできるブロガーは、しばしば他人の気分が理解できません。言うことがコロコロ変わる気分屋な他人が、まるでアホに見えます。
しかし、「言うことがコロコロ変わる」ことと「考えが長期間変わらない」ことの間には、性質的な違いはあっても優劣は存在しません。あなたの自我は、慣れない力仕事・慣れない長距離移動・慣れない食事・慣れない他人に曝された時、激しい分裂を経験します。考えがまとまらなくなる。それを避けるために、慣れ親しんだ殻で身を守ります。(ダウン症児を抱かないことで親は、身を守った)。派遣労働者やネカフェ難民は、日々この分裂の危機に曝されているため、長期的な自画像を保つことが困難です。
意識・内心というものは、食事・会話・運動が一定のメロディーに乗っている時にはじめて、「変化しつつも安定」した状態に保たれるのです。胡蝶の夢で言うなれば、蝶と私を行き来しつつある状態そのものが、「内心」。その変化、運動こそが自我の本質。(経済の本質が、金そのものでなく貨幣の流通過程にあるのと同じ)

(下線強調は愚樵)


“変化、運動こそが自我の本質”。私ならばここを「自我」ではなく「自己」としたいところですが、それはさておき、「学習」とは、「変化、運動」に他なりません。その「学習」が“「変化しつつも安定」した状態”で推移することが、双方のコミュニケーションのなかで実現される場合がケース1、つまり「創発的コミュニケーション」です。

同様に考えると、「学習」のないコミュニケーション、つまり「討論」は内心が変化しないで固定した状態で行われるコミュニケーションだとすることが出来ます。「正当化」とは内心が変化しないことを表わす言葉であり、また逆に「学習」によって内心が常に変化を続けるならば「正当化」をしようにも不可能でもあります。

さらに考えれば、「ハラスメント」は片方が内心固定、片方の内心が「変化、運動」するコミュニケーションの在り方だとすることができます。この場合、変化する方の内心は、不安定な変化しか行うことが出来ません。不安定な変化を強いられる方が、窮地に追い込まれていくことになるのです。

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さて、ここでまた新たに次のような図を提示してみます。

3P 告白と正当化

この図は実は、【personal】【private】【public】とした図の改訂版です。どこをどう改良したかと言いますと、まず、【personal】の赤円を赤と青の二重円としました。【private】の緑は赤に変更して、【personal】の内円から切れ目なく湧出するようなイメージにしました。【public】は色はそのままで、【personal】の外円から断絶しつつ湧出しています。

で、この図はいったい何を表わしているのか? まず二重円ですが、これは【personal】すなわち個人の内心の中の無意識な部分、意識的な部分を表わしていると考えてください。無意識な部分は赤い内円で「変化する内心」、意識的な部分は青い外円で「変化しない内心」に対応します。

赤い「変化する内心」は【private】領域に連続して繋がってゆきます。『「無垢なもの」は商品化される?』でお借りした内田樹の文章、あるいは私自身のエントリーでは『身体性=脳の拡張性』が、その連続性についての記述になっています。

またこの連続性は、別の言葉で言い表しますと、「空」ということにもなるかと思います。「空」と言いますと思い起こすのが<慈円のbr/>
「ひきよせてむすべは柴の庵にてとくればもとの野原なりけり」ですが、 赤い内円はつまりは「無」であり、【private】領域にある「有」と結びつくことで「自己=私」が生じます。自己たる内心が常に変化するのも、「有」から「無」へ向かっての動きがあるからで、私たちの意識(青い外円)が見ている私(=自我)とは、この動きを静的に捉えたものに他ならないというわけです。

そしてその青い外円ですが、これは自らを「有」だと思い込み、同じく「有」である他者と対峙することになります。ここでは「有」vs「有」ですから、必然的に断絶が生じることになる。この断絶の在りようが、私が以前「知的フレーム」と呼んだものになるかと思います。

資本家は泥棒である

  renshiさんが「近代資本主義は公的泥棒だ!」と言っておられるが、近代社会において、資本家が何を盗んでいるかを示す文章に出会ったので、そのままお借りして掲示します。
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から『ゴダールとマルクス』

では、フィジオクラットが剰余価値の源泉として発見した「自然の贈与」にあたるものは、産業資本の世界では、どのような姿をとって、出現しているのか。マルクスは、それが「労働力」であることをみいだした。
 マルクスは労働力と労働をはっきりと見分けなければならない、と考えた。なぜなら、労働力は抽象的なピュシスの力をあらわしているのにたいして、労働はその労働力がピュシスの変態をとおして、物質性の世界に具体的ななにかの価値をつくりだす、そのプロセスのことをさしているからだ。労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されているのだ。
 抽象的なピュシスの力である労働力は、けっして宙をさまよっているわけではなく、具体的な人間の身体をとおして、物質性の世界にあらわれる。そこで、労働力を商品としてとりあつかおうとする場合、その価値は、抽象的な力である労働力そのものではなく、ピュシスが物質性の世界にあらわれる足場をなすところの身体が、自分を再生産するのに必要な価値で計られることになる。私たちの世界の知性は、まだ抽象的な力であるピュシスの領域を描写できる、完全な数学をもちあわせていない。いまのところはせいぜい、多様体論や散逸理論や超弦理論が、そこに近づこうとしているぐらいだ。ピュシスは潜在的(ヴァーチャル)な能産性の場であるから、それを限られた物質的表現の形態の中に、とじこめてしまうわけにはいかないのである。
 マルクスによれば、資本家はそういう労働力を、ひとつの商品として購入し、それを労働として使用する権利を得る。多様な能産性を秘めた、抽象的なピュシスの力を購入して、その力が労働によって価値を生産できるような巨人なシステムとして、私たちの資本主義社会はつくられたのだ。資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。しかも、その価格は、労働力そのものに対する価値づけではなく(そんなことを可能にする数学的方法を、まだ人類はもちあわせていない)、抽象的な労働力が物質的世界の中にもった、たったひとつの足場である、労働する身体を維持するのに必要な価値(これは労働時間で換算される)で計られるのだ。
 私たちの生きている資本主義社会でも、まぎれもない剰余価値の発生が、おこっているのである。それは、資本家が労働者から物質化された商品を買わないで、労働力自身を買うことから生まれる。労働力は、それが生産する物よりも、小さい価値しか持っていないからだ。なぜならそれは抽象的なピュシスの力として、またヴァーチャルな空間を生きているものであるから、その力が顕在化してつくりだす物よりも、この社会では、小さな価値づけしかあたえられないからである。資本家は、ヴァーチャルな力を価格どおりに買うことによって、物質に顕在化された世界に、剰余価値を発生させることに、成功したのである。等価交換という「ゲームの規則」を少しも侵害することなしに、しかも、豊穣な大地のあたえる「自然の贈与」なども必要としないで、それは実現されたのだ。
 しかし、マルクスにおいても、フィジオクラットの場合と同じように、問題なのは、「ピュシス」なのだ。資本主義社会では、人間の生命を生かし、またそれをとおしてあらわれるピュシスの力の抑圧の上に、富の増殖はおこなわれているのである。
 ピュシスの潜在力は、労働力として安く購入され、使用されて、より多くの物質的価値をつくりだしている。それはまず第一に知的に抑圧されている。私たちの世界には、まだ多様体としてのピュシスを表現する手段が欠けている。そのためにまず、労働力としてあらわれたピュシスは、均質空間を表現するための方法である時聞の長さでもって表現され、労働力の価値は、労働する身体を再生産するのに必要な生活費として、計算されたのである。
 経済活動における等価交換と、それをささえる思考法は、ことがピュシスの働きや贈与の精神にかかわるものごとの前では、転倒した観念として、現実(リアル)を抑圧する働きをするのだ。資本主義のシステムにおいて、剰余価値が発生する、まさにその現場で、転倒した観念と未発達な表現手段が、ピュシスを抑圧するのである。その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した。『資本論』に書きつがれたマルクスの言葉の途絶えた先に出現すべきもの、それは、マルクス主義などでも、社会主義経済などでもない。その先に唯一出現すべきものは、私たちの存在を、無転倒な状態にある生命と存在のリアルに一体化させていくことをめざす、弁証法的唯物論の、終わりのない探究だけなのだ。



「労働力と労働をはっきりと見分けなければならない」
ここでいう「労働」とは私が言う仕事とほぼ同義かもしれない。もしそうなら私はマルクスを誤読していたことになるが。しかし、それにしても、労働を時間に換算するという外部基準を導入したマルクスは、やはり近代的理性の枠からは抜け出せていなかったのではなかったか。

「資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。」
物質化された労働=労働力、能産性=労働(=仕事)だろうが、資本家は労働力と労働の差異を盗むのである。この差異が「余剰価値」なのだろう。
(「余剰価値」という表現そのものが近代的だが)

「まず第一に知的に抑圧されている」
こういった考え方こそが、知的抑圧の第一歩であるように思う。私たちの理性では「多様体としてのピュシスの力」を明瞭な「外部基準」として把握することは不可能ではないのか。マルクスは、資本が「ピュシスの力」を抑圧するものだとしつつも、結局、労働を労働時間に換算することで別の「外部基準」を導入してしまった。そのことが資本主義とは別の抑圧を生んだのではなかったか。

「その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した」
いかに飽くなき探求が続けられようとも、「弁証法的唯物論」は「外部基準」であろう。
「ピュシスの力」の発現である労働(=仕事)が、人間の自発的な意思から生まれるのだとすれば、「外部基準」を追い求める行為は必ずどこかで「転倒」を必要とする。そして、その「転倒」とは、唯一神への信仰とおなじものではないのか?

泥棒は捕まえるべきか

泥棒は捕まえるべきか? 

まず普通ならば捕まえるべきでしょう。泥棒を捕まえることは正義だといってもいい。

が、泥棒を捕まえることがいつでも正義かというと、それは少し怪しい。

もし貧富の差が極端に大きくなって貧しい人たちが泥棒でもしないと生きていけないような社会で、泥棒を捕まえることが正義とはいえません。

世の中には、この“泥棒を捕まえることが正義とは言えない”というようなことがたくさんあります。

身近なところではスピード違反の取り締まりがそうです。たとえば制限速度40キロなのだけれども、そこを60キロで走ることが常態化している道路があったとする。その道路で車の流れに乗って60キロで走っていたの、取り締まりに捕まってしまった。捕まった者は、捉まえた警察に正義があると感じるか? 私なら感じません。なぜ私だけを捉まえたのか、という疑問は持たざるを得ない。そして、ルールに沿って私を捉まえた警察に不正義を感じることになります。

その摘発がスピード違反の取り締まりのようだと言われているのは、「小沢vs検察の最終決戦」などと報じられている現象です。マスコミは盛んに小沢一郎がルール違反をしているという。私も、よくはわからないけれども、小沢一郎はきっとルール違反、つまり「泥棒」をしているだろうとは思います。そして、その「泥棒」が良いことだとは思わない。

では、「泥棒」を捕まえることが正義だと思うかというと、それは思いません。政治の世界は「泥棒」でなければやっていけない世界だろうと思っているからです。

もちろん、「泥棒」が跋扈する世界がよい世界のはずがない。そこは改めなければならないと思います。しかし、だからとって「泥棒」は悪いというルールを恣意的に適用して取り締まることがよい世界を作ることになるとは全く思えない。「泥棒」をしなければやっていけない世界を改めるためには、「泥棒」を取り締まるより、「泥棒」をしなくてもやっていくことができる世界にすることを考えなければならない。そしてそれは、政治の世界が「泥棒」の世界であるとするならば、有権者の責任なんです。官憲に委ねるべきではない。それが民主主義というものだと思うのですね。

“泥棒はとにかく捕まえるべし”。こうした論理がまかり通った例は、世界を見渡せば「対テロ戦争」がその代表格。過去を振り返れば「オウム」でしょうか。それらの例を振り返ってみながら、今日、垂れ流されているマスコミ報道を距離を置いて眺める必要がある。それが成熟した大人の責務であると思うのです。

「無垢なもの」は商品化される?

当エントリーもdr.stoneflyさんの問題提起からの派生エントリーですが、かなりとりとめなく別方向へ話が進みます。

今回はいきなり具体例から入ります。 取り上げるのは、あの光市母子殺害事件の、被害者遺族。名前は有名でいまさら隠すこともないのですけど、何となく気が引けるのでM氏としておきます。そのM氏の、もっとも衝撃的だった会見です。あれは確か、“私が殺す”と言い放ったものだったと記憶しています。

前エントリーでの見方に従えば、M氏のあの会見は、果たして「告白」であったのか、それとも「正当化」であったのか?

私は「告白」であったと思っています。しかし、極めて特殊な「告白」であったと思う。というのも、通常「告白」が行われにくい環境であるメディアに対しての記者会見の場で、誰にも「内心の受容」を期待せず“無垢のまま”の「内心」をさらけ出したものだったからです。「告白」であれ「正当化」であれ、通常、「受容」が期待されるからこそ人は“語る”わけですから、何の「受容」も期待しない最初期の会見は衝撃的であり、異常でもありました。

もちろん、M氏が異常な状態になるのは無理からぬことで、それは当然「受容」されるべきことだと思います。ただ、当時私は、あの異常な会見が報道されたことに非常な違和感を抱いたものでした。Yahoo!の掲示板にだったと思いますが“あんな会見は報道してはダメだ。それよりM氏にカウンセリングを”といった趣旨の投稿をした覚えもあります。(当時はまだブログはなかったか、あっても私は知りませんでした。)

dr.stoneflyさんの問題提起のおかげで、今になって改めてあの会見のことを考え直していたわけですが、その中で思い浮かんだ言葉が「商品化」というものでした。あの会見でのM氏の「内心告白」は、「告白」する当人は「受容」を期待していなかったにも関わらず、社会は「受容」した。では、その「受容」の仕方はどうだったのか? と考えると、出てきた答えが「商品化」だったのです。そう考えると、私の当時の違和感にも説明がつくというもの。おそらく私は、“無垢なまま”の「内心」がメディアによって「商品」として取り扱われたことに違和感を覚えたのでしょう。そしてそれは、“無垢”であったがゆえに、貴重な「商品」として社会に「受容」されていった。

ここで私は、同時に別のことも考えました。「内心」とは人間の精神ですから、「商品」となったのは精神だということになる。人間の精神が「商品」になることは珍しくもないことですが、では、精神の対極である身体が「商品」となることは? それも“無垢”であるがゆえに商品価値が高まるというようなことはあるのか? 

そう疑問を持つと、答えはすぐに思い浮かんできました。男である私にとって“無垢な身体”という言葉からすぐに思い浮かぶのは女性の裸体です。女性の裸体には高い商品価値があることに何の抵抗もなく同意すると同時に、その“無垢な身体”を「商品」として取り扱うことに違和感も感じる。この違和感は、M氏の会見のとき同じ種類のものです。

さらに考えを進めてみます。「内心の表現」すなわち精神的側面にある「告白」=【private】志向、「正当化」=【pubulic】志向と同様の志向性が身体にもあるのか? このことは、私自身の本能に問い合わせてみれば(?)答えはすぎに出てきます。“ある”です。

「無垢な身体」に「告白」を感じる状況。それは“「わたし」と「あなた」”という状況でしょう。逆に「無垢な身体」が「正当化」として受け止められる状況は、「わたし」は不特定多数の中のひとりであり、「無垢な身体」がその無垢性を強調しているような状況、つまり「無垢な身体」の持ち主が自身の身体を「商品」として取り扱っている状況。

このように考えていくと、精神でも身体でも「無垢なもの」は、それが不特定多数の前に曝されると、つまり「公」の場に出されると、どうしても「商品化」されてしまう傾向があるのではないかと考えられるようになります。(M氏の場合、彼自身は決して自身の「内心」が「商品」として取り扱われるとは思っていなかったでしょう。「商品」として取り扱われるか否かは、自身の意志とは関係がないようです。)

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とりとめなく話を進めてきてしまったので、今までの話と、それからもともとの発端であった民主主義の原則という話と、なんとなく関係がありそうな話を他所様からお借りして、当エントリーを締めたいと思います。お借りするのは毎度の、内田樹氏です。

身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない

「誰にも迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」と言って、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。
 彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。
 なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。
 そのことはわきまえていた方がいいと思う。
 勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。
 自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。
 そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。
 自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。
 例えば、「悪い場所」に近づくと人間の身体はその場所が発する「痛気」を感知する。そこに踏み込むと自分が汚れたり、損なわれたり、リスクが高いということが身体には分かる。
 しかし、自分の身体に敬意を持たない人間は、身体が危険信号をいくら送っても、それが感知でさない。感知しても無視する。
 病気になる人、特に精神的に苦しんでいる人の住居はたいてい「悪い場所」にある。
 不動産屋で部屋を探しているときに、駅から近くて、日当たりがよくて、買い物が便利で、家賃か安くて……だけど、「住みたくない家」というのにときどき出会うことがある。どこが気に入らないのかと問いつめられても、うまく答えられない。でも、「何だかいやな感じ」がする。こういう感じは、分かる人には分かるし、分からない人には分からない。
 こういうときに「家賃の安さ」が予期させる利便と、身体が感知している不快を比べて、後者を優先させる人が「身体を丁寧に扱う人」である。身体の判断を脳の判断よりも優先させる人、それが「身体を丁寧に扱う人」である。
 セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。
 身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体殿損を「快楽」として享受するのは脳である。
 売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。
 冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。
 メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。
 繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。
 それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。私はそういうふうに思っている(脳は徹底的に自己中心的な臓器であって、自分以外の臓器や身体部位の保全や健康をまったく斟酌しない)。
 自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か(休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。
 身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。
 自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。
 自分に敬意を払う、というのはそういうことである。
 よくテレビドラマで見るように、「何だ君は、失敬な! 私を誰だと思っているんだ!」と怒鳴り散らすことではない。
 私たちが「失敬」な態度をとるのは、自分で自分を軽んじ、自分に対する敬意を忘れて生きてきた人間に対してだけである。

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内心について~「告白」と「正当化」

「内心」っていったい、何なんでしょうね? “困ったことになった”と自分自身に呟きつつ、困っていることを喜んでいる私がいまここにいます(苦笑)

「困る」と「喜ぶ」は言葉にしてしまうと相矛盾するようですけれども、でも、どちらも私の「内心」であることは間違いないんです。私の「内心」のなかでは“困っている”と“喜んでいる”は少しも矛盾しない。矛盾は「内心」にあるのではなくて、「内心」を表現しようとする行為のさなかに発生する――なんてことを内心で考えつつ、エントリーを書いています。

具体的に話をします。“困ったこと”になったのはdr.stoneflyさんのところで議論に首を突っ込んだからです。“喜んでいる”理由もまた同じ。

『「内心を語るな」…と、言われてもなぁ~ 』
『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』

いま、“議論に首を突っ込んだ”と書きましたけど、あそこでいろいろな方向に展開されている意見陳述にいちいち絡むつもりは毛頭ありません。dr.stoneflyさんの問題提起を自分でも考えてみようと思った。その結果がこのエントリーというわけです。

で、その問題提起とは何なのか? 私に与えられた(期待された?)のは「内心と民主主義」というテーマですが、ここでは一旦そこから離れて、「内心」が表現されるときの志向性――と書くと、またいつもの愚樵節になるのだなとお思いでしょうが――について考えてみたいと思います。

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この話は、まず私自身の過去のエントリーを参照することから始めます。

『【private】志向、【pubulic】志向』

この過去エントリーでは、次のような図を掲げました。

知情意

この図で示した【private】志向・【pubulic】志向は、当エントリーのタイトルで示した「告白」・「正当化」にそれぞれ対応します。そして、dr.stoneflyさんのところでコメントした「個」を【personal】、「公」を【pubulic】、また【private】を「私」として、図を少し修正します。

告白と正当化
(dr.stoneflyさんのところのコメントで表記した「個→個」は、ここでは「個→私」という表記に改めることにします。)

(「個」と「私」の区別が語彙からはつきにくいかと思いますが、「個」=個的領域・「私」=私的領域、と表現すれば少しは掴みやすいでしょうか? 「個」はあくまで個人ひとり、「私」は典型的な例として家族を思い浮かべてください。)

さて、「個」「私」「公」の三要素のうち、「内心」は「個」にあたります。そしてその志向性には、【private】志向(=「告白」)と【pubulic】志向(=「正当化」)の二種類があることになります。

この2つの志向性の違いの説明は、話を具体化した方が良いでしょう。dr.stoneflyさんのところでは、「過去に従軍慰安婦を強いられた女性の気持ちの激白」という例があげられていましたので、これをお借りすることにします。

この「激白」が“過去に従軍慰安婦を強いられた女性”という「個」からの「内心表現」であることに疑いはありません。問題は、それがどちらを志向していたか、「告白」であったか「正当化」であったか、ということになります。

「告白」「正当化」の違いもわかりにくいかもしれません。「激白」すなわち「告白」ではないのかと思われる方も多いでしょう。客観的に観察される現象としては、「激白」も「告白」も同じものです。その視点から見ればこの両者の違いは、現象を言語化したときに選択した語句のちがいでしかないということになります。ですが、私が「告白」「正当化」あるいは【private】志向【pubulic】志向と言っているときの視点は、そうではないのです。

ここで扱っている問題は「内心」です。「内心」を扱っているのに客観的に観察される現象を見ていても仕方がありません。視線はあくまで「内心」を発する「個」の内側に向けられなければならない。「告白」「正当化」とは、「内心表現」時の「個」の“姿勢”“構え”のことを言っているのです。

もう少し踏み込んでみましょう。例えば今、「あなた」の目の前に過去の酷い体験から心に傷を負った女性がいるとします。「あなた」はその女性の話を聞いている、つまり内心表現」を受け止めている。このときの女性の“構え”、あるいは「あなたの受け止め」の“構え”は、いついかなる状況においても同じでしょうか?

「あなた」と女性の二人だけという状況と、「あなた」は女性の話を聞いている不特定多数のひとりという状況とでは、「あなた」も女性も、“構え”は異なるはずです。私は前者の“構え”に「告白」、後者に「正当化」と言葉を当てはめてみたのです。

(二人だけなら必ず「告白」、不特定多数となら必ず「正当化」だといっているわけではありません。問題はあくまで「個」の“構え”ですから、一般的にはそういったことが言えるだろう、そこから「個」の“構え”を推測できるだろうということで、「例」を示しているに過ぎません。)

「告白」のとき、女性が「あなた」に対して示す“構え”あるいは“姿勢”は、“過去の体験で心に傷を負った私自身(=「告白」している女性)を受け入れて欲しい”というものでしょう。
(若い男女の間で単に「告白」というときは、こうした“構え”――心に傷を負ったか負わないかに関係なく「私自身」の受容を求める――を指すのが一般的なようです。つまり「愛の告白」ですね。)

対して「正当化」の時の“構え”は、“過去の体験で私が心に傷を負ったことは致し方ない、当然である”となるでしょう。そしてこのときには必ず「正当化」のための根拠が持ち出されてきます。現代ではそれは、民主主義が普遍的な思想となっていることから基本的人権となるか、あるいは科学思想から“科学的か否か”ということになるか、どちらかがほとんどでしょう。
(他にもその根拠なり得るのは、身分・性別・肌の色・民族・信仰する宗教etc、さまざまあります。)

BASIC INVESTMENT

今日はごく短く。ベーシックインカムについて。

私はベーシックインカムの構想に、基本的には賛同しながら若干の違和感を覚えていました。

その違和感の元は、「基本収入」という発想に労働者に支払う人件費を「コスト」だと見なす論理が混ざり込んでいること。そう気が付きました。

ですので、「BASIC INCOME」という発想と名称は訂正すべきだと考えます。「BASIC INVESTMENT」、「基本投資」とするべきでしょう。


この発想の根本にあるのは、

「生きているということ、ただそれだけで立派な仕事であり贈与である」

という視点です。この視点がなぜ「基本投資」となるかについては『近代的理性との訣別』シリーズで長々と触れてみたいと思いますが、簡単に少しだけ。

幼い子どもにできるのは、「ただ生きていることだけ」です。親は社会から収入を得て子を養うわけですが、親のその行為は投資だと見なすことが出来ます。しかも、親は必ずしも合理的(親自身の利益を最大化すること)を基準に投資するわけではありません。むしろ子の利益を最大化することを目的に投資を行います。

「基本投資」とは、親が子に対して行う投資を社会全体で行うべし、というものです。社会とって子とは、社会の成員ひとり一人ということになりますから、老い先短い老人だって当然、余命幾ばくもない病人だって、当然投資の対象となります。

近代的理性との訣別(4)

恥ずかしげもなく第4弾。

科学

第3弾の締めくくりは“「期待の合理化」が起こる別の例を示す”ということでした。そして、第4弾のサブタイトルは「科学」です。そう、“別の例”とは科学のことです。当エントリーは、科学を自律的理性と他律的理性の図式で語ってみたいと思います。

話をまずここから始めたいと思います。

天動説・概要

2世紀にクラウディオス・プトレマイオスによって体系化された。地動説に対義する学説である。地球が宇宙の中心にあるという地球中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory) (=地球を中心とした構造模型)」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される(しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観のすべてが天動説であると誤解されることが多い)。13世紀から17世紀頃までは、カトリック教会公認の世界観だった。

古代、多くの学者が宇宙の構造について考えを述べた。古代ギリシャでは、アリストテレスやエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。

それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのがプトレマイオスである。ヒッパルコスの説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、惑星の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的にすべてを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、プトレマイオスの天動説とも呼ばれる。

天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを公転する。しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。恒星は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。

天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。すべての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世キリスト教神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観とみなされていた。14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球のまわりを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。

更に天動説は、当時においては観測事実との整合性においても地動説より優位に立っていた。すなわち、もし地動説が本当であれば、恒星には年周視差が観測されるはずである。しかし、当時の技術ではそのようなものは見当たらなかった。

wikipedia 天動説 より 文中の下線強調は愚樵


天動説は、今日では非科学的な学説の代表選手としてあげられるものです。しかし、私は天動説を非科学とすることには若干異論があります。科学を「期待の合理化」であると考えるならば、実は天動説も立派に科学であるといえるのです。

では、それはどういう理路によるものか? 

“天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。”

引用でも強調しましたが、ここが重要な部分です。この文章を「期待」という言葉を使って言い換えますと、次のようになります。 ”天動説は、当時の哲学や思想が求めていた「期待」に沿った天文学上の計算方法である。”

当時の「期待」とは、“地球が宇宙の中心である”という「期待」です。中世ヨーロッパを支配したカトリック教会の「期待」は、もっと具体的にイエス・キリストがこの世に生を受けた場所が宇宙の中心である”という「期待」。天動説は、この「期待」を具体的に体系づける学説、すなわち「期待を合理化」する学説であった、というわけです。

天動説に対抗する学説、地動説を唱えたのがコペルニクスだということはよく知られた事実ですが、しかし、コペルニクスは当時の「期待」に反することを怖れていた人物でもありました。

・・・
迫害を恐れた彼は、主著『天体の回転について』の出版を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。

「天体の回転について」とローマ教皇庁

1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天体の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。

wikipedia コペルニクス より 文中の下線強調は愚樵


要するに“「期待」を否定するものでありません”という条件付きで閲覧が認められた、ということです。当時の「期待」を真っ向から否定するのは、ガリレオの役回りということになります。

そのガリレオについては、こちらを取り上げてみます。

物理学

ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。

ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている[1]。 この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(Viviani )の創作で、実際には行われていない、とされる。

実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。

アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。

wikipedia ガリレオ より 文中の下線強調は愚樵


ガリレオはカトリック教会の「期待」を否定しただけではなくて、アリストテレスの自然哲学の「期待」をも否定しました。“重たいものほど早く落下する”というのが、アリストテレスの「期待」です。

しかし、この「期待」はアリストテレスだけが持つものではありません。人なら誰しもが同様の期待をもつ。体積が同じである鉄の玉と木の玉を持ち比べれば、誰だって比重の大きな鉄の玉の方により大きな力を感じます。「大きな力」→「大きな速度」と「期待」するのは、人の持つ感覚装置の作りからすれば自然なことではあるのです。みんなが「期待」を共有したために“物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しない”という「赤信号」は見落とされ、「期待の合理化」がおきた。そしてその「合理化」によって困る人はいなかった、つまり「赤信号」に恐怖を感じる人はいなかった。だから、アリストテレスの「期待」は長らく否定されることがなかったのです。

その事情は天動説でも同じで、カトリック教会の「期待」を「合理化」しても誰も困る者はいなかったのです。

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さて、話を冒頭に戻します。私は当エントリーの冒頭で、“科学は「期待の合理化」”だと言いました。そう言いながらその後示したのは、コペルニクスとガリレオがそれぞれカトリック教会とアリストテレスの「期待」を打ち破ったということでした。

コペルニクスとガリレオが「期待」を打ち破ることが出来たのは、この2人が示したのが「事実」であったからだ―― というのが一般的な科学観でしょう。それはその通りです。が、科学は誰もがご存知の通り、コペルニクスとガリレオで終わったわけではありません。その先もずっと進化を続け、今もその歩みは留まることを知りません。その、科学を進化させる要因が「期待」。なぜそうなるかというと、示された「事実」は完全ではなく未完成の「事実」だからです。未完成であるからそこ「期待」が生れ、「期待」が科学を進化させるのです。

コペルニクスとガリレオが示した「事実」は、ニュートンによってひとつの「期待」として体系づけられました。すなわち万有引力の法則です。

万有引力

万有引力(ばんゆういんりょく、universal gravitation)は、重力の一種で、質量を持つ物質・エネルギーなどが互いに引き合う引力である。

自然界に存在する基本的な力であり、アイザック・ニュートンがその普遍的法則を解明した。俗にニュートンが重力を発見したというのは間違い。電磁気力では引力と斥力があるのに対し、重力(万有引力)では引力しか存在しない。

重力と呼ぶ場合には、質量に加速度を与える力全般を意味する。重力には、地球自転の遠心力のような慣性の力や、一般相対論で予言される慣性系の引きずりによりる力も含まれるが、それらは万有引力ではない。

重力(または重力相互作用)の正体は、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論によって、質量を持つ物体が引き起こす時空の歪みであると説明された。これに対して、'万有引力'という用語は、ニュートンの定式化した重力の意味で用いられる傾向にある。ニュートンの万有引力の法則は、自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)においてニュートンが説明している。

ニュートン力学と重力

ニュートンは、太陽を公転する地球の運動や木星の衛星の運動を統一して説明することを試み、ケプラーの法則に、運動方程式を適用することで、万有引力の法則(逆2乗の法則)を発見した。これは、『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』という法則で、力そのものは、瞬時すなわち無限大の速度で伝わると考えた。式で表すと、万有引力の大きさFは、物体の質量をM,m、物体間の距離をrとして、・・・

wikipedia 万有引力 より 文中の下線強調は愚樵


万有引力は“自然界に存在する基本的な力であり、アイザック・ニュートンがその普遍的法則を解明した”。

この記述が正しいことを今日の私たちは知っていますが、同時にニュートンの解明が100%正しかったわけではないことも知っています。その100%でなかった部分がここ。

“力そのものは、瞬時すなわち無限大の速度で伝わると考えた。”

ここは後にアインシュタインによって、力の伝達速度も光の速度と同じであると訂正されました。ニュートンが想定した宇宙は「絶対空間・絶対時間」の均一な無限空間だったわけですけれども、この想定がニュートンの「期待」でしかなかったことは、アインシュタイン後の世界に生きている私たちにとっては既知の事実です。すなわち、ニュートンの「期待」を打ち破ったのがアインシュタインの相対性理論だったというわけです。

アインシュタインの相対性理論が発表される直前の物理学は、ニュートンの「期待」を実現させようと様々な仮説が唱えられていたようです。その代表が「エーテル」でしょうか。

カトリック教会の「期待」をコペルニクスとガリレオが打ち破ったのと同様に、ニュートンの「期待」はアインシュタインが打ち破った。カトリック教会の「期待を合理化」したのがプトレマイオスの天動説であったとするならば、19世紀後半の物理学の世界で探し求められたエーテルもまた「期待の合理化」だったと言ってよいはずです。そして、エーテルの探求は立派に科学的な行為です。迷信に基づいた非科学的な行為であったとの主張は誤りだとして退けられることでしょう。だとするならば、地動説も立派に科学的な学説であったといえるのではありますまいか?

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再び話を元に戻しましょう。

これまで見たとおり、“科学は「期待の合理化」である”とするならば、天動説も立派に科学ということができます。しかしその過程で同時に見えてきたのは、「期待の合理化」だけが科学ではないということでもあります。科学は「期待の合理化」と「期待の打破」の相互作用によって進歩するものだということです。その進歩はもちろん、現在も継続中でしょう。

そういえば最近、宇宙論の進歩について下記のようなニュースがありました。

謎の2粒子は正体同じ!?阪大教授が新宇宙理論

 ノーベル賞を受賞した南部陽一郎博士の理論からその存在が予測されたヒッグス粒子が、宇宙を満たす謎の暗黒物質(ダークマター)と同じものであるという新理論を、大阪大の細谷裕教授がまとめた。

 “二つの粒子”は、物理学の最重要テーマで、世界中で発見を競っている。暗黒物質は安定していて壊れないが、ヒッグスは現在の「標準理論」ではすぐに壊れるとされており、新理論はこれまでの定説を覆す。証明されれば宇宙は私たちの感覚を超えて5次元以上あることになり、宇宙観を大きく変える。

 ヒッグスは、質量の起源とされ、普段は姿を現さないが、他の粒子の動きを妨げることで、質量が生まれるとされる。一方、衛星の観測などから宇宙は、光を出さず安定した暗黒物質で満ちていると予想されている。細谷教授は、宇宙が時間と空間の4次元ではなく、5次元以上であると考え、様々な粒子が力を及ぼしあう理論を考えた。その結果「ヒッグスは崩壊せず、電荷を持たない安定した存在」となった。

 欧州にある世界最大の加速器(LHC)では最大の課題としてヒッグスの検出実験が行われる。ヒッグスが不安定なら、崩壊時に観測が可能だが、細谷理論のように安定だと観測できない。ただ、新たな実験手法で検証は可能という。

 一方、暗黒物質候補も09年末、「発見の可能性」が報告されたが、細谷理論と矛盾しないという。

 細谷教授は昨年8月に欧州の物理学誌に新理論を発表。秋に来日した南部博士にも説明した。南部博士は「今まで誰も気づかなかった見方で、十分あり得る」と評価したという。

2010年1月5日の読売新聞 より 文中の下線強調は愚樵


ダークマターだのヒッグス粒子だのといった内容は私にはさっぱりわかりません。が、下線を引いた南部博士の言葉は“科学は「期待の合理化」+「期待の打破」”だということが伺えます。すなわち、細谷教授の新理論は「期待の打破」となるかもしれない、ということです。“今まで誰も気づかなかった”というのは、“新しい「期待」”だということに他ならないわけですから。

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さて、かなり長々と続けてまいりましたが、未だに自律的理性・他律的理性の話には至りませんでした。続きは第5弾に回すことにしまして、第4弾はこれにて一旦切り上げることにします。

近代的理性との訣別(3)

恥ずかしながら第三弾

本当は怖い“赤信号みんなで渡れば怖くない”

赤信号みんなで渡れば怖くない

悪いことも大人数がやっていれば自分一人だけ酷い目に遭わないだろうという甘え

(はてなキーワードより)

第2弾と話の方向性が違うように思われるかもしれませんが、このコトワザ(?)は他律的理性の在り方とよく似ています。今回は、そんなところから話を始めたいと思います。

第二弾で私は、他律的理性を“「私」を埒外に置く「私」の理性”だと言いました。“赤信号~”のコトワザが理性的かどうかはとりあえずおくとしても、構造としては他律的理性とこのコトワザは同じものを持っています。
その鍵になるのが「みんな」という言葉。日本語の「みんな」という言葉はたいへん微妙なもので、全員を指し示すよういて必ずしもそうではない。「みんな」という言葉は意味がブレる不思議な言葉なんですが、このコトワザはその微妙な意味のブレを上手く利用したものなんです。

具体的に見てみましょう。まず、このコトワザの前提には、赤信号を怖がる「私」があります。「私」は赤信号を怖がりつつ、それでも赤信号を無視したいという「期待」も持っている。そういった矛盾した「私」です。

この「私」の矛盾を想像することは難しくないはずです。例えば車でドライブしていたとして、目の前の信号が青から黄に変るのを見たとします。もうすぐ赤に変化することは間違いないので、車を減速させて停止の準備に入る。これが普通です。

が、中にはアクセルを踏んで逆に加速する人もいます。褒められた行為ではありませんが、その心理は車のドライバーならよく理解できるでしょう。誰だって快適に走っているところを赤信号で停止させられたくはない。大半の人は赤信号の恐怖(事故に遭うとか警察に捕まるとか)を怖れて停止しますが、無視したいという「期待」も同時に持っている。これは普通の人間のごく普通の心理でしょう。

“赤信号みんなで渡れば怖くない”の「みんな」には、この矛盾した「私」が入っていないようで入っている。もう少し詳しく言いますと、単に“みんな”というだけの時には「私」は入っていないのですが、“みんなで渡れば怖くない”と言ったときには「私」は入っているのです。“怖くない”のは「私」も怖くない。文章の途中で「みんな」の意味がブレたのです。

“「みんな」の意味が途中でブレる”ということが納得頂けなければ、次のように考えていただいても構いません。まず、赤信号を怖がる「私」がいる。当初、「みんな」は“恐怖する「私」”の集合でしかありません。ところが、いつの間にか“みんなで渡れば怖くない”になってしまう。“怖くない”というのは、赤信号を無視したいという「期待」が恐怖を上回ったことを意味しますから、“恐怖する「私」”は「みんな」を介して“期待する「私」”に変化したことになる。こちらの解釈では、「みんな」は“ブレる”言葉ではなくて“ブレさせる”言葉ということになりますが、“ブレる”でもブレさせる”でも「みんな」が微妙な言葉であることには変わりありませんし、“赤信号みんなで渡れば怖くない”が「みんな」の微妙さをうまく使ったコトワザであることにも間違いはありません。

“意味がブレる”“意味をブレさせる”の説明のうち、“「私」を埒外に置く「私」の理性”と同じ説明になっているのは前者の方です。まず「私」が入っていない(=「私」を埒外に置いた)「みんな」があり、それがいつの間にか「私」も入った「みんな」(=「私」の理性)になっている。後者の説明は“「私」の恐怖がいつの間にか「期待」置き換わった”ということですが、恐怖する「私」とは自律的理性により眺めた「私」ですが(正確には恐怖と期待を抱える矛盾した「私」)、それが「みんな」が外部基準となって他律的理性へ変化した時には「期待」のみが残ることになる。私はこの変化を「期待の合理化」と呼びたいと思います。

すなわち“「私」を埒外に置く「私」の理性”である他律的理性は「期待を合理化」させる”のです。

さて、ここで話を始めに戻しまして、“赤信号みんなで渡れば怖くない”は理性的ではないというところに触れてみたいと思います。

このコトワザが理性的でない理由は2つ。その1は、そうはいっても「私」は恐怖を捨てきれないからです。交通事故の恐怖、警察に捕まる恐怖、これらの恐怖は“赤信号みんなで渡れば怖くない”と言ってみても逃れられるものではありません。「みんな」は捕まらないかもしれない、「みんな」は事故に遭わないかもしれないが、「私」は捕まるかもしれない事故に遭うかもしれない。人間誰しもそう考えることからなかなか逃れられない。

その2は、本当は“赤信号みんなで渡れば怖くない”からです。もし本当に“赤信号みんなで渡れば怖くない”がまかり通ったらどのようなことになるか? 交通ルールは霧散して警察に捕まることはなくなるかもしれないが、安全に車を運転することが非常に難しくなる。交差点でいつ誰が飛び出してくるか予測を付けることが不可能になってしまい、車の運転はそれこそ命懸けのものになってしまいます。そんな状態は誰もが望まないでしょう。

以上2つの理由から、“赤信号みんなで渡れば怖くない”はパロディと捉えられるか、もしくは「甘え」と見なされる。つまり理性的ではないと判断されるのです。

ですが、このことは他律的理性による「期待の合理化」が起こらないということを意味しているわけではありません。恐怖などによる歯止めが掛からない場合には、「期待の合理化」は起こります。第2弾で示した供給曲線の話も「期待の合理化」の一例です。

次の第4弾では、「期待の合理化」が起こる別の例を示してみたいと思います。

キメラな労働観

力みかえったタイトルもなんだか恥ずかしくなってきたので(笑)...、少し別のタイトルで。

昨年末の『人間はどうして仕事をするのか』で私は、仕事と稼ぎの話をしました。そこで示したのは、日本人のもともとの労働観においては仕事と稼ぎは別次元のものである、ということでした。

しかし、現在の社会で支配的な近代的労働観では、仕事と稼ぎとは別次元のものではありません。近代的労働観においては、仕事は労働とほぼ同意語であり、労働と稼ぎは同一次元にあるものだと捉えられている。つまり、稼ぎ=(金銭的)収入は、仕事=労働に比例する、というのが近代的労働観だいえるでしょう。

収入=〈比例定数〉×労働

という図式です。そして〈比例定数〉にあたるのが資格だとかスキルだとか、あるいは正社員だとか派遣だとかという要素。ですから現代人は、この〈比例定数〉を大きなものにするために正社員として採用されることを渇望し、あるいは自己投資などと称してスキルアップに勤しむことになります。

以上を踏まえた上で、産経新聞のはなはだ品格の低い記事を取り上げてみます。

“ごね得”許した「派遣村の品格」 費用は6千万円大幅超の見込み

 「不平を言えば融通が利く。みんな“ごね得”だと気付いている」。4日閉所した東京都の「公設派遣村」を出た男性(34)は“村”での生活をこう皮肉った。派遣村では開所以来、行政側と入所者の衝突が絶え間なく続いた。職員の口のきき方への不満に始まり、昼食代の現金支給を求める入所者…。当初、目的だったはずの就職相談は不調に終わり、職員は最後まで入所者への対応に右往左往した。

就労相談わずか1割

 都は3日夜、この日退所した833人のうち住居を見つけられなかった685人のため、4日以降の新たな宿泊先に400人分のカプセルホテルを用意。残りの入所者には、都の臨時宿泊施設を割り振ることを決めた。

 だが、いざこざはここでも起きた。入所者の1人は冷笑を浮かべて言う。

 「その夜も『なぜ全員がホテルに入れないのか』と騒いだら泊まれることになった」

 入所者の抗議と厚労省などの後押しで、都は決定を覆す。抗議の数時間後にはカプセルホテルを追加で借り上げた。「騒ぎが大きくなったので…」と職員は言葉少なに語るのみだ。

この1週間で本来の目的の就労・住宅相談に訪れた入所者はわずか1割。「正月休みに相談しても仕方ない。派遣村では一時金がもらえるとのうわさもあった。それ目当てで入った人も多い」との声も漏れた。

一方で、自力で社会復帰への第一歩を踏み出した入所者も。退所を選んだ男性(67)は「入所中に友人の会社に就職が決まり、社宅に住めることになった。年末年始に泊めてもらって感謝している。食事もおいしかった」と語った。

 だが、この男性のように新たな職や住居が決まったのは少数だ。利用者数は当初の想定を超え、約6000万円と考えられていた費用も大幅に膨らむ見込み。費用はすべて国の負担で、都の幹部は「結局、政治のため」とぼやいた。

 http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100104/biz1001042246045-n1.htm

派遣村に滞在した人たちは、上記の図式でいうと、〈比例定数〉が0となった人たちです。「派遣村」の名称は、“派遣切りに遭った人たちの村”ということですから、その意味通りに解釈するならば〈比例定数〉が0でよいはず。〈比例定数〉が0となってしまった結果、収入が0となり、派遣村へ駆け込む羽目に陥ってしまった、ということです。

ところがこの産経記事の目線は違います。この目線は〈比例定数〉=0ではなくて、労働=0と捉えるところから出てきています。労働が0だから収入が0であり、さらに労働をしない者は人間としての資格もないという目線。“働かざる者食うべからず”というわけですが、そこが根っこにあるからこそ“ごね得”などといった表現が出てくるのしょう。
(“ごねる”などという品格のない表現が使われていますが、“ごねる”というのは誰もが行う合理的な行動です。)

これはしかし、奇妙な労働観・人間観です。確かに日本では、“働かざるもの食うべからず”という感覚には根強いものがあります。この理由はもともとの日本人の労働観、仕事と稼ぎとを別次元で捉える労働観にあるわけで、「働く」というのは仕事のことです。仕事とは共同体を維持するための贈与のことであり、共同体成員からの贈与がないと共同体は維持できないという現実があった。なので、実は、この贈与は義務でもあったわけです。義務であるということは、幾度となく義務を果たす機会は提供されるわけで、かつての村落共同体では、そうした機会は幾らもあった。それでもその義務に違反する者は“食うべからず”、共同体の成員として認めないというのは当然の成り行きであり、また、稼ぎだけしかしない者が村八分の憂き目にあうだろうということは、現代の日本人でもなんとなく想像がつくことです。
(贈与が義務なのは、何も日本だけに限りません。多くの宗教で贈与は義務とされています。)

税金の無駄遣いを“心配”する心根には、国家を共同体だとみなす心情があるのでしょう。税金とは、見方によっては国家による搾取ですが、別の見方をすれば国家への国民からの贈与だともいえます。国家が国民からの贈与なしでは成り立たないという意味では、国家もまた共同体であることに間違いはない。ですが、共同体であるなら、成員に義務を果たす機会を提供する義務もまたあるのです。すなわち〈比例定数〉を0にしないよう、共同体である国家に義務がある。正月に就職相談なんて、それこそ政治的以外のなにものでもありません。誰が考えても非効率です(政治的理由により非効率な労働に勤しまなければならなかった都職員の方々は、気の毒です)。

〈比例定数〉ですら自己投資と称する労働の関数だとする考え方は、近代的労働観が行きすぎて歪んだものでしかありません。〈比例定数〉は社会的に定まるもので、当人の努力だけがその要因ではありませんし、ありえません。そうした歪みと、もともとの日本的労働観・人間観とが奇妙に結びついてしまったのが、上掲記事の目線の土台となったキメラな労働観でしょう。

近代的理性との訣別(2)

力の入ったエントリーの第2弾(笑)

マーケット・メカニズムの「風景」

端的に下の図がマーケットメカニズムだと言っていいでしょう。

マーケットメカニズム

需要曲線と供給曲線の交点(=均衡点)で価格が決定される。需要と供給が均衡する場をマーケット(市場・しじょう)と呼び、マーケットで決定された価格は合理的であるとされる。経済学の根本原理ですが、この論理は先に述べた他律的理性(=近代的理性)の典型的なものです。このエントリーでは、自律的理性からマーケットメカニズムを眺めてみたいと思います。

自律的理性から眺めるマーケットメカニズムに「風景」を描写する前に、まず“自律的理性から眺める”ということがどういったことなのか説明する必要がありそうですが、その説明は少し難しい。いえ、言葉にしてしまえば要するに“「私」の目線で眺める”ということなのですけれども、たぶんこの説明ではピンとこないと思います。ですので、具体的に「風景」を描写することで、自律的理性とは一体どういうことを言っているのか、把握していただけたらと思います。

キーワードは「期待」です。

では、まず供給曲線を眺めてみます。

供給

財(物品)やサービスを提供しようとする経済活動。
生産者側の「売りたい」という意欲。 価格と供給量の関係を図示したのが供給曲線で、一般に右上がりの曲線である。これは価格が上がるほど供給量が増大することによる。

wikipedia『需要と供給』より

価格が上がるほど供給量が増大するのは、価格が高いほど生産者の利益が大きいから。利益が大きいと「期待」されれば、それだけ供給しようという意欲が増す。利益が大きいと「期待」できるなら生産供給への「意欲」が増すというのは一般的には言えることですから、供給曲線が価格の上昇につれて右肩上がりに描かれるのは「合理的」といえます。

が、この視点は、あくまで他律的理性によるものです。自律的理性によるならば、「風景」は違ったものになります。自律的理性では「期待」を理性的に眺めることになる。多くの者は「期待」に突き動かされて「意欲」を増大させるかもしれませんが、それはあくまで他人のこと。他人に同調して「私」も意欲を増大させるかどうかは別問題です。「私」には「期待」をどのように扱うか、選択する自由があります。

仮に「私」が価格が上昇しても利益は同じでよいと考えているとするなら、価格が上昇すればむしろ供給への意欲は減退することになります。供給量を増やすとなると労働量を増やさなければならない。労働量を増やすと労働時間が長くなり、自由に過ごせる時間が減ることになる。可処分所得より可処分時間の方が優先して考える人間ならば、価格の上昇が生産意欲の減退に繋がるのもまた合理的。「私」には可処分所得を優先するのか可処分時間を優先するのか、選択する自由がある。そう考えるのが自律的理性というものです。

ですから、自律的理性から供給曲線を眺めた「風景」は、供給曲線はあくまで「期待」の一般的なありかたというだけのこと。一般と「私」とは別次元の話だということです。そう思ってみると、右肩上がりの供給曲線を合理的だとする捉え方は、「私」を埒外に置くことによって成立しているということわかります。「私」を埒外に置く一方で供給曲線を合理的だと判断する「私」の理性がある。この理性のありかたを他律的理性と呼んでも間違いではないでしょう。

同じことは需要曲線についても言えます。需要曲線も自律的理性から眺めれば、価格が低いほど購買意欲が増すという一般的な「期待」のありかたを示す線でしかありません。「私」から眺めれば需要曲線が価格につれて右肩下がりに描かれることが合理的であるとは限らない。

以上のように眺めていくと、需要曲線と供給曲線の均衡点で価格が決まるという話は、決して合理的なものとは言えないということがおわかり頂けると思います。自律的理性からみたマーケットメカニズムの「風景」は、せいぜいが下のようなもので、そこには価格が合理的に決定されるという「均衡点」なるようなものを見出すことは出来ないのです。

マーケットメカニズム2
(図が汚くてすみません。私の持っているペイントソフトでは、ぼやけた曲線をうまく描くことは出来ませんでした。)

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