愚慫空論

『シン・ゴジラ』

取り上げるつもりはなかったんですけど (^_^;)



観たのは もう半年ほど前になりますか
劇場で観てきました

「まあ そこそこ面白かったんじゃない?」

何をどう面白いと感じたのか 「感じ」の記憶はほとんど残っていません
ただ 「そこそこ面白かった」という言葉を脳裡に浮かべた記憶は残っています

言語化された部分の記憶がのこっています
逆に言えば 感覚の記憶はあまり残っていない
刺激的ではあったけど それだけだった
なので 特に何かを書き残そうという気にはならなかった


ところが残っていなかったわけではなかったんです
残ってはいたけど それは「面白い」という言葉を貼り付けた部分ではなかった
それが



を観たことで引っ張り出されてきたわけです


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『サピエンス全史』その11~お前たちのための支配

『その10』はこちら (^o^)っ リンク

 


この新しい帝国のビジョンは、キュロスやペルシア人からアレクサンドロス大王へ、彼からヘレニズム時代の王やローマの皇帝、イスラム教国のカリフ、インドの君主、そして最終的にはソヴィエト連邦の首相やアメリカ合衆国の大統領へと受け継がれた。慈悲深い帝国のビジョンは、帝国の存在を正当化し、支配下にある民族による反乱の試みだけではなく、独立した民族が帝国の拡張に抵抗する試みまで否定してきた。



新しい帝国のビジョンとは何か?

  「お前たちのため支配

これはどういうことか?

進化の結果、ホモ・サピエンスは他の社会的動物と同様に、よそ者を嫌う生き物になった。サピエンスは人類を「私たち」と「彼ら」という2つの部分に本能的に分ける。「私たち」はあなたや私のような人間で、言語と宗教と習慣を共有している。「私たち」は互いに責任を負うが、「彼ら」に対する責任はない。「私たち」はもともと「彼ら」とは違うのだし、「彼ら」にはまったく借りがない。「彼ら」には「私たち」の縄張りに入ってもらいたくないし、「彼ら」の縄張りで何が起ころうと、知ったことではない。「彼ら」はほとんど人間でさえない。




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『リア充にも負けず』

ネットで出逢った自己愛表出の形をご紹介



『リア充にも負けず』

カップルにも負けず
クリスマスにも負けず
夏祭りにも 桜の切なさにも負けず
丈夫な心を持ち
嫉妬はなく
決して彼女の募集はせず
いつも一人で 耐えている

東にクリスマスイルミネーションあれば
行って 一人で楽しみ
西に花火大会あれば
行って 一人で楽しみ
南に桜の美しい花見があれば
行って 一人で楽しみ
北に恋愛映画あれば
行って 一人で楽しみ

切ないときは アニメを見て
楽しいときも アニメを見て
みんなに キモヲタと呼ばれ

ほめられず
必要にもされず
そういう独身男性に
わたしはなりたくない
幸せになりたい



素晴らしく切ない自己愛の表現ですね

いろいろと考えさせてくれます

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『太陽の蓋』

映画です
力作です
もう一度言いましょう 力作 です



ネットから拾った情報によれば 
本作は隠密行動で製作されたそうです
映画関係者も試写会が執り行なわれるまで その存在を知らなかった


なにゆえ 隠密に制作されなければならなかったのか?
その答えは情報収集先にはありませんでしたが
察するのは容易です

ある一部の人たちには触れられたくないテーマであろうから です


おっと 本作が取り上げるテーマを紹介していませんでした

3.11 危うい真実をあなたは目撃する

「史上最悪の危機」を迎えた日、官邸内で何が起きていたのか。
当時の閣僚たちが実名で登場する究極のジャーナリスティック・エンターテインメント

福島原発事故から5年。関係者による著書、様々な報道番組やドキュメンタリー、調書の公開など…当時の状況が 解明されたかのように見えつつ、人々の記憶は早くも風化され真相が明らかにされることなく原発事故問題の幕が引かれようとしている。 本作品では数多くの報告書や資料を分析し、事故対応当事者であった政治家や閣僚、被災地である福島での直接取材を敢行。5年という年月が経った今だからこそ伝えられる、「あの日」をセンセーショナルにあぶり出す!

★真実に肉薄するポリティカルドラマ!
東日本大震災~福島原発事故が起きた3月11日からの5日間。原発事故の真相を追う新聞記者をキーパーソンとし、当時菅直人政権であった官邸内、さらに東京や福島で暮らす市井の人の姿を対比させて描く。菅内閣の政治家は全て実名で登場させ、原発事故の経過や対応を事実に沿って丹念に追う。情報が錯そうする中、極度の緊張感にあった人間ドラマを描き、官邸内部のリアルな様子を浮かび上がらせる。原発と共に生きて来た福島の人々の葛藤、事故発生によって翻弄されるマスコミや東京に暮らす人々を切り取ることで原発と日本人の姿を俯瞰的に捉えている。 



動画を見て頂ければ 説明の必要はありませんが (^_^;)


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『いなか、の、すとーかー』『ウォークイン・クローゼット』

ふたつ続けてケチをつけるような記事を書くのは心苦しいのですが...
でも 心苦しさは振り払って 書きます
心苦しさに負けて 正直であることを放棄するのがいいことだとは思いません





期待外れな読書になってしまいました

弁解をしておきますが 残念な読書になってしまった原因は ぼくにあります
作者にはなんらの責はありません
ここは明言しておきます

決して残念な作品ではないと思います
ただ ぼくが読書前に持っていた期待とは違ったものだったというだけのことです



綿矢りささんのこれらの作品を読んでみようと思ったのは
佐藤優さんの著書で紹介されていたからです



『嫉妬と自己愛』について書いた文章の中でぼくは

 > 佐藤優さんは「自らが「絶望」を識っている」ことを知らないのではないか?

という疑問を持ちました

この疑問に ぼく自身 腑に落ちないものがあったのですけど
『いなか、の、すとーかー』『ウォークイン・クローゼット』を読んでみて
腑に落ちなさがなんだったのかが判明したように思います


佐藤優さんと綿矢りささんに共通すること
それは

 自らを他者の自己愛や嫉妬の被害者であると位置づけている

ことです
加害者意識の方は希薄 つまり

 自身のなかにあるはずの自己愛についてはスルー

なんです
これでは「絶望を識っている」という見立ては撤回しなければならないかもしれません
むしろ

 絶望を知ってはいるが識らない

のほうが正解だったかもしれません
絶望を識ろうとしていることは間違いないと思いますが

でも 自らの腐臭に気がつかないなら 
死に至る病という意味での「絶望」は識り得ない...


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『オーバーフェンス』

映画の話です



タイトルは「オーバーフェンス」

小説の原作がある映画だそうですが
まあ 別にいいでしょう
そのあたりは

家庭を壊してバツイチになった男 白石(オダギリジョー)
なにゆえにか壊れている女 聡(蒼井優)

このふたりのラブストーリーと言っていいんでしょうかね
でも だとしたら「フェンス」って何なんだろう?


舞台は函館
なんでも「函館三部作」の最終作なんだそうです
原作を書いた小説家 佐藤泰志さんというんだそうですが
その人が函館出身とかで


以下は 若干ネタバレありなので 追記へ

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『サピエンス全史』その10~認知的不協和の最適解

『その9』はこちら (^o^)っ リンク

 


最強の征服者 貨幣

貨幣がなぜ最強の征服者となったのか
端的に答えるなら

 経済的な認知的不協和における最適解

だからです

「経済」とは今日的には「貨幣の運動」を指しますが
それは貨幣経済が普遍化した結果からもたらされた歴史的現象です

本来的に「経済」は「暮らし」とほぼ同義といってよい
かつての日本の共同体の「暮らし」の中には
 仕事
 稼ぎ
2つの営為がありました
 「仕事」の場を「生活空間」
 「稼ぎ」の場を「システム」
というふうにも言うことができます
ハーバマスなどは
 「生活空間」を「自由の王国」
 「システム」を「必然の王国」
と言ったらしいですが 後者はともかく前者には違和感を持ちます

「自由」を「認知的不協和放置の状態」とするなら なるほどその通りだとは思います
違和感を持つのは
ここには「解」という言語的発想へのとらわれがあるような印象を持つから
「言語的発想への囚われ」という言葉が言語の限界を示すような言葉ですが


〔ヒト〕に備わる認知的不協和の解決法は2つあります

 言語的解決法
 身体的解決法

認知革命以前のサピエンスは おそらく後者しか持ち合わせいませんでした
身体的解決法には「解」などというものはありません
それは感覚的なものであり動物的なものですから
そもそもが 言葉にならないの

たとえ言葉にならなくても 「解」はなくても不調和の解決法はある
解決法がある限り 解決を導く法則もある
法則があるなら 制約もある
身体的・自然的制約です
そららの制約に基づいて不調和が解決されることを ぼくは

 自在

というふうに呼ぶことにしています




前置きが長くなってしまいました

歴史とは 偶然の積み重ねが必然へと成長していく物語のことです
その歴史が表しているのは 人類が統一へと進む大きな流れ
認知的不協和を言語的に解決するために生み出した虚構によって
人類は統一の方向へと歩みを進めています

人類が統一へと向かう3つの経路

 貨幣
 帝国
 宗教

このなかで貨幣が最強であるのは
貨幣がサピエンスの経済分野 すなわち「暮らし」の支配者だからです

帝国は「現実」を秩序づけます
宗教は「虚構」を秩序づけます

帝国や宗教がいかに秩序づけようとも
サピエンスが生活する 「暮らす」という現象なしには
いかに秩序があろうとも 秩序そのものが成立しません

貨幣は秩序を成立させる基盤を秩序づける

もってまわったような言い方ですが
このことが貨幣が最強であることの理由です


歴史はその傍証を提供してくれます

西暦で12世紀
十字軍と呼ばれる現象が出現していたころの話です

キリスト教徒が徐々に優位に立つにつれ、彼らはモスクを破壊して教会を建設するだけでなく、十字架の印の入った新しい金貨や銀貨を発行し、異教徒との戦闘での力添えを神に感謝することでも、勝利を祝した。だが、勝者は新しい硬貨だけではなく、ミラーレという別の種類の硬貨も鋳造した。この硬貨は、いくぶん違ったメッセージを伝えるものだった。キリスト教徒の征服者たちが造ったこの四角い硬貨には、流麗なアラビア文字で次のように宣言されていた。「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり」。メルグイユやアグドのカトリックの司祭さえものが、広く流通しているイスラム教徒の硬貨の忠実な複製を発行し、敬虔なキリスト教徒たちも喜んでそれを使った。

寛容性の反対側の陣営でも盛んに発揮された。北アフリカの意すら見無教徒の貿易商人たちは、フィレンツェの風呂林金貨やヴェネツィアのダカット金貨、ナポリのジリアート銀貨のような、キリスト教徒の硬貨を使って商いをした。異端者であるキリスト教徒に対する聖戦を呼びかけるイスラム教徒の支配者たちまでもが、キリスト教や聖母の加護を祈願する硬貨で、喜んで税を受け取った。



宗教よりも貨幣が強い!

イエスは「皇帝のものは皇帝のもとへ 神のものは神のものへ」
と言ったそうですが この現実を前には 戯言に聞こえてしまいます


1519年、エルナン・コルテス率いる征服者(コンキスタドール)が、それまで孤立していた人間世界の一つであるメキシコの侵入した。アステカ族(現地に住んでいた人々は自らをそう呼んでいた)は、このよそ者たちが、ある黄色い金属に途方もない関心を示すことにたちまち気づいた。実際、彼らは飽くことなくその金属について話し続けるようだった。原住民たちは、金と馴染みがなかったわけではない。金は美しくて加工しやすいので、それを使って装身具や彫像を作っており、交易の媒体として砂金を使うこともあった。だがアステカ族が何かを買いたいときには、たいていカカオ豆か布で支払いをした。したがって、スペイン人が金に執着するのは不思議に思えた。食べることも飲むことも織ることもできず、柔らかすぎて道具や武器にも使えないこの金属が、どうしてそれほど重要なのか? なぜスペイン人はそれほど金に愛着を持つのかと原住民がコルテスに尋ねると、彼はこう答えた。「なぜなら、私も仲間も心臓の病のかかっており、金でしか治せないからだ」



本当にコルテスがこのような発言をしたのであれば
彼には「征服者」の他に「詩人」という称号も与える必要があります


スペイン人とアステカ人の認知的不調和が示すのは
貨幣が金である必然性はなかったということです

アステカ人の社会にも貨幣は存在した
が それは金ではなかった
だから スペイン人の金への愛着に素朴な疑問を持った
素朴な疑問が コルテスから詩的な回答を引き出した


現代社会で経済活動に勤しむわたしたちは 貨幣が虚構であることを知っています

タカラガイの貝殻もドルも私たちが共有する想像のなかでしか価値を持っていない。その価値は、貝殻や紙の化学構造や色、形には本来備わっていない。つまり、貨幣は物理的現実ではなく、心理的概念なのだ。貨幣は物質を心に転換することで機能する。



現代社会において流通する貨幣の大半は もはやデータでしかありません
貨幣が物質的な装いを無くしてもまだ実存し続けるのは
貨幣が心理的概念 すなわち 虚構 だからです


上での「知っている」としたのには理由があります
すなわち「識ってはいない」ということです

わたしたちは まだ虚構に対応する体系的な方法を知りません
個人的技法として それを体得した者はいるでしょう

虚構まみれの〔人間〕でありながら虚構の呪縛から免れる
これには非常に高度な技法を要します
おそらくは 生来的にそうしたセンスに恵まれた〔ヒト〕にしか為しえない技です

だとすれば そんなことに不協和の解決を求めるのは合理的ではない――

つまり わたしたちはまだ 十分に合理的な存在になりきれていない
虚構がルサンチマンを生み
ルサンチマンが虚構を崩壊させつつある兆候が見えるのに
崩壊を収束させる手順書を未だ手にしていないがために
手探りのシビア・アクシデントとして対処するしかありません

地球生態系を絶滅させうる核兵器を手にしている一方で――




歴史にはスペイン人とアステカ人の認知的不協和が
どのようなどのような解決を辿ったのかが記述されています
それは“詩人”コルテスのもうひとつの称号
すなわち「征服者」という言葉から明らかでしょう

帝国的に不協和を解決したのです


「征服者」という称号は 今日は汚名になってしまっています
が コルテスやピサロのそのようなレッテルを貼って済ますのは
安易な事実の把握方法です

コルテスに続いたピサロはともかく
コルテスは 少なくとも最初は 自らは「探検家」のつもりだったと言います

「探検家」コルテスが「征服者」に変貌したのには背景があります

国や文化の境を超えた単一の貨幣圏が出現したことで、アフロ・ユーラシア大陸と、最終的には全世界が単一の経済・政治圏となる基礎が固まった。人々は互いに理解不能の言語を話し、異なる規則に従い、別個の神を崇拝し続けたが、誰もが金と銀、金貨と銀貨を信頼した。この共有信念抜きでは、グローバルな交易ネットワークの実現は事実上不可能だったろう。16世紀のコンキスタドールたちがアメリカ大陸で発見した金銀のおかげで、ヨーロッパの貿易商人は東アジアで絹や磁器、香料を買うことが可能になり、それによってヨーロッパと東アジアの両方で経済を成長させた。メキシコとアンデス山脈で掘り出された金銀のほとんどは、ヨーロッパ人の指の間を擦り抜けて、中国の絹と磁器の製造者の懐に納まった。コルテスとのその仲間たちが冒されていた「心臓の病」に中国人たちもかかっていなかったら、そして、彼らが金銀で支払いを受けるのを拒んでいたら、グローバル経済はどうなっていただろう?



その背景とは端的に 「中国人たちも「心臓の病」にかかっていた」 ことです

「心臓の病」がなければ コルテスは「征服者」になりはしなかった
だけれども その病が蔓延した社会がなければ
コルテスはそもそも「探検家」たり得ませんでした



アメリカ大陸の金銀が欧州と東アジアの両方の経済を成長させた

この歴史的現象は非常に重要です

この影響は経済史的なものに留まりません
この現象こそが後におこる「科学革命」の震源だからです


科学革命に触れるのは もう少し先のことになりますが

『その11』へと続きます


『なぜわれわれは福島の教訓を活かせないのか』

前回前々回に続いて「フクシマ」が話題です
原発事故について

前回、前々回は「NHKスペシャル」がネタもとでした
原発事故を扱ったNHKスペシャルも放映されましたし 観てみました
新しい切り口から事故に迫った作りではありましたが 
特に感じるところはなかったところに ビデオニュースドットコムの番組です



この番組が提供した情報はとても重要で深刻だと思いました

しかし、ここに来て、新たに重要な指摘がなされている。それは、そもそも事故直後の対応に大きな問題があったのではないか、というものだ。

日本原子力研究所(原研)などで原発の安全を長年研究してきた田辺文也・社会技術システム安全研究所所長は、日本の原発には炉心が損傷するシビアアクシデントという最悪の事態までを想定して3段階の事故時運転操作手順書が用意されており、ステーション・ブラックアウトの段階からその手順書に沿った対応が取られていれば、あそこまで大事故になることは避けられた可能性が高いと指摘する。少なくとも2号機、3号機についてはメルトダウン自体を回避できたのではないかと田辺氏は言うのだ。




ぼくはもとより原発には反対の立場です
それは「フクシマ」以前から変わりません

「フクシマ」以前 ぼくは原発には反対だけど 現状は認めるという立場でした
段階的に それもなるべく速やかに原発から撤退すべきだろうけれども
ただちに全廃せよ という立場は採らない

そうした自身の立場を振り返って
ぼくも「安全神話」に毒されていたんだと反省しています
日本では過酷事故は ないとは言えないけれど まずないだろうと思ていました

しかし「フクシマ」は起きてしまいました


原発事故直後 主にネットで 発進される情報の渦にぼくも身を晒しました
そうせずにはいられなかった
安心するにしても 批判をするにしても 某かの拠り所が欲しかった

けれど 漠とした疑問がありました
さまざまな専門家たちが 原子炉内の状況を科学的知見に立って予測を述べていました
そうした予測を受けながら

 「そういうことは事前にわかっていたはずでしょ?」

という思いがどこかにあったような気がします

想定外の地震の揺れの大きさだとか そういう大きな話ではなくて
もっと細かいところ
どこどこの設備がどうとか 時間経過がどうとか


人類の知識と技術は月面に人間を送り込むところにまで達しています
大まかなことは 大まかな物理の知識があれば想像はつきます
でも 大まかな想像が実現に至るには
素人には想像を絶するほどの微細な知識の集積があるはず
素人には「あるはず」としか言えないけれど
だから信頼を寄せるしかないんだけれど
でも 信頼を寄せるに足るものはあるはずだと思っていました

原発に関して 「フクシマ」以前は


その信頼が「安全神話」に過ぎなかった
これは衝撃でしたが この番組が指摘したことは
その衝撃を再度 覆すものです

実は「信頼に足るもの」はあった

いえ 今となっては それが本当に「信頼に足るもの」だったかどうかは疑わしい
こうした「疑い」は 別所で書いた「腐臭」に似ていて
一旦 発してしまうと容易に脱することができない類いのものです

だとしても「信頼に足るもの」だったかもしれないものは あった
具体的には
 ・事象ベース手順書
 ・徴候ベース手順書
 ・シビアアクシデント手順書
の3つのマニュアルです


マニュアルの内容については触れません
触れることができないし その必要もないと思うから
それは そういう立場の人が 熟知していればいいことだと思うから

「そういう立場の人が熟知している」だろうと推測
これが「信頼」というものです


話をすすめるには 「信頼」の中身を整理しておく必要があります

「信頼」には2種類あります
 技術への信頼
 人間への信頼

上で「信頼に足るもの」といった時の「信頼」は技術的な意味です
〔世界〕には科学という言語体系で記述できる法則がある

科学は〔世界〕のすべてを記述し尽くしたわけではありません
それでも 原子力発電所で起こりうるであろう現象については
相当程度には記述が為されているだろう

「安全神話」が喧伝されるにしても根拠はあるはずで
それは「相当程度の記述(メルトスルーは防ぐことができる技術)」に違いない
それがなければいくらなんでも「安全神話」は唱えられないだろう
・・・・・・

今回提供された情報から判明したのは 根拠のほうはあったということです
同時に判明したのは 
根拠はあったにもかかわらず
「信頼されるべき人たち」が それを我が物としていなかった という事実です

 技術はあった(らしい)
 にもかかわらず 技術者たちが技術を蔑ろにした

そして

 技術への信頼は(ある程度)回復した
 技術者たちへの不信は さらに増大した


原発のような巨大で危険な技術体系には
 技術への信頼
 人間への信頼
どちらも欠かせません
これは原発に限った話ではなくて高度に技術化した現代社会全体に欠かせないものです

日本社会というスケールでこれらの信頼を眺めてみた場合
「技術への信頼」もさることなら「人間への信頼」も厚いものがあります

たとえば鉄道の運行の厳格さ
緻密な運行ダイヤが破綻なく守られているのは
それを可能にする技術もさることながら
運営に当たる人たちの誠実さあってのこと
この誠実さを疑う人は少ないでしょう
すなわち「人間への信頼」です

他にも 崩壊の危機が懸念されている宅配の現場 だとか
苛酷な状況が それでも崩壊せずにいるのは
「人間への信頼」があって
その「信頼」に応えようとしている人たちが尽力しているからでしょう

運輸業界の値上げが話題になって
許容する空気が強いように感じますが
それも「人間への信頼」がベースにあるように感じます


その一方で 「人間への信頼」がまるでダメになってところもある
昨今 頻繁に取り上げられるところでは 
東京の豊洲市場への移転問題
「安心」と「安全」とがごちゃ混ぜになった議論が続いているようですが
言葉を置き換えてみれば
 安全=技術への信頼
 安心=人間への信頼
でしょう

「人間への信頼」が喪失したところは立ちゆかなくなっている
それはなにも日本だけの話ではなくて
 アメリカのトランプ現象も
 イギリスのBREXIY現象も
同様の兆候のように感じられてしまいます


なぜ こんなことになるのか

参考になる記事があります

 『グーグルが突きとめた!社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ』

求めるところが「生産性」になってしまうのが現代的ですが
しかし この記事が指摘しているのは
その“現代的”な生産性を高めるもっとも合理的な方法は

 “古典的”な方法

だったということです

今回、プロジェクト・アリストテレスの結果から浮かび上がってきた新たな問題は、個々の人間が仕事とプライベートの顔を使い分けることの是非であったという。

もちろん公私混同はよくないが、ここで言っているのは、そういう意味ではなく、同じ一人の人間が会社では「本来の自分」を押し殺して、「仕事用の別の人格」を作り出すことの是非である。

多くの人にとって、仕事は人生の時間の大半を占める。そこで仮面を被って生きねばならないとすれば、それはあまり幸せな人生とは言えないだろう。

社員一人ひとりが会社で本来の自分を曝け出すことができること、そして、それを受け入れるための「心理的安全性」、つまり他者への心遣いや共感、理解力を醸成することが、間接的にではあるが、チームの生産性を高めることにつながる。



チームにおける「心理的安全性」
人間同士の 〔ヒト〕同士の相互理解が チームの生産性を高める

このようなことは 多少でもチームで働いたことがある者なら
実感として識っている“古典的”なことです
それが改めて 最新の答えとして提示されている


ビデオニュースドットコムの番組の中では 以下のような指摘がなされていました

 チームを統括した吉田所長は設備メンテナンスの専門家で運転の専門家ではなかった
 なので上掲の3つの手順書については熟知していなかっただろう
 手順書に基づいたシミュレーションなどは「安全神話」ゆえか行われておらず
 チーム全体として手順書への理解は不十分だったと言わざるを得ないが
 それでも吉田所長よりも
 事故対応方法についての知識を持っている人間は現場にいたはず

 なのになぜ その知識が活かされることがなかったのか
 それが出来ていれば 2号機3号機はメルトスルーしなくて済んだ可能性が高い


ここに「生産性」という言葉を持ち込むなら
最悪の事態において 被害を最小に留めることが「生産性」に相当する
最高の生産性を求められた局面において それを阻害したものは何か

「仕事用の別の人格」ではないか

「所長」という人格
「総理大臣」という人格が現場に大きな混乱をもたらしたことも報道されました

吉田所長という〔ヒト〕は自身の限界を超えるところまで尽力しました
そのことは認めないわけにはいきません
しかしながら 「所長」という〔人間〕の枠を超えることはできなかったのではないか
緊急事態だからこそ なおのこと 超えることができなかった
チームが信頼していたのは〔ヒト〕ではなく〔人間〕の方だったから

 チームを構成している〔ヒト〕
 チームをチームたらしめている〔人間〕

グーグルの「プロジェクト・アリストテレス」が出した答えは
前者への信頼がチーム全体の生産性を高めるということでした
フクイチの事故対策チームが後者だっただろうというのは結果から逆算した推測です

逆算ではありますが そうした視点で見てみると

 『メルトダウンFile.6 原子炉冷却 12日間の深層 ~見過ごされた“危機”~』

も興味深いものに思えてきます


〔ヒト〕を〔人間〕たらしめるのが虚構です
〔ヒト〕たるサピエンスは虚構を操る能力を獲得したことで〔人間〕となった

〔人間〕は〔ヒト〕よりも大きなチーム すなわち〔社会〕を作ることができます
〔社会〕を〔社会〕たらしめるのは虚構です
同時に〔社会〕のパフォーマンスを阻害するのも虚構です

虚構は〔ヒト〕のパフォーマンスを阻害します
虚構に沿って〔社会〕が最高のパフォーマンスを発揮しようとすれば
要求されるのは〔ヒト〕そのもの
「人命」です


〔社会〕が虚構に沿った最高のパフォーマンスが必要とする場面
筆頭は戦争です
原発事故も そういう場面でしょう

チェルノブイリ原発事故のとき 当時のソ連政府が取った対応は
〔社会〕としての最高のパフォーマンスを求める方法でした
危険性を危険性を知らされない兵士たちが多数作業に携った
そうした方法をもってしも 結果はあの体たらくです

太平洋戦争末期
大日本帝国は〔社会〕として最高のパフォーマンスを求められていました
その結果 生まれてきたもののひとつが特攻隊です

これは「生み出された」のではなく「生まれてきた」というところが重要です
〔社会〕の中から自発的に「生まれてきた」
〔社会〕の要求に応えて 手を挙げる〔ヒト〕たちがいた

同じ構造は現代の長時間労働問題にも作用しています
最高のパフォーマンスを求めると 「人命」が捧げられることになる


こんな記事を目にしました

 『経団連=労働者に残業させないと利益を出せない、無能すぎる経営者の集まり』

この記事の指摘は部分的に正しい
だけど 全体としては外れだと思います

このような部分的に正しく感情を煽るような文章は
一時的な快感を得られる効果はありますが
全体の理解を妨げるという芳しくない効果もある


経営者たちは優秀に決まっています
優秀でなければ経営者になれるはずがない
中には親族の意向といった事情で経営者になった者もいるかもしれないが
経営者全体としては 一般より優秀であることに疑いはありません

それを「無能」と罵るのには読む方も快感を覚えますが それだけです
きちんと「有能」だと把握しないと 全体が見えなくなる

経営者たちは〔社会〕の要請に応えることに関して 極めて有能です
そうでなければ〔社会〕の重要なパーツである会社のトップに立てるわけがない
〔社会〕に対して最高のパフォーマンスを提供することにおいて有能
それはとりもなおさず
〔社会〕そのもののパフォーマンスを高めることにおいて有能です

この意味の有能さでは ぼくはもちろん 上掲批判記事の筆者も敵わない
そして〔社会〕の中には ぼくも筆者も含まれています

もちろん〔社会〕が求めているのは長時間労働ではないかもしれません
とはいえ〔社会〕のポジションによっては
パフォーマンスと労働時間とが密接に関連しているところもある
労働集約型の産業などは 特にそう
そういう場所では 個々人が求めるのは「適切な労働」であっても
それが集約的になって結果 長時間になるということも構造上ある

その構造をどうにかする責任は 誰にあるのか
現代社会の中の重要なパーツであるとはいえ パーツでしか過ぎません
トップとはいえ たかだかパーツに過ぎないものに対して
全体の責任を転嫁して断罪するのは ルサンチマンだと思ってしまいます



日本で安倍政権の支持率が高い
イギリスがEUから離脱することを選択した
アメリカでトランプ政権が誕生した

これらの現象は ルサンチマンの発露です
「大衆の反逆」と言っていいかもしれません



だとして 大衆は何に対して反逆しているのか

技術者を技術者たらしめる技術に対して 反逆しようとは思っていない
これはビデオニュースドットコムの番組で得た収穫です
少なくともぼくにとっては ですけれど

これからも原子力発電所には反対です
だけど 原子力発電という技術そのものを抹消すべきだとは思わない

技術そのものは まだまだ発展の余地がある
発展させることが出来るということには 「信」を置くことができる
信頼できないものは 技術ではなく 〔人間〕どうしの関係です

技術者たちは 〔ヒト〕よろも〔人間〕に
〔ヒト〕を〔人間〕たらしめる虚構の方に信頼を置いていた
危急の事態においてさえも です

そういう〔人間〕には信頼がおけない
反逆の対象は
技術者たちを技術者であるよりも 組織人たることを優先せしめた虚構――

 虚構のはずです


「虚構のはず」と言わなければならないのは そのことがまだ見定まっていないから
反逆を起こしているのに 反逆の対象がまだ見定められいない
反逆のエネルギーが溜まっているのに その出口が見つかっていない

これは大変危険なことです
戦争といったような エネルギー解消法へ容易に向かいかねませんから
今 人類社会は そのような兆候に溢れています
が そうした兆候に対処する手順を定めた「徴候ベース手順書」は まだありません

それどころか 収束状態がどういった状態なのかがわからない
いえ わからないのではない
見失ったのだとぼくは思います

では いつどこで どのようにして見失ったのか?
『サピエンス全史』シリーズへと続きます

『シリーズ東日本大震災 避難指示“一斉解除” ~福島でいま何が~』

前々回続いて『NHKスペシャル』を取り上げます



視点は前々回 前回と同じく「虚構」です


上に掲げた画像は 番組をキャプチャしたもの
番組の中で取り上げられたかつての番組
すなわち NHKスペシャルのなかで取り上げられた『新日本紀行』のワンシーン

かつての飯舘村の姿だそうです


画像が小さく わかりにくくて申し訳ないのですが
列をなしているのは 稲わらです
稲刈りを終えた後の田んぼに
稲こきをしてのこった稲わらを並べてあります
それも一定の方向に 向きを揃えてある

画像に写っている田んぼの所有者が同一というわけでありません
それぞれが話し合って 向きを揃えると決めて
このような風景が生まれたのだそうです


このような風景を言葉に当てはめるなら

 美しい

が適切でしょう
もっとも「美しい」にもいろいろあって
温かいのも冷たいのもあるのですが
これは間違いなく 温かい方のもの
眺めていると 安心感が得られます


この風景を「虚構だ」と言ってしまうと 違和感を感じます
だけど 間違いなく虚構が作用している
自然な状態  別の言い方をすれば 天然では こういった風景はできあがらない
向きがそろって列を為す稲わらもそうだし
それ以前に 整然と区画された田んぼもがそうです

自然のままの天然の風景は 人間にとって必ずしも美しいものではない
まして 安心感がえられるものではありません



ぼくなどはこういった風景を好みますが
安心感があるかというと それは微妙に違う
充溢する生命の感触は 鬱陶しいというのが正直なところです
その鬱陶しさが気にならなくなれば深い安堵感があるのですけど
この「安堵感」と上の風景の「安心感」は別物です


安心感をもたらすものが「虚構」です
それも「血の通った」虚構

前回触れた『北の国から '87初恋』のシーンと同じものがここにもあります
列を為した稲わらは お札に付いた「泥」と同じです
その姿が出現するには 人間の「血の通った行為」がないと成立しない
そのことが理解できるからこそ この風景には「安心感」が感じられる



NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 避難指示“一斉解除” ~福島でいま何が~』

この番組の焦点は「分断」です



  「分断」が放射能災害の特徴

この言には批判はあるだろうと思います
予想されるのは たとえば「科学的ではない」とか

科学もまた虚構に過ぎないのですが
そこについては今回はスルーするとして
確かに 「分断」をただちに「放射能災害」の特徴とするのには無理がある
ミッシングリングがあります

そのミッシングリングこそ 虚構 です

この番組は「分断」を飯舘村村長とその友人との「分断」という形に集約して描いています
画像のかたは友人の方。
“元”友人とするほうが正確かもしれません
ふたりのなかは「分断」されていったのですから


彼らふたりが友人でありえたのは 虚構を共有していたからです
それは 冒頭に掲げた「風景」を出現させた虚構
その風景を実現せしめた「血の通った」虚構です

が それはもはや失われてしまいました
かつての虚構は もう元には戻らない
その点においても ふたりは一致しているように思います

村長は その立場上ということもあるでしょう
いえ それだけではなく 番組の紹介するところに拠るならば
村長個人の「血の通った」村への思いもあります

村長が望んでいるのは 新たな虚構の確立です


村長と友人の対立の出発は 放射能汚染が判明した時から始まります

時の政府は「ただちに健康被害はない」とアナウンスしました
虚言です

避難に慎重だった村長と ただちに避難するべきだと考えた友人
村長の胸中にあったのは 「血の通った」虚構だったと思います

虚構は それを信じて尽力する人間がいなくなると 本当に「虚」になってしまう
村民が避難して村から居なくなってしまえば 生きて「血の通った」虚構は失われる


この懸念はこの上なく〔人間〕的なものです
血の通った「温かい虚構」だからこそ 〔人間〕はそれに囚われてしまう
避難する選択のほうが科学的と言えますが それは「冷たい虚構」に拠ることになる
〔ヒト〕的ではあっても 非〔人間〕的な行為です

現時点で飯舘村は避難地域に指定されています
科学とは別の「冷たい虚構(=日本国政府)」によって
そのように決定が為されたからです


村長が抱いた懸念は その後 暴力的な色彩を帯びていくことになります
村長の「温かい虚構」への思いは変わりません
なのに 暴力的になる

なぜか
血の通わない「冷たい虚構」に頼ったからです

日本国政府と村長が抱いた新たな虚構は言語的には一致しています

政府には政府の「都合」があります
それは「原発事故をなかったことにすること」です
そうするには 村が「元通り」になる必要がある

政府とっては 「血が通った」かどうかはどうでもいいことです
形だけ「元通り」であればよい
そうなれば 

 「原発事故はあっても元通りにすることができる」

と言い張ることができるからです

村長が望んでいるのは 形だけの「元通り」ではありません
むしろ形などどうでもいい
それが「血が通っている」かどうかです
いえ、どうかのはずです

「はず」と書かなければならないのは
村長はそこを取り違えているように見えるから
村長は「血の通っている」ことを求めながら そうでないものの力に頼った
「分断」の真因は そこにあるとぼくは思います


このことは 登場人物の表情を観てみるとよくわかります
 友人には「絶望」が
 村長には「苦悩」が
ある

番組には他にも登場してくる人物がふたりいます
番組的には脇役だけど 政府の復興にあたっては主軸にいた人物
官僚です

官僚の表情には「絶望」も「苦悩」もありません
そういう「温かい」もののない「冷たい」表情がふたりのなかにはあります

友人を「絶望」へと追い込んだのは 村長の「苦悩」です
村長が「分断」されているんです
「温かさ」と「冷たさ」に「分断」されている
言語的に同じ虚構を共有するがゆえに「分断」されてしまっています





「フクシマ」(←敢えてこのように表記します)は「第二の敗戦」だと言われています

「温かい虚構」と「冷たい虚構」
この視点から眺めてみれば
ふたつの「敗戦」には同一の構造があることが理解できます

「敗戦」とは どういうことか
単に戦争に負けたという意味を超えた含みがそこにはあります

 「敗戦」とは「温かい虚構」が「冷たい虚構」に押しつぶされること

なぜ「温かい虚構」が「冷たい虚構」に押しつぶされるかといえば

 「冷たい虚構」のほうが「温かい虚構」よりスケールが大きい


からです

こういった差が生まれるのは〔ヒト〕の能力の限界ゆえです

・〔ヒト〕は虚構を生み出す能力を備えて〔人間〕になった
・〔人間〕には虚構を共有する能力がある
・〔人間〕は虚構の規模や温度に関係なく 虚構の共有が可能
・〔ヒト〕は虚構に「血を通わせる」ことができる
・〔ヒト〕が「血を通わせること」ができる虚構の大きさには限りがある

ぼくが【システム】と呼ぶものは 温度が低い「冷たい」虚構であることは言うまでもないでしょう


虚構の肌触り

前の記事で「温かい虚構」なんてことを書きました

「温かい虚構」というと すぐに思い浮かぶのがこちらのシーン



『北の国から '87初恋』のラストのワンシーン

お金は虚構です 虚構中の虚構
お札は虚構が物質に憑依して現実化したもの

お金には「冷たい」感触があります
虚構の中の虚構だから
「札束で頬を叩く」なんて表現がありますが
この表現の「冷たさ」は「氷柱で頭を殴る」というのに匹敵します

とはいえ その虚構も血の通った人間が扱うもの
だから扱い方で血が通って温かくなったりもします


このシーンのなかで お金という虚構に「暖かさ」を付与するのは「泥」です
が これもまた虚構です
それも二重の意味で

ひとつめの意味は これはあくまでフィクションだということです
フィクション 作り話
‘FICTION‘を訳すると「虚構」です

もうひとつの意味は これがたとえ作り話でなくてもやっぱり虚構だということです
「泥」に「温かい」という意味などないんです
それはノンフィクションであろうとなかろうと 変わらない
「泥」というのは「言葉にできないこと」の象徴です

この動画の後半 その「言葉にできないこと」が表現されていて
それが観る者に伝わる
ドラマを観る者はそれを知っているから 「泥」がなにを象徴しているのかが理解できる

「知っている」ことは フィクションでもノンフィクションでも どちらでも有効
これが虚構の凄いところです 厄介なところです


では 虚構の凄さはどこから来るのか
『この世界の片隅に』を評した岡田斗司夫さんの話が参考になります

9分20秒あたりから



『この世界の片隅に』の片渕監督は 
主人公の「すず」というキャラクターを「すずさん」と呼ぶんだそうです

なぜか
「すず」の実在を「信じている」から

もちろん 客観的事実として信じているわけではないでしょう
あくまで 片渕監督の主観的事実として「信じている」
片渕監督は すずが実存するという自身の「信」を観客に伝えるために
『この世界の片隅に』という映画を作った

もとより「すず」は虚構です
だけど 作り手の「信」が結実すると 「血の通った」虚構になります


岡田斗司夫さんは「言葉にできないこと」についても少し語っていますから
そちらも是非
3分15秒あたりから


前回取り上げたNHKスペシャルのなかにある虚構は
申し上げたように「血の通った」「温かい」虚構です
それゆえに 子どもたちを縛ることになる
温かいから 子どもたちの方から自発的に縛られていく
そのほうが居心地がいいから 縛られていく

「自宅」という虚構を子ども語り聞かせる大人にとっては
虚構はもとより主観的事実ですが 客観的事実でもある
正確に書くならば 「客観的事実だった」と過去形にするべきでしょうが

過去であれ それが事実であったことに疑いはありません
ですから わざわざ主観的事実として「想い為す」といったような操作は必要ありません
大人たちが繰り出す虚構は もとより「血の通った」虚構
これが温かくないはずがないし
そこに子どもたちが居場所を見つけることは自然というしかない

この「自然」を認めることは「優しさ」です
「優しさ」は「信頼」をもたらします
子どもにとって「信頼」は 生存のベースです

だけど それは同時に「弱さ」でもある
子どもは信頼する存在から 信頼される存在へと「自立」していかなければなりません
「優しさ」「信頼」を糧に 成長しなければならない

他者から与えられた虚構は それがいかに血が通ったものであったとしても
やはり他者のものです
「自立」には 他者のものは他者のものとして切り離す過程が必要です
そこには〈いのち〉そのものの「強さ」が要ります






またしても と言わなければなりません

J・S・バッハ 『マタイ受難曲』 
カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ合唱団と管弦楽団の演奏

演奏者たちはイエスの「神の子としての実在」を信じています
それも切実に

この〔人間〕の「信」をぼくは信じることができます
といって 彼らの「信の対象」を信じることができるわけではありませんが

でも もしかしたら その「信」は本当に「信の対象」を現実化せしめたかもしれない
イエスは死の三日後に 本当に復活したのかもしれない
そんなふうに思わなくはありません

「信の対象」は虚構です
もし「復活」があったとしても もはやぼくには確かめようがありませんから

ぼくは「信の対象」まで信じることは
「信」の在り方しては むしろ過剰ではないかと思っています
過剰は過激を生みます

それは「優しさ」であっても同じことです
「優しさ」も 静的なものとなってしまって そこに拘ると虚構になる
すると「優しさ」は過剰なものとなり 過激さが生まれます

虚構の中の虚構である貨幣も 同様の作用があります
貨幣は静的なものだと捉えられていて だから「冷たい」感触がある

このあたりの詳細を語るのは 別の機会に譲ることにしましょう


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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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