愚慫空論

『嫉妬と自己愛』



佐藤優さんの本はこれまでもいくつか読ませてもらってきましたが
この本が一番面白いかもしれません

ことに面白いのは 第一部です



いわゆる“オビ”の背表紙側ですが
第一部では これらの小説たちの 佐藤さんの「読み」が披露されています

これがとても面白い
紹介されている本たちは 全部読んでみたいと思ってしまいました

夏目漱石の『それから』は既読ですが
読み直したくなります

『コンビニ人間』などは 思わず購入してしまいました
いつもの図書館に蔵書はあるんですが 予約が多くて 待てそうにない...(^_^;)


佐藤さんの「読み」の軸が「嫉妬と自己愛」というわけです


術語の定義に触れておきましょう

 嫉妬   英語では jealousy   ジェラシー
 自己愛 英語では Narcissism ナルシシズム

英語にしてみると イメージが確かなものになります
ただし 佐藤さんの語法では 自己愛には
 不健全な自己愛
 健全な自己愛
があります
本書のテーマになっているのは 不健全な自己愛=ナルシシズムです

ちなみに ぼくは「健全な自己愛」を「自愛」と呼びます

 自己愛とはハラスメントが隠蔽されることによって生じる偽りの愛

というのがナルシシズムの定義です
ここでいうハラスメントとは
 
 生命体が生きるために発動させる感覚を誤作動する現象

と定義します
そうすると 自愛とは

 生命体が生きるために発動させる感覚が健全に発動している状態

という定義になる
そして 

 ハラスメントを引き起こす誘因となるのが虚構

という構図です
〔虚構〕に感覚を乗っ取られてしまった時 〔人間〕は【人間】になりハラスメントを引き起こす
そして〔ヒト〕は〔虚構〕に感覚を乗っ取られてしまうようにできています
サピエンスがそのように「進化」したのが 「認知革命」です



「ちなみに」が長くなり過ぎました (^_^;)
話を戻します


佐藤優さんの「読み」を読んでいるうちに改めて気がついたことがあります
それは 佐藤さんは

 絶望

を識っている(体験している)ということです

それはそうでしょう
「国家の罠」に嵌められ
世間からは「外務省のラスプーチン」などと呼ばるような境遇を味わったのですから

本書で佐藤さんが披露する「読み」は 
「絶望」の体験なくしては読めないものだという気がします


またしても「ちなみに」なんですが
絶望という言葉について触れておきます
ここは大切なところです

「絶望」いう言葉は一定方向への「ベクトル」を持った言葉です
その「ベクトル」がどういった方向性のものなのは説明を要しないでしょう

大半のサピエンスには 「絶望」という言葉が持つベクトルの認識は容易です
それが理解できないのは〔人間〕として未発達な子どもか ピダハンくらいのものです
架空の人物を含めるなら『この世界の片隅に』のすずとか(笑)



こういった「ベクトル」を持った言葉にありがちなことですが
理解の「深度」はまちまちです
入口の方なのか 「ベクトル」の方向へずっと進んだところまで立ち入っているか
「べくトル」の深いところまで進んだ理解を ぼくは「識る」と表現します

では「絶望を識る」とは どういうことか
それは 自身が希望することが実現の見込みがない のとは違います
この状態も「絶望」という言葉を当てるにふさわしいものですが 深度は浅い
この程度の「浅い絶望」は 他人と共有可能だし 共有することで癒やされる程度のものです

「共有することによる癒やし」とは 社会的な癒やしのこと
社会現象も生命現象の発露ではあるけれど 二次的なものです
二次的な現象で回復可能だということは その絶望もまた二次的でしかない

「深い絶望」は共有不能です
だから 共有することによる癒やしを原理的に望めない
生命現象の一次的なところに拠るしかない

生命現象の一次的なところとは 生命現象そのものです
言い換えれば 命懸け
生きるか死ぬかの瀬戸際のところです


哲学の名著です



実存主義の先駆けとなった本書のいう「死に至る病」とは「絶望」のことです
それも「深い絶望」です

「深い絶望」が「死に至る」というのだということは
「浅い絶望」しか知らぬ者にとっては 笑い事です
「絶望」そのものを識らないピダハンたちが
『ピダハン』の著者であるダニエル・L・エヴェレットさんの苦悩を笑ったのと同じく



理解できないことを笑うのは 生命現象としてはごく健全なことです
笑われることも ハラスメントに妨害されなければ 不機嫌にはなりません
生命現象への感覚に「負の感情」が伴うのは
自身の生命現象を「負」として取り扱われたからです
その「負」を自身のものとして受け容れなければ生存不可能だったからです

ハラスメントが「深い絶望」へ至るのは必然の現象だし
「深い絶望」は「死に至る病」であるのは上述の通りです




またしても「ちなみに」が長くなりました
再び話を戻します

佐藤さんは「深い絶望」を「識って」いると思います
同時に思うのは

 「「深い絶望」を「識って」いる」ことを 佐藤さん自身 「知らない」のではないか?

ということです
この「知らなさ」が 佐藤さんの「構え」になって出てきているような気がします

佐藤さんは「極意」ということを言います

 『資本主義の極意』
 『世界史の極意』

などといった著作をものにしています
このふたつは読みましたが まだ他にも『~の極意』なタイトルの著作はあるらしい

ここでいう「極意」とは「生き残るための秘訣」といった意味です
「世界史の極意」「資本主義の極意」は要約であり
要約された部分を補足すると

 資本主義社会の中で生き残る極意
 世界史の中で生き残る極意

です

「極意」を得るためには 資本主義を理解しなければならない
世界史を理解しなければならない
目指すところは「生き残り」であって
その前提には生き残りを強いる【社会】【システム】がある

「極意」を打ち出すことを良しとする「構え」から窺えるのは
そうした強いる【システム】を是とする姿勢です

言い添えておきますが 佐藤さんは
【システム】を肯定しているわけではありません
否定的に捉えています
否定的に捉えているけれども どうしようもないと認識している
どうしようもないから せめて「生き残る」ために「極意」を伝えようとしている
それはよくわかります

ですが それは「浅い絶望」への対処です
全体としては 自身が希望することが実現の見込みがない
だからせめて...
わからないではありません


佐藤さんはクリスチャン それもカトリックです
幾度もイエスのこの言葉を引用しています

 隣人を自分自身のように愛しなさい(「マタイによる福音書」22章39節)

イエスは、隣人を単に「愛しなさい」と言っているのではなく、「自分のように愛しなさい」と言っていることが重要だ。自分を愛することは、他者を愛することの前提なのである。自分を愛することができない人が、他者を愛することなどできないというのが、キリスト教の愛に対する考え方である。



そのイエスは 上掲の言葉を「極意」として発したのか?
そう佐藤さんに問うてみたい

イエスは神の子だからそれができた
だから 人間は「極意」しか発することができない――
もし そんなふうに考えているとするならば それはキリスト教によるハラスメントでしょう


本書が明らかにするのは 実は佐藤さんの「知らなさ」だけではありません
佐藤さんが採り上げた小説たちも 「深い絶望」を「識って」いる
時代に即して「「深い絶望」を「識って」いること」の描写が これらの小説です

そして佐藤さんの指摘によれば それは「現代社会の姿」です
となると そのモデルとなる現代人たちもまた 「深い絶望」を「識って」いることになる
現にぼくたちは 強いる【システム】に生きる当事者として そのことを識っています


だとすれば 「識って」いることを「知れ」ばいい――
ということで 『サピエンス全史』シリーズへと続きます




コメント

あちこちで見かけますが、「絶望」ということにこだわりがあるみたいですね。 (^_^;)

絶望に癒しなど必要なのでしょうか?

・アキラさん

ええ、こだわりがありますとも (^o^)


絶望に癒やしが必要かどうかは、難しいところです。

絶望とまではいかなくても、苦しい状況に置かれれば、誰しも癒やしあるいは救いを希求しますよね。希求することは大切だし、必要だと思うんです。

だけど、希求したからといって、希求するものが与えられる保証はどこにもありませんし、誰も保証できない。保証のないものを、必要かどうかは言えないと思うんです。

逆に言えば、保証があれば絶望は絶望ではない。

希求というのは、本文の言葉でいうと、絶望とは「ベクトル」が真逆です。
必要なのは、「ベクトル」の動的な平衡であるような気がします。

「希求する」というのは「望」ですよね?
それが「絶」なんだから、「絶望」の場合は「希求」は、ないんじゃないですか?

そういう解釈も成り立ちます。
でも、その解釈だけではないと思うんです。

「絶」を静的に捉えるか、動的に捉えるか
視覚的、あるいは聴覚的といっていいのかもしれません。

静的に捉えると、仰るような解釈です。
動的に捉えると、ないとは言えないという解釈になる。

「絶」は「絶たれた状態」or「絶とうとするベクトル」です
「絶たれた状態」なら「望」は「0」だけど、
「ベクトル」なら「0」とはいえない。
「0」にしようとする「動き」はあるし、
それが完結して「0」になるとすなわち「死」だけど、
「動き」が存在する以上はまだ「0」ではない。

そして「0」ではないならば反発もあるはず。
「生きている」ということは、そういうことでしょう。

僕は質的変化だと感じています。

もしかしたら、それは触覚的ですか?

うーん、そうかも・・ですかね。 (^o^)
生クリームをホイップしていると、ホイップクリームになるじゃないですか。
それをさらにガーッとホイップし続けていると、あるところで ブンッという手応えとともに、バターと水分にきれいに分離しちゃいますよね。

僕の中の「絶望」の理解は、そういう感じなんです。
ガーッとなってる間に あるところでブンッと質的変化が起きちゃう。
そうなっちゃうと、もう二度とホイップクリームには戻らないわけです。
そうして その状態を、ホイップクリーム側からいくら眺めたり論じたりしても、まったく意味をなさなかったりする。

なんか そういう感じなんです。 (^_^;)

ああ、なるほど。それ、よくわかります(^o^)

アキラさんのそのイメージに乗っからせていただきますと、ぼくの絶望のイメージは、そこに嗅覚が入ります。

腐臭です。

分離した上澄みでも、沈殿物でも、分離しなくてもいいですが、蓋をしてそのままおいておくと、嫌気発酵して腐臭を発するようになりますよね。この臭いが「絶望感」のイメージなんです。

では、いったん腐臭を発し始めると不可逆かというと、そうでもないんです。

臭いですけどそこはガマンして(^_^;)、よくかき混ぜてやると、好気発酵に変わって立派な肥料になる。

気分を悪くしたら申し訳なんですが、嫌気発酵が進んだやつって、ホントに不愉快ですよ。
戦争映画のシーンなんかで、死体処理をさせられる兵士たちが吐いていたりするじゃないですか。
あの身体的拒絶反応が絶望の感触なんです。

その拒絶に負けるのなら、逃げ出すしかない。
さりとて、腐臭に慣れてしまうのも、負けだと思う。
どちらにせよ「かき混ぜ」は試みられないわけだから。

では 分離した質的変化は、愚慫さん的には「絶望」ではないんですね?
なんですか?

質的変化が絶望と無関係とは思わないです。
事実、アキラさんの提示からぼくのイメージが出てきたわけですし。

「起因」なんでしょうね。
「絶望」を動的に「ベクトル」と捉えているのは申し上げた通りですが、
では、その方向へ事態を動かす要因はなにかというと、
アキラさんが仰ったような「分離」なんだろうと思います。

実は次に構想している『サピエンス全史』シリーズのサブタイトルは「認知的不協和」なんですけれど、歴史を眺めてみたとき「不協和」が絶望的事件の起因になっていることは間違いなさそうです。

「分離」によってパーテーションができあがり、大きな循環が阻害されて嫌気発酵が促進されていく。

自然の中には、人工的にパーテーションが設けられることで 一定地域の生態系全体が大きなダメージを受ける現象は多々ありますよね。長良川の河口堰とか、有明海の堤防とか。系としての長良川や有明海が別物に変わっていく。その過程で腐臭を発する場所ができたりするわけです。

歴史にもおなじようなところがあって、社会が不安定な状態で振動を与えられ続けると、突然、物理的と言っても良いような「分離」がおきます。顕著な例は、カトリックからのプロテスタント分離とか。そのような「分離」があると、純粋にカトリック、あるいはプロテスタントのところは規模は小さくなっても循環を維持できるのですが、同じ区域の中で分離が出現してしまうと循環が分断されて「嫌気発酵」が起きるという。ドイツの30年戦争など、そういうイメージを持ちます。

だけど、その腐臭の中で必死に「かき混ぜ」をした人間もいる。
デカルトなど、そういうイメージを持っています。
彼の「我思う ゆえに 我有り」は 絶望という肥料から生まれたものに違いない。

そして現代、このとき生まれたデカルト的発想が分断の要因になっている。イスラーム世界などにも浸透していったはいいけれど、安定できずに不安定な状態になり、認知的不協和が増大して「分離」が起きる――

「分離」は、そうした「負の循環」のイメージのなかの、大きなパーツでしょうか。

うーん、話が大きすぎて よく分かりません。 (^_^;)

僕の中にあるのは、この「ブンッという手応えとともに起こった分離」みたいな感じなんです。
その意味では、自分を含めた人間に対して、希望を持っていません。
絶望と言えば絶望になるのかもしれないですけれど、別に悲嘆にくれてるわけでも、死にたくなっちゃうわけでも、虚無に陥っちゃうわけでもない。

訊ねられて しょうがなくて「ある意味 絶望してる」と毒多さんのところで言いましたが。

この「分離」を「絶望」と言わないのならば、じゃあ何と言うのかな?というのが 僕の疑問です。 (^o^;)

なんだか大きく的を外していたようで ^_^;

もしかして、その「分離」が人間関係において起こるようなものならば、「心変わり」というやつでしょうか?

だとすれば、それは「世の常」ですからね ^_^:

また的を外したかな?

ん〜、やっぱり違う。 (^_^;)
ま、しょうがないですね。

次のイドさんのエントリーを読みましたが、そういうようなことを「絶望」と言うのなら、僕の中にあるものは絶望でも何でもないですね。
そこまでの 身も裂けんばかりの苦しみはないですから。

そうですか、他人事ながら気になるな(^_^;)

>僕の中にあるものは絶望でも何でもない

そうなんだろうと思っていはいました。
たぶん、アキラさんのなかにはないんですよ。

これは本当に羨ましいことです。


ついでながら申し上げておきますが、この「本当」は「純粋」ではないんです。
混じり気があるものなんです。
混じり気があるから、「純粋」よりも強調された「本当」になっています。
「純粋」でありたいけど、どうしても混じるものがあるから「本当」になってしまうというジレンマが「本当」なんです。

この「混じり気」が「絶望」由来のルサンチマン。
自己愛も嫉妬も、ルサンチマンのバージョンです。

ルサンチマンは「感じること」の邪魔をするんです。
感じることが妨害されているから、リアクションも歪んだものになってしまう。
どうにかしようと思っても、感じる部分に作用していますから修正が難しい。
ただ、難しいということは感じられます。

その「難しい」を幾度も感じていると、邪魔をしているものの正体が感じられるようになってきます。なんていうのかな、身体のある部分に染みついた腐臭のようなもの。
こいつがいつも感じることを邪魔していることに気がつく。

その邪魔とは、羨望に妬みを混ぜ込んだりする感じです。
そういう異物を混ぜ込まれると、純粋な羨望が及ぼすはずであった相手への作用が違ったものになってしまうんです。

この腐臭は剥がれないんです。
自力ではどうにもならない。
そういうこともわかってきました。
自身の「感じる構造」そのものを変えないといけない。

感じる構造が変わると行動が変わります。
エートスというのは、感覚構造の変化なんだと思います。

ただ、これは相当に危険な行為です。
感じる部分そのものを持って行かれる可能性が高い。
キリスト教の歴史などを見ているとそういう印象を強く持ちますし、
クリスチャンたちの「感謝」も、どこかが抜け落ちた「感謝」のようにぼくには感じられます。

その欠落は、現代社会を生きるには都合のよいもののようですが、これは当然といえば当然でしょう。現代社会の構築には、彼らが主導的役割を果たしたことは確実ですから。

>その「難しい」を幾度も感じていると、邪魔をしているものの正体が感じられるようになってきます。
 ・・・・・・・・・・
 自身の「感じる構造」そのものを変えないといけない。


こういうの、僕らが整体の技術的な稽古でやることと、ほぼ同様だと思います。
動いている中でも相手との感応の精度を高く保ち続けるための体運用法が、僕が常々言っている「型の動き」です。
これは、日常的な身体操作とは隔絶しています。
なので、フツーに動いていては成立しない。

とはいうものの、要求される動きを出来ないわけです。 (^_^;)
当たり前ですけど。
で、動きの稽古をしながら その「難しい」を幾度も感じていると、自分の中の何がネックになっているのか、だんだん感じとれるようになってくるわけです。
(センスがあれば・・ですけど、実は)

それが感じとれて分かってきたら、それを元に、今度は要求されていることが成り立つように 動きの工夫をしていくわけです。
当然ここには、成り立つために必要な感覚・感触を感じなければいけないことが含まれますから、ある動きについての「動きのネットワーク = 感覚のネットワーク」を変更していく必要があります。

その変更が出来ると、いわゆる「その動きが出来る」という状態になります。
そうすると、当たり前のことですが、全体の感覚自体も前とは違ってくるわけです。
僕らの場合は、ここはいつでもセットなんですね。

愚慫さんの場合も、似たような話なのではないかと想像します。
ですから、「感覚の構造(ネットワーク)」の変化は イコール「動き(行動)の構造」の変化となるのではないかなぁ・・と思ったりします。
ということは逆に、「動き(行動)の構造」の変化が「感覚の構造」の変化を誘導する・成り立たせるとも言えそうです。

なんてことを思いました。

ありがとうございます。
とても参考になります。

って、具体的なことはなにもわかりませんが(^_^;)

>これは、日常的な身体操作とは隔絶しています。

そうなんですね。

ぼくがやろうとしていることがアキラさんのやられていることと同様だと仮定しても、「型の動き」というのは、まったく想像が付きません。
まあ、当たり前でしょうが。

ただ「日常から隔絶している」というのは、ピンとくるものがあります。

「難しい」を追いかけていこうとすると一般的な日常生活からはどうしても隔絶してしまう。隔絶していかないと追いかけられないんです。
理由はわかりませんが、どうしてもそうなる。
日常に埋没してしまうと「難しい」からは遠ざかっていくんです。

これは想像ですが、そんなところが僧侶たちが出家をしなければならない理由なのかもしれません。

う~ん、やっぱり出家してみないといけないのかな~
ぼくの今の生活も、出家に近いと言えなくないのかもしれませんが...(^_^;)

いやいや、「型の動き」は僕がやってることなので、愚慫さんには関係のないことですからいいんです。

「型の動き」という場合、例えばそれは「腕を挙げる」といった動作です。
それを「型の動き」のエッセンスで行なう。
もちろん、日常的な動きでも「腕を挙げる」ことができます。
見た目はおんなじなんです。
でも、まったく違う。

愚慫さんの場合も、似たようなものだろうと思うんです。
愚慫さんが求めたいことが 今の愚慫さんとは隔絶したものである、んだろうと思います。
その意味では、「今の愚慫さんの日常(の感覚)」とは隔絶しているんでしょう。
でも、おんなじ「日常」なんです、多分。
パッと見は。
でも、内実が全然違う。
・・・というふうにしていかないと、おそらく意味がないのではないか・・と。

ですから、同じ「日常」を行ないながら、「感覚のネットワーク = 動き(運動)のネットワーク」を変更していく工夫と努力をしていかないと、それは変更できないんだろうと想像します。

朝、目覚めて、白湯を飲むじゃないですか。
1時間くらいかけて、1リットルくらい。
途中、蜂蜜を舐めたりして。
天気がよければ陽を浴びて、犬を連れて散歩をして、身体を伸ばして、耳の愉氣なんかをしてみる。
この間、身体の起動を感じていたりするわけです。

そんで、十分に起動したと感じたら、コーヒーを淹れる。
薫りと味を楽しんでいくと、覚醒度が上がっていくきます。
そこも、その過程を感じていく。

まあ、日常です。
それから文章を書いたり、本を読んだり音楽を聴いたり、日常の雑務をしたり、「稼ぎ」に出かけたりするわけで、これも日常です。

「感じることを感じる」という構えでいくと、
「日常の合間にいろいろ感じる」のではなくて、
「感じる素材として日常がある」というふうになります。

こういう構えをキープできているときは、上機嫌でいられます。
ですけど、そうそうは上手くは行きません。
上機嫌が阻害されることが頻繁に起きます。
ことに「稼ぎ」の場面で。

他人の不機嫌に感応して、自分の中の不機嫌の元が動き出す感じなんです。
そういうことを感じていると、この「不機嫌の元」さえなんとかできれば、ずっと上機嫌をキープしていられるのに、と思うようになる。

ジレンマです。
感じないようにすれば、不機嫌の元があっても不機嫌は発動しない。
けれど、感じなければ上機嫌でもいられないんです。

もうひとつ。

もちろん、ぼく自身の上機嫌・不機嫌は周囲に伝わります。
最初のうちは、上機嫌が歓迎される。
だけど、途中からむしろ不機嫌のほうが歓迎されるようになるんです。

ただしこれは大人の場合で、子どもはずっと上機嫌をキープしてくれますが。
思春期に入ると、この意味ではもうすでに大人です。
繕う技能に乏しいので、反応がビビッドですが。

上機嫌が表面的なところを超えると、大人はどうやら不安になるらしい。
だから、ぼくが不機嫌に落ちると安心してくれる(^_^;)
なんなんだ、これは!? と思っているんです。

ここまできてわかってきたのは、上機嫌キープも実はテクニカルな技能の問題だ、ということ。
そして、ぼくにはまだ「不機嫌に落ちる安心」をうまく処理できない。
ここを処理できるようになるには、「自身の不機嫌の元」をもう一段掘り下げなければならない。

や、掘り下げてみても上手く扱えるようになるかどうかはわかりません。
そういう予感をもっているだけです。いずれにせよ、トライしてみないことには始まらない。

あと、エイティピカル的な感性の偏りの問題もあります。
以上の認識に、感性の偏りがどの程度の深度まで絡んでいるのか、ここもまだ漠としています。


といったような「問題設定」をして、それをクリアしていくための日常という構えでいるつもりです。そうした「問題設定」をせずにはいられない動機が、これはなぜだかわかりませんが、ぼくの中にはあるんですね。

この「クリア」が「感覚ネットワークの変更」になっていけば、、、

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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