愚慫空論

リスタートに当たって


リスタートに当たって、ハンドルネームを改名することにします。

“愚樵”(愚かな樵)改め、“愚慫”

発生は今までとおなじ「グショウ」。

“慫”の字は“慫慂”という熟語から。

“慫慂”とは、
  「そうするように誘って、しきりに勧めること」
なんだそうです。

つまり、「“愚”であることを勧める」という意味になりましょうか?

なぜ「大切なものは決してお金に換えてはいけない」のか

前回更新が7がつ3日だから、3ヶ月更新しなかったわけか...。
今回、採り上げるネタもちょっと古くて、9月27日のもの。

◆筆洗(2014年9月27日 東京新聞)

 国が子どもたちへの金融教育に力を入れ始めたころ、時の日銀総裁が講演で、こんなことを話した。

「自分の持っている大切なものを手放してお金に換えても、そのお金は価値をきちんと保全し、次に必要なものを手に入れる時に役立ってくれる」

▼先日、八十六歳で逝去した経済学者・宇沢弘文さんはその言葉に怒りを感じたそうだ。「大切なものは決してお金に換えてはいけない。人生で一番大きな悲劇は、大切なものを国家権力に奪い取られたり、あるいは追い詰められてお金に換えなければならなくなった時です」

▼宇沢さんは十七歳で終戦を迎えた。貧困と失業、経済混乱に苦しむ人々の姿を見て経済学の道を歩み始めた。もともとは医師志望。「経済学は社会を癒やす学問」と考えてのことだ

▼数理経済学でノーベル経済学賞候補に挙げられるほどの成果を挙げた頭脳は、社会・経済の病理に苦しむ人に向けられた。その深い洞察力が認められ、ローマ法王の助言役を務めたこともある

▼生活の糧の海を大企業の利益のため汚され、健康と命を「換金」させられた水俣の人々や、国策による開発で先祖伝来の地を「換金」させられた人々…。そういう人たちの心が救われるまで「日本経済の貧困は解決できない」と言っていたそうだ

▼経済とは、経世済民。世をおさめ、民をすくう。言葉の本来の意味の経済学者だった。



「大切なもの(こと)」とは何か?
「癒やす」とはどういうことか?
「大切なものをお金に換える」とは、どういうことか?

私にとっては、考えるネタがいっぱい。
ちなみに、“考える”というのは、“自分の言葉で言い換える”ということ。

さて、“言い換え”をしてみよう。

「大切なもの」とは、複雑なもの。言葉に置き換えることが難しいもの。

たとえば、大切な人がいて、その理由を尋ねられたりする。
単純に答えられるなら、「大切」ではない。もしくは「大切」の意味を識らない。
「大切なもの(こと)」は、単純に割り切れない。
「大切なもの(こと)」を言い表すとすると、多くの媒体が必要になり、多くの媒体を体系づけるには、高い周波数でなければならない。

媒体? 周波数? 

次は比喩。
おなじみのクラドニ・プレートの動画をご覧あれ。



そんでもって、前の記事を参考にしていただければ。
 ⇒ 〈学習〉とは何か?


続いて、「癒やす」とは?

「癒やす」の反対は、ちょっと難しいけど、「穢す」なんだと思う。
では、「穢す」とは?

パッと思い浮かぶのが、“ヘイトスピーチ”だ。“レッテル”を貼って単純化して、悪意を向ける。
「穢す」ことの必要要件は悪意のように思えるかもしれないが、違う。
単純化は悪意を向けるための条件。
単純化ですでに「穢して」いる。
レッテルを貼られると“嫌な感じ”がする。たとえ悪意がないと理解していても。

だとすると、「癒やす」というのは、複雑化すること。複雑なものだと認めること。
複雑だと認めるのに媒体が要るなら周波数が高くないといけない。

クラドニ・プレートは、割愛。


お金、媒体である。
それも周波数の低い媒体。

お金には「複雑なもの」を「単純なもの」に置き換える効果がある。
「単純」だからこそ、だれからも理解され、だから流動性が高く、価値も保存されると錯覚させられる。

(日銀総裁は「価値は保全される」と言っているが、それはウソである。
通貨(お金)の価値を保全することが日銀の任務であって、ということは、通貨の価値は保全されないことがある、ということだ。
ついでに言うと、今の日銀総裁は“アベノミスク”と銘打って、日本円の価値をどんどん毀損している。)

「複雑で大切なもの」を、もし、お金の換えるとしたら、せめて「大量のお金」を要求したくなるのは人情だろう。
とはいえ、割り切れないものが残るのも人情。
お金は、割り切れないものを割り切ることを要求する。
その代償として、「せめて」、大量のお金を。

多くの媒体を求めるのは、多量であっても多様であっても、言葉としては同じ。
が、意味はまったく異なる。


結び。

なぜ「大切なものは決してお金に換えてはいけない」のか?
複雑なものを単純なものに置き換え、穢されてしまうから。

〈学習〉とは何か?


〈学習〉とはいったい何か?
これもクラドニ・プレートの振る舞いをみると、とてもよくわかる。比喩的に理解することができる。



プレートが「振動」している。
「触媒」を撒くと、「構造」が視覚化される。
「振動」の周波数を上げる。
「構造」がより複雑に変化する。

この「構造」の変化が〈学習〉である。
〈学習〉が為されると内的「構造」が変化し、外界の認識が変化する。
つまり、風景が変わる。
今までと同じ客観的には同じ現象を見ているはずなのに、違ったものに見える。
今まで見過ごしてしまっていたことに気がついて、細かなところまで見通すことができるようになる。


もっと詳しく見てみよう。
「学」と「習」に分けて考えてみる。

(参考は『生きるための論語』)  



「学」とは知識を受け入れること。
言葉を受け入れること。
「媒体」をバラ撒くこと。

「習」は、“後天的に身につくこと”。

†「学」から「習」への飛躍
 「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染み込んでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。
 それがある時、「習」によって完全に身体化される。すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」とわかるのである。そうなることによって、不必要なもの、余計なものは解除される。こうして呪縛から抜けだしたときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。
(『生きるための論語』p.19~p.20)



「振動」の周波数が高くなると、「構造」を視覚化するために多くの「媒体」が必要になる。
なので、余分に撒かれた「媒体」は「振動」の周波数を上げることで、使い切ることが出来るようになる。
まず、「媒体」を受け入れ、「媒体」を使い切るために「振動」の周波数を上げることが、〈学習〉である。

学而不思則罔
思而不学則殆

学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。
「媒体」を受け入れても、「振動」の周波数を上げないと魂が抑圧される。

思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し
「振動」の周波数を上げても「媒体」が少なければ、「構造」を組み上げることができない。

【媒体】がイッパイ!


またもやクラドニ・プレートの話。


生命の〈振動〉は、「媒体」によって視覚化される。
「媒体」によって視覚化された「構造」を“共同のもの”とコミュニケーションを為す。
そうしたコミュニケーションによって運営される集団が、共同体。コミュニティ。

“共同のもの”すなわち【コムニス】は、とても便利なもの。
まず理解しやすい。言葉とか貨幣とか。つまり「記号」だ。
「記号」は記録することができる。そのことによって、空間的にも時間的にも遠くへ伝えることが出来るようになった。

明文化された言葉(法律)によって秩序づけることができる。
歴史を構築することもできる。
正確に計算することができる貨幣によって、経済を運営することが出来る。

こういったことで実現するのが文明社会。大きな社会。

「大きな社会」は非常に強力である。
内に向けても、外に向けても猛威を振るう。

外に向けては環境問題として、現在、立ち現れている。
内に向けては、貧困問題。
社会は強力で全体としては豊かになったのに、なぜか貧しい人々が多く出現してしまう。
強力なはずの社会が混乱して、戦争が起きてしまう。

これらはみな、【コムニス】による〈コナトゥス〉の抑圧から起きる。

では、「コムニス」は絶対的悪か?
そう考えてしまうとディープ・エコロジー、文明の全否定になってしまう。

必要悪か?
だとすると、消極的にではあっても、戦争や貧困問題や環境問題を、必要なものとして受け入れるしかなくなる。

技術の進歩が全てを解決する。
そういう希望もなくはないが、もはやSFチックな夢でない。

「コムニス」は善でも悪でもない。
生命の〈振動〉の上に「触媒」をバラ撒くことが出来る。
そうすることでヒトは「人間」になる。
ヒトが「人間」になるのは、ヒトの大きな特長だ。そこを殺すことはない。

ただ、特長が特長であるが故に行き行きすぎて、反って種として滅亡の原因になることがある。
ヒトだけではなく、他の種でもある。
生態系に普通にある現象だ。



グラトニ・プレートに「媒体」を撒く。
どんどん撒く。
撒いて撒いて撒きまくる。
すると、どうなるか? 想像してみてほしい。

〈振動〉は「媒体」に埋もれてしまって、抑圧されるようになる。
魂の抑圧。

適度な量ならば視覚化される「構造」も、埋もれて不明瞭になってしまう。
社会秩序の混乱・崩壊。

「媒体」は【コムニス】となって、〈コナトゥス〉を疎外し始める。
生きにくいのは、当然。

【空気】化による「糞捨て場」


「コミュニケーション」のためのツールとして「言葉」。
〈コミュニケーション〉のための〈言葉〉。
【コミュニケーション】のための【言葉】。

〈言葉〉と【言葉】は同じもの、というより、「言葉」のなかに〈言葉〉と【言葉】の両方の要素がある。
どちらを観て、どちらを受け取るか。そして、どちらに返すか。

〈言葉〉に〈言葉〉で返す。 楽しいおしゃべりとか。感情的な口喧嘩とか。
【言葉】に【言葉】で返す。 冷静な議論。
〈言葉〉に【言葉】で返すのもあるし、【言葉】に〈言葉〉で返すのもある。いろいろグラデーションがある。
そうしたグラデーションを使いこなすことが出来る能力が、コミュニケーション能力。


以上を踏まえて、

『なぜ日本のネット空間は「2ちゃんねる的」なのか』(第三の波平ブログ)

日本人の「空気」による同意を目指すネット空間

ネットコミュニケーションはフラットな空間として設計されているために、基本的に「上からの声」はない。すると「空気」による暗黙の同意を目指すことになるが、テクストのみのネットコミュニケーションでは「空気」は伝わりにくいというフラストレーションが絶えず、日本のネットコミュニケーション空間に生まれ続ける。

日本のネットコミュニケーションは絶えずいかに「空気」を伝えるか、「空気」を操作するか、を元に作動している。空気は論理的な一発言では伝わらない。コメントが連続することで生み出される。それも論理的であるよりも感情的、刺激的なコメントによって。



「空気」は、〈言葉〉によって生まれる。〈言葉〉だけではないが。
「空気」を伝えようとするのが〈言葉〉である。
なので、本来、「空気」は〈空気〉なのだが、それが【空気】になってしまうのが日本的。
「空気」は本質的にはフラットな〈空気〉であるのに、【空気】は序列的。

例えば「スクールカースト」のような問題は、【空気】によって引き起こされる。

  『スクールカーストとは?』(NEVERまとめ)

日本で〈空気〉が【空気】化しやすいのは、まず、日本語の基本構造が〈言葉〉的だから。
蠱物(まじもの)としての言葉蠱物(まじもの)としての言葉
(1989/10)
佐々木 孝次

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そもそも【言葉】的な欧米の言語は、まずもって「空気」が生まれにくい。

しかし、それだけが【空気】化の条件ではない。
「ミスマッチ」がある。
「近代」と「日本」のミスマッチ。
日本的「空気」が「近代」に引きずられて【空気】化する。
特に「学校」が、システマチックに〈空気〉を【空気】化していく。

日本のネット空間は、〈空気〉が【空気】化していくことの副作用として生まれた。
2chは、【空気】化への抵抗の場。
ネトウヨやブサヨなどの政治的言論ふうの場は、【空気】化への場。
いずれにせよ、【空気】化によって生じる情動的な「糞」の捨て場である。

「糞」を“ゴミ”としてみれば、2ch批判になる。
【理性】的で、近代的視線である。

「糞」を生命の自然な作用だと捉えると、2chは巨大な「セラピー」の場だと捉えることができる。

ツイッターやFacebookのようなネット空間は現実世界にリンクしやすいように設計されているから、「糞」を捨てにくい。
2chやブログはフラット設計で匿名性が高いので、捨てやすい。
なので「糞捨て場」になる。

現在の学校も「糞捨て場」になっていると思われる。
コミュニケーション能力の高い者が低い者へ「糞」を押しつけるという意味での「糞捨て場」。
糞まみれにされた者は学校という場から逃げ出すが、
しかし、「糞」を捨てないわけにはいかないので、
次々に「糞」を押しつける相手を探すことになる。

いつから糞が糞になってしまったのか?

映画『OASIS』

クラドニ・プレートの話は一回休みで、映画を採り上げます。

2002年制作の韓国映画『オアシス』。
未鑑賞の人は、ぜひ見て欲しい。

見始めて、最初は気持ちが悪い。
どこかおかしな振る舞いの男。おそらく軽度の知的障害者。出所してきたばかりの前科者。
気持ち悪さは、重度脳性麻痺の女が出てくるところで、さらに高まる。

『オアシス』は、そんなふたりの恋愛物語。

気持ち悪さに耐えて二人の恋愛を観ていると、自身の「気持ち悪さ」が嫌悪感に変わる。
「気持ち悪い」というのが、偏見だと気づかされる。

二人の社会への適応能力は低い。
そんなふたりだから恋に落ちたという解釈も成り立とうが、そんなことはどうでもいい。

社会への適応能力とは【コムニス】を解する能力、すなわち【コミュニケーション】能力である。
社会のなかで自身も、その周囲の者も含めて、快適に暮らすには重要な能力だ。
このふたり、そこは低い。
男の方はすれすれ、もしくはちょっとアウト。女は完全アウト。
そんなふたりの恋愛も、完全アウト。
愛を交わしたら警察沙汰になる。それも周囲の「善意」が作用して。

でも、そんなの全然関係がない。
ふたりの〈コミュニケーション〉能力の高さとは。

(ときおり「異常」なふたりの恋愛模様が、ファンタジックで美しい「正常」な様子に切り替わる場面がある。
「異常」に見えるかもしれないが、ふたりはこんなに楽しい恋を展開しているのだぞ、と。
この手法、嫌らしいほどに効果的。)

『オアシス』は、社会の異常性をえぐり出す。高度に正しく理性的。
〈コミュニケーション〉を基準にすれば、社会の常識的な正常というのが、如何に異常なことか。
「異常」とか「病気」とかいうレッテルを貼り付けて、そして〈コミュニケーション〉を停止してしまう。

〈生きる〉というのはどういうことなのか?
激しく突きつけてくる。
超名作。

【コムニス】からの離脱


“コムニスからの離脱”というのは、安冨さんの『経済学の船出』第6章のタイトルである。



“コムニス”という語はラテン語で、“コミュニケーション”という言葉の語源にあたるらしい。
意味するところは、「共通のもの」。
とすると、“コミュニケーション”と「共同のものを共有すること」ということになる。
語源を同じくする“コミュニティ”は「共同のものを共有する集団」。

では、「共同のもの」とは何か?

生命の〈振動〉に「触媒」がばらまかれ、「構造」が視覚化される。



視覚化された「構造」が「共同のもの」であり【コムニス】なんだと私は考える。

ちなみに『経済学の船出』第6章コムニスからの離脱、第7章『エチカ』に非線形性では、スピノザの思想を軸に【コムニス】批判が展開されていて、【コムニス】に対応する概念も提出されている。それを〈コナトゥス〉という。 

〈コナトゥス〉を説明するのに『経済学の船出』では、ホイヘンスの振り子時計共振実験が採り上げられている。
別々に製作した振り子時計をたまたま同じ壁に掛けておいたら、いつの間にか振り子が同期していた、という発見。
〈コナトゥス〉というのは、人間の本質としての自己保存の努力といったような意味らしいが、それを超えて、それぞれ個性をモノ(生命も含む)が共振・共感しようとする意志のようなもの、とでも言えばいいか。

共振・共感するということは、そこに繋がる“何か”があるんだけど、そこに「触媒」【コムニス】は必ずしも必要ではない。
いや、「“何か”がある」という発想がすでに【コムニス】志向なんだろう。



振り子時計は、ただ繋がっているだけ。繋がれば、共振・共感しようとする意志のようなものが万物には備わっている。その性質を〈コナトゥス〉と呼ぶ――といったところが正確な記述かな。

この振り子時計共振実験から連想するのは、振り子時計をグラトニ・プレートに置き換えて共振実験をしてみたら、どんな現象がみられるか? ということ。「触媒」が描き出す「構造」は、それぞれどのように変化するのか? 同期してそれぞれで寸分違わぬ模様を描き出すのか?

興味深いところだ。どこかに実験動画ないかな?

〈コミュニケーション〉と【コミュニケーション】


「コミュニケーション」に“〈 〉” もしくは “【 】”の括弧をつけて表現した、

 〈コミュニケーション〉と【コミュニケーション】。

この2つは同じようで大きく異なる。



生命は〈振動〉である。
個体ごとにちょっとズレている周波数をチューニングするのが〈コミュニケーション〉



〈振動〉に「媒体」がばらまかれて、視覚化された「構造」を一致させようとするのが【コミュニケーション】。

ヒトが【コミュニケーション】能力を獲得することで、人間となる。
ヒトは【コミュニケーション】能力を獲得したことで、他の種の生存競争に勝ち抜いてきた。
ヒトは【コミュニケーション】能力によって【社会】を運営するようになり、文明を築き上げた。
ヒトは【コミュニケーション】能力によって【欲望】を憶えるようになり、際限なき競争を繰り広げるようになり、環境を食いつぶすようになってしまった。

【コミュニケーション】は〈学習〉を停止させる危険が高い。



メッセージを投げ合い、AとBそれぞれ固有の〈振動〉を調和させようとするのが〈学習〉であり〈コミュニケーション〉。
メッセージのやりとりは「媒体」を使って為されることもあれば、身体的な信号をやりとりすることもある。
前者はヒューマンコミュニケーション。後者はアニマルコミュニケーション。

ヒューマンコミュニケーションは【コミュニケーション】を孕んでいて、〈学習〉を停止させる危険性が高い。

AとBが「媒体」を使って「コミュニケーション」をしているとする。
「コミュニケーション」を重ね、双方の「模様」が一致したとしよう。
すると、“模様”に対して〈振動〉をチューニングしようとする働きが起こる。
この働きは、おそらく“理性”と呼ばれるものだ。

生命体としてのヒトの順当な流れは 〈振動〉 ⇒ 「媒体」 ⇒ 「構造」 である。
この働きは、たぶん“知性”。

知性によって「構造」が構築され、【コミュニケーション】によって個々の「構造」調整が行われる。
そして、 「構造」 ⇒ 「媒体」 ⇒ 〈振動〉 という逆転現象が起こる。
「構造」に合わせて〈振動〉をチューニングする。
ここにおいて理性による【暴力】が生まれることになる。

【コミュニケーション】の目的は多くの場合、相手の支配である。
「構造」調整――「正しさ」の追及――によって相手を追い詰め、調整された「構造」に〈振動〉をチューニングするように相手を責める。

「コミュニケーション」




・・・・

似合うはずもないふたりと 噂されるのもいいさ
キメすぎばかりじゃ息も出来ない
心の奥を覗いて愛を確かめるなんて
男の女の謎の楽しさ
知らず知らずに捨ててるだけだよ

はじめからちょっとズレてる周波数
無理も我慢もしなくていい
ちょっとずれている周波数 百も承知でいたよ

・・・・

懐かしいなぁ (^_^)

前記事に毒多さんがコメントをくれた沢田研二『恋のバッドチューニング』
作詞は糸井重里なんだね。
歌謡曲(というのも懐かしい)らしく恋愛がテーマだけど、これはコミュニケーションのあり方そのまま。

恋をして仲良くなって遠慮がなくなって、自我を押しつけ合うと、恋は破綻する。



こんなのを思い出してしまった。


生命活動は〈振動〉である。



生命をそれぞれ個別のクラドニ・プレートだと考えると、個別の生命は個別の周波数を持っている。
同じ種だと近いけれど、同一の周波数ではない。
“ちょっとズレている周波数”なのだ。

〈コミュニケーション〉とは、ズレている周波数をチューニングして共振させること。



コミュニケーションを為しているAとB。
メッセージを送り合い、それぞれ〈学習〉している。
この〈学習〉こそ、チューニング。

子曰
學而時習之不亦説乎
有朋自遠方來不亦樂乎
人不知而不慍不亦君子乎


論語でいうなら、「学」はメッセージの送受信。「習」がチューニングになるんだろう。

学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや

〈学習〉は楽しい。

朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや

遠方の友人が訪ねてくれたように、と言うんだけど、恋愛のようにと言えなくはないかもしれない。

人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや

〈学習〉を為すにはコミュニケーション回路が開かれていなければならないのだけど、回路が開いていると相手の周波数に一方的に同調してしまう危険もある。そうなると、恋は辛い恋になってしまう。
君子はそんな辛い恋はしない、ということだね。^^;

「自我」


今回は「自我」。
私は私である、という自己認識。アイデンティティー。

昨日の夜、寝て、今朝、起きた。昨晩、寝る前の「私」と、今、目覚めた「私」は同じ「私」。
変わらない。
本当は変わっているだけど、変わらない感じる。

本当に同じ「私」なのか? という疑問が浮かぶことはあるけど。
本気で疑いだしたら、病気。ふつうは、ね。

三度、同じ動画の登場。これから何度も登場することになる。



プレートの「振動」が生命活動に相当すると考える。
私たちの「自我」を支える生命の振動。

そこに「触媒」が蒔かれる。
この場合、「触媒」はおそらく言葉であろう。
ヒトは言葉を習得することができる。

言葉を学習すると、生命の「振動」に導かれて「構造」が浮かび上がる。
構造の形は、変化しないように見える。
これが昨晩の「私」と今朝の「私」を同じだと感じさせる「自我」


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プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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