愚慫空論

事業仕分けは参議院で

久々に政治について。

民主党行革刷新会議が行った「事業仕分け」。これが本来、国会の仕事なのではないのでしょうか?それも与党ではなく、野党の仕事。いや、そうではない。与党野党ではなく、衆議院か参議院かの仕分けの問題でしょう。「事業仕分け」は、参議院にこそ相応しい。

政治といえば、よく政局か政策かと言われます。先の衆院選でも、民主党がマニュフェストなる政策集を掲げて国民の支持を得た。政党が政策を掲げるのは、議会制民主主義としては当然のこと。

が、これまでは、政策というと、とにかく「実現」だったわけです。予算を費やして、新たに何かを実現する。それが多くの場合ハコモノとか道路とかだったりして、そうしたものを作ることが政治家の役割とされた。だから、選挙を経て選出された議員は地元選挙区で政策を「実現」しようとした。その政治の構造の在り方が長年の自民党政権という構造と結びついて制度疲労を起こしてしまい、それが限界に達しての民主党への政権交代というのが、現在の政治状況の大まかな流れでしょう。

新たに政権を担うことになった民主党は、それまで「実現」ばかりで硬直化してまった政治構造にメスをいれることを迫られた。政治が「実現」した制度を既得権益化して自らへの利益誘導を行っていたのが官僚組織。「事業仕分け」はそのことを白日の下に曝しました。

「事業仕分け」では、数多くの「廃止」が打ち出されました。この有様はマスメディア等にさながら劇場での出来事であるかのように取り上げられ、国民の支持を集めました。「廃止劇」は目新しいのです。これまで政治は、基本的な方向性は「実現」一本槍。政治劇場で上演されるのは、「実現」が叶うか叶わないかの、「政局劇」ばかりだったわけですから。

「事業仕分け」が示したのは、「廃止劇」も十分に鑑賞に値するという新たな認識でしょう。が、考えてみれば、「実現」も「廃止」も、どちらも国民から信認された国会議員の責務であるはず。今までは、その責務の一方しか果たしていなかったという、単にそれだけのことでしかありません。scrap and build の、build ばかりが政治の仕事としてのみ注目を浴び、scrap がおろそかになっていた。その結果としてのムダな公共事業であり、官僚組織を中心とした既得権益構造なのです。

民主党への政権交代は、これまで疎かになっていた「廃止」を行うものです。それを行政刷新会議という国会の外に設けられた「劇場」で上演している。これはいわば、政権交代を記念した野外劇場での臨時上演のような形です。が、この上演は本来、国会という常設劇場で行われるべきものです。そしてその場には、参議院が相応しい。もともとそれが参議院に期待されている役割だったはずです。

参議院での「廃止劇」上演が常設化することになれば、私たち有権者にも新たな楽しみが生まれることになります。「廃止劇」の主役である「仕分け人」を選挙で選ぶことが出来るようになるのです。衆議院では「実現のための政局劇」を、参議院では「廃止劇」を鑑賞する。これは決して贅沢な望みではありますまい。

関連記事:『新しい選挙制度の提案』

内田樹が贈与経済に言及した

内田樹氏が、とうとう贈与経済に言及しました。

『商品経済から贈与経済へ』(内田樹の研究室)

いま、つい“とうとう”と書いてしまいましたが、もしかしたら“やっと”か“ついに”の方がよかったかもしれません。言及したとは言っても、「またいずれ詳細に論じる機会があるであろう。」と、単に予告をしているだけなのですが。

私の見るところ、内田氏の「構え」は贈与的なのです。教育=贈与論もそうですが、それだけではありません。内田氏と直接面識のない私たちは氏を氏の著作で知るわけですが、その著作を氏は贈与だと考えているフシがある。貨幣と交換すべき商品だとは、(第一義的には)見なしていないように思うのです。

あ、まだ、“とうとう”の理由に触れていませんね。これも私の推測ですが、内田氏が社会に提言したいと考えていること、つまり贈与したいと考えていること、その本命が贈与経済なのではないのか、と私は思う。だから、“とうとう”なのです。

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争論 ~夫婦別姓は是か非か

夫婦別姓

上の画像は、昨日の新聞記事から頂きました。

正直なところ、私はこの問題には積極的に関わろうというつもりはありません。今回取り上げるのも、現在思索中の贈与とハラスメントに少し関連があると思うから。だだ、今回は別の視点から話をしたいと思っていますが。

夫婦別姓は是か非か。結論から言えば、私は夫婦別姓には賛成です。ただし、この賛成は大変に皮肉な賛成であるということを断わっておきます。

上の記事では、2人の論者がそれぞれ持論を展開しています。このおふたりの議論のどちらを支持するかといえば、私は左側、長谷川氏の方です。夫婦別姓に賛成なら右側の榊原しではないのかって? いえ、間違いなく左側です。だから皮肉な賛成なんです。
(どうでもいい話ですが、長谷川氏と榊原氏の配置は逆です。長谷川氏を右、榊原氏を左とすべきでしたね(笑))

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贈与とハラスメント

引き続き、贈与についてです。
贈与は It's my pleasure なんだと前エントリーで述べましたが、このことをもう少し考えてみます。

贈与が It's my pleasure であるというのは、贈与が贈与であるための2つの要件のうちのひとつです。2つの要件とはすなわち、表向きと裏向きでして、It's my pleasureは裏向きです。では表向きは何かというと、モノやサーヴィスの受け渡しが行われるということです。

ここにAとBのふたりの人物がいるとします。贈与の表向きの部分、AからBにノやサーヴィスが受け渡されることをA→→Bと書き表すとします(AB間でなされる等価交換はA←→Bとできます)。裏向きの部分は[A←→B]とします。そうしますと、贈与は

A→→B/[A←→B]

と書き表すことができます。スラッシュの左辺が表向き、右辺が裏向きです。

表向きのA→→Bについては特に説明を要しないでしょう。AからBに一方通行で受け渡されることの表記を一方向の矢印で示してある。ごく単純なものです。対して裏向き[A←→B]は双方向になっています。双方向であるがゆえに It's my pleasure となるのです。

裏向きとは贈与を為し為される者の内面、すなわち心理的な部分のことですが、贈与において、それが双方向であり、双方向であることが喜びであるということは、誰もが実感として知っているはずです。贈与と表記されると言葉が堅くてなかなか喜びのイメージが湧いてきにくいかもしれませんが、ごく普通にプレゼントと言えば、ここには同時に喜びのイメージが湧いてくることでしょう。人が他人にモノやサーヴィスをプレゼントするのは、贈る相手の喜びを喜びたいというのが、ごく普通の動機でしょう。「喜びを喜ぶ」のは双方向です。

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子どもは贈与

ここのところ贈与(と等価交換)について考えています。考えるだけ考えて、まだ上手くまとめきれずにいるのですが、そんなところへレヴィ=ストロースが死んだという報せが入ってきました。

レヴィ=ストロースといえば構造主義です。もちろん私ごときには構造主義について語ることができる何ものもないわけですが、レヴィ=ストロースが示した「親族の基本構造」「女の交換」といったところから構造主義という考え方が出発したというところくらいは、初歩的な知識として一応知ってはいます。

「女の交換」とは、つまりは女の贈与です。適齢期の男が別の親族から女を譲り受ける。その夫婦に娘が生まれると、今度はその娘を別の男に譲り渡すことになる。「交換」といっても相手も時期も違うわけで、ふつう「交換」と行ったときにイメージされる同時性は「女の交換」にはありません。

この「女の交換」は、近親相姦の禁止というタブーを守るためというのがレヴィ=ストロースの説明です。ですが、実は私は、以前からその説明にはどこか釈然としないものを感じていました。近親相姦の禁止のタブーは人類普遍的な原則であることは間違いないでしょう。そこに異を挟むつもりは毛頭ない。ただ、そういった「禁止」だけ、つまり消極的な理由だけで女性を贈与するというのがどうも感覚的にしっくりと来ない。

贈与とは、つまるところ It's my pleasure です。それはわが喜び。積極的なんです。人間は、自らの大切な者に与える喜びを獲得するために労苦を厭わない。それは、原始社会であろうが現代社会であろうが変わらないように思えます。では、女の贈与に何の喜びがあるというのか。父親が娘を他の男に譲るのが、原始社会では It's my pleasure だったというのでしょうか。ここがどうにもピンとこないのですね。

ところが最近、贈与についていろいろと考えている中でふと思いつきました。贈与(It's my pleasure)なのは、男同士の「女の交換」なのではなくて、子どもなのではないか。女が子を産み、その子を男へ贈与する。「女の交換(=女の贈与)」は、女から子どもを贈与してもらうための、贈与のための贈与なのではないのか。

男は子を生むことはできません。子は産めないが、子孫を残すことへの願望はもしかしたら女性以上かもしれない。男は、子孫を残すためには、女性に子どもを産んでもらうしかない。女性が子どもを産むことを「男への贈与」と捉えるのはオカシイと感じる向きを多いかと思いますが、大切なパートナーの子を産むことが女性にとって It's my pleasure であるというのであれば(そうだと信じますが)、それは贈与の要件のひとつを満たしていると言えるのではないでしょうか。

贈与のもうひとつの要件については、これを所有権の移転と考えれば、子どもの誕生は贈与の要件を満たしません。ですが、贈与を受ける側の状態が無から有へと変化すると考えれば、子の誕生も贈与の要件を満たすと考えることができるでしょう。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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