愚慫空論

結局、勝利したのは保守

昨日は山で仕事をしていた。夜8時ごろから参院選の開票がはじまり、各局で報道番組が流されることは知っていたが、その時間には寝てしまった。それが山での生活のリズムなのである。
今朝、4時半に起きてTVを点けたら、民主圧勝! まあ、ホッとしたというところが正直な感想。

朝食を食べ、弁当を拵えて現場へ出発する準備をしていると、雨が降り出した。雷も鳴る。選挙報道ばかりで天気予報をTV局が天気予報をなかなか放送せず、いらいらしながらTVの前で待っていると(私たちには天気予報のほうがよほど重要。こういった感覚が失われていることが現在社会が抱える根本問題だと思うのだが、それはまた別の機会に)、ようやく申し訳程度に放送したので、それをみて、今日は仕事は中止と判断。んでもって、私はブログを更新すべく、自宅に引き返したのである(爆)。

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辺野古が重い

この春から仕事の都合で家を空けていることが多い。
仕事場が山奥なので、山の中で暮らしているとはいいながら、さらに通勤で毎日かなりの距離と時間を費やさなければならない。昔の山仕事の人たちは通勤が容易ではなかったので、たいていは山の中に飯場(はんば)を設えて、そこで寝泊りしながら仕事をしたらしいのだが、田舎といえども現代日本、山仕事も都会並みに仕事場へ通勤するのが通常のスタイルとなっている。
ところが現在の仕事場は、通勤するにはあまりに遠すぎて、毎日通っていたのではソロバン勘定に会わない。致し方なく飯場で...、ということになってしまい、私もそこに放り込まれてしまったというわけ。といっても、昔のように山の中ではなく、一応、電気も水道もガスも完備の飯場。田舎の空き家を借りたという次第。
だが、その飯場、電気も電話もあってもパソコンがない。で、帰宅するまでブログの更新もできないというわけなのである。

前置きが長くなってしまった。テーマは辺野古である。前回、帰宅したときも辺野古についてなにか書こうかとは思ったのだが、自宅にステイする時間が一日しかないせいもあって、結局、何も書けずじまいだった。で、今回帰宅して、馴染みのブログを巡回してみると...、ますます辺野古が重たくなってしまっているではないか。

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「いい人」のジレンマ

不祥事を起こした企業や行政組織などのトップが、その地位に居座り続けるための詭弁として「使命」という言葉が使われることが、最近非常に多いように思う。「問題を引き起こす元となったわが社の企業風土を改善することが、私の使命だと考えています...」。「使命」が「責任」や「責務」に置き換わっていたりするのだけど、こんな論理を幾度聞かされたことだろうか。まったく嫌になってしまうのだが、ここにきて、今度は日本の国のトップからこうした論理を聞かされる羽目になってしまった。

久間防衛相辞任、私に任命責任ある=安倍首相

[東京 3日 ロイター] 安倍晋三首相は3日午後、官邸内で記者団に対し、久間章生防衛相が原爆投下に関する発言の責任をとって辞任したことに関連し、「当然、私に任命責任はある」と任命責任に言及した。

 ただ、具体的な責任のとり方については「私には改革を進める使命がある。この使命を果たさなければいけない」と明言を避け、参院選への影響に関しても「政策を誠実に訴えていくことが大切」と述べるにとどめた。

実を言うと私、安倍晋三なる人物には少なからず同情している。この人、根はかなり「いい人」なんだろうなぁ、といつも思 う。実際あったことがあるわけではないからわからないけれど、この人、血筋に恵まれず、大それた使命を抱いて政治家になどにならなければ、そこそこに幸せ な人生を送っていたかもしれないのに、なんてことをついつい考えてしまう。
「私には使命がある」発言は、私にはかなり本気であるよう に感じられた。不祥事を起こしたにもかかわらず居直るのは他のトップたちと同じなのだが、その他の人々に比べれば遥かに本気度は高いように思った。こうし た感じが、安倍さん=いい人という印象に繋がるのだけれど、安倍さんが「いい人」だから支持しようと考えているかといえば、それは大違いで、
安倍晋三は「いい人」だから余計に恐ろしい、と思っている。このような「いい人」に一国の舵取りを任せるのは、ほんとうに恐ろしい。

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もしものときに、あの場所は?

まずは、16日に発生した中越沖地震で被災された方々にお悔やみ申し上げます。お困りの方々に私は何の手助けもできませんが、一日も速く立ち直ることができる日が来るように、お祈り申し上げます。


とても不謹慎な物言いだなと自覚しつつ言ってしまうのだが、今回の中越沖地震は、なんというか“タイムリー”という感じがしている(被災者の方、本当にゴメンナサイ m(- -)m )。時期的にはこの国を未来を占う選挙直前、位置的にも原発の至近距離。ただ単に議論の話題を提供するというだけでなく、私たちの置かれている状況が、例えば9.11や北朝鮮問題のような作為的なものでなくとも、かなり危険なものだと再認識させてくれる「一発」になったと思う。

原発の危険性については私も一言ならず言いたいことがあるのだけれども、ここでは措く。今回は、被災者の方々の様子を映し出すTV画面を見ながら、ふと思った疑問を提示させてもらう。

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コメントに代えて

当エントリーは、dr.stonefly さんのエントリー「SIDS? 子どもが殺される」…そしてどう生きるか』へのコメントに代えてアップするものです。
続きをクリックされる方は、その前に
dr.stoneflyのところへどうぞ。

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政治家を選ぶ基準

昨日に続いて選挙がテーマだが、また昨日と同じく看板に偽りアリで、中身はあんまり選挙と関係ないかもしれません(笑)。

結論から先に書くと、私は政治家を選ぶ基準は、その政治家および政党への信頼感が第一だと思っている。昨今は、公約だのマニュフェストだのと政策を前面に打ち出した選挙宣伝を行っていて、それはそれで必要不可欠なことなのだけど、最終的には信頼感が決め手になると考える。

そういった中身のことを書こうと思って、書く前の準備運動とでもいうかか、気を入れるために my favorite brog を覗いていると、ピンと来るものがあった。それが『お玉おばさんでもわかる政治のお話』の最新エントリー(7.14時点)の『おかしいぞ、首相の理屈』。ピンときた部分を拝借すると

昔俳優と脚本家が演技力と台本とどっちが大事かって論争になったとき俳優が観客の前でレストランのメニューを読んで見せたそうな。それを聴いた観客は俳優があまりに悲しそうにメニューを読む姿に涙して、脚本家は負けたんだって・・・・・・・・・

演技と政治は違うぞ、って声も聞こえてきそうだけど、違うと言ったって人間はそういうもんでしょう。私は違うという人は、それでよし。でも違うと自信を持って断言できる人は少ないのではないかな? そのあたりが民主制が愚衆政治になってしまう原因なのだろうけれども。

お玉さんが『おかしいぞ、首相の理屈』でとりあげておられるテーマは、政治家への信頼感とは何かを考えるとてもいい材料だと思うので、ここでも便乗させてもらいます。(続きを読む前にお玉さんのところへどうぞ)

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選挙が始まった

とうとう参議院選挙が始まった。今度こそ天下分け目の戦いになる。確かこないだの衆院選のときもそういう声が飛び交っていたような気がするが(笑)、いや、間違いなく天下分け目の戦いであったわけだけど、今度も間違いなくこの国の進路を定める選挙になる。
この戦いで与党が勝利すれば、彼らは自分たちの思い描く通りにこの国の形を変えていこうとするだろう。仮にそうなったとしても彼らの思う通りがそう長く続くとも思えないが、当座はそうなるだろう。
当座の間にせよ彼らの思う通りのこの国が動かされてしまえば、多くもものが失われることになる。取り返しのつかなくなることも多かろう。取り返しがついたとしても多大な犠牲を払うことになるだろう。だから、彼らの思うとおりにさせてはならない。
では、どうすればよいかというと、答えは簡単。選挙で投票すればいい。それだけではない。ほかにできることもある。彼らの思う通りにこの国を動かされてしまうと大変なことになる、と周囲の人に訴えるのもいい。直接話をするのも良いし、ブログという手段だってある(なんでも、特定の候補者を応援してはいけないらしいけど。おかしなことだ)。

そんなことはわかっている。幸運なことに今回の戦いは彼らのほうで墓穴を掘ってくれている。千載一遇のチャンスだ...。
そんなことはわかっている。けれど、選挙、ああ、うるさいな、放っておいて欲しいな、という気持ちもある。かなり大きくある。
私の住居が過疎地であること、それに先日からの大雨のためでもあるだろう。まだ今のところ、外から騒々しい声は聞こえてこない。このまま、静かなままでいてくれ、と思う。

自分の中のそうした気持ちに気がつくと、片方からそんなことではいけないと叱咤する声がする。正論だ。その声の大切さはわかっているつもりだから、無視はしない。投票には必ず行く。周囲の者にだって話はする。
だが、放っておいてくれという気持ちを無視するのも、これまた良くないことだと思う。私だけでなく、おそらくは多くの人が持っている。だが、正論を意識して、なかなか共有できない、そんな気持ち。

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教育の中に潜む格差

田舎で生活していてつくづく感じるのが、時間の流れの遅さ、である。
テレビ・ラジオ等のマス・メディアさらにはインターネットのおかげで「情報」というごく限定された情報については、田舎暮らしであっても都会並みに時間の流れの速さを感じることができる。が、そのことが逆にまた、技術を介せずにわが身の感覚から直接入ってくる情報との違いを際立たせ、余計に田舎での時間の流れの遅さを感じさせるのである。

今回は何をテーマに取り上げたいかというと、タイトルにも挙げたように、「格差」である。なかでも教育格差。

子供の教育格差がいま、問題にされている。自由競争を是とする社会になり、親の経済格差が子の教育格差となってしまいつつある。この格差が未来を担う子供たちから与えられるべき機会を奪い、ひいては国・社会の未来を危うくする。教育格差問題はこうした構図で語られているように思う。
だが、時間の流れの違う田舎にいると見え方がかなり違ってくる。というのも、田舎ではいまだ、教育格差が解消された(と思われた)時代の、そのもう一つ前の格差が厳として横たわっていた時代の構造を引きずっているからだ。都会では時間の流れ時代の流れによってとうに押し流されてしまった構造が、田舎では未だに生き残っている(それも最早、消滅しつつあるが)。

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壮大な風か、ささやかな風か

今頃、『千の風になって』をテーマにするのは気が引けるのだがけれども...
 
私が『千の風になって』と最初に出会ったとき、それは歌の歌詞として唄われていた。そう、昨年の紅白で唄われたのがブレークのきっかけになったという、あの歌である。今となっては、いつ出会ったのはかは憶えていない。紅白は見ていないから、今年になってからのことであるのは間違いない。場所はTVのブラウン管(未だ液晶にあらず)の中だ。

残念ながら、この出会いはあまり芳しいものではなかった。
とてもいい歌だという触れ込みがあったと記憶しているけれど、その期待に反して、どうにも違和感が感じられて聞いていて居心地が悪かった。
詩は、悪くないとは思った。「私のお墓の前で、泣かないで下さい」という出だしは少しショッキングで関心を引きはした。けれど、歌に集中しようとすると何かが阻んだような気がした。

そのときは、その何かに特に注意もせず、やり過ごしてしまった。

次に出会ったとき、それは本の形をしていた。『千の風になって ちひろの空』という形。この出会いははっきり憶えている。四月の下旬、夕食に招待された友人宅でだった。
上がりこんだ友人宅の部屋の片隅にこの本が置かれていた。手にとっては見たものの、あまり期待はしていなかった。先の出会いでの違和感がまだ残っていたか らだ。そして、その絵。これも有名な『ちひろの絵』だったわけだが、この絵も私の期待感を削ぐのに一役買った。というのも、そのときまで私は『ちひろの 絵』を“女子供の好みに迎合する軽薄な絵”というくらいにしか認識していなかったからだ。

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幻痛

『千の風になって』についてエントリーするつもりだったのだけど、予定を変更。dr.stoneflyさんが私の「突然死」を切り口に「ブログでの繋がり」について考察されていて、これがとても面白く感じられたので、そこに乗っかるというかテーマを拝借する形で今回のエントリーとしたい。
「死」と「繋がり」について、もう少し言うと、「死によって繋がりは断ち切られるのか」ということについて。
dr.stoneflyさんの考察はタイトルには“ブログでの”という限定がついているが、内容を読ませていただくとブログ云々は入り口であって、考察はそのずっと先へ進んでいる。
「死」と「繋がり」から「生きる」というところにまで考察が及んでいる。
 
それにしても、思うのだけれど、どうも私にはこうしたテーマを好む性向があるようだ。これまでもこのような訳の分からない重たいテーマでいろいろ書いてきたし、これからも書くだろうと思う。
 
dr.stoneflyさんは実生活での私は知らないと書かれているが、もちろん私の方だって現実のdr.stoneflyさんを存じ上げない。dr.stoneflyさんだけではない。ブログ上の知り合いは現実の知り合いではない。
では、ブログという仮想空間の中だけでの仮想の知り合いか? 知り合いということそのものが仮想なのかと問われると、そう断言できるものでもない。何かがそう断言するのを阻む。
その何かを「現実」と「仮想」、「繋がり」と「死(による断絶)」を整理することを通して考えてみる。
 

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愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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