愚慫空論

『サピエンス全史』その17~科学革命という名の「正当化」

>『その16』はこちら (^o^)っ リンク

 





科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々を知らないという、重大な発見だった。

イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要であるという事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。凡人はこうした古代の文書や伝承をよく調べ、それを適切に理解することで、知識を得た。聖書やクルアーン、ヴェーダから森羅万象の決定的に重要な秘密が抜け落ちており、血の通う肉体を持つ生き物、つまり人間に今後発見されるかもしれないなどということは考えられなかった。



 科学革命は知識の革命ではなく、無知の革命である。

ハラリさんの、なんと慧眼であることか。

(前略)

だが、過去500年間で最も瞠目すべき決定的瞬間は、1945年7月16日午前5時29分45秒に訪れた。まさにその瞬間に、アメリカの科学者たちがニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原子爆弾を爆発させたのだ。それ以降、人類は歴史を行方を変えるだけではなく、それに終止符を打つことさえできるようになったのだった。

アラモゴードや月へと続く歴史的過程は、科学革命として知られている。この革命の間に、人類は科学研究に資源を投入することで、途方もない新しい力を数々獲得した。これが革命であるのには、理由がある。西暦1500年頃までは、世界中の人類は、医学や軍事、経済の分野で新たな力を獲得する能力が自分にあるとは思えなかったのだ。政府や裕福な後援者が教育や学問に資金を割り当てたりはしたものの、その目的は一般に、新たな能力の獲得ではなく、既存の能力の維持だった。近代以前の典型的な支配者は、人の支配を正当化して社会秩序を維持してもらうことを願って、聖職者や哲学者、詩人に金を与えた。そして、彼らが新しい医薬品を発見したり、新しい武器を発明したり、経済成長を促したりすることは期待していなかった。

だが過去500年間に、人類は科学研究に投資することで自らの能力を高められると、しだいに信じるようになった。(後略)



徳に下線の一文は重要だと思います。
この一文こそ、ぼくが探していたミッシングリングでした。

ついに見つけた、と思いました。

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復讐を為す、つまらない【我】

さて、どのように書き始めたものか....

書きたいことははっきりしています。はっきりしているけれど、躊躇がある。
書きたいことがごく私的なことだから。

内面的なパーソナルなことではありません。
パーソナルなことをここを書くのにはいまさら躊躇はありません。
そうではなくてプライべートなこと。身内のこと。

いえ、でも、主題はパーソナルなことか。
だったら、書く必要がぼくにはあります。


父親が死んで、1年が経過しました。
父親が亡くなる前にも少しプライベートなことを書きましたが、今回はその続きということになるのでしょう。



父親が死んだときは、終わったと思いました。
ぼくにとっての「家族」というものが。

ぼくにとって家庭は〔ヒト〕としての生育条件を与えてくれた場所ではあったけれど、
〔人間〕としての生育はむしろ阻害された場所です。

その認識は、家族と言われる者たちも、口にすることはないけれども共有するところだと思っています。

そう、ぼくにあるのは「家族といわれる者たち」であって、家族ではありません。

父親は、ぼくにとっては家族だったとは思っています。
その父親が営む家庭には「ふたつの家族」があった。
「ふたつの家族」は「ひとつの家庭」として暮らしながら、ひとつになることはありませんでした。


思い出されることがあります。

義母が脳卒中で倒れたことがあったんです。
知らせを受けて、ぼくと家内は、実家のある大阪へ駆けつけました。
駆けつけたときには、追って知らせを受けていて、命には別状無いことは判明してましたが、それはそれ。

義母の病室では、3つのイベントが行われました。

 1は病人への見舞い。
 2は父親の癌宣告のカミングアウト。
 3は父親を頂点とする親族全体の最初で最後の会合です。

父と義母と、私と家内、弟夫婦。末弟はまだ独り者。
たった7人なんですが、全員集合したことがそれまでなかった。
その後もなかったし、今や、その可能性すらありません。

その事実に最初に気がついたのは、いえ、最初から知っていたのは父親でした。
その事実を指摘する言葉を発して、涙していました。
その涙を義母は茶化し、
ぼくはといえば、白けていました。


このバラバラな光景はぼくの記憶に、明確な画像となって焼き付いています。
そして、別の風景への感触へと結びついている。

家内の方の家族では、父親を頂点とする親族全体の集合は頻繁にあります。
ぼくも家内の姻族として参加する。
が、いつも、どこかに居心地に悪さを感じていました。
原因がぼく自身の内面にあることも自覚していた。

その原因を明白に自覚せしめたのが、上の「バラバラ」でした。


まあ、いろいろありました。
でも、終わった。
後は、形式的にも「家族」を終わりにすればいいだけ。

それも急ぐことはありません。
世俗的な習慣を形式的に果たした後、穏やかに手続きを進めればよいだけ。

そんなふうに考えていました。

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『サピエンス全史』その16~歴史における絶望

『その15』はこちら (^o^)っ リンク

 



第13章「歴史と必然の謎めいた選択」は 分量的には小さなチャプターです
歴史的なことについての記述はあまりありません

もともと『サピエンス全史』自体が いわゆる歴史書ではありません
歴史的なエピソードは豊富ですが
本書はエピソードを語ることが目的ではない

エピソードを連ねて「物語」を語ることが目的でもなければ
一定の対象を正当化することが目的でもない
豊富なエピソードを援用して著者の歴史哲学を語ることが本書の目的


当初 ぼくはこのチャプターについてはスルーするつもりでいました
歴史哲学の基礎となる著者の歴史観がもっとも強く反映されているところだから
その歴史観は ぼくのそれとは相容れないから

だけど 気が変わりました
『Homo:Deus』という続編があると知ったから





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Rachmaninov: Piano Concerto No 2~BC Proms 2013 - Nobuyuki Tsujii

盲目のピアニスト、辻井伸行さんの演奏です。
曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。







音楽は楽しめばいいんですが、辻井さんの演奏の様子を目にすると、「目にすること」ができる者は、どうしても次のような感想を抱いてしまいます。

 目が見えないのに凄い!

辻井さんの音楽は、しかし、よくよく聴いてみると実は凄くない。
というのも、彼には「凄い」という感覚が欠如いるらしいから。


ラフマニノフという人は作曲家である以前にピアニストでした。
ピアニストとして世に出た人。それも凄いピアニストとして。

そんな彼が作曲したピアノ協奏曲第2番は、当然のごとく、ピアノの凄さが随所にちりばめられています。
ピアノという巨大な楽器は、見ただけでも威圧的な存在で、たった一台で数十人が束になっているオーケストラに匹敵してしまうほどの性能を持ち合わせた存在ですが、そのことのは動画の音楽からも十分聞き取れること。

ピアノの凄さを十全に発揮するには、凄い腕前が必要です。
その腕前を持ち合わせている人を、ピアニストと言います。
辻井さんは盲目のピアニストですから、凄い腕前はある。
なのに、凄くない。
凄さを感じさせない。

凄さという感覚は、どうしても威圧的なものを伴ってしまいます。

ピアノという楽器の存在を十二分に発揮させるよう作り上げられている「ラフマニノフの2番」は、ピアニストがその凄さを発揮すると、ふつうに威圧的なところが出てくる。
その威圧感が深い叙情性と絡み合って和らぎ、作品の愉悦になっている。

ところが辻井さんの演奏には威圧感がまるで感じられないんです。
だから、凄いんだけど、ちっとも「凄さ」を感じさせない。


してみると、考えなければなりません。
凄さという感覚はどこから来るのか?
それは視覚的なものではないのか? と。

だとするなら、視覚に欠ける辻井さんには凄いという感覚が欠けているという推論が成り立ちます。
そして、そのような感覚がなくても、音楽は十分に成立することがわかる。
それどころか、視覚はなくても音楽は十二分に可能だということがわかる。

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『沈黙』(遠藤周作)




4月の半ばからやたらと忙しくて 自分の時間が持てずにいます

文章を書き起こすという行為はエネルギーが要ります
以前よりは効率よく文章を書くことは出来るようにはなったつもりなんですが
それでも ある一定以上のエネルギーが必要
そこに満たなくて 書きかけで終わってしまっている文章がいくつか...(^_^;)

まあ 曲りなりにも社会で「人間として」生きる以上は 仕方がないことです (^o^)


そんな合間を縫って 少しずつ読み進めた『沈黙』です
読書は文章作成ほどのエネルギーは要求されませんから

ぼくが過去に読んだ遠藤周作作品は 『死海のほとり』と『深い河』の2作だけ
どちらも「人間の無力」を描いた作品だったと記憶しいます



さて 『沈黙』です
本作を読んでまず思い起こされたのは「無知の知」

知恵の神アポロンから オノレ以上の知恵者はいないとの神託を受けたソクラテス
しかし疑問を持ちます

 なぜ 私が一番の知恵者なのか?

その疑問を持つことこそが「知恵」なんだということ

孔子もまた同様のことを言います

  知之為知之 不知為不知 是知也


『沈黙』にあるのは「無力の力」というべきものです

 「無力の力」こそが「赦しの力」

遠藤周作は踏絵のイエスにそのよう言わせる

そのイエスは 確かに『死海のほとり』のイエスだと思います
が しかし そのイエスは 果たしてパウロやペテロが伝えたイエスなのか...?

その踏絵に私も足をかけた。 あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。 私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。 人間が生きている限り、善く 美しいものの顔の上に。 そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、 哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。


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『サピエンス全史』その15~人間崇拝という宗教

『その14』はこちら (^o^)っ リンク

前回に引き続き 宗教を語った第12章が題材です

第12章は 次のようにセクションが立てられています

 神々の台頭と人類の地位
 偶像崇拝の恩恵
 神はひとつ
 善と悪の戦い
 自然の法則
 人間の崇拝



これらのセクションは 人類の歴史に沿うように順序立てられています
ハラリさんの見立てでは 宗教もまた人類統一の要因ということですから
各地域で発生したそれぞれの宗教が 統合されていくという流れになっている

それは ローカルな宗教がグローバルな宗教になるという流れのことだけではなくて
多神教が一神教になっていき やがて人間崇拝へと変化していくという
内容的な変化も表している

ただし留意しておくべきは

 多神教 ⇒ 一神教 ⇒ 人間崇拝

という流れが「進化」というふうには描かれていないことです
「変化」であって 「深化」しているわけではないといった記述になっています

じつのところ、一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教とは一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、様々な起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。




これらのセクションの中も 特異なのは「自然の法則」です

「自然の法則」という言葉から一般に想像されるのは科学でしょうが
主題になっているのは 仏教です

なぜ仏教なのかというと

仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。


からです
人間が持つ能力によって 宗教的課題に挑む宗教体系が仏教ということ

(前略) 彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することであるその法則だ。
 「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な法則と見なしている。「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は現代物理学ではEがmc2と等しいのとまったく同じで、つねにどこでも正しい。仏教徒とは、この法則を信じ、それらを自らの全活動の支えとしている人々だ。一方、神への信仰は、彼らにとってはそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。




ちなみに ぼくに言わせれば 仏教の第一原理は第二に格下げになります

 第一原理 : いのちは自愛に生きている 自愛に生きることは悦びである 
 第二原理 : 苦しみは自己愛から生じる 自己愛はハラスメントから生じる
 第三原理 : 人生の課題は自己愛からの離脱である



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『人生フルーツ』

観てきました



豊かな暮らし
Life is Fruits

いえ 言葉が足りません
いえいえ 言葉では足りません


山村暮鳥の詩を真似て

 ゆたかなくらし
 ゆたかなくらし
 ゆたかなくらし
 ・・・

と幾度も繰り返してみましょうか


それでもまだ足りません
この良質のドキュメンタリーに描かれているのは 「ゆたかなくらし」 だけではないから


「ゆたかなくらし」を営んでいる人間の姿だけではなく
「ゆたかなくらし」を築こうとし始めた人間性も ここにはあります

 救済への希求なき宗教性――

その人間性をこのように言い換えることができると思います


もとよりこの映画には 抹香臭い宗教性なんか欠片もありません
ネタバレになるので書きませんが 宗教的慣習という程度のものは出てきますけど
その程度

そんな映画に宗教性なんて 無理筋かと思わなくはないけれど
この映画が提出している姿が
真正の宗教が求めている具体像だと言っても外れではないと思うんです

すなわち すでに救済されている姿
自力を尽くして他力に頼る姿


 「家は暮らしの宝石箱でなければならない」
 「すべての答えは、偉大なる自然のなかにある」
 「長く生きるほど、人生はより美しくなる」

そう考えると この映画を彩るこれら名建築家たちの言葉たちも
自力を尽くして他力に頼る 救済の必要なき希求の形であるように思えていきます


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『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow 』

更新間隔が間延びしています
時間がないからなんですが....

近頃はブログに費やす時間が短くなっています
単純に 書くスピードがあがった

特定スキルの習熟には一万時間が必要という説があります
真偽のほどはさておき ブログを書くのに費やした時間は 
もう そのくらいになってもおかしくないのかもしれません (^o^)/





先週のNコメです
43分あたりから 本が紹介されています
洋書ですけれど



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『世界一うつくしい生物図鑑』



図書館から借り出させてもらいました

美しい
確かに美しいです

美しさには しかし 

 冷たいもの
 温かいもの

のふたつがあることを考え出させてくれる本でもあります


「愛は伝染する」と題された冒頭の文章のその冒頭

「バイオフィリア(BIOPHILIA)」とは、自分以外の生命とのかかわりを本能的に意識することを意味する。わかりやすく置き換えるなら、「生命愛」といったところだろう。最初のこの言葉を使ったのか、精神分析学者であり哲学者のエーリヒ・フロムだ。彼の著書『破壊――人間性の解剖』のなかで、「バイオフィリア」とは「生命および、生き物としていけるものすべてに対する強い愛情」と定義されている。

(略)

ヒトは生態系の食物連鎖の頂点に立つ一方で、他の生き物に対する愛情を本能的に持ち合わせている。植物や人間以外の動物から刺激や充足感を得ることができない人や感謝の気持ちを抱けない人を私は見たことがない。もしもそんな人がいるなら、きっと哀れで惨めな人間か、単に邪悪な人間に違いない。



著者の文章でしょう
熱量のある文章です

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『知られざる天皇明仁』



こんな本を読んでみようと思ったのは もちろん 昨年8月の「お言葉」があったから



ぼくはもともと 今上天皇には好感を持っています
先の昭和天皇にはなかった感情です

その姿を見るにつけ いつも思うのは

 「この人は ずっと畏まってきた人なんだな」

ということ その姿勢がその身体ににじみ出ているような気がしています

その人が自らに課せられている「役」についての気持ちを語った
当人にとっては素直な言葉だったのだろうと思うのだけれど
そのことは 身体が映し出しているんだけれども
とはいえ 言葉をそのまま素直に受け取ることができない環境がある
そうした環境の中に生きいてるぼく自身がいる


その佇まいから表出されているものと
その言葉を受け取る文脈のギャップ

そんなギャップを埋めるには 言葉を発した人の為人(ひととなり)を知るのがいい
本書は そのギャップをかなり小さなものにしてくれます

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愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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