愚慫空論

『サピエンス全史』その13~自己愛の起源

『その12』はこちら (^o^)っ リンク

 


遅々として進まない『サピエンス全史』シリーズですが
進行をさらに遅らせてしまうことになりそうです (^_^;)

今回は 本の流れを遡ってしまいます....



愛とは 何か?
難しい問いです

なぜ難しいかというと 愛はそもそも言葉にならないものだからです

言葉には 言葉にならないものさえも言い表すことができるという特性がある
言葉はデタラメだから そういうことができてしまいます


愛そのものを言い表すことは 不可能です
とはいえ
「愛」と言葉(記号)で指し示される「なにものか(内容」)はあるように思える


言葉の特性のひとつとして

 言葉で指し示された「なにものか」は 実在するように思えてしまう

ということがあります


そもそもの言葉は 実在物に対する「名づけ」でした
そして そうした意味における言葉は サピエンスだけの所有物ではありません

それはこの世界で初の言語ではなかった。どんな動物も、何かしらの言語を持っている。ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑なやり方で意思を疎通させる方法を知っており、食物のありかを互いに伝え合う。また、それはこの世で最初の口語言語でもなかった。類人猿やサルの全種を含め、多くの動物が口語言語を持っている。たとえば、サバンナモンキーはさまざまな鳴き声を使って意思を疎通させる。動物学者は、ある鳴き声が、「気をつけろ! ワシだ!」という意味であることを突き止めた。それとはわずかに違う鳴き声は、「気をつけろ! ライオンだ!」という警告になる。研究者たちが最初の鳴き声の録音を一群のサルに聞かせたところ、サルたちはしていることをやめて、恐ろしげに上を向いた。サピエンスはサバンナモンキーよりもずっと多くの異なる音声を発せられるが、クジラやゾウもそれに引けを取らないほどみごとな能力を持っている。



言葉がデタラメになったのは認知革命以降です

認知革命以降のサピエンスがあやつる言葉は 
非実在の「なにものか」にすら 「名づけ」ができるようになりました
そして 「名づけ」によって 
非実在の「なにものか」があたかも実在してるように感じるようになった

この

 非実在の「なにものか」があたかも実在してるような感じ

のことを ぼくは

 実感

と呼ぶことにしています
「実感」は 実在するものへの感覚を意味するのではありません
ですから ほんとうは「虚感」と呼ぶのが正確なのかもしれません

実在するものへの感覚のことは 「身体感覚」と呼ぶようにしています

では 愛は実感(虚感)なのか?

ここが難しいところです

愛には 

 身体感覚としてのものと 
 実感(虚感)としてのものの

の2種類があります

 前者が 自愛
 後者が 自己愛


そもそもの愛(自愛)は 自然現象です
すべての生命には生存本能があって 
その生存本能の発露が愛

生存本能の発露には別の言い方もあって それは

 魂

と言います


自己愛とは 自愛の発露を阻害し その阻害を隠蔽する行為のことです
オノレを愛していないのに 愛しているフリをすることです

〔ヒト〕は なぜそのようなことをするのか?
いつから そのようなことをするようになってしまったのか?


自愛にせよ 自己愛にせよ いずれにしても成長をします
いえ 「愛が成長する」というのも言葉の綾で
「成長する」ことが「愛という現象」です

生来的な自愛は サピエンスがそもそも持っている身体的機序に従って成長をします
その機序を 的確に言い表していると思うのが アキラさんの記事です

 成長期の子どもに学んでほしい4つのこと(教えるべき4つのこと) 前編
 成長期の子どもに学んでほしい4つのこと(教えるべき4つのこと) 後編

 「楽しいこと」/「つまらないこと」
 「やりたいこと」/「やりたくないこと」
 「大事なこと」/「くだらないこと」
 「出来ること」/「出来ないこと」


子どもの成長に沿って 順番に以上の4つのことを教えたいと言います

これら4つの段階は 身体の発達に伴う感覚の分化です
「感覚の分化」は成長に他なりませんから すなわち自愛です

なので この「教え」はとても腑に落ちるものがあります
と同時に これらはそもそも教えなければならないものなのかという疑問も湧きます

その時期にならないと教えることができないようなことは
本来は教える必要がないことなのではないのか?
 
サピエンスは その時期がくれば
自然に4つの順序を経て〔ヒト〕になっていくのではないのか?

その「自然」を教えなければならないというのは
自然を阻害している環境があるからではないのか?

自然にできることは 自然にできるようになるはずです
それが「自然」ということのはずです

ところが自然できるはずのことが自然にできなくなってしまっている
自然にできなくはなっているけれども 教えればできる

教えればできるということは できなくなっているわけではないのだから
サピエンスの身体に問題があるわけではないでしょう
できなくしてしまう環境に問題があることになります

では そうした環境は いつ生まれたのか?

それは後天的にできるようになることを「教える」ようになってからに違いありません
後天的にできることを「教える」ことが
先天的にできることをできなくしてしまっているに違いありません


サピエンスは自然に言葉を覚えます
子どもに言葉を教えることは可能ではありますが
別段 教えなくても子どもは言葉を覚えていく
というより 子どもが覚える言葉は教わっていないもののほうが大半です

このことが示しているのは サピエンスの言語能力は生来のものだということです


が 「書記」は違います
話し言葉はことさら教えなくてもサピエンスは習熟して〔ヒト〕になっていく
一方で 書き言葉は教えなければなりません
特別に教えなければ サピエンスが書記に習熟することはない

「言葉」は発明されなくても最初からサピエンスに備わっていたものですが
「文字」は発明されなければならなりませんでした


現代の考古学者は、古代メソポタミアの学校で行われた書記の練習の遺物を発見した。それを見ると、約4000年前の生徒達の日課が窺える。

 教室に行って座ると、先生が私の粘土板を読んだ。先生は言った。
 「漏れがある!」
 そして先生は私を鞭打った。

 担当者の一人が言った。「私の許しもなしになぜ口を開けたのか?」
 そしてその担当者は私を鞭打った。

 規律の担当者が言った。「私の許しもなしになぜ立ち上がったのか?」
 そしてその担当者は私を鞭打った。

 門番が言った。「私の許しもなしになぜ出て行くのか?」
 そして門番は私を鞭打った。

 ビールの入れ物の番人が言った。「私の許しもなしになぜ飲んだのか?」
 そして番人は私を鞭打った。

 シュメール語の先生は言った。「なぜアッカド語を話したのか?」
 そして先生は私を鞭打った。

 先生は言った。「オマエの書き方はなっていない!」
 そして先生は私を鞭打った。



現代の先進国社会では 子どもを鞭打つことは罪悪とされています
が 罪悪とされるようになったのは ほんの数十年前のことで
100年前では 子どもは大人から鞭打たれるのがふつうでした
(日本は違っていたようですが)

鞭打つことは罪悪です
ですが 必要悪だと認識されていた
書記というものが発明されて以来ずっと
自然状態では習得することのない文字を教わるのに子どもは鞭打たれた
現代は身体的に鞭打たれることはなくなったかもしれないけれど
精神的な鞭がなくなったわけではないでしょう


悪であると認識されていても 必要であるからと強いられること
ここが自己愛の起源です

書記も技術のひとつです
技術ということでは 猟に必要な刃物を振るう技術 弓矢を放つ技術と同等
子どもが大人から狩猟の技術を教わる時に 鞭打たれることもあったでしょう

違いはシステマチックかどうか です
書記は〔システム〕を運用するために必要な道具です
サピエンスが農業を始めて一部の植物に隷属するようになり
その隷属を秩序として維持するために必要となったもの

秩序を維持するために 大人が大人を鞭打つことはふつうにあったでしょう
鞭打ちは「身体感覚」としては罪悪感を伴ったでしょうが
虚構と化して実存している秩序を維持しているという実感もあったに違いありません

その身体感覚と実感の捻れは
子どもに文字を教えるべく鞭打つ大人にもあったはずです


鞭打たれる子どもが 生き延びるためにつかみ取るものは何か?

 大人がぼく/わたしを鞭打ちのは ぼく/わたしのためだからだ

という身体感覚の隠蔽です
その隠蔽を裏打ちする実感が 子どもを取り巻く環境として実存するがゆえに
子どもは隠蔽を為し通すことができてしまう

文字は支配のために生まれた道具です
そして支配するのは「わたしのため」
支配するための道具の扱いに習熟するのも「わたしのため」
そのためには 一時的にせよ 「お前のための支配」を受け容れることになります


では そうして生まれた自己愛は一時的なもので終わるか?
支配の実感が実存している以上 簡単に終わりにはなりません
支配のためには 支配者は鞭打たなければならない
被支配者の大人や子どもであろうと 将来支配者にあるであろう子どもであろうと

自己愛が終わらないのであれば
一時的なはずのものだったはずの「お前のための支配」が永続的になるのも必然です


最後に マハトマ・ガンディーの言葉を引いて締めにします

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」




『その14』へ続きます

コメント

「教えなければならない」と言ってるのは、愚慫さんだけですよね。
(^o^;)

誰もそんなことは言ってないと思います。

あ、それから、「教えればできる」かどうかも分かりません。

頭の中でこねくり回すの、やめましょうよ。。。
・・・とだけ言っておきます。

・アキラさん

ぼくだけって、そりゃそうでしょうよ^_^:
そういう問題意識は、他の人は持っていないのでしょうから。

こういった問題意識が、単にアタマのなかでこねくり回すことによってで生まれるものなのかどうなのかは、まあ、そうですねぇ、やっぱり絶望をご存じないないんだなあ、と思います。

アキラさんだって感覚的なものを追究されているのだから、「わからないものはわからない」ということはよくよく識っておられると思います。


もう少し言葉を継いでおきます。

アキラさんが教えるを受け、提示された4つの命題。

何故提示されなければならなかったのか、その必要性はどこから生まれたのか。それは、そうあるべき命題が満たされない現実があるからでしょう。

満たされない現実があるということは、満たしていない「個人」が存在するということです。

いのちには機序があります。その時にそのタイミングで満たされないと、後々に響く。4つの命題は、そういった類のもののはず。後から満たすのは、その時に満たされるのに比べて、ずっとハードルが高い。

4つの命題が提示される必要性があるということは、「その時」に満たされなかった者が大勢いるということです。

アキラの視点は「満たされた者」からものだと感じます。そもそもこれらの命題は、満たされていて、満たされていることを自覚している者にしかわからないことです。そうした者でないと言葉にできないこと。

対してぼくは「満たされなかった者」です。なので、命題に自ら気がつくことは難しい。気がつくのは遅まきながらも満たすことができた時か、欠けている自覚に適切な言葉が当てはまった時です。いうまでもなく、適切な言葉は「満たされた者」のもの。

適切な言葉は、「後追い」への欲求を際立たせます。そして「後追い」で満たそうとすることの大変さも思い知ることになる。「後追い」が腐臭を伴うものだということへの自覚も生まれてくる。

アキラさんが捏ねくり回しと感じられたのは、やはり「腐臭」なんだと思います。でも、そうは言っても、それはどうしようもないことです。

どうしようもないことをやめましょうと言われても、やめようがありません。やめようという人には、「あなたはわかっていない」と伝えるだけになります。

「満たされていない者」には、満たされていない感覚はあっても、それが何かはわからない。逆にを満たされている者」には、満たされていない感覚はわからないでしょう。

このわからなさがどういった問題を生み出すのか。
発達障害の問題を取り上げる理由はここにあります。

この社会のなかには、わからない人から「やめなさい」と言われても苦しんでいる人がたくさんいます。そう言われる人は「腐臭」を放っているから言われるのですが、しかしそれは、自らの「腐臭」で苦しんでいる人を追い立てる言葉です。

ここはぜひ自覚してほしいと思います。

分かりました。
もう何も言いません。

^^

ワタシはサピエンス全史を読了したこともあると思いますが、面白いエントリーだと思います。まあ面白いと思うのはワタシもアタマのナカでこねくり回す「体質」なのかもしれませんが・・・ってそういうことを言っているわけじゃないんですよね^^;
ワタシはエントリーはホントのことだと感じるので、「言葉」でまとめてくれて、ありがと、です。まぁ、言うは易し・・・だろ、とは感じていますが、はいはい、ニューロティピカルにとっては、、ですね。がはは。
コメ欄の「やめましょう」とか「自覚しましょう」ってのは、どっちもワタシには嫌悪感があります。「やめましょう」っていわれても屍になれって(ワタシなんかだと)言われている気もするし、「自覚」は他者に言われてすることじゃないしなぁ、笑、、

ワタシにかんしていえば、「社会」に「絶望」したことがないので(絶望した「ふり」は何度もしましたが、どうも、ガンジーの頃のインドやら福島の民やらシリアの市民やら高江の住民、地中海上の難民でもいいんだけど、その辺のことを想像すると絶望ってのもなかなか、、、ま、ワタシは、ですが、^^;)、なんで本当に愚慫さんの言いたいことが解っているかどうかは解りません。というなかでも「愛」やら「教える(教えないでも・・)」は面白い。
今回の面白いと思ったのは、具体的な子育て、と照らしてかな。
【虚構】前提の【社会】という環境のなかで、「学んでほしいこと」「教えるべきこと」というのは解ります。もう〈自然〉の成長ではいられないでしょうから、なのでワタシなんかでさえカウンター「教育」しなければとの〈思い〉はあります。とりあえずは、【虚構】わかっていても自分と家族ぐらいは食っていけるようにしましょうね、とつい言ってしまう自分もいます。でもそれは【虚構】だぜ、と認識できるぐらいの感覚をもとうよ、ということも言いつつ。
個人的には0-6歳は保育園で育ってむしろよかったかな。親にとっても【社会】からの【虚構】の押し付けはすごい。親自身の闘いでもあります。方針がよければ保育園(いろいろつまらぬ葛藤を生じさせてしまう親から離れて第三者の目でみることのできる)で育ったほうが、いいと感じています。(闘いの放棄、爆!!)
いまは、高校生になりましたが、「やりたいこと」はなさそうですが、「出来ないこと」は感じているようです。
とはいえ、子どもはやはり親の本性を観ているのかな、どうも「社会」を斜から観ているような気がしています。さてさてどうなることやら、、、、ははは。

(註:追記しました)

毒多さんのコメントをお借りして、僕ももう少し言葉を継いでおきます。

僕は「〈自然〉の成長」みたいなのって何なん?って思うんです、すごく。 (^^)

ヒトはものすごく可塑性の高い動物です。
成人してからでも可塑性が高い。
ほかの動物とは決定的にそこが違うわけです。
そうしてそのこととおそらく関係が深いと僕は思ってるんですが、人間は「虚構」なしでは生きられない。

そんな特異な動物が「自動的に(自律的に?)」成長する形なんてあるんでしょうか?
僕はあり得ないと思っています、感じています。
外界とのコミュニケーションのありようで、いかようにも変わってしまう、と思います。
ほかの動物の比ではない。

だから「〈自然〉の成長」とか、何かそういうような「形」があるかのごとく言われるものに、ものすごい違和感を覚えるんです。
愚慫さんが考えているらしいことに、その匂いを強く感じます。
そこに野口整体的なものを持ち込んでほしくないのです。
個人的には。

腐臭がどうとかこうとか、そんなことは関係ないんです。

それだけです。
もうやめます。

確かに「自然の成長」という言葉は考えさせられます。なんとも難しい。
ないと言えばなさそうですが、かといって実際の子育てのなかでも全てを教えてたり考えたりして成長するわけではなく、知らぬ間に自然と身につくかのような部分はあるわけで、身体の成長自体は、自然に成長していっているわけだし、、あれ?そうかな?、あ、あれだ、例えば、【かくあるべき】【こうでなければならない】という【情報】によって、身体が欲していないことを強要したり食べさせたりすることを【育児】【成長】とするなら、することに対して身体の声に耳をすませながら成長していくことを「自然の〈成長〉」としたくなったり、、、。
確かに真の「自然の成長」が狼少女の姿ならば、「人間」に成長していくには、「教育」「育児」が必然になるのだけど、成長過程で【虚構】を植え付けようとする【社会】のなかにあって、それは違うという感性が、もう少し素の生物〈身体性〉らしい面が人間にもあるのではないか、という【虚構】に対する抵抗が「自然の成長」でもって、何かを見出していく、、と、こんな感じの葛藤では〈自然の成長〉がある、としたい気持ちがワタシのなかにもあったりして。それまで全て含めて「虚構」のなかのできごと、で、既に人間は認知・虚構から逃れようがないと言われれば、カウンター育児である「自然の成長」も虚構であるし、でもそれは〈虚構〉として取り扱えばいいといわれれば、それにも納得したり、、
現実にはやはり「人間」への成長を目指しているわけで、そのためには何かしらの考えをもち、かかわりをもって子に接していかなければならないし、ある部分は考えずに接しないで「自然に成長」を期待しようという接し方も実際にしているわけで、できれば【人間】でなく〈人間〉らしく成長して欲しいと思う。じゃ【人間】〈人間〉ってなんやねん、と言われると、結構世俗的な井戸端会議風になりそうな気もする、笑

>人間は「虚構」なしでは生きられない

その通りだと思います。
ぼくは虚構を否定的に捉える者ではあるけれど、全否定する者ではありません。

 サピエンスは虚構に先導されて〈生きて〉いく存在です
 生まれ落ちた〔社会〕はすでに虚構に満ちていて
 虚構をわが身とすることで〔人間〕になっていく


 ぼくが サピエンスを〔ヒト〕と〔人間〕に便宜上区別し
 もう十分に〔人間〕になったから〔ヒト〕へ還ろうと主張するのは
 虚構の濃度が濃すぎるものになってしまったからと感じるからです


前エントリーの記述を繰り返しますが、こういうことです。

虚構に先導されて〈生きて〉いくなんて生物はサピエンスだけです
虚構の多様性は言葉のデタラメさから来ますが、だからこそ、サピエンスの多様性は他の生物の比ではない。


では、〈自然〉の成長とは?

こちらの答えもぼく自身の記述から引いてみます。

 言葉の特性のひとつとして
 言葉で指し示された「なにものか」は 実在するように思えてしまう
 ということがあります


「〈自然〉の成長」などいったものは実在しません。
ですけれど、サピエンスは虚構に先導されて〈生きる〉動物。
実体はどうであれ指し示すことは必要です。

指し示すことの必要性からただちに確固たる「型」を思い浮かべるのは人間がやってしまいがちなことですが、これをやってしまっては罠に陥ります。


同じようなことはアキラさんも指摘されているんですけど。

「体癖」は単なる理解に便利なツールの一つです。
そのことは、絶対に忘れないようにしなければなりません。
そうでなければ、本末転倒な具体的にはあり得ない虚構の中だけの話になってしまいますから。

http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52422711.html

突き詰めていえば「〈自然〉の成長」などというものはありません。
そういう言葉で言い表すことができる実体など存在しない。
でも、それは体癖だって同じではないかと思うんですが...?

ぼくは同じだと思うから、ぼくが言いたいことを比喩するものとして野口整体の力をお借りしています。
やってはダメなことだとは、まったく思わないのですが...

そうですよ、「体癖論」はまったくの虚構ですよ。
それをカン違いしてしまう人が本当に多い。
だから僕は言及をするわけです、そこには。

『「〈自然〉の成長」なんて虚構です』
というニュアンス、言及を、愚慫さんからあまり感じられないということです。
そもそも具体の話がないですから、しょうがないとは思いますが。

このへんは趣味の差なんでしょう。
僕の趣味にあまり合わないというだけで。

アキラさん

趣味の差かな...

ぼくは実生活の差だと思うんですよ。

アキラさんは、羨ましいことですが、虚構ではないところを実生活の基盤にしているわけじゃないですか。でも、大半はそうではない。ぼくだって大半の方です。


最初の「なければならない」の感じ方もそうだと思うんです。

趣味として捉えるなら「なければならない」は、ないでしょう。
でも、趣味ではなく、生活実感として縛られていると感じている者にとっては
「なければならない」という言葉はごく素直な表出なんです。

そうしたぼくの視点から言うと、
多くの人が勘違いしてしまうのも無理からぬことなんです。

アキラさんの生活実感からすれば そうした勘違いには苛立ちに近いものを覚えるかもしれませんが
大半は勘違いするほうが自然なんだと思うんです。
それこそ、虚構まみれで生きているわけですから。
それを虚構だからとらわれないようにと言われたって、アタマではわかっても、身体感覚として根づくのはなかなか難しいことだと思います。

ぼくが日々感じているのは、その難しさです。
ここよりもそっちがいいことには確信がある。
でも、縛られていて難しい。
なかには縛りから抜けだしていく人もいます。
いるにはいるけど少数で、特別な才が必要だったりする。

〔ヒト〕として生きていくことが特別なこととは、ぼくはまったく思わないんです。

多分ここ、このエントリーに「思わず」コメントしているワタシの気持ち(身体)は、なんとなく不穏そう進みそうに感じる空気に対する茶々入れなので、もうコメントしなくてもいいのかもしれないのだけど、ちゅうか最初からコメントする必要もないかもしれないのだけど、「趣味」って言葉がちょっとひっかかったので、茶々3杯目。
そういえば、むかし、ワタシも愚慫さんに「道楽としての思索」なんてなんの気なしに言ったよなぁ、ということを思い出して、その後そんなこと忘れていたワタシに、それが「ひっかかってる」なんて言われてびっくりしたことを思い出したわけ。趣味っていうのと、道楽っていってしまうのと、実生活だろ、というのと、どう違うのか、ってこと。
全部虚構だろ、、しかも【虚構】の部分が大半だよな、ってことを知ったうえ(識ったうえ?)での、感じてるうえでの「趣味」とか「道楽」ってのは【虚構】に縛られたうえでの、【虚構】に踊らされた「趣味」とか「道楽」とはちがっていて、それはもう「趣味」でも「道楽」でも「実生活」でもいいんじゃね、って個々のぴったりくる「言葉」のチョイスのように(以前とは変わって今は)感じてきた。
「趣味」や「道楽」が実生活でしょ、とか、「実生活」って趣味や道楽のことでしょ、ってセンテンスはいかが?
まあ、生きると同義と感じていることを「趣味」とか「道楽」ってのは、かなりシニカルな感じもするので、他者に言うのは「茶々入れの立場から」どうかと思うけど、ワタシは性格的にシニカルを込めて自分に対していって苦笑いしながら「タンタンと」と言いたい自虐タイプだから別にいいんだけど。
アキラさんに「野口整体って趣味(or実生活)でしょ?」って言ったらどっちだと感じるのだろう。
愚慫さんに「思索こそが実生活(or趣味)でしょ?」って言ったらどうなん?
きっと趣味ども道楽でも実生活でも【虚構】に振り回されるかどうかが、ワタシの今の関心事になっているなぁ、、、と、再度と茶々、^^

・毒多さん

僕にとっての野口整体は、いのちを預けた趣味です。 (^^)

上の方のコメントの時点で、ホントは「シュミ」って書きたかったんだけど、見た目が何となくピンとしないので、漢字にしました。
僕の言う「趣味」は、感じ方の好み・・のような言い方です。

仰るように、使い方としてはシニカルなニュアンスはありますかね。
人間に絶望してますから。 (^^;)

アキラさん

>「いのち」を預けた、、、(野口整体から離れても死なへんやろ?、、)とか、、、>感じ方の「好み」、、(そも好みって生物(自然)的やろか?、、)とか、、、>人間に「絶望」、、、(それなww)とか、見事なお手前が面白くてゾクゾクしますが、やはりエントリーから離れてしまうので(大きな意味では地続きだと思いますが・・)、それとだんだん茶々も出し殻になってきましたゆえに、いずれお茶っ葉を煎じて入れ替えとう存じます。^^

言葉というのは面白いというか、難しいというか、単独ではよく意味がわからないんですよね。それなのに単独で意味を為すんだという思い込みみたいなものがあって....

「いのちを預かる趣味」

なるほど...(^o^)

そういう表現はぼくからは出てこないですね。
まず「いのちを預ける」がありません。
「懸ける」とか「投げ出す」になってしまう。

それこそが「シュミ」なんでしょうが...

シニカルに感じるのは受け取る側のほうですけど、それをわかっていて、敢えて「自分の言葉」として使うのは、僕は好きです。そういうのをユーモアというんだと思います。ユーモアの理解は難しいし、周囲に難しいことを強いることになりますが、そうせざるを得ないときがある。

ぼくは言葉に絶望しているということを以前書いたことがあります。絶望を覚えたときは、言葉が出てこなくなった。それまでスラスラと出てきたものが突然、そうではなくなった。半年くらい、どうにも言葉がでなかった。

今も言葉に絶望していることには変わりませんが、言葉は出てくるようはなった。だけど、スラスラとは出てこなかった。削り出すという感じでした。やっと最近です。スラスラとでてくるようになったのは。

ぼくが感じている言葉にへの絶望は、「言葉ってそういうものなんだ」という客観的な理解です。時に理解を強いる。強いてしまうからつながらない。言葉は共有のもののようにおもえるけど、実はその人独自のユニークなものなんだ、という理解です。

一方で主観的な意味での絶望もあって、「絶望」という言葉で思い浮かぶのはまずこちらです。いきる力を失っている状態を指します。

この主観と客観は、他人からみればどちらも主観です。そうなってしまうことが絶望なわけですけれど、自分の中での「主観」と「客観」は、よくよく見てみれば、実はつながっていない。ただ、ぼくが繋げたかっただけ。そこに理解が及ぶと、自分の中の「客観」はどうでもよくなった。大切なことには変わりないし、言葉を発する時にはこれなしにはどうしようもないものだけど、でも、「主観」が引っ張られることがなくなった。「主観」を表現するにあたって「客観」は参照にはするけれど、ツールに過ぎない。

自分でいうのも何ですけど、こういうのを「達観」というんだと思います。絶望がないとなかったもの。言葉にただ「自分」だけが乗っかっている。

もしかしたらアキラさんは、最初から「達観」なのかもしれませんね。だから客観的な理解だけがある。言葉とは「そういうもの」。人間もまた「そういうもの」。でも、その理解に自身の〈いきる〉ことは引きずられない。

以上の言葉が伝わるかどうかはわかりません。「客観」を参照したぼくの中の「主観」でしかないから。なので言葉の中身は伝わらなくてもいい。反応さえしてくれればいい。

刺激に対して反応するのが生命の本質でしょうから。
どう反応するのかは、それぞれ。あるいは、たまたま。

愚慫さんの言ってること、よく分かります。

僕が自分の内部で感じているのは、愚慫さんが言っている まさにその感じです。
それは「そういうもの」。
引きずられる必要はない。
けど、分かっててこだわるのも いいんじゃない♪?
・・という感じです。

「達観」というと 何だかスゴいものになっちゃいそうですが、やっぱりそれも単に「そういうもの」なんだろうと思います。
僕と愚慫さんでは、絶望のしどころが違う・・ってことなんでしょうね、結局。 (^^;)

分かっててこだわるのはいいんです。
それはそれこそ「シュミ」だろうから、それでいい。

問題は引きずられること。引きずられてしまうのも度が過ぎると「腐臭」が生まれてしまう。


ぼくはよく「円環」ということを言います。
「動的平衡」というでもいい。
「円環」というと偏りがないようなイメージになりますが、「動的平衡」だと偏りがあってもいいみたいな感じになります。

サピエンスはどうしても虚構に引きずられる。
でも、それはそれでいいとも思うんです。

こういう体癖の理解は違うのかもしれませんが、まあ、たとえだと思ってもらって、

 奇数種は引きずることでバランスを取る。
 偶数種は引きずられることでバランスする。

というようなことがいえるのではないか、と。
個々の人間には個々のバランスがある。社会というのは、大勢の人間がそれぞれ違ったバランスを持っている個体が寄り集まることでバランスしている。虚構というのは、社会のバランスの一部が言語化したものでしょう。

アキラさんも以前記事にしておられたことですが、現代の社会は「夢」とか「やりたいこと」を持たなくてはいけないという強迫観念があって、偶数種はしんどい思いをしがち、みたいなことがあります。

これは、虚構のバランスが崩れているということだと思うんです。社会は虚構なしでは成り立ちませんし、そもそも虚構は社会をバランスするためのものだったはずなんだけど、いつの間にかそのバランスが崩れて歪みが生まれている。だけど、バランスはさせなきゃいけないから、誰かがしんどい思いをすることでバランスを保っている。

 そんなしんどい思いをする必要なんか、ないじゃないの?

まあ、そうなんですけど、そういった人たちは、自発的にそうしたい。しんどいとわかっても、自発的にそこに留まる。ぼくにも覚えがありますが、どうやらそうらしい。「そういうもの」らしい。この自発性と〈いのち〉の内発性の差が「腐臭」を生んでいる。

人間は「そういうもの」だから、変わらないし変えられない。その意味では「絶望」です。でも、虚構は変えることができる。歴史を眺めてみればわかりますが、これまでも変わってきたのだから、変えられないはずがない。だから、虚構の体系がバランスの取れたものに変われば、自発性と内発性の差は小さくなる。なくなるとは言いませんが。

虚構がうまくバランスしていれば、引きずったり引きずられたりしても、大きくはさほど心配はないと思います。個々で見れば、大きく引っ張ったり引きずられたりするところは出てくるでしょう。それは「それぞれ」で「たまたま」だからどうしようもありませんし、どうかするべきものとも思わない。人工知能なんかが発達して、どうにかできるようになるかもしれませんが、そういうのは気持ちが悪いと思います。

局所的に「それぞれ」「たまたま」で起きる歪みは、野口整体といった技法、他にもいろいろあるでしょうが、である程度対処はできるでしょうし、アキラさんは実践されている。けれど、虚構のアンバランスに引きずられて社会の大勢がアンバランスになっていくことには、手をこまねいているしかないでのしょう。だから、「そういうもの」だと「絶望」になるのではないかと思います。

ぼくはその意味では「絶望」はしていない。虚構はいくらでも組み替えられると思っているから。そして、そういう考え方は、僕が言うところの【絶望】から再帰することで生まれてきた――そんなふうに思っています。

愚慫さんの言ってること、分かります。

その上で、
>虚構のアンバランスに引きずられて社会の大勢がアンバランスになっていくこと

僕はこれは「人間ってそういうもんだよね」という理解なんです。
だから、それについてどうにかしたいとも思ってないし、だから「手をこまねいて」いるわけでもない。
人間というのは「そういうもの」だから。

虚構は組み替え可能なのはその通りだけど、組み替えた虚構なりに弾かれる人たちは結局出てくるよね・・という理解なので。

ですから その立場(感性)からすれば、愚慫さんがやりたいことは、
「やれると思うんならやってみればいいけど、僕は特にそこには興味ないです」となるので、結局「趣味の違い」ですよね・・としか言いようがない・・ということです。

あかん、「絶望」も「期待」も分からへんうえに、「達観」などほど遠い中途半端ヤローだけど、面白すぎるうえに、茶っぱを入れ替えてしまったので5杯目をすすりながら、独り言をブツクサと、笑。
たしかに今の人間の大半が【アンバランス】のうえで【バランス】とっているうえにそんなことも気にしていない(気がついてない)わけだから、仮に全体の〈バランス〉が取れてしまった日には大半が「アンバランス」になるわな。で、その「アンバランス」こそが〈アンバランス〉で〈バランス〉へ向かえばいいんだけど、やっぱり、そんなこと考えもせずに新たな〈バランス〉に弾かれるような気がする。そんな大半が弾かれてしまうのは自然の円環で、よろし、だって言えてしまえばニヒルな感じだけど、もともとそんなもんでしょ、というのもニヒルで、オイラなんかだとニヒルってハンフリー・ボガートみたくカッコイイよねって世代だから、どっちのニヒルにもちょっと憧れる。
ちゅうか、オイラ自身の好み、オイラが現状の「弾かれる」に吸い寄せられるのがちょっと解った気もするんよね。青カンとか障害者とか自殺希望者とか、一旦【アンバランス】から弾かれないと〈バランス〉へ向かうことはできないってことで、自分が弾かれていないから、弾かれる他者に吸い寄せられるって感じ。
「社会」全体では途方もなく無理だと感じてしまうのだけど、個々では可能性があるとどこかで感じていて、まあそこに囲まれれば自分も楽かもしれないっていう、、、、、「趣味」、、、ってことを言葉以前に感じていたのかもしれない。
ってなこと書きながら、オイラは人間全体には絶望しているけど、弾かれた個々には期待しているのかも、と感じた新しい朝^^

>一旦【アンバランス】から弾かれないと

それそれ、そこなんです。
弾かれたところからの再帰を、〔再編集〕という。

>弾かれた個々には期待しているのかも

その期待のことを「性善説」という言い方をしています。
性善も性悪も、これもまた虚構ですけれど、虚構は使いようですから。

>「社会」全体では途方もなく無理だと感じてしまうのだけど、個々では可能性

ぼくも同じことを思っています。そして、社会を大きくしたのは虚構なんですから、だったら、虚構には社会を小さくする作用もあるはず。いえ、現実にあります。
『サピエンス全史』が語っているのは、虚構が社会を大きくしたという物語ですよね。

虚構によって社会が大きくなったのは、その方が実はサピエンスによって都合が良かったからです。だから、紆余曲折はあっても、社会は大きくなる方向へと進んできた。そのように作用した虚構のうち、最強が貨幣だという話です。

わかりやすいのは人権かもしれません。
いうまでもなく、人権だって虚構です。個々人にとって都合のいい虚構。しかし、ある一部の社会にとっては都合の悪い虚構。

この人権だって、認知革命と同時に生まれた虚構ではありません。歴史的な産物です。虚構がすべてそうであるように。

ぼくたちは人権と虚構が作動する社会で暮らしています。そうすると見えるじゃないですか。大半の個人にとっては都合が良いということが。社会の中のある種の人間にとっては都合が悪いということが。

都合の悪い人間は人権を誤用します。その誤用を単に都合が良いからといって浸っている人間には理解できなかったりする。けれど、一度弾かれる経験があると、誤用がよく見えるわけです。

いずれ歴史は、個人にとって都合の良い虚構へとイノベーションして、収束していくと考えています。個人にとって都合が良いと同時に、社会にとっても都合が良いような虚構。そんなものがあるのか? というのはなかなか想像が付かなかったことでしょうけれど、これは実はテクニカルな問題。技術の問題です。

人権思想の流布は、グーテンベルクの印刷革命がなければありませんでした。
中国が、なぜ未だに強権を用いて禁書をするのか。ネットの接続を妨害するのか。
革命が怖いから。

貨幣もそう。金属を鋳造する技術が生まれなければ硬貨はなかったし、硬貨がなければ貨幣経済はさほど発達しえなかった。科学技術が発達して国家権力が強大にならなければ、紙幣の発行もなかった。IT技術の発展がなければ、グローバル経済もなかった。
これらの現象はみな、技術を都合良く使うことでおこったものです。

じゃあ、個人にとってもっとも都合のいいこととは何か。
ぼくは「全生」だと思っています。だってサピエンス以外の生命は、みんな「全生」ですから。
そうした期待を込めて、ぼくは人間性善説の立場に立つ。

まあ、それもシュミといえばシュミですが。

茶々入れに声かけありがとう^^
とりあえずこの「シュミ」「趣味」ってのは共通認識でよしとしていいんですよね。
ずっと昔アキラさんとFBでも繋がっていた頃、結構不思議だったんですよね。なんで【虚構】に踊らされたしょーもない話題でも、こんな明るく楽しげに振る舞っているんだろう?って、笑。今回、アキラさんがすんげぇニヒルなシュミのうえでの振る舞いって知ってなんだか納得してしまったの。あ、達観だったんだ、って。ここにきて始めてアキラさんが解ったって感じ^^;
で、ワタシも結構ノリはいいほうなんだけど、FBなんかだと(ある意味noteでも)、もちろんリアルでも、どっかで乗り切れないの。アキラさんみたいに「達観」できてしまうことに憧れたりするんだけど、やっぱり駄目で、あんまり【虚構】そうろうをドヤ顔で言われると、冷たく言葉で叩こうとしてしまったり、ケッって唾棄してしまったり、小馬鹿にした表情にでたり、それは今でもそうで、ああワタシってやつはそういうシュミのヤツなんだ、って今回も思った。
愚慫さんも【虚構】ってやつを「そんなもんさ」と看過できないタイプなんだろうねぇ。
アキラさんが何度も「シュミが違う」と書いていて、それはそうなんだろうな、と思うし、この違いの根源は思索すると面白いと思うけど、簡単じゃなさそうだな。ワタシは愚慫さんとは「シュミ」が近い。
でもね、その具現の仕方は違うかもしれないとは強く思う。ワタシはリアルがベースで、リアル(それこそめっちゃ手の届く狭い範囲)で、自分が楽に生きられる、とか、自分が楽しく生きられる、が問題のような気がする。
それに較べて愚慫さんはあまりにスケールが大きくて、言葉(ロジック)で世界を把握すること、そのことが「シュミ」の具現なのかな、と思えるの。「テクニカルな問題」とか「技術の問題」とかいわれてもなぁ^^;、、、って感じ。
もっともそれはそれで、ワタシなんかだと、マクロでリアルな手の届く範囲にも当てはまることもあり、言葉で整理してもらえるとありがたく楽しいのだけどね。シュミが違うというアキラさんにとってはどうなんだろうなぁ、、、うまいこと絡むと面白いと思ったからの茶々ね。

前置きがながくなっていまいましたが、
「人権」は【アンバランス】に対する「絶望」を中途半端に終わらせるよな。結局【アンバランス】に繋ぎ止めるもの?と思ったのが第一感。
かといってワタシはそれほどクールになれないんだけどね。

ところで「全生」ってどういう意味だっけ? 過去に何度も出てきたっけ? 野口整体の言葉だったかしら? なんとなくは解る気もするのだけど、なんだろう?^^?

いえいえ、「茶々」には感謝です(^o^)

「全生」というのは、「明日死んでもいいように、今を全力で生きる」くらいの意味だと思います。あるいはそういう身体になるということ。

「全生」なんてことは、ロジックで追っかけたって追い切れるものではありません。ロジックで詰めた「全生」なんて、それこそ虚構。


ロジックを弄せざるをえない自分ですが、でも、ロジックなんてスカスカだということも識っているつもりです。ロジカルなことはもはや機械のほうが得意とするようになりつつ時代ですし。

真面目な話、ロジカルなことはさっさと機械に任せてしまえばいいとくらいに思っています。そうすれば、人間の方はもっと上機嫌なことに専念できる。虚構に隷属する「稼ぎ」はつまらないけど、自身の〈いのち〉の発動である「仕事」はやっぱり愉しいと思います。


ぼくのスカスカのスケールは、もともとのシュミもあるんでしょう。子どもの頃から宇宙の話とか大好きだったから。それに加えて、やっぱり樵の体験が大きいと思います。大きなものに包まれた感は、忘れられるものではありません。


>「人権」は【アンバランス】に対する「絶望」を中途半端に終わらせるよな。

人権もまた【絶望】から生まれたものなんですけどね。新たな虚構を【絶望】から生み出しても、アキラさんが言うように、それまた次の「絶望」を生むというのは避けられないと思います。それが「人間というもの」だというのもそうなんだけど、それでもやっぱり【絶望】から何かを生み出すはず。そう「信じる」ことがぼくにとっては〈いのち〉への信頼です。

>全生
なるほど、、、と、言葉で表現できない何かは感じるのですが、、、多分回帰というか進化して認知革命を乗り越える身体性のこと、って実感がともなわないまま言葉にしてみるわけで、、、笑

>スケールが大きい
樵経験が大きいのかぁ、、、もっともワタシにしたってスケールが大きいのはワクワクしますし、好きです。サピエンス全史にしても十二分にスケールが大きいわけですし、そこに惹かれたこともあります。ただワタシの場合は、だんだんですが、リアル生活に還元させたいという思いがあるんだと思います。大きすぎてわけの分からないスケールの真理をミクロな日常(マクロではなく:前コメの修正)のなかにどう見出すか? どう愉しむか? 具体的日常として>〈いのち〉の発動である「仕事」にどう繋がるか、という風に。
正直にいえば、「ガンジーの無抵抗運動」とか革命とかいわれても、、、^^; って、ちょっと思ってしまうわけで、、、爆

もちろんシュミの違いなので、自由にエントリーするべきだし、充分楽しませてもらっていますので感謝しかないのですがm(_ _)m
人間は虚構だよね、なんて話せるところ他に見当たりません。
その前提のうえでシュミが違うなんて、シュミの違いを確認できるなんて面白すぎるし、シュミが違うからこそ発見することもあるだろうし、、、そういうのは大切にしたいですね。

>人権
【絶望】からうまれた、、、なるほど虚構も進化しますね。進化の過程や一方的な立場からの一コマをピックアップしてどうこう言わないほうがいいかもしれません。

>【絶望】から何かを生み出すを「信じる」ことが〈いのち〉への信頼
賛同しますよ^^

>リアル生活に還元させたいという思う。

これは自身の実感として、痛いほどわかります。^^;
とてもありがたい問いかけです。

現実の虚構体系がクソだとしても、そこで生きていくしかないのが現実です。日々の暮らしは、虚構に支えられているわけで、クソだからといって世を向けては自身の生活が成り立ちません。だからこそ、「腐臭」も生じていくわけですけれど。

行き方はふたつあると思うんです。

ひとつは「腐臭」が発生することを受け入れて、いかに腐臭を抑えていくかを探る。
もうひとつは、「腐臭」が発生することを批判的に受け止めて、批判が発生しない方法を探る。

前者のうち、「腐臭」を他に押しつけることで自身は免れようとすることが、現代でいう「競争」なんだと思います。

リアル生活でということであるなら、前者にいくしか選択肢はないと思います。ぼくだってリアル生活は前者志向です。

(そのあたりも語りたいのですが、公開の場でやるには今はちょっと差し障りがありまして...)

方向性が違うふたつですが、とはいえ、根っこは同じだと思っています。つまりは、後者が前者に近づいていくことになる。そのことをイノベーションだとか、テクニカルな問題だと言っていますが、この話もまだスケールが大きい。でも、具体的なイノベーションの話になると、「こっちのほうが都合がいいですよ、お得ですよ」という話にすることができます。そうなったら、リアルな生活に近くなりますよね。

ぼくは前者の方向性では語らないと決めています。そうした啓蒙系のものは、たくさんありますから。そうではなくて、「こっちのほうがお得です」という言い方にしたい。

コンビニ弁当を食べて暮らすより、自分で調理した料理を食べるほうが「お得」
工業的に作られた食材より、昔ながらに「ふつう」に作られた食材のほうが「お得」

現代での「お得」は、この逆です。「お得」の感覚が違うから。
いえ、現代も古代も、身体にとっての「お得」は変わりません。
身体は変わっていないのだから。
けれど、社会が変わって「お得」が変わっている。
身体にとっての「お得」は贅沢になってしまっている。

なぜそうなってしまったのか、が、歴史です。
そのうえで、では、どうしたらいいのか。
何をどのように組み合わせれば、身体にとって「お得」に暮らせるのか。
いずれは具体的に、そんな話もしてみたい。
これは「暮らし」の話です。樵時代に少しばかり披露していたような。
そこから、身体にとって「お得」に暮らすことが社会で暮らす上でも「お得」になるには、具体的な生活の中でどういった選択をしたらいいのか、というような話。


樵時代、それも熊野で暮らしていた時は、まだ、辛うじてそういう「地域」でした。
「里」と言えばいいんでしょう。
崩壊しはつつありましたけれども。

ここのコメントをしながらワタシ自身の生活をつらつらと書いたのでupしたのですが、あまりにも駄文すぎて消してしまいました^^;
で、やはりこちらに。
今回だけじゃないのですが、どうも違和感があるというか、ピンとこないのが「腐臭」という言葉、表現。たぶんあやふやな理解のなかでその言葉の感覚は相当ズレている予感がします。
今朝のテレビのなかで「発達障害の偏食」という特集をしていて、原因が知覚過敏だという内容だったのですが、もしかして、愚慫さんはリアルに臭うのでしょうか? 単にメタファとして捉えていましたが、テレビのなかで、自分に感じないものは「ないもの」にする、が、発達障害児の偏食に無理解なんだ、ということがいわれ、実際に腐臭を嗅ぎ取れないのは、ワタシも多数の無感覚のうちの一人かな、とちょっと疑っています。
と、ここまで書いて吹き出した「自分が感じないものは“ないもの”にする」が臭いの元ではないか、笑

リアルにしろメタファにしろ、ワタシが臭いを感じないのは、腐臭のなかでは腐臭を感じないのか、腐臭を感じないものとしているか、腐臭が普通なんだと、完全に「そんなものなんだ」としているか、でしょう。
今は、「腐臭が普通なんだ」としながら、むしろ実社会のなかで【虚構】からの束縛のされかたを観察しているような悪人を自分に感じながら、、たまにすごくその空気や自分が嫌になり、周囲にはわけわからないことを実際に発してしまい「ネガティブ」とか「面倒くさいやつ」と認定される、といった生活です。笑っていますが、それだけでは恐らく耐えきれないから、【普通】じゃない世界にも接していたいと思うのは、やはりあるいみ我慢した生活をしているからかもしれません。とはいえ我慢しない自分なりの時間は見出しています。

隠匿はしません。「稼ぎ」は「稼ぎ」でいいんです。割り切っています。ただ【稼ぎ】に呑み込まれないようにはしています。・・・こんな感じです。

「腐臭」はもちろん、メタファです(^o^)
メタファとはいえ、敏感になっているのは、そうなんだろうと思います。
たぶん、体質的にもそうなんだろうと。


以前、アキラさんの元に通っていた頃、いえ、アキラさんが富士吉田に来てくれるようになった頃だったかな? アキラさんからぼくは「邪気が強い」と言われていたことがあるんです。

アキラさん曰く、といってもぼく自身の邪気ではなくて、周囲の邪気を敏感に感じて、敢えてそこに近寄っていって、パン!と払いのけるようなことをしているんだ、と言われました ^^;

おまけに、払いのけた邪気はぼくの身近なものに影響を及ぼしていると。家内ですね。
これ、本当にそうだったんです。そうだったとしか思えない。(-_-)

アキラさんの言った「邪気」がそのままぼくのいう「腐臭」というわけではないのですが、かなり近い。「邪気」のもとは「腐臭」です。「腐臭」が攻撃的になると「邪気」になります。

今のぼくは、自身の攻撃的なところがずいぶんと抑制できるようになったと思っています。だもので、表現としては「腐臭」になる。

これはぼくの勝手な想像ですけれど、毒多さんの場合、「腐臭」が「戯れ言」で出るのではないかと思います。パン!と払いのけるのではなく、一旦受け止めて、浄化して、吐き出す。「戯れ言」はその意思表示のように思えます。

まあ、でも、やっぱり受け止めるのはシンドイのでしょうね。割り切りたいけれど、割り切れない部分があって、その割り切れない部分が「道楽としての思索」に向かわせている。これも勝手な推測ですが。

以前、お会いした時に出た「道楽としての思索」は、その時はちょっと残念な考え方だなと思ったのですが、今、考えればそれが毒多さんの体質なんだろう。なので、それでいいんだろうと思います。

ただ、やっぱり、思索を思索で終わらせるのはもったいない。やっぱりリアル生活に還元させたいですよね。【虚構】を割り切るための思索もいいですが、できるなら少しでも〈虚構〉へと、現実を〈システム〉へと近づける実践のための思索。

子どもたちのためにも。

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