内田流「格差社会」論の見方について
で、私はというと、今は前者である。今はということは最初は違ったということだが、そのことを示す証拠がかつさんのところに残ってしまっている。
後者から前者へ転向した今でも、内田流「格差社会」論が精神論であるという見方には変わりはない。見方が変わったのは、内田さんが語っているのが個人の精神ではなく社会の精神・時代の精神である、という点だ。そして気が付いたのが、内田流「格差社会論」に批判的な方々の視点が、転向前の私と同じく、内田流を個人精神論だと見るところにあるということである。
自然の造形はフラクタル
義父は現役をリタイア後、第二の人生として陶芸倶楽部を運営しており、作者が義父の陶芸倶楽部の会員であるという縁でその「絵」は妻の実家に置かれていた。そのときたまたま作者の作品展が近くで催されているということで、その作品展を見に行くことになった。
作者と「絵」の紹介はこちら
無実の“死刑囚”124人の衝撃 〜冤罪に揺れるアメリカ〜
今その一角アメリカで、死刑宣告を受け服役していた受刑者の無実が相次いで判明し、大きな衝撃が走っている。えん罪を見つけ出しているのは、進化を続けるDNA鑑定の技術。残された微量の証拠品から、事件の真相に迫り始めている。一方、えん罪のない司法制度への模索も進められている。自白の強要など捜査の誤りを無くすため、取調室の一部始終を録画する手法が全米各地の警察に広がり始めている。失墜した司法制度への信頼は取り戻せるか。死刑えん罪に揺れるアメリカの今を見つめる。
(NHK「クローズアップ現代」のHPより)
『ナゲキバト』と「笠松の爺さんの馬」
ところが、である。その図書館に蔵書されているはずの『ナゲキバト』が見つからなかったというのだ。同時ももう一冊、石牟礼道子『アニマの鳥』という小説も図書館から借りてくるように頼んだのだが、それも見つからなかった。図書館では貸し出した記録もなかったという。
TVニュース等で図書館を利用する人のマナーが非常に低下しているというのは聞いたことがあるし、実際、大阪にいたときには図書館に所蔵されている本が無残に扱われている実例をたくさん見たが、こちらに越してきてからはそんな例に出会ったことはなかった。誰か心無い者の仕業だと断定は出来ないが、それにしても...。
もし、誰かかが『ナゲキバト』を図書館から無断で持ち去ったというならば、その人は『ナゲキバト』をどのように読んだのか、疑問を持たざるをえない。そしてまた、読書はいったい人間をどれほど高めてくれるものなのか、その効果にも一抹の懐疑を抱いてしまう...。
それはさておき、『ナゲキバト』である。さておき、といっても実際には読んでないので何も書きようがないのだが、それも悔しいので何か書いてみる。それが「笠松の爺さんの馬」である。
私の哲学 ひとりひとりの幸せ
やってしまった(^_^;)
負傷の箇所は、左足、膝のあたり。もう、パンパンに腫れ上がって曲げることができない(右膝と比べた写真を撮ってUPしようと思ったが、汚いのでやめた(爆))。歩くことすらままならない。これでは仕事にならない。稼げない(泣)。さあ、困った。
事の顛末は、次の通り。
【private】志向、【pubulic】志向

ここにはこれまで出ててこなかった【personal】【private】【pubulic】などといった言葉があるが、これは特に説明の必要もないと思う。ただ注意して欲しいのは、【private】【pubulic】といってもこれは思考を為す人間の外部を指しているのではなく、思考を為す人間の精神内部の領域のことである。もちろん【private】【pubulic】の領域はそれぞれ、外部とリンクする。
人間の精神作用は、「意」つまり【personal】から始まる。が、それは大きく二つの方向に分けられる。つまり、図でいうと右巻きに進もうとする方向(【private】志向)と左巻きに進もうとする方向(【pubulic】志向)とにである。
時間が「情」を育む
話題になっていた内田樹著『下流志向』をようやく読んだ。大変有意義な読書になったと同時に、「知の暴走」をますます感じさせられることになった。
〜消費とは本質的に無時間的な行為であり、消費者は無時間的な「幽霊」なのです。消費者は〜〜原理的には「変化しない主体」として措定されています。
もちろん、現実にはそんなことはありません。時間の中で変化しない人間なんかありえないからです。にもかかわらず、ひとたび消費主体として市場の出現してしまった人間は、「等価交換を行っている過程で、消費主体は決して変化してはならない。その価値観を変えてはならない。その交換レートを変えてはならない。その度量衡を変えてはならない」という厳重な禁則から逃れることができません。
学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたちもそれと同じ禁則に縛られることになります。
(内田樹『下流志向』p.66)
「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」。こうした子どもたちは積極的に学ぶことを放棄してしまうのだが、この原因を内山さんは、子供たちが家庭内での労働を奪われてしまったことにあるという。そのことで子どもたちは労働主体よりもまず、消費主体として自らを認識することになり、その認識をもって学びの場に登場することになる、と。
終戦の日ではなくて
本日8月15日は終戦の日だ。“タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ...”という、あの玉音放送が62年前に流された、今日はそういう日だ。
私が多少ものを考えるようになってからいつも思うのだけれど、「終戦の日」というのは欺瞞だ。どう考えても「敗戦の日」である。昭和20年8月15日は日本国民に戦争は負けたと知らせた日であって、本当ならポツダム宣言受諾の詔勅がでた8月14日か、降伏文書に調印した9月2日が敗戦の日に相応しい。8月15日を戦争終結の記念日とするにしても、やはり終戦に日は客観的事実に反する。終戦とは勝っても負けても終戦であるが、大日本帝国は戦争に負けて無条件降伏をした。どう考えても今日は「敗戦の日」であろう。
しかし、本当のことを言うと、私には「敗戦の日」という名称も気に入らない。「敗戦の日」を「終戦の日」と呼び換えるのは「国家の論理」だが、これを「敗戦の日」としても、やはり「国家の論理」に基づく呼び名であることには変わりないから。
ではどういう名称にしたらよいのか、と考えてみる。しかし、これが思い浮かばない。「敗戦の日」のその後も、今日までずっと「国家の論理」は生き続け、私達はそのなかにどっぷりと浸かりこんでしまっているのがおそらく思い浮かばない原因なのだろうと思うが...。
“右”か“左”か
「近代」という時代の内側において、近代を超克すべく右と左に分かれて飽くなき論戦が繰り広げられているが、
>右も左も「近代政治思想」であることに変わりはなく、自由競争的資本主義や貧富格差を嫌うことについても左右にそれほどの違いはなく、その解消ないし緩和手段が違うだけの話
(晴耕雨読『左翼・右翼は思想政治運動をやっている人たちの「自己認識」と考えたほうがいいかもしれませんね』より引用)
との指摘の如く、所詮は「時代の内側」の中だけの議論に過ぎない。そうしたなかで、何がどのように揺らげば右になり、あるいは左になるのか、その点を少し考えてみたいと思う。
「情」が分離された時代
モーツァルトの音楽に慣れ親しんだゲーテの耳は、ベートーヴェンの斬新な音楽を受け付けなかったのだ、と小林秀雄は書いていた、いや、そうではあるまい、と書いていたのか、今となっては記憶は曖昧だ。
余談だけれど、メンデルスゾーンといえば、誰もが知っているのはシェイクスピアの喜劇『真夏の夜の夢』への付随音楽として作曲された中の、結婚行進曲。「パパパパーン、パパパパーン、パパパパン、パパパパン...」というやつだが、これは「ジャジャジャジャーン」からのパロディである。だって結婚は運命だから。




