愚慫空論

『沈黙』(遠藤周作)




4月の半ばからやたらと忙しくて 自分の時間が持てずにいます

文章を書き起こすという行為はエネルギーが要ります
以前よりは効率よく文章を書くことは出来るようにはなったつもりなんですが
それでも ある一定以上のエネルギーが必要
そこに満たなくて 書きかけで終わってしまっている文章がいくつか...(^_^;)

まあ 曲りなりにも社会で「人間として」生きる以上は 仕方がないことです (^o^)


そんな合間を縫って 少しずつ読み進めた『沈黙』です
読書は文章作成ほどのエネルギーは要求されませんから

ぼくが過去に読んだ遠藤周作作品は 『死海のほとり』と『深い河』の2作だけ
どちらも「人間の無力」を描いた作品だったと記憶しいます



さて 『沈黙』です
本作を読んでまず思い起こされたのは「無知の知」

知恵の神アポロンから オノレ以上の知恵者はいないとの神託を受けたソクラテス
しかし疑問を持ちます

 なぜ 私が一番の知恵者なのか?

その疑問を持つことこそが「知恵」なんだということ

孔子もまた同様のことを言います

  知之為知之 不知為不知 是知也


『沈黙』にあるのは「無力の力」というべきものです

 「無力の力」こそが「赦しの力」

遠藤周作は踏絵のイエスにそのよう言わせる

そのイエスは 確かに『死海のほとり』のイエスだと思います
が しかし そのイエスは 果たしてパウロやペテロが伝えたイエスなのか...?

その踏絵に私も足をかけた。 あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。 私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。 人間が生きている限り、善く 美しいものの顔の上に。 そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、 哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。



僕が『沈黙』のなかで共感するキャラクターは 上のように「神の声」を聴いたロドリゴではありません
卑怯者として描かれているキチジローでもない
ロドリゴにキリスト教の傲慢と迷惑を情理を尽くして解き
彼が転ぶことになると経過を予知していた長崎奉行井上筑後守です

(僕の実名が「イノウエ」だというのは この共感とは関係がありませんww)

井上は見抜いていたとぼくは考えます
ロドリゴやフェレイラといったパードレたちの信仰は
彼らにとって都合のよい【アイデンティティ】に過ぎないということを


自愛を隠蔽することによって生じるのが自己愛
自己愛が〔社会〕を秩序付ける〔虚構〕の承認を得て確立するものが【アイデンティティ】


井上は言います
切支丹は邪教ではないと
キリスト教社会においては 秩序を秩序足らしめる正統な〔信〕であると

が 日本社会においては それは正統ではない
秩序を紊乱する傍迷惑な【信】でしかない と


が その言葉をロドリゴは聞き入れません

相手の言葉に優しさがあり、その優しさが司祭の胸に痛いほど染みた。
「我々とて、 それを知るゆえに、 職務とは申せこうして 取り調べるのは心苦しい」
思いがけぬ役人の言葉に、張りつめていた心が、突然崩れる。もし自分たちが国籍や政治という制約さえ持っていないならば 手を握りあって話しあえるのではないか、そんな感傷にさえふと、かられる。そのくせすぐそうした感情に傾いた自分を、危ないと 思った。


ロドリゴの身体は 日本の役人の言動に感応しています
にもかかわらず ロドリゴはその身体反応を隠蔽してしまった

隠蔽の結果 パードレたちは聾唖者になってしまいました
神の声が聞こえず 神に上手く話しかけることもできない聾唖者

司祭は狂ったように首をふり、両耳に指をいれた。 しかしフェレイラの声、 信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。 よしてくれ。 主よ、 あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。 もう 黙っていてはいけぬ。 あなたが正であり、 善きものであり、 愛の存在であることを証明し、 あなたが厳としていることを、 この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。


ロドリゴのいう「正」も「善」も「愛」も「厳」も 彼にとって都合のよいものでしかありません

井上は ロドリゴが「都合」を曲げさえすれば彼のいう「正」や「善」や「愛」や「厳」を認めると言います
にも関わらず ロドリゴは「都合」を曲げない
ロドリゴはそれを「都合」だとは思っていないから
それこそが普遍的正義だと思っているから
その思い込みが彼の【アイデンティティ】であり
彼を聾唖者へと追い込む病因です


そもそも神が人間の「都合」など勘案するはずありません
キリスト教の始祖たるパウロは「コンバージョン」を為しましたが
それは果たしてパウロが望んだことだったなのか?

パウロの望みが変化したからこその「コンバージョン」のはずです
一方で聾唖者たちは どこまで行っても自身の「都合」と「望み」を変えようとしない
それでは「コンバージョン」が受け容れられるはずない。


神は虚構です
が 「虚構に過ぎない」 とは言いません
虚構であることが そのまま現実でないという意味ではないからです

たとえば飛行機です
飛行機は それが実現するまでは
ダヴィンチはライト兄弟の頭の中にあるだけの虚構に過ぎなかった
現代では誰も虚構とは言わない
が 言わなくなっただけのことで 現代でも 設計段階の飛行機は虚構でしかない

同じことが神についても言えます
私たちはまだ 神を発見していないだけかもしれません


パードレたちは神を発見しようとしたのではありません
神を実現しようとしたのです
日本に「神の国」をもたらそうとした
それが彼らの使命だと考えた

人間が「神の国」をもたらすというのは この上ない傲慢です


「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」 筑後守はつめたい声で言った。「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違う かと。どうにもならぬ己れの弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。 だがそのパードレは、 はっきりと申し た。切支丹の申す救いは、 それと違う とな。 切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。...」


踏絵のイエスの慈悲は 切支丹デウスのそれか?
それとも 悪人正機と思想に顕される仏の慈悲か?
信徒が力を求めるうちは 聾唖者です


力は力に負ける
現に ロドリゴは井上に負けています

カトリックは コロンブスが「発見」した新大陸では勝利しました
それはしかし 信仰ゆえではなく 力ゆえ
彼らの地元欧州では 驕りが過ぎて「反抗する者」を育ててしまった
「反抗する者」たちに勝とうとして イエズス会はできあがった
ロドリゴが日本に居るのは そうした「力学」の結果に過ぎません
なのに 彼らはそれを「普遍の正義」だと勘違いしている
そんな聾唖者に神の声が聞こえるわけがない

もし聞こえるというなら それこそ世界はデタラメだと言うしかない
彼らに神の声が聞こえないのは
あるいは神が沈黙したのでもいいけれども
それこそが〈世界〉はデタラメでないということの証
アタマで考えることは 所詮虚構に過ぎません


イエスが「あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」というように
いくら虚構を積み重ねても 神の摂理に外れたものは実現しない

神は実在し その意志が〈世界〉を秩序づけているというのなら
パードレたちの目の前で展開されている現実は神の意思にほかなりません
が その摂理を彼らは認めようとしません
聾唖者だから としか言いようがありません

井上はパードレたちがいずれ「神の意志」に従わざるを得ないことを識っています
身体はアタマよりも強い
彼らが隠蔽しようとした身体反応も それを刺激を重ねていくと虚構を圧倒するに至る
ごくごく単純な真理です



しかし それにしても井上は非道に過ぎるのではないか という批判はあると思います
その批判は半分当たっているが 半分は外れている
それは『沈黙』という作品の中のフィクションでしかない ということです

井上は 現代の感覚からすれば非道です
人権意識の欠片もない
片やパードレたちは 人権を守る者たちのような印象を受けます

人権思想は確かにキリスト教をベースにしています
しかし それが生まれるのは18世紀後半の話です
『沈黙』が舞台にするのは 17世紀前半
150年ものタイムラグがあります
この頃のクリスチャンたちに意識などありません
この頃どころか人権思想が生まれてからも
クリスチャンたちは長らくそれを普遍的な神の原理だとは思いもしなかった
帝国主義や奴隷制度は 人権が真に神の意思なら 生まれなかったはずのものです

現代の読者は 知らずのうちに私たちに染みついている人権意識を
パードレたちの上に重ねているだけです
一方で 井上は明らかに反するので重ねることはできない

でも これは歴史的にいえば 不公平というものです
歴史的に観れば パードレたちも井上の同類に過ぎません
それを犯罪というなら 犯した罪はパードレたちの方がずっと大きい
井上は専守防衛ですが パードレたちは侵略を為しているのですから

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。


イエスの言葉です

平和を作りだし「神の子」と呼ばれるべきは ロドリゴか? 井上か?

井上は「立場」を失ったパードレたちを慮って名を与え地位を与え 妻子さえ与えた。
パードレたちは 名は与えたけれども それと引き換えに何を奪ったか?
あるいは 何を奪えなかったのか?


歴史的事実を拘泥し過ぎるのは つまらないことです
『沈黙』は 歴史書ではありません
「無力の力」を求める作者が作り上げたフィクションです
読者は作者が追い求めた「無力の力」を感じ取れれば それでよい
それができさえすれば 多少の不公平は不問に付すべきでしょう

その不公平がなければ ロドリゴのような見事は聾唖者を造形することはできなかったでしょうし
その造形がなければ「無力の力」を伝えるのは難しい

「無力の力」は確かぼくには届いています
それがキリスト教のものかという疑問と同時にですが


※ 5/7追記

音楽を付け忘れていました
『沈黙』にふさわしい音楽は 『Dona nobis pacem』 でしょう

 我らに平和を与えたまえ






コメント

『パードレたちは神を発見しようとしたのではありません
 神を実現しようとしたのです』

名言ですね。 (^^)

『切支丹の里』『沈黙』『キリストの誕生』
どの作品も遠藤さんの同じ悩みがテーマになって、いろんな角度から検討されている様がよく分かって、僕にはとても面白かったです。

その意味で、『キリストの誕生』もお勧めです。
「ナザレ人イエス」が「キリスト」になるまでの検証です。
僕はとても共感したというか、おんなじようなことを疑問に持っていた人がいたんだ・・と、もっと早く読めばよかったと思ったものでした。 (^_^;)

・アキラさん

『切支丹の里』『キリストの誕生』
ご紹介、ありがとうございます。読んでみます。(^o^)



ところで、アキラさんからコメントを頂いて、なぜかふたつの言葉が思い浮かびました。

「エンジニアリング」と「ブリコラージュ」。
ご存知、レ=ヴィストロースが唱えた対概念ですね。


パードレたちが為そうとしたのは、エンジニアリングでしょう。
そして、ここでいう「発見」は、ディスカバー(discover)ではありません。

ディスカバーはエンジニアリングのための発見を指すのだと思います。なので違う。
ここでいう「発見」は find が近いですが、当たりは know だと思う。
ぼくたちが「識る」と記述する、know です。


エンジニアリングやブリコラージュは現実に対処する方法論です。
エンジニアリングは、discover によってなんとかしようとする。
ブリコラージュは、knowing によってなんとかしようとする。


エンジニアリングの宗教は、しかし、なぜか、新しいエンジニアリングを拒むものでもあります。キリスト教発祥以来、一神教は二度の新しいエンジニアリングを経験しています。イスラム教徒とプロテスタントです。そしてカトリックは、そのいずれとも戦争をしています。

一神教は、新しいエンジニアリングと戦争をするばかりではなく、ブリコラージュを押しつぶす時にも戦争をします。『沈黙』の背景には、ブリコラージュを押しつぶさんとするエンジニアリングがあります。

パードレたちのキリスト教は、エンジニアリングを旨とする。
でも、遠藤周作さんは、ブリコラージュの人だとぼくは思います。

エンジニアリングを背景にブリコラージュを問う。
ここが、別種のエンジニアリングを問うたドストエフスキーの「大審問官」とは異なるところ。


アキラさんのコメントでレ=ヴィストロースを思い浮かべたのは、野口整体がこれまたブリコラージュだと思うからです。身体を識ることによって、オノレの〈いのち〉の力でなんとかしようとする。

でも、野口整体を知る(≠識る)少なからぬ人がエンジニアリングだと思い込んでいていて、そのことがアキラさんの気がかりになっているし、晴哉師が治療家(エンジニア)を辞めた理由でもある――。

今、『イエスの生涯』を読んでいます。
その一節を抜き書きしておきます♪

『だがこの時、彼はもう一つのことも知っておられた。
 現実における愛の無力さということである。
 彼はそれら不幸な人間たちを愛されたが、同時にこれらの男女が愛の無力さを知った時、自分を裏切ることも知っておられた。

 なぜなら人間は現実世界では結局、効果を求めるからである。
 病人たちは癒されることを、足なえは歩けることを、盲人は眼のひらくことをーー現実的な効果を求めるからである。
 だが愛は現実世界での効果とは直接には関係のない行為なのだ。
 そこにイエスの苦しみが生れた。
 「汝等は徴と奇蹟を見ざれば信ぜず」と彼は哀しげにその時呟かれたのである。』

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