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愚慫空論

近代的理性との訣別(1)

のっけから力みかえったエントリーで申し訳ありません。
(そういえば昨年の冒頭も“理性に叛旗を翻す”でした(苦笑))

近代的理性とはなにか? いえ、その前に理性とは何か?

理性を言葉で定義づけるのは大変の難しい。私ごときがむやみに踏み込むと言葉の迷宮に迷い込むだけです。そこで敢えて(仕方なく?)単純にいきます。理性は“律すること”と定義しておきます。

一応参考までに、辞書で理性の意味を確認しておきましょう。Yahoo!の辞書で見てみるとつぎのように出ています。

1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。
2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。「―を失ってつっ走る」
3 カント哲学で、広義には先天的能力一般。狭義には悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力。理念の能力。
4 ヘーゲル哲学で、悟性が抽象的思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的思考の能力。
5 宇宙・人生をつかさどる基本原理。


これらの説明の中でもっとも端的なのは5でしょう。理性は基本原理で、その方向性は明瞭・統一。「理性的」の言葉にに対置されるのが「感情的」あるいは「本能的」であることとも考え合わせれば、理性というものを“明瞭・統一への根源的な意志”、すわなち“律すること”としても、さほど間違いではなかろうと考えます。

では、近代的理性とは? 「律」の文字から連想されるのは「自律」あるいは「他律」ですが、近代的理性とは、ずばり他律的理性であると私は考えます。理性という能力を擁する自分自身の外部に基準が存在すると考え、その外部基準によって自らを律すること。これが近代的理性の私の定義です。

外部基準とはいっても理性は“明瞭・統一への意志”ですから、外部基準も当然、統一的で明瞭であることが求められる。つまり体系的でなければならないということになります。自己の外部に体系的な基準を追い求める姿勢――合理的思考――から生まれるのが客観性の追究であり、その成果が科学です。

近代的理性の成果が科学であるならば、その成果は絶大だったといえるでしょう。今日の私たちの物質的に豊かな生活は科学のおかげ、ひいては近代的理性のおかげだと言っても間違いない。が、その成果が負の影響を広げつつあることも無視できません。現在では理性的であるということと科学的であるということがほぼ同義となってしまってい、理性というと他律的な近代的理性ということになってしまっている。自律的理性は、感情に近いものとして位置づけられるようにすらなっているように思えます。

いまや私たちは、理性的に行動することが物質的に豊かな生活を生み出しても、精神的な豊かさ――幸福――は導け出せないだせないことに気が付きつつある。にもかかわらず、理性の範疇から自律的理性を閉め出してしまったために理性的に幸福を追いかけることができなくなった。幸福は、個々人のごく感情的な自己満足といった捉え方をされるようになった。

しかし、私はそれは誤りだと思います。幸福は確かに感情的なものではありますが、それは決して非体系的なものではありません。感情は非合理ではない。そのように思えるのは、合理性の基準を外部においてしまうからです。基準を自己の内部におきさえすれば、感情は体系的であり合理的です。ですから幸福もまた体系的に追究することができる。ここが現在の私の立ち位置であり、『近代的理性との訣別』とはその立ち位置を表明したことに他なりません。

すなわち「自律的理性による幸福の体系的な追究」です。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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