愚慫空論

【怨】の効用

まずお断り。長い文章になると思います。

もとよりこの文章は僕自身のためのもの、僕の存在を主張するためのものです。
だったら、わざわざ「長い」などと断る必要もなさそうなものですが、自分自身のためと言いつつも、他者の視線を気にかけているところはどうしてもあるのですね...、我ながら、良いことだと思います .


(なお、タイトルの【怨】は、【毒】や【恨】と同じ観念を差します。今回、【怨】を用いることにしたのには理由がありのですが、それは後ほど明らかにします。)

 ***

出発は、映画『きみはいい子』です。



この映画はごく最近取り上げたばかりで、僕自身もまだ記憶に新しい。 

   愚慫空論『きみはいい子』

この文章の中で、僕は次のように書きました。

キモは「結」がないことです。
「解呪」はそうそう簡単には終わらないからです。


このように書いて文章を締めています。今回はまず、この続きを書いてみます。

「解呪」は簡単に終わらない。

たとえば、子どもを虐待してしまう母親。「きみはいい子」と抱きしめられた。が、それで直ちに虐待がとまるわけではありません。実は、本当の苦しみはそこから始まります。

その母親だって、虐待をしたくてしていたわけではありません。そうせざるを得なかった。そのような身体になっている。したくないと思っていても、そのように身体が動いてしまう。その身体が、一度の抱擁ですっかり入れ替わるわけではありません。

自分の身体がそのように動いてしまう理由は、アタマではわかった。なのに、まだ身体はそのように動く。抱擁から始まるのは自分の身体との戦いです。みんながみんな、この戦いに勝利できるわけではない。脱落する者もたくさん出ます。

映画『きみはいい子』は、いうなればプロローグに過ぎません。そこから、自身との本当の戦いが始まる。だから、物語に「結」があってはおかしい。

おかしいというのは、あくまで僕の解釈です。


かつての僕は、そのようには理解していはいませんでした。かつての僕なら、同じ『きみはいい子』を「結」のある物語だと解釈していたと思います。そこから何が始まるかを知らなかったから。


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僕の4年前の文章です。

  愚慫空論『野口整体はナンパ術だった。笑。』

この文章で僕が語ろうとしたことは、今現在おいても、何も変わりはありません。訂正するものはなにもない。ただ、その上に付け加えるべきものは、この4年間の間に生まれています。

ただし、言葉については訂正したいものはあります。内容は変わらないけれど、表記は、今なら別のものを採用するだろうという部分。

ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。


この文で用いた「同調」は、今なら「共鳴」とします。「同調」したなら「察知」ではありませんしね。このあたり、自己と他者の分離がまだキッチリできていなかったと感じます。


大切なところなので、かつてと同じ引用を再び引いてみます。

今を生きる親鸞

ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。

戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。

ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。

その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきっかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。

そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはっきりと「イエス」と答えたのでした。

すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。

その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんの「ファントムペイン」に「共鳴」して、その「痛み」に的確に「愉氣」したのだと思います。


僕がネルソンさんのことに関心を持つのは「ネルソンさんは僕」だからです。だから、次のような文章を書く至った。これは今から考えても自然な流れだったと思います。

  愚慫空論『自身の恨みに愉氣をする』


当時の僕の解釈では、これは「結」でした。愉氣さえ出来れば苦しかったことが解決すると思っていました。そう思いたかった。


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同じころ、ネルソンさんについて再度取り上げています。

   愚慫空論『当事者の時代』

佐々木俊尚さんの『当事者の時代』という本を読んで感心すると同時に、疑問も提示している。佐々木さんの示した枠組みではネルソンさんの「当事者性」をうまく解釈することができないと思った。といって、僕自身のなかにもうまく解釈することができる枠組みがあったわけでもない。

今を生きる親鸞

4 回復に必要だったもの

    「どうして殺したのか」

一対一のカウンセリングのとき、ダニエルズ先生がきまって最後に聞くことがありました。「あなたはなぜ人々を殺したのですか」という質問です。

私は、あるときは「戦争だったから」と答えました。すると先生は「わかりました。じゃあまた来週」と言ってその日の治療を終えました。

次の週、やはり一時間のカウンセリングの最後に、「なぜあなたは人々を殺したんですか」と聞かれました。私は、少し考えて、「上司の命令に従ったからです」と答えました。先生はまた、「わかりました。また来週」と言いました。

  (略)

ところが、ダニエルズ先生の治療を受け始めておよそ九年がたったある日は、違っていたのです。私が診療室に入ると、先生は、いちばん最初に、「ネルソンさん、あなたはどうして人々を殺したのか言ってもらえますか」と聞いてきました。
  (略)

私はまた言い逃れをしました。「命令に従ったからです・・・・・・」。するとダニエルズ先生は、ごく自然に合いの手を入れるような口調でたずねました。「ふむ、で、あなたはなぜ人を殺したのですか」。

私はまた言いました。「先生、戦争だったんですよ。敵を殺さなきゃ、こっちがやられていたんです」。するとダニエルズ先生はまた聞きました。「うん、で、どうしてあなたは人を殺したのですか」。

  (略)

もしそのとき、「君はウソをついている!」とか「本当のことを言え!」などと強く言われていたら、「抵抗」のしようもあったと思います。でも先生は、私が言うことに対し、本当に淡々と、「オーケー、で、あなたはどうして殺したのですか」と聞き続けるだけでしたから、私としても、その聞かれたないようについて向き合わざるを得ませんでした。

  (略)

「もう『逃げ場』がないな」。そう感じたとき、私は言い訳をつくることをやめました。私はよくなりたいと思っていたし、ダニエルズ先生は必ず私を助けてくれるとわかっていました。だから、「いまここで、もっと自分の心の深くまで行かないと」と思ったのです。

私は、自分がベトナムでしたことを認めるのを拒否している――自分の言葉が言い訳であると感じるに従って、私にはそんな自分が見えてきました。そして思ったのです。

「だれも、本人がしたくないと思うことを、その人にさせることはできない。したくなければしなければいいのだから。私自身が、戦場で人を殺したいと思ったからこそ、軍は私にそうさせることができたんじゃないのか」。

そこまで考えて気づいたことを、私は口にしました。

「殺したかったからです」。

ダニエルズ先生は、だまってうなずいていました。とても不思議な瞬間でした。私のなかで何かが動き出しました。

そう、自分が殺したかったからそうしたのです。それは私自身の行為であり、だれに指図されたからでもありません。軍も上官も、攻撃命令を下すにしても、あの人を殺せ、この人を殺せと指定するわけではありません。それら一人ひとりを撃ったのは、たしかに私の意志であり、それは、私が殺したいと思わなければ起こりえないことでした。


愉氣をもって「結」だと考えたかった僕には、ネルソンさんが提示したことの意味がわかっていませんでした。「回復に必要だったもの」と明記してあるのに、届かなかった。まだ準備ができていませんでした。

ネルソンさんについてのふたつの引用は、時系列でいえば上が先、下が後でしょう。調べてはいませんが、内容からみて間違いないはずです。そのことは、4年前でもわかったはずなんです。なのに僕は考えなかった。それは、僕自身が愉氣を「結」だと考えたから。そう考えたかったから、下の方が提示するところに反応できなかった。自分自身の中で壁を作っていたわけです。


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現在の僕は、ふたつのネルソンさんを解釈する枠組みを持っています。

上のネルソンさんは「かわいそうな私」。

ネルソンさんは【怨】に苦しんでいました(なぜ【怨】なのかは、後ほど記します)。そのネルソンさんに共鳴した少女は、「かわいそうなネルソンさん」と言い抱擁した。その抱擁を受け入れたネルソンさんは、自身を「かわいそうな私」だと定義しました。

下でのネルソンさんは、その定義を受けて「悪いのはあなた」だと主張しています。この場合の「あなた」とは戦争です。ところがダニエルズ先生はその主張を認めてくれなかった。少女のように「かわいそうなネルソンさん」とは言ってくれませんでした。


ダニエルズ先生の振る舞いは「機」というものだろうと思います。弱かったはずの〈いのち〉が、自分自身の力で〈生きる〉ことを始める、その「機」です。〈いのち〉には自ら変わっていく〈力〉があります。その〈力〉が発現し始めるその瞬間。

  参考 ⇒ 光るナス『自ら変わっていく力(足湯の意味合い)』

足湯をしてもらう目的は、自分の体の働きを活性化させ、高めていくためです。
ですから時間を区切るということが、とても大事になるんですね。
20分も足をお湯であたためていれば、体は
「あ 楽チン。お湯であったかいからいいや」
と、自分で発熱することをサボってしまいます。

そうなると、足をお湯から出せば、あとはどんどん冷えてしまうばかりでしょう。
自分であたたかくなることは、サボらせちゃってるわけですからね。
だから、6分間だけとか 8分間だけ・・という時間の区切りが、大事になってくるわけです。


足湯(そくとう)には8分という目安があるんだそうですが、あくまで目安。本来は、ひとりひとり、その「機(足湯を止める瞬間)」を見極めなければならないもののはず。

「愉氣」というのは、いうなれば「足湯」です。弱った〈いのち〉に「愉氣」は有効ですが、だからといって、それに頼りっきりでは〈いのち〉は自ら〈生きる〉ことをサボるようになってしまいます。

もっとも【怨】というやつは、それを自覚してしまうとサボることを許してはくれません。それが【怨】の効用のひとつでしょう。


ダニエルズ先生は「機」を見極め、それによってネルソンさんは「かわいそうな私」「悪いのはあなた」という構図から脱却しました。

「かわいそうな私」「悪いのあなた」という構図を提示しているのはアドラーです。アドラーは、この構図から脱却して目指すべき場所を示しています。「かわいそうな私」「悪いのはあなた」に安住するのではなく「これからどうするか」を探求せよ、と。

  参考 ⇒ 愚慫空論『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』

アドラーが目的とするところはシンプルです。
「自分自身を嫌いな物語」を「自分自身を好きな物語」へと再編集すること。

そのシンプルさを支えている方法もシンプル。

「かわいそうな私」
「悪いのはあなた」
「これからどうするか」

人それぞれ多種多様なはずの「物語」をこの3つに収斂させてしまいます。

「かわいそうな私」「悪いのはあなた」。この2つはどちらも「自分自身を嫌いな物語」です。「嫌いな物語」の受容を促し、「これからどうするか」と問いかけることで、「自分自身を好きな物語」を引き出そうとします。




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以下は、いささか不愉快な話へと進んでいきます。なので、以降は「追記」の方へ記すことにします。


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『言ってはいけない―残酷すぎる真実―』





この本については、残念な読書をしてしまったと思っています。
粗探しというか、盲点探しというか。

この本に列挙されている「科学的事実」についての粗(あら)を探す能力は僕にはありません。反証を探すことはできるかもしれませんが(ネットはそうした目的には便利です)、そのような行為は僕にとってはコストパフォーマンスが低い振る舞いなので行いません。なので「盲点探し」をするための読むということになった。

「盲点探し」は、僕の読み方でもあります。だけど、自己弁護をするようですが、初めからそのことを目的して読むということは、あまりしなくなりました。いつからか、そういうアタマの使い方は気持ちのよいものではないと感じるようになったから。それで、目的のものを発見したとしても、せいぜい“ドヤ顔”をしてみることができるという程度のリターンしか得られない。


読書の目的は知らないことを知ることです。

その意味でいうならば、本書は、僕の知らないことをいくつも提供してくれました。いつもなら、そのことを純粋に楽しめるのに、今回はそうはいかなかった。目的が違ったからです。

知らないことを知って、自分がすでに知っていることと統合していく。その統合の過程で生まれる言葉を綴ってみる。僕の最近のブログ記事はそういうものであることが多い。その過程で「盲点」が浮き出てくる。知らないことを知って、知っていることととの間に生まれる齟齬が「盲点」なわけです。

――と、自己弁護はしてみたものの、反省もあります。「盲点」を著者の属性のように書いてしまうこと。このあたりの書き方は工夫の余地があるのでしょうが、まだまだ手探り状態です。

そんなわけだから、公開で書いてはいても、誰のためでもない、僕自身の為のもの。僕の存在を主張するためのもの。
そういうわけだから、書き方もかなり不親切だと自覚もしている。タイトルに掲げた本なり映画なりを、僕の文章を読んでくれた人に関心を持ってもらいたいというような書き方はしない。敢えてしていないわけではないのですが、それをすることは僕が書きたいこととバッティングすることが多いので、排除されてしまうことになってしまいます。



前置きが長くなったようですが、このような前置きを書きたくなるような要素がこの本にはあります――と、また著者批判になってしまうのですけど、そこはお目こぼしをいただくことにして(頂けないのなら、読まない自由があるので行使をしていただいて)、その要素を取り上げます。ここが本題です。


煽り文句でしかないような本書のタイトルをみて、最初に思ったのは、「言ってはならない」ことを敢えて言うことの意義があるのか、ということです。著者にはそういう意義への自覚があって、読者である僕はそれを汲み取ることができるのか。

結論からいえば、汲み取ることは出来ませんでした。この著者は“ドヤ顔”をして見せたいがためにこの本を書いたのだな、と思ってしまった。そう思ったから、上のような「前書き」になったのですが――。


科学的事実は「言ってはいけないこと」ではありません。科学者は科学的真実を追究することが使命なのですから、その使命を果たすに当たって「言ってもよい」「言ってはいけない」といった社会的尺度は不適合。言っても言わなくても、真実は真実。言うことで悪用される危険はあるかもしれないが、言わないことで知らないうちに悪用されてしまっていることがあるかもしれない。いずれにせよ、それは「言う」ことがあって始めて判明することであり、判明した後どう対処するかは科学者の責務ではありません。

著者は科学者ではありません。科学的事実(というよりも仮説)を“エビデンス”として称して、「言ってはならないこと」を言おうとするライターです。科学的事実(仮説)を、社会の尺度に適用して某かの文章を書く。そういう生業の者。この著者にとっての「意義」とは「生業」の範囲を超えていない。


もっとも、それは批判に値するべきことではないかもしれません。ただ、残念と思ってしまうのは仕方がない。科学者が、科学をするのは生業でしかないと言うのを聞いてしまうと、残念と思うのと同じです。

「言ってはならない」ことを言うのは、「言わねばならない」ことがあるからだ――というのが、僕が解釈する「意義」です。もちろん“僕の解釈”ですから、他の人に強要するつもりはありません。強要するつもりはないが、それを聞きたかった、汲み取りたかったというのは、偽らざる気持ちです。それは過大な期待なのかもしれませんが――。


「前書き」において著者は、

ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。


とテーゼを提示します。続けて、
私たちを「デザイン」しているのは(かつては「神」だと考えられていたが、現在では)“進化”だという。

そういう著者が主張する“エビデンス”は、実は著者が提示したテーゼの証明になっていません。著者がエビデンスをあげて証明したのは(それができているとするならばですが)、

あらゆる生命は幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない

ということです。「ひと」に限定しなければならない根拠はどこにも見当たりません。

このことは少し考えてみれば当然のことだとわかります。科学は「ひと」を特別視しないからです。生物種の一形態として「ひと」を見るのが科学の視点です。だとするならば、科学的エビデンスをいくら並べ立ててみても、「ひと」だけが幸福になるようにデザインされていないとする根拠が見つかるわけがない。

もっとも、本書は「ひとだけが幸福になるようにデザインされているわけではない」と書いてはいません。それは僕の拡大解釈かもしれない。しかし、「すべての生命が幸福になるようにデザインされているわけではない」のであれば、そもそも幸福について考えることに意味がないということになります。幸福について考えることに意味がないのであれば、「考えること」にも意味はないでしょう。ひとは幸福になるために考えるのだから。

――というような考え方はニヒリズムですけれど、科学的エビデンスからニヒリズムは必然だという解釈を引き出すのなら、それはそれで意義のあることだと思います。僕がその解釈を容れることはないけれども、その「理」を認めることはやぶさかではないし、突き詰めればそのまま「反転」することが出来るだろうとも思う。

理を反転してみて、うまく反転できずに残るもの。それが「盲点」だろうと考えています。



2015年1月7日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など12名が犠牲になった。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。

本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだと思っていたが、“リベラル”を自称するひとたちの考えはちがうらしい。

ちなみに私は、不愉快なものこそ語るべき価値が在ると考える。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。


以上は著者後書きからの抜き書きです。

本書の発端が“リベラル”への反発心であることはいいでしょう。僕も、単に不愉快だからという理由で他人の言葉を抑圧しようとする企てには反発心を持ちます。だけど、だからといって、不愉快なことを述べてもよい、それこそ価値が在るとは思いません。不愉快を越えて提示すべき意義がないなら、不愉快は単に不愉快なだけです。

もっとも、どのように意義を汲み取るかは読者の問題です。著者が意義のない大義名分に依って記したとしても、読者のなかに意義があるのであるなら、自身の「知らなかったこと」の中に意義を生みだすことはできるでしょう。どんな目的で書かれたものであれ、知らないことは知らないこと、なのですから。


知らなかったことを「知らないこと」と為すのは、読者の課題です。「知らないこと」を「知っていること」と為していく過程で「反転」を為すのも、そう。その課題を意識させてくれるのに、(反面教師としてですが)、本書は意義あるものだと思います。

本書に残る「反転できないもの」は反発心です。別に反発心そのものは良いも悪いもないんですが、不愉快に感じられるのは、反発心を正当化しようとする「心」。別に正当化しなくてもいいのに。

『日本のいちばん長い日』


今日は朝から、『日本のいちばん長い日』を観てみました。リメイク版です。



「日本のいちばん長い日」が昭和20年8月15日であるのは言わずと知れたこと。この映画を今日観たのは、そういう意図があったわけではなくて、諸々の事情でそうなっただけの偶然ですけどね。(^_^;)

まあ、なんというか、滑稽な映画です。誠実に「滑稽」を描いた映画――と僕は受け取りました。
そういう感じを受け取ったのは、もしかしたらリメイク版だからかもしれません。原作未読、最初の映画も観ていないので、この感触に自信はないけれども、滑稽ということそのものに間違いないし、そう受けとめてもいいと思います。そのように受けとめるべき時間がすでに経過したと思います。


主役は役所広司演ずる阿南惟幾陸軍大臣。このキャラクターについては、特に言うべきことなし。あるべきところにあるべきようにある。そのことは、年配のキャラクター全般に言えること。

昭和天皇の役回りについては、別の意味でなんとも言えませんww

個人的に興味を惹かれたのは畑中健二陸軍少佐。“使命”だとか“七生報国”なんてセリフを吐くこの人物は、「からっぽ」なんです。心の中が。大袈裟な大義に身命を賭して、そのからっぽを埋めようとする。


僕がそんな風に感じるのは、僕自身がそういう人間だからです。
僕はたまたま戦後に生まれ、自身の「からっぽ」に気がつく機会があり、また「護符」にも恵まれてなんとか生き長らえることができていますが、時代が時代で、軍隊のようなところに所属してそれなりの責務を負うことになってしまえば、この畑中少佐のような生き方になっただろうと思うんです。

自身の【信念】に盲目的に忠実に。周囲に迷惑を及ぼすことを省みず。というより、まったく気がつかず。【大義名分=信念】だから。畑中少佐もアスペルガー気質だったんじゃないかな――? と思ったりします。


僕が観るところ、この物語の〈クライマックス〉を演じるのは主役ではないんです。この畑中少佐なんですね。だから、本当の主役は畑中少佐と言えるのかもしれません。

畑中少佐のグループはクーデターを起こします。当時の陸軍の「空気」を体現し、実現しようとする者たち。すなわち本土決戦です。が、それは天皇の意志に反する。天皇の意志に反してでも自身の【信念】に殉じようとする者たち。

昭和天皇の、いわゆる「玉音」というやつが録音される。その録音原盤を彼らは奪取しようとして放送局を襲います。目的はもうひとつあって、自分たちの【信念】の宣伝です。「玉音」放送を阻止し、自らの【信念】を放送させるのが目的。

が、原盤は放送局にはなく、宣伝をしようと放送局員を脅迫するも、放送局員の反抗にあって電源を落とされてしまう。電源が落ちた暗い部屋の中で、ひとり自らの【信念】に基づいた決起文を読み上げる――。

「滑稽」なこの物語の中でもっとも滑稽で独りよがりなシーン。独りよがりが露わになる〈クライマックス〉です。



時代が経過したと思うのは、もはやこのよう暴力的「独りよがり」が反社会的な振る舞いだということが認知されるようになってきた、それどころか、暴力的にそうした「独りよがり」を抑圧するようになってきたのではないか、という点です。現代なら、畑中少佐のような人物は「コミュ障」認定されるのではないか、という気がします。

「コミュ障」などという烙印は、もちろん良くないことです。とはいうものの、「コミュ障」が滑稽で巨大なな迷惑をかけてしまうことと比べれば、まだマシといえるかもしれません。

阿南が演じる役回りは、「コミュ障」にぴっぱられる「空気」を変えること。史実はどうか知りませんが、その点、畑中少佐のキャラもそうですが、少なくとも映画のなかでは、そうです。畑中が体現する「空気」は惡で、阿南が変えようとした「空気」――これが昭和天皇の意志だというところが疑わしいと思うのですが――正義という構図があるから、阿南は主役ということになるんだけど、それは裏から見れば畑中が主役ということです。

阿南たちは文字通り“懸命”になって「空気」を変えた。そうしなければならないくらい、「空気」は強固なものだった。それから比べれば、「コミュ障」ということでそうした「空気」の芽を未然に摘んでしまうのが現代の社会だとすれば――。

いえ、これはこれで、別種の「空気」を生みだすだけですね。


ただ、現代の社会でも、戦前のような「空気」が生き残っている場所があります。政治の世界がそう。戦後の「空気」を排除して、戦前の「空気」を復活させようと願望しているところ。政治の世界の住人のみんながみんなそうとはいわないけれど、現在の首魁はそういう人で間違いなさそうです。


さて、いつものように余談ですが、畑中少佐は、現代のキャラでいえば、碇シンジになるんだろうと思ったりします。


シンジは弱者の位置に置かるので「逃げちゃダメだ!」だけど、これが畑中のように強者の位置なら「七生報国」になるでしょう。

で、『エヴァ』の庵野監督は『シン・エヴァ』をほっぽり出して『シン・ゴジラ』を作ったのですが(未視聴ですが)、どこかの記事で読んだところによると、『シン・ゴジラ』制作に当たって、この『日本でいちばん長い日』を参考した
とのこと。これが本当なら、面白いと思います。

だとすれば、もし庵野監督が『シン・日本でいちばん長い日』を制作するようなことになれば、「畑中シンジw」が主役になるでしょうね。その場合「いちばん長い日」は、昭和25年8月15日ではなく平成23年3月11日でしょうけど。果たして畑中は誰になるのか――想像するだけで、面白い。

ところで、天皇の仕事って?


天皇陛下の「お気持ち」とやらの放映を見ました。
ごく、ふつうに。

ごくふつうに接してみれば、天皇陛下の「お気持ち」とやらも、とある一人の爺さんの(当事者としての)意見というだけのことで、もちろん、その「ひとり」は(政治的に)特別なひとりではあるんだけど、特別であっても生身の人間であることに変わりはありません。

そして、生身の人間として見てみると、特別なだけでなく(人間として)格別でもあるなぁ、と思う。日本国民統合の象徴としての務めを誠心誠意勤めてこられたんただな、という感慨を持ちます。

天皇陛下の「お言葉」とやらに接する機会は、ふつうに日本人をやっていれば年に数回あるわけですけど、そのたび、語り口の誠実さを感じずにはいられない。語っておられることの内容は抽象的で親近感がないのだけど、語り口には親近感が持てる。それが象徴としての「在り方」――というより、天皇という役割を背負った一人の人間の「生き様」だろうと思ったりします。

そういう人が、象徴でよかったと思います。そう思うから、当事者としての「お気持ち」を汲んで差し上げたい――と思わなくはないのですが、ちょっと待てよ、と思うところがなくはない。


象徴としての国事行為や国の祭主としての務めは、天皇という「生身の個人の都合」に合わせて左右してはならないものだと、陛下は意見を述べられた。それは当事者の言葉だから重いというだけのことではなく、「象徴」というのは、ただ単に言葉だけのことではなくて、内実が伴っているんだよ、ということを述べられたわけです。生身の人間に大きな負担をかけるような内実が。

ところが、この内実というものの中身がわからない。
これは、公表されているものも多いだろうけれど、いわゆる「菊のカーテン」とものの向こう側にあるのも多かろうと思うんですね。

この問題、当事者が内実を伴っていると言ったのだから、それでいいではないか――というわけにはいかないと思うんです。陛下が嘘を言っているとはさらさら思わないし、皇室は税金で暮らしているのだから国民には知る権利がなるなどと、野暮なことを言うつもりもない。儀式の詳細などアカデミズムの贄に捧げるべしとも思わない。

だけど、内実があると言い、その内実を全うさせるために生前退位するのが望ましいというのであれば、その内実とは「これこれこういうことだ」ということは、公表するのがスジなのではないかい? と思うのです。

いや、そこは、やはりそのまま神秘のベールで覆っておくべき、という意見もあると思います。だとしたら、それは当事者がどう言い募ろうが、大部分の国民から見た「内実」とやらは、言葉の上での「象徴」というのに留まるし、だったら、気の毒だけど、死ぬまで天皇でいてください、ダメなら摂政という既定があるのだから、それを活用してください、ということになるのがスジだろうと僕は考えます。


陛下ご自身の「お言葉」に、こういう下りがありました。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。


いや、それはないでしょ。もしそんなことがあったとしたら、それはもはや「象徴」の域に留まっていないわけで。国民の生活は、皇室の事情とはほとんど関係のないところで営まれているというのが事実でしょう。だから、天皇陛下のお言葉は、いつも、内容としては空疎。たとえば、現総理大臣がそのまま同じ言葉を口にしたらどのように響くかを想像してみれば、言葉の内容としての中身の無さはすぐわかります。

ただ、言葉には「言霊」というべきものがあって、同じ言葉でも誰が発するかで伝わり方がまったく違う。その意味で、今上陛下は、特別というだけではなく「格別」だと感じはするし、そう感じられることは好ましいと思います。

今上陛下個人の「格別」を重視するのであるなら、当人の希望には反するけれども、死ぬまで天皇を務めてもらっていても、その「格別」は何ら減ずることはない、いや、死ぬまで勤めてもらって方が「格別」は増すだろうから、むしろその方が好ましいでしょう。

だけど、当事者が「象徴としての勤め」を、そんなものではないと言っている。そのように、今回、言ったのだと思う。「格別」は、「象徴としての勤め」を誠実に果たしたことによる副産物のようなもので、大切なのはそちらではない、と、だけど、その「大切なもの」が菊のカーテンで遮られて見えないのであれば、国民は副産物の方を見るしかない。

――まあ、その方が、本音では天皇機関説を支持しているであろう権力者たちには都合がいいだろうけれど。

念のために言っておきますけど、僕は、皇室を国民の身近なものにするために、内実を詳らかにせよといいたいのではありません。身近なものになることは悪いことではないけれど、一丁目一番地ではない。そうではなく、国民の生活と天皇の務めがどのように繋がっているのか。そこを明らかにして欲しい。

そうでないと、内実のための退位といわれてもピンとこない。なんだか雲の上の話をしているなぁ、で終わりです。それが政治というのであれば、それは為政者のための政治でしかないということだし、為政者のための天皇だということになる。けど、そんなこと、陛下自身、夢にも思っていないはず(と思いたい)。


偶然だろうと思いますけど、この「お気持ち」が発表される前夜、何度目かの『もののけ姫』のテレビ放映があったらしいです。宮崎監督は、映画のなかで庶民に「帝なんて知らな~い」と言わしめています。現代に生きる僕たちは知らないではいられないけど、内実は、映画の中の庶民と大差ないのでは、と思わないではないですね。

『狐笛のかなた』


上橋菜穂子さんの物語について書くのは、前回で打ち止めだろうと思っていました。



ところが、『狐笛のかなた』を読んでみると、そうはいかなくなってしまいました。「言いたいこと」が湧き出て来てしまいました。

『狐笛のかなた』は、霊験あらたかな護符のような物語です。

まだ「呪い」にまみれていない子どもたちにとっては、「呪い」へのお守りになる。
「呪い」にまみれた大人にとっては、「解呪」への手がかりを提供してくれる。

もっとも大人の場合、自身が呪われているのだという自覚がなければ「解呪」には至りません。
自覚なき場合でも、一時的なヒーリングのためのストーリーとして消費されてしまうことになるでしょう。多くの物語と同じように。

自覚があるときには、この物語は生々しいファンタジーです。
ファンタジーなのに、生々しい。
いえ、ファンタジーだからこそ、生々しいのかもしれません。


この物語の主人公は、“野火”という名の霊狐です。
もう一人の主人公は、小夜という名の娘。いわゆる異能者です。
『狐笛のかなた』は、このふたりの恋物語です。といって、いわゆる“ラブストーリー”とは違うのですが。
野火は、呪術者に仕える使い魔という設定で、“狐笛”というのは霊狐を呪いで縛る道具です。

使い魔は絶対に呪術者である主には逆らえません。命を握られているから。霊狐はもともとは〈あわい〉と呼ばれる世界の生き物なのですが、呪術者は魔術によって〈あわい〉から霊狐をつまみ出す。つまみ出したときに術によって命を握り、いつでも握りつぶすことが出来る――という設定。

こうした設定は、子どものためのものでしょう。だからといって、そうした設定が本当に架空の話かというと、読む者にとってはそうでない場合がある。

 自身の生殺与奪を誰かに握られているという恐怖。
 恐怖ゆえに従わねばならないという屈辱。
 屈辱が生みだす憎悪。
 憎悪を飼い慣らそうとして陥る不信。

この不信は、他者へ向けてである以上に自分自身へ向けてものです。
そのことに気がつけば、子ども向けの設定であっても、リアリティがあります。


上橋さんは、野火と小夜のふたりを、ひとりの登場人物の独白という形で次のように評します。

この娘は、やさしい。後先を思うより先に、情で身体がうごいてしまう娘なのだろう。
野火もまた、おのれの身を守るより、この娘をたすけてしまうような獣だ。
(・・・・・・この子らは、蜘蛛の巣の、細い糸の先でふるえている、透きとおった水の玉のようだ。)
そのあやうさが、半天狗の木縄坊には、哀してならなかった。


後先で思うより先に、情で身体が動いてしまう。
このような心身を「惻隠の情」あるいは「忍びざるの心」と言います。孟子です。

惻隠の情は「同情心」と解されますが、“心”ではないのです。心に先立って動く“身体”です。
今にも井戸に落ちそうな子どもを見たら、ハッとして、惻惻とした陰痛を心に覚える――と、『孟子』には記されているらしいのですが、「心に覚える」と書くから「同情心」という解釈になる。柔軟な心身ならば、陰痛を覚えるより先に身体が動く。ハッとして、気がついたらもう動いてしまっています。

心が思うより先に身体が動くという命題は、現代の心理学において真とされていることです。たとえば、椅子に座ろうと思ったとすると、その考えが意識に登るより先に身体が先んじて動いている。身体の動作と意識の間にはコンマ数秒の差がある。心は身体のモニターです。

そうした惻隠の情も、呪いが支配する世界では危ういものでしかない。そのことをアタマが理解し、思うより先に動いてしまう身体に後からブレーキをかけてしまう。後からのブレーキこそが「呪い」という現実的な効果です。



「呪い」が人間にとっては現実的な効果であるということ。
それは「ハラスメント」であるということ。

これらのことは、今まで散々述べてきたことです。なので、これが特に今回「言いたいこと」だといういうわけではありません。「言いたいこと」は、次のことです。

後書きで上橋さんは、この物語を「〈なつかしい場所〉と物語」と記しているます。これにはいささか驚かされました。僕の「言いたいこと」はこの驚きから生じています。

このような呪いの物語のどこがなつかしいのか。

「なつかしい」は「やさしい」の親戚です。たしかに、野火も小夜もやさしい。彼らを支えるキャラクターたちも、多くはやさしい。だけど、『狐笛のかなた』は全体としては、呪いと怨みが支配する世界の残酷な物語です。野火や小夜たちの「やさしさ」は、世界の残酷さを際立たせるためのスパイスだと言えなくもない。サイコパスな人工知能あたりに分析をさせれば、残酷な物語という判定が下ってもおかしくないと思うくらいです。

というわけで驚きはしたけれ、しかし、腑にも落ちるのです。その理由は、僕は先に上橋さんの『物語ること、生きること』を先に読んでいるから。


この本の頭の方で上橋さんは、おばあさんから物語を浴びせられるようにして育ったと述懐しています。『狐笛のかなた』はきっと、「おばあさんの物語」の系譜を接いでいるに違いない――勝手な憶測ですけれどね。

 日々暮らしているうちに、知らず知らずのうちに溜め込んだイメージが、心の底にしみこんで、溶けあって、深い泉のようになっていて・・・・・・そういうところから生まれてくる光を、てのひらの内にくるみこんだ灯りのように輝かせて、物語を描きたいとずっと思っていました。
 野火と小夜が駆けて行く春の野の香りを、感じていただけたら幸せです。


僕が『狐笛のかなた』を“霊験あらたかな護符”のようだと思ったは、この文章を読んだとき。おばあさんからの護符を受け継いだ上橋さんは、新たに護符を認めた――と思ったのです。


「呪い」をオカルトだとしてしまうと、「護符」もまたオカルトな意味しかもちません。
ですが、何度も繰り返しますが、僕は呪いを現実だと考えています。ですから、護符もまた現実的な意味を持ちます。

そのように考えていくと、本当は、昔話は残酷なものだったという真実も納得がいきます。昔話もまた護符だったんです。呪いから心身を守るための護符。「ワクチン」と言った方がいいかも、ですが。

呪いに打ち勝つイメージを子どもたちの心に植え付け育ませるための物語。
上橋さんの心の底にある〈懐かしい場所〉というのは、「打ち勝つイメージを育んだ場所」ということなのではないでしょうか。

読者はその〈イメージ〉を上橋さんから受け取る。これはなにも『狐笛のかなた』に限らないことですが。『守り人』シリーズにも『鹿の王』にも、しっかりとあったものです。そして、その〈イメージ〉を、僕たちは自身の身体の中で育むことができる。上橋さんがそうであるように。



以下、余談です。

僕は、『狐笛のかなた』とよく似た物語をふたつ、知っています。

ひとつは、アニメ映画です。


ハウルは野火です。呪われた魔法使い。ソフィーは小夜です。『ハウル』が二人の恋物語であり、しかし、いわゆる“ラブストーリー”ではなく、恋をエネルギーにしたふたりの解呪の物語であることも、『狐笛』と同じ。

もうひとつは、歌劇です。ヤナーチェクの『利口な女狐の物語』
(動画はBBCのアニメ版を貼り付けておきます。)


『女狐』と『狐笛』がどのように似ているのかは、長くなってしまうのでここでは触れません。ただ、野火はオスで『女狐』ではないという違いはあるにせよ、同じ狐であるということは偶然の一致ではないだろうということは記しておきたいと思います。

『天と地の守り人』


  


読後の感想。「あ~あ、読み終わってしまった...」

『精霊の守り人』から始まって、シリーズ10巻。ぼちぼちと読み進めてきて、実に心地よい現実からの逃避場所を提供してくれていました。

だけど、逃避には限りがあるというのが現実。

ただ、現実に戻っても、物語の登場人物たちのイメージは、すでに自身の一部になっています。
逃避はた単なる逃避ではなく、逃避もまた〈生きる〉ことの一端であるということを、自らのなかに棲まうことになったイメージが教えてくれる。
その教えを再確認し、自身の中にしっかりと埋め込むために、自分の言葉で語ってみる。
それもまた〈生きる〉ことに他ならないと思います。

逃避もまた現実の一部であるという現実を〈生きる〉。


さて。

まずあげたいのは、上橋さんの『守り人』シリーズは、いわゆる貴種流離譚であるということ。同時に母と子の物語であるということ。

貴種流離譚というのは、世界中のどの文明にも必ず存在する神話というものの中に見られる典型的な物語のパターンだといわれているものです。映画『STAR WARS』を脚本するにあたって参考にされているということで有名。

「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型


この話型は、流離からの帰還を果たした貴種――『守り人』の場合だとチャグム――が、流離を強いた父親に復讐を果たしたのちに最高の栄誉を得るというパターンで終わる。つまり、父親を殺してその地位を奪い取るというパターンなんだけど、『守り人』最終作で、チャグム三度の、そして最後の流離である『天と地の守り人』でも、復讐劇は出てきません。復讐劇を避けるかたちで、最高の栄誉を得るというところへ到達します。

『天と地の守り人』第三部の後書きで、上橋さんは次のように記しています。

 バルサが短槍をタンダの家の外壁に置いて、家に入っていく姿は、『天と地の守り人』の最初の韓を書き始めるよりまえに、心に浮かんでいました。けれど、どういう道程を経て、彼女が「家に帰る」のか、それはまったく見えずにいたのです。
 もうひとつ、『天と地の守り人』を書き始めるときから、ずっと心の中にあって、でも、どうしても、解決の糸口が見えなかったことがありました。それは、チャグムと帝の対決の結果です。
 いかなる理由があろうとも、チャグムが父を殺すことで解決する話は書きたくない。そう思いながらも、物語はどうしても、チャグムが父を殺さざるを得ない方へと進んでいってしまい、止めようがない・・・・


後書きのこのあと、上橋さんがどのようにチャグムの父殺しを止めたのかが記されますが、そこはネタバレになるのでここには書きません。

作者の上橋さんがどう思うかはわかりませんが、僕が思ったのは、上橋さんを思いとどまらせたのは、「いかなる理由があろうとも、書きたくない」と思わせたのは、バルサだろうということ。

もう少しいえば、バルサが「家に帰る」ことと、チャグムが「家に帰る」こととは、同じ輪の裏表。『守り人』の物話は、メビウスの輪のように裏と表とがなくなってしまった「輪」の物語だと思います。


シリーズ第一作『精霊の守り人』で、チャグムは生みの母親からバルサに命を託されます。皇子として生まれたチャグムが、卑しい身分の用心棒に守られつつ逃避するということで物語は展開する。だけど、チャグムは単に逃避をしているだけではなくて、その間も〈生きて〉いる。民草として〈生き直す〉ことになったチャグムの母親は、いうまでもなくバルサです。

しかし、バルサは、物語の中にそういう記述は出ては来ませんが、自分自身は、少なくとも生物学的な母親にはならないと心に決めた人です。彼女をしてそう決意させたのは彼女の生い立ちであることはいうまでもない。それゆえ、バルサはタンダの「家に帰る」ということをできずにいた。

バルサが、その身の象徴である短槍を置いて「家に入る」ということは、そしてそれが「つれあい」の家であるということは、生物学的に母親になる決意、それも無意識の、いえ、決意というよりは「機が満ちて、なるようになった結果」なのだと感じます。

そうなると物語の「メビウスの輪」は、「そうでない裏表のある(普通の)輪」になる。だから、チャグムも「家に帰る」。

父に復讐を果たして地位を奪うのも、「家に帰る」といえばそうだけど、それは「機が満ちて、なるようになった」とは言えません。チャグムの家では、その事情にそった「なるようになる」が起きる。

のっぴきならない事情で「メビウスの輪」となってつながった母子が、互いに「なるようになる」ことで、それぞれがそれぞれの「家に帰る」。〈生きる〉ということは、こういうことなんだなぁ~、と僕なんかは思うわけです。



文明がすべからく持つ神話のなかの典型パターンである貴種流離譚。その最後が復讐による栄誉の獲得になるのは、「なせばなる」でしょう。「なせばなる」は文明そのものが持つ特性。自然を相手に「なせばなる」でなんとかするのが文明です。農耕・牧畜からしてそうですね。

そして、「なせばなる」が父と子の物語であること、「なす」の主体が男であることは、ごく自然なことであると感じます。「なす」者同志が争えば、戦にならざるをえず、父と子であるなら復讐劇になってしまう。

この理解が腑に落ちるなら、「なるようになる」が母と子の物語であるということもまた、理屈を越えて腑に落ちる。


『守り人』シリーズ、ことに『天地の守り人』は、「なせばなる」ことが大枠の物語です。その「枠」の中心に、「なるようになる」がしっかりと埋め込まれている。

皮肉な言い方をすれば、それは「(作者の)都合のよい物語」ではあります。現実は、そんな都合の良いようにはいきません。だけど、「なせばなる」の中にしっかり息づいている「なるようになる」を感じることは、現実に〈生きる〉僕たちにとって大切な糧になる。糧を自分のものにすることが、物語を単なる逃避でなく、それもまた〈生きる〉ことの一端とすることなんだと思います。

(たぶん、追記を書くと思います。
 しばらく時間がないので、来週半ばくらいには書けたらいいなぁ...)

ある種感覚の欠如


今、こんな本を読んでいます。


今はちょっと「考えさせられる本」は読みたくなくてですね。..

こういう本なら、安心して読めるかなと思って、パラパラと読んでいます。読んでいるけど、気がつくと寝てしまっている――というような状況です。何かストレスがかかっているんでしょうね。

なのに、安心しようと期待しているのに、裏切られてしまいました。なので、復讐のために、この文章を書く。
もちろん、この裏切りは「良い裏切り」なんですけどね。

名越康文さんがこんな文章を書いています。
ページで言うとP.174から。タイトルは『「中締め」にかえて~居場所という聖域』。
その中から一部を引用させてもらいます。

 悩みの本質は現在には無い。そして悩みという実体のない想念は、「もやもやした悩み」と表現されるように、たとえばガス状の気体として比喩される。過去や未来の憂いの想念に一度意識が埋没したが最後、悩みという亜麻色のガスは意識や全体を覆い尽くす。
 そのガスについてさらに観察してみると、未来に関する憂いの大半も過去の苦しみの経験に元を発していることに気づく。過去に昇華(消化)しきれなかった、つまり納得しきれず執着となった記憶が感情を惹起し、暗い未来をパノラマ写真のようにリアルに繰り返し予測するのである。未来の悩みもその多くが、いわば過去の焼き直しなのだ。
 しかし一方で、私はもはや子どもや赤ん坊のように「過去の無い存在」ではない。いつも今以上の想念に引きずられ、そのことだけで活力すら失ってしまうこともある。先ほども少し述べたが、おそらく想起出来る記憶とはそれが哀しいことであれ嬉しいことであれ、大半はまだ同化しきれていない過去といえるのではないか。一方で、同化された過去は、まさに自己と溶け合い自己と一体化するために、対象化され難くなっていくのではないか。すなわち記憶とは心という鍋のそこにこびりついた、擦り取れない経験の残渣なのだ。その残渣のなかには棘を持ち、我々を内側から着続け続けるものも多いのだ。


今、このタイミングでこうした記述に出会うのは、シンクロニシティといわれるある種の神秘体験でしょう。こういうことを僕はいままさに考え続けていました。

このようなシンクロニシティに出会うのは、これがはじめてのことではありません。何か、それまで気がつかなかった僕にとっての「大切なこと」に出会うときには、必ずと言っていいほど、こうしたシンクロニシティはありました。なので、もはや驚くべきことでもないし、裏切りでもない。「また来てくれたんですね♪」という感触です。

「裏切り」はこのあとです。

またも引用させてもらいます。「中締め」のすぐ後、第3章の冒頭。

嫌韓と在特会
平川「名越先生に質問したいと思っていたんだけど、同じように育って、同じような教育を受けて、普通に論理的な思考はこうだって知っているのに、たとえば新大久保で騒ぎ立てている在特会みたいな人たちが、どうして出てくるのかわからないんですよ」
内田「俺も知りたい」
平川「どうにも不思議なんです。これは在特会のみならず、身近なところにたくさんいるんですよ。嫌韓っていう人が」
内田「嫌韓ってどこから出てきたんだろう」
平川「何か悪いことがあると全部あいつらのせいだ、みたいなね」
・・・


えっ、何これ? なぜわからない? その理由は、「中締め」で述べられているではないか?

この驚きが「(良い)裏切り」ですw

よくよく見てみてみると、わからないといっているのは、平川内田の両氏で名越さんではありませんでしたww
両氏の問いに対して名越さんは「感覚的」だと答えています。この答えは、「中締め」の記述と呼応します。

しかし、続けて読むと、名越さんもわからないと言っています。


平川「たぶん、それが何かということがよくわからないと、たとえばヒトラーが優生学みたいなことを持ち出してきてユダヤ人を排斥するじゃないですか。それにみんな、わぁ~と乗ったわけですよね、結果的には。そのメカニズムって、よくわからない」
内田「よくわからんないね。僕も反ユダヤ主義についてはかなり集中的に勉強したんだけど、結局のところどうしてある程度の知性ある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのか、今でもよくわからない
名越「ほんと、わからないです。僕もヒトラーの本はだいぶ読みましたが、じゃあなぜそういう人が出てくるのかということについては、はっきりとした見解はないと思います。・・・」


仰天です。ハッキリとした見解があると思っていたのは、僕の独断だったんでしょうか?

では、この本に寄せられているレビューはいったいなんなのでしょう?



問題は、知性ではなく感覚だと思います。

「どうしてある程度の知性ある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのか、今でもよくわからない」

どうして鋭敏な感性がある人が、ああいう妄想的な物語をころりと信じてしまうのかがわからないということが、僕にはわからない。

いえ、わかる気はします。

身体的感度に問題がないはずだと考えると、「わからない」のはチューニングに問題があるからでしょう。内田さんなどはよく「剣呑なところへは近寄らない」ということをいいますが、これも感覚的。そうした「回避の感覚」が働くのだとすると、「わからない」ということは「回避の感覚」が働いている所為ではないか、と推測することができます。

「同化された過去は、まさに自己と溶け合い自己と一体化するために、対象化され難くなっていくのではないか」

「回避の感覚」は、「過去と一体化して対象化され難くなっている自己」を対象化すること(アイデンティティの崩壊)を回避しようとするのではないか。

が、その「回避」は、ある種の知的怠慢をもたらしているのではないかと思います。

大乗仏教が上座部仏教を「小乗」と呼んで批判した態度。
あるいは、「小国寡民」をよしとする老荘に対する儒家の批判。

「わからない」と言っていることは正直な態度です。だけど、哀しいかな、そうした人間が集まると、「わからない」ということが承認されてしまい、「わからない」が正当化されていく。

 君子和而不同
 小人同而不和


第三章におけるお三方の態度は「同」であると僕には感じられます。

この態度は「わからない」がもたらすはずだった「無知の知」を阻害しているように見えます。他のところでは、例えば第二章では学校という「場所(≠システム)」を論ずることで、〈学習〉の機序についてとてもわかりやすく論じてくれているのに。

...あれ? あまり「良い裏切り」ではなくなってしまいましたね。


付言しておきます。

「ある種の知的怠慢」というのは、あくまで僕の主観です。
この三氏が十二分に知的で、感性が豊かであることに疑いはありません。
冷静に考えれば、批判する必要があるとは思えません。

にもかかわらず、批判をしたくなってしまうのは、僕の中のある種の「飢餓感」の所為でしょう。
そうした「飢餓感」をこの三氏は持ち合わせていない。それどころか「飢餓感」への回避感覚があります。

回避感覚を持ち合わせていることは、「個」としては極めて健全なことだと思います。
しかし、そのことによって「飢餓感」が欠如してしまう。
文明社会の中で生きる人間の大半が感じている「飢餓感」が感じられないというのは、健全であるが故とはいえ、「感覚の欠如」といって良いのだろうと思います。

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断食をしながら思ったこと。断食の後の思ったこと。

先週は断食をやっていました。
たぶん4回目になります。

自分自身のことなのに「たぶん」は情けないんですが、三日間の断食ではないプチ断食もその間に行っていて、記憶が曖昧になっています。三日間やるつもりでできなかった、というのもありましたし。

最初の断食がいつだったかは、外部記憶に留めてあるので正確にわかります。

今回は、思い立ったのが7/5の火曜日でした。断食についての文章を7/5に書いていると外部記憶にあります。だから、これは間違いありません。

火曜日に断食しようと思い立って、でも、冷蔵庫には買い置きの食糧があったので、始めるのは金曜日あたりからかな、と計算しました。ところが、なぜか木曜日から断食を始めてしまった。

いえ、外部記憶によって正確に書けば、断食の開始を意識したのは金曜日7/9でした。ただ「食べていない時間」という換算で行けば、前日の木曜日から始めていたことになると逆算した。金曜日の朝に、身体のほうが「もう断食になっているよ」と告げてきたような気がした。アタマが後追いで「あ、そうか、もう断食が始まっているんだね」と認識した。そんな具合で今回の断食は始まりました。


今回の断食は成功だったと思います。ええ、断食には成功と失敗があるんです。

三日間食を断つことが出来たか否か成功の基準ではありません。その断食が「痩せ我慢」だったかどうかが基準です。
三日間くらいなら、痩せ我慢でもなんとかならないわけではない。でも、それでは聞こえてこないものがある。「生命の在処」みたいなものが、痩せ我慢でやっているとわからない。単に辛いだけの断食になってしまいます。そういうことが過去に僕自身の経験としてあったんです。

今回は、身体の方から「断食はじまっているよ」というサインが出て、それを受けとめることができたという時点で、すでに成功していたと思っています。もし、「アタマの都合」で予定通りに金曜から始めていたら、おそらくは失敗していたでしょう。



断食をしながら思ったこと。これは実は、選挙に関連しています。直接は関連していませんが「思うこと」の始まりになった「考えること」のきっかけが、選挙を巡るニュース記事だったんです。

「いろんな総理がいたけど、安倍さんは最悪」村山元首相

朝日新聞 2016年7月9日23時59分

「本音を隠して都合のいいことばかり言い、国民をだまして選挙に勝とうと。こんな魂胆を持っている総理は初めてです。」


村山元首相が語った安倍晋三のイメージは、あのアドルフ・ヒトラーに重なります。そしてヒトラーといえば、


他人をだますことができるためには、自分自身をだますことができていなければなりません。

親は子どもに何をしたか。
自分自身を欺さないと生き延びられないということを教えた。
この本は、そのことを「告発」した本です。




改めて眺めて見ましたが、凄いですね。
何が凄いかって、「意志」がです。ヒトラーの。残念ながら(幸いなことに?)安部さんとは比較にならない。

いつものように脱線していきます。お許しください。
ここからしばらくは、今「思っている」こと、です。

ヒトラーのベースにあるのは「イライラ」です。この人はとても「イライラ」しています。でも、その「イライラ」は、少なくとも演説の時間においては、完全にコントロールされています。コントロールをもたらしているのが「意志」なんですが、「イライラ」が強い程、「意志」もまた強くなければならない。この両者がマッチングすると、カタストロフ的な「快感」が生まれてきます。


僕にはこの「快感」に覚えがあります。



ベートーヴェン作曲の「エグモント」序曲。指揮棒を振るのは、ウィルヘルム・フルトヴェングラーです。

フルトヴェングラーといえば、ヒトラーに反抗しつつもドイツに留まった音楽家として知られています。彼はヒトラーの嘘つきな政治手法に反発し、誠実な構えてドイツ人に奉仕しようとした音楽家でした。その「構え」を僕は立派だと思うし疑いませんが、だけど、その「快感の表現」はヒトラーと瓜二つ。

今、始めて気がつきました。
だとすると、この「快感の構造」はヒトラーだけのものなのではないのかもしれないという疑いが湧いて来ます。ドイツのもの。ドイツ人がヒトラーもフルトヴェングラーも支持した理由は、ここらにあったのかもしれません。

日本の知識人に、丸山真男をはじめとしてフルトヴェングラーファンが多いこともまた、同じ構造に根ざしているのかも。

もうしばしの断線をお許しください。
この気づきで、ひとつ謎が解けました。フルトヴェングラーの『田園』の不可解さです。

ベートーヴェンという人格のなかにはふたつの流れがあります。ベートーヴェンのなかには「イライラ」と「リラックス」の両方がある。「イライラ」の典型が『運命』であり、「リラックス」の典型が『田園』なんです。

フルトヴェングラーといえば、ベートーヴェン演奏の大家です。なのに、僕の主観ではありますけど、『田園』は下手くそなんです。ベートーヴェンはヒトラーと同じく、同じ言葉(モチーフ・音型)が繰り返し出てきます。同じ「型」が反復されるたびにテンションが高まっていく構造になっている。そのことを表現するのにフルトヴェングラーは長けていたし、ヒトラーにも同様の特長があります。

ところが『田園』においては、同じ「型」の繰り返しは見られるものの、方向性は逆で、「型」の反復のたびに緊張が解けていって「リラックス」していくという構造になっている。フルトヴェングラーは、なぜかそれを上手く表現できない。音楽は大らかに流れているのに、反復を神経質に扱って「イライラ」な音楽を作ってしまいます。

反復⇒「リラックス」に長けていたのは、ブルーノ・ワルターという音楽家でした。『田園』の演奏においてはフルトヴェングラー以上に高く評価されています。この人が指揮棒を振ると『運命』でさえ「リラックス」の音楽になってしまうから不思議です。

かの吉田秀和さんの文章で思い起こすことがあります。ワルターの指揮姿をビデオでみたことがあって、その姿がたまたま知り合いが演じてみせてくれた太極拳を彷彿させるものだった、という話。さもあらん、と思います。


さて、脱線はこのあたりにして、「断食しながら思ったこと」に戻ります。

「魂の殺人」というのは重い言葉です。

アリス・ミラーの『魂の殺人』のリンクを探すのにgoogleで「魂の殺人」という言葉を検索にかけたわけですが、そこで上位に引っかかってくる言葉に「強姦」があります。

断食導入の文章で出産について触れたことがあったかたでしょう、「強姦」という言葉はかなり響きました。


強姦という行為は、ハラスメントの最もたる行為のひとつです。にもかかわらず、というか、ハラスメント全般がそうなのですが、それがハラスメントであるということの理解が届かない場合が多い。ことに「イライラ」な人には、そのことが届かない。

そもそもハラスメントを為す人が「イライラ」であり、ハラスメントがまた「イライラ」を生む行為だと言えます。


こんなことを考えていました。
僕は今、意識的に食事を断っている。このことは、しかし、自傷行為であると言えないか。

断食成功の鍵は、痩せ我慢ではないことだと記しました。導入の文章でも書きましたが、「痩せ我慢でないこと」とは「イライラを排することができること」でもあります。
ということは、断食で「イライラ」が生じているとすればそれは痩せ我慢であり、自傷行為だいうことになります。

そういった伝で、セックスという行為を考えてみればどうなるのか。

断食はひとりで為す行為です。だけど「身体に食事を与えない」という行為自体は、他者によって為されることができます。考えていたのはこういうことです。

僕はいま、自分の意志で食を断っている。だけど、これがもし、他人から強制されて食を断たなければならない自体であったとすればどうか。他人は僕の「身体のサイン」になど考慮してくれないだろう。だとすると、他人から強いられる断食は、最初から失敗を約束されているようなものになるに違いない。

男女和合のセックスという行為は、断食におけるアタマと身体の関係と同様の構造が、男と女の関係に存在するように考えられる。さらに女性のなかには、アタマと身体の関係があるだろう。つまり、

 「身体(男)→アタマ(男)」→「アタマ(女)→身体(女)」

という二重構造になっている。もっとも、上のような矢印に端的になってしまえば失敗であろう。成功の場合の端的な図式は、

 「身体(男)←アタマ(男)」←「アタマ(女)←身体(女)」 

になるはず。

上の図式は「イライラ」を生むだろう。
また下になれば、生まれるのは「イキイキ」だろう――

「イライラ」をヒトラーやフルトヴェングラーのようなやり方で「意志」によってコントロールするならば、そこで生じる事態は「シニモノグルイ」になるでしょう(これは、今「考えたこと」)。

身体には固有の「自然な意志」があります。
それとは別にアタマにはアタマで意志があって、それが一般には「意志」と呼ばれ、なかでもアタマから身体へと降りていくベクトルのものが「意志」だとされるます。

僕の考えでは、その一般的な意志を【意志】と表現されることになりますし、身体の「自然な意志」に沿おうとするアタマの意志は〈意志〉という表記になる。さらに言えば、身体の「自然な意志」は《意志》という表記になり、これは《魂》に他なりません。

(このあたりまでが、断食しながら「思ったこと」)

断食やセックスを「イキイキ」へと導く鍵は、《意志》に耳を傾ける〈意志〉にあります。ところが、社会を営む人間には【都合】というものがあって、その【都合】がなかなか《意志》と合致しないことが多い。【都合】に合わせようとアタマが意志することは、もちろん【意志】です。

〈意志〉や【意志】が働くのは、食やセックスだけでありません。経済全般、個人でレベルでいえば「労働」に「意志」は大きく関わってきます。

僕が最初に断食の段取りを組み立てはのは、食糧の買い置きという【都合】でした。この程度の【都合】は無視してもほとんど差し支えはありません。だけど、食事を賄うという役割を背負っている主婦(もちろん主夫も)だとしたら、【都合】はもっと大きくなるでしょう。

また、断食などというものは所詮は個人の振る舞いですけれど、「労働」「仕事」「稼ぎ」となれば、【都合】に縛れてしまう度合いは強くなります。

「政治」などは、ウソで塗り固めた【都合】の塊でしかない。そのことを最も具現したのがアドルフ・ヒトラーでしょう。

(身体がその域に発育したという意味での)大人なら、セックスだって【都合】に左右されることを知っているはずです。現在は、いわゆる“草食化”の流れを受けて、【都合】をどのように〈意志〉に似せて都合良く振る舞うかといったような技術が【意識が高い人たち】を中心に関心を持たれていたりします。

思いつくまま並べますが、『サラエボの花』という映画がありまして。


この映画を端的に表すると、「政治」「宗教」という名の巨大な【都合】によってもたらされた悲劇を、〈意志〉に沿って「物語」を再編集した物語です。

セックスに及ぶ動機が【意志】であれ〈意志〉であれ、身体は独自に《意志》を持っている。つまり、することをすれば子どもは生まれる。子どもには《意志》がある。というより《意志》しかない。母親は(子どもの生物学上の)父親から植え付けられた【意志】に従って子どもを遇するか、あるいは母親自身の中に生きている《意志》に沿って子どもに接するように〈意志〉するか。不幸にも、その帰路に立たされてる。この映画が「イキイキ」とした「物語」として成立しているのは、〈意志〉に沿った〈物語〉であるからに他なりません。

そもそも「物語」は、すべからく〈物語〉です。



〈意志〉であれ【意志】であれ、伝染します。この「伝染」を宮台真司さんなどは「ミメーシス」と呼ぶ。ヒトラーの【意志】も伝染する。フルトヴェングラーの「意志」(これは【意志】か〈意志〉か、判別不能)も伝染する。ガンジーの〈意志〉も伝染する。ティモールには伝染するまでもなく〈意志〉が満ちていた




社会には【都合】が満ちあふれています。なぜそのようになったのかはここではさておきましょう。【都合】がいっぱい、ということは【意志】もいっぱいだということ。個人の【意志】は、“立派”であれば「ミメーシス」によって伝染していきます。立派でなくても「人情」によって伝染します。

「人間」とは、生物としての「ヒト」が生存戦略の「都合」(←【都合】ではない)で、進化発展した「脳力」を駆使して組織だった「社会」を営むことによって出現した人類社会的存在のことです。つまりヒトには社会を作るという《意志》がある。「人情」とはその《意志》でしょう。

社会ができて人間が生まれると意識が生まれ、〈意志〉と【意志】との分岐が生じる。「ミメーシス」は《意志》ではいけれど、〈意志〉だとは言い切れない。【意志】だとも言い切れないが、宮台さんの言動からは【意志】に近い感触を受けます。

社会が生まれれば秩序が生まれ【都合】が生まれ【意志】が生まれ、【意志】が作動すると【都合】の感染が広り【人間の都合】が生じる。「ヒト」が社会的生物であることと【人間の都合】が生まれることは同根。だから厄介です。

「呪い(のろい)」の構造



映画『きみはいい子』の記事では、「呪(のろ)い」という言葉を用いました。

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう


上のwikipediaでの定義は呪いという行為の本質を誤解したものだと考えます。呪いとは、具体的かつ直接的な行為ですが、wikiではそのように記述されていません。

人間の身体から遊離した霊などという存在は呪いとは関係がありません。ゆえに、霊的な手段などという記述も不要です。一方、呪いは具体的な行為なのですから、物理的手段ではありえます。
悪意であることも必須の要件ではありません。善意から呪いという具体的な行為を為すことは十分に考えられます。

意識があって行為が為されるという認識が一般的ですが、この順序は逆だということが明らかになっています。行為が先で意識は後。呪いという行為でも、行為が為されたあとに悪意が認識されるのですから、呪いの行為の視点は悪意ではありません。

そのあたりを修正すると、

「呪いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間や社会全般に対し災厄や不幸をもたらしめようとする行為」

と記述されることになりますが、これでもまだ不十分です。センテンスの前半が具体的なのに対し後半が抽象的でアンバランスになってしまっています。



まず、呪いという行為の具体性を映画『きみはいい子』から読み取ってみます。



この映画は「起」と「転」の二部構成のシンプルな映画です。「起」で呪いがかけられ、「転」じて呪いが解かれていく。そんな映画のなかに前半と後半でほとんどに同じシーンが出てきます。

映画では母親に虐待されている、つまりは呪われている子どもが登場します。


その子に、他所の母親が「うちの子にならない?」と勧誘しているところです。仲の良い家族の間ではありがちな場面ですよね。


子どもはその提案を全身で拒否します。前半の終盤です。

後半の終盤にも同じ登場人物の構成で、同じ提案がもう一度繰り返されます。


そしてまたもや、子どもは全身で提案を拒否します。

同じく全身での拒否なのに、前者と後者では、発しているメッセージは180度異なります。

子どもは母親に対して「私を愛して!」と訴えかけています。
子どもの(母親に対する)メッセージは、前半も後者も同じです。
が、母親のメッセージは異なります。
前者は(子どもの)拒絶。後者は承認です。

拒絶が具体的な呪いの行為です。




あらゆる生物のなかで、ヒトほど子どもが無力で生まれてくる生物種はありません。

赤ん坊は無力で生まれてきます。しかも長期間にわたって無力なままです。このことは種および個体生存戦略上の大きなリスクですが、そうしたリスクを冒してでも得ることができるリターンがあるはずです。リスクを冒してリターンを得るのが戦略の意味するところです。

ヒトがリスクを冒してえるリターンは社会性です。
ヒトは社会を営むことで、他種との生存競争を勝ち抜こうと選択しました。
もちろんこの「選択」は、事後的にそのように解釈できるというだけのことです。意識に先立って行為が為されるのは、種の生存戦略でも同じです。


いわゆる高等動物は複雑な身体を持ちます。
複雑な身体が生成されるにはそれなりの時間が必要。ところが未完成な身体を抱えるということは、生存上のリスクです。

動物の社会性の起源は、未完成な身体を抱える時間という生存上のリスクにあると考えられます。種の保存のためには子孫を生存させなければならない。しかし子どもとは未熟な存在ですから、子どもの存在そのものが大人の個体にとってはリスクです。そのリスクテイクのために社会性が生まれてきました。社会性とはリスクのリターンであり、同時にリスクテイク能力です。

社会性をもつ動物はヒトの他にも存在します。しかし、ヒトほど大きく社会性に依存している動物は他に存在しません。他の動物は、群れを作って生活する種でも、ヒトよりずっと個体としての身体能力に依存して生存しています。それは子どもというリスクテイクをする場合でも同じで、ヒトほど子どもというリスクを負うに当たって社会性に依存する種はありません。


草食動物の赤ん坊は、生まれてすぐに立ち上がり、程なく駈けることができるようになります。肉食動物は草食動物に比べれば子どもの成長は遅いですが、そこは子どもの生存リスクの差でしょう。子どもが捕食される危険が草食動物より低いと考えられます。草食動物の中でも武装を持たず逃げ足に生存を賭けた馬などは、駈けることができるようになるまでの期間が短い。

このような違いはリスクテイクのあり方の違いです。草食動物は長期間母体の中に子どもを抱えておくという方法でリスクテイクをする。母体にとっては、なるべく早く子どもを切り離す方がリスクは少なくて済むはずですが、そこは子どもの生存リスクとのバーターになります。完成度の高い子どもを出産する方が子どもの生存率は高くなりますが、その分、母体へのリスクが増します。母体には、そのリスクを負うだけのリスクテイク能力が要求される。


ヒトを含む類人猿のリスクテイクは、草食-肉食動物のリスクテイク方程式から逸脱しています。子どもというリスクの大きさが個体の身体能力というリスクテイク能力に比べて大きい。特にヒトにおいては際立っています。そのアンバランスを克服するために、ヒトや類人猿は、個体としては甚だ未熟な状態で子どもを産んで、未熟なうちに社会性を発達させるという戦略を採用した。

社会性は、母体の中にいる間は成長させることができません。また、未熟なうちに学習を始めるほど、社会性は生来のものとして個体にインプットされていくことになります。ヒトはそうした戦略を採用して大成功を収めています。その表れが現代の文明社会です。


以上のような観点から見ていけば、愛情というものが社会性の産物であるということが理解できます。未熟な子どもが大人に要求する愛情は、大人へのリスクテイクの要求に他なりません。リスクテイクを要求することも、その要求に応えることも、どちらも愛情です。愛情を発露させることで、子どもも大人も双方ともにリターンを得ることができる。リスクとリターンとは表裏一体なのです。

リスクとリターンが一体となった形で愛情が発露されることで、種としてのリスク/リターン、個体としてのリスク/リターンの間に存在する矛盾が解消される。愛情は社会性をもつ動物における生存戦略の発動です。

愛情が生存戦略の発動であるならば、子どものリスクテイク要求への拒絶は、生存戦略が不発に終わっていることを意味します。これこそが「呪い」の意味するところです。


大人が子どものリスクテイク要求を拒絶してしまうのは、その能力が不足しているからに過ぎません。しかし、身体的には十分に能力は備わっています。現に(映画では)物理的には育児をしています。身体的物理的能力がなければ、育児放棄をするほかないはずなんです。

虐待はリスクテイク拒絶の表れですが、その能力欠損は身体に由来するわけではない。だとすれば、問題は社会性にあることなります。個体(個人)の社会性がすなわち精神性です。大人の社会性の欠損が愛情の発動を妨げ、子どもというリスクテイクを拒絶せしめてしまうわけです。

育児は為されつつも虐待を受ける子どもは、「オマエは(社会的)リスクだ」というメッセージを受け取ることになります。そのようなメッセージを受けつつ社会性を発達させていった子どもは、自身をリスクだと認識するようになります。自身をリスクだと認識することとは、自己否定・自己嫌悪に他なりません。

虐待が世代を超えて連鎖する理由がここにあります。子どもの頃に自身をリスクだと感じてしまっている人間は、大人になってもそのまま自身をリスクだと感じています。自身をリスクだと感じている人間が、加えて子どもというリスクテイクをできるはずがありません。自身に十分なリスクテイク能力があると認識していて始めて、リスクテイクをしようという意志すなわち愛情が生まれます。社会性の欠如は、身体的には十分に備わっているはずの愛情の発動を阻害してしまう。その状態で子どもに接すると、虐待が生まれてしまいます。

愛情の発動を促すには、その発動を阻害している原因を除去すればいい。社会的な承認を与えればいい。それがすなわち「きみはいい子」とメッセージです。子どもはもちろんのこと、大人もそのメッセージを必要としている。大人は十分にリスクテイク能力を備えて、もはやそのようなメッセージを必要としない状態であるのが本来のはずですが、そうなっていないのなら、大人になってからでも承認メッセージは与えてあげなければなりません。


リスクテイク能力とは、言い換えれば生命力です。生命力が身体的にも精神的にも十分に発育することで、子どもというリスクテイクを行なうことが出来るようになる。してみれば、「呪い」というものの構造も明らかになります。

呪いとは、生命力の発動を阻害されることです。生命力が十分に発動できないと、個人や社会が不幸に陥っていくのは自明の理です。逆に言えば、おかれた状況がどうであれ、生命力を十全に発揮することができさえすれば、幸せと呼ばれる状態になります。

結論。

呪(のろ)いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間の生命力の発動を阻害し、社会全般のリスクテイク能力を低下させる行為。

『神なるオオカミ』


まず、映画で観ました。


映像美については満足のいく出来映えです。
が、肝心の〈物語〉については、、、、正直、ピンと来ません。

次に、松岡正剛さんの書評に目を通してみました。

つまり本書は一から十までが今日の中国体制批判であり、儒教に象徴される中国的保守思想の歴史的な批判なのである。

松岡正剛千冊千夜1494夜より



なるほど、映画の〈物語〉が中途パンパなわけがわかったような気がしました。映画は中仏合作。小説の(主題であるらしい)政治性を〈物語〉の組み込むわけには行かないでしょう。
映画の「枠」はラブロマンスかな? と思っけど、それにしてはラブの方の決着も付けずに終了。よく分かりませんでした。

というわけで、現在、小説の方を読み進めています。



こちらは実に面白い。例によって読みかけ途中でのブログアップで、この小説が宿しているという政治性は、まださほど姿を現してはいません。記述の8割はオオカミにまつわるエトセトラですが、これが実に面白い。

この小説は、著者自身が中国文化大革命時に下放の憂き目に遭った知識青年であることから推しても、ほぼノンフィクションなのでしょう。オオカミの生態の記述がリアルなだけではなく、オオカミへの人間の感情もまた、とてもリアルです。

なかでも際立って面白いのが、オオカミの知恵の高さ。戦略性。すなわち社会性です。

オオカミの身体能力は高い。といっても、モンゴル草原の他の種と比べると、たとえば足の速さなどでは、劣る部分があります。そこをヒトと同じく社会的戦略性で補って余りある行動を採る。結果、人間を除けば、草原の食物連鎖ピラミッドの頂点に立つことなります。

草原という大きな生命のなかで機能するオオカミの役割。それは人間と同じく社会性を有するが故にでしょうか、非常に重要なものとして捉えられています。オオカミこそが、草原の生命の流れを左右するキーポイント。


オオカミを通して描写される草原の生命のあり方は、森林を主とする日本のそれとはかなり違います。日本よりずっと血生臭く、艶めかしい。



モンゴルへ行くと、観音様がこんなふうになるんですね。生命の円環はモンゴルの草原であれ日本の森林であれ、同じ原理で回っているはずです。なのに、その顕れの姿は違います。「草木国土悉皆成仏」の日本にはない慈悲の姿です。

が、『神なるオオカミ』の記述を読み進めると、艶めかしい慈悲にも違和感がなくなるから不思議です。



それにしても思うのは、確かにオオカミの社会性は素晴らしいけれども、種にとっての社会性の重要度・依存度という点において、ヒトより大きな生き物はいないだろうということです。だからこそヒトにおいては社会性が政治性へとつながっていく。

それは逆に言えば、オオカミの社会性の方がヒトよりも“自然”に近いだろうということです。

ところが中国人である著者は、オオカミと草原の生命を讃えながらも、生命の自然性にアプローチしていく感がありません。オオカミの社会性もまた、生存のための戦略性という解釈の型へ嵌められていくようです。それは自然での生存競争の枠もを超えて、人間同士、文明の社会性の優越という視点へ収斂していく。松岡さんの書評を見る限り、そのようです。

そうした社会性の突出は日本人である僕などとは違った感覚で、本書は儒教批判とは言いながら、しかしその批判のありかたもまた儒教的な感じを受けます。その(ヒトとしてではなく)人間としての感覚の違いもまた、この小説を読み進める上での面白さです。



(※読了後に追記か、あるいは続編をアップすることになると思います。)


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