愚慫空論

『シリーズ東日本大震災 避難指示“一斉解除” ~福島でいま何が~』

前々回続いて『NHKスペシャル』を取り上げます



視点は前々回 前回と同じく「虚構」です


上に掲げた画像は 番組をキャプチャしたもの
番組の中で取り上げられたかつての番組
すなわち NHKスペシャルのなかで取り上げられた『新日本紀行』のワンシーン

かつての飯舘村の姿だそうです


画像が小さく わかりにくくて申し訳ないのですが
列をなしているのは 稲わらです
稲刈りを終えた後の田んぼに
稲こきをしてのこった稲わらを並べてあります
それも一定の方向に 向きを揃えてある

画像に写っている田んぼの所有者が同一というわけでありません
それぞれが話し合って 向きを揃えると決めて
このような風景が生まれたのだそうです


このような風景を言葉に当てはめるなら

 美しい

が適切でしょう
もっとも「美しい」にもいろいろあって
温かいのも冷たいのもあるのですが
これは間違いなく 温かい方のもの
眺めていると 安心感が得られます


この風景を「虚構だ」と言ってしまうと 違和感を感じます
だけど 間違いなく虚構が作用している
自然な状態  別の言い方をすれば 天然では こういった風景はできあがらない
向きがそろって列を為す稲わらもそうだし
それ以前に 整然と区画された田んぼもがそうです

自然のままの天然の風景は 人間にとって必ずしも美しいものではない
まして 安心感がえられるものではありません



ぼくなどはこういった風景を好みますが
安心感があるかというと それは微妙に違う
充溢する生命の感触は 鬱陶しいというのが正直なところです
その鬱陶しさが気にならなくなれば深い安堵感があるのですけど
この「安堵感」と上の風景の「安心感」は別物です


安心感をもたらすものが「虚構」です
それも「血の通った」虚構

前回触れた『北の国から '87初恋』のシーンと同じものがここにもあります
列を為した稲わらは お札に付いた「泥」と同じです
その姿が出現するには 人間の「血の通った行為」がないと成立しない
そのことが理解できるからこそ この風景には「安心感」が感じられる



NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 避難指示“一斉解除” ~福島でいま何が~』

この番組の焦点は「分断」です



  「分断」が放射能災害の特徴

この言には批判はあるだろうと思います
予想されるのは たとえば「科学的ではない」とか

科学もまた虚構に過ぎないのですが
そこについては今回はスルーするとして
確かに 「分断」をただちに「放射能災害」の特徴とするのには無理がある
ミッシングリングがあります

そのミッシングリングこそ 虚構 です

この番組は「分断」を飯舘村村長とその友人との「分断」という形に集約して描いています
画像のかたは友人の方。
“元”友人とするほうが正確かもしれません
ふたりのなかは「分断」されていったのですから


彼らふたりが友人でありえたのは 虚構を共有していたからです
それは 冒頭に掲げた「風景」を出現させた虚構
その風景を実現せしめた「血の通った」虚構です

が それはもはや失われてしまいました
かつての虚構は もう元には戻らない
その点においても ふたりは一致しているように思います

村長は その立場上ということもあるでしょう
いえ それだけではなく 番組の紹介するところに拠るならば
村長個人の「血の通った」村への思いもあります

村長が望んでいるのは 新たな虚構の確立です


村長と友人の対立の出発は 放射能汚染が判明した時から始まります

時の政府は「ただちに健康被害はない」とアナウンスしました
虚言です

避難に慎重だった村長と ただちに避難するべきだと考えた友人
村長の胸中にあったのは 「血の通った」虚構だったと思います

虚構は それを信じて尽力する人間がいなくなると 本当に「虚」になってしまう
村民が避難して村から居なくなってしまえば 生きて「血の通った」虚構は失われる


この懸念はこの上なく〔人間〕的なものです
血の通った「温かい虚構」だからこそ 〔人間〕はそれに囚われてしまう
避難する選択のほうが科学的と言えますが それは「冷たい虚構」に拠ることになる
〔ヒト〕的ではあっても 非〔人間〕的な行為です

現時点で飯舘村は避難地域に指定されています
科学とは別の「冷たい虚構(=日本国政府)」によって
そのように決定が為されたからです


村長が抱いた懸念は その後 暴力的な色彩を帯びていくことになります
村長の「温かい虚構」への思いは変わりません
なのに 暴力的になる

なぜか
血の通わない「冷たい虚構」に頼ったからです

日本国政府と村長が抱いた新たな虚構は言語的には一致しています

政府には政府の「都合」があります
それは「原発事故をなかったことにすること」です
そうするには 村が「元通り」になる必要がある

政府とっては 「血が通った」かどうかはどうでもいいことです
形だけ「元通り」であればよい
そうなれば 

 「原発事故はあっても元通りにすることができる」

と言い張ることができるからです

村長が望んでいるのは 形だけの「元通り」ではありません
むしろ形などどうでもいい
それが「血が通っている」かどうかです
いえ、どうかのはずです

「はず」と書かなければならないのは
村長はそこを取り違えているように見えるから
村長は「血の通っている」ことを求めながら そうでないものの力に頼った
「分断」の真因は そこにあるとぼくは思います


このことは 登場人物の表情を観てみるとよくわかります
 友人には「絶望」が
 村長には「苦悩」が
ある

番組には他にも登場してくる人物がふたりいます
番組的には脇役だけど 政府の復興にあたっては主軸にいた人物
官僚です

官僚の表情には「絶望」も「苦悩」もありません
そういう「温かい」もののない「冷たい」表情がふたりのなかにはあります

友人を「絶望」へと追い込んだのは 村長の「苦悩」です
村長が「分断」されているんです
「温かさ」と「冷たさ」に「分断」されている
言語的に同じ虚構を共有するがゆえに「分断」されてしまっています





「フクシマ」(←敢えてこのように表記します)は「第二の敗戦」だと言われています

「温かい虚構」と「冷たい虚構」
この視点から眺めてみれば
ふたつの「敗戦」には同一の構造があることが理解できます

「敗戦」とは どういうことか
単に戦争に負けたという意味を超えた含みがそこにはあります

 「敗戦」とは「温かい虚構」が「冷たい虚構」に押しつぶされること

なぜ「温かい虚構」が「冷たい虚構」に押しつぶされるかといえば

 「冷たい虚構」のほうが「温かい虚構」よりスケールが大きい


からです

こういった差が生まれるのは〔ヒト〕の能力の限界ゆえです

・〔ヒト〕は虚構を生み出す能力を備えて〔人間〕になった
・〔人間〕には虚構を共有する能力がある
・〔人間〕は虚構の規模や温度に関係なく 虚構の共有が可能
・〔ヒト〕は虚構に「血を通わせる」ことができる
・〔ヒト〕が「血を通わせること」ができる虚構の大きさには限りがある

ぼくが【システム】と呼ぶものは 温度が低い「冷たい」虚構であることは言うまでもないでしょう


コメント

観たよ。

ほんと、賠償会議の責任者であるところの役人の表情がなくて気持ち悪かったねぇ。怖かったといってもいい。最近には珍しく殺意さえ感じた。人はあれほど無表情になれるのか? きっと〔ヒト〕には無理だろう、〔人間〕にだってなかなか難しいと思うのだが。
「冷たい」ほうの虚構に取り憑かれているというよりも、虚構そのものが具現化したという感じ。
温かい虚構とは、生物的必須を補完していく感じがするのだが、冷たい虚構は逆に生物的必須を隠匿していく感じがする。
〔ヒト〕は本能的に虚構の温度を感じられるものかもしれないが、感じないでいようとする〔人間〕もいるな。

たしかに村長は隠匿のうえに虚構を再構築しているように感じる。そこに縋らなければならない村長さんも気の毒なんだけど。
ワタシが村民ならば多分戻らない気がする。街の人間だし、定住にこだわらないという意味では、田舎の人よりも狩猟民に近いのかもしれない。

>感じないでいようとする〔人間〕もいる

感じてしまうと【システム】のなかでのポジションが維持できないから、なんだと思うんです。

【システム】は一部の植物に隷属することから始まりました。
「書記」が生まれて、全体としては【システム】として隷属しつつ、一部の【人間】が【システム】の隷属から部分的に逃れることができるようになった。エリートが享受できる【自由】というやつですね。

【自由】を享受するには、【システム】への隷属の苦しみを感じてはいけないんです。
それから逃れるためにエリートになろうと努力するのに、それを感じてしまってては元も子もありませんからね。

そうした努力は《形》となって表れます。
ご覧になっての通りでしょう。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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