愚慫空論

年の暮れには『第九』

またもや、というべきか。ここ半月ほど自沈モードに陥ってしまっている。

昨年もそうだった。寒くなってくる時分からブログ更新に気が乗らなくなってしまい、開店休業状態に。自分のところだけならまだしも、UTSで約束していたコラムも何の断りもなくすっぽかしてしまった(UTSの皆さん、改めてお詫び申し上げます)。で、半年ほどの間、ほとんどネットと接続することもなくなってしまっていた...。

その間、うだうだ考えることまで止めていたわけではない。当ブログにアップするような訳の分からない思考は、自沈モードのような状態の時に方がむしろ活発化する。ただその思考にまったく自信が持てなくなって、誰にでも閲覧できるネットに挙げようという気力がなくなってしまう。いや、それ以前に思考を言葉に載せることができなくなってしまう。自分の思考を言語化したもの自分の思考であるような気がまったくしなくなる。

もともとから思考を100%言語化できるなどと考えているわけではない。言語化できるとしてもそれはほんの一部でしかないと思っている。ただ、ほんの一部であっても言語化しようとする営為、努力...、そうしたものに立ち向かう気力がなくなる。

なぜこんなことになってしまうのか、我ながら情けない限りだが、その原因には思い当たるフシがないでもない。だが、それについて触れるのは年が改まってからのことにしよう。
第一、そんなことを書き始めたら時間が足りない。PCの前で年を越す羽目になってしまうし、また、そんな気力も現在自沈モード中の私にはない。

で、年の暮れということで『第九』。『第九』とはもちろん、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番ニ短調作品125。終楽章に混声4部のコーラスが加わる、あの『第九』。

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死刑のコスト問題とベーシックインカム

ベーシックインカムという概念がある。単純に訳すると基本収入。すべての個人に所得保障をしようという社会構想だ。

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社会の流動化

前エントリーで取り上げた赤木智弘氏は、戦争を望むのは、社会を流動化させるためだと主張した。その主張はつまるところ、氏自身の個人的な願望を「社会の流動化」という言葉に乗せただけのものにすぎない。赤木氏自身が「社会の流動化」とは如何なるものなのか、ろくに定義もせずにその言葉を使っていることからみても、そのことはわかる。

だがしかし、格差社会と呼ばれる現在の日本の社会は「固定化」しているように思えるのは事実だ。限られたごく一部の者のみが肥大した欲望を満たすことを許され、大部分の者は欲求不満を感じる社会。いや、それどこか、その社会の中で生きていくことすらままならなくなってしまった社会。こうした社会の状況を「固定化」と呼ぶことは間違いではなかろう。

では、社会の「流動化」とはどういうことなのか?『正義論』のジョン・ロールズがいったような「公正な社会」のことなのだろうか?

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やっぱり、「自己責任」 でしょ

赤木智弘氏。「希望は戦争」というキャッチコピーで脚光を浴びたフリーター(今もフリーターかな? どこかの正社員ではないと言う意味ではフリーターだろうけど)。

もともと私は氏の言説を自らのところで取り上げるつもりはなかった。だが最近、お付き合いのあるブログから氏の言説を取り上げた記事にTBを立て続けに頂き、私もそちらの記事にコメントするなかで、赤木氏のことを子ども扱いするような意見を書き込んだ。

私自身が成熟した精神の持ち主かどうかという疑問は棚上げしてエラソーにいうが、正直なところ、赤木智弘なる人物には未熟な精神性を強く感じる。

赤木智弘氏本人が本記事を目にすることはあるまいが、しかし、もし目にしたなら、頭ごなしに子ども扱いするような意見には怒りを感じるだろうことは想像に難くない。氏が『「丸山真男」 をひっぱたきたい』『続 「丸山真男」 をひっぱたきたい 』の2つの文章で非を唱えているのは、そうした頭ごなしの不当な抑圧であろうから。

だから、頭ごなしはやめておく。子ども扱いも止めておこう。もしそうした私のこれまでの態度に謝罪を要求されたのなら謝罪もしよう。以後は立派な大人の意見として扱わして頂く。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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