愚慫空論

『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』



しゃべりたくて、何をしゃべりたいかもわかっているのに、言葉が出てこないことを想像してみてください。あるいは口から出てくるのはわけのわからない音だったり、これまで何千かと口にした同じフレーズだったりすることを。

心の中ではものすごく怒っていたり、悲しかったり、人に挨拶するために微笑みたいと思っているのに、顔は無表情のままになってしまうことを想像してみてください。また別のときには、喜び、怒り、悲しみなどの感情に呑みこまれてしまって、ジェットコースターに乗っているようにその感情に翻弄されることを。

頭では静かにしたいと思っているのに、せかせか歩き回ったり、両手をぱたぱた動かしてしまう、また頭では手足を動かそうとしているのに、まったく動けなくなってしまう、そんな身体と共に生きていくということを想像してみてください。

何不自由なく読めるのに、身振りをしたり、ペンや鉛筆で書いたりすることはできない。「毛布をぴっぱりあげられたらいいのに」と思いながら寒いままベッドに横たわっている。またあるときには、自分の手が衝動的にテーブルの食べものをかっさらたり、足が勝手に動いて道路に飛び出したりしてしまう。

身体が牢獄のようで、そこからどうやって出たらいいのかがわからない。思いを表現することができないので、「自分にはまともな知能がある」とわかっているのは自分だけなのです。



本書 冒頭の文章を引用させてもらいました

常々思うんですが シンクロニティってあるんです
いえ この現象をシンクロニシティと呼ぶのは間違いかもしれません

絶望について考えを整理しようと思っていました
整理に空論の1ページを費やそうと思って
タイトルを「絶望について」とし 下書き保存しておいた

そして 気分転換をしようと思って
――考えを整理するのに気分転換は効果的です――
視線を本が雑然と積み上げられている隣の机に向けました
目に留まったのが 数週間前からそこにあった本書でした

ボチボチ読み始めてみるか――

「機が熟する」ということもよくあることです
準備は整っている
その気になりさえすれば いつでも取りかかれる
だけど 「その気」がやってこない
ぼくの周囲には ぼくの「その気」を待っているものがたくさん転がっていて
ときに収拾がつかなくなってしまうようなこともあるんですが 
そうなると「その気」に巡り会うことがなかったものたちが整理されてしまうのですが
イド・ケダー著『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』は
幸いなことに「機が熟して」 ぼくは「その気」になり ページがめくられました

そのようにして冒頭の文章を読んで 仰天しました
こんなところで出会うとは

 自分だけ

この状態が

 絶望

です

「ハラスメント」という概念があります
嫌がらせ いじめといった行為を指す言葉です
行為というからには 行為する者とされる者とが存在することが前提です

ところがその前提ないしでハラスメントという状態が成立することがある
ハラスメントが内面化した
 自愛の隠蔽
 自己嫌悪
 自己愛の成立
がまさにその状態であるわけですが
内面化ではなく身体そのものによって これらの状態がもたらされることがあります

イド・ケダーさんは そういうハラスメントする身体を持って生まれてきた人間です
高機能自閉症といいます


イド・ケダーさんは絶望の状態に置かれていました
彼をして絶望へと追いやった要因は何か?

彼のハラスメントな身体は 間違いなくその要因です
ですが 彼の訴えを聞いてみると それは第一の要因ではない
ハラスメントな身体のおかげで 他者のとのコミュニケーションが断たれた状態にある
コミュニケーションが不能であることは 誤解を生みます
すなわち 
 彼のコミュニケーション能力=彼の知能 
という周囲の理解です
その理解のおかげで 彼は知能の低い者として扱われる

ところが事実は違いました
彼はコミュニケーション能力が阻害されていたけれど
その阻害は彼の知能にまで及んでいなかった
阻害が及んだのは 彼の周囲の者の理解のほうです

彼を絶望へと追いやる要因を整理をすると こうです

 原因:身体
 経路:
  1.イド・ケダーの身体 ⇒ イド・ケダーの自己
  2.イド・ケダーの身体 ⇒ 周囲の者のイド・ケダー認識 
              ⇒ イド・ケダーの自己

彼の絶望により大きく作用したのは 2.の方です
本書を読む限り ここは間違えようがありません

ですから 2.における中間点「周囲の者のイド・ケダー認識」が変わると
彼の絶望の「絶」が変化します
ベクトルが変わるんです
 「希」
へと変わる
そして 2.が「希」へと変わっていくと 1.も変わってきます

すなわち本書は イド・ケダーという人格における「希望」の発展史です
それも 非常に振幅の大きな発展
振幅の大きさが 読む者を捉えます


ぼくは 振幅の大きさに「サティヤーグラハ」という言葉を思い起こしたほどです



実際、イド・ケダーの抵抗は非暴力です
いえ 違います
暴力的なこともあるし 絶望状態の彼はそれしか選択肢がなかった
「スティル」がそれです

「スティル」は彼には恍惚をもたらしたかもしれないけれど 周囲には迷惑行為です
子どもでしかも障害者という理解ですから「迷惑」で済ましてもらえますが
本質は 暴力 です

「絶」が「希」に変化してからの彼は しだいに「スティル」が減ります
といって 経路2の中間点
イド・ケダーに対する認識を変えようとしない者に抵抗しないわけではない
ただ 抵抗の方法が変わります
アヒンサー(非暴力)になります



イド・ケダーが小さなガンジーのようになることができたのは 一種の奇跡です
もし彼が生まれたのが狩猟採集社会なら 彼の生存は許されなかったでしょう
そのような社会においては 身体のハラスメントは致命的です
現代においても裕福な先進国アメリカだったから 生存は許された
が 生存は許されたがゆえに 絶望も生じたと言えます

彼の「絶」が「希」へと変化できたのには 欠かすことのできない要因があります
テクノロジーです
経路2.における

 イド・ケダーの身体 ⇒ 周囲の者のイド・ケダー認識

の中間を媒介する人物が現れ 仲介する技術を提供した
これは奇跡的な幸運と言えますが
しかし 何の下地もなしに実現した現象ではありません
テクノロジーの発展という下地があってこその奇跡的巡り合わせです
そして イド・ケダーさんがそのテクノロジーの恩恵に被ることができたのも
彼の社会的階層がアメリカ合衆国に
トランプ大統領を誕生せしめた階層ではなかったからでしょう
そちらの階層だった場合、恩恵を被ることができた可能性は低いと言わざるを得ない

ただテクノロジーの発展も 認識を変えようとしない者にとっては無力です
かつて コペルニクスやガリレオやダーウィンが被ったような無理解を
イド・ケダーさんも被ります

先人たちの無理解は保守的な宗教が基盤でしたが
イド・ケダーさんが被ったのは保守的な科学が基盤でした
すなわち「科学教」です
まだ12、3歳の少年が いくら知能が高いとはいえ 科学教の弊害を指摘してのける
当事者だからそうならざるを得ないのですが
この事実の深刻さと複雑さを受け止めたいものです


まだ言い足りない気分ですが 最後にもうひとつ
「シンクロニシティ」を紹介します

一日か二日黙ってすごすことは、だれでも想像できる。
じゃあ、一生ずっと沈黙を通す人生を想像できるだろうか?
この沈黙とは書くこと、身ぶり、言葉以外のコミュニケーションを含む、「完全な沈黙」だ。
これこそ会話のない自閉症者が一生すごす世界なのだ。希望がうすらくのもむりはない。
それでもがまんしてABA(行動療法)やフロアタイム(自閉症治療に焦点をあてた遊び)に取り組むけれど、どれもなんの効果もない。
セラピストさんには助けてもらえない。
自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけだなのだ。
断言できるけど、これは一種の地獄だ。



冒頭とほぼ同じないようです。
冒頭の方は実は母親の文章で こちらはイド・ケダーさん本人のもの

この文章に彼は「沈黙の世界」というタイトルを付けています
「沈黙」と「絶望」とが ここでも結びつく

ちなみに イド・ケダーさんは 「自己嫌悪」という言葉は使いません 
代わりに「自己憐憫」と言います
「嫌悪」と「憐憫」 表記は変わっても 指し示す内容は変わらないと思います
どちらを選択するかは それぞれが所属している文化の違いかもしれません
キリスト教文化圏で暮らす彼には 「憐憫」が筆頭の選択候補なのでしょう

同じことは「絶望」と「沈黙」についても言えるのかもしれません



コメント

この本を読み終わったときに考えたのは、イド君のように「地獄」を苦しんでいる自閉症とされている人がどれぐらいいるのだろうか? もしかしてほとんどが、出力方法を得ることによって「絶望」から解放されるのだろうか?
全国の障害者施設のみなさん、ちゃんとトライしようぜ!!

ということと、

イド君(東田君も)は、身体的にはエイティピカルかもしれないが、精神的にはニューロティピカルではないか?ということ。とすると、COCORAや栗原くんとは全く違う自閉症じゃないか?ということ

どう思われますか?

>出力方法を得ることによって

同じことを思います。
これは本文でも指摘し、またイドさんも指摘しているように、テクノロジーの問題ですからね。
現在のテクノロジーで、すべての出力障害が救われるとは思えませんけれど、残念ながら、
だけど、その可能性のある者は多いと思います。

となると、ネックになるのは、リソース分配なんですよ。
だれもがイドさんのように恵まれた境遇にいるわけではないという現実。
これは、〔システム〕、あるいは虚構、あるいは「言語現象世界秩序」が引き起こす現実ですね。

が、だからといって、イドさんの成果が割り引かれるわけではないことは、申し添えておきましょう。


>身体的にはエイティピカルかも

これも同じ印象を持ちます。
東田さんも栗原さんも本を未読なのでなんとも言えないんですけれど、
COCORAについては違うと思います。

言うまでもなく、あくまで本を読んだ印象の範囲内ですが。

イドさんの場合はテクノロジーで補えるだろうけれど、
COCORAは原理的に無理だと思う。
COCORAにそれをやると、暴力的な人格侵害になると思います。

そういう意味で、イドさんを「エイティピカル」と分類するのは違う気がします。

イドさんは、脳と身体の配線の問題。
COCORAは脳内配線の問題。
ニューロティピカル/エイティピカルの区分は、後者に適用される区分だというのがぼくの理解です。

追記です

イドさんの場合も、しかし、脳内配線に変異はあることは本の中からも見受けられますよね。

読んだ本のページをカメラに写したように記憶できる「カメラアイ」とか。
人物に色が付いて見える「共感覚」とか。
これらは、脳内配線の仕業と考えるのが妥当だと思います。

ただ、イドさんの場合、エイティピカルであったとしても、そもそもコミュニケーションできる情報量が圧倒的に少ない。なので、エイティピカル的要素は、コミュニケーションそのものの問題より圧倒的小さくて問題にならないのかもしれません。

テクノロジーや彼のコミュニケーション技能が発達してやりとりできる情報量が増えたら、その問題は顕在化するかもしれません。

東田君が、がちょうどイド君と同じタイプで、東田君の初版が2014年9月9日です。
日本とアメリカで同時期に、(細かな情報はわかりませんが)キーボードという方法で出力方法を得ました。こういうテクノロジーが研究されているのか、偶然、同じような時期に出力方法が「発見」されたか解りませんが、不思議な感覚を覚えました。こうしたこともシンクロニシティと言うのでしょうか?
まさに、時がそういう時期にきているのかな、という感じです。
イド君、東田君、ともにその著書は売れているようです。
ふたりの存在が、著作が、凝り固まった観念を打ち破らんことを願っているワタシがいます。現実にワタシの間近な周囲には2人のタイプの障害者はいませんが、ある種の【虚構】が瓦解することに喜びを感じているワタシが見えます。

COCORAと栗原類君は「脳内配線の問題」で同タイプで、周辺の理解があった例(栗原類)と周辺が無理解でネグレクト的だった例(COCORA)です。
ここまで使ってきたニューロティピカル/エイティピカルはこちらのタイプとの対比ですね。
本人の苦しみも、イド君と種類が違う、ニューロティピカルとしてワタシが受け取る問題もイド君から受け取るものと違ってきます。

東田さんも栗原さんも、近いうちに読んでみることにします。COCORAの続編も。

ところでぼくには、苦しみの質については、COCORAもイドさんも変わらないように思うんですよ。配線のタイプは異なるけれども、生命力の発展が阻害される「絶望」は、変わらないような気がするんです。

イドさんの場合は「スティル」。
COCORAの場合は頭の中の別人格。
症状が異なるのは配線のタイプが違うためでしょうけれども、そうした症状を生じせしめる原因は、どちらも本文経路2の力学だと思います。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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