愚慫空論

『ヒミズ』(追記あり)


今朝の地震は気味の悪いものでした。

ここ富士吉田では大きな揺れではなかったけど
 揺れている時間が長かったから
  どこか遠くで大きな地震があったなと思ったら
   福島で震度5弱とか。

そうこうするうちに津波警報まで出て
 被害はたいしたことはないようだけど
  嫌な感じはぬぐえません。

いい加減、原発、止めろよ。





さて、『ヒミズ』です。
 園子温監督。

見たには見たけど、スルーしようと思っていた。
 だけど、今朝の地震で気が変わりました。


感想を一言で評するなら、潔い。

園子温監督の作品は幾つか見たけど、
 これまではよくわかりませんでした。

ここの作品については、
 「伝えたいこと」は、わからなくはないんですけどね。
なぜ、そんな伝え方をしたいのか? 
 ここがよく飲み込めなかった。

だけど、『ヒミズ』でわかったような気がしました。
 言い直すと、僕の中で言語化された。

言語活動によってなされる人間の思考はデタラメです。
 いかようにも世界を切り刻み、いかようにもつなぐことができる。
 
園子温さんは、そのデタラメさを、取り繕うことなく提示する。
 そこが潔い。
  潔さがあるから、表現の過剰さに、一本筋が通る。

ちなみにこの「潔さ」は
 『絶歌』の「正直さ」に通じるような気がします。
  もっともこれは、僕の言語作用のデタラメかもしれませんが。
 

園子温監督の「筋」はわかったような気はしたものの
 『ヒミズ』自体はいささか混乱した作品という印象を持ちました。
  制作中に大地震があって、途中でプロットを大幅に変更したとのこと。

『ヒミズ』には原作のマンガがあるらしく
  僕は未読なんですが
   調べてみると、バッドエンドらしい。

映画の方は、ハッピーに向かって終わっている。
 そうせざるを得なかったことは、わからなくはありません。
  わからなくはないけど、とってつけた感じはぬぐえない。


ストーリー全体の枠組みは「がんばれ!」というメッセージです。

主人公は中学生の男女。
 染谷将太と二階堂ふみ。
 住田クンと茶谷サンです。

「ガンバレ!」のメッセージは、わざとらしく出てきます。
 中学校の授業だか、ホームルームだか。
 教師が薄っぺらい「がんばれ」を自己陶酔気味に展開し、住田クンに絡む。
  住田君は一蹴する。
  茶谷サンは歓喜して叫ぶ。
  
  ふつうバンザイ!

最後
 父親を殺してしまって普通でなくなった住田君は
  「ふつう」を取り戻すために
   茶谷サンに「ガンバレ!」と声を掛けられながら
    自首するために警察署に向かって駆けていく。


「ふつう」を奪ったものは何か?
 象徴するシーンが中程にあります。

住田クンのお友達だかパラサイトだかの老人(渡辺哲)が殺人するシーン。
 その行為の背後でテレビに映った宮台真司さんが「原発の不条理」を説いている。

 住田クンを襲った不条理。
 福島を襲った不条理。

ふたつの不条理の二重写し。


けど、やっぱり、映画の主題は住田クンの不条理の方です。
 園さんが二重写しにしたい意図はわかるけど、とってつけた感は否めない。

こういったことが可能なのも
 言語思考はデタラメで
  いかようにも切り結ぶことができるから。


でも、全部が全部、デタラメというわけではありません。
 とってつける前の『ヒミズ』の方は、感性に沿った説得力があります。

たとえば、音楽。

モーツァルトのレクイエムの冒頭部分が繰り返し出てきます。
 これ、とても嫌な使い方なんですけど
  だからこそ効果的。

以前に書きましたが、この音楽は底の見えない深淵に向かって沈み行くような音楽です。
 だけど救いがある。
  それは人間の「生の声」です。

  楽器の音も心地よいものだけど
 感覚的な「救済」という点において
人間の声に優るものはない。
 ベートーヴェンが『第九』において提示したところのもの。

園さんはその「救い」を切り捨てて映画に用います。
 キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』を倣ったのか
  同じフレーズが壊れた時計のように何度も何度も出てくる。
   「救い」を切り捨てられた音たちが、何度も何度も。

こういう“嫌な”感性には、うなってしまいます。

挙げ句がバーバーの弦楽のためのアダージョ。
 『プラトーン』からパクったな。


感覚的救いという観点で見るならば
 すなわち「生」という点で見るならば、
  文字通り目を惹いたのは
   二階堂ふみの「乳房」でした。


僕がこの『ヒミズ』において、クライマックスだと感じたところ。
 ストーリー全体の方向性が決定づけられるシーン。
  それは、住田クンの父親(光石研)の演技でした。

予告編の動画にも出ています。
 住田クンに

  オマエ、本当に要らないんだよ。

と"愛情を込めて”伝えるところ。

こういう生理的に"嫌な”シーンが、園子温監督の真骨頂なんでしょうね。
 見事に気持ち悪いシーンになっています。

言葉が伝えるメッセージと身体が伝えるメッセージが見事に真逆。
 壊れています。
  壊れたメッセージを伝えられて
   受け止めて
    壊れる。

 まったくもって「健全」です。
 身体性に沿っている。

ここから『罪と罰』が始まる。
 住田クンはラスコーリニコフになり
 茶谷サンはソーニャになる。

そしてソーニャは「ふつう」で住田クンを救済しようとする。 
 茶谷サンだって不条理の中に生きているのに。
  不条理の中で生きているからこそ。

その「ふつう」をもって救済を試みるシーンで
 強調されているのが「乳房」。
  「生」。否、「性」。
ここもまた身体性に沿っています。


以上のように記すと、まったくデタラメではなさそうなんですが
 全体としてみると大きな違和感があります。
  少なくとも、僕は大きな違和感を感じる。
たとえばいえば、エナジードリンクを飲んだような感じです。

身体に「効く」成分は入っていて、かなり強烈に効く。
 だけど、その効き方は違うんじゃない? という感触。
  飲めばいっとき元気になるかも知れないけど
   それは「元気の前借り」だよ、という。

こうした映画が「効く」人はそれなりにいると思います。
 だけど、それは危ういんでないかい?

この映画が謳い上げられる「ふつう」は想像上の「ふつう」であって
 確かに【アタマ】はそういう「ふつう」を欲するけれど
  〈からだ〉のほうは違うんじゃないかな?

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〔追記〕 『ピダハン』 〔読了〕


ようやく読み終わりました。



楽しくて、かつ充実した読書体験でした。

 読了前のエントリーはこちら (^^)つ リンク

もっとも印象に残った場面の記述。

コーホイとわたしが聖書の翻訳に役立つと思われる言葉についてやりとりしていたときだ。

まずわたしが尋ねた。「誰かをとても好きだとして、その相手をなんと呼ぶ?,」

「bagiai バギイ」コーホイが答えた、

わたしはすぐに試してみようと、笑みを浮かべて「きみはぼくのイだ」と言ってみた.

「違うよ!」コーホイは笑いながら否定した。
「どうして、ぼくを好きじゃないのか?」
「好きだよ」コーホイは笑いを噛み殺しながら答えた。「おれはおまえが好きだ。おまえはおれのバギイだ。だが bagiai イというのもあって、それは好きでない相手のことだ」

その解説をわたしが理解できるように、コーホイはふたつの単語をゆっくりと口笛で表してくれた。

わたしはようやく違いを聴き取ることができた。友人にあたる言葉はバギアイで、最後のaにだけ高い声調がくる。ところが敵を表すバギアイはaの両方が高くなる。このささやかな違いがピダハン語では友と敵を分ける違いだ。このふたつの単語はピダハンにとっては相通じるものをもっている,バギアイ(友)とはもともと「触っているもの」愛情を込めて触れる相手という意味であり、バギアイ(敵)には「団結を起こさせるもの」という意味があるのだ



ビックリ仰天です。ピダハン語って、こんな言語なんだ...
 イントネーションで、言葉の意味が正反対になる言語。

イントネーションの違いで、言葉の意味が異なる言語は、日本語もそうです。
 たとえば「くも」。漢字表記だと「雲」もしくは「蜘蛛」。
 「雲」と「蜘蛛」の違いは、話し言葉であるならイントネーションで区別されます。
  関東と関西では、イントネーションの違いが正反対というおまけつき。

そんなわけだから
 イントネーションで言葉の意味が違うということそのものは
  それほど驚くべきことではない。

 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」
   という箴言がありますが
 ピダハン語の「バギアイ」は、
  この箴言を一語に凝縮したようなものだと言っていいと思います。

言葉の身体性です。

「愛」には愛の身体反応がある。
「憎悪」には憎悪の身体反応がある。
一方で、「無関心」には身体反応がない。

身体反応があることを前提に語義の「愛」の対義語を問うと
 「憎悪」が答えです。
身体反応の有無を軸に対義語を問うと
 「無関心」が答えになる。

日本語を含め、僕たちの言語は、
 身体反応と言葉との関係がデタラメです。

  愛はなぜ"愛”と呼ぶのか、
  友はなぜ"友”と呼ぶのか。

シニフィエとシニフィアンの関係は恣意的、つまりデタラメです。

ところがピダハン語は、必ずしもそうではないという。
 「友」と「敵」というシニフィアンは
  「バギアイ」というシニフィエを共有しています。
シニフィアンを区別するのはイントネーションです。
 「バギイ」か「イ」かで意味が異なる。

イントネーションは身体の作用です。
 「バギイ」という言葉が催す身体反応。
 「イ」という言葉が催す身体反応。
   その違いは音素の違いよりももっと身体に近い作用によって区別される。


著者ダニエル・L・エヴェレットさんがあげるピダハン語の最大の特徴は
 直接体験の原則
というものです。

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない。



エヴェレットさんがピダハンたちと暮らすことになった目的はキリスト教布教です。
 キリスト教布教のためには聖書のおしえを伝える必要がある。
  「伝える」には翻訳という作業が不可欠。

キリスト教布教者は、それまでの経験ではどの部族にも存在した創世神話を
 聖書を伝えることで上書きしようと試みてきた。
  そして、その試みはたいてい成功を納めてきた。

ところが、ピダハンには上書きされるべき創世神話がない。
 それどころか、ピダハンの言語には創世神話を造り出す能力がない。

  直接体験の原則。
  言語の身体性。

ピダハン語は言語と身体のつながりが断たれていないがゆえに
 デタラメにはなりえない。
  〈世界〉の整合性が、そのままピダハン語の整合性になる。


だとするなら、
 ピダハン語には、ラカンの三界の概念も通用しないということになるでしょう。

  現実界
  象徴界
  想像界

ラカンは、、現実はけっして言語では語りえないといいます。
 語りえない世界――現実界です。
が、私たちは、語り得る世界に暮らしている。
 象徴界で暮らしている。

現実界と象徴界は分離してしまっています。
 その分離をなんとかして接合しようとするのが想像界。
後期ウィトゲンシュタインがいうところの「言語ゲーム」の回答集が想像界。
 だが、そもそも分離しているがゆえに、回答は難しい。
  「言い当てる」というくらいのことしかできない。
   「言い当て」の世界が想像界。

現実界を〈からだ〉の世界だと考えるなら
 象徴界は【アタマ】の世界だとすることができるでしょう。

現実界と象徴界の分離は
 〈からだ〉と【あたま】とが分離したことの証左と考えられます。
言語が〈からだ〉と【あたま】とを分離した。
 言語は現実界を分割し、デタラメに接合する。
  〈世界〉がデタラメに見えるのは
    私たちが象徴界に生きていて
     かつ、言語のつながり方がデタラメだからでしょう。


言語のデタラメの象徴はパラドックスというやつです。
 有名なところでクレタ人のパラドックス。
  自己言及のパラドックスともいいます。

あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。
 クレタ人の言が真なら、その言及が偽となり、言は偽になる。
 クレタ人の言が偽なら、その言及は偽であり、言は真なる。
  【アタマ】の中だけの言語操作であり、身体性は皆無です。

そもそも「クレタ人」という〈世界〉の分割からして
  身体性が棄却されてしまっています。
   クレタ人はある人の属性ではある。
     属性は「主に従うから「属」なのに
      属が主に置き換わっている。
     その「置き換わり」の際に、身体性は棄却される。
   
身体性が棄却されているがゆえに、アタマ言語はいかようにも繋がることができます。


ノーム・チョムスキーやスティーブン・ピンカーといった学者たちが、
 言語と文化とを、まったく別次元のものだと考えたのも、
  言語が身体性を持たなくなったということを前提にすれば、
   おおいに頷けることです。
    トートロジーだとすらいってよいかもしれません。


ところが、どうやらピダハンたちには、このトートロジーが成立しない。
 現実界と象徴界は分離していない。
  ゆえに「言語ゲーム」も成立せず、想像界もない。

ピダハンたちにとって、言葉とは、身体表現の一部に過ぎない。
 他の文明人たちのように
  身体表現を超えた「真実」とやらを言語に託すことをピダハンたちはしない。


ピダハン語には「数」の概念は存在しません。
 が、ピダハンたちが数を数えないわけではない。
  数を数えるという身体行為は、ピダハンもする。
 ただ、「数」という超身体的真実は認識しない。
  その必要がない。

ピダハン語にリカージョンが成立しないのも
 超身体的真実不成立の原則によるものでしょう。


(前略)
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。そんなときわたしは、神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。

わたしたちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、とわたしは言った。.以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、わたしは幸せになり、人生もよくなった。急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、まったく考えていなかった。自分では意味をなすと思っていた。そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた――これを話せば、神とともにある人生.がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。

「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた、彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、実際のところこの話はまったくの逆効果、彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。



この記述は、現実界と象徴界とが未分離の人たちの、ごく自然な反応だと思います。
 ただ、敬虔なキリスト教とには衝撃的な体験であろうことは想像に難くない。
 
こうした体験を否定的に侮辱と捉えても、何ら不思議ではありません。
 なのに、エヴェレットさんはそうは捉えなかった。
  敬服に値すると感じます。




こんな話を思い出します。
 進化という現象の機序についての話です。


生物が生存するには栄養素が必要です。
 栄養素は食物を摂取し、消化器官で消化することによって吸収される。
  消化という現象には、酵素という生化学物質が作用します。

栄養素Xを含む食物Aがあるとします。
 そこには、Aを消化する酵素F(A→X)が存在します。

ところがあるとき、何らかの原因でF(A→X)が生成されなくなった。
 F(A→X)の生成プログラムである遺伝子情報の欠落といった事故によって。

そのままでは生物は生き残ることができません。
 が、その生物には、
  Aから生成されうるBをXへと消化する酵素F(B→X)が存在した。
ならば、Bを摂取すれば、その生物は生き残ることができます。

ただ、Aは生存環境に豊富にあるものの、Bは乏しい。

そうした状況で進化が起きます。
 その生物は、AをBへと消化する酵素F(A→B)を生成することが可能になった。
  突然変異でF(A→B)を生成する遺伝プログラムが書き加えられた。

そうなると、生物は、環境中に豊富にあるAを摂取することが再びできるようになります。
そして
 
 A / F(A→X) / X

という消化回路に替わって

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という消化回路が新たに成立する。

これが進化という現象のモデルケースなのだそうです。



人間が〈生きる〉ためには、〔しあわせX〕という栄養素が必要です。

〔しあわせ〕という栄養素もまた、環境から食物Aを摂取することで得られる。
 「食物A」は言語という消化酵素によって〔しあわせX〕に分解され、吸収されます。

ピダハンの言語は、「A」から直接〔しあわせX〕へと消化できる酵素のようです。
 ここでいう「A」とはは、素のままの自然環境です。

現代の私たちは、「A」から直接〔しあわせ〕を生成することができません。
 「A」をいったん、人工環境「B」へと転換しないと〔しあわせX〕を生成することができません。

私たちの中に存在する回路は

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という回路です。

しかも、どうやら酵素F(B→X)の性能が良くないらしい。
 F(A→X)に比べ、質の悪いXしか生成できない。
  ゆえに〔しあわせ〕になるには大量のXが必要とされる。
   Xへの大量の需要は、大量のBへの需要となり、
    大量のBへの需要は、大量のAへの需要となる。

 その結果、自然環境Aは、急速に枯渇しつつある。

そして具合が悪いことに、
 酵素F(A→X)を使う回路をもつ形態よりも、
 酵素F(A→B)と酵素F(B→X)を使う形態の方が生存能力が高いらしい。

1酵素で済む回路のほうが2酵素必要な回路よりも合理的なはずなのに、
 不合理なものの方がなぜか支配的になる。
  進化という現象においてよくみられる不合理が、ここにも存在するようです。




想像をさらに逞しくしてみましょう。



この本によるならば、現行人類ホモ・サピエンス・サピエンスは
 先行する人類ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスを絶滅に追いやったそうです。

その試みは二度行われたそうです。
 10万年前の一度目は失敗し、
  7万年前から始まった二度目で成功した。

一度目の二度目のあいだにあったのが、認知革命。

ホモ・サピエンス・サピエンスは
 認知革命を経ることで
  虚構を操ることが可能になった。
   より大きな集団(社会)の運営が可能になった。
    大きな集団の力で、ネアンデルターレンシスを追い詰めた――
あくまで推測ですが。  

虚構を操ることが可能になるためには、ある前提を満たさなければなりません。
 現実界と象徴界の分離です。

認知革命が言語革命だったと想像することは、難しいことではありません。

(だとすると、なぜ、ホモ・サピエンス・サピエンスであるはずのピダハンが
 アマゾンで棲息しているのかが大きな謎になりますが。
  ピダハン語は認知・言語革命以前の言葉なのか?  
  あるいは、革命の揺り戻しによって性質した言葉なのか?)


旧約聖書に「イサクの燔祭」という逸話があります。

神に命じられたアブラハムが
 年老いて生まれた一人息子のイサクを
  生贄に捧げるよう神に命じられ
   その命令を実行しようとした。

こんな逸話はピダハンたちには爆笑ものでしょうが
 この逸話から推測されるのも身体性の棄却。


乱暴な推測です。

ホモ・サピエンス・サピエンスは言語革命によって
 身体性を破却できる方法を確立したがゆえに
  ネアンデルターレンシスとの生存競争に勝ち抜くことができた。

ネアンデルターレンシスは、きっと、生存競争など望んでいなかったでしょうけど。

旧約聖書の神が
 裁きの神であり
 戦いの神であるという事実は
  身体性を破却する言語革命の残滓を色濃く残しているからかも。 
 
繰り返しますが、乱暴な推測です。

トランプ大統領...


最近、小林よしのりさんに注目しています。

注目しだしたきっかけは、宮台真司さんと絡むようになったから。
 なんだかんだいって、宮台さんは注目しています。

こんな本が目にとまって読んでみたんですね。
 目に留まって買ったはいいが、読んだのは最近なんですけど。 


感心はしませんでしたが、まあ、言いたいことはわかります。

それから、小林さんにわりと共感するのは、天皇制についての発言です。
 "保守”ですね。
   賛同するかどうかはともかく、考え方にスジは通っていると思います。

また、こんな本も読んでみました。



これにはかなり感心しました。
 小林さんの根っこにあるのは「反抗心」なんだと思いました。
  僕と同じ七種体癖かな、とも。笑。

権威に屈するな――。
 それは正しい。
だけど、そういう小林さんが権威になりつつある。
 その矛盾を感得してはいるようだけど....

いろいろ思うところはあるにせよ、小林さんの考え方、感性は、
 時代の半歩先を行っている
  ――というのが、今のところの所感です。
 だから、注目しています。

トランプ大統領誕生のニュースについても、小林さんはどう考えているのかな?――と。

こんな感じのようです。

 (^_^;)つ 『トランプ大統領誕生、愉快だな』

 グローバリズムは終焉?
   んなわけ、ないでしょ。

確かに、今回の結果はグローバリズムへの反発です。 
 僕とても、現状のグローバリズムという名のアメリカリズムには反感を持っています。
  だから、その部分は共感します。

だけど、共感とは区別して考えなければならないことがある。

グローバリズムは必然です。
 グローバリズムという体制が出来上がったからこそ、アメリカリズムがあった。

アメリカリズムに、アメリカそのものが反発することは愉快です。
 でも、アメリカリズムとグローバリズムを混同してはいけません。

グローバリズムは技術の進展によって出現した〔システム〕です。
 技術の進展は人類史の必然ですから、グローバリズムも必然。
  必然に反感を抱くのは、保守の一つの在り方ではありますが、
   とくに「反動保守」と言います。

小林よしのりさんの天皇制に対する発言は
 真正保守だと思います。
  女系になっていくという歴史的必然を踏まえた上で
   天皇制を保守しようとしている。
    だから、共感します。
  
  必然を無視して反動に墜ちている連中に対する批判も痛快に感じます。

だけど、経済体制については、小林さんは反動保守だと思う。


反動は、良い結果をもたらしません。
 なぜかというと、【怨】の発露かだからです。
  トランプ大統領誕生は、
   かつては繁栄を満喫したアメリカ中産階級が
    没落を強いられた結果による【怨】。
   宮台式で言えば「感情の劣化」です。

【怨】や「感情の劣化」は、それを晴らすことができれば、一時的には愉快です。
 だけど、良い結果はもたらさない。


繰り返します。
 グローバリズムは歴史の必然です。
  必然の秩序なんです。

使い古された例えで言いますが、
 秩序とはリヴァイアサンという怪物です。



トマス・ホッブス著『リヴァイアサン』の、有名な口絵です。
 ここでは「リヴァイアサン」は王制という形をとっています。
  つまり、歴史ということです。
   歴史の一場面です。
 かつては王制という技術的つながり方をしていたということです。

今日では、王制ではなく、グローバリズムがリヴァイアサンです。
 王制からグローバリズムへの歴史的変化は、
  つながりの技術の変化の結果です。

リヴァイアサンは怖ろしい怪物ですが、効用があります。
 より怖ろしいベヒモスという怪物を抑え込んでいる。

リヴァイアサンもベヒモスも、ともに聖書に登場するバケモノだそうです。
 リヴァイアサンが秩序の例えなら、ベヒモスは無秩序の例えです。

【怨】や「感情の劣化」が召喚する怪物は、ベヒモスでしょう。
 直観ですけどね。

リヴァイアサンが退けられて、ベヒモスがやってくるかもしれない――
 杞憂で済めばいいし、そのように祈りますが、楽観的ではいられない。
  愉快にはなれません。



ベヒモスを制御するには、剥き出しの暴力が必要になってくるでしょう。
 剥き出しの暴力の制御には、より粗暴な権威が必要になるはずです。

権威に屈するな、は確かに正しい。
 だけど、より正しいのは屈服を要求するような権威を呼び出さないことのはず。

権威への反抗を正義としてしまうと
 その正義を全うするために、
  より強力な権威を呼び出したいという願望を抱きかねません。

小林よしのりさんの言う「愉快」に、僕は、そのような【願望】を感じてしまいます。
 そして、それが「時代の半歩先」だとしたら――。

『神様ドォルズ』


このアニメ作品、放映してのは何年前だったけ?



けっこう、好きでした。
このオープニングの曲もお気に入りでした。

OPの曲のタイトルは『不完全燃焼なんだろ?』なんですけど
 アニメの方も不完全燃焼のまま終わってしまいます。
  続き(2期)があるのかと思って楽しみにしていたけど、それもなくて。
    なんだか残念なアニメでした。

で、いつだったか、ブックオフに行ってみたら、原作の漫画が
 100円(税抜き)であったんで、買い込んでみました。
  それで不完全燃焼も、多少、解消されました。

で、で、先日
 グチャグチャになった本を整理していたら、この漫画がでてきた。
  手にとってパラパラッとめくってみると、目にとまったのがこの場面です。



なぜ、よりにもよって、こんなのが目に留まるんでしょう?
 そういうつもりではなくても、「見たいもの」を見てしまうんですね。笑。

『神様ドォルズ』は、特にオススメというわけではありません。
 たまたま目にとまった場面が、ハマっただけ。



   「お前の言うように、この村がたとえ歪んでいるとしてもだ」

   「そんなものは
     この国の
      この世界の
       どこにでも当たり前に存在する歪むに過ぎん」 
   「あえて
     あげつらうのも
      バカバカしいほどにな」
   「この村は
     特殊かもしれないが特別ではないのだ

   「そして我々は
     生まれてくる社会を選べん」

   「なら
     与えられた条件の中で
      うまくやってゆくしかあるまい?



あらためて気がつきましたがこのセリフ、名言です。
 赤字にした部分以外は、事実です。

赤字は村の支配者の主観です。
 だけど、支配者だけのものではありません。


マルクスによれば、

 ある時代の支配的イデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギー

だそうです。

赤字は支配者のものであると同時に
  ほとんどの社会構成員によって共有されている支配的なものでもある。

 支配階級のものであると時に、被支配階級のものでもある

ということです。

   この【同】は、僕が大嫌いなものです。




こんな本を少し前に読みました。
 この本の特徴は、「あえてあげつらうのもバカバカしいもの」を論っているいるところです。
  「バカバカしいもの」をあえて論うことで

被支配階級が気がつかない――のではなくて
 気がつきたくないであろう「事実」を提示します。


その「事実」とは、

 ・人間が社会のどの階級に属するようになるかは概ね知性で決まる。
 ・知性は遺伝的によって概ね決まる。

です。



「事実」には説得力があります。

その説得力は、事実のすべてではなく、
 イデオロギーに合致する事実のみを選択して提示したときに
  もっとも大きな  を発揮する。
      プロパガンダ



こんな本を、今、読みかけています。



出だしが名文だと思います。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。



ただし、瑕疵があると思う。

物理学を、化学を、生物学を
 
 物語

と捉えたのは慧眼です。
なのに、なぜ、歴史を物語としなかったのか。

「物語」とは編集作業を経て成立するものです。
  編集作業において恣意は免れません。
   だから、「物語」とは都合の良いもの。プロパガンダになりうるもの。

歴史こそ「物語」です。
 (だからあえて「物語」とはしなかったのかもしれませんが。)

『言ってはならない』が提示する「事実」は

  歴史的事実
 
に過ぎません。すなわち「物語」です。

物理学や、化学や、生物学といった「物語」そのものを再編集するのは人間業ではありません。
 人間にできるのは、発見だけ。
が、歴史は人間業です。
 歴史を学ぶということは、歴史が人間業であることを識るということ。
  歴史そのものも再編集可能であるということを知るということです。

歴史が人間業であることを識るということは
 自身の〈生〉もまた歴史であるということ識ること。

「識る」というのは、そういう意味です。
歴史という「物語」は今後、いかようにも再編集できる可能性があるということです。


『言ってはならないこと』が言っているのは、
  
  人間は幸せになるようにデザインされていない

ということです。

『サピエンス全史』はまだ読了していませんが、
  僕が見たいと期待しているのは、

    人間が幸せにならないような社会はどのようにデザインされて行ったのか?

です。

ここが見えれば
 幸せにならない社会がデザインされていった
  という歴史的事実を踏まえて

     幸せになる社会をデザインしていく

方法論が見えてくる可能性があります。

 「あげつらうのもばかばかしい
 「与えられた条件の中でうまくやるしかない

といった態度は怯懦です。

初めから人間業の可能性を放棄していると僕は思います。




蛇足。

僕にとって【同】は「観たくないもの」です。
 なのに嫌というほど観えてしまう。

   【逆接】だからです。


「富士山」





上の画像は10/31の10時頃に撮影したものです。
 場所は、富士急行富士山駅のある建物の6階展望台から。

今年は富士山の初冠雪が遅かったんです。
 初冠雪はこの3、4日前でしたけど
  そのときに雪を被ったのは山頂部分がわずかにという程度。
   この日は7合目くらいまで、雪になっています。

富士山は、僕にとっては特別な存在です。
 富士山は日常の風景ですが、風景というカテゴリーをもはや超えています。
  富士山は眺める存在であると同時に、眺められる存在でもある。
   富士山からの視線を感じるような気がするんです。

もちろん、それは錯覚に過ぎないことは重々理解しています。
 だけど、それにしてはリアルなんです。

晴れていて
 「今日は富士山が顔を出しているだろうな」
  と思うのと同時に富士山からの視線を感じる。
   それで振り向くと富士山がいる

   「ある」ではなく「いる」です。


こんな感覚を抱くようになったのは、わりと最近のことです。
「note」というSNSを始めた頃
 面白がって毎日のように富士山を撮影してはアップしていたことがありました。

半年くらい続けていたと記憶していますが、やっぱり飽きるんですね。
 飽きてしまって、撮影はやめてしまった。
  SNSの方も中断してしまって、意識して富士山を眺めることも辞めてしまった。

それからしばらくして、去年の今頃だったと思いますが
 秋晴れの日に街を歩いていたら
  後ろから視線を感じたような気がしたんです。
 誰か知り合いでもいるのかいな? と思って振り返ったら誰もいない。
  不審に思ったのですが、はたと気がついた。
  
    あ、これは富士山だ

そう思ったときは、おかしくてひとりで笑ってしまいました。

そのときから、富士山はそこにある風景でなく
 そこにいる人格になりました。


こんなことを書いていると思い出すことがあります。
 昔、そんなことを言っていた人に出会ったことがあるんです。

富士山業界では有名な写真家さん。
 南アルプスの山小屋に居た頃のことです。

その人が有名な写真家であったことは知っていました。
 だけど、僕はへそ曲がりなんで、「有名? ふ~ん...」
  てなもので、関心を寄せていませんでした。
 その人は不思議な感覚の面白い人で、人柄は好きでしたけど。
  要するにキワモノだと認識したんですね。

当時は写真というものをバカにしていた。
  記録という意味での写真ならわかるけど
   風景を切り取っただけのものが、芸術に値するとは考えていませんでした。

だけど、ある一枚の写真が、写真が芸術に足ということを教えてくれました。
 それは高山植物の一種、イワベンケイの写真でした。

イワベンケイというのは、高山植物のなかでも、どちらかと言えば地味な存在です。
 高山は気象条件の厳しい場所ですが
  イワベンケイは、なかでもとりわけ厳しい場所に咲く。
   吹きさらしで乾燥した岩稜地帯が彼らの住処。
  ゆえに、葉は厚くなり、花弁との差もハッキリしない。
 可憐な花にはならないんです。

そのイワベンケイが、とびきり可憐な姿で写真に収められていた。
 湛えた朝露がきらきら光って、ニッコリ笑っているような。
イワベンケイは嫌というほど見てきましたけど、そんな姿は見たことがなかった。

驚いて、この写真は誰が撮ったのかと尋ねたら、富士山専門の写真家が撮った、と。

で、当人に尋ねてみました。
 あんな写真、どうやって撮ったんですか?
  ――こんなふうに撮ってくれと、花の方から言ってきたんだよ。

いかにもキワモノらしい答え。

 素晴らしい写真だと思うけど、発表しない?
  ――ん~、これは、僕に個人的に見せてくれた姿だからね。

 じゃあ、富士山にも、個人的に見せてくれた姿とかあるんですか?
  ――もちろん、ある。
      そういう写真は公表しない。
       そんなことをしたら、富士山に嫌われるから。

というような会話を交わした記憶があります。


その人にとっては、イワベンケイも富士山も、立派な人格です。
 が、当時の僕には、その感覚がまったく理解できませんでした。

  今はなんとなくわかる気がします。





『ピダハン』の読書は、楽しすぎて、遅々として進みません。
 こういった本は、一気に読破してしまうのはもったいない。
  行きつ戻りつしながら、読み遊んでいます。

この「富士山」についても、『ピダハン』からの派生です。



富士山には、「木花咲耶姫」という人格が与えられています。


僕自身は、そういう名前のついた人格として、富士山を認識しているわけではありません。
 ただ、そういう認識はありだと思います。

歴史的な伝承として「あり」というのではなく
 現に、そこにいる存在として、そういうのもあり。

現にいる存在。
 「神」や「精霊」と呼ばれるもの。
  現にそこにいるので、当然、観ることができる。
 人格として認識しているなら、人格として観る。
それが「精霊」です。

『ピダハン』の著者には、ピダハンたちが観ている精霊は見えません。
 いくら観ようとしても見えない。
ピダハンたちを信頼し、彼らが観ているであろうことは認めても
 それでも観ることができない。
  心の底から、そういう人格が存在するのだということを認めていないのでしょう。


心の底から認めるというのは、とても難しいことです。
 意識してそうなるものではありませんから。
  無意識のうちにそうなってしまうもの。
 意識していることを、意識して無意識に落とし込むというのは、至難の芸当です。

ああ、違います。「落とし込む」ではない。
 ベクトルはむしろ逆。抱え上げる?
  いえ、しっくり来ません。

別の言葉で言い換えた方がよさそうです。
  惚れる
という言葉。あるいは
  萌える
とか。

「落とし込む」は"単純なものへと整理して”という経過を踏みますが、
「惚れる」とか「萌える」は、"より複雑なものだと想い為して”という経過を踏む。
 そして
「落とし込み」は【アタマ】の認識作用ですが、「惚れる」「萌える」は〈からだ〉の認識作用。

意識して為すのは難しいけど、 〈からだ〉は勝手にやってしまう。


とはいえ、【落とし込み】も身体的に作用します。
 これが人間の哀しいところ。

映画『ロルナ』の祈りにおいて、象徴的に使われていた紙幣。
 【アタマ】の認識作用によって〈からだ〉にまで【落とし込まれた】紙幣は
  視聴者である私たちの注意を無意識のうちに惹く。
 その無意識の惹きつけによって
  私たちは登場人物たちがお金に支配されていることを感知し
   現に支配されているがゆえに同感
    支配に追い詰められて抗わざるを得なくなったロルナに共感します。

 その共感
  ベートーヴェンのアリエッタに置き換えて良しとしたことは、
   理解はできるし共感もするけれども
    ずるいとも思うというのは、先に記した通りです。

「卑怯者の発想」


興味深い記事を見つけたので、所感を。


江川達也氏 安冨歩氏が基地反対派に授けた「戦法」に「卑怯者の発想」




江川発言の元になった琉球新報の記事。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを
 安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授)




江川さんのFaceBook記事 ⇒ リンク

  

江川さんの発言は、ある前提のもとに立っています。
 これを考えるには、まず、
 
   沖縄vs日本国

 という構図を設定する必要があります。
沖縄のなかにもいろいろな考え方の人がいますから
 この構図は安直なものですけれど、わかりやすい理解のために。

この構図の元、江川さんは

 日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない

という現状認識をしていると推測します。
 だから

 >安冨氏の発言に対して「暴力の奨励じゃないのかな」と指摘

するようなことになってしまいます。
 が、この現状認識は正しいの? という話です。


日本国の沖縄における活動が合法かどうか。
 裁判で争えば、合法という判断が出るかもしれません。

だけど、合法=非暴力 ではない。
 国家が暴力装置だということを鑑みると、
  合法であるということは、暴力をふるってよい条件のことでしかない。

だから、合法=暴力 ということがありえます。


安冨さんは、このように指摘しています。


猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。
今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。


この安冨発言の基底にあるのは、

 差別構造は差別意識から生まれる

ということです。
そして、もうひとつ重要なことは、

 差別意識は、差別を為している当人からは見えない

ということ。
精確には「見えない」ではなくて、「観ようとしない」ですけれど。

江川さんには、安冨さんのこの文章は見事に見えないようです。


差別意識が見えないと、差別構造が見えない
 差別構造が見えないと、現に暴力行為が行われていることも見えない

繰り返しますが

      合法かどうか

ではありません。そういう見方ではない。

日本国の暴力行為が見えないと

    日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない

という現状認識になり、安冨発言が

   暴力の奨励

 に見えてしまう

ですけど、「沖縄」の人はもちろんですが、「日本国」以外の人にも
 暴力行為は見えている
  差別構造も見えている
   さらには差別意識も可視化させた

この可視化がどんどん進めば
 必死で「観ようとしない」人たちも
  周囲から攻撃されて観ざるを得なくなるはず
 
これが安冨戦術の骨子でしょう。
 現に暴力が振るわれていることが見えれば
  可視化戦略は卑怯なものでも何でもないということは
   何の疑問もなく理解できます。

米国は人権を重視する国のはずだから、沖縄人を土人呼ばわりする日本の警察に米軍が守られている状況をどう思うか、聞いてみたらいい。


「はず」は、実は、怪しいんですけどね。


江川さんにその意識はないでしょうが
 実は江川さんには「沖縄」に対する差別意識が
  無意識下にあることが露呈してしまいました。

何が観えて、何が見えないのか。
 その事実で、その人の意識がわかるということ。

江川「卑怯」発言。
 成り行きが興味深いところです。
 

『ピダハン』


追記前提のフライング・エントリーです。

今、思っていることを、今、書き留める。
完成形ではなく、未完成のままで表出してしまう。
 
そうした“形式”が、なぜか楽しいと思うようになってきています。

というわけで、読みかけの本。



予想していた以上に、楽しい読書を味わっています。
 当初、予想し期待していたのは「懐かしさ」でした。
  『逝きし世の面影』を読んだ時のような。



読書をしていて懐かしいと感じるとき。
 それは、本の中にある現象の記述が
  私たちが普段体験している文化的現象の震源だと感じられたとき。
   普段、何気なく為している言動のルーツを見出したと思ったとき。

その文化的現象が失われつつあるものだとしたら
 懐かしさはさらに強調されることになります。
『逝き世の面影』は
  僕たち日本人が失いつつある日本人としての文化的の震源を
   再発見させてくれる読書でした。


あるいは、『浜辺の歌』。


浜辺を彷徨った経験などないにも関わらず
 歌を聴いていると、いつの間にやら同調して 
  “昔を偲ぶ”という気分に誘導されてしまう歌。


「懐かしさ」の発見は、根源への思索を誘うものです。
 『ピダハン』もまた根源への思索を誘うものですが
   これは「懐かしさ」を超越しまっています。

懐かしいというには、逞しすぎる。
「生」と「死」の距離が
  僕たちの文化的体験から想像不可能なくらいに近い。

いえ、想像不可能ではないかもしれません。
 ただし、その近さは異常事態です。
  敵と殺し合う戦場でならあり得るかもしれないと思うくらいの近さ。
   その近さが、ピダハンにおいては、健全な日常生活になっています。


ピダハンのある女性が赤ちゃんを産んだ。名をポコーという。
 母子とも順調に生育したけれど、母親が病気になって死んでしまう。
  同時に赤ん坊も弱ってしまう。

ピダハンの集落で暮らしていた著者は、その赤ん坊を救おうとします。

私たちは、誰がポコーの娘の面倒をみるのかみんなに尋ねた。
「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」みんなは言った。
「ケレンとわたしが世話をしよう」私は言ってみた。
「いいだろう」ピダハンたちはうなずいた。「だが赤ん坊は死ぬよ」

ピダハンたちには、死が見えるのだ。いまはそれがわかる。だがわたしは赤ん坊を助けると誓ったのだ。


(前略)ジョギングから戻ってみると、我が家の片隅に数人のピダハンたちが集まっていて、強烈なアルコール臭が漂っていた。集まっていたピダハンたちは、何やら申し合わせたような顔でこちらを見据えてくる。怒っているように見える者、恥じ入っているように見える者。自分たちが取り囲んでいる地面のあたりにただ目を落としている者もいた。わたしたが近づいていくと彼らは場所を開けてくれた。ポコーの赤ん坊が地面に横たわり、死んでいた。カシャーサ(酒)を無理やり飲ませて死なせたのだ。
「赤ん坊はどうしたんだ?」わたしは、目に涙がにじんできた。
「死んだ。これは苦しんでいた。死にたがっていた」


しかしこの出来事について考えれば考えるほど、ピダハンの立場からすれば最善と思われるやり方で始末をつけたに過ぎなかったのだと思えるようになってきた。彼らは意味なく冷酷にふるまったわけではない。生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見抜けてしまうのだ。ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。わたしが素晴らしい思いつきだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。



「死相が見える」ということがありえることだという感覚がなければ
  上記の出来事は野蛮人の蛮行にしか見えないでしょう。
僕には「ありえること」という感覚はあるという自負があるので
 野蛮に見えるピダハンたちの行為の合理性は理解できなくはない。
  だけど、それでも、驚かざるを得ません。
   ここまで「生」と「死」は近くはない。
  アタマでは「生」と「死」は表裏一体だと理解はしていても
  〈からだ〉はそのようにはなっていません。


現在、読書はピダハンの言語について
 著者が体験を綴っているところにさしかかっています。

読書のさなかに僕のアタマに浮かんできたのは

 「真如」

という言葉です。



「真如」とは、「言葉以前の言葉」を表す言葉です。

僕たちにとって言葉とは〈世界〉を“分割するもの”です。
 言葉に〈世界〉は分割され、分割されたことによって「輪郭」が与えられる。

言葉が“分割するもの”であるという理解が生まれれば
 論理的帰結として“分割以前”という発想が生まれてきます。
 「真如」とは、現実を越えた“発想”です。
   
仏教とは、現実を越えた発想から現実世界を観る方法論だと思っています。
 だから、発想は現実的ではない。
  むしろ現実的であってはならない。


現実は小説より奇なり。

ピダハン語は、言葉でありながら、どうやら〈分割するもの〉ではなさそうな雰囲気です。
 だとすれば、「真如」だということになる。
  「真如」でありながら、
  コミュニケーションを可能なさしめるツールとして機能しているように思えます。

が、これもまた、現段階での僕の発想です。
 読書を進めて確認してみたいと思います。

『ロルナの祈り』


ずるい映画だと思いました。



この映画は、僕がチョイスして観たわけではなかったんです。
 とある会で、観ることになった。
  なんの予備知識もなしに観ました。

なので、エンドロールで
 僕には耳馴染みの音楽が流れてきたときには
  かなり面食らってしまいました。

また、ここでもベートーヴェン。
  しかも、最後のピアノ・ソナタ作品111

 そういう閉じ方をするか――。



ロルナという名前。
 ヨーロッパの人ならば、その名前だけで出身地は察しがつくのかもしれません。
  移民も身近な存在なのでしょう。
 合法的に国籍を得る為の偽装結婚。
  もちろん違法なビジネスです。
   ロルナは犯罪者です。
ロルナにはその自覚がありません。

もちろん、ロルナは自身の状況を知らないわけではない。
 知っていても、わかっていない。
  アタマではわかっていても、〈からだ〉にまで届いていない。
 なので自身のおかれた状況からは許されない振る舞いをしています。
  偽装のはずが偽装ではなくなってしまいます。


この映画のなかで重要な役割を果たしているキーアイテムがあります。
 紙幣です。
  幾度も幾度も“お札”が画面に出てきます。

お金を知ってしまっている人間はお金を無視することができません。
 お金の効用を実感として識っているので
  その【価値】が〈からだ〉まで届いてしまっています。
なので、視聴者は
 登場人物がロルナも含めて
  お金に支配されていることを理解することができます。

加えていうならば、お金の使い方で「愛」の存在がわかる。
 そのように作られた映画です。

映画の中の現実では、お金の支配から逃れることができません。
 「現実」から逃げられないから
  「現実」ではないところに逃げる。
 その「逃避」を祈りだといい 奇跡だといい
  ベートーヴェンの音楽を被せて
   美しいものであるかのように印象づけようとしていると感じる。

ショパンならまだしも、ベートーヴェンでは嘘くさい
 僕は、嘘くさいと感じます。

ショパンであったなら
 製作者には「逃避」の自覚はあったろうと思ったでしょう。
  「逃避」してしまうことから逃れられない人間。
    弱い人間。
  「逃避」から逃避することなく
    人間の弱さを真正面から見つめるなら
     それは大いにありだと思います。

だけど製作者自身が「逃避」してしまうことは、どうか。
 

映画の「現実」のなかでロルナは追い詰められてしまいます。
 ロルナは身の程を弁えていませんでした。
  ロルナの“身分”では、〈からだ〉を素直に発動させることは許されない。
 なのに、ロルナはそれをしてしまったがために、追い詰められることになります。
  理不尽な「現実」です。

追い詰められて、ロルナは想像の世界に逃げる。
 想像と現実の区別が付かなくなっていく。
  区別が付かなくなってしまうことが
   当映画がいうところの「祈り」であり
    予告編がいうところの「奇跡」です。

繰り返します。
 「逃避」することが避けられない弱い人間の「現実」を描くのはありです。
が、「逃避」しているフィクションの人間のなかに
 製作者自身が「逃避」してしまうのは、どうかと思う。

僕はずるいと思うし、
 もっと強い言葉で言えば、怯懦です。
  現実に怯えていると感じてしまいます。


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『仮想通貨革命』


なんとも迂闊なことです。



こんな本が、もう、2年も前に出ていたんですね。

まだ未読なのにエントリーにあげるのは、いつも以上にフライングですけれど。

技術革新で貨幣そのものにイノベーションが起きて、社会の在り方そのものが大きく変化する――

歴史の大きな流れからすれば
 ごく自然なことであるはずなのに
  なぜか、そうした「大問題」を正面から取り上げる著作に出会わない。

僕が迂闊なだけだったんですけど。

著者の野口悠紀雄さんは、超絶スペックな頭脳で有名な人。
そうした人が予想する社会の未来図は
 僕なんかが夢想する図とはかなり食い違っているだろうと思います。

思うけれど、でも、読んでみたいです。
 

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『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』


楽しい映画です。



まあ、娯楽作品ですし。
 いろいろ違うよなぁ~とは思うんだけど
  目くじらを立てるのも野暮なこと。


だけど、みっつだけ言わせてもらいたい。


ひとつめ。

前半の見せ場で105年の木を伐るという場面があります。
 が、あの腰高はありえない。
伐る位置が高過ぎます。

ほぼ腰の高さで伐っていますよね。

そのあとのシーンに原木市のシーンがありました。
 伐りだした105年の木は市で競りにかけられて高値がつく。
  35万とか、36万とか。

あれ、一本の値段ではありませんから。
 立米単価です。

原木の体積は末口(細い方)の直径の二乗×長さで計算します。
仮に直径80センチで、長さが50センチとすると、
 
  0.8×0.8×0.5=0.34立米です。

で、立米単価を30万円とすると、

  0.34×30=10万2千円ナリ

腰高に高く伐るということは、
 それだけのお金を山に捨てるということです。

ありえません。

市から帰る車のなかで親方が良いことを言います。

「植えた木が育って価値が分かるまで見届ける事は出来ない馬鹿みたいな仕事だ」

人間の都合を越えた、息の長い仕事だということですよね。
 なのに、せっかくの木を腰高に伐って
  山に捨てるだなんて、ありえません。


ふたつめ。

気になったのは、伊藤英明演じる役がイヤーマフをしていたこと。

ありえないとは言わないけど、僕の感覚ではない。

映画では追い口を入れている最中に風が吹いて
 伐っている木が揺れて
  そばにいる人が肩を叩くシーンがありました。

イヤーマフなどしていると、ああいうことになる。
 風の気配に気がつかないんです。

これはとても危険なことです。
 突風など吹こうものなら、自分の想定外の方向へ倒れることがある。

そのような時は無理な力がかかりますから、どんなことが起るかわかりません。
 突然、木の幹が真っ二つに裂け上がったりする。
  そういうことは一瞬で置きますから、気がついたときには遅いことがある。
だけど、気配は察知できるし、身体が察知していれば
 すでに身体はアタマが意識するよりも先に逃げる準備をしている。

だから間に合うんです。
 なのに、大切な聴覚を封じ込めるなんてありえない。

あれは「社会の都合」なんです。
 長年のチェーンソー使用で難聴になると、労災認定がおります。
  林業業界の労災保険は大赤字ですから。
だから、難聴防止のための策が奨励される。

『WOOD JOB!』も、そうした部分では「社会の都合」に沿ってしまっています。
 聴覚を塞ぐと、生命の危険があるのに。

「社会の都合」によって身体知が抑圧される良い例です。


みっつめ。

大山祇の神の大祭があるということで開かる寄り合い。
 研修生の主人公の、祭りへの参加資格が問われるシーン。 
  これもありえません。

このような設定の下のあるのは、

 村人=杣人(そまびと)

という図式です。
 だから、一年しかいない人間(非村人)は
  杣人ではないということになるし
   そのように提示されても違和感を憶えません。

だけど、村人=杣人の図式が成立したのは戦後の話です。
 戦前は、必ずしも杣人は村人ではなかった。
長年の伝統を踏まえるはずの祭りが
 そういうカンジンカナメのところを外すはずがないんです。

山の神の祭りは、杣人の祭りです。
 だから、村の長といえど、参加資格を云々できる立場ではない。


本来の杣人の集団は、この『WOOD JOB!』で描き出されたものとは違います。
 少なくとも、僕が感じていたものとは違う。
むしろ『WOOD JOB!』より『攻殻機動隊』のほうが近い。
 STAND ALONE COMPLEXE です。

杣人は技能集団なんです。
 それも、子孫を残すという期待をかけられていない人間たちの集団。

村人とは、子孫を残す義務を負った人たちですから、そこが決定的に違う。


だから、大祭のクライマックスシーンで、
 女性器に男性器が突入するするというのも、ない。
「五穀豊穣」は、農地をベースにし、
  農地の守り手であると同時に子孫を残す義務を負う村人のテーマであって
   杣人のテーマではないんです。

もっとも、山の神をお祭りするときには男性器を掲げます。



僕が昔、撮影したものです。
 山の神の日ではなく、新しい現場に入る日にお祭りしたもの。

「山の神」には女性のイメージがあります。

大山祇の尊(おおやまずみのみこと)は男性神ですけど、
 「山の神」というと
 大山祇の尊の娘であるところの岩長姫(いわながひめ)とされます。
大山祇の尊には娘が二人いて
 もうひとりは木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
  富士山です。

神話では、天皇家の子孫である瓊瓊杵尊(ににぎにみこと)に
 大山祇の尊は娘を二人差し出したことになっています。
  ところが岩長姫のほうはリジェクトされてしまった。

富士山は見目麗しいですが、それ以外の山はそうでもない。
 リジェクトされた岩長姫は無聊を託っているに違いない――
  だから、男性器を祀る。
そういう意味合いですから、五穀豊穣、子孫繁栄の意味合いはあまりありません。


このことは、当時の経済状況も反映しています。

林業は、現在では地場産業のイメージがあります。
 木は動かないので地場に間違いはないが、人間は動く。
  林業は、人的には地場産業ではなかった。

現代では、以下のようなイメージ。
 ある場所に大手企業が新しく工場を新設。
  雇用が生まれ、地元民も、非地元民も働くようになる。
このようにして成立した産業を、ふつうは地場産業とはいいません。

かつての林業もそれと同じです。
 大きな林業地には大きな雇用があって、他所から大勢の杣人がやってきた。
  その杣人たちは、たいてい次男、三男、です。
    長男は、地元で、農地を守り、血筋を守る義務があるから
      杣人のように死亡率の高い職業には付かなかったのが普通です。

現代的にいうなら、杣人とは、ノマドワーカーだった。
 山の神の祭りはノマドワーカーの祭りですから
  半人前の主人公にだって参加資格は初めからある。



ノマドワーカーに必要なのは、その職に適合したスキルです。
 樵ならば、樵としての身体知でしょう。
ムラを維持するためのコミュニケーション能力の優先度は低い。

が、なかにはノマドであってもコミュニケーション能力が高い個体もいます。
 そういう人材は、地元で目をかけてもらうようになり、
  なんらかの理由で後を継ぐ男子がいない家系に採用されたりした。
そうなると、杣人は村人に“昇格”するわけです。

これは、地元部落にとっては、“外部の血”と優秀な人材を確保の方法論。
 そのようにして、地元にだけで固まると停滞しがちになってしまう共同体を
  活性化したのでしょう。
が、ムラ社会が全域化してしまった現代では
 そうした「回路」もあまり機能しなくなったようです。


林業地をよく取材したはずの『WOOD JOB!』は、
 林業をテーマしにしながら、
  現代的な意味でのムラ社会を描いたものになっています。
もはや林業そのものからも、本来の精神が失われたということなのでしょう。

大衆受けを狙った娯楽作品だからこそ、大衆に響くように作品は作られます。
『WOOD JOB!』もまた、そうした作品のひとつ。
  ムラ社会に供された娯楽作品です。

『PSYCHO-PASS サイコパス』


またしてもフライングなエントリー。


第4話まで視聴。

原作は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄がメインライターとのこと。
 なるほど、ね。


  深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている――

「怪物と戦う者は、その過程で
   自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。」
  に続く、広く知られたニーチェの言葉。

 作中に出てきますが、このアニメ作品を言い表すのにピッタリだと思いました。


ストーリー設定の説明をWikipediaから拝借。

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた 。

そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。



強大な警察組織が厚生省管轄というところが嫌らしい。
 「健康」という社会観念が数値化によって強化されてしまうと
   そういうことにもなりかねません。


当作品の設定で特筆すべきは
 「犯罪係数」の元になる「PSYCHO-PASS」の【濁り】は
   伝染病のように他人に感染するものとされていること。

これはフィクショナルな「設定」ではありません。
 フィクション作品の中の、非常にリアルな設定です。
【濁り】は、僕の言葉でいえば【毒】や【怨】に相当します。


公安局の刑事にはヒエラルキーが存在します。
 【濁り】の少ない監視官。
 【濁り】の多い執行官。

執行官は「犯罪係数」が規定値を超えた「潜在犯」でもある。
 潜在犯だからこそ、他の潜在犯のことがよくわかる。
  ゆえに、適性に「管理」されるなら、犯罪捜査は効率よく進む。

その管理を担うのが監視官。


監視官の執行官への接し方には2つの選択があります。

1は、管理という職務に忠実であること。
 ゆえに執行官にも与えられた職務に忠実であることを求める。
犯罪係数は伝染する。
 が、互いに職務に忠実でいれば、伝染は避けることができる。

2は、人間であることに忠実であること。
 同じく近未来を描いたアニメ作品『攻殻機動隊』の台詞で言うなら
  「ゴーストの囁きに委ねる」
 
もっとも、2のキャラクターとして登場する常守朱(つねもり あかね)は
 新米監視官で未熟な存在。
  なので、「共振」に陥りやすい。


さて、どのようにストーリーが展開するのか。
楽しみです。


【理不尽】


“理不尽”という言葉は、一般的には悪い意味で使われます。


道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。
  「―な要求」「―な扱い」

goo辞書より




“理不尽”とは、「理」が不尽であること

では、“不尽”とは?
 “尽くさない”なら、故意か、あるいは過失です
“理不尽”での意味は、こちらでしょう
  だから、悪い意味になります。

「尽」には、最初から行為者の意思が組み込まれているようです。


でも、どうなんでしょう?
 行為者が万全に意を尽くすことを意図していたとして
 「理」とは、万全を尽くすことができるものなのでしょうか。

できません。「理」は万全を尽くすこと能わず。
 〈世界〉は、残念ながら、そのように出来ています。


先日、ネットでニュースをながめていますと
 東京の六本木で不幸な事故があって
  男性がひとり、死亡してしまったというのがありました。

マンションを改修工事がなされていて、足場が組まれていた。
 その足場の鉄パイプが落下。
ニュース映像でみると、落下したのは、足場の強度を確保するための
 “筋交い”のようですが。

筋交いならば、ロックが外るということはありそうなことだと思いますが
 本当のところはどうなのでしょうか。

筋交いは直径2センチほどのパイプ2本の組みあわせ。
  従ってジョイントは4カ所あります。
ロックと言っても、ロックピンを差し込むだけ。
 衝撃が重なると外れるという可能性はなきにしもあらず。

だとすれば、“理不尽”というより「意不尽」だったということでしょう。
 非常に稀な確率ではあるにせよ
  ピンが4つとも外れてしまうことがないとは言えない。
「万全な注意」をしていれば、可能性を予期できなくはない。

しかしながら、
 人間というものが、意を万全に尽くすこと不能なのも事実です。

  

が。

不幸な事故しかいいようがない――
 で済ませてしまうならば、無責任です。

工事を請け負った者には
 工事を事故なく完成させる社会的責任があります。
社会的責任を全うできなかったわけですから
 誰かが責任を負わなければなりません。

その誰かとは
 件のクランプを「意不尽」で取り扱った者ではない。
  それが社会というものの構造です。
意不尽だった作業者が悪意を持っていたなら話は別ですが
 そうでないかぎり
  責任は作業者の使用者にあるとされるのが普通です。
【社会】の仕組み


この【仕組み】こそ、【理不尽】なんだと思います。
 確かにこれはこれで「理」に敵ってはいる。
だけど、あくまで【社会】の都合の範囲内だという気がする。
 このような【仕組み】をそのままにしている限りは
  
 戦争はなくなりません



僕自身の体験談をふたつ、記します。
 ひとつは、ある人を殺しそうになってしまった出来事。

 それは、樵をやっていたときのこと。

ある現場で、僕はトンガケという役をやっていました。

伐り倒した樹木は、集材されなければなりません。
 文字通り、材を集める、です。
散らばっている木を一カ所に集めて
 枝を落とし
  樹種や幹の部位、太さ、曲がりなどを見極めながら
   適切な長さに切り落として原木とし
    搬出する。
この一連の作業が林業でいう「伐採」です。

トンガケという役は、「採」の方の最前線。
どんな感じかは、百聞は一見に如かず、画像を見ていただいた方が速いでしょう。


これはかなり危ない役回りです。
死亡率はかなり高いです。
正直なところ、僕も何度か死にかけています。

牽きだした木が見えないところで絡まっていて
          退避したところへ飛んできたとか。
ワイヤが摩耗してブチ切れて、その端が飛んできたとか。

そのような危険性があることは百も承知で作業をします。
 だから、自身の身を守るために
  できる限り意を尽くそうとするのはごく自然なこと。
が、そうであっても、意不能尽。

〈世界〉とは、そんな残酷な場所です。

そのときの怪我が元で
 僕の下半身にはほんの少しだけ
  不具合が残っています。
正座が出来ないという程度ですから、日常、ほとんど支障はありませんが。

この程度で済んでいるのは、幸運なことだと思っています。
今から考えれば、当時はかなり無茶な仕事の仕方をしていた。

この役割は、危険性と効率性の交換比率が非常に高い。
  それは構造的なものでしたから、作業者の熟練度などとはあまり関係がない。
仕事の成果は、いのちと引き替え。
 そういう実感を味わうにはもってこいの仕事で
  その実感を味わうための仕事をしていたのが、当時の僕でした。

そんなわけですから、死にそうになったことも
 今にしてみれば、自慢話、笑い話――

いえ、そうではありません。
 これはバカな話なんです。
   

前置きが長くなりました。

そのとき、僕がトンガケの作業をしている斜面の下の方で
      「伐」を担当している人が作業をしていました。

仮にSさんとします。

この状態は芳しいものではありません。
 上下作業といって、林業ではやってはいけないことの、イロハのイです。

距離は相当、ありました。
 数百メートルはあったと思います。
  僕の記憶に残っている映像では、その人が親指くらいの大きさに見えています。

下に入ったのは、Sさんのほうです。
 僕は継続作業でしたから、もとからその場所にいました。
が、Sさんも、Sさんなりに組み立てた作業の段取りに従って動いたいただけ。
 それが運悪く、バッティングしてしまいました。

危険なことはSさんも解っていました。
 だけど、距離は相当あったので、大丈夫だろうと高をくくった。
  意不尽です。

嫌な予感はしていました。
 前日は雨が降って、仕事は休み。
  斜面は濡れていて、滑りやすくなっている。
   樹種もスギで、これまた滑りやすい。
でも、まあ、大丈夫か。
 Sさんは僕よりもずっとベテランだし、僕がここに前からいるのは知っているし...

が、やはり嫌な予感というものは当たるものです。
 牽き出した木につられて、となりの木が数本、すべり落ちていきました。
あっ、と思って見てみると
 ちょうど木が滑り落ちていくところで、Sさんは作業をしていた。

大声で叫んだけれど、声は届くはずもありません。
 Sさんもチェーンソーの爆音のなかで作業をしてます。

殺した――
 と思った瞬間、Sさんはチェーンソーを放り出して、飛ぶように逃げていきました。
本当に、、、間一髪。

そのときの映像は今でも脳裏に焼き付いています。
 今でも思い出すと、背筋が泡立つような感じに襲われる。

もちろん、すぐさまSさんのところへ跳んでいきました。
 無事を確認して、謝罪する僕をSさんは軽く受け流してくれました。
それどころか、Sさんに謝られてしまった。

「スマンな。肝を冷やしたか? オレも冷やしたけどな。」



その日は、それで作業は中断したと記憶しています。

帰りの車の車中で、現場のリーダーで集材機運転の役のYさんから言われたこと。

「オレらはこんな仕事やから
  自分が死ぬことはどこかで覚悟してる。
    死んだ人もいっぱい、見てきたしな」

「だから、自分が死ぬのはしゃあないと思うけど
   それでも、殺すのはイヤや」

「オマエは、今、いちばん危ないところで仕事をしてる。
  頑張ってくれてるのも、わかってる。
 けど、ほどほどにしてくれよ」

「死ぬのはオマエやろうけど、殺すのはオレや。
  オレはオマエが合図を送ったら、ワイヤを巻くンや。
 その先がどうなってるか、オレには見えん。
  だから、オマエの合図を信用して、オレは巻く」

「見えんところでどうなってるのか、オレにはわからん。
  わからんけど、オレが巻いたワイヤでオマエが死んだら
   オレがオマエを殺したことになるンや」

「オレはいつも、そんな不安を背負ってるンやで。
 それがわかったンやったら、気をつけてくれよ」



続きはのちほど。
  

『鋼の錬金術師』


掛け値なしの名作です。



マンガは全27巻。アニメもありますが、マンガがオススメ。
ガチでオススメです。

作者は荒川弘さん。女性作家です。

僕が荒川作品に接したのは、『銀の匙』の方が先。
 作品の創作順としては、『鋼の錬金術師』が先。
  『鋼』の存在は知っていましたが、興味が湧かなかったのは人気作だから。
ヘソ曲がりなんです(^_^;)

『銀の匙』については、書いたことがあります
マンガのとあるシーンに掲げられていた言葉に惹かれて。

  勤労 協同 理不尽

これ、荒川さんの作品のテーマだと思います。
 もちろん『鋼の錬金術師』も。


『鋼』には、「ほんとうのこと」がいっぱい詰まっています。

「ほんとうのこと」とは
  僕の言葉でいえば
  〈生きる〉ことの表われ。
 身体の作動です。

〈世界〉の理不尽に抗って作動する身体。
  大切な人との間に生まれる情愛も
   大切な人を奪われたときに芽生えてしまう復讐心も
 全部「ほんとうのこと」。

「ほんとうのこと」同士が相容れないから、〈世界〉は救いがたいように見える。


『鋼の錬金術師』を僕がオススメする理由は
 実は、救いがたいの〈世界〉ではなく【社会】だいうことを描き出しているから。

 物語全体で。


錬金術。
 元来は、卑金属から貴金属を生みだそうとした行為のことを指します。
金がもっとも価値あるものとされていることから求められた魔術です。

『鋼』では意味が若干異なります。
 価値あるものは、金ではなく、力そのもの。
 戦争においても発揮することができる「力」。

元来の意味における錬金も、マンガのなかでは可能な設定。

 主人公エドワード・エルリックは、その「力」を
  戦争を遂行する国家のために使役すると契約した錬金術師。
「鋼」というふたつ名は、その契約の証です。

『鋼』における錬金術は以下のように設定されています。
  ひとつは等価交換の原則。
 といって、何が“等価”なのかは曖昧ですが、そこはそれ、マンガということで。
   
ふたつめは「交感」のためのエネルギー源です。
 最後に正体が明かされるのですが
  初期は地殻運動エネルギーということになっています。

このエネルギー源が『鋼』における理不尽の焦点です。
 具体的に“賢者の石”というかたちで登場します。

錬金術師が“賢者の石”を用いれば、等価交換の法則を無視できる。
 そういうマジック・アイテムです。


もし“賢者の石”のようなものが実在するなら
〈世界〉はデタラメだといわざるを得ません。
  いかようにも法則を曲げることができるアイテムが存在するということは
   それはそのまま世界はデタラメだということの証です。

〈世界〉を創造したと想定する超越神も同じ。
 〈世界〉をいかようにも改変しうる存在が実在するなら、
  〈世界〉はデタラメだということです。

『鋼の錬金術師』を僕が評価するのは
 そのような「デタラメのタネ」は、実は〈世界〉にあるのではなく
  【社会】のなかにあるのだということを暴くストーリーだから。

これは僕の世界観と一致します。
 『魔法少女・まどかマギカ』と同じく。



いうまでもないことですが、『鋼の錬金術師』は
 そのような世界観を描く作品ではありません。
  主題はあくまで、主人公をはじめとするキャラクターの活躍にある。

が、その活躍を浮かび上がらせるための舞台設定には
 作者の世界観が色濃く反映されます。

〈世界〉の理不尽に抗うこと。
  抗うことが〈生きる〉こと。
   〈生きる〉ことを通じて見えてくること。
 それは 
  理不尽なのは〈世界〉なのではなく【社会】だということ。

「勤労」「協同」「理不尽」という三位一体のテーマの意味するところです。


ちなみに作者の出自は、北海道の酪農家だそうです。
 さもありなんと思います。


人気作品ですから、いまさらネタバレもないのですが、少しだけ。

“賢者の石”の正体は「人間そのもの」です。
等価交換の法則は破れていません。
当たり前ですが、人間もまたエネルギーです。

人間は自身の分のエネルギーだけではなく
 他のエネルギーをも利用してしまう存在です。
  これができるのは人間だけ。
   文明を構築できるのは人間だけ。
 こここそが〈世界〉を理不尽にしてしまう【社会】の源泉です。
酪農家出身の荒川さんには、そこがよく見えているのだと思います。

その理不尽から目を逸らす人間が、
 人間そのものをもエネルギーとして利用する【システム】を組み上げた。
それが現代社会です。

“賢者の石”は、そのことを、架空の設定で可視化したものです。
では、リアルな社会における【賢者の石】とはなにか。

実在の【賢者の石】は、もっと巧妙にその意図が隠蔽されているものです。
 【良心】につられて自身がもつエネルギーを放出するように
   無自覚のうちに強いるもの。


余談。

瀬戸内寂聴さんの「殺したがるばかども」発言が波紋を呼んでいるようです。

「殺したがる」のもまた【良心】。
 【良心】の発動に無自覚な者を差して「ばか」が適切かどうかはさておき
   発言者が言わんとしたところは理解できるものです。

ただ、「戦う」相手は違のではないかと思います。
 相手は人間ではない。
  【システム】を起動させる理不尽であり【良心】だと思います。

〈うた〉


「歌」。または「唄」。

声によって音楽的な音を生み出す行為のこと。
リズムや節(旋律)をつけて歌詞などを連続発声する音楽。
娯楽・芸術のひとつ。

 または、

文学における用語。
詩の一形式または韻律文芸の総称で、和歌などを指す。

 ――以上、wikipediaより。



僕がここで言いたい「歌」とは、文学における用語の意味に近いものです。
が、音律文芸というカテゴリーで括られるものはない。

言葉そのもの。
言葉そのものが、実は「歌」なのではないか。

「歌」とはうつろいゆくもの。
大和言葉の「うた」と「うつろう」は、近しい親戚でしょう。
その表記から想像できるように。




和歌です。
「うた」というものが、どのように表現されるものなのか。
関心は、音の表現の仕方です。

うつろいゆくもの。
生起し、そして消えゆくものとして表現される「うた」。

「うた」は「ことば」で構成されている。
「ことば」で「こころ」が表現されている。
「うた」は生起し、消えゆく。うつろいゆく。
では、「こころ」は? 「ことば」は?
どちらも、本来は、〈うつろいゆくもの〉ではないのでしょうか。



本のタイトルは忘れました。
養老孟司さんの本だったとは記憶しています。
たしかマンガについて語った本。

絶対音感の話が出ていました。
哺乳類において絶対音感は標準装備なのだ、と。
ヒトも赤ん坊の頃は絶対音感を持っている。
ところが成長と共に、ヒトは絶対音感を捨てる。
言葉の習得に絶対音感は障壁になるから。

言葉は聴覚が基礎です。
聴覚に、他の4感覚からの情報が統合されて言葉になる。
ヘレン・ケラーのような例外は存在しますが
 大多数の「ヒト」は、聴覚を基礎に言葉を生成させて「人間」になる。
土台となる聴覚は“丸められて”絶対音感は失われる。
(詳しい学説は知りません。間違いかもしれません。)

言葉の土台が聴覚であるなら、音であるなら
 それは、生成し、消えゆくもの。
〈うつろいゆくもの〉です。


ですが、テキストを操ることに長けてしまった僕たちにとって
 言葉が〈うつろいゆくもの〉であるという感覚は稀薄です。
テキストからは「音」が失われてしまっている。
テキストも言葉なのに
 テキストの作成・読解には基礎であったはずの聴覚は作動していません。

かく言う僕も、この文章をキーボードに打ち込むにあたって声を発していません。
聴覚はBGMが刺激をしていますが、テキストからは切り離されている。


〈うつろいゆくもの〉である音のないテキストは、もはや【とどまるもの】です。
聴覚で把握される〈ことば〉も、視覚が土台になると【言葉】になってしまう。



そもそもは〈うつろいゆくもの〉である言葉にも
 最初から【とどまる】要素は存在します。
言葉の最も原初的な使われ方は、「なまえ」です。

「なまえ」は、分断であると同時に統合です。
〈世界〉からある一部分を感覚によって切り離し
 その“部分”を感覚と再接続・統合する。
元来、異質なはずのものの統合は、【とどまる】要素を生みだしてしまう。
【とどまる】ことがなければ、再接続もありません。

ゆえに「なまえ」は同一性をもたらす。
同一性は【とどまるもの】です。

今朝目覚めた僕は、昨夜就寝した僕とは、同一の存在だと認識されます。
就寝といえどエネルギーは消費され
 体内の物質は入れ替わっているのに、それでも僕は僕です。
見方によっては別物という認識だって可能なはずだけど
 そうした可能性が顕現することはほぼありません。

さらにヒトは、【なまえ】をいくつも留め置く能力を有している。
脳内に留め置かれた【なまえ】はこれまた接合し、知識という体系を築き上げる。

膨大な量になった知識の処理は、ヒトの聴覚の判別能力では難しい。
そもそも装備していた絶対音感まで駆使すれば
 もっと複雑な処理も可能だったかもしれないけれど
  それでは言葉そのものが成り立たなくなってしまいます。

ゆえに、知識は視覚において処理されるようになります。
文字が発明され
 言葉はより【とどまるもの】となっていくと同時に、
  より複雑な処理が可能となっていく。

【とどまるもの】の複雑な処理が文明を出現たらしめたことに間違いないでしょう。




アマゾンの奥地に、ピダハンと呼ばれる少数民族がいるそうです。
彼らの話すピダハン語は
 人類の言語の常識を覆すものとして注目を浴びているらしい。

ピダハン


ピダハン語において、なにより面白いと思ったのは、
 「再帰(リカージョン)」が存在しないということ。
リカージョン(recursion)とは、言葉の入れ子構造のことです。

「私はAである」という文章をひとつの統語(syntax)として、たとえば

   「彼は「私はAである」と言っていた」
   「彼女は「彼が「私はAである」と言っていた」ことを信じる」

といったような文章を構成することができます。
リカージョンによって言語は有限なルールで無限の表現が可能となりますし
 リカージョンがない文章など考えることも不可能です。
なぜなら、表現したいと思う内容そのものが
 すでにしてリカージョンによって構成されているからです。

僕も今、この文章を書くにあたってなるべくリカージョンがないように
“平たく”書くことを心掛けていますが、
  リカージョン無くして文章を構成することは、ほぼ不可能です。


流れゆく感覚に問い合わせてみれば、リカージョンは【とどまるもの】です。

  「彼は「私はAである」と言っていた」

という一回のリカージョンがある文章を構成するに際しては、

  「私はAである」

統語を留め置いておかなければなりません。
ひとつ、あるいは複数の統語を
 息を止めるようにして、言葉が生成している〈場〉から一端、外す。
そして、「その時」が来たら呼び戻す。
呼び戻したときには、外したものが別物になってしまっていることもしばしば。

言葉が生成している〈場〉においては、
 言葉は〈ことば〉であり〈うつろいゆくもの〉です。
が、リカージョンを用い、〈ことば〉を留め置くと、
 いつしか〈ことば〉は【言葉】になってしまっています。

【言葉】をふくむ〈ことば〉は、
 どうしても【とどまるもの】としての色合いが濃くなっていく。
【とどまるもの】としての【言葉】は、もはや「うた」ではありません。


ピダハンの人たちは歌うように話すのだそうです。
口笛やハミングも区別されることなく、〈ことば〉として扱われる。
まさに〈うた〉です。

そんな彼らは、「不幸」ということを知らないのだとも言います。




僕のなかにはふたりの「私」がいます。
【言葉】をあやつる【私】と、〈ことば〉に操られる〈私〉。

ある「なまえ」を形容する言葉を探す。
複数の「なまえ」を結びつける言葉を探す。
あるいは統語を留め置き、リカージョンを構成する。
このように言葉を使役している主体は【私】です。

一方で、〈ことば〉が生起する〈場〉となっている〈私〉もあります。
五感を刺激によって、立ち上がってくる〈ことば〉。
もしくは、他者の言葉を受けて立ち上がってくる〈ことば〉。
これらの〈ことば〉は、同じ言葉ではあっても、
 【私】という主体が探り当ててくる【言葉】とは違います。

〈ことば〉とは、〈ことば〉の方から名乗りを上げてくるものです。
【言葉】の操作が、随意筋を意思に沿って動かすことであるとすると
 〈ことば〉の名乗りは、心臓が意思とは関係なく鼓動を刻むようなもの。

心臓の鼓動によって生かされている身体。
頭脳の命令に沿って動く身体。
どちらも同じ身体でありながら、その在りようが異なるように
 〈ことば〉と【言葉】は、同じ言葉でありながら在りようが異なります。

同様に、〈わたし〉と【私】も同じ「私」でありながら、在りようが異なる。


言葉は元来、〈うつりゆくもの〉です。
それが、リカージョンが生まれ
 文字が発明され
  印刷技術が発達し
   出版資本が生まれて「国語」が生まれ
IT技術の発達でテキストがどんどん【とどまるもの】になっていきました。

僕が今、打ち込んでいる言葉も
 どこにあるのかもしれないサーバ内の微少なトランジスタに
  電位の差として記録され
容易に検索可能な【とどまるもの】となるでしょう。

ですが、言葉は
 生まれるその瞬間は〈ことば〉であるということは変わりません。


人間も同様です。

ヒトは〈うつろいゆくもの〉として生まれ、死んでいきます。
ところが「なまえ」を与えられ
 膨大な「なまえ 」を記憶に蓄積し
 「なまえ」を体系化して知識と為して留め置くうちに
いつしか自己を【とどまるもの】として認識し始める。

が、いくら認識しようとも、人間は〈うつろいゆく〉ヒトであることは変わらない。
環境がどれほど【とどまるもの】に取り囲まれようとも、
 ヒト自身が〈うつろいゆくもの〉であることは変わりようがありません。


ヒトをして人間と為し、【とどまるもの】と為すのは言葉です。
ですが、その言葉もまた、元は〈ことば〉です。
言葉には【とどまる】要素があり、その要素は文明の発達と共に増大した。
これは事実ですし、その事実をよしとしてきたことも事実です。
が、これから先もよしとしてよいのかどうかは疑問です。


【とどまるもの】は同一性を生みだします。
ヒトは環境適応性抜群の生き物で
 なおかつ環境か改変能力も群を抜いていますから
  自身で環境を変え
   変えた環境に自身が適応してさらに環境を変え――
という負のフィードバックを生みだしやすい。
そうしたフィードバックのもとに
 ヒトはどんどん【とどまる】人間になってしまいました。


【とどまるもの】に生みだされた同一性は、「所有感」も生み出します。
元来〈うつろいゆくもの〉である人は
 【とどまるもの】と認識してしまうことで不安を生みだしてしまう。
不安を隠蔽するために【とどまるもの】を紐付けし確固たるものにしようとする。
その営みのひとつが【所有】です。

同じ作動は言葉にも働きます。

【私】によって操作された【言葉】は、【私】に紐付けされたもの。
【私】に紐付けされ【所有】された【言葉】は、もはや自我。
【言葉】による表現とは、自我の拡張行為です。
そうした【言葉】は、犯されたと感じると隠蔽してたはずの不安が顔を出す。

〈ことば〉は、【私】によって操作される以前のものです。
先に記したように、ピダハンの人たちのように
 リカージョンのない言葉を生成することは僕たちにはほぼ不可能。
だから、表出された言葉は、どうしても【言葉】になってしまう。
それは仕方がないことです。

ですが、【言葉】を【所有】から断ち切ることはできます。
【言葉】も、もとは〈ことば〉であったこと。
僕たちが人間になる過程で
〈ことば〉を【言葉】に変換する技術を習得しなければならなかったこと。

技術の習得は可能性を広げることです。
可能性を広げることは、よしとすべきであることは言うまでもないでしょう。

ですが、よしとすることで、見失うものがあることを見失うのは残念なことです。
言葉は僕たちの中で、日々、〈ことば〉として生まれています。
そして、〈ことば〉は、誰のものでもない。


それはそうでしょう。
〈ことば〉は【私】が操作できないものです。
しかし、表現のためにはどうしても操作は必要。
なので、致し方なく〈ことば〉は【言葉】になってしまう。
だけど、伝えたいのは操作後の【言葉】ではなく、操作前の〈ことば〉です。
操作前の〈ことば〉は、【私】による【所有】の前のものです。

自ら操作できない〈ことば〉は
 どのように操作をしたとしても
  どのように受けとめられるかは不明です。
また【私】の【所有】でない〈ことば〉を伝えようと欲するのであるなら、
 〈ことば〉がどのように受けとめられようとも【私】には関係のないことです。

繰り返しますが、僕たちは言葉を【言葉】として表現することしかできません。
ですが、伝えたいものが〈ことば〉だと自覚があれば
 【私】を言葉から切り離すことは可能です。
〈ことば〉への自覚が【私】の輪郭を浮き上がらせ
 【私】と【言葉】の切断する〈意志〉を生みます。

そして〈意志〉は、〈ことば〉を待ち受けようとする〈構え〉に繋がっていく。
この〈構え〉を保つことは〈生きる〉ことに他ならないと僕は思います。
〈ことば〉に流されながら、流されていることを自覚し、愉しむ。
その愉しみがわかれば
 〈ことば〉を【言葉】に変換することなど「方便」に過ぎません。



ですが、そうはいっても、表現は〈うた〉でありたいと思う気持ちはあります。

〈世界〉を感じたままの〈ことば〉で語りたい。
が、〈世界〉は有限な〈ことば〉で語るには複雑すぎる。
だから、リカージョンはどうしても必要だし、【言葉】のアーカイブも必要になる。

それであっても、紡ぎ出す表現は〈うた〉でありたいと願います。
見果てぬ夢だと思い
 これはでは妥協を重ねてきましたが「つまらないこと」です。
たとえ「できないこと」であろうとも
 「大切なこと」を追いかけていくのが〈生きる〉ということでしょう。

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『東京家族』と『東京物語』




良い映画だと思いました。
一口に「良い映画」という以上に、良い映画。

この作品が小津安二郎監督の『東京物語』のオマージュであることは言わずもがな。
オマージュに留まらない作品であることも、また然り。
山田洋次監督は、もう十分に、小津安二郎監督に匹敵すると思いました。
(と言えるほど、小津作品を見ているわけではないのですけど... σ(^^;)

リアリティという観点から見れば、『東京家族』です。
現代が舞台ということももちろんあるんだけど、それは結果論。

〈時間〉なんです。
東京に暮らす人たちと、上京してきた老夫婦とでは〈時間〉が違う。
その人それぞれに流れている主観的な〈時間〉。

『東京物語』の方も、〈時間〉の差違はよく描かれていると思います。
小津監督がなぜあの映画を「東京物語」としたのかという理由を考えたとき、東京で暮らす者と地方で暮らす者の〈時間〉の差違を描きたかったのだろうと考えると、納得がいきます。当時でも東京は、〈時間〉の流れが際立って速かったのでしょう。

上京してきた老夫婦を邪険に扱うことになってしまったのは、東京の「時間」に適応して〈時間〉が速くなってしまったがゆえ。"Time is Money"となった東京は、Moneyの流れの増大に伴って「時間」が速くなり、そこに暮らす者は、どうしても己の〈時間〉を速くしていていかないと適応できません。

「東京の時間」に適応した身体と、そうでない身体。そうでない身体が、家族であっても東京から追いやられて「宿無し」になってしまう。この構図は『物語』も『家族』もまったく同じだと思います。

『東京家族』は現代作品であるがゆえに、現代人たる僕には〈時間〉がよりリアルに感じられる。ただそれだけのことだろうと思います。


いえ、「ただそれだけ」は違うかもしれません。
山田監督の方は、〈時間〉の差違にもっと意識的なのかもしれない。

そう感じたのは、父親役の橋爪功が友人と飲んだくれるシーンです。
このシーンの描き方は『東京物語』よりも、一歩踏み込んでいると感じられました。
時代に取り残されてしまって(現代的な意味合いで)残念な人なってしまった老人という、これまた現代的にリアルな描写もさることながら、橋爪功に何度も「このままではいかん」と言わせているところ。このセリフは、僕は山田監督のメッセージではないかと思いました。

ダメ押しは、母親が亡くなった後、末の息子と婚約者が東京へ帰る場面で、同じ橋爪功が「東京者は忙しいからな」といったところ。ここを見て、山田監督は、『物語』との時代の差違を伝えたいのかもしれないと思った。

もっとも、『物語』の方は記憶が曖昧なので、笠智衆も同じようなセリフを言っていたかもしれません。だとしたら、「時代の差違の強調」は僕の思い込みに過ぎないことになりますが、「ただそれだけ」は違うことの証拠(?)は他にもあります。

そこは、上記のような微妙なところではなく、物語構成上の違いとなって現われている。

2つあります。

ひとつめ。

『物語』では原節子が演じていた役回りは『家族』では蒼井優になっていて、同じ役回りではない。『物語』では戦死した次男の嫁だったのが、『家族』では末息子の婚約者になっています。

この違いは非常に重要です。『物語』において老夫婦と原節子役は既知の間柄であったのに対し、『家族』では物語中に知り合う関係。この関係性の違いは、物語そのものの「時代」に対する志向性の違いとなって出てきています。すなわち、前者は過去志向、後者は未来志向です。

また、構成の違いは役回りの違いになる。『物語』にあった原節子の見せ所の「説教」の場面が『東京家族』にはありません。

「説教」の場面とは、いち早く母親の遺品を確保しようとする長女の振る舞いに、末娘が原節子に向かって愚痴を言う。母親が死んだばかりなのに節操がない、儒教ふうにいうならば「孝」が足りないと言う。それに対して原節子は「親子の間柄は、それで自然」だと言い聞かせる、というところ。ここがすっぽり抜け落ちている。『家族』にも長女が遺品を確保しようとする場面はありますが、それは単に『物語』を引き継いだだけのもので終わっていて、『家族』のメインストーリーとは無関係なものになってしまっています。

この変更が意味するところは、やはり志向性の差です。

『物語』の「時代」においては、「東京の時間」こそが主調であり、老夫婦の〈時間〉は、もはや過去のもの。原節子の言は、「子が親を捨てるのは自然」と言いつつ、同時にそれは「時代の流れ」だということも示唆していました。つまり、老夫婦は「過去」だということであり、一人残された笠智衆は、その地方(尾道)の暮らしのなかに埋没していくということです。


このことは、ふたつめの違いにも表われています。

『物語』では、冒頭のシーンは東京に出発前の老夫婦の尾道の家でした。そこに近所のお婆さんが通りがかる。このお婆さんは「過去」の象徴であり、物語の最後の締めにも登場します。

対して『家族』では、お婆さんの役は女子中学生に変わっています。そして、犬の世話をするということで老夫婦のセリフとしては冒頭で登場しますが、姿は終盤にならないと登場しない。

『家族』において、蒼井優が担った役割は「未来」です。そして、女子中学生もまた「未来」。『家族』には、『物語』にあった「過去」を強調することで肯定した「東京主調」に変わって、地方――それも尾道より後退した離島――の暮らしにおいて「未来」を提示するという展開がある。

『物語』の「過去」を象徴するお婆さんによる締めに変わって、『家族』では女子中学生が犬をイキイキと散歩に連れ出すシーンになっています。

そして橋爪功もまた、「過去」の人間として、「未来」を肯定するセリフを言います。時代に合わないと見なしていた末息子が、実は死んだ妻の優しさを引き継いだ者であること。そして、その息子を婚約者に、丁寧に託す。男性の「時代」を「過去」のものとし、女性の「時代」に「未来」を託す。

決定的なのは橋爪功が妻の遺品として蒼井優に贈った品物です。それが何であるかはここでは伏せます。『東京家族』をすでに観た人は知っているでしょうし、もし、僕のこの文章を見てから『東京家族』を観ようと思う人がいるなら、せめてそれが何であるかを自分の目で確認してもらいたいと思うから。


僕たち男は、橋爪功がしたように、畳に手をついて丁寧に「未来」を女性に託すべき――これが『東京家族』において山田洋次監督が伝えたいメッセージなのかもしれません。




『年収90万円で東京ハッピーライフ』


よかったです、この本。


不器用さを逆手にとって、うまく生きてるなぁ~、と。
「ひきこもり」の進化形というか。しっかり自立した「ひきこもり」。

年収90万でも、自分に必要な分だけは稼いでいるわけだから、「ひきこもり」ではない。
だけど、その額は、「ひきこもり」のための必要経費という感じ。

「ひきこもり」のために、最小限、社会と交わるという矛盾を主体的に〈生きる〉。
その具体的な形が、週休5日の年収90万。

自身にとって「楽しいこと」「やりたいこと」「大切なこと」「できること」を、客観的な選択肢から選択したわけではなく、主体的に「ここ!」という感じでピックアップしたという感じの〈ひきこもり〉。

とても良い感じです。


主体的な〈ひきこもり〉は、強いられた【ひきこもり】とは、当然、一味違います。

目次の抜き書きしてみると

第一章 ハッピーライフの基本とは
わたしの暮らし
実感を大切にすること

第二章 フツーって、何?
進学とか就職って、しないと生きていけないんでしょうか?
将来やりたいこと、マジないんですけど
友達って必要?
他人と比べられてツライとき
いじめられて死にたいとき
自分の見た目が好きになれない
LGBTのこと
意味不明なルール
人間はみな平等のはずですよね?
隠居はベストな生き方でしょうか
個性って、何?

第三章 衣食住を実感するくらし
1 「食」で、ひとはつくられる
何を食べればいいのか
粗食をしたらこう変わりました
MY粗食マニュアル
1週間の献立
自分に合う食生活を見つける
キッチンと、その周辺
食材をどこで買うか問題
紅茶とスコーン
野草狩りもまた楽し

2 「衣」を、生活から考える
服装がしっくりくるのは20代から
隠居のワードローブ大公開

3 「住」は、恋人のようなもの
今のアパートにたどり着くまで
部屋の選び方、付き合い方

第四章 毎日のハッピー思考術
心と体のチューニング
お金とうまくやっていくために
働く、ということ
貯金について
低所得者にとっての税
夢や目標はないとダメなのか
平和=退屈ではない
将来について
生きること、死ぬこと


こういう感じ。

啓蒙的な臭いは皆無で、主に著者大原扁理さんが「自分自身のためにやっていること」を列挙したという感じなんだけど、なのに、結構ヤバい(笑)。哲学的な小見出しもあるけど、「かくあるべし!」なんてのは、全くなし。「僕はこうだよ」と言っているだけ。

それは結局、僕の言葉で言うと、「時間が流れている」から。
「変化」しているから。
〈いのち〉の本質。
著者の個性に合った〈変化〉。
その結果としての〈ひきこもり〉。
そして、具体的な衣食住の在り方がある。

そうした具体的記述を読んでいると、流れているな~と感じます。
これが結構、ヤバイ。


さらにヤバイのは、ちゃんと流れていないところがあるということへの自覚もあるところ。
著者は、学校ではかなりひどいイジメに遭っていたらしい。淡々と書かれてはいるけれど、そうとうに酷い目にあったらしいことは察せられます。そして、そのダメージを受けた部分は、動いていない。変化していない。

ヤバイと思うのは、動かない部分を動かそうと思っていないところ。
僕なんかだと、どうしても動かしたい、どうにかしたいと思ってしまうけど、大原さんにはそんな「欲」はない。そこは動かなくても、ここは動くんだから、動くところを大切にしようよ、というスタンス。

ちょっと敬服します。
僕はそんなふうには生きたくないけど、それはそれ。


若干、ツッコミを入れると、こういう男性♂を、女性♀はヤバイとは思わないだろうな、ということ。
良い悪いの話ではありませんよ、念のため。
そんなふうに、悪く言えば小さくまとまった〈生きる〉は、個体としての〈生きる〉には合致しているけど、種としての〈生きる〉というところには背を向けていると思わざるを得ない。
モテるなんてことは、考えていない。

この種のことは、考えないようにしようと思えばできるかというと、そういう類いのものではないんですね。「裡なる欲求」だから。「欲求」には従うのが自然であって、抑圧すると歪む。その点、大原さんはその「欲求」は薄いんでしょうね。

もし、それなりに「欲求」があったとしたら、動かさないでいられる部分も、動かさざるを得なくなる。といったって、簡単には動かないだろうから、もしかしたら映画『きみはいい子』で抉られていたような場面が生まれるかもしれない。が、「欲求」がなければ、エネルギーがないなら、そういうこともそもそも生まれない。

重ねて言うけど、これは良い悪いのはなしではありません。「そういうもの」だという話。そして、自分をしっかり「そういうもの」として受けとめている。そこがヤバイ。


話を広げると、これは時代ということもあると考えます。
他種との生存競争が前提の世界では、モテたいと思う「欲求」のない個体は、どうしても競争力が低い。その競争力の低さが、種全体とまでは行かなくても、その個体が所属する共同体全体の生存力を低下させてしまうことになるので、社会から忌避されてしまう要素が出てくるのは否めない。

ところが、現在の人類は、他種との生存競争というレイヤにおいては、圧倒的に優位に立ってしまっています。つまり、その部分での競争力は、もはや考慮しなくていい状態になっている。むしろ、優位が環境の有限性をぶち当たって、人類のみならず、生態系全体の維持を脅かすという事態にまでなっています。

そう考えると、欲求が薄い個体というのは、かえって種の生存に貢献する個体ということにもなる。そうした個体が増えて、「欲求は強くあるべし」という過去の社会的刷り込みがなくなっていけば、過剰に優位に傾いてしまっているバランスを、内側から調整できるようになっていく。というか、そういう「調整」はすでに「種の意志」――なんてものがあるのかどうかは知りませんが――によって始まっていて、過去を引きずった社会心理が足を引っ張っている状態ではないかと思っていたりもする。

「足を引っ張っている」ものの典型は、「経済成長しなければならない」という強迫観念でしょう。そうした【呪縛】【呪い】を自覚していない者は、「年収90万? それでは経済成長しないではないか!」と息巻きそう。そうやって息巻いて、実は、時代のフロントランナーであるかもしれない著者を社会的に潰していこうとする――、自他が認める時代のフロントランナーである堀江貴文さんが本書に共感を寄せていたりしますから、そういう「時代」は、もはや過去のものになっている感はあります。


大仰な話はさておき、本書は深刻なところもするっと楽しんで読めて、それでいて考えさせられる好著だと思います。お薦めです。

ベートーヴェン 『第九』


やっとこの文章を書くことが出来る機会が巡ってきました。

この文章は、もう、何年も前から書きたいと思っていたんです。
が、なんとなく書きそびれていました。
『第九』だから、タイミングは年末かな~とか、いつも思っていたんですけど、なぜか、タイミングにならなかった。

それもこれも、今、思うと、ここが書くべきタイミングだから、ということになります。
根拠のない、たわいもない話ですが。


『第九』のことを文章に書く。そう思うと、思い出されるのはやはり、吉田秀和さんの『私の好きな曲』。


画像のリンクを貼ろうと思って検索してみたら、現在は、ちくまから独立した本になって出ているんですね。僕が愛読してた頃は、新潮文庫だったはずだけど。

新潮文庫版が廃版になって、ちくまの全集に収録されていたのは知っていましたけど、全集のその刊だけ買うのもなんだかな~と思って手を出しそびれていた。が、独立して本になったなら、改めて買おうかしら。


というようなことは、さておき、思い出すのは、吉田さんが、第九のティンパニ奏者をやってみたいと書いていたことです。『第九』はことのほかティンパニが活躍する曲で、NHKホールの、N響のティンパニの誰々が気持ちよさそうとか、そんなようなことをイントロダクションで書き綴っていた――とても印象に残っています。

で、思ったのは、僕だったら、何処だろう?――と。
音楽が好きなくせに、楽器は、小中学校の頃のリコーダーを除いたらほとんど触ったこともなくて――エア指揮はよくやっていましたがσ(^_^;)――、そんな伎倆が何にもない人間が、「ここだけなら」ということでオーケストラに参加させてもらうことを許されるとして、その「ここだけ」はどこになるだろうか。この一音、二音ならいいよ、ということで許してもらうことができたら、どこを選ぶか――。

そんなことをずっと考えていたんです。「考える」といっても、保留状態ですけど。

で、あるとき答えがでた。「ここ。ここをやりたい。これだけやれたら幸せ。やれたらと思うだけで幸せ」というところが見つかった。その「幸せ」を書いてみたいとずっと思っていたわけなんです。

今、その「幸せ」を味わっています(^o^)





其処は、第三楽章の中間部。中間部の、弦のピッチカート。♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ と何度か、出る。これをやりたい。
上の動画だと39分過ぎから、1分ほどの間。

第三楽章は優しい音楽です。楽園の音楽。「ABABCABD」という形で構成されていて、中間部は「C」に当たります。「A」のメロディーも「B」も、優しさがそのまま表われた音楽。が、「C」のそれは、優しいというより間抜け。聴き始めて間もない頃は、その間抜けさの意味がわからず、なんなんだこれは...と呆れながら聴いていました。速くこの無意味な時間が過ぎればいいのに、とか思いながら。

けれど、その意味に気がつくときが来る。その間抜けさは、愛すべきものなんです。ホルンの間抜けなメロディは、そう、昼寝をしている男の鼾みたいなもの。スヤスヤではない、グーガー(笑)。グーガーと、何の警戒もなく委ねた心身を優しく撫でるそよ風が、♪ポンポン♪ 。♪ポンポン♪ だけど、撫でているんです。

そういうイメージが立ち上がったとき、ああ、僕がやりたいのはここ! だと思いました。それ以来、『第九』で僕がいちばん好きな場所は、♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ (^_^;) ここで音楽が終わりになるなら、それが最上。


だけど、世界は残酷です。そこでは終わらせてくれない。いやでも「経過」して行ってしまう。ならば、「経過」を受け入れて進むしかありません。

第三楽章は、この上なく優しい音楽であると同時に、この上なく悲しい音楽でもあります。「経過」を受け入れることの決意表明の音楽でもあるから。「D」がその部分に当たります。上の動画だと、43分50秒あたりから。惜別のファンファーレがそれ。

惜別のファンファーレは、二度、表われます。なぜ、二度なのか。一度では断ち切れないから。一度だけでは未練が残る。その未練をダメ押しして断ち切るために、もう一度ファンファーレを吹き鳴らす。この二度目の音の痛いこと。その後の余韻の虚しいこと。

こんな音楽が立ち現れるのは、【怨】があるからです。〈世界〉をデタラメに引き裂く【怨】があるから。中間部の間抜けな音は【怨】のない世界。だけど、現実には【怨】はあって、それは「経過」させていかなければならない。そうしないと〈生きる〉ことができないし、「経過」させていくのであれば、引き裂かれていることを、まず、受け入れなければならない。

その決意があって、第四楽章の「怒濤」が始まる。あれは、世界を再生させていくときの「痛み」です。第三楽章の惜別が切断の「痛み」なら、第四楽章のそれは接続の「痛み」。ふたつの「痛み」を「経過」させて始めて、地の底から「喜びの歌」が出てくる。

地の底から出てきた「喜びの歌」が地上に芽を出し、ぐんぐんと伸び育っていくシーンは、『第九』のもっとも輝かしいところです。やがてその「歌」は人間の「声」を迎え入れる。「声」はまた「祈り」となって「歌」と融合する。
そして融合のあとに、「人間の歌声」が純粋な「祈り」として出る。引き裂かれた〈世界〉の再統合への「意志」として。「純粋意志」が表われたら、あとは「昇天」あるのみ。

『第九』のこの「高さ」は、敬服すべきものです。
だけど、だけど、もし、♪ポンポン♪ で留まっておくことが許されるのなら、僕はそっちの方がいい。そっちの方がいいけど、〈いのち〉がそんなふうに出来ていないのは、もう、どうしようもない真実です。


『誰が星の王子さまを殺したのか』



※「追記」しました。




『星の王子さま』について語りたいと思ったら、この音楽が出てきました。


ショパン作曲、ノクターン第20番ハ短調。「遺作」と呼ばれる一曲です。

(映画『戦場のピアニスト』は今回はスルー。今後への伏線ですw)

僕がクラシック音楽を聞き始めた頃、ピアニストには2つの系列があって、それはベートーヴェン弾きとショパン弾きだと言われていました。そういうことは、最近は言わなくなっているようですけど。

この分類に、それなりの根拠はあると思います。

昔、愛読した吉田秀和さんの文章に、その根拠らしきものがあった記憶があります。

ショパンの音楽は、自分の心を覆い隠すためのものだ――

祖国ポーランドから、青雲の志を抱いてパリの社交界にデピュー下したショパン。
成功は収めた。ところが、その成功は、ショパンが心から欲していたものとは違った。
自身の成功に裏切られたショパンは、さりとて成功を手放すこともできずに、社交界からの需要に応じて、自分の心に背いた音楽を作り続けていく羽目に陥る――。

ベートーヴェンは違います。
いったんは手中に収めた成功を手放すことを恐れませんでした。自身に「直」であることを選んだ――。
いえ、選んだのはそうだったのに間違いはないけれど、そうすっぱりと選んだと言い切れない部分もあります。
ベートーヴェンは、彼自身の選択を認めなかった社会に対して【怨】を抱いていた部分もありました。その【怨】は、成功を手放す選択はしたものの、やはり、惜しいという気持ちがあったから生まれたに違いありません。

これは、そういう【怨】が表に出てしまっている音楽だと思います。


ベートーヴェン作曲の弦楽四重奏曲第7番ヘ長調。「ラズモフスキー第1番」と呼ばれるものの、第三楽章です。

この音楽の内容に沿った副題を付けるなら、それは“慟哭”が相応しいでしょう。
より精確にいうならば、慟哭して見せている音楽。

「見せている」部分がどうしてもある。慟哭はホンモノだけど、そのホンモノを【怨】を晴らすために使ってしまっている手つきがあって、そのことが、ある種の嫌らしさを聴き手に感じさせてしまいます。

まるで、五郎の自転車のようです。被害者がいつの間にか加害者になっていた、というのは言い過ぎですが、当たらずとも遠からずの「逆転」がこの音楽にはにじみ出てしまっています。

ベートーヴェンは、彼自身のそういった所も含めて「統合」を成し遂げていきますし、そういうところは音楽そのものにも表われている。ベートーヴェン弾きとは、そうした「統合」を自身において再創造しようとする者のことです。


ショパンはそうした「統合」を果たせなかった人だと思います。かといって、心を押し殺したまま終えたのかというと、そうではない。そうはいかないのが人間です。そうもいかないから、「分裂」が美しい装いをまとって溢れ出てしまった。

それが、ノクターン第20番ハ短調「遺作」です。

(この音楽が『戦場のピアニスト』で用いられた理由も以上のことだと推測しますが、その詳細はまた後ほど)


サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は、ショパンの『遺作』です。
僕にはそう感じられます。
そして、今回、取り上げたい『誰が星の王子さまを殺したのか』は、ベートーヴェン弾きが弾いた『遺作』のようなもの。

「弾いた」というよりは「解析した」かな?

それはどういうことになるか。

「ショパン弾き」にとって、尊重すべきは「溢れ出た美しさ」です。ここの同調して、愛すべきかわいそうな「王子さま」を愛でる。それが作法。

「ベートーヴェン弾き」は「王子さま」と「共振」します。すると、王子さまと読み手の自他の区別がなくなる。王子さまに同調することで見える風景が描かれているのが、この本です。


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「コミュ障」は美酒を嗜むべし


以前、『note』にアップした文章をこちらにもあげます。

  ***

NNNドキュメント 『障害プラスα~自閉症スペクトラムと少年事件の間に~』という番組を観ました。



思ったところを記します。

自閉症スペクトラムの人たちを「コミュ障」としてしまうのは乱暴なことです。「コミュ障」という俗語には、見下しのまなざしがふくまれています。

だけど、事実として、主に脳において器質的に何らかの特徴(あくまで“特徴”です)があって、そのことが原因で他者のコミュニケーションが苦手な人というのは存在しています。そういった人たちが円滑なコミュニケーションが望まれる社会のなかで、「コミュ障」というところにカテゴライズされてしまうと現象は避けようのないことではあります。

この番組が示しているのは、そうしたコミュニケーション障害が犯罪の必要十分条件ではない、ということ。

必要条件ですらありません。
むしろ、別に十分条件がある。
それが「プラスアルファ」。

自身を充分なコミュニケーション能力があると位置づけ、その傲慢さから他者を「コミュ障」と蔑むようなハラスメント行為が引き起こす心の傷。僕は、他者から傷つけられることで生じる“傷”を【毒】と表現することにしていますが、「プラスアルファ」は、まさにその【毒】です。

そうした【毒】のもっとも嫌らしい特性は、依存性があることです。依存性があるから、中毒になる。中毒になってしまうと、心身を蝕むことがわかっていても理性の制御がなかなか効かず、やめるにやめられない状態に陥ってしまうということ。

僕自身がアスペルガーであり、そうした中毒も味わってきたので、その苦しさはよくわかります。

その経験から言えること。
コミュニケーションはお酒に似ている。
コミュニケーションとお酒を酌み交すことは、アナロジカルです。


心地よいコミュニケーションは、お酒を適度に飲んでほろ酔いになったときの愉悦感に似ています。ところが度を超して泥酔状態になってしまうと、心地よさから別のものへと変質します。

体質的にアルコールに強い飲んべえの場合、心地よさは減退しません。むしろ増す。酔っ払って上機嫌になるのはいいけれど、酒に飲まれて理性の制御から外れた上機嫌は迷惑です。上機嫌な人は幸せでしょうが、その尻ぬぐいを他人に押しつけて、他人を不幸にしてしまいます。

体質的にアルコールに強くない下戸な人の場合、度を超すと心地よさは減退してしまうどころか、心地悪さに取って代われてしまいます。そうなるとお酒は進まなくなりますが、お酒を酌み交すというコミュニケーションの場においては、往々にして、進まないお酒を勧められて辛い思いをすることになります。

辛い経験を重ねると誰でもそのような機会を避けるようになります。しかし、同じ場を共有していても心地よい思いをしている飲んべえには、そのことが理解できません。なので、重ねてそうしたコミュニケーションの場を持とうと欲する。

体質の差から生じる意欲の差です。
致し方ありません。
体質は生まれ持ったものなので、当人の意志でどうこうなるものではありません。

意欲に溢れる飲んべえは、“飲み”の場を持とうとします。
下戸は避けようとします。
すると、自然に飲める人だけが集まるようになる。

お酒が飲める飲めないは、社会生活を営むなかで必須の要素ではありません。かつては、飲む意欲を(嘘でも)もつか持たないかは、社会人として重要な要素だったことはありました。現代では必ずしもそうではない。好ましいことです。

しかし、その一方で、社会生活を営む上での要素であるコミュニケーションの重要性がかつてより高くなってしまっています。
“カースト”という身分を生みだすほどに。

コミュニケーション能力の高い者は寄り集まって、自分たちにとっては心地よいコミュニケーションを繰り広げます。
それはそれでいいことです。自分たちで後始末までするならば。

コミュニケーション能力の高い者たちは、体質的にコミュニケーションを避けてしまう体質の者たちを「コミュ障」と呼称するようになります。ここまで至ると身分の差、すなわち差別になってしまっています。差別する者は、さも当たり前のように、自分たちが吐いた反吐の後始末を差別される者たちへと押しつけるようになります。
本音ではコミュニケーションを避けているのに、コミュニケーションから逃げ切れない者は、反吐の後始末をするという形でコミュニケーションに参加することを強いらてしまいます。

社会で生きている以上、人間はコミュニケーションから逃げられません。コミュニケーションは、「ヒト」が「人間」であるあるための必須条件です。ヒトであっても、人間的コミュニケーションが出来ない者は人間とは見なされません。人間でなければ人間が営む社会のなかで生存することが困難になってしまう。生存への恐怖から、ヒトはコミュニケーションへと駆られる。なのに、体質的にコミュニケーションに溺れることができない。


溺れなくてもいいというのは誰にでもわかることです。
にもかかわらず、コミュニケーション地獄の社会では、溺れることができるか否かで人間を選別してしてしまっています。

たとえば企業が求める人材がそうです。
コミュニケーションとお酒のアナロジーで語るなら、企業が求める人材とは、溺れるほど飲むことができる体質であって、なおかつ潰れることのない者です。飲めない人間にはハードルが極めて高い。

しかし、飲めるけれど溺れない人間などごく一握りです。飲める人間でも、その大半は、飲めてしまうが故に溺れてしまう人間です。そうなると、社会にとっては、飲むことができることの害悪のほうが大きい。最大の害悪は、飲めないけれど他の能力が高い者を疎外してしまうことです。


上記の番組の最後に、取材を受けた「コミュ障」の少年が語っていました。

  「僕はたぶん失敗する」

しかし、この少年の自己認識能力は決して低くありません。心理的ハードルを越えれば、充分に自己認識を為している知性を開陳することができる。【毒】に冒されて、予め自身の失敗を規定してしまっていることが、彼の少年の最大の難所です。


では、「コミュ障」はどうしたらいいのでしょうか。

社会において、コミュニケーションは必須です。
しかしながら、溺れることができるだけの能力が必須というわけではない。
ここをしっかり区別することが大切です。

お酒に例えるなら、美酒を嗜めばよい。

良質のコミュニケーションは美酒に似ています。
印象深い味わいであるのに後味は軽くて、悪酔いすることが少ない。

お酒とコミュニケーションの共通点はそれだけではありません。
お酒もコミュニケーションも「醸す」ことで生まれるものだということ。

お酒に溺れてしまう者は、美酒を醸すことができない。
同様に、コミュニケーションに溺れてしまう者もまた、良質のコミュニケーションを醸し出すことができません。

コミュニケーションが必須の人間にとっての上質な生き方とは、良質なコミュニケーションのなかに身を浸すことでしょう。上質であるか否かは、体質的に飲める飲めないとはさほど関係がありません。飲めてしまうから逆に嗜むことができないという質の悪い人間が多いのが、社会の実相です。

だったら、答えは難しくない。

自身のコミュニケーション消化能力の範囲内で、上質のコミュニケーションを嗜めばよい。無理に質の悪いコミュニケーションを飲んで、反吐を吐くような真似はやめればよい。自分の体質に合った分だけ嗜んでいれば、消化能力が向上することも期待できます。体質的に差がある人には敵わないにしても。

難しいと感じるのは「良質」を見極めることですが、なに、その気になりさえすれば、さほど難しいことでありません。若干時間はかかりるかしれませんが、徐々に嗅ぎ分けられるようになってきます。

大切なのは嗅ぎ分けようとする「意志」なんです。

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Mozart:Requiem K.626


先日、とある場所で話をしているときに、ひょっこり柿田川の湧水の話を持ち出したことがありました。

柿田川というのは、ご存知の方も多いと思いますが、富士山からの湧水を水源とする川です。わずか1.2キロの長さしかないけれど、とても水がきれいなことで有名。その柿田川の水源となる湧水群は公園になっていて、それがまた国道一号線のすぐそばで、多くの車がブンブンと行き交うすぐそばに、荘厳と形容しても足らないような自然現象が涌き起こっている。とてもギャップのある場所だったりします。

僕がそこへ始めて行ったのは、まだ樵を始める前です。南アルプスの山中の山小屋に居る頃。山の仲間に「ここは凄いぞ」ということで、案内してもらった。そして、その湧水の色を見て、ビックリしたわけです。

(柿田川湧水の画像や動画はネット上にいくつもありますが、敢えて貼りません。モニターで見ても驚くような色ですが、やっぱり実物とは全く異なると思うから。)

その彼曰く、これは富士山の空の色だ、と。それも、9合より上でないと見られない色だといった。その彼は、南アルプスに来る前は、ずっと富士山8合目の山小屋に居たんだそうです。

僕も何度か富士山に登ってはいますが、彼の言う「色」には出会ったことがない。彼に「わからない」と言ったら、「それはそうだろう。こことは違って、すぐに見つけられる色ではないよ。」と返事があったのを憶えています。

そのかわりというわけではありませんが、湧水の「色」を見て、僕のアタマのなかで再生されたものがある。それが、モーツァルトの『レクイエム K. 626』 でした。


「再生」が始まった箇所も明確に憶えています。この動画だと、4:16あたりから。コーラスが対位法を組みながら、深淵に向かってゆっくりと沈み込んでいく。伴奏のオーケストラは、沈み込んでいくときに見える深淵の風景を描写するかのよう。

僕のなかでは、この音楽と湧水の「色」はしっかりと結びついてしまっていて、どちらかが脳裏に出てくると、もうひとつも必ず出てきてしまうというものになってしまっている。そういうことって、誰にもありますよね。


始めて柿田川湧水を見たときのことをもう少し思い出しますと、ひとしきり「色」を眺めたあと、無性に美味いモノを食べたくなったことを憶えています。とにかく、とびきり美味いモノを。その時は幸い、山で1シーズン稼いだ後で懐も暖かだったので、欲求を十分に叶えることができました。

今から思うと、その欲求は、反撥だったと思います。
自然には、ところどころ、「あちら」へ向かってぽっくりと穴が空いたような場所があるんですね。そんなところへ引き込まれまいとする身体の欲求。


映画『アマデウス』でも取り上げられたのでご存知の方も多いと思いますが、モーツァルトのこの『レクイエム』は未完成の作品です。『アマデウス』では、『レクイエム』はモーツァルトの才能に嫉妬したサリエリの依頼だったという筋立てになっていますが、それは史実ではなく、他人の作品を金で買って自分の作品として発表するのが趣味だった、どこぞの貴族の依頼だったということが知られているようです。なんでも、自分の妻の葬儀のためだったとか。

が、ああいう正体不明の男がモーツァルトに依頼してきたのは事実だったようで、モーツァルトは自分で自分のレクイエムを作曲していると思い込んでいたのも、本当だったらしいという話も伝わっています。そして、その作曲は果たせず終わった。

未完でよかったというか、完成させることを許されない作品――。この『レクイエム』を聴いて、そんなふうに感じるのは、僕ひとりだけではないはずです。


イメージだけで人間を殺すことができるか? 僕はできてしまうと思う。できてしまうだろうという「実感」が、かすかにではあるけれども、僕自身のなかにあったりもします。

それは幾度か断食を試しているうちに培われたものです。「食べない」という覚悟を自身の中へ落とし込む。落とし込みがうまく行かなくて、「食べない」ことが痩せ我慢になって辛いというような失敗も繰り返しながら、それでも回を重ねると落とし込み方へコツみたいなものが摑めてくる。その先に「今から死ぬ」ということも、きっとできるだろうという感触がある。

もっとも、そんなコツを掴むことが出来るようになる前に、肉体の寿命が先に尽きてしまうでしょうけど。

『レクイエム』が示すのは、そうしたコツそのものではありません。コツは具体的な方法論なので、イメージではない。だけど、コツを掴むとそれに付随したイメージもまた生まれて来るのは事実で、そうしたイメージは、コツへの案内路なるとも思う。実際、モーツァルトは、自身が死ぬという暗示にかかってしまっていて、その暗示が深まっていく過程を比類のない音楽的才能で描写したのではないか。暗示が強いとコツなどという方法論をすっ飛ばして、「逝ってしまう」ことはあり得るでしょうからね。

そうこう考えると、やはりこの『レクイエム』は、完成されないほうがよかった作品。

――と考えていたのは、以前のこと。今は、完成されなかったのは、惜しいことだったと思っています。そして、「完成されなくてよかった」と考えることが、【呪い】なんだと、今は思っています。

「完成されなくてよかった」と考えることには、社会的なことが考慮に入っている。だけど、〈いのち〉というところから考え直してみると、そういうのは余計なお節介だな、と思う。


こういうことです。
仮に、僕が断食の試行を重ねて、「今から死ぬ」ということのコツを習得したとします。じゃあ、それを試してみるか?

死にたいと思っていたら、試すのではなく、実行するでしょう。
「死」ということの性質上、二度目はないわけだから、「試す」もない。
でも、おそらく、というより、間違いなく、実行しない。死にたくないから。

「生と死の際」を覗いてみるということができたとして、では、その行為はどこに属しているかというと、〈生〉の側に属しているわけです。意志をもって感覚を磨き、能動的に自身の主体の在り方を改変していかないと、そういう能力は身につかない。それは成長であり、成長は〈生〉の属性です。そういう意志そのものが〈生〉です。「覗こう」と思っているならすでに〈生〉であって、「生と死の際」に立つということは、その輪郭をハッキリと識るということだから、自分が〈生〉の側に立っているということは、自ずから理解できるはず。

そんな確信が僕にはあります。

【呪い】というのは、そうした確信を曇らせるものだと思う。そして、それは、やはり【社会】から来るんだと思うんです。自然に、あるべきように育っていけば、人間は「楽しいこと」と「つまらないこと」、「したいこと」と「したくないこと」、「大事なこと」と「くだらないこと」、「できること」と「できないこと」を誰からも教わらずに自身の能力で嗅ぎ分けることができる大人になる。これらの能力が十全に備わっていれば、社会的な状況を分析して選択肢を検討する、なんてことをしなくて済むようになる。

その延長に〈死〉もある。身体がそれまでの〈生〉(←「ものがたり」?)の結果であるとするならば、〈死〉だってそうのはず。そしてそれは、「楽しいこと」や「したいこと」を判別する能力がある時期を迎えないと備わらないのと同様に、〈死〉だってそういう時期がこないとやってこないに違いない。

そういう時期が未だやってきていないにも関わらず、死を迎えることが【死】です。これは不幸なこととしか言いようがありません。だけど、その【死】ですらも、生き残っている者にとっては〈生〉を際立たせるものだと思う。【死】を悼む者が嘆き苦しむのは、まごうかたなくホンモノでしょう。ホンモノであるということが、すなわち〈生〉です。

〈生〉の延長に〈死〉はあって、自ずから死にたいと思うのであれば、そういう準備ができているということ。ならば、死んでいくのが幸せというものでしょう。僕はそういうふうにして〈死にたい〉と思っている。ゆえにこそ、〈生きたい〉と思っている今は、〈死〉と【死】とを混同し混乱せしめるような【呪い】に対して抗いたいと思っている。煎じ詰めればたったそれだけのことです。



余談にもうひとつ、楽曲を紹介しておきます。



ブルックナーの交響曲第9番。これも未完で終わった曲で、これもまた、完成することが許されなかったのではなかったかと感じずにはいられない音楽。

とはいっても、モーツァルトの『レクイエム』は正反対。あちらが深淵に沈み逝くイメージだとすると、こちらは登り詰めるイメージ。

ブルックナーはほぼ交響曲に特化して作曲した人で、その交響曲のスタイルもすべて同じ。混沌から始まって自生的に秩序が形成されていき、最期は登り詰めて終わる。最高傑作は8番だと言われていますが、それはなにより、その登り詰め方がハンパないからです。そしてこの9番は、残念なことに、登り詰める部分が欠けている。

もし、9番において、登り詰めが具現化していたとしたら、それはどんな場所になったか。ちょっと想像が付きません。が、ブルックナー自身にはそのイメージはあったようで、同時に、その具現化を果たす前に寿命が来るということも知っていたよう。そういう記録を読むと、これもまた具現化させてはならないものだったのかと思わずにはいられません。


この音楽の中にはお気に入りの部分はいくつもあるのですが、他人に紹介するとなると、いの一番は第二楽章のイントロと、それに続く主題の提示でしょう。動画だと27:30秒あたりから。静かに始まったイントロの後、おもむろに大音響が響く。リズミックだけどリズミカルではなく、重厚であるが重くもなく。「一」の〈生〉を統合した「全」としての〈生〉の音。ヒンドゥーにおいては、シバ神が生と破壊を司り、そして同時に舞踊の神様でもあるとされていますが、そのシバ神が踊ったら、こんなふうになるに違いないと思うような音楽です。

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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