愚樵空論

贈与経済のもうひとつの始め方

ここでは贈与経済=「減価する貨幣を基軸とする経済」と考えることにします。

まず触れておくべきは“もうひとつ”というところでしょう。“もうひとつ”というからにはすでにひとつということです。減価する貨幣に関心がおありの方はすぐピンと来ると思いますが、それは地域通貨です。減価する通貨は地方自治体や地域の任意の団体が自主的に発行する地域通貨とセットで語られることが多いです。

では、“もうひとつ”とは何なのか? いえ、実はこちらの方もすでに方々で語られていまして、それは電子マネーです。減価する貨幣と電子マネーとが親和性が高いということも、減価する貨幣に関心のある方はすでにご存知のことだと思います。
実際に企業が発行している電子マネーには有効期限があったりして、簡易的ながら減価する貨幣として機能しているものもあります。

しかし、そういった電子マネーが贈与経済を実現させているかというと、そうはなっていない。有効期限があるということは、消費への意欲を高める結果にはなったとしても、それはいまだ等価交換の枠内のことであって、贈与というところにまで飛び出してはいません。

このことをなぜかと考えたときに思いついたのは、有効期限が長すぎるということと、もうひとつは「定価」というものの存在が贈与への障壁となっている、ということです。「定価」とは外部基準であり、お金を支払うものが自発的に定めるものではない。ところが贈与はあくまで自発的な行為ですから、「定価」という外部基準があって人々がそこに疑問を持たないところでは、自発的贈与はなかなか起きてこない。そのように考えているわけです。

(もうひとつ付け加えるならば、そうした減価する電子マネーは企業から贈与されていることも原因の一つだと考えられます。ただ、これは贈与とはいっても無条件ではなくて、企業のマーケティングの一方法と見なされている。だから電子マネー保持者はそれを「特権」として捉えている、ということです。『ベーシックインカムの難点』でも述べましたが、人々は「特権」を贈与することはしないものです。)

では、電子マネーから「定価」を撤廃させる方法はあるのか? その方法があるというのが、このエントリーの趣旨です。「定価」を撤廃させる方法、それは“「定価」を定める”です(笑)

そういうと、“なんだ、冗談だったのか”と思われるかもしれませんが、いえ、冗談ではありません。“定価を転配するには定価を定める”は確かに端折った言い方ではありますが、冗談ではない。そのことをこれから説明します。

まず、新聞を思い起こしてください。仮に定価3000円としておきましょう。1ヶ月3000円の定価を支払えば、毎日新聞が宅配されてくる。その紙面には、さまざまな情報がパッケージとして詰まっています。新聞の「定価」は、個々の記事、個々の情報に付けられている価格ではなくて、新聞という情報パッケージに付けられている価格です。これは一冊幾らの雑誌でも同じことです。

雑誌などでよくあることですが、私たちは雑誌の中の特定の情報(マンガ雑誌なら、贔屓の作家の贔屓の作品)を見るためだけに、仮に雑誌の定価を300円だとすると、その300円を支払ったりします。雑誌の側は読者のそうした行動を見越して、まだ実績のない新人の作家を登場させ、300円という「枠」を使って育成したりします。

こうした新聞・雑誌の構造を簡単に図示すると、(図1)
もうひとつの贈与経済1
という感じになります。読者は定価を発行者に支払い、発行者から情報発信者へと報酬が支払われる。この場合、情報 ひとつひとつに「定価」がついているわけではなくて、個々の情報の値段ははっきりしません。
(図には表わしませんでしたが、発行者には読者以外に広告主からも収入がはります。読者は不特定多数ですが広告主は特定される。なので、新聞・雑誌などの発行者は広告主の意向に左右され、情報を発信する発信者に圧力を加えるという事態が起こりえるわけです。)

ついでに単行本のように情報発信者がひとり(もしくは特定少数)の場合は(図2) もうひとつの贈与経済2
となります。この場合、情報の「定価」ははっきりしています。

これら2つのかたちは、旧来の紙媒体を介しての情報発信のかたちです。そしてそのかたちはそのままネットにも引き継がれています。
(ネットの場合は、発行者の力が紙媒体ほど強くないので、どちらかというと図2の場合が多いように見受けます。有料発信のメルマガや「ビデオニュース・ドットコム」など。図1のケースは新聞・雑誌の有料配信ですが、あまり振わないようです。)

ですが、インターネットは新しい技術です。新しい技術で旧来のモデル(思考)を模倣してもあまり意味はないでしょう。事実、現在力をもちつつあるのは次のようなモデルです。(図3)。
もうひとつの贈与経済4

この図3には具体的な企業名(Google)と入れてしまいましたが、もちろんこのモデルを担っているのはGoogleだけではありません。が、「Google」と入れると一番ピンと来やすいのではないかと思います。 このモデルは、読者からお金が入ることはありません。基本的に読者は無料で情報を入手できる。大変に結構なことです。「Google」はさまざまな広告主からお金を集めそれを情報発信者に分配しますが、このIT技術に基づく「分配」は、等価交換でも贈与でもない、単に分配としか呼称のしようがないものです。
(あくまで個人的な感想ですが、私はこの「分配」にはどことなく不気味さを感じます。それは、金融工学といわれるものに対して抱くのと同種の不気味さです。ここには人間味といったものが全くない。にもかかわらず、それが経済の中軸の位置を占めてしまう。経済は人間の人間的な営みではないのか、と思ってしまいます。)

話が少々脱線気味なので、元に戻りましょう。話は贈与経済についてでした。贈与経済というのは、等価交換よりもずっと先、人類が社会的な生物と誕生すると同時に存在していたものでしょうが、そうした古い仕組みがネットという新しい技術によって復活する。こんなモデルが考えられると思うのです。(図4)

もうひとつの贈与経済3
図4は、「Google」が行っていた「分配」を読者自らが行う、というものです。私は先に、“「定価」を撤廃するには「定価」を定めればよい”と言いましたが、これがその図になります。“「定価」を撤廃するには「定価」を定めればよい”は言い換えれば“まず「定価」を支払って、その「定価」を読者が自身の意志によって分配する”ということです。

「定価」が想定され、消費者がその「定価」を受容して交換を行うのは等価交換です。ですので、図4のモデルでは、取引の第1段階は等価交換になります。図1,図2の取引はここで終了でしたが(図3では取引そのものがない)、図4のモデルはここでは終わりません。「定価」を読者自身が分解するという作業が入ります。つまり等価交換であったものを分解してしまうのです。

この「分解」に際して重要な点があります。分解されたものが減価しない貨幣として振る舞うようにしてはならないということです。分解された定価が減価しなければ、分解後の分配もまた等価交換になってしまいます。減価がなければ、読者には分配しないという選択肢が残ることになりますが、ここが問題で、この選択肢がのこればどうしてもこれを選択する人間が多くなる。そうなると、結局行き着くところは図3の無料モデルになります。

ですから、分解後は減価するものとして扱わなければなりません。言い換えれば、読者は定価格の減価しない貨幣を支払って定価額の減価する貨幣を購入する。減価する貨幣では分配しないという選択肢を選ぶ圧力が減り、読者は積極的に分配しきろうとするでしょう。

そして、ここが最も重要なことですが、この分配に際して基準になるのは読者自身のみです。読者が良いと感じれば分配比率を高くすればいいし、反感を感じれば分配を0にしてもよい。定価といった外部基準に頼ることなく、あくまで自身が主体的に自身の資源の配分を行う。それが贈与です。

減価しない貨幣が基軸の経済体制では、自身が主体的に配分を行うということがなかなかできません。貨幣の性質自身が分配しない選択を後押しするようになってしまっています。ですから人々は、どうしても生活上どうしても必要な交換に際して、等価交換という虚構(よく考えてみると何が“等価”なのか、本当は判断がつくはずがない)に依存するようになる。そしてその虚構を操作するものが経済を支配し、人々は虚構によって疎外されていくことになるのです。

減価しない貨幣が基軸の経済体制の中で減価する貨幣による経済を作ろうと思えば、まず「特区」を作る必要があります。「特区」なしでいきなり減価する貨幣を流通させようとしても、その取り組みはなかなか上手くいかないでしょう。図4のモデルは「定価」がその「特区」になっています。読者は自らの選択で「特区」へ入っていくことができる。ここがこのモデルの大きな特長で、地域通貨のように特定の地域に居住していなければ「特区」へ立ち入る機会が提供されないといったことはない。基本的にはネットに繋がっていれば「特区」へアクセスすることができる。

しかも「特区」へのアクセスが自由なのは読者だけではありません。情報発信者も自由にアクセスできます。紙媒体時代の図1・2では、情報を発信しようとする者は発行者の管理下に入っていく必要がありました。ネット時代の図3 ・4ではその必要がありません(図3も現行では特定の発信者に限られていますが、原理的には誰でも発信は可能です)。ですから、図1の構図のもとで生じる“マスゴミ問題”も原理的には生じにくいと考えられます。

今現在、図4のモデルを実現させるためのツールは揃っているはずです。であるなら、次に必要なのはツールを使う意志と能力を持った者が出現すること。果たしてその「出現」はあるのか、それ以前にここで私が示した「意志」が共有されることになるのか、甚だ疑問ではあります。「意志」が共有されなければ「出現」もありませんが、「意志」共有のためにはまず「意志」表示がなくてはなりません。

貨幣は必要か?

実はタイトルは少し舌足らずです。今の社会において“貨幣は必要か?”と問うてみても、その答えは決まり切っています。もし今の社会から貨幣がなくなれば、社会は社会の体を為さなくなるでしょう。貨幣は間違いなく必要です。

私が問いたいのは“今の社会において”ではなくて、“未来の理想社会において”。未来に理想社会などといったものが実現するかどうかは知りません。が、そういったものを夢想することができるのは人間の特権でしょう。そしてその特権を行使しつつ現在を問うことは、こちらは今を生きる人間の義務です。

未来の理想社会において貨幣は必要か? 私の答えは必要である、です。

ただし、その貨幣は現在の貨幣とは異なります。たびたび取り上げる「減価する貨幣」もその答えのひとつですが、それだけではないかもしれません。私が考える未来の貨幣はあくまで「属人的な貨幣」です。

現在の貨幣は属人的ではありません。よく“きれいなお金”“きたいないお金”などといったことが言われますが(政治資金はきれいでなければならない、とか)、そもそも貨幣自体にきれいもきたないもありません。“きれい”だとか“きたない”とかいう形容は属人的な要素であり、人は後付で貨幣にそういった要素を付加しますけれども、そんな要素が貨幣の本質ではないことは、実は誰もが知っています。だから、たとえ“きたない”お金であることがわかっていても、人はそれを受け取ることを容易に拒否できない。きたなくても、お金はお金なのです。

なぜそういったことになるのか。答えはカンタンで、貨幣の本質は概念だからです。概念は“きれい”とか“きたない”とかいった人間の感情的な側面とは無縁だから概念なのであり、またそれゆえに外部基準として機能します。外部基準とは属人的ではなく、客観的な基準といったものです。


もともと人間は社会的な動物です。なぜ社会的なのか? それは動物としての身体能力が他の種と比べて劣るために社会を形成した方が生存競争に有利だった、といったところでしょう。そうした人間にとって、人間が形成する社会は決して客観的な存在ではありません。社会には自らの生存が関わっているのですから、そこにはどうしても感情が絡む。感情が絡むということは属人的なのです。ある人にとっての社会の価値は、その人自身の価値と無関係なところで測定できません。

ところが現代の社会はそのように作りになっていません。現代を支配する大きな社会は「近代社会」ですが、これはその社会を構成する人々の個々の価値観とは無縁のところで作り上げられている。すなわち貨幣の性質を基軸に作り上げられている。こんな社会が人々の営みの隅々にまで浸透してしまうと「無縁社会」になってしまうのは当然のことです。

属人的な社会を作る人間は、その社会を維持するためにモノやサービスの交換を行います。社会とはモノやサービスの交換の場だと言い換えてもよいでしょう。属人的な社会においてなされる交換は、当然のことながら属人的です。その属人的交換を贈与というのですけれども、現代社会を作り上げている交換は非属人的な等価交換であり、この等価交換が「無縁社会」を作り上げる根本の原因なのです。

現代の貨幣は概念であるがゆえに、その価値は減ずることなく不変です。現代の価値が非属人的であるのは、この不変性に由来しています。誰の手にあろうが、貨幣は貨幣としてその保持者とは無関係に“不変に”存在している。そういった貨幣が、もともと属人的であったはずの交換の仲立ちをするために、交換が非属人的なものに変質してしまう。その結果、交換の場である社会も非属人的になってしまうわけです。

しかし、そういった非属人的貨幣にも大きな利点はあります。それは「大きな社会」を実現したことです。いわゆるグローバリズムの結果として出現した「大きな社会」は、その害悪も大きなものです。しかし、この害悪は大きいから出てきたものではなくて、もともと近代社会に存在した害悪が社会が大きくなったために害悪も大きくなっただけのこと。社会が大きいことは、それはそれでよいことなのです。

というのも、社会はそこの中で暮らす人間にとっては保険の役割を果たすものでもあるからです。現代のグローバル社会はその保険機能が機能不全に陥っているわけですけれども、保険機能がしっかり機能するのであれば、社会は大きい方がよいはずです。

保険が機能する社会を「暖かい社会」といってよいでしょう。現代の社会は大きいが「冷たい社会」です。冷たくなってしまったのは非属人的な等価交換が原因です。もし貨幣がなくなれば「暖かい社会」は復活するでしょう。貨幣なしの交換は属人的な贈与になり、“暖かさ”は属人性から出てきますから、その社会は必然的に「暖かい社会」になります。ただし、その社会は「小さな社会」でしかありえません。貨幣という媒体を介しない交換は、人と人とがリアルに出会う必要がある。つまり物理的な制約が大きいのです。

(概念の長所は、物理的な制約を超えられるということです。それは当たり前の話で、概念はリアルなモノではないからです。インターネットという技術が爆発的に進化しつつある今日では、リアルでない物理的な制約を超えた交換があちこちで見られるようになっています。私はその交換を基本的に贈与だと観ていますが、しかしまだその贈与が社会を構築するようになるところへは至っていない。現代社会の構築原理は未だに等価交換です。ですので、ネットの中の交換も基本的には“暖かい”贈与であるはずが、等価交換原則の“冷たさ”に引きずられたアンチ贈与(ハラスメント、もっというと「呪い」)が多く見られます。)

理想の未来社会とは、いうなれば「暖かく大きな社会」です。もう少し具体的にいうと、属人的な贈与交換が物理的制約を超えて行われる社会となります。そうした社会がいかにして実現できるか、そこを考えるのには、どうして貨幣の性質というところへ考えが及ばざるを得ません。

貨幣が概念であるという本質は、そこは本質ですからどうにも買えようがありません。が、貨幣が概念であるということが直ちに非属人的ということになるのか? もしそうなら私たちの選択肢は「大きくて冷たい社会」or「小さくて暖かな社会」のどちらかしかなくなるわけですが、そうではなくて、貨幣がその本質は概念でありつつ属人的であることができるなら、「大きくて暖かい社会」も選択肢の中に入ってくることになります。

結論を言ってしまえば、貨幣が非属人的になるのはそれが不変であるからです。貨幣には3つの機能、すなわち交換媒体・価値測定・価値保存の機能があるとされていますが、このうち価値測定・価値保存は貨幣の不変性から出てくるものです。不変な貨幣によって価値が測定されるから、モノあるいはサービスの価値は属人性から離れて客観的なものとして捉えられる。また貨幣そのものの価値が不変とされるから貨幣を保持しているだけで保険となり、社会の保険機能が機能しなくてよくなってしまう。「大きくて冷たい社会」は、実は貨幣の概念性から出てきているのではなくて、貨幣の不変性から出てきている。もちろん貨幣の不変性はその概念性なしでは成り立ちませんが、概念性が直ちに不変性というわけではない。概念性を保持しつつ不変性を破棄することはできる。その具体的な形が「減価する貨幣」ということになるのです。

「減価する貨幣」には、従来の貨幣がもつ価値測定・価値保存の機能がありません。そうするとどのようなことになるか? 不変な貨幣によって外部基準としての価値測定がなくなれば、人はその価値を自ら測定するほかなくなります。自ら価値を測定するということは、その価値測定が否応なく属人性を帯びるということです。そうすると、「減価する貨幣」を介しての交換は属人性を帯びた交換、つまり贈与の交換ということになり、「減価する貨幣」は「属人的な貨幣」ということになるのです。

(「属人的な貨幣」を通じて交換がなされる場は「暖かい社会」となりますが、別の見方をするとそれは「市場」です。ただし、この「市場」の読みは“しじょう”ではなくて“いちば”と読みます。非属人的な減価しない貨幣による経済では、「マーケット」すなわち「市場(しじょう)」が架空のものでありながら現実的な機能をもつものとして想定されますが、「減価する貨幣」に経済では架空の「市場(しじょう)」は出現しません。ネット上のやりとりを介したバーチャルな取引であっても、それは取引する当人同士の属人性とは切り離されていない「市場(いちば)」です。「減価する貨幣」による経済では、単層で少数の「非属人的市場(しじょう)」の支配は成立しなくなり、替わりに無数で複層的な「属人的市場(いちば)」が社会を支えることになる。メカニカルな市場(しじょう)による社会支配から、市場(いちば)による有機的な社会維持へと構造が変化するのです。)

また「減価する貨幣」には貨幣自体に保険の機能がありませんから、人々はどうして保険機能を社会に求める以外になくなります。実はこのことが「減価する通貨」を導入するに当たっての最大の心理的障壁になります。しかし社会に保険機能を求めるなら、その社会の基本原理はどうしても属人性に基づいたものでなければなりません。「減価する貨幣」はそれ自体属人的ですから、「減価する貨幣」を導入しさえすれば、自然に社会は保険機能が機能する「暖かい社会」になるのです。

というようなことで、未来の理想社会に必要なのは「減価する貨幣」であるという結論になりました。ただ、途中でも述べたとおり、これが唯一の方法というわけではないでしょう。他にも良い方法はあろうかと思います。

ベーシックインカムの難点

といったようなタイトルでエントリーをあげるとベーシックインカム反対派だと思われるかもしれませんが、それは違います。私は基本的にはベーシックインカムが目指す方向性には賛成です。
賛成なんですけれども、手放しというわけではない。ベーシックインカムには、見過ごせない難点があるように思う。今回はそこらあたりのことを話してみたいと思います。

私が感じるベーシックインカムの難点とは、ズバリいうと“隷属の二乗になる”ということです。
方々のベーシックインカム賛成派の議論を眺めてみて思うのは、この「隷属」についての視点が欠落しているように思うのです。

では、隷属とはいったいどういうことか?

その1は、「貨幣への隷属」です。
私たちが暮らしていくためにどうしても必要な経済は、現在の日本ではほぼ100%貨幣によって支配されています。私たちの労働は貨幣によって価値が測定され報酬が支払われる。報酬とした得た貨幣と交換で生活に必要なモノやサービスを入手する。また貨幣を蓄積して将来への備えとする。現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たないといっても、少しも過言ではないでしょう。

このことがなぜ「貨幣への隷属」なのか? 

答えはカンタンです。“現在の私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない”と考えているからです。

が、これでは答えになっていないと感じる方もおられるでしょう。このことを説明するには、まず「隷属」とはどういうことなのかというところから始める必要があります。

「隷属」は辞書で見てみると
れい‐ぞく【隷属】[名](スル)

1 他の支配を受けて、その言いなりになること。隷従。「本国に―する植民地」
(Yahoo!辞書より)
となっていますが、ここでいう「隷属」は辞書の意味とは少し意味合いが異なります。たんに“他の支配を受けて、その言いなりなる”なら、命令を受けてその命令に唯々諾々と従うことのようですが、そうではない。それをさらに越えて“命令を受けたわけでもないのに自発的に従う”、このことを指して「隷属」というのです。

私たちの暮らしは貨幣なしでは成り立たない。これは一見、疑いようのない事実であるように見えます。いえ、確かにこのことは事実ではあるのです。しかし、この「事実」は「真実」ではありません。つまり、貨幣がなくても人間は暮らしていける。歴史的な視点で眺めてみれば、人類は貨幣なしで暮らしてきた期間の方がずっと長かったというのが「事実」です。にもかかわらず、私たちは“貨幣なしでは暮らしていけない”と“自発的に”考えています。この“自発的な状態”を指して「隷属」というのです。


今現在、「貨幣への隷属」を最も端的に表わす言葉は“働かざる者食うべからず”でしょう。もともとこの言葉が用いられた文脈は現在のそれとは異なるのですが、現在では、二重の意味で「貨幣への隷属」を示す言葉になってしまっています。

まず“働かざる者”はほぼイコール“貨幣収入のない者”の意味で使われます。これはつまり、働くという行為が貨幣によって価値測定されることを前提にしているということであり、ここから貨幣によって無価値とされた労働は労働ではないという結論が導かれる。そして、貨幣を持たない者(←稼げない者ではないことに留意)は“食うべからず”とされてしまう。まことにおかしな倫理観ですが、「貨幣への隷属」にどっぷり嵌ってしまっている人はそのことになかなか気が付きません。いえ、気が付こうとしないのです。

ベーシックインカムがこの“働かざる者食うべからず”に対する反論という形で提示されることが多いのは、ベーシックインカムに関心のある方ならご存知のことでしょう。

この「ベーシック・インカム」という、「働かざるもの、食うべからず」と真っ向から対立する概念について、一番の疑問は、無条件でお金をもらえるとしたら、誰も働かなくなってしまうのでは? という点で、一番納得したのはこの部分。

 ベーシック・インカムに対する答えられるべき疑問として、無条件の所得給付は労働意欲を減退させるのではないか、という疑問をあげ、フロムは以下のように回答する。現行の世の中の仕組みは、飢餓への恐怖を煽って(一部のお金持ちを除き)「強制労働」に従事させるシステムである。こうした状況下では、人間は仕事から逃れようとしがちである。しかし一度仕事への強制や脅迫がなくなれば、「何もしないことを望むのは少数の病人だけになるだろう」という。働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」だとされる。

『「ベーシック・インカム入門」読了』(プログラマとSEのあいだ)

“働くことよりも怠惰を好む精神は、強制労働社会が生み出した「状態の病理」”。この意見には私も同感です。がしかし、それでも私はベーシックインカムは労働意欲を減退させることになると思う。それは、ベーシックインカムが「無条件の給付」ではないからです。

ここで留意しておくべきは、「無条件の給付」と「無条件の所得給付」の違いです。「無条件の給付」とは、すなわち贈与です。無条件に贈与を受ける人間は、「病人」でもない限り、自発的な労働を好むようになる。それは社会的な動物として生まれてくるヒトという生物種の本能でしょう。「無条件の給付」は無条件の贈与であり無条件の認知です。自発的に労働するに至らない子どもは無条件に贈与を受けることで社会的に認知されたと感じ、労働が可能な成人へと成長すると、こんどは社会的に認知されるために無条件の贈与を行うようになる。「無条件の給付=無条件の認知」を与えられなかった子どもは、長じても自発的に労働する大人とはなりません。

ですが「無条件の所得給付」は贈与ではありません。「所得給付」とは貨幣の分配ですが、貨幣は所詮は概念に過ぎません。人間は概念を操る生き物ですけれども、概念を給付されても無条件にそれを認知だとは感じません。無条件の概念の給付は「特権」として捉えられることになります。
(今日の日本の子どもたちが陥っている病理の根っこはここにあるのでしょう。子どもたちは無条件に貨幣という概念を給付され、その貨幣がモノと交換できることを学習して、自らが特権を有した存在だと勘違いをしてしまうようになります。)

ベーシックインカムがもたらすであろう害悪は、特権をバラ撒いてしまうことです。自らの特権があると考える人間が、自ら進んで労働をするとは考えられません。特権は人を怠惰へと導くことになるでしょう。
(特権を特権と捉えて自制する精神は、無条件の譲与から育まれます。ところがベーシックインカムが実現してしまうと、まず「無条件の概念給付」から始まってしまいますから、「無条件の贈与」を与えられる機会がスポイルされてしまいます。それはすなわち、「無条件の贈与」が労働によってもたらされることが学習できなくなるということです。)

ベーシックインカム賛成派が「無条件の贈与」と「無条件の所得給付」を混同してしまう原因は、「貨幣への隷属」です。「貨幣への隷属」に囚われてしまっているために貨幣が概念に過ぎないことを見落とし、その概念の給付を求めるようになる。これ「隷属」のその1です。


「隷属」その2は、「暴力への隷属」です。

「貨幣への隷属」に囚われると貨幣は概念に過ぎないことを見落とします。実際、貨幣経済では貨幣は財産としてモノと同等以上に扱われます。
財産を収奪するのは暴力です。ベーシックインカムには莫大な財源が必要ですが、その財源は暴力によって確保されなければなりません。国家が合法的に税として徴収するとはいっても、貨幣は財産だと認知されているわけですから進んで提供しようとする人は少ないはずです。もしそういう人がいるとすれば、それは「国家への隷属」に囚われているということになります。

しかし、ベーシックインカムが実現されるには暴力装置である「国家への隷属」が欠かせません。ベーシックインカムの給付を受ける人はすすんで「国家への隷属」に囚われていくでしょう。国家に隷属することでベーシックインカムという特権を享受できるからです。
逆に、ベーシックインカムのために多額の納税を強いられる人は反撥することになるでしょう。しかし、ことによると、その反撥には「国家への隷属」に囚わた者たちから“非国民”というレッテルが貼られることになるかもしれません。しかもベーシックインカムは合理的な仕組みではありますから、この“非国民”のレッテルは同時に“非合理な者たち”を意味することにもなります。

現在でも“非国民”なるレッテルはしばしば見かけます。このレッテルには、それを貼ろうとする者の方が“非合理”だという認識が今は一般的ですから救いがありますが、それが逆になってしまったとしたら恐ろしいことになります。もし“非国民”=“非合理”のレッテルが出来上がってしまうことになると、それに対抗するのは非常に困難なことになるでしょう。こうしたレッテルは、隠然とした暴力として機能することになります。


というようなわけで、私はベーシックインカムについては大きな懸念を抱いています。冒頭で述べたとおり、ベーシックインカムが目指す方向性には賛成ですが、実際に制度が導入されるとなると、賛成派が予期せぬような事態に陥ってしまうのではないかと懸念します。かつてのアメリカの禁酒法のように、合理的な結果を期待したのに大変に不合理な結果になるということになりはしないかと思うわけです。

もちろん、成功する可能性がないわけではありません。「貨幣への隷属」「暴力への隷属」が「隷属の二乗」にならずに「隷属のキャンセル」となる可能性はあると思います。ただ、その可能性が高いとは思えません。

ベーシックインカムが目指す方向性を実現するためには、まず「貨幣への隷属」から逃れる必要があるでしょう。そのための有力な手段が減価する貨幣であると私は考えています。

内心は「無」である

dr.stoneflyさんがまたもや「内心について」のエントリーをあげておられます。それを受けて、思うところをいくつか雑然と並べてみることにします。

『「語られる内心のベクトル」…と受け手の構え』

そのエントリーには、愚樵流図表の改良版が掲げられていますが、私はさらに改良せずそのまま拝借します。


これまでの話は、まず内心を抱える発話者がいることを出発点にして、発話者が内心を表現するときの志向性を考えてきました。つまり発話者が受け手を想定して為される表現が「私的」なのか「公的」なのか、といったような話でした。

ここで考えてみたいのは、〔発話者→→受け手〕という一方通行の想定ではなくて、受け手もまた発話者、つまり双方がメッセージのやりとりしてコミュニケーションを行う場合です。上のdr.stoneflyさんの図でいきますと、発話者のベクトルA or Bのメッセージを受け取った受け手は、今度は発話者となって、フィードバックA or B2をメッセージとして返す、という想定です。

このメッセージのやりとりには、4通りが考えられることになります。

1.ベクトルA→フィードバックA
2.ベクトルA→フィードバックB2
3.ベクトルB→フィードバックA
4.ベクトルB→フィードバックB2
(フィードバックAおよびB2は、それぞれベクトルAおよびBと同じ性質を持つものと考えます。)

このうち4つのうち、2.と3.は同じものだと考えてよいでしょう。つまり、発話者と受け手が入れ替われば2.と3.は同じことになるわけですが、発話者と受け手とが常に入れ替わりつつメッセージを発し合うのがコミュニケーションなのですから。2.と3.とは同じことだと考えて差し支えありません。

それでは1.のケースから見ていきます。コミュニケーションを為す双方が、相手を【private】な領域にいると捉え、「告白」を行い合うコミュニケーションです。このコミュニケーションは、私がこれまで「対話」あるいは「創発的コミュニケーション」としてきたものだと考えてよいでしょう。

参考:『創発的コミュニケーション』

また『贈与とハラスメント』では、下のような図を掲げましたが、

創発的コミュニケーション

この図が表わしているのも、やはり1.のケースです。

また『贈与とハラスメント』では、次のような図も掲げました。

ハラスメント

この図が表わしているのは、2.および3.のケースになります。コミュニケーションを為す片方が常に「告白」、片方が「正当化」。こうしたコミュニケーションを「ハラスメント」と呼んだのでした。

参考:『ハラスメント(1)』

それでは、4.のケースはどうなるのか。互いが互いに「正当化」しあうコミュニケーション、これを一般的に「討論」と呼びます。

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次に考えてみたいのが、「創発的コミュニケーション」「ハラスメント」の図に出てくる「学習」です。この学習とはいったいどういうことなのか? この問いに対する答えは、dr.stoneflyさんのエントリーでの、人生アウトさんのコメントにあります。

『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』より

Q.内心を語るとはなにか?

A.
ネットをやっていて、(特に若い人は)誰もが感じたことがあるでしょう。
「自分の気持ちなんか誰もわかってくれなかった。どんなに気持ちを語っても、勝手に括られて終わるだけだ」「ネットにはかろうじて、同じような仲間が集っている」

微分的に考えて、私達の気持ちというのはどこにあるのでしょう? 一秒前に考えた私と、一秒後の私が同じである保証はどこに?(なんか哲学ぽい)
言葉で闊達に語ることのできるブロガーは、しばしば他人の気分が理解できません。言うことがコロコロ変わる気分屋な他人が、まるでアホに見えます。
しかし、「言うことがコロコロ変わる」ことと「考えが長期間変わらない」ことの間には、性質的な違いはあっても優劣は存在しません。あなたの自我は、慣れない力仕事・慣れない長距離移動・慣れない食事・慣れない他人に曝された時、激しい分裂を経験します。考えがまとまらなくなる。それを避けるために、慣れ親しんだ殻で身を守ります。(ダウン症児を抱かないことで親は、身を守った)。派遣労働者やネカフェ難民は、日々この分裂の危機に曝されているため、長期的な自画像を保つことが困難です。
意識・内心というものは、食事・会話・運動が一定のメロディーに乗っている時にはじめて、「変化しつつも安定」した状態に保たれるのです。胡蝶の夢で言うなれば、蝶と私を行き来しつつある状態そのものが、「内心」。その変化、運動こそが自我の本質。(経済の本質が、金そのものでなく貨幣の流通過程にあるのと同じ)

(下線強調は愚樵)


“変化、運動こそが自我の本質”。私ならばここを「自我」ではなく「自己」としたいところですが、それはさておき、「学習」とは、「変化、運動」に他なりません。その「学習」が“「変化しつつも安定」した状態”で推移することが、双方のコミュニケーションのなかで実現される場合がケース1、つまり「創発的コミュニケーション」です。

同様に考えると、「学習」のないコミュニケーション、つまり「討論」は内心が変化しないで固定した状態で行われるコミュニケーションだとすることが出来ます。「正当化」とは内心が変化しないことを表わす言葉であり、また逆に「学習」によって内心が常に変化を続けるならば「正当化」をしようにも不可能でもあります。

さらに考えれば、「ハラスメント」は片方が内心固定、片方の内心が「変化、運動」するコミュニケーションの在り方だとすることができます。この場合、変化する方の内心は、不安定な変化しか行うことが出来ません。不安定な変化を強いられる方が、窮地に追い込まれていくことになるのです。

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さて、ここでまた新たに次のような図を提示してみます。

3P 告白と正当化

この図は実は、【personal】【private】【public】とした図の改訂版です。どこをどう改良したかと言いますと、まず、【personal】の赤円を赤と青の二重円としました。【private】の緑は赤に変更して、【personal】の内円から切れ目なく湧出するようなイメージにしました。【public】は色はそのままで、【personal】の外円から断絶しつつ湧出しています。

で、この図はいったい何を表わしているのか? まず二重円ですが、これは【personal】すなわち個人の内心の中の無意識な部分、意識的な部分を表わしていると考えてください。無意識な部分は赤い内円で「変化する内心」、意識的な部分は青い外円で「変化しない内心」に対応します。

赤い「変化する内心」は【private】領域に連続して繋がってゆきます。『「無垢なもの」は商品化される?』でお借りした内田樹の文章、あるいは私自身のエントリーでは『身体性=脳の拡張性』が、その連続性についての記述になっています。

またこの連続性は、別の言葉で言い表しますと、「空」ということにもなるかと思います。「空」と言いますと思い起こすのが<慈円のbr/>
「ひきよせてむすべは柴の庵にてとくればもとの野原なりけり」ですが、 赤い内円はつまりは「無」であり、【private】領域にある「有」と結びつくことで「自己=私」が生じます。自己たる内心が常に変化するのも、「有」から「無」へ向かっての動きがあるからで、私たちの意識(青い外円)が見ている私(=自我)とは、この動きを静的に捉えたものに他ならないというわけです。

そしてその青い外円ですが、これは自らを「有」だと思い込み、同じく「有」である他者と対峙することになります。ここでは「有」vs「有」ですから、必然的に断絶が生じることになる。この断絶の在りようが、私が以前「知的フレーム」と呼んだものになるかと思います。

資本家は泥棒である

  renshiさんが「近代資本主義は公的泥棒だ!」と言っておられるが、近代社会において、資本家が何を盗んでいるかを示す文章に出会ったので、そのままお借りして掲示します。
純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)
(2009/11/10)
中沢 新一

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から『ゴダールとマルクス』

では、フィジオクラットが剰余価値の源泉として発見した「自然の贈与」にあたるものは、産業資本の世界では、どのような姿をとって、出現しているのか。マルクスは、それが「労働力」であることをみいだした。
 マルクスは労働力と労働をはっきりと見分けなければならない、と考えた。なぜなら、労働力は抽象的なピュシスの力をあらわしているのにたいして、労働はその労働力がピュシスの変態をとおして、物質性の世界に具体的ななにかの価値をつくりだす、そのプロセスのことをさしているからだ。労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されているのだ。
 抽象的なピュシスの力である労働力は、けっして宙をさまよっているわけではなく、具体的な人間の身体をとおして、物質性の世界にあらわれる。そこで、労働力を商品としてとりあつかおうとする場合、その価値は、抽象的な力である労働力そのものではなく、ピュシスが物質性の世界にあらわれる足場をなすところの身体が、自分を再生産するのに必要な価値で計られることになる。私たちの世界の知性は、まだ抽象的な力であるピュシスの領域を描写できる、完全な数学をもちあわせていない。いまのところはせいぜい、多様体論や散逸理論や超弦理論が、そこに近づこうとしているぐらいだ。ピュシスは潜在的(ヴァーチャル)な能産性の場であるから、それを限られた物質的表現の形態の中に、とじこめてしまうわけにはいかないのである。
 マルクスによれば、資本家はそういう労働力を、ひとつの商品として購入し、それを労働として使用する権利を得る。多様な能産性を秘めた、抽象的なピュシスの力を購入して、その力が労働によって価値を生産できるような巨人なシステムとして、私たちの資本主義社会はつくられたのだ。資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。しかも、その価格は、労働力そのものに対する価値づけではなく(そんなことを可能にする数学的方法を、まだ人類はもちあわせていない)、抽象的な労働力が物質的世界の中にもった、たったひとつの足場である、労働する身体を維持するのに必要な価値(これは労働時間で換算される)で計られるのだ。
 私たちの生きている資本主義社会でも、まぎれもない剰余価値の発生が、おこっているのである。それは、資本家が労働者から物質化された商品を買わないで、労働力自身を買うことから生まれる。労働力は、それが生産する物よりも、小さい価値しか持っていないからだ。なぜならそれは抽象的なピュシスの力として、またヴァーチャルな空間を生きているものであるから、その力が顕在化してつくりだす物よりも、この社会では、小さな価値づけしかあたえられないからである。資本家は、ヴァーチャルな力を価格どおりに買うことによって、物質に顕在化された世界に、剰余価値を発生させることに、成功したのである。等価交換という「ゲームの規則」を少しも侵害することなしに、しかも、豊穣な大地のあたえる「自然の贈与」なども必要としないで、それは実現されたのだ。
 しかし、マルクスにおいても、フィジオクラットの場合と同じように、問題なのは、「ピュシス」なのだ。資本主義社会では、人間の生命を生かし、またそれをとおしてあらわれるピュシスの力の抑圧の上に、富の増殖はおこなわれているのである。
 ピュシスの潜在力は、労働力として安く購入され、使用されて、より多くの物質的価値をつくりだしている。それはまず第一に知的に抑圧されている。私たちの世界には、まだ多様体としてのピュシスを表現する手段が欠けている。そのためにまず、労働力としてあらわれたピュシスは、均質空間を表現するための方法である時聞の長さでもって表現され、労働力の価値は、労働する身体を再生産するのに必要な生活費として、計算されたのである。
 経済活動における等価交換と、それをささえる思考法は、ことがピュシスの働きや贈与の精神にかかわるものごとの前では、転倒した観念として、現実(リアル)を抑圧する働きをするのだ。資本主義のシステムにおいて、剰余価値が発生する、まさにその現場で、転倒した観念と未発達な表現手段が、ピュシスを抑圧するのである。その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した。『資本論』に書きつがれたマルクスの言葉の途絶えた先に出現すべきもの、それは、マルクス主義などでも、社会主義経済などでもない。その先に唯一出現すべきものは、私たちの存在を、無転倒な状態にある生命と存在のリアルに一体化させていくことをめざす、弁証法的唯物論の、終わりのない探究だけなのだ。



「労働力と労働をはっきりと見分けなければならない」
ここでいう「労働」とは私が言う仕事とほぼ同義かもしれない。もしそうなら私はマルクスを誤読していたことになるが。しかし、それにしても、労働を時間に換算するという外部基準を導入したマルクスは、やはり近代的理性の枠からは抜け出せていなかったのではなかったか。

「資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。」
物質化された労働=労働力、能産性=労働(=仕事)だろうが、資本家は労働力と労働の差異を盗むのである。この差異が「余剰価値」なのだろう。
(「余剰価値」という表現そのものが近代的だが)

「まず第一に知的に抑圧されている」
こういった考え方こそが、知的抑圧の第一歩であるように思う。私たちの理性では「多様体としてのピュシスの力」を明瞭な「外部基準」として把握することは不可能ではないのか。マルクスは、資本が「ピュシスの力」を抑圧するものだとしつつも、結局、労働を労働時間に換算することで別の「外部基準」を導入してしまった。そのことが資本主義とは別の抑圧を生んだのではなかったか。

「その観念的な転倒を破壊するための手段を、マルクスは「弁証法的唯物論」と命名した」
いかに飽くなき探求が続けられようとも、「弁証法的唯物論」は「外部基準」であろう。
「ピュシスの力」の発現である労働(=仕事)が、人間の自発的な意思から生まれるのだとすれば、「外部基準」を追い求める行為は必ずどこかで「転倒」を必要とする。そして、その「転倒」とは、唯一神への信仰とおなじものではないのか?

泥棒は捕まえるべきか

泥棒は捕まえるべきか? 

まず普通ならば捕まえるべきでしょう。泥棒を捕まえることは正義だといってもいい。

が、泥棒を捕まえることがいつでも正義かというと、それは少し怪しい。

もし貧富の差が極端に大きくなって貧しい人たちが泥棒でもしないと生きていけないような社会で、泥棒を捕まえることが正義とはいえません。

世の中には、この“泥棒を捕まえることが正義とは言えない”というようなことがたくさんあります。

身近なところではスピード違反の取り締まりがそうです。たとえば制限速度40キロなのだけれども、そこを60キロで走ることが常態化している道路があったとする。その道路で車の流れに乗って60キロで走っていたの、取り締まりに捕まってしまった。捕まった者は、捉まえた警察に正義があると感じるか? 私なら感じません。なぜ私だけを捉まえたのか、という疑問は持たざるを得ない。そして、ルールに沿って私を捉まえた警察に不正義を感じることになります。

その摘発がスピード違反の取り締まりのようだと言われているのは、「小沢vs検察の最終決戦」などと報じられている現象です。マスコミは盛んに小沢一郎がルール違反をしているという。私も、よくはわからないけれども、小沢一郎はきっとルール違反、つまり「泥棒」をしているだろうとは思います。そして、その「泥棒」が良いことだとは思わない。

では、「泥棒」を捕まえることが正義だと思うかというと、それは思いません。政治の世界は「泥棒」でなければやっていけない世界だろうと思っているからです。

もちろん、「泥棒」が跋扈する世界がよい世界のはずがない。そこは改めなければならないと思います。しかし、だからとって「泥棒」は悪いというルールを恣意的に適用して取り締まることがよい世界を作ることになるとは全く思えない。「泥棒」をしなければやっていけない世界を改めるためには、「泥棒」を取り締まるより、「泥棒」をしなくてもやっていくことができる世界にすることを考えなければならない。そしてそれは、政治の世界が「泥棒」の世界であるとするならば、有権者の責任なんです。官憲に委ねるべきではない。それが民主主義というものだと思うのですね。

“泥棒はとにかく捕まえるべし”。こうした論理がまかり通った例は、世界を見渡せば「対テロ戦争」がその代表格。過去を振り返れば「オウム」でしょうか。それらの例を振り返ってみながら、今日、垂れ流されているマスコミ報道を距離を置いて眺める必要がある。それが成熟した大人の責務であると思うのです。

「無垢なもの」は商品化される?

当エントリーもdr.stoneflyさんの問題提起からの派生エントリーですが、かなりとりとめなく別方向へ話が進みます。

今回はいきなり具体例から入ります。 取り上げるのは、あの光市母子殺害事件の、被害者遺族。名前は有名でいまさら隠すこともないのですけど、何となく気が引けるのでM氏としておきます。そのM氏の、もっとも衝撃的だった会見です。あれは確か、“私が殺す”と言い放ったものだったと記憶しています。

前エントリーでの見方に従えば、M氏のあの会見は、果たして「告白」であったのか、それとも「正当化」であったのか?

私は「告白」であったと思っています。しかし、極めて特殊な「告白」であったと思う。というのも、通常「告白」が行われにくい環境であるメディアに対しての記者会見の場で、誰にも「内心の受容」を期待せず“無垢のまま”の「内心」をさらけ出したものだったからです。「告白」であれ「正当化」であれ、通常、「受容」が期待されるからこそ人は“語る”わけですから、何の「受容」も期待しない最初期の会見は衝撃的であり、異常でもありました。

もちろん、M氏が異常な状態になるのは無理からぬことで、それは当然「受容」されるべきことだと思います。ただ、当時私は、あの異常な会見が報道されたことに非常な違和感を抱いたものでした。Yahoo!の掲示板にだったと思いますが“あんな会見は報道してはダメだ。それよりM氏にカウンセリングを”といった趣旨の投稿をした覚えもあります。(当時はまだブログはなかったか、あっても私は知りませんでした。)

dr.stoneflyさんの問題提起のおかげで、今になって改めてあの会見のことを考え直していたわけですが、その中で思い浮かんだ言葉が「商品化」というものでした。あの会見でのM氏の「内心告白」は、「告白」する当人は「受容」を期待していなかったにも関わらず、社会は「受容」した。では、その「受容」の仕方はどうだったのか? と考えると、出てきた答えが「商品化」だったのです。そう考えると、私の当時の違和感にも説明がつくというもの。おそらく私は、“無垢なまま”の「内心」がメディアによって「商品」として取り扱われたことに違和感を覚えたのでしょう。そしてそれは、“無垢”であったがゆえに、貴重な「商品」として社会に「受容」されていった。

ここで私は、同時に別のことも考えました。「内心」とは人間の精神ですから、「商品」となったのは精神だということになる。人間の精神が「商品」になることは珍しくもないことですが、では、精神の対極である身体が「商品」となることは? それも“無垢”であるがゆえに商品価値が高まるというようなことはあるのか? 

そう疑問を持つと、答えはすぐに思い浮かんできました。男である私にとって“無垢な身体”という言葉からすぐに思い浮かぶのは女性の裸体です。女性の裸体には高い商品価値があることに何の抵抗もなく同意すると同時に、その“無垢な身体”を「商品」として取り扱うことに違和感も感じる。この違和感は、M氏の会見のとき同じ種類のものです。

さらに考えを進めてみます。「内心の表現」すなわち精神的側面にある「告白」=【private】志向、「正当化」=【pubulic】志向と同様の志向性が身体にもあるのか? このことは、私自身の本能に問い合わせてみれば(?)答えはすぎに出てきます。“ある”です。

「無垢な身体」に「告白」を感じる状況。それは“「わたし」と「あなた」”という状況でしょう。逆に「無垢な身体」が「正当化」として受け止められる状況は、「わたし」は不特定多数の中のひとりであり、「無垢な身体」がその無垢性を強調しているような状況、つまり「無垢な身体」の持ち主が自身の身体を「商品」として取り扱っている状況。

このように考えていくと、精神でも身体でも「無垢なもの」は、それが不特定多数の前に曝されると、つまり「公」の場に出されると、どうしても「商品化」されてしまう傾向があるのではないかと考えられるようになります。(M氏の場合、彼自身は決して自身の「内心」が「商品」として取り扱われるとは思っていなかったでしょう。「商品」として取り扱われるか否かは、自身の意志とは関係がないようです。)

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とりとめなく話を進めてきてしまったので、今までの話と、それからもともとの発端であった民主主義の原則という話と、なんとなく関係がありそうな話を他所様からお借りして、当エントリーを締めたいと思います。お借りするのは毎度の、内田樹氏です。

身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない

「誰にも迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」と言って、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。
 彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。
 なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。
 そのことはわきまえていた方がいいと思う。
 勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。
 自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。
 そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。
 こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。
 自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。
 例えば、「悪い場所」に近づくと人間の身体はその場所が発する「痛気」を感知する。そこに踏み込むと自分が汚れたり、損なわれたり、リスクが高いということが身体には分かる。
 しかし、自分の身体に敬意を持たない人間は、身体が危険信号をいくら送っても、それが感知でさない。感知しても無視する。
 病気になる人、特に精神的に苦しんでいる人の住居はたいてい「悪い場所」にある。
 不動産屋で部屋を探しているときに、駅から近くて、日当たりがよくて、買い物が便利で、家賃か安くて……だけど、「住みたくない家」というのにときどき出会うことがある。どこが気に入らないのかと問いつめられても、うまく答えられない。でも、「何だかいやな感じ」がする。こういう感じは、分かる人には分かるし、分からない人には分からない。
 こういうときに「家賃の安さ」が予期させる利便と、身体が感知している不快を比べて、後者を優先させる人が「身体を丁寧に扱う人」である。身体の判断を脳の判断よりも優先させる人、それが「身体を丁寧に扱う人」である。
 セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。
 身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体殿損を「快楽」として享受するのは脳である。
 売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。
 冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。
 メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。
 繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。
 それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。私はそういうふうに思っている(脳は徹底的に自己中心的な臓器であって、自分以外の臓器や身体部位の保全や健康をまったく斟酌しない)。
 自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か(休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。
 身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。
 自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。
 自分に敬意を払う、というのはそういうことである。
 よくテレビドラマで見るように、「何だ君は、失敬な! 私を誰だと思っているんだ!」と怒鳴り散らすことではない。
 私たちが「失敬」な態度をとるのは、自分で自分を軽んじ、自分に対する敬意を忘れて生きてきた人間に対してだけである。

子どもは判ってくれない (文春文庫)子どもは判ってくれない (文春文庫)
(2006/06)
内田 樹

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内心について〜「告白」と「正当化」

「内心」っていったい、何なんでしょうね? “困ったことになった”と自分自身に呟きつつ、困っていることを喜んでいる私がいまここにいます(苦笑)

「困る」と「喜ぶ」は言葉にしてしまうと相矛盾するようですけれども、でも、どちらも私の「内心」であることは間違いないんです。私の「内心」のなかでは“困っている”と“喜んでいる”は少しも矛盾しない。矛盾は「内心」にあるのではなくて、「内心」を表現しようとする行為のさなかに発生する――なんてことを内心で考えつつ、エントリーを書いています。

具体的に話をします。“困ったこと”になったのはdr.stoneflyさんのところで議論に首を突っ込んだからです。“喜んでいる”理由もまた同じ。

『「内心を語るな」…と、言われてもなぁ〜 』
『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』

いま、“議論に首を突っ込んだ”と書きましたけど、あそこでいろいろな方向に展開されている意見陳述にいちいち絡むつもりは毛頭ありません。dr.stoneflyさんの問題提起を自分でも考えてみようと思った。その結果がこのエントリーというわけです。

で、その問題提起とは何なのか? 私に与えられた(期待された?)のは「内心と民主主義」というテーマですが、ここでは一旦そこから離れて、「内心」が表現されるときの志向性――と書くと、またいつもの愚樵節になるのだなとお思いでしょうが――について考えてみたいと思います。

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この話は、まず私自身の過去のエントリーを参照することから始めます。

『【private】志向、【pubulic】志向』

この過去エントリーでは、次のような図を掲げました。

知情意

この図で示した【private】志向・【pubulic】志向は、当エントリーのタイトルで示した「告白」・「正当化」にそれぞれ対応します。そして、dr.stoneflyさんのところでコメントした「個」を【personal】、「公」を【pubulic】、また【private】を「私」として、図を少し修正します。

告白と正当化
(dr.stoneflyさんのところのコメントで表記した「個→個」は、ここでは「個→私」という表記に改めることにします。)

(「個」と「私」の区別が語彙からはつきにくいかと思いますが、「個」=個的領域・「私」=私的領域、と表現すれば少しは掴みやすいでしょうか? 「個」はあくまで個人ひとり、「私」は典型的な例として家族を思い浮かべてください。)

さて、「個」「私」「公」の三要素のうち、「内心」は「個」にあたります。そしてその志向性には、【private】志向(=「告白」)と【pubulic】志向(=「正当化」)の二種類があることになります。

この2つの志向性の違いの説明は、話を具体化した方が良いでしょう。dr.stoneflyさんのところでは、「過去に従軍慰安婦を強いられた女性の気持ちの激白」という例があげられていましたので、これをお借りすることにします。

この「激白」が“過去に従軍慰安婦を強いられた女性”という「個」からの「内心表現」であることに疑いはありません。問題は、それがどちらを志向していたか、「告白」であったか「正当化」であったか、ということになります。

「告白」「正当化」の違いもわかりにくいかもしれません。「激白」すなわち「告白」ではないのかと思われる方も多いでしょう。客観的に観察される現象としては、「激白」も「告白」も同じものです。その視点から見ればこの両者の違いは、現象を言語化したときに選択した語句のちがいでしかないということになります。ですが、私が「告白」「正当化」あるいは【private】志向【pubulic】志向と言っているときの視点は、そうではないのです。

ここで扱っている問題は「内心」です。「内心」を扱っているのに客観的に観察される現象を見ていても仕方がありません。視線はあくまで「内心」を発する「個」の内側に向けられなければならない。「告白」「正当化」とは、「内心表現」時の「個」の“姿勢”“構え”のことを言っているのです。

もう少し踏み込んでみましょう。例えば今、「あなた」の目の前に過去の酷い体験から心に傷を負った女性がいるとします。「あなた」はその女性の話を聞いている、つまり内心表現」を受け止めている。このときの女性の“構え”、あるいは「あなたの受け止め」の“構え”は、いついかなる状況においても同じでしょうか?

「あなた」と女性の二人だけという状況と、「あなた」は女性の話を聞いている不特定多数のひとりという状況とでは、「あなた」も女性も、“構え”は異なるはずです。私は前者の“構え”に「告白」、後者に「正当化」と言葉を当てはめてみたのです。

(二人だけなら必ず「告白」、不特定多数となら必ず「正当化」だといっているわけではありません。問題はあくまで「個」の“構え”ですから、一般的にはそういったことが言えるだろう、そこから「個」の“構え”を推測できるだろうということで、「例」を示しているに過ぎません。)

「告白」のとき、女性が「あなた」に対して示す“構え”あるいは“姿勢”は、“過去の体験で心に傷を負った私自身(=「告白」している女性)を受け入れて欲しい”というものでしょう。
(若い男女の間で単に「告白」というときは、こうした“構え”――心に傷を負ったか負わないかに関係なく「私自身」の受容を求める――を指すのが一般的なようです。つまり「愛の告白」ですね。)

対して「正当化」の時の“構え”は、“過去の体験で私が心に傷を負ったことは致し方ない、当然である”となるでしょう。そしてこのときには必ず「正当化」のための根拠が持ち出されてきます。現代ではそれは、民主主義が普遍的な思想となっていることから基本的人権となるか、あるいは科学思想から“科学的か否か”ということになるか、どちらかがほとんどでしょう。
(他にもその根拠なり得るのは、身分・性別・肌の色・民族・信仰する宗教etc、さまざまあります。)

BASIC INVESTMENT

今日はごく短く。ベーシックインカムについて。

私はベーシックインカムの構想に、基本的には賛同しながら若干の違和感を覚えていました。

その違和感の元は、「基本収入」という発想に労働者に支払う人件費を「コスト」だと見なす論理が混ざり込んでいること。そう気が付きました。

ですので、「BASIC INCOME」という発想と名称は訂正すべきだと考えます。「BASIC INVESTMENT」、「基本投資」とするべきでしょう。


この発想の根本にあるのは、

「生きているということ、ただそれだけで立派な仕事であり贈与である」

という視点です。この視点がなぜ「基本投資」となるかについては『近代的理性との訣別』シリーズで長々と触れてみたいと思いますが、簡単に少しだけ。

幼い子どもにできるのは、「ただ生きていることだけ」です。親は社会から収入を得て子を養うわけですが、親のその行為は投資だと見なすことが出来ます。しかも、親は必ずしも合理的(親自身の利益を最大化すること)を基準に投資するわけではありません。むしろ子の利益を最大化することを目的に投資を行います。

「基本投資」とは、親が子に対して行う投資を社会全体で行うべし、というものです。社会とって子とは、社会の成員ひとり一人ということになりますから、老い先短い老人だって当然、余命幾ばくもない病人だって、当然投資の対象となります。

近代的理性との訣別(4)

恥ずかしげもなく第4弾。

科学

第3弾の締めくくりは“「期待の合理化」が起こる別の例を示す”ということでした。そして、第4弾のサブタイトルは「科学」です。そう、“別の例”とは科学のことです。当エントリーは、科学を自律的理性と他律的理性の図式で語ってみたいと思います。

話をまずここから始めたいと思います。

天動説・概要

2世紀にクラウディオス・プトレマイオスによって体系化された。地動説に対義する学説である。地球が宇宙の中心にあるという地球中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory) (=地球を中心とした構造模型)」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される(しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観のすべてが天動説であると誤解されることが多い)。13世紀から17世紀頃までは、カトリック教会公認の世界観だった。

古代、多くの学者が宇宙の構造について考えを述べた。古代ギリシャでは、アリストテレスやエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。

それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのがプトレマイオスである。ヒッパルコスの説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、惑星の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的にすべてを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、プトレマイオスの天動説とも呼ばれる。

天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを公転する。しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。恒星は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。

天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。すべての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世キリスト教神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観とみなされていた。14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球のまわりを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。

更に天動説は、当時においては観測事実との整合性においても地動説より優位に立っていた。すなわち、もし地動説が本当であれば、恒星には年周視差が観測されるはずである。しかし、当時の技術ではそのようなものは見当たらなかった。

wikipedia 天動説 より 文中の下線強調は愚樵


天動説は、今日では非科学的な学説の代表選手としてあげられるものです。しかし、私は天動説を非科学とすることには若干異論があります。科学を「期待の合理化」であると考えるならば、実は天動説も立派に科学であるといえるのです。

では、それはどういう理路によるものか? 

“天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。”

引用でも強調しましたが、ここが重要な部分です。この文章を「期待」という言葉を使って言い換えますと、次のようになります。 ”天動説は、当時の哲学や思想が求めていた「期待」に沿った天文学上の計算方法である。”

当時の「期待」とは、“地球が宇宙の中心である”という「期待」です。中世ヨーロッパを支配したカトリック教会の「期待」は、もっと具体的にイエス・キリストがこの世に生を受けた場所が宇宙の中心である”という「期待」。天動説は、この「期待」を具体的に体系づける学説、すなわち「期待を合理化」する学説であった、というわけです。

天動説に対抗する学説、地動説を唱えたのがコペルニクスだということはよく知られた事実ですが、しかし、コペルニクスは当時の「期待」に反することを怖れていた人物でもありました。

・・・
迫害を恐れた彼は、主著『天体の回転について』の出版を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。

「天体の回転について」とローマ教皇庁

1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天体の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。

wikipedia コペルニクス より 文中の下線強調は愚樵


要するに“「期待」を否定するものでありません”という条件付きで閲覧が認められた、ということです。当時の「期待」を真っ向から否定するのは、ガリレオの役回りということになります。

そのガリレオについては、こちらを取り上げてみます。

物理学

ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。

ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている[1]。 この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(Viviani )の創作で、実際には行われていない、とされる。

実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。

アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。

wikipedia ガリレオ より 文中の下線強調は愚樵


ガリレオはカトリック教会の「期待」を否定しただけではなくて、アリストテレスの自然哲学の「期待」をも否定しました。“重たいものほど早く落下する”というのが、アリストテレスの「期待」です。

しかし、この「期待」はアリストテレスだけが持つものではありません。人なら誰しもが同様の期待をもつ。体積が同じである鉄の玉と木の玉を持ち比べれば、誰だって比重の大きな鉄の玉の方により大きな力を感じます。「大きな力」→「大きな速度」と「期待」するのは、人の持つ感覚装置の作りからすれば自然なことではあるのです。みんなが「期待」を共有したために“物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しない”という「赤信号」は見落とされ、「期待の合理化」がおきた。そしてその「合理化」によって困る人はいなかった、つまり「赤信号」に恐怖を感じる人はいなかった。だから、アリストテレスの「期待」は長らく否定されることがなかったのです。

その事情は天動説でも同じで、カトリック教会の「期待」を「合理化」しても誰も困る者はいなかったのです。

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さて、話を冒頭に戻します。私は当エントリーの冒頭で、“科学は「期待の合理化」”だと言いました。そう言いながらその後示したのは、コペルニクスとガリレオがそれぞれカトリック教会とアリストテレスの「期待」を打ち破ったということでした。

コペルニクスとガリレオが「期待」を打ち破ることが出来たのは、この2人が示したのが「事実」であったからだ―― というのが一般的な科学観でしょう。それはその通りです。が、科学は誰もがご存知の通り、コペルニクスとガリレオで終わったわけではありません。その先もずっと進化を続け、今もその歩みは留まることを知りません。その、科学を進化させる要因が「期待」。なぜそうなるかというと、示された「事実」は完全ではなく未完成の「事実」だからです。未完成であるからそこ「期待」が生れ、「期待」が科学を進化させるのです。

コペルニクスとガリレオが示した「事実」は、ニュートンによってひとつの「期待」として体系づけられました。すなわち万有引力の法則です。

万有引力

万有引力(ばんゆういんりょく、universal gravitation)は、重力の一種で、質量を持つ物質・エネルギーなどが互いに引き合う引力である。

自然界に存在する基本的な力であり、アイザック・ニュートンがその普遍的法則を解明した。俗にニュートンが重力を発見したというのは間違い。電磁気力では引力と斥力があるのに対し、重力(万有引力)では引力しか存在しない。

重力と呼ぶ場合には、質量に加速度を与える力全般を意味する。重力には、地球自転の遠心力のような慣性の力や、一般相対論で予言される慣性系の引きずりによりる力も含まれるが、それらは万有引力ではない。

重力(または重力相互作用)の正体は、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論によって、質量を持つ物体が引き起こす時空の歪みであると説明された。これに対して、'万有引力'という用語は、ニュートンの定式化した重力の意味で用いられる傾向にある。ニュートンの万有引力の法則は、自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)においてニュートンが説明している。

ニュートン力学と重力

ニュートンは、太陽を公転する地球の運動や木星の衛星の運動を統一して説明することを試み、ケプラーの法則に、運動方程式を適用することで、万有引力の法則(逆2乗の法則)を発見した。これは、『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』という法則で、力そのものは、瞬時すなわち無限大の速度で伝わると考えた。式で表すと、万有引力の大きさFは、物体の質量をM,m、物体間の距離をrとして、・・・

wikipedia 万有引力 より 文中の下線強調は愚樵


万有引力は“自然界に存在する基本的な力であり、アイザック・ニュートンがその普遍的法則を解明した”。

この記述が正しいことを今日の私たちは知っていますが、同時にニュートンの解明が100%正しかったわけではないことも知っています。その100%でなかった部分がここ。

“力そのものは、瞬時すなわち無限大の速度で伝わると考えた。”

ここは後にアインシュタインによって、力の伝達速度も光の速度と同じであると訂正されました。ニュートンが想定した宇宙は「絶対空間・絶対時間」の均一な無限空間だったわけですけれども、この想定がニュートンの「期待」でしかなかったことは、アインシュタイン後の世界に生きている私たちにとっては既知の事実です。すなわち、ニュートンの「期待」を打ち破ったのがアインシュタインの相対性理論だったというわけです。

アインシュタインの相対性理論が発表される直前の物理学は、ニュートンの「期待」を実現させようと様々な仮説が唱えられていたようです。その代表が「エーテル」でしょうか。

カトリック教会の「期待」をコペルニクスとガリレオが打ち破ったのと同様に、ニュートンの「期待」はアインシュタインが打ち破った。カトリック教会の「期待を合理化」したのがプトレマイオスの天動説であったとするならば、19世紀後半の物理学の世界で探し求められたエーテルもまた「期待の合理化」だったと言ってよいはずです。そして、エーテルの探求は立派に科学的な行為です。迷信に基づいた非科学的な行為であったとの主張は誤りだとして退けられることでしょう。だとするならば、地動説も立派に科学的な学説であったといえるのではありますまいか?

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再び話を元に戻しましょう。

これまで見たとおり、“科学は「期待の合理化」である”とするならば、天動説も立派に科学ということができます。しかしその過程で同時に見えてきたのは、「期待の合理化」だけが科学ではないということでもあります。科学は「期待の合理化」と「期待の打破」の相互作用によって進歩するものだということです。その進歩はもちろん、現在も継続中でしょう。

そういえば最近、宇宙論の進歩について下記のようなニュースがありました。

謎の2粒子は正体同じ!?阪大教授が新宇宙理論

 ノーベル賞を受賞した南部陽一郎博士の理論からその存在が予測されたヒッグス粒子が、宇宙を満たす謎の暗黒物質(ダークマター)と同じものであるという新理論を、大阪大の細谷裕教授がまとめた。

 “二つの粒子”は、物理学の最重要テーマで、世界中で発見を競っている。暗黒物質は安定していて壊れないが、ヒッグスは現在の「標準理論」ではすぐに壊れるとされており、新理論はこれまでの定説を覆す。証明されれば宇宙は私たちの感覚を超えて5次元以上あることになり、宇宙観を大きく変える。

 ヒッグスは、質量の起源とされ、普段は姿を現さないが、他の粒子の動きを妨げることで、質量が生まれるとされる。一方、衛星の観測などから宇宙は、光を出さず安定した暗黒物質で満ちていると予想されている。細谷教授は、宇宙が時間と空間の4次元ではなく、5次元以上であると考え、様々な粒子が力を及ぼしあう理論を考えた。その結果「ヒッグスは崩壊せず、電荷を持たない安定した存在」となった。

 欧州にある世界最大の加速器(LHC)では最大の課題としてヒッグスの検出実験が行われる。ヒッグスが不安定なら、崩壊時に観測が可能だが、細谷理論のように安定だと観測できない。ただ、新たな実験手法で検証は可能という。

 一方、暗黒物質候補も09年末、「発見の可能性」が報告されたが、細谷理論と矛盾しないという。

 細谷教授は昨年8月に欧州の物理学誌に新理論を発表。秋に来日した南部博士にも説明した。南部博士は「今まで誰も気づかなかった見方で、十分あり得る」と評価したという。

2010年1月5日の読売新聞 より 文中の下線強調は愚樵


ダークマターだのヒッグス粒子だのといった内容は私にはさっぱりわかりません。が、下線を引いた南部博士の言葉は“科学は「期待の合理化」+「期待の打破」”だということが伺えます。すなわち、細谷教授の新理論は「期待の打破」となるかもしれない、ということです。“今まで誰も気づかなかった”というのは、“新しい「期待」”だということに他ならないわけですから。

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さて、かなり長々と続けてまいりましたが、未だに自律的理性・他律的理性の話には至りませんでした。続きは第5弾に回すことにしまして、第4弾はこれにて一旦切り上げることにします。

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プロフィール

Author:愚樵
職業はきこり。
和歌山県の熊野地方在住でしたが、現在は甲州にて棲息中。

モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回すのは相変わらず。

gushou@work.odn.ne.jp

      

      

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