愚慫空論

紀州の思い出(1)

ちょっと休憩というわけでもないんですが、ここのところ重たい話題が続いたので、少し目先を変えてみます。

和歌山から山梨に引っ越してきて、落ち着いたらこのテーマは取り上げてみたいと思っていました。引越しで荷物を整理していたら、いろいろと懐かしいものが出てきたりして、どうしてもブログに書いてみたいな、なんて思ってしまうわけです。私自身のごく身近なことですが、ブログなんてやろうという人間ですから自己顕示欲が強いのでしょうね、見てもらいたいな、と(笑)。

そんなことで、今回ご紹介するのは、和歌山にいるときに勤め先から書けと言われて書いたもの。「緑の雇用」という国の林業&雇用対策の枠の中にいましたので、まあ、要するに“田舎はいいぞ”というPR文みたいなのを書けという要望だったと思います。お役所が出すパンフレットみたいなのに載せるから、ということで。

こんなのです。

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A案は「国定道徳」である

衆議院を通過した臓器移植改正法A案は、参議院で提出された対案のE案と共に審議入りしたとの報道が伝えられています。

その報道のなかで私の関心をひいたのは、「脳死が人の死」ということが国民に広く受け入れられているかという点をめぐっての、A案E案提出者のそれぞれの見解の違いです。報道されているところによりますと、A案提出者は「脳死が人の死」が国民の合意を得ているとするのに対して、E案はまだ得られていないとしているそうです。

私はこの2つの見解、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではないと見ます。見方によって、どちらも正しいと言える。そうした類のものでしょう。どういうことかというと、臓器移植の前提として「脳死を人の死」だと考えることについては、国民的な合意は得られている。が、自分自身や身内の者の死について「脳死を人の死」だと考えることについては得られていない。有り体に言ってしまえば、他人事なら「脳死は人の死」だけれども、自分自身については「脳死は人の死」ではない、とうことでしょう。

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幸福な死、幸福な生

報道で時折「孤独死」という言葉を目にしたり耳にしたりすることがあります。

「死」にはどうしても暗いイメージがつきまとってしまいますが、「幸福な死」というものだってあることは誰もがよく識っていることだろうと思います。熟した果実が自然に枝から落ちるように...、という表現は「死」には似つかわしくないかもしれませんが、「死」は誰にとっても必然で不可避ですから、迎えるのは「自然な形」が好ましい。「自然な死の形」は「幸福な死」のイメージと、ごく自然に結びついていきます。

「孤独死」といったとき、私に湧き上がるイメージは「不幸な死」です。ひとりで誰にも知られず死を迎えたからといってそれが不自然な死であったとは言い切れないのですが、それでも私たちは、「孤独死」の響きの中に不幸な色合いを見てしまう。「孤独死」は、死に逝く人個人としては自然なものであったかもしれなくても、私たちが識っている「幸福な死」のかたちには、どうしても一致しない部分があるのですね。「ひとりで死ぬこと」そのものが「自然な形」ではないということを私たちは識っています。「死」は自分ひとりだけのものではないではないのです。
私は
大切な人を失った辛さと一緒に
「切実に欲しかった人に、持っているのにあげなかった」という辛さも持って
ずっと生きていかなければならないのでしょうか。

これは、とあるところで出会った文章をお借りしてきたものです。もうおわかりだろうと思いますが、「持っているのに上げなかった」とは、大切な人の身体の一部分、すなわち臓器のこと。

臓器移植についての議論が当ブログでは続いています。当エントリーは、その議論へ一石を投じることを意図したものです。上の「問いかけ」についても考えてもらいたいと思うのです。

私が上の文章と出会ったときに、すぐに思い浮かんだ言葉が「セカンドレイプ」です。臓器移植が想定される「死」が「自然な形」であることは考えられません。大切な人を失いつつある悲しみの中にある人に、臓器移植の提案は追い打ちをかけるものになりかねない。まだ温かい身体が、冷たい手術台の上で切り刻まれることになるのです。その光景が直視に耐えるものだとは、私には思えません。まして「喜び」が感じられるようになるなど、どこかが壊れでもしなければなれそうにない。

私は臓器移植を「強欲」だと表現しました。この表現に違和感と怒りを感じられる方も多いようです。ですがそれでも私はこのが不適切なものとも強すぎる表現だとも思いません。

臓器移植は、提供者遺族の感情に二次的な被害をもたらすことになります。それは提供者遺族が、移植を待ち望む人の切実さを想像できる人であればあるほど、深刻なものになっていく。強欲な臓器移植の救いがたさです。



臓器移植に賛成に人は、大切な人の生命の一部が他者のなかで生き続けるのだと言います。それは事実でしょう。しかし、私の空想力は考えます。「死」にも「幸福な死」と「不幸な死」とがあるように、「生」にだって両方あるのだ、と。他者のなかで生き続ける「生」が「幸福な生」だと、どうして断定出来るのか?

臓器移植を受けた患者は、終生、免疫抑制剤なしでは生きていくことが出来ないと言います。「わたし」と「あなた」とを区別し続ける免疫の作用は、生物が「喜び」や「悲しみ」といった感情を獲得するずっと以前からもっていたもの。その免疫の作用を抑制されつつ生きながらえることが「幸福な生」であるなどとは、私の空想力の及ばぬところです。

「選択の限界」~好き嫌い

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界
不可能性・不確定性・不完全性

高橋 昌一郎
『理性の限界』という新書本があります。

『理性の限界』というタイトルも堅いですが、副題の「不可能性・不確定性・不完全性」なんてのも堅い。目次を覗いてみますと、

序章:理性の限界とは何か
第1章:選択の限界
第2章:科学の限界
第3章:知識の限界


という感じで、これまた堅い。実際にページを開いていきますと、中身は架空の人物たちによる対談形式になっていて、柔らかくするように工夫が為されているのですが、それでも読み進めていくと、やっぱり堅いのですね。なかなか前へは進まない。

『理性の限界』で紹介されている内容は、どれもこれも重要なことなのですけれども、でも、この無味乾燥ともいうべき「堅さ」は、あまり好きになれないというのが正直なところです。この「堅さ」をバリバリ噛み砕いていくには、かなり特殊な才能――ふつう、それを“アタマガイイ”とか言いますが――が必要みたいです。

さて、当エントリーではアタマノヨクナイ愚樵が噛み砕けもしない「堅さ」を取り扱おうという試みですけれども、もとより噛み砕けないのですから、取り扱い方は自ずと限られてきます。すなわち、「堅さ」をペロッと舐めてみて、思いっきり「好き嫌い」で語ってみようというわけです(笑)

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私たちの消費生活は、まもなく突然死する?

どう考えても奇妙奇天烈なこの事件。

2邦人所持の米国債、大半は偽造 伊当局捜査

 【ローマ=南島信也】総額1345億ドル(約13兆円)相当の米国債をイタリアからスイスに持ち出そうとして、日本人2人がイタリア財務警察に身柄を拘束された事件で、所持していた米国債の大半が偽造されたものであることが分かった。イタリア捜査当局は日米両捜査当局とも連携しながら、入手ルートや背後関係などの捜査を進めている。

 伊当局などによると、2人は今月2日、ミラノ市内のホテルに宿泊、翌日にミラノ中央駅から普通列車に乗った。国境を越えてスイス側に入ったキアッソ駅で、2人を尾行していた財務警察の捜査員が所持品を調べたところ、二重底になったカバンの底に額面5億ドルの米国債249枚などを隠し持っていた。
(asahi.com 6月16日配信記事より )

renshiさん経由で知った情報分析が恐ろしい。

『ミラノの奇妙な事件』(ビジネス知識源:特別号)

若干の金融知識も持ち合わせていない私には、リンク先の記事を書いた著者が行った論証の正誤は判断できません。できないけれども、上述「ミラノ事件」は、何かがおかしいと感触だけは否めない。

ちなみにこんな情報もあります。
「カリフォルニア州 デフォルト」で検索してみてください。

これらを眺めていると、7/28にカリフォルニアが破産するかもしれない、という情報が得られます。カリフォルニアが破綻するとどうなるか? カリフォルニアの経済規模は、いまBRICsの一端として著しい経済成長を遂げているブラジル一国よりも大きく、しかも、カリフォルニアの債権は米連邦政府が直接保証しているといいます。素人の私などがこういった情報から安易に想像するのは、
カリフォルニア破綻→アメリカ破綻→アメリカへの日本の債権が紙くずに→日本も破綻→円が紙くずに
という連鎖です。

まったく根拠はありませんが、奇妙奇天烈な「ミラノ事件」のわけのわからなさは、「安易な想像」の 裏打ちであるような気がして仕方がない。

「安易な想像」が、ほんとうに安易な想像であることを願います。

「私」でも「あなた」でもないものになる

要するに「死」です。死んでしまうと、「私」でも「あなた」でもないものになる。ただのモノになる。

これはなにも「私」とか「あなた」とかいう意識の問題のことを指しているわけではありません。脳死になっても、アルツハイマーが進行して自分で自分が分からなくなっても、はたまた精神が分裂して多重人格になってしまっても、身体は「私」は「私」。「あなた」は「あなた」です。

そもそも、「私」という意識には「私」が何かよく分かりません。「私」とは一体何なのでしょう? 「私」は「私」である意思を持っているから「私」なのでしょうか? では、母子の区別もつかなかった赤子の頃の「私」は「私」ではなかったのでしょうか? また「私」は「私でない」という意思を持つことが可能なのでしょうか? 

身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。

ただし、植物はわかりません。接ぎ木といったことしたりしますから、植物には動物のような自己と非自己の厳格な区別はないのかもしれない。また原始的な単細胞生物などもわかりません。しかし、動物といわれる存在では、自己と非自己を区別する能力こそが生命だと言ってしまってよいのではないか。そしてその能力は、生命が意識などという自己認識能力を持つずっと以前から備わっているものです。

今、脳死が人の死か否か、議論されています。脳が死ねば生き物としての人も死ぬ。当たり前の話です。けれども、現在は医療技術の進歩で、脳が死んでも身体は人工的に生かしておくことができるようになった。

脳死の人に取り付けられている生命維持装置を外すと、その人はいずれ死にます。だからといって、脳死は人の死なのか? 「いずれ死ぬ」ということと「今、ここで死んでいる」ということは、時間が経過すればやがて同じ状態になるとはいっても、大きく異なります。

「一時間後に間違いなく死ぬから、今、殺しても同じ」。 犯罪を犯す意志でもあるならともかく、通常、こんな論理を振り回す人はいないでしょう。

今ここに脳の機能が停止してしまって、やがて死にゆく人がいるとします。もちろん「死にゆく人」は「死んでいる人」ではありません。その身体はいまだ「私」と「あなた」の区別、自己と非自己の区別を続けている。すなわち、生き続けている。脳が機能を停止して、意識が「私」が「私」であることを認識出来なくても、身体は「私」が「私」であることを確認し続けている。

身体は、脳の機能の発露である意識が「私」を認識するよりずっと以前から「私」と「あなた」とを区別しています。また脳が「私」を認識出来なくなっても、身体は「私」を認識し続けている。これが正しいのなら、そして「私」でも「あなた」でもないものになることが「死」であるとするなら、脳に「死」を定める権利などないことになる。しかし脳死の概念は、「死」を定める権利を身体から奪うもの。

人間の肥大した脳は「強欲」な臓器です。胃や腸なら、食べられるだけ食べれば満足する。脳が求めるのは快感ですが、この臓器は満足ということを知らない。「支配の快感」を追い求めて倦むことを知らない。自分の身体を支配し、他者を支配し、モノの世界も支配し、生命の仕組みをも支配しようと目論んでいる。そしてついには自分の「死」までをも支配しようとしているのです。

「いのちは闇の中のまたたく光だ!」

闇の中を瞬く光 これ、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のクライマックスのカットです。あ、これはよく知られている映画ではなくて、マンガの方です。マンガの『ナウシカ』は、ご存知の方にはいうまでもないことでしょうけど、そこに盛り込まれた中身は映画を遙かに凌ぐものです。

風の谷のナウシカ 7
風の谷のナウシカ 7

宮崎 駿

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それもまた「強欲」なのではないだろうか?

臓器移植法の改正A案が、昨日衆議院の本会議で可決されました。

臓器移植A案「脳死は死」「家族承諾で」「何歳でも」

臓器移植法の改正A案は06年、脳死になった人からの臓器提供を増やすことを目指す自民党の中山太郎衆院議員らが提出した。最大の特徴は、脳死を人の死とすることだ。そうすることで、脳死になった時に臓器を提供しようと考えていたかどうかがはっきりしない人からも、家族の承諾で提供できるようにする。

 現行法では、本人があらかじめ提供の意思を書面に示していなければ、脳死になったとしても、家族も医療機関も、提供の手続きを進められない。つまり、人が脳死になっても、必ずしも死んだことにならないと整理している。本人の意思が書面という確かな形で残されているかどうかがポイントだ。

 現在の制度は、脳死をめぐる様々な立場の人たちが議論を重ねて一致点を見いだし、97年に制定された。それだけ高いハードルを設けてある。A案は、提供を拒む権利を認めるものの、死を巡る基本的な立ち位置を変える。

 これまで脳死での臓器提供は年に10件前後だった。本人の意思を確かめる手立てとして用意された意思表示カードが思うように普及せず、臓器提供が大きく増えなかったとされている。昨年の内閣府世論調査では「脳死になったら臓器提供する」と記した人は約4%だった。

 A案が参院でも支持を集めて成立すれば、カードがなくても臓器提供できるようになるので、提供件数が増えると、移植にかかわる医師らはみている。ただ、衆院で「脳死を死とすることに社会的合意がない」といった反対意見が相次いだように、参院でも厳しい議論が予想される。

asahi.com より

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オープンソース


オープンソースとは、ソフトウェアの設計図にあたるソースコードを、インターネットなどを通じて無償で公開し、誰でもそのソフトウェアの改良、再配布が行なえるようにすること。また、そのようなソフトウェア。

 ソースコードがあれば、そのソフトウェアの類似品を作成したり、そのソフトウェアで利用されている技術を転用することが容易に可能なため、企業などでは自社の開発したソフトウェアのソースコードは極秘とし、他社に供与するときにはライセンス料を取ることが多い。
『オープンソースとは 【open source】 - 意味/解説/説明/定義 : IT用語辞典』より

有名なところでは、Linuxがオープンソースですね。私もLinuxを使いたいとは思っているのですが、まだまだ敷居が高い感じがして、手を出せずにいるのですが...。

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諸刃の剣

dr.stoneflyさんが怒っておられます。

『「ピアニスト辻井君へのインタビュー」…怒りを止めることができない』(dr.stoneflyの戯れ言)
生まれつき全盲のあのピアニストにむかって、

一度だけ見ることができたら何をみたいですか?
ピアニスト辻井君はご存知でしょうが、念のため紹介しておきます。動画です。

『ピアノで優勝の辻井伸行 全盲でも「心の目で見ているので満足」』

件の質問も最後の方に出てきます。 dr.stoneflyさんの怒りとは裏腹に、辻井君はにこやかに質問に答えています。また、この動画だけを見ると、dr.stoneflyさんがなぜ怒り狂っているのかは理解しづらいかもしれませんね。記者の質問に好意的な様子で答える辻井君しか映っていないので。

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次は戦争か?

昨日、鳩山総務相が事実上更迭されました。

鳩山邦夫は、「世の中、正しいことが通らない時もある」なんて言ってますが、今じゃあ、国民の大半が郵政民営化そのものが正しかったなどと思っていないでしょう。思っていないからこそ鳩山の主張に支持が集まったわけで。「正しいことが通らないが政治」。以前から多くの人は薄々はそう感じていただろうと思います。最近はそのことが“薄々”ではなくて“ハッキリ”になった。

鳩山を更迭した麻生は中川秀直らの要求をのんだことになるのですが、これも考えてみればおかしな話です。麻生は鳩山らが推した小池などと自民党総裁選を争って総理になったのに、なぜいまさら中川ら「上げ潮派」の脅しに屈するのか? 中川は「西川社長の辞任は改革に否定」だなどと言っていますが、これもまったく訳が分からない。西川が疑惑があるのなら退いてもらって、別の人間に改革を推し進めてもらえばよいだけの話です。それができないのは、何か明らかに出来ない理由があるのでしょうか?そう思わざるを得ません。

麻生は明らかに出来ない何らかの事情があって、盟友であって国民から支持されている鳩山邦夫を切った。アホウな麻生ですけれども、この処置でますます国民から見放されることになることくらいは分かっているでしょう。にもかかわらず、みずからの墓穴を掘る選択をした。ネットの世界では麻生もこれでおしまいといった論調が多く見られるようですが、私にはちょっと疑わしい。麻生は、これでおしまいだとわかっていないのか? わかっていて自滅しようとしているのか? それともまだ何か「策」があるのか? 

わかっていないのならそれで良し。もはや麻生の役目などありませんから、国民の選択によって退場してもらうだけです。わかっていて自滅を選んだのなら、尚よし。問題はまだ「策」があると考えている場合です。

では「策」があるとして、それはなんなのだろうか? 郵便のDMがらみの事件での国策捜査の噂を耳にしていたりしますが、これが麻生起死回生の「策」になるかどうかは疑問です。小沢に続いて、また足利事件の直後となると、もう検察の威光も国民には通じないのではないか? それとも他にもっと驚くようなスキャンダルがあるのかもしれませんが。

私に思い浮かぶのは、先だっての麻生の発言です。

「戦うべき時は戦わねばならない。その覚悟を持たなければ、国の安全なんて守れるはずがない」

この発言を「策」と結びつけたとき、この発言での「戦う」の意図が果たして経済制裁といった次元のものなのか、疑わしくなります。支持が低下した政権にとっては「外敵」の存在が最も支持率上昇に貢献するから。それでも経済制裁程度では、今の麻生不支持は覆せないでしょう。覆るとすれば...。

折しも国連安保理では、北朝鮮への制裁決議が全会一致で決議されたと報じられています。報道は、北朝鮮の反発は必至だともいう。これでもし米国が北への実力行使へ舵を切るならば、麻生にとっては天恵になる可能性があるのですね。それが麻生の「策」...、いや、おそらくは逡巡する麻生に圧力を加える者の「策」なのでしょうが、ここで麻生に圧力を加える者、「策」を実行する者と考えれば、答えはアメリカというところで結びつく。郵政民営化が誰のための民営化だったのか、ネットで言われていることが真実であるならば...。

以上、愚樵の憶測でした。

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民主主義と紆余曲折

「民主主義とは、我々のような能力の劣る者達が大勢集まって色々迷いながら時間をかけて紆余曲折して行う無駄な制度なのですよ。 」

これは『新しい選挙制度の提案』にいただいた逝きし世の面影さんコメントの一部。この言葉は全く正しいと思います。ただ私は、この言葉は正しいと思いながらも、これでは足りないものもあると思っています。『政治家を増やせ』のエントリーも、それから『新しい選挙制度の提案』も、この「足りない部分」への認識から出発している。今回はそこのところに的を絞りたいと思います。

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偏向報道

今回は偏向報道というものがどういうものか、具体的に見てみたいと思います。

素材は、日曜の朝放映されるTBSの『サンデーモーニング』。まあ、要するに番組の「起こし」です(笑)

6月7日放映の、日本郵政西川社長辞任問題について取り上げた部分です。

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〈卵システム〉

今、村上春樹の『1Q84』が大人気なのだそうですね。品切れが続出なのだとか。

いえ、『1Q84』について書きたいわけではありません。読んでいませんので。他に読むべき本はたくさんあるし、余り関心もないし。ではなぜ村上春樹なのかというと、「卵」「システム」で村上春樹を連想したので。ほら、エルサレムでの講演で「卵と壁」というのがあったじゃないですか。あの講演のなかで「壁」は「システム」でした。そこから〈卵システム〉と言葉を出したときに、村上春樹が連想された。ただそれだけの話で、〈卵システム〉に村上春樹は関係ありません。

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自民・民主が目指す二大政党制には明確に反対です

当エントリーは村野瀬さんのエントリーを受けて書いています。

『議員定数はやはり減らしてはいけない(海舌さんと愚樵さんの記事を読んで、議員定数の話とそれ以外の話は分けて論じたいと言う願いも込めて)』(村野瀬玲奈の秘書課広報室)

エントリーの中身の主な部分は村野瀬さんへの反論です。といってケンカをしたいわけではないので、まずは村野瀬さんの意を汲んで――いや、汲んだことになるのかどうかはわかりませんが――タイトルは『自民・民主が目指す二大政党制には明確に反対です』としました。このことはいままで明確に主張してこなかったことが村野瀬さんのいうミスリードになるのだろうと思いますので、ここで明確にしておきます。

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新しい選挙制度の提案

定数削減の話はとりあえず脇に置いておいて、国会議員の選出方法について愚考してみます。

愚考のきっかけになったのは、逝きし世の面影さんコメントです。衆参両院にはいろいろと委員会があって、法案の実質的な審議はそこで行われいる。議員は委員会を兼務していて忙しく、審議時間が余り取れないから欠陥法案が出来てくる。だからもっと議員を増やさなければならない、というご意見です(←面影さんの意見を敢えて恣意的に解釈しています)。

面影さんの指摘には重要な点が含まれていると思います(国会議員が果たしてそれほど忙しいのか、忙しいとして何に忙しいのか甚だ疑問ではありますが、ここでは触れずにおきましょう)。それは民主党が主張し、私なども同様に感じている政治の官僚支配に対抗するという視点です。その視点からすれば、国会に専門分野に分化した行政に対抗し操縦するマンパワーが必要だということになる。マンパワーは質と量によってもたらされますが、量の方は今回は考えないことにしたので、質の方について考えてみたいと思います。

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「足利事件」について

今朝のNHKニュースでの報道にコメントをつける形で記事とします。

足利事件が再審されることになったことについての概要については特に触れることもないでしょう。

足利事件0 足利事件1

管家さんは明らかに不当な取り調べがあった言ってますね。それが事実なら「“まちがった“では絶対にすまない」のは当然です。

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議員定数は削減すべき

エントリー『政治家を増やせ』

衆参とも議員定数は多すぎると感じはどうしても否めませんし、・・・

と、曖昧に述べたことを明確にしておきます。衆参両院の議員定数は削減すべきです。

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『畑仕事の十二ヶ月』

暦に学ぶ野菜づくりの知恵 畑仕事の十二カ月暦に学ぶ野菜づくりの知恵
畑仕事の十二カ月

久保田 豊和
ちょっといい本を見つけました。

本のタイトルから察しが付くように、いわゆる家庭菜園向けの技術指南書――かといえば、ちょっと違います。副題にあるように知恵なんです。知識ではない。ではどんな知恵かといいますと、こんな具合です。

・梅の花が咲いたら・・ ジャガイモを植え付けます
・こぶしの花が咲いたら・・ ネギ、ゴボウ、ラディッシュをまきましょう
・里桜が咲いたら・・ いよいよ夏野菜の栽培が始まります
・藤の花が咲いたら・・ ニガウリ、ラッカセイ、オクラ、モロヘイヤをまきましょう


こういうのに、私なんかはグッと惹きつけられるものがあるのですね。

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説明責任を果たせ

いきなりメディアの記事の引用から。

核持ち込み密約、外務次官ら管理 首相、外相の一部に伝達

 1960年の日米安全保障条約改定に際し、核兵器を積んだ米軍の艦船や航空機の日本立ち寄りを黙認することで合意した「核持ち込み」に関する密約は、外務事務次官ら外務省の中枢官僚が引き継いで管理し、官僚側の判断で橋本龍太郎氏、小渕恵三氏ら一部の首相、外相だけに伝えていたことが31日分かった。

 4人の次官経験者が共同通信に明らかにした。

 政府は一貫して「密約はない」と主張しており、密約が組織的に管理され、一部の首相、外相も認識していたと当事者の次官経験者が認めたのは初めて。政府の長年の説明を覆す事実で、真相の説明が迫られそうだ。

 次官経験者によると、核の「持ち込み(イントロダクション)」について、米側は安保改定時、陸上配備のみに該当し、核を積んだ艦船や航空機が日本の港や飛行場に入る場合は、日米間の「事前協議」が必要な「持ち込み」に相当しないとの解釈を採用。当時の岸信介政権中枢も黙認した。

 しかし改定後に登場した池田勇人内閣は核搭載艦船の寄港も「持ち込み」に当たり、条約で定めた「事前協議」の対象になると国会で答弁した。

 密約がほごになると懸念した当時のライシャワー駐日大使は63年4月、大平正芳外相(後に首相)と会談し「核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは『持ち込み』でない」との解釈の確認を要求。大平氏は初めて密約の存在を知り、了承した。こうした経緯や解釈は日本語の内部文書に明記され、外務省の北米局と条約局(現国際法局)で管理されてきたという。

2009/05/31 16:58 【共同通信】(http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009053101000320.html)

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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