FC2ブログ

愚慫空論

残り滓でしかない今の自民党、新しい枠組みを示せない護憲政党

マガジン9条の森達也氏のコラムから
 最初に断っておくと、僕は民主党にまったく期待してません。政権交代して民主党政権ができたとしても、いまの政治の枠組み自体が変わらない限りほとんど何も変わらないでしょう。
 正直、民主党っていまだによくわからないんです。その正体も、なにがやりたいのかも。よく言われることだけど、憲法や安全保障の問題にしても左右の両端が全部そろっている。護憲派には民主党が政権をとったら「改憲」へ一気に突き進むんじゃないかという危機感があるかもしれないけれど、それもわかりませんよね。そういうわからない政党に、あまり権力を与えたなくないって気持ちもあるんだけれど……。
 結局、民主党の中枢にいるのは元自民党の人たちで、その意味では自民党のコピーでしかない。周辺には面白い人もいると思うけれど、それは自民党も同じ。それに結局周辺だから、どうしても発言力は弱くなる。
このような意見は、「護憲派」と呼ばれる人たちの典型的な考えだと思います。

「政権交代しても、なにも変わらない」
「民主党はよくわからない」
「民主党は自民党のコピー」

これらの言葉は半分は当たっているけど、半分は間違えていると私は思います。物事の半分しか表わしていないということですね。で、もし、半分を全部と思っているなら、何もわかっていないのと同じ。いや、何も分かっていないのよりも質が悪いかもしれない。

続きを読む »

〈動的概念〉を提唱します

〈一次意思〉 = 〈概念〉を生み出す意思
〈概念〉   = 脳死、所有、貨幣...etc
〈二次意志〉 = 〈概念〉によって生み出される意志

〈動的概念〉とは、〈概念〉を生み出す〈一次意思〉が消滅すると同時に消滅する〈概念〉です。
〈二次意志〉を生み出さない〈概念〉であるとも言えます。

〈動的概念〉の理解には、「動的平衡」が参考になります。

『動的平衡』(Wikipedia)
動的平衡(どうてきへいこう)とは物理学・化学等では、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。
系と外界とはやはり平衡状態にあるか、または完全に隔離されている(孤立系)かである。なお、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、という言い方もできる。これにより他の分野でも動的平衡という言葉が拡大解釈されて使われるが、意味は正確には異なる。これについては他の意味の項を参照。

他の意味
動的平衡という用語は分野によっては、物理用語でいう平衡ではなく「定常状態」というべき場合に使うこともある。定常状態とは系が平衡状態にない外界と接している場合にのみ起こり、流れがあるが時間変化が見られない、すなわち系への出・入の速度が等しい状況をいう。
例えば、経済において資本のフローが一定であれば安定した市場が成立する。また生物(人)の出生率と死亡率が同じ場合には個体数(人口)は変化しない。経済学や生態学・人口学ではこれらの状況をそれぞれ動的平衡と呼んでいる。生物学でもエネルギーや物質の出入に関して動的平衡ということがある。
「ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない」という点では、これらを動的平衡のアナロジーとして理解できる。しかしこれらは物理的な意味での動的平衡ではなく、外界は平衡状態にない。資本の出入り、生物の生死や物質の出入は系外との流れとして直接観測できる。従ってこれらは定常状態と見るのが適切である。

続きを読む »

〈零次意志〉あるいは〈霊次意思〉

ここに貧しくお腹を空かせた人と、裕福で満ち足りた人がいるとします。

お腹を空かせた人は、食物を欲します。この欲求は〈一次意思〉です。

裕福な人は、自らが満ち足りているだけではなく豊富な食物を持っています。そして豊富な食物を自分だけでは食べきれず、大部分を腐らせ廃棄している。

今、裕福な人の前にお腹を空かせた人がいます。裕福な人の目の前には、無駄に廃棄されるしかない食物が積み上げられている。にもかかわらず、裕福な人はお腹を空かせた人に食物を提供することをしない。裕福な人は、好奇心から人が餓死する様子を知りたいが為に食物を提供しなかった――〈絶対悪〉です。

裕福な人の振る舞いは、相対的な善悪からは必ずしも悪とは言い切れない場合があります。すなわち、所有を善であると見なせば、自らの所有物である食物を他者に提供しないことは悪と見なすことは出来ません。もし仮に国家が裕福な人に対して貧しい人に食物を提供することを強制したとすれば、裕福な人は財産権の侵害だと叫ぶでしょう。なので国家は、裕福な人に提供を命令できず、貧しき人の救出を自らの責務とする以外はない。〈概念〉の産物である国家は裕福な人の〈絶対悪〉は問えないのです。

しかし、生命を有し〈一次意思〉を抱える個人には、裕福な人の〈絶対悪〉を見まごうことはありません。裕福な人が〈絶対悪〉に堕ちていることを識るのに、いかなる論理も必要としない。〈絶対悪〉は直観的に感じ取られます。

カルネアデスの舟板のような状況――ひとりしか生存できない――において、それぞれの〈一次意思〉に基づいて生存競争を繰り広げることは、善とも悪とも言えません。が、映画『タイタニック』で描かれていたように、男が愛する女に席を譲ることに私たちは絶対善を直観します。あるいは大人が子どもに席を譲ることに絶対の善を見ます。この善は、男も女も、あるいは大人も子どもも、互いに生き延びたいという〈一次意思〉を抱えていることを認めながらも、限定された環境のなかでより生存の可能性が高いことを理性的に選択したことによって感じ取られる善です。超越的意思をもつ個人の差異共振によって発揮された理性が絶対善を生み出す。男より女を、大人より子どもを理性が選択するのは、個人の思考が個人の枠を超えて、ふたりまたは一群の生命をひとつの生命と見なした上で、その生命がより長く生き延びる可能性を選ぶからです。こうした選択は、自暴自棄になり理性を放棄してしまっては得ることが出来ません。私たちが絶対善を感得し感動を得るのは、差異共振を求める意志によってです。

〈一次意思〉の差異共振を求める意志――これは「意志」とするか「意思」とするか迷うところです――は〈零次意志〉あるいは〈霊次意思)と表現することができるかもしれません。また〈零次〉が〈霊次〉であるなら〈一次〉は身体的であり〈二次〉は頭脳的ともいえるでしょう。身体的〈一次意思〉に善悪がない、また頭脳的〈二次意志〉がもちえるのが相対的善悪だというのも、あくまで直観的ですが、腑に落ちるものがあります。さらにいえば、〈零次〉〈霊次〉とは〈心身合一〉への意志であって絶対善であり、逆に〈心身合一〉を阻む意志が絶対悪となります。

参考:『Evil(道徳・倫理・法上の悪) or Malice (legal term)(事実の既知か不知か。認識上の善・悪)』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

なお、上掲の海舌さんのエントリーで示されている
また、ここで面白いのは、「知っていること」を「悪」と表記する慣習です。「無垢」を「純白」とプラス・イメージで捉えます。
 つまり、

  「知らない」→ +イメージ Bona Fide 善意 白 (潔白)
  「知っている」→ -イメージ Malice 悪意 黒 (腹黒い)

アダムとイブの物語でも、「知ること」に「罪」が関連付けられます
ですが、これは「純粋無垢」と〈心身合一〉とを重ね合わせてみれば理解できると思います。赤子の純粋無垢は心身未分化、すなわちいまだ〈合一〉の状態です。成長して「知ること」は心身の分離を促す、これは〈霊次〉においては悪です。

(私は「知ること」と「識ること」とをしばしば区別しますが、「識ること」は合一志向であり、「知ること」は分離志向と言えるかもしれません。 
    → 『知識』(愚樵空論)

臓器移植と幼児ポルノ

臓器移植とは、端的に言ってしまえば、死体の再利用です。死体から摘出されるを「使用価値のある商品」として扱うということです。脳死とは、臓器を商品として取り扱うために、死の〈概念〉に修正を加えるということです。

他方ポルノとは、裸体の画像や映像を「使用価値のある商品」と取り扱うことです。
わが子の成長記録として撮影された裸体を、通常の人は「商品」とは見なしません。他の「商品(貨幣を含む)」と交換に値する使用価値が裸体の画像や映像にあるなどとは考えないからです。自分は「商品」としては捉えていない財の単純所持を禁止するということは、国家が一元的に裸体を「商品」として見なした上で禁止するということに他なりません。

臓器移植法改正A案と児童ポルノ改正案の共通点は、これまで全面的に「商品」として取り扱ってこなかった臓器や子どもの裸体の画像を、全面的に「商品」と見なすということ。違いは、臓器移植の場合は全面的に「正当な商品」とし、児童ポルノの場合は全面的に「不当な商品」とすること。

生身の身体を他の商品と交換可能な「商品」と見なすことは、許されることではありません。奴隷や売春が禁止される所以です。が、死体が「商品」を商品として取り扱うことが許されるというのであれば、生身でない裸体を「商品」として見なすことがなぜいけないのでしょうか? この違いはどこにあるのでしょうか? 臓器移植も児童ポルノも、ともに子どもが対象になっています。

言うまでもなく、死体と裸体は異なるものです。が、単に違うというだけでは死体と裸体との取り扱いが異なる理由にはなりません。また「商品」としての正当性を区分するに足る客観的理由も見当たらないように思われます。にも関わらず、片方は「正当な商品」として、片方は「不当な商品」として取り扱われようとしています。

「商品」としての取り扱いが生じる主因は、感情でしょう。臓器移植は「高い志」によって取り扱われる「商品」だとと見なされ、児童ポルノは「劣情」によって売買される「商品」だとされる。「高い志」か「劣情」かの違いです。抱く感情が高いか低いかの違いでしかない。他に「商品」の正当性を区別する理由は見当たりそうにありません。

ここで私は問わなければなりません。民主主義が、個人的あるいは大衆的な感情に左右されてよいのかどうか? それは民主主義がもっとも警戒しなければならないポピュリズムではないのか? と。いくら高尚な感情だからといって、感情を理由に「商品」の正当性に判断を下してしまう民主主義は、私には堕落した民主主義であるとしか思えません。

〈一次意思〉に善悪はない

先のエントリーで示した〈一次意志〉は、表記を改めて〈一次意思〉とします。
〈二次意志〉は、そのまま。

参考:『一次意思を「虚数」、二次意思を「実数」と見る立場』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)より

ここで、愚樵氏は、一次意思、二次意思と、この二つを「意思」という名で同じレベルで表現しておられますが、この二つの指し示す意義は絶対的に異なることの確認が重要と思います。

さらに海舌さんは、次のように指摘されています。
 つまり、一次意思は、「超越的意思」(超越論的(先験的) transzendental)です。 (ここで言う「超越」とは、ニーチェ、カントの正しい哲学用語使用の「超越」(超越的)(Transzendenz,transzendental )です。

〈一次意思〉が「超越的」であるとはすなわち、〈一次意思〉には善悪はない、ということになります。

たとえば今、話題になっている児童ポルノの問題。幼児の裸体に劣情を催す人間はまちがいなく存在します。この「劣情」は〈一次意思〉であり、「劣情」の段階では善悪を判定することは出来ません。この「劣情」に善悪の判定がなされるのは、2つの場合です。

1.〈一次意思〉が個人の意志によって行動となって現われ、他者の〈一次意思〉を侵害する場合。
2.〈一次意思〉によって〈概念〉が確立され、その〈概念〉にそって善悪の判定が為される場合。

〈一次意思〉は超越的でありますから、善悪もなく、また本質的には抑制も出来ません。〈一次意思〉をコントロールする方法はこれまた2つ。

1.個々人の〈一次意思〉の超越性を互いに諒解し、超越性の絶対差異を差異共振することで内面的にコントロールする。

2.〈概念〉を確立して善悪の判定基準を設け、外形的な力(暴力、権威など)によってコントロールする。

現代社会において広く用いられるのは2.の方法であり、これを為すのが〈システム〉=〈国家〉+〈社会〉ですが、この方法は本質的な矛盾を孕んでいます。すなわち、善悪のないものに善悪の判定を行うことの絶対的矛盾です。ですので、詳細に、あるいは強力に善悪の判定を推し進めれば進めるほど〈一次意思〉の本質的な矛盾が露呈することになる。そうして〈システム〉は揺らいでいくのです。

〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉

〈一次意志〉 = 〈概念〉を生み出す意志
〈概念〉   = 脳死、所有、貨幣...etc
〈二次意志〉 = 〈概念〉によって生み出される意志

〈概念〉はさまざま考えられるが、ここでは、脳死、所有、貨幣の3つの概念を例に考えてみます。

〈脳死概念〉の〈一次意志〉 = 医療の意志
〈所有概念〉の〈一次意志〉 = 利用の意志
〈貨幣概念〉の〈一次意志〉 = 交換の意志

〈脳死概念〉の〈二次意志〉 = 臓器移植の意志
〈所有概念〉の〈二次意志〉 = 所有の意志
〈貨幣概念〉の〈二次意志〉 = 貯蓄の意志

〈概念〉は〈一次意志〉を合理的に捉えることから生じます。

・脳死は、医療の意志によって生み出された医療技術の進歩によって生じる現象。医療への意志なしには脳死は起こりえないので、脳死を人の死と捉える〈脳死概念〉は合理的。
・土地や資源を利用しようとする意志から〈所有概念〉は生じます。〈所有概念〉は所有の範囲を明確にすることで他者との無用の紛争を避けることが出来ますから、合理的だと言えます。
・〈貨幣概念〉もまた、商品(交換に供せられるモノ)の交換を合理的に行うために発明されたもの。

〈一次意志〉から〈概念〉が生じると〈システム〉が機能するようになります。〈システム〉は〈概念〉から生じる〈二次意志〉によって駆動し、〈一次意志〉を抑圧するようになります。

・臓器移植の意志は、脳死とされた患者への医療の意志を抑圧します。
・所有の意志は、非所有者の利用の意志を抑圧します。
(農地を例に考えてみると、いくら耕作放棄地が存在し農業を志す者がいたとしても、農地を所有するか所有者から借りるかしない限り、農地を所有しない者は農業を行えません)
・貯蓄への意志は、適正な交換を妨げます。
(いわゆる投機によって物価が上昇する現象が起こる)

かような〈二次意志〉による〈一次意志〉の抑圧を指して、私は「強欲」と表現しました

付け加えておきますと、〈一次意志〉を保証する権利を生存権とすることができるでしょう。〈二次意志〉を保証する権利が財産権です。そのように捉えると、〈システム〉は財産権によって駆動し、生存権を抑圧する仕組みということが出来ます。

〈世界〉の再配分

前置きはなしで、いきなり本題。

まず〈世界〉の定義です。

〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉

私たちが今暮らしている〈世界〉は「ポストモダン」だと言われています。で、「ポストモダン」がどういった〈世界〉なのかといいますと、
「ポストモダン」とは〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を空洞化してしまった時代です。これは〈システム〉の全域化が達成された時代ともいえます。では〈モダン〉とは何かと考えれば、全域化が可能な〈システム〉が生み出され、その〈モダン・システム〉が拡張していった――これを「進歩」と称する――時代だといえるでしょう。
『底が抜けた〈システム〉を』(愚樵空論)

つまり「ポストモダン」の〈世界〉とは、〈システム〉が極大化〈生活世界〉が極小化して、

〈世界〉=〈システム〉

になりつつある時代だといえます。

そうしますと、『〈世界〉の再配分』とは、〈システム〉を縮小し〈生活世界〉を拡大して、〈世界〉をもう一度

〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉

に戻すことになります。これは要するに、当ブログが繰り返して述べている「近代の超克」であり「トランス・モダン」です。

続きを読む »

「だれのものでもないもの」は胡散臭い

久しぶりに『404 Blog Not Found』を覗いてみたら、面白いことが書いてありました。

『梅田望夫と中川淳一郎の共通点 - 書評 - ウェブはバカと暇人のもの』(404 Blog Not Found)
だから、分かってないんだよ、二人とも。

この二人がわかっていなこと。それは「だれのものでもないもの」。

パブリック、と言い換えてもいい。
だれがわかっていないかはどうでもいいですが、「それ」が何かは重要です。『404 Blog Not Found』では「それ」をウェブだと指摘していますが、もちろん、それだけではありません。政治とか経済とかも同じ。地球環境。それから言葉だって、「だれのものでもないもの」です。しかし、これらは同時に「だれのものでもあるもの」。それが【public】です。

が、この「だれのものでもないもの」はどこか胡散臭い。

続きを読む »

〔トランス・モダン〕を阻むもの

当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」~好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に

『「選択の限界」~好き嫌い』(愚樵空論)

『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

の順序でご覧になってください。

続きを読む »

« 新しい日記に行く  | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード