愚慫空論

来る衆院選~~誰に投票する? どこに投票する?

さてさて、大騒ぎの衆議院解散から総選挙でありますが。

わがまま放題の自分党と化した自民党が重くなり過ぎたエゴに耐えられず自重崩壊し、来る総選挙は民主党による政権奪取が確実視されています。私も有権者のひとりとして、この大きなうねりを現実のものとすべく与えられた投票権を行使する心づもりではあります。

けれども。では、現実に投票すべき選択肢を検討するとなると、いささかの困惑を覚えざるを得ないのですね。今日は、その困惑の中身について少し綴ってみたいと思います。

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〔信じる-疑う〕の水平性と垂直性

「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの有名な言葉で、私たちはこの言葉を違和感なく受け取りますが、この言葉には〔信じる-疑う〕ことの二重性――水平性と垂直性が端的に示されています。

「我思う」は思惟する我、〈疑う〉私です。そこに後半の「我あり」で、「〈疑う〉私を疑うことが出来ない」の意となりますが、これは言い換えれば「〈疑う〉私を(私は)《信じる》」となります。
(〔信じる-疑う〕ことの二重性は同時に「私」の二重性をも示します。)

前の〈信じる〉〈疑う〉を〔信じる-疑う〕ことの水平性、後ろの《信じる》《疑う》を〔信じる-疑う〕ことの垂直性と捉えると、下のように図示することができます。そして、「我思う、ゆえに我あり」とは、直交座標系になぞらえた図の第二象限だとすることができます。

信じる疑う

Ⅰ:〈信じる〉私を《信じる》――「愛」という言葉で表わされる精神。

Ⅱ:〈疑う〉私を《信じる》 ――近代合理精神

Ⅲ:〈疑う〉私を《疑う》  ――ニヒリズム

Ⅳ:〈信じる〉私を《疑う》 ――「憎悪」の精神状態。

近代という時代は、Ⅱの領域が肥大した時代であると同時に、Ⅱから転化したⅣも大きく拡大した時代でもあります。Ⅱの「〈疑う〉私を《信じる》においては、信じるに足るのは「私」――私の理性、私がアイデンティティを確立する集団、など――のみとなりがちで、そこへ陥ると〈信じる〉あなたを《疑う》、すなわちⅣの領域が拡大する。合理的精神の限界です。

他方、Ⅰの領域において、〈信じる〉私を《信じる》態度は、〈信じる〉あなたを《信じる》ことへと容易に結びついていきます。Ⅱの領域のように、他者である「あなた」を信じるのに、「あなた」を「私」の同一性によって支配する必要がない。絶対的他者である「あなた」――「私」の感覚装置によって捉えられ〈信じられる〉「あなた」――は、絶対的他者のままで《信じられる》。これが差異共振だと考えられます。

パトリオット=〈一次意思〉 ナショナリスト=〈二次意志〉

『ナショナリストとパトリオット』(内田樹の研究室)
パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。

彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。

(中略)

誰でも自己申告すれば、ナショナリストになれる。
そして、国民国家という巨大な集団に帰属する代償として、ナショナリストに求められるものは何もないのである。

〈一次意思〉〈二次意志〉については

『〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉』(愚樵空論)
『〈一次意思〉に善悪はない』(愚樵空論)

を参照してください。

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労働主義社会の実現は、案外簡単かも?

「労働主義」というのは、愚樵の造語です。それはすなわち、労働者が労働を商品として売らない自由が保障された社会であり、さらに進んで労働が資本よりも上位にある社会であり、現在の資本主義と対立する概念です。労働主義社会は労働価値説に立脚する社会ですが、共産主義、社会主義ではありません。あくまで自由主義経済です。

現在は起業家ブームだと言われていますが、労働主義社会は、労働者ひとり一人が起業家であるような社会でもあります。

資本主義社会を終焉させ、労働主義社会に移行するための方法は、2つ。

1.株式会社における株主の有限責任を排して、無限責任とすること。
2.労働者が合名会社や合資会社を容易に設立できるように、優遇政策を実施すること。

まず1.についてですが、そもそも株主は自らが投資した金額を上限にそれ以上の責任を負わないという有限責任という制度がおかしいのです。株式会社は、株主の所有物であるとされています。そうであるなら、株主の所有物が他者に与えた損害は、株主が全責任を負ってしかるべき。ごく単純な論理です。

株主有限責任の制度は、株主に極めて有利な制度です。このような制度は、産業革命時、生産の三要素である土地・労働力・資本のうち、資本が不足していて過小財であった時代には有効な制度であったかもしれません。しかし、現代はカネ余り、資本過多の時代。そんな時代に資本過小の時代の残滓を残しておく必要など全くないのです。

次に2.ついて。

『合名会社』(Wikipedia)
合名会社は機能資本家(出資をし、かつ経営にも参加する資本家)が結合する企業形態である。基本的な組織構造は民法上の組合とほぼ同じで、組合に関する規定が準用される。ただし、法人格を与えられることにより、団体そのものが権利能力を有し、取引の主体となることができる点が異なる。

ここには「機能資本家」という用語があり、出資をし、かつ経営にも参加すると資本家の視点から記述されていますが、労働者でありながら出資をしかつ経営にも参加するものであっても一向に構わないはずです。しかも規定では、資本金は1円で構いませんから、労働者は事実上出資しなくてもよい。資金はすべて借入金でスタートしても良いわけです。

労働者自身に高い付加価値のある労働を生み出す能力があると認知されていれば資金は集めることが出来るはずですし、また政策によってそうした労働者が容易に資金集めをできるように支援することも可能なはず。また株主の有限責任制度が廃止されれば、会社組織よりも労働者個人に投資を行うインセンティブも高まると考えられますから、高い技能をもつ労働者はよりいっそう資金を集めやすくなると考えられます。

労働主義社会では、資本主義社会のように経済活動において個人が有限責任しか負わないで済む制度は全面的に廃止されます。ですので、資本主義社会よりも徹底した自由主義でもある。ただしその分、社会保障はしっかり充実させる必要があります。

ベーシック・インカムの制度を整えることは無限責任を負って破産する者を救うと同時に、労働者が自ら責任を負って起業することを後押しすることになるでしょうから、ベーシック・インカムも2.の具体的な方法のひとつになると考えることが出来ます。またベーシック・インカムは、労働者に市場価値が高いとはいえない労働へ従事する自由も保障することにもなります。

ただし、この2つの手段で現在の社会経済が抱える問題をすべて解決するのは不可能でしょう。労働主義社会に移行することが出来たとしても、利子を取ることが基準になっている現在の貨幣制度を改めなければ解決できない問題は多々ありますし、なにより労働者が利子を取られる限りは、資本家よりも労働者の方が上位に立つことができません。

〔わがまま〕の闇について

私たちの素朴な感覚として、〔わがまま〕は良くないことだと思われています。

〔わがまま〕とは自分の利益だけを考えて他を省みないことですから、社会や共同体を構成する各人が〔わがまま〕な状態に陥ってしまうと、秩序が乱れて社会や共同体の利益が損なわれ、そのことによって各人の利益も損なわれる。崩壊の様相を呈している自民党が「自分党」などと揶揄されていますが、今の自民党がまさに〔わがまま〕の典型例といえるでしょう。

我が国の国民を代表する政治家たちが〔わがまま〕の見本を示してくれているというのは、悲しむべきか、笑うべきか、いずれにせよ好ましい状況ではないのですが、この自民党の例からもわかるとおり、〔わがまま〕は悪であり闇だとイメージされます。それゆえに〔わがまま〕は克服されるべきものと捉えられる。そして、〔わがまま〕を克服する「意志」(自制心とか「克己心)、あるいは「理性」といったものが〔わがまま〕の悪および闇のイメージと対立して、善あるいは光として捉えられることになる。

〔わがまま〕を巡っての捉え方は、こうした二項対立的な捉え方が現代では一般的であると言えるように思います。

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どちらも搾取

マルクスは生きている (平凡社新書 461)マルクスは生きている

不破 哲三
ご存知、前共産党委員長が著したマルクス本。わかりやすいと評判のようで、私も読んでみましたが。

マルクスは「剰余価値」の仕組みを発見した

 そういうなかで、資本主義的搾取の秘密を明快に解き明かしたのが、マルクスでした。マルクスが解明した内容を短い文章で説明するのは難しいのですが、理論だての様子だけでも見ていただければと思って、あらましの紹介を試みてみましょう。
 イ. マルクスがまず明らかにしたことは、労働者が資本家に売っていたのは、それまで思い込まれていたように、「労働」ではなくて、労働する能力、すなわち「労働力」だということでした。
 ロ. 「労働力」商品の価値は、ほかの商品と同じように、その商品の再生産の費用で決まります。再生産の費用とは、労働者が引き続き働けるという状態を維持する費用ということになりますから、労働者とその家族の生活費ということになります。
 ハ. 資本家は、買い入れた「労働力」を消費する、つまり自分の工場で働かせます。「労働力」商品はこれを働かせることで新しい価値を生み出すという、ほかの商品にはない特性を持っています。だから、ある時間働かせれば、賃金分の価値を生み出しますが、そこで仕事をやめさせる資本家はいません。必ず、賃金分に相当する時間をこえて、労働を続けさせます。その時間帯に生み出された価値は、まるまる資本家のものになります。これが、「剰余価値」です。
 この取引で、資本家は別にインチキをしているわけではありません。世間並みの生活費ではなく、もっと低い賃金をむりやり押しつける資本家は現実にはどこにもいますが、資本家が、市場経済の法則に従って、世間並みの生活ができるだけの賃金を支払っていたとしても、その分を埋め合わせるのに必要な労働は、1日の労働時間の一部分に過ぎません。それ以上の労働時間は剰余労働であり、資本家は、まちがいなく剰余労働を手に入れることができます。
これが、資本主義の搾取の仕組みです。
(80~82ページ)
とてもわかりやすいので、引用させてもらいました。資本主義社会では、資本家がインチキをしなくても労働者は搾取される構造になっているというわけです。
(私には、その構造はロ.の定義から導き出される構造に過ぎないような気がしますが。)

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労働を商品として売らない自由を保障する

労働を商品として売らない自由を保障する。早い話がベーシック・インカムであり、私が提唱する個人通貨です。

『労働者の商品化の果てに - 書評 - 大搾取!』(404 Blog Not Found)

この本は私も読んでみたいが、共産党員にも是非読んで欲しいと思います。
「資本家が労働者を再び搾取するようになったからだ」というのは確かに事実であり原因でもあるが、真因ではない。現代の搾取者たちは、自ら鞭をふるって強制労働させているわけではない。実際本書には「搾取の首魁」が何人か登場するが、彼らは気さくで温情的な紳士にしか見えず、残酷な奴隷商人の姿を見いだすことは難しい。実際に鞭をふるう者たちは確かにいるが、実は彼らすら奴隷であるという冷酷が現実がそこにある。

それでは、なぜ資本家は労働者を再び搾取できるようになったのか。

労働者たちが、それを許してしまった--それどころかそれを望んだ--からだ。

それでは、なぜ労働者たちがそれを望んだか?

労働者自身が、労働力を商品だと思い込んでいるからでしょう。自らの労働力は高く売り、他人の労働力は安く買う――高く売って安く買うのは、古今東西、いつの世でも商売の秘訣ですが、労働者が商売人になってしまったがゆえに、資本家という上手の商売人が労働者という下手な商売人を搾取することが出来るようになった。

では、労働者に労働を商品として売らない自由はあるのか? 

答えはわかりきっています。そんな自由があるのは、はじめから自由な人だけ。資本主義社会において「自由な人」とは「持てる者」、すなわちカネも土地も所有している人。労働力しか持っていない労働者に労働を商品として売らない自由などない。にもかかわらず、労働者自身がその自由を欲しない。労働者が欲するのは、あくまで自分自身の商品が高く売れることでしかない。労働者自身が資本主義的価値観に浸りきってしまっているのですね。

資本主義的労働観からすれば、ベーシック・インカムはただで商品をもらうことに他なりません。誰かがタダの商品の提供を受けるというのは、裏を返せば誰かがタダで提供するということであり、その 誰かとは国家あって労働力商品を売る労働者自身でもあるわけです。ですから、資本主義的労働観に立つ限り、ベーシック・インカムは肯定しようがない。不公平だとしか思えない。

でも、それは狭い考え方だとしか私には思えません。労働者が搾取されるようになってしまったのは、労働力を商品として売るしか選択肢がなくなったからだと理解すれば、労働力を商品として売らない自由を保障するベーシック・インカムは、資本主義的労働観に風穴を開ける現実的な仕組みになる。労働者に必要なのは、労働力を商品として売らなくても済む自由です。

ただし、資本主義的労働観を相対化させ、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するにはベーシック・インカムだけでは足りません。労働者ひとり一人が持っている労働力が、富へと変換させる場が必要。つまりは生産手段であり土地です。富は労働力と土地がなければ生産できませんから、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するためには、労働者に生産手段と土地を自由に使える権利も与えなければならない。

それを阻むのが所有権です。利用されていない土地も、所有権があるというだけで他人を排除できる。ここにも風穴を開けなければなりません。

ここまでの主張は、まるで共産主義ですね。しかし、ここから先が違います。

生産手段や土地は共有してはいけません。共有は自由を妨げます。共有を管理する者が結局は労働者の自由を奪います。必要なのは、土地や生産手段を利用する能力のない者(=資本家)が土地や生産手段を所有することを禁止する、ただそれだけのことです。国家が土地や生産手段を共有物として管理する必要など全くない。国家の役割は、土地や生産手段が労働者によって適切に利用されるルールを整えて遵守させるところまで。国家がそれ以上踏み出しはいけません。

労働者にとって必要な社会は、土地や生産手段が共有される社会などではありません。労働者が自らの労働力を、労働力を富に変換する手段も含めて自らのものとできる社会です。労働者に団結など全く必要はないのです。労働力を国家の共有とすることは、国家による労働者からの搾取に他なりません。

似~第二迷信さんの言葉

『似~メラーの言葉 』(ストップ !! 「第二迷信」 )

に触発されて。

マルチン・ニーメラー牧師の詩より。

 ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
 ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
 ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。


第二迷信さんの言葉

若者が、「星占い」に人生を託していた。
科学的根拠がないのは知っていたが、私は何も言わなかった。

 オッサンが「大安、仏滅、友引…」で行事の日取りを決めていた。
科学的根拠がないのは知っていたが、私は何も言わなかった。

 オバチャンが「水子のタタリ」を気にしていた。
科学的根拠がないのは知っていたが、私は何も言わなかった。

 視聴者が「占い師」の言うことを真に受けていた。
科学的根拠がないのは知っていたが、私は何も言わなかった。

 世の中がカルトに支配されそうになった。
私は声を上げたが、もう遅かった。


・・・・・・。

「星占い」に人生を託していた若者が、
科学的ではないと攻撃されていたが、私は星占いを信じなかったので何も言わなかった。

 「大安、仏滅、友引…」で行事の日取りを決めていたオッサンが、
科学的ではないと攻撃されていたが、私は大安、仏滅は信じないので私は何も言わなかった。

 「水子のタタリ」を気にしていたオバチャンが、
科学的ではないと攻撃されていたが、私は「水子のタタリ」は信じないので私は何も言わなかった。

 「占い師」の言うことを真に受けていた視聴者が、
科学的ではないと攻撃されていたが、私は「占い師」のいうことを信じないので何も言わなかった。

 世の中が科学に支配されそうになった。
科学に支配された世の中は、素晴らしい世の中なので私は声を上げなかった...否!

科学が世の中を支配するなんてことはありません。支配するのは科学を操る何者かです。その何者が世の中を支配するにたる人物であると考える根拠などなにもない。それにそもそも科学は人を支配するためのツールではない。科学が人を支配するためのツールとして使われるなら、科学もカルトと同じです。

「幸福実現」のイメージ

とある方が教えてくださいました。“記事の下のスペースに幸福実現党の広告が出てるよ”、と。

FC2ブログでは設定で消すことができるのだそうですし、せっかくの良心的なアドバイスですが、広告を消すのはやめておくことにします。なんといっても、私のような貧乏人がブログなど運営できるのもスポンサー様のおかげです。おカネの出所は問いません。また問われもしないでしょう。政治資金規正法が私に適用されることはないでしょうから(笑)

それに、幸福実現党の広告を消さなかったからといって、私を幸福実現党支持者だと見なす人もいないでしょう... ん? いやいや、幸福実現党の広告が存在していることを知っていながら敢えて消さないのは支持と同じだ――なんて論理を展開する人は、いなくはなさそうですね。臓器移植法のA案が通ったのを知っていながら拒否の申請をしないなら、臓器移植の意志を示したのと同じ、だとか?

...冗談はさておきまして、本題に入ります。本題は、「幸福実現党」という党名の、「幸福実現」という言葉から喚起されるイメージ。私はなぜか、この「幸福実現」という言葉に「強欲」を感じてしまうのです。

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Re:自説に対する覚悟はありますか?

『自説に対する覚悟はありますか? 』(お玉おばさんでもわかる 政治のお話)

お玉さんの問いかけにお答しておきます。コメント欄に書くには長くなり過ぎますので、エントリーにあげてTB。

自説を展開するのに、自信がなくてどうするのです? 「政治の話」でしょう? 市民が自信をもって政治をはじめとする権力機構にものを申すのが民主主義ではないのですか?

民主主義は強大な権力機構を抑えるために生まれた制度です。少し前に「卵と壁」という比喩がありましたが、壁とは権力機構のことであり、卵に相当する個人は、壁に容易に押しつぶされる。これは古今東西変わらぬ現実で、この現実に立ち向かうのが民主主義でしょう。自信がなくて立ち向かうことなど出来ようはずがない。

卵が壊れるのは、壁に押しつぶされたときだけはありません。卵同士が衝突したときにも壊れる。権力機構が強大な力を必要とするのは、卵同士の衝突――これがむやみやたらに起こるのが無秩序。アノミー――を抑える必要があるから。近代以前の社会では、皇帝や王といった存在がその役割を果たすとされて、その役割は神や天から与えられると考えられていました。王権神授説や徳治主義というのがそれです。

けれど民主主義はそういった思想とは違います。アノミーを抑える権力機構を抑えようというのが民主主義。卵を圧迫する壁を卵が制御しようとするのが民主主義です。自信のない卵に壁は制御できないし、また壊れやすい卵はなかなか自信を持つことが難しい。自信を持つことの難しさが民主主義の難しさでもあるのですね。

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愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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