愚慫空論

『年収90万円で東京ハッピーライフ』


よかったです、この本。


不器用さを逆手にとって、うまく生きてるなぁ~、と。
「ひきこもり」の進化形というか。しっかり自立した「ひきこもり」。

年収90万でも、自分に必要な分だけは稼いでいるわけだから、「ひきこもり」ではない。
だけど、その額は、「ひきこもり」のための必要経費という感じ。

「ひきこもり」のために、最小限、社会と交わるという矛盾を主体的に〈生きる〉。
その具体的な形が、週休5日の年収90万。

自身にとって「楽しいこと」「やりたいこと」「大切なこと」「できること」を、客観的な選択肢から選択したわけではなく、主体的に「ここ!」という感じでピックアップしたという感じの〈ひきこもり〉。

とても良い感じです。


主体的な〈ひきこもり〉は、強いられた【ひきこもり】とは、当然、一味違います。

目次の抜き書きしてみると

第一章 ハッピーライフの基本とは
わたしの暮らし
実感を大切にすること

第二章 フツーって、何?
進学とか就職って、しないと生きていけないんでしょうか?
将来やりたいこと、マジないんですけど
友達って必要?
他人と比べられてツライとき
いじめられて死にたいとき
自分の見た目が好きになれない
LGBTのこと
意味不明なルール
人間はみな平等のはずですよね?
隠居はベストな生き方でしょうか
個性って、何?

第三章 衣食住を実感するくらし
1 「食」で、ひとはつくられる
何を食べればいいのか
粗食をしたらこう変わりました
MY粗食マニュアル
1週間の献立
自分に合う食生活を見つける
キッチンと、その周辺
食材をどこで買うか問題
紅茶とスコーン
野草狩りもまた楽し

2 「衣」を、生活から考える
服装がしっくりくるのは20代から
隠居のワードローブ大公開

3 「住」は、恋人のようなもの
今のアパートにたどり着くまで
部屋の選び方、付き合い方

第四章 毎日のハッピー思考術
心と体のチューニング
お金とうまくやっていくために
働く、ということ
貯金について
低所得者にとっての税
夢や目標はないとダメなのか
平和=退屈ではない
将来について
生きること、死ぬこと


こういう感じ。

啓蒙的な臭いは皆無で、主に著者大原扁理さんが「自分自身のためにやっていること」を列挙したという感じなんだけど、なのに、結構ヤバい(笑)。哲学的な小見出しもあるけど、「かくあるべし!」なんてのは、全くなし。「僕はこうだよ」と言っているだけ。

それは結局、僕の言葉で言うと、「時間が流れている」から。
「変化」しているから。
〈いのち〉の本質。
著者の個性に合った〈変化〉。
その結果としての〈ひきこもり〉。
そして、具体的な衣食住の在り方がある。

そうした具体的記述を読んでいると、流れているな~と感じます。
これが結構、ヤバイ。


さらにヤバイのは、ちゃんと流れていないところがあるということへの自覚もあるところ。
著者は、学校ではかなりひどいイジメに遭っていたらしい。淡々と書かれてはいるけれど、そうとうに酷い目にあったらしいことは察せられます。そして、そのダメージを受けた部分は、動いていない。変化していない。

ヤバイと思うのは、動かない部分を動かそうと思っていないところ。
僕なんかだと、どうしても動かしたい、どうにかしたいと思ってしまうけど、大原さんにはそんな「欲」はない。そこは動かなくても、ここは動くんだから、動くところを大切にしようよ、というスタンス。

ちょっと敬服します。
僕はそんなふうには生きたくないけど、それはそれ。


若干、ツッコミを入れると、こういう男性♂を、女性♀はヤバイとは思わないだろうな、ということ。
良い悪いの話ではありませんよ、念のため。
そんなふうに、悪く言えば小さくまとまった〈生きる〉は、個体としての〈生きる〉には合致しているけど、種としての〈生きる〉というところには背を向けていると思わざるを得ない。
モテるなんてことは、考えていない。

この種のことは、考えないようにしようと思えばできるかというと、そういう類いのものではないんですね。「裡なる欲求」だから。「欲求」には従うのが自然であって、抑圧すると歪む。その点、大原さんはその「欲求」は薄いんでしょうね。

もし、それなりに「欲求」があったとしたら、動かさないでいられる部分も、動かさざるを得なくなる。といったって、簡単には動かないだろうから、もしかしたら映画『きみはいい子』で抉られていたような場面が生まれるかもしれない。が、「欲求」がなければ、エネルギーがないなら、そういうこともそもそも生まれない。

重ねて言うけど、これは良い悪いのはなしではありません。「そういうもの」だという話。そして、自分をしっかり「そういうもの」として受けとめている。そこがヤバイ。


話を広げると、これは時代ということもあると考えます。
他種との生存競争が前提の世界では、モテたいと思う「欲求」のない個体は、どうしても競争力が低い。その競争力の低さが、種全体とまでは行かなくても、その個体が所属する共同体全体の生存力を低下させてしまうことになるので、社会から忌避されてしまう要素が出てくるのは否めない。

ところが、現在の人類は、他種との生存競争というレイヤにおいては、圧倒的に優位に立ってしまっています。つまり、その部分での競争力は、もはや考慮しなくていい状態になっている。むしろ、優位が環境の有限性をぶち当たって、人類のみならず、生態系全体の維持を脅かすという事態にまでなっています。

そう考えると、欲求が薄い個体というのは、かえって種の生存に貢献する個体ということにもなる。そうした個体が増えて、「欲求は強くあるべし」という過去の社会的刷り込みがなくなっていけば、過剰に優位に傾いてしまっているバランスを、内側から調整できるようになっていく。というか、そういう「調整」はすでに「種の意志」――なんてものがあるのかどうかは知りませんが――によって始まっていて、過去を引きずった社会心理が足を引っ張っている状態ではないかと思っていたりもする。

「足を引っ張っている」ものの典型は、「経済成長しなければならない」という強迫観念でしょう。そうした【呪縛】【呪い】を自覚していない者は、「年収90万? それでは経済成長しないではないか!」と息巻きそう。そうやって息巻いて、実は、時代のフロントランナーであるかもしれない著者を社会的に潰していこうとする――、自他が認める時代のフロントランナーである堀江貴文さんが本書に共感を寄せていたりしますから、そういう「時代」は、もはや過去のものになっている感はあります。


大仰な話はさておき、本書は深刻なところもするっと楽しんで読めて、それでいて考えさせられる好著だと思います。お薦めです。

ベートーヴェン 『第九』


やっとこの文章を書くことが出来る機会が巡ってきました。

この文章は、もう、何年も前から書きたいと思っていたんです。
が、なんとなく書きそびれていました。
『第九』だから、タイミングは年末かな~とか、いつも思っていたんですけど、なぜか、タイミングにならなかった。

それもこれも、今、思うと、ここが書くべきタイミングだから、ということになります。
根拠のない、たわいもない話ですが。


『第九』のことを文章に書く。そう思うと、思い出されるのはやはり、吉田秀和さんの『私の好きな曲』。


画像のリンクを貼ろうと思って検索してみたら、現在は、ちくまから独立した本になって出ているんですね。僕が愛読してた頃は、新潮文庫だったはずだけど。

新潮文庫版が廃版になって、ちくまの全集に収録されていたのは知っていましたけど、全集のその刊だけ買うのもなんだかな~と思って手を出しそびれていた。が、独立して本になったなら、改めて買おうかしら。


というようなことは、さておき、思い出すのは、吉田さんが、第九のティンパニ奏者をやってみたいと書いていたことです。『第九』はことのほかティンパニが活躍する曲で、NHKホールの、N響のティンパニの誰々が気持ちよさそうとか、そんなようなことをイントロダクションで書き綴っていた――とても印象に残っています。

で、思ったのは、僕だったら、何処だろう?――と。
音楽が好きなくせに、楽器は、小中学校の頃のリコーダーを除いたらほとんど触ったこともなくて――エア指揮はよくやっていましたがσ(^_^;)――、そんな伎倆が何にもない人間が、「ここだけなら」ということでオーケストラに参加させてもらうことを許されるとして、その「ここだけ」はどこになるだろうか。この一音、二音ならいいよ、ということで許してもらうことができたら、どこを選ぶか――。

そんなことをずっと考えていたんです。「考える」といっても、保留状態ですけど。

で、あるとき答えがでた。「ここ。ここをやりたい。これだけやれたら幸せ。やれたらと思うだけで幸せ」というところが見つかった。その「幸せ」を書いてみたいとずっと思っていたわけなんです。

今、その「幸せ」を味わっています(^o^)





其処は、第三楽章の中間部。中間部の、弦のピッチカート。♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ と何度か、出る。これをやりたい。
上の動画だと39分過ぎから、1分ほどの間。

第三楽章は優しい音楽です。楽園の音楽。「ABABCABD」という形で構成されていて、中間部は「C」に当たります。「A」のメロディーも「B」も、優しさがそのまま表われた音楽。が、「C」のそれは、優しいというより間抜け。聴き始めて間もない頃は、その間抜けさの意味がわからず、なんなんだこれは...と呆れながら聴いていました。速くこの無意味な時間が過ぎればいいのに、とか思いながら。

けれど、その意味に気がつくときが来る。その間抜けさは、愛すべきものなんです。ホルンの間抜けなメロディは、そう、昼寝をしている男の鼾みたいなもの。スヤスヤではない、グーガー(笑)。グーガーと、何の警戒もなく委ねた心身を優しく撫でるそよ風が、♪ポンポン♪ 。♪ポンポン♪ だけど、撫でているんです。

そういうイメージが立ち上がったとき、ああ、僕がやりたいのはここ! だと思いました。それ以来、『第九』で僕がいちばん好きな場所は、♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ (^_^;) ここで音楽が終わりになるなら、それが最上。


だけど、世界は残酷です。そこでは終わらせてくれない。いやでも「経過」して行ってしまう。ならば、「経過」を受け入れて進むしかありません。

第三楽章は、この上なく優しい音楽であると同時に、この上なく悲しい音楽でもあります。「経過」を受け入れることの決意表明の音楽でもあるから。「D」がその部分に当たります。上の動画だと、43分50秒あたりから。惜別のファンファーレがそれ。

惜別のファンファーレは、二度、表われます。なぜ、二度なのか。一度では断ち切れないから。一度だけでは未練が残る。その未練をダメ押しして断ち切るために、もう一度ファンファーレを吹き鳴らす。この二度目の音の痛いこと。その後の余韻の虚しいこと。

こんな音楽が立ち現れるのは、【怨】があるからです。〈世界〉をデタラメに引き裂く【怨】があるから。中間部の間抜けな音は【怨】のない世界。だけど、現実には【怨】はあって、それは「経過」させていかなければならない。そうしないと〈生きる〉ことができないし、「経過」させていくのであれば、引き裂かれていることを、まず、受け入れなければならない。

その決意があって、第四楽章の「怒濤」が始まる。あれは、世界を再生させていくときの「痛み」です。第三楽章の惜別が切断の「痛み」なら、第四楽章のそれは接続の「痛み」。ふたつの「痛み」を「経過」させて始めて、地の底から「喜びの歌」が出てくる。

地の底から出てきた「喜びの歌」が地上に芽を出し、ぐんぐんと伸び育っていくシーンは、『第九』のもっとも輝かしいところです。やがてその「歌」は人間の「声」を迎え入れる。「声」はまた「祈り」となって「歌」と融合する。
そして融合のあとに、「人間の歌声」が純粋な「祈り」として出る。引き裂かれた〈世界〉の再統合への「意志」として。「純粋意志」が表われたら、あとは「昇天」あるのみ。

『第九』のこの「高さ」は、敬服すべきものです。
だけど、だけど、もし、♪ポンポン♪ で留まっておくことが許されるのなら、僕はそっちの方がいい。そっちの方がいいけど、〈いのち〉がそんなふうに出来ていないのは、もう、どうしようもない真実です。


『誰が星の王子さまを殺したのか』



※「追記」しました。




『星の王子さま』について語りたいと思ったら、この音楽が出てきました。


ショパン作曲、ノクターン第20番ハ短調。「遺作」と呼ばれる一曲です。

(映画『戦場のピアニスト』は今回はスルー。今後への伏線ですw)

僕がクラシック音楽を聞き始めた頃、ピアニストには2つの系列があって、それはベートーヴェン弾きとショパン弾きだと言われていました。そういうことは、最近は言わなくなっているようですけど。

この分類に、それなりの根拠はあると思います。

昔、愛読した吉田秀和さんの文章に、その根拠らしきものがあった記憶があります。

ショパンの音楽は、自分の心を覆い隠すためのものだ――

祖国ポーランドから、青雲の志を抱いてパリの社交界にデピュー下したショパン。
成功は収めた。ところが、その成功は、ショパンが心から欲していたものとは違った。
自身の成功に裏切られたショパンは、さりとて成功を手放すこともできずに、社交界からの需要に応じて、自分の心に背いた音楽を作り続けていく羽目に陥る――。

ベートーヴェンは違います。
いったんは手中に収めた成功を手放すことを恐れませんでした。自身に「直」であることを選んだ――。
いえ、選んだのはそうだったのに間違いはないけれど、そうすっぱりと選んだと言い切れない部分もあります。
ベートーヴェンは、彼自身の選択を認めなかった社会に対して【怨】を抱いていた部分もありました。その【怨】は、成功を手放す選択はしたものの、やはり、惜しいという気持ちがあったから生まれたに違いありません。

これは、そういう【怨】が表に出てしまっている音楽だと思います。


ベートーヴェン作曲の弦楽四重奏曲第7番ヘ長調。「ラズモフスキー第1番」と呼ばれるものの、第三楽章です。

この音楽の内容に沿った副題を付けるなら、それは“慟哭”が相応しいでしょう。
より精確にいうならば、慟哭して見せている音楽。

「見せている」部分がどうしてもある。慟哭はホンモノだけど、そのホンモノを【怨】を晴らすために使ってしまっている手つきがあって、そのことが、ある種の嫌らしさを聴き手に感じさせてしまいます。

まるで、五郎の自転車のようです。被害者がいつの間にか加害者になっていた、というのは言い過ぎですが、当たらずとも遠からずの「逆転」がこの音楽にはにじみ出てしまっています。

ベートーヴェンは、彼自身のそういった所も含めて「統合」を成し遂げていきますし、そういうところは音楽そのものにも表われている。ベートーヴェン弾きとは、そうした「統合」を自身において再創造しようとする者のことです。


ショパンはそうした「統合」を果たせなかった人だと思います。かといって、心を押し殺したまま終えたのかというと、そうではない。そうはいかないのが人間です。そうもいかないから、「分裂」が美しい装いをまとって溢れ出てしまった。

それが、ノクターン第20番ハ短調「遺作」です。

(この音楽が『戦場のピアニスト』で用いられた理由も以上のことだと推測しますが、その詳細はまた後ほど)


サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は、ショパンの『遺作』です。
僕にはそう感じられます。
そして、今回、取り上げたい『誰が星の王子さまを殺したのか』は、ベートーヴェン弾きが弾いた『遺作』のようなもの。

「弾いた」というよりは「解析した」かな?

それはどういうことになるか。

「ショパン弾き」にとって、尊重すべきは「溢れ出た美しさ」です。ここの同調して、愛すべきかわいそうな「王子さま」を愛でる。それが作法。

「ベートーヴェン弾き」は「王子さま」と「共振」します。すると、王子さまと読み手の自他の区別がなくなる。王子さまに同調することで見える風景が描かれているのが、この本です。


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「コミュ障」は美酒を嗜むべし


以前、『note』にアップした文章をこちらにもあげます。

  ***

NNNドキュメント 『障害プラスα~自閉症スペクトラムと少年事件の間に~』という番組を観ました。



思ったところを記します。

自閉症スペクトラムの人たちを「コミュ障」としてしまうのは乱暴なことです。「コミュ障」という俗語には、見下しのまなざしがふくまれています。

だけど、事実として、主に脳において器質的に何らかの特徴(あくまで“特徴”です)があって、そのことが原因で他者のコミュニケーションが苦手な人というのは存在しています。そういった人たちが円滑なコミュニケーションが望まれる社会のなかで、「コミュ障」というところにカテゴライズされてしまうと現象は避けようのないことではあります。

この番組が示しているのは、そうしたコミュニケーション障害が犯罪の必要十分条件ではない、ということ。

必要条件ですらありません。
むしろ、別に十分条件がある。
それが「プラスアルファ」。

自身を充分なコミュニケーション能力があると位置づけ、その傲慢さから他者を「コミュ障」と蔑むようなハラスメント行為が引き起こす心の傷。僕は、他者から傷つけられることで生じる“傷”を【毒】と表現することにしていますが、「プラスアルファ」は、まさにその【毒】です。

そうした【毒】のもっとも嫌らしい特性は、依存性があることです。依存性があるから、中毒になる。中毒になってしまうと、心身を蝕むことがわかっていても理性の制御がなかなか効かず、やめるにやめられない状態に陥ってしまうということ。

僕自身がアスペルガーであり、そうした中毒も味わってきたので、その苦しさはよくわかります。

その経験から言えること。
コミュニケーションはお酒に似ている。
コミュニケーションとお酒を酌み交すことは、アナロジカルです。


心地よいコミュニケーションは、お酒を適度に飲んでほろ酔いになったときの愉悦感に似ています。ところが度を超して泥酔状態になってしまうと、心地よさから別のものへと変質します。

体質的にアルコールに強い飲んべえの場合、心地よさは減退しません。むしろ増す。酔っ払って上機嫌になるのはいいけれど、酒に飲まれて理性の制御から外れた上機嫌は迷惑です。上機嫌な人は幸せでしょうが、その尻ぬぐいを他人に押しつけて、他人を不幸にしてしまいます。

体質的にアルコールに強くない下戸な人の場合、度を超すと心地よさは減退してしまうどころか、心地悪さに取って代われてしまいます。そうなるとお酒は進まなくなりますが、お酒を酌み交すというコミュニケーションの場においては、往々にして、進まないお酒を勧められて辛い思いをすることになります。

辛い経験を重ねると誰でもそのような機会を避けるようになります。しかし、同じ場を共有していても心地よい思いをしている飲んべえには、そのことが理解できません。なので、重ねてそうしたコミュニケーションの場を持とうと欲する。

体質の差から生じる意欲の差です。
致し方ありません。
体質は生まれ持ったものなので、当人の意志でどうこうなるものではありません。

意欲に溢れる飲んべえは、“飲み”の場を持とうとします。
下戸は避けようとします。
すると、自然に飲める人だけが集まるようになる。

お酒が飲める飲めないは、社会生活を営むなかで必須の要素ではありません。かつては、飲む意欲を(嘘でも)もつか持たないかは、社会人として重要な要素だったことはありました。現代では必ずしもそうではない。好ましいことです。

しかし、その一方で、社会生活を営む上での要素であるコミュニケーションの重要性がかつてより高くなってしまっています。
“カースト”という身分を生みだすほどに。

コミュニケーション能力の高い者は寄り集まって、自分たちにとっては心地よいコミュニケーションを繰り広げます。
それはそれでいいことです。自分たちで後始末までするならば。

コミュニケーション能力の高い者たちは、体質的にコミュニケーションを避けてしまう体質の者たちを「コミュ障」と呼称するようになります。ここまで至ると身分の差、すなわち差別になってしまっています。差別する者は、さも当たり前のように、自分たちが吐いた反吐の後始末を差別される者たちへと押しつけるようになります。
本音ではコミュニケーションを避けているのに、コミュニケーションから逃げ切れない者は、反吐の後始末をするという形でコミュニケーションに参加することを強いらてしまいます。

社会で生きている以上、人間はコミュニケーションから逃げられません。コミュニケーションは、「ヒト」が「人間」であるあるための必須条件です。ヒトであっても、人間的コミュニケーションが出来ない者は人間とは見なされません。人間でなければ人間が営む社会のなかで生存することが困難になってしまう。生存への恐怖から、ヒトはコミュニケーションへと駆られる。なのに、体質的にコミュニケーションに溺れることができない。


溺れなくてもいいというのは誰にでもわかることです。
にもかかわらず、コミュニケーション地獄の社会では、溺れることができるか否かで人間を選別してしてしまっています。

たとえば企業が求める人材がそうです。
コミュニケーションとお酒のアナロジーで語るなら、企業が求める人材とは、溺れるほど飲むことができる体質であって、なおかつ潰れることのない者です。飲めない人間にはハードルが極めて高い。

しかし、飲めるけれど溺れない人間などごく一握りです。飲める人間でも、その大半は、飲めてしまうが故に溺れてしまう人間です。そうなると、社会にとっては、飲むことができることの害悪のほうが大きい。最大の害悪は、飲めないけれど他の能力が高い者を疎外してしまうことです。


上記の番組の最後に、取材を受けた「コミュ障」の少年が語っていました。

  「僕はたぶん失敗する」

しかし、この少年の自己認識能力は決して低くありません。心理的ハードルを越えれば、充分に自己認識を為している知性を開陳することができる。【毒】に冒されて、予め自身の失敗を規定してしまっていることが、彼の少年の最大の難所です。


では、「コミュ障」はどうしたらいいのでしょうか。

社会において、コミュニケーションは必須です。
しかしながら、溺れることができるだけの能力が必須というわけではない。
ここをしっかり区別することが大切です。

お酒に例えるなら、美酒を嗜めばよい。

良質のコミュニケーションは美酒に似ています。
印象深い味わいであるのに後味は軽くて、悪酔いすることが少ない。

お酒とコミュニケーションの共通点はそれだけではありません。
お酒もコミュニケーションも「醸す」ことで生まれるものだということ。

お酒に溺れてしまう者は、美酒を醸すことができない。
同様に、コミュニケーションに溺れてしまう者もまた、良質のコミュニケーションを醸し出すことができません。

コミュニケーションが必須の人間にとっての上質な生き方とは、良質なコミュニケーションのなかに身を浸すことでしょう。上質であるか否かは、体質的に飲める飲めないとはさほど関係がありません。飲めてしまうから逆に嗜むことができないという質の悪い人間が多いのが、社会の実相です。

だったら、答えは難しくない。

自身のコミュニケーション消化能力の範囲内で、上質のコミュニケーションを嗜めばよい。無理に質の悪いコミュニケーションを飲んで、反吐を吐くような真似はやめればよい。自分の体質に合った分だけ嗜んでいれば、消化能力が向上することも期待できます。体質的に差がある人には敵わないにしても。

難しいと感じるのは「良質」を見極めることですが、なに、その気になりさえすれば、さほど難しいことでありません。若干時間はかかりるかしれませんが、徐々に嗅ぎ分けられるようになってきます。

大切なのは嗅ぎ分けようとする「意志」なんです。

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Mozart:Requiem K.626


先日、とある場所で話をしているときに、ひょっこり柿田川の湧水の話を持ち出したことがありました。

柿田川というのは、ご存知の方も多いと思いますが、富士山からの湧水を水源とする川です。わずか1.2キロの長さしかないけれど、とても水がきれいなことで有名。その柿田川の水源となる湧水群は公園になっていて、それがまた国道一号線のすぐそばで、多くの車がブンブンと行き交うすぐそばに、荘厳と形容しても足らないような自然現象が涌き起こっている。とてもギャップのある場所だったりします。

僕がそこへ始めて行ったのは、まだ樵を始める前です。南アルプスの山中の山小屋に居る頃。山の仲間に「ここは凄いぞ」ということで、案内してもらった。そして、その湧水の色を見て、ビックリしたわけです。

(柿田川湧水の画像や動画はネット上にいくつもありますが、敢えて貼りません。モニターで見ても驚くような色ですが、やっぱり実物とは全く異なると思うから。)

その彼曰く、これは富士山の空の色だ、と。それも、9合より上でないと見られない色だといった。その彼は、南アルプスに来る前は、ずっと富士山8合目の山小屋に居たんだそうです。

僕も何度か富士山に登ってはいますが、彼の言う「色」には出会ったことがない。彼に「わからない」と言ったら、「それはそうだろう。こことは違って、すぐに見つけられる色ではないよ。」と返事があったのを憶えています。

そのかわりというわけではありませんが、湧水の「色」を見て、僕のアタマのなかで再生されたものがある。それが、モーツァルトの『レクイエム K. 626』 でした。


「再生」が始まった箇所も明確に憶えています。この動画だと、4:16あたりから。コーラスが対位法を組みながら、深淵に向かってゆっくりと沈み込んでいく。伴奏のオーケストラは、沈み込んでいくときに見える深淵の風景を描写するかのよう。

僕のなかでは、この音楽と湧水の「色」はしっかりと結びついてしまっていて、どちらかが脳裏に出てくると、もうひとつも必ず出てきてしまうというものになってしまっている。そういうことって、誰にもありますよね。


始めて柿田川湧水を見たときのことをもう少し思い出しますと、ひとしきり「色」を眺めたあと、無性に美味いモノを食べたくなったことを憶えています。とにかく、とびきり美味いモノを。その時は幸い、山で1シーズン稼いだ後で懐も暖かだったので、欲求を十分に叶えることができました。

今から思うと、その欲求は、反撥だったと思います。
自然には、ところどころ、「あちら」へ向かってぽっくりと穴が空いたような場所があるんですね。そんなところへ引き込まれまいとする身体の欲求。


映画『アマデウス』でも取り上げられたのでご存知の方も多いと思いますが、モーツァルトのこの『レクイエム』は未完成の作品です。『アマデウス』では、『レクイエム』はモーツァルトの才能に嫉妬したサリエリの依頼だったという筋立てになっていますが、それは史実ではなく、他人の作品を金で買って自分の作品として発表するのが趣味だった、どこぞの貴族の依頼だったということが知られているようです。なんでも、自分の妻の葬儀のためだったとか。

が、ああいう正体不明の男がモーツァルトに依頼してきたのは事実だったようで、モーツァルトは自分で自分のレクイエムを作曲していると思い込んでいたのも、本当だったらしいという話も伝わっています。そして、その作曲は果たせず終わった。

未完でよかったというか、完成させることを許されない作品――。この『レクイエム』を聴いて、そんなふうに感じるのは、僕ひとりだけではないはずです。


イメージだけで人間を殺すことができるか? 僕はできてしまうと思う。できてしまうだろうという「実感」が、かすかにではあるけれども、僕自身のなかにあったりもします。

それは幾度か断食を試しているうちに培われたものです。「食べない」という覚悟を自身の中へ落とし込む。落とし込みがうまく行かなくて、「食べない」ことが痩せ我慢になって辛いというような失敗も繰り返しながら、それでも回を重ねると落とし込み方へコツみたいなものが摑めてくる。その先に「今から死ぬ」ということも、きっとできるだろうという感触がある。

もっとも、そんなコツを掴むことが出来るようになる前に、肉体の寿命が先に尽きてしまうでしょうけど。

『レクイエム』が示すのは、そうしたコツそのものではありません。コツは具体的な方法論なので、イメージではない。だけど、コツを掴むとそれに付随したイメージもまた生まれて来るのは事実で、そうしたイメージは、コツへの案内路なるとも思う。実際、モーツァルトは、自身が死ぬという暗示にかかってしまっていて、その暗示が深まっていく過程を比類のない音楽的才能で描写したのではないか。暗示が強いとコツなどという方法論をすっ飛ばして、「逝ってしまう」ことはあり得るでしょうからね。

そうこう考えると、やはりこの『レクイエム』は、完成されないほうがよかった作品。

――と考えていたのは、以前のこと。今は、完成されなかったのは、惜しいことだったと思っています。そして、「完成されなくてよかった」と考えることが、【呪い】なんだと、今は思っています。

「完成されなくてよかった」と考えることには、社会的なことが考慮に入っている。だけど、〈いのち〉というところから考え直してみると、そういうのは余計なお節介だな、と思う。


こういうことです。
仮に、僕が断食の試行を重ねて、「今から死ぬ」ということのコツを習得したとします。じゃあ、それを試してみるか?

死にたいと思っていたら、試すのではなく、実行するでしょう。
「死」ということの性質上、二度目はないわけだから、「試す」もない。
でも、おそらく、というより、間違いなく、実行しない。死にたくないから。

「生と死の際」を覗いてみるということができたとして、では、その行為はどこに属しているかというと、〈生〉の側に属しているわけです。意志をもって感覚を磨き、能動的に自身の主体の在り方を改変していかないと、そういう能力は身につかない。それは成長であり、成長は〈生〉の属性です。そういう意志そのものが〈生〉です。「覗こう」と思っているならすでに〈生〉であって、「生と死の際」に立つということは、その輪郭をハッキリと識るということだから、自分が〈生〉の側に立っているということは、自ずから理解できるはず。

そんな確信が僕にはあります。

【呪い】というのは、そうした確信を曇らせるものだと思う。そして、それは、やはり【社会】から来るんだと思うんです。自然に、あるべきように育っていけば、人間は「楽しいこと」と「つまらないこと」、「したいこと」と「したくないこと」、「大事なこと」と「くだらないこと」、「できること」と「できないこと」を誰からも教わらずに自身の能力で嗅ぎ分けることができる大人になる。これらの能力が十全に備わっていれば、社会的な状況を分析して選択肢を検討する、なんてことをしなくて済むようになる。

その延長に〈死〉もある。身体がそれまでの〈生〉(←「ものがたり」?)の結果であるとするならば、〈死〉だってそうのはず。そしてそれは、「楽しいこと」や「したいこと」を判別する能力がある時期を迎えないと備わらないのと同様に、〈死〉だってそういう時期がこないとやってこないに違いない。

そういう時期が未だやってきていないにも関わらず、死を迎えることが【死】です。これは不幸なこととしか言いようがありません。だけど、その【死】ですらも、生き残っている者にとっては〈生〉を際立たせるものだと思う。【死】を悼む者が嘆き苦しむのは、まごうかたなくホンモノでしょう。ホンモノであるということが、すなわち〈生〉です。

〈生〉の延長に〈死〉はあって、自ずから死にたいと思うのであれば、そういう準備ができているということ。ならば、死んでいくのが幸せというものでしょう。僕はそういうふうにして〈死にたい〉と思っている。ゆえにこそ、〈生きたい〉と思っている今は、〈死〉と【死】とを混同し混乱せしめるような【呪い】に対して抗いたいと思っている。煎じ詰めればたったそれだけのことです。



余談にもうひとつ、楽曲を紹介しておきます。



ブルックナーの交響曲第9番。これも未完で終わった曲で、これもまた、完成することが許されなかったのではなかったかと感じずにはいられない音楽。

とはいっても、モーツァルトの『レクイエム』は正反対。あちらが深淵に沈み逝くイメージだとすると、こちらは登り詰めるイメージ。

ブルックナーはほぼ交響曲に特化して作曲した人で、その交響曲のスタイルもすべて同じ。混沌から始まって自生的に秩序が形成されていき、最期は登り詰めて終わる。最高傑作は8番だと言われていますが、それはなにより、その登り詰め方がハンパないからです。そしてこの9番は、残念なことに、登り詰める部分が欠けている。

もし、9番において、登り詰めが具現化していたとしたら、それはどんな場所になったか。ちょっと想像が付きません。が、ブルックナー自身にはそのイメージはあったようで、同時に、その具現化を果たす前に寿命が来るということも知っていたよう。そういう記録を読むと、これもまた具現化させてはならないものだったのかと思わずにはいられません。


この音楽の中にはお気に入りの部分はいくつもあるのですが、他人に紹介するとなると、いの一番は第二楽章のイントロと、それに続く主題の提示でしょう。動画だと27:30秒あたりから。静かに始まったイントロの後、おもむろに大音響が響く。リズミックだけどリズミカルではなく、重厚であるが重くもなく。「一」の〈生〉を統合した「全」としての〈生〉の音。ヒンドゥーにおいては、シバ神が生と破壊を司り、そして同時に舞踊の神様でもあるとされていますが、そのシバ神が踊ったら、こんなふうになるに違いないと思うような音楽です。

『身毒丸』

このような物語を読むことができた機縁に感謝。

『身毒丸』というタイトルで語られているものには、いろいろなバージョンがあるらしいです。最初、“身毒丸”で検索をかけたら舞台作品のほうが出て生きて、そのあらすじを読んで、これまた嫌なストーリーだなと思ったんだけれども、それはそれでまた機会を見つけて視聴してみようとは思うけれども、今回取り上げたいのはそっちのほうではなくて、折口信夫のそれ。

なお、“身毒”と書いて、「しんとく」と読むらしいです。


折口信夫の『身毒丸』は、青空文庫で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/4910_14227.html

できるけど、こういった文章は文庫本で読むのがいい。
手の中で温めるようにして、読むのが相応しいような気がします。


『身毒丸』は濃厚な〈いのち〉の物語です。
ムッとくる草いきれのような臭いを漂わせている作品。
キツネやタヌキに化かされても不思議ではない、濃密な〈いのち〉の絡まりの世界。

そんな作品に浸る中で、僕はふたつのことを思い起こしました。

ひとつは、熊野で樵をやっていた時分に聞いた話。


その話は、樵の先輩だったTさんという爺さんの、亡くなったお兄さんの話です。

最初のその人の話を聞いたのは、Tさんからではありませんでした。噂話の類いで、別の人から聞かされた。

Tさんのお兄さんはとてもよく働いた人だったんだけど、でも、なぜか自殺したんだよ――。

よくある、無責任な噂話ででした。
幾人からか聞かされた覚えがありますから、その界隈では有名な話だったのでしょう。


あるとき、その話をTさん自身から聞かされました。
それにはあるきっかけがあった。

Tさんはベテラン樵のなかでも優秀な人で、現場をまとめるリーダーでした。そのTさんが、ちょっとした失敗をしたことがあった。木材の搬出作業をするための架線敷設の作業をしているときだと思いましたが、障害になる木を一本、Tさんが伐り倒した。きちんと狙った方へ切ったのだけど、その方向には別のワイヤがすでに架空してあって、伐った木がそのワイヤに引っかかってしまった。木を伐るときに、そのワイヤを算段に入れていなかった。

Tさんは、頭を抱え込みました。「オレはバカだ...」と何度も何度も呻くように言った。反省という態度を通り越して、自分を罰しようとしてるようだった。僕は驚いて、そんなに自分を責めるほどのことではないから、人間は完璧ではないので、よくある失敗じゃないですか。そんなようなに声を掛けた記憶があります。

そういう神経質すぎる気質をTさんも自覚はしているらしく、誤って伐り倒した木の片付けをした後の休憩時、Tさんは弁解を始めました。その続きに、お兄さんの話が出てきた。

オレもマジメだけど、アニキはもっとマジメだった。他人の二倍は働いた。そんなに金が要ったわけでもないのに、なぜあんなに働いたのか、オレにもよくわからん。それがいつからか、顔を合わせるたびに「しんどい、しんどい」と漏らすようになって。けど、休めと勧めても聞き入れずに、とうとう首を吊ってしまった――。

そう語ったときのTさんの表情が、この『身毒丸』を読み進めていると浮かんできました。ムッとするような臭いが、思い起こさせたのだと思います。


草いきれのような、ムッとくる臭い。これは過剰な〈いのち〉の臭いです。〈いのち〉というものは、ひとつひとつがエネルギーの偏りの発現ですが、群れて集まってせめぎ合って、互いが互いにとって過剰な存在になっている。だからこそ、折り合って、食い合って、生臭いような臭いを発する。動物なら血生臭くなるし、植物なら草いきれのような臭いになる。その違いは、それぞれの《かたち》の違いでしかありません。

そういう臭いは、僕自身、樵をやっていたときには、嫌な臭いでした。仕事上、そうした臭いの元は敵でしたから。自身だって「そうした臭いの元」であるにも関わらず、いや、そうであるからこそ、敵になる。自身が快適に生きる為に、排除するべき敵。

たとえば、除伐という作業がありました。スギやヒノキを植林して、12~15年くらいの林で行う作業ですが、これがなかなか手強い。植林して5年くらいは毎年手入れを行うので、樹間に生えているのは主に草ですが、7~10年放置すると灌木が主体になっています。しかも、人間はおろか、キツネやタヌキだって立ち入れないくらいビッシリ密生していたりする。そんな空間へチェーンソーや下刈り木を手に斬り込んでいく。

空間の〈いのち〉の濃密さ。自身のエネルギー。そして、手にしている機械が発する破壊力。そんなせめぎ合いが愉快なわけがない。不愉快なせめぎ合いを甘受しながら作り上げるのが、人間にとって快適に感じられる空間。濃密過ぎる〈いのち〉を間引きして、人間自身の〈いのち〉をせいせいと放出できるような空間。そういった空間は、人間が育てたいスギやヒノキのとってもよかろうということで、作り上げるのが樵の仕事のひとつです。

が、仕事とはいえ、やはり対象は〈いのち〉です。「人間の都合」で〈いのち〉を身勝手に扱っていることに変わりはない。相手が同じ人間ではないので、社会的な意識は傷つくことはないけれど、身体にはどこか「澱」のようなものが溜まっていきます。それは肉体的な疲労と隣接していて、区別が付きがたいものでもある。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり


鈴木大拙『日本的霊性』のなかで出会った、僕が惹かれて止まない文章です。この文章をして「引力」を感じせしめるのは、身体の「澱」だと僕は思う。そして、その引力は折口もやはり感じているらしく、『身毒丸』の附言で、

わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐると思うてゐます。


と書いている。強く共感するところです。


Tさんのお兄さんが首を吊るに至ったのも、僕はこの「澱」こそが原因だろうと推測しています。他人の倍、働いて肉体的に疲労が蓄積していた。「しんどい」という言葉はそういうことだと解釈するのが近代的でしょうけれど、人間というものはそんな合理的なものではないと僕は思う。まして、まだキツネやタヌキに化かされるようなことが実際にあったような時代環境でのこと。

お兄さんのことを語ったTさんの表情は、能面の「翁」のそれのような、なんとも言葉にはし難い陰影がありました。『身毒丸』が僕に思い起こさせたのは、その陰影なんでしょう。




今は僕は樵を生業にはしていません。Tさんの陰影を語ると、引きずられて出てくるのが、僕が樵を辞めようと思ったときのことです。高性能林業機械の展示会でのこと。

この時の僕の心象風景を語るアナロジカルな題材として相応しいのは、これでしょう。


人ははかつて、森の神を殺した――

エボシ御前はいいます。
「森に光が入り、山犬どもが鎮まれば、ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう」

また、モロはアシタカに向かって罵声を浴びせます。
「黙れ、小僧! オマエにあの娘の不幸が癒やせるのか」

もののけ姫の「不幸」もまた、「澱」です。「神」や「仏」と同じく「澱」から生まれた何ものか。それは身毒丸もまた同じでしょう。

では、森に「光」をものとはなにか。「神」を殺したものは。
それは、『もののけ姫』の映画のなかでは“石火矢”です。その石火矢も、最初のものはレトロな装飾を施されまだしも趣のあるものでしたが、改良されたそれは【合理的なかたち】になってしまっている。

しかも悲しいことに、その改良を施したのは、これまた「澱」がその肉体に具現化してしまったライ病病みの人たち。エボシ御前は「人間として」、そうした人を愛し、ゆえにこそ森に「光」を入れる仕事を請け負う。

アシタカは、そんなエボシ御前の心を「夜叉」だと言っています。


僕がこのところずっと「呪い」と言っているのは、この「夜叉」のことです。

「呪い」という言葉のイメージから生まれるのは、一般的にはむしろ、ここでいう「澱」の方でしょう。身毒丸にせよ、サンにせよ、ライ病病みの人たちにせよ、そうした人々を形容する言葉としての「呪い」は、そのイメージに当てはまる。だけど、それではない。そちらの「呪い」であるならば、共に生きるもありだし、現に、人生の幾ばくかをそのように生きてきたという自負もあります。不愉快なせめぎ合いも甘受してきた。


高性能林業機械というシロモノは、石火矢の発展型です。これは「夜叉」を育んでしまうシロモノ。こんなものを森へ入れてしまうと、「神」は重ねて殺されてしまう。「不愉快なせめぎ合い」は、「快適で愉快な作業」に変質してしまう。そのことを僕は【呪い】だと言っています。

「不愉快なせめぎ合い」は〈いのち〉の総体が実は空間に対して過剰であることから生じる現象です。過剰ゆえに「澱」もまた生まれる。が、その「澱」とても、〈いのち〉の生業に他なりません。ならば、共に生きることはできます。

だが【呪い】はそうではない。もはや「澱」すらも生みません。確かにそれで、物質的には豊かになる。だが、「夜叉」が育つ。いずれ、その夜叉に心が喰われ〈生きる〉ことが難しくなる。それこそが【呪い】。

人間は今や、自身のエネルギーの他の、圧倒的なエネルギーを駆使するに至っています。それが「光」です。石火矢であり、銃器であり、重機であり、高性能林業機械です。銃器は兵器でもあり、その眷属には戦車もいれば爆撃機もいるし、原爆水爆だっている。原子力発電もまた、その眷属の一味でしょう。

僕が手にしていたチェーンソーや下刈り機程度なら、投資を回収するために患う【呪い】は軽微で済むかもしれません。だが、高性能林業機械となると、そうはいかない。投資に見合ったリターンが要求される。そのリターンのために森に「光」が入れられ、「神」は重ねて殺され、「神」と共振する心身も壊されていく。

チェーンソー程度であっても、僕の肉体にはその使役による傷跡が残っています。筋肉についた傷は、もう痕跡を残す程度になっていますが、骨へ行ったやつは、のちのち響いてくるかもしれない。が、それよりも厄介のは耳鳴り。甲高いエンジン音を側で聞き続けた所為で、右の耳には耳鳴りがある。これは仕事を離れて治ることはなく、年ごとにその大きさを増していく。まるで、アシタカが負った祟り神の「呪い」のようです。


そんな【システム】とは、どうやっても「共に生きる」ことなど僕にはできない。ゆえに僕以外の人間にも、やめて欲しいと願う。とはいえ、文明人にとって【システム】はもはや骨がらみになってしまっています。だから【呪い】が見えない。



以上が『身毒丸』によって引きずり出されたものの、一。
二は、『絶歌』です。

『絶歌』が出てきたのは、『身毒丸』という機縁を得る過程に依るところは確かにある。だけど、まさか、『身毒丸』の物語のなかで、Aを彷彿させる描写に逢うとは思っていませんでした。


芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ。
かういつて、龍女成仏品といふ一巻を手渡した。
さあ、これを血書するのぢやぞ。一毫も汚れた心を起すではないぞ。冥罰を忘れなよ。
身毒はこれまでに覚えのない程、憤りに胸を焦した。然しそれは師匠の語気におびき出されたものに過ぎない。心の裡では、師匠のことばを否定することは出来なかつた。経文を血書してゐる筆の先にも、どうかすると、長者の妹娘の姿がちらめいた。


心を断つ斧。血書。そして「汚れた心」。

ここで言われている「汚れた心」とは、端的には性欲のことでしょう。
性欲は誰にでもあるものだし、それを「汚れたもの」と認識するのも一般的です。
一般的であっても、性欲は、ムッとくるもの。身毒丸のそれは(身毒丸の性欲ではないにせよ)異常なものだと語られていて、さらに「斧」「血書」という強い言葉と対比され、ムッと具合はより強いものになっています。

それで思い出したのが『絶歌』に記されたAの自慰行為の告白。たしか、祖母の仏壇の前で、云々。詳細は憶えていませんし、思い出したくもないけれど、強くムッと来たことは強く憶えています。そこの描写は僕以外であっても、強い嫌悪感を憶えたのは間違いでしょう。


繰り返します。ムッとくるのは不愉快です。だが、嫌悪ではない。僕にとって、不愉快と嫌悪は明確に違うものです。【呪い】に対しては嫌悪です。どのような類いのものであれ――それがたとえ殺人に至るほど強く歪んだものであれ――エネルギーの放出には、不愉快は感じても嫌悪はしない。

機械でもそうです。発動機のエネルギー放出は、不愉快なばかりでなく時に快感ももたらしてくれました。あれは甚だ官能的で、快にも不快にもどちらへも転びます。その時の自身の状態で、転びかたが変わるだけ。

ですが、大きすぎるエネルギーは、どのように転ぼうとも、それに応じた破壊をもたらす。その破壊は嫌悪の対象になります。人間が人間のエネルギーで繕うことができるものは許せても、その許容を越えるものとは「共には生きることができない」。だって、当然でしょ? 許容を越えているんだから。


『身毒丸』に記されているのは、不愉快なものの許容の方法です。「血書」がその1。「芸道」もそう。「神仏」もそうです。許容の方法があれば、嫌悪はしなくて済みます。

ところが、僕たちの時代は、その方法を放棄してしまった。血書なんて、させられないでしょ? 芸道にそのような効用があると信じている人はほぼいないだろうし、神仏は言わずもがな。

そのようなものが殺されてしまったことが、僕に言わせれば【呪い】です。文明の「光」によって生じた【呪い】。


Aも、身毒丸の時代に生まれたのであれば、何らかの手段によって、修められた可能性は高いだろうと想像します。だが彼は、残念なことに、そうではなかった。【呪い】の中にいる者は【呪い】を自覚できてませんから、その「修める」手段を自ら手放したのだということにも気がつかない。だから、Aを責める。「罪」ではなく「汚れた心」を責める。

それは、程度の差はあれ、誰もが持っているものに過ぎないのに。その極端な「偏り」は彼の生来のものであって、誰もそれを責める資格などないはずなのに。

それもこれも、僕に言わせれば、ムッとくるものを許容できない、身体の「足らなさ」に起因します。『身毒丸』のなかに濃密に漂っている、ムッとくる〈いのち〉の臭い。【呪い】にかかって弱まった身体が、それを拒絶している――

だから僕は、身体を弱める【呪い】を嫌悪します。

Claudio Arrau Beethoven Piano Sonata No. 32


毒多さんのところで、「統合」をウンヌンカンヌンしていた所為でしょうね。
この動画が引っかかってきました。

ベートーヴェンのピアノソナタ第32番ハ短調作品111。

以前、『〈悲〉の響き』で取り上げたのは、このひとつ前の作品。作品110でした。



この動画に巡り会ったのは、狙っていたからではないんです。

出かける予定があるんだけど、まだ時間があって、それで少し読書をしていたんですね。BGMが欲しいと思って、なんとなくgoogleに「beethoven 111」と打ち込んで、出てきたyoutube動画を選択した。初めは音だけ聴くつもりでした。聞き流すつもりだったんです。

クラシック音楽って、映像は要らないことが多いんです、僕にとっては。音だけで十分、というか、映像は邪魔になることが経験上、多い。

だけど、この動画、音だけを聞き流すつもりが、気配がただならない。傷だらけ――ミスタッチ多発――な演奏なんだけど、ヘタウマならぬウマヘタな演奏なんだけど、突き抜けているものがある。それで、映像も観てみた。すると、額に汗した爺さんが映っていました。

これはまさしく「統合」の姿です。

クラウディオ・アラウというピアニスト。クラシックが好きな人なら、知っている名前です。晩年に録音したベートーベンのピアノソナタは素晴らしいという評判は、僕も知ってはいました。だけど、これほどとは想像していませんでした。

テクニカルな演奏の傷など、なんら問題になりません。肉体的な限界から来る「傷」が、かえって「統合」をより切実なものにしています。動的な祈り、とでも言いましょうか。

音楽は、馴染みのない人はなかなか届かないかもしれません。だけど、ピアニストの真摯な姿は、音楽を知らない人にも届くのではないでしょうか――そう思って、この記事をあげた次第。

この爺さんのこの演奏、齢80を過ぎてからのもののはずです。
成熟というのは、このような姿を指して言うんだなと思います。

『北の国から』 第14話


〈世界〉への「順接」と、【社会】への「逆接」。

そういったことに思いを巡らせていると、出てきたのが『北の国から』のワンシーンです。
それは、連続ドラマとして放映されたなかの、第14回。


そのワンシーンだけを切り出すのが親切なんでしょうけど、面倒なので(苦笑)、割愛させてください。問題のワンシーンは、26分あたりから。

これは純の回想シーンです。
五郎によって北海道・富良野に連れて行かれた純と蛍。純にとっては、それは「拉致」だった。

紆余曲折あって、母親が暮らす東京へ「一時帰宅」することになった純。
五郎との約束では、病気の母親への見舞いという口実での「一時帰宅」。
が、純は五郎の予想通り、五郎との約束を破棄しようと考える。
そして、五郎に「言い訳」の手紙を書き始める。

その手紙を書き始めたところで書き始めたところで回想されるのが、件のワンシーン。


当時、純の遊び仲間の間では、変速ギア付きの自転車が流行していた。が、純は自転車を持っておらず、劣等感を抱かざるを得なかった。

純は令子に頼み込んで、望み通り、変速ギア付きを勝ってもらう約束をした。喜ぶ純。
なのに、五郎は、どこからかボロい自転車を拾ってきて、手間をかけて修理をし、純に与える。
純は不満だったが妥協して、その自転車で友だちと遊ぶ。

そこへあるとき、警察官が尋ねてくる。
五郎の持ち帰った自転車の元の所有者から訴えがあったのだという。

五郎は警察官に反撥する。
あれは明らかに捨ててあったのだ。
だから、オレが手間暇をかけて、修理をして使えるようにした、と。

警察官の言い分は、例え捨てあったとしても「所有権」を放棄したわけではない。
だから、それは窃盗である。

間に立った令子は、事を穏便に納めようとして、警察官に詫びる。
その様子を純が見ている。


その回想シーンの後、純は富良野に戻る決意を固めます。
なぜ、あのとき五郎が怒ったのか。一体何に怒ったのか。
拉致されていったはずの富良野の暮らしのなかで、純はその理由を理解し始めていました。
純は、そこをもっと理解したいと思った――。


五郎の行動の理由は、〈世界〉への「順接」です。
怒りの理由は、〈世界〉に対する【社会】の「逆接」。

自転車は〈世界〉に属するのか。それとも〈社会〉に属するのか。
五郎にとっては、まず第一に〈世界〉です。〈世界〉があって「社会」がある。
だから、「社会」から放棄された(ゴミ捨て場にある)のなら、その〈価値〉を再発見できる者が自由に使ってよい。

だが、東京では、まず第一に「社会」に属しています。
「社会」のメンバーであるところの「人間」に属している。〈価値〉は関係がありません。
「価値」はあくまで、「社会の都合」によって決められています。
【社会的価値】はあっても、〈世界的価値〉は存在しない。
だからこそ、〈使用価値〉が無くなったはずの自転車も、所有権という「社会の都合」からみれば、以前、【価値】は残存していることになります。

そういう具合にできあがっている「社会」は【社会】であり〈世界〉とは「逆接」になっています。


令子は東京の生まれ育ちで、【社会】の側の人間です。
だから、五郎の世界観(感)が理解できない。
そういった世界観の齟齬は、浅い付き合いのうちはわからないものです。
ところが深い付き合いになると、ここ齟齬は、なかなか埋めがたい。
おのおのの「暮らし」に関わるからです。


〈世界〉と「順接」の〈社会〉における〈暮らし〉。
〈世界〉とは「逆接」の【社会】における【暮らし】。

言い換えれば、前者は「生活世界」であり、後者は【システム】です。
【システム】のなかでは、人間は社会人でしかありません。
〈世界〉は外側であって「カウントされないもの」。
現在の経済学は、まさにそういう作りになっています。


純のこの回想シーンは『北の国から』というストーリー上は挿入部分ですが、北の国からのという世界においては、起点になっています。

五郎と令子が別れることになるのは、ある意味自然なことです。
世界観(感)が違えば暮らしは違う。それに、五郎にとって東京という【社会】の暮らしは負担です。

このシーンは、純の決意の“種”の描写シーンであると同時に、五郎と令子の別離の“種”の描写でもある。

五郎は、その後、紆余曲折を経て、このシーンにおいて阻害された五郎の思いを実現することになります。
『遺言』で示される「拾ってきた街」というのがそれです。
そこは、〈世界〉の〈価値〉に「順接」な〈社会〉。
純と蛍も、五郎が主催する〈社会〉のメンバーになる。なるということが示唆されて、『北の国から』は完結します。


しかし、『北の国から』は、純が主役の物語です。
五郎は、「純の世界」を決定ずける重要な役回りですが、主役ではない。

『北の国から』もまた、僕の目から見れば「解呪」の物語です。
では、純は誰に「呪い」をかけられたのか。五郎です。五郎が純に「呪い」をかけた。
富良野へ連れて行くということが、実は「呪い」です。
それは蛍にとって同じです。

なぜ富良野行きが「呪い」なのか。それは、五郎の令子への復讐から始まっているからです。

五郎と令子が夫婦であってもすでにスレ違いが生じていたこと、令子の浮気はスレ違い(〈暮らし〉と【暮らし】の齟齬)から生まれた、ひとつの結果です。なのに、五郎も令子も、そのことを自然なことだとは捉えませんでした。

五郎は、自転車に対しては〈世界的価値〉で測ったのに、生身の人間であるはず令子に対してはその基準を適用しなかった。「夫婦」「家族」といった【社会的価値】にとらわれて、令子の振る舞いを裏切りだと感じてしまった。この感覚は、自転車の所有者が、捨てたはずの自転車に感じたそれと同種のもの。つまりは「所有」です。

五郎は、最初に2つ誤りを犯しています。
ひとつは、令子との別離を【社会的価値】に囚われて自然なことだと認識しなかったこと。
そして、その不自然な怒りを、令子に向けず、立場の弱い純と蛍へ遷したこと。ここでも【所有】が働いています。
『北の国から』という純(と蛍、そして五郎)の「解呪」のストーリーは、五郎の不自然な「遷怒」に端を発するものです。

その誤りは令子も同じ。
同じではあるけれど、見方によっては令子の方がスジを通してしています。
なぜなら、令子は【社会的価値】に殉じて死んでしまうから。

ほんと、『北の国から』は、残酷な物語です。

(以下、「追記」へ続きますが、とりあえず、ここでアップしておきます。)

『〈心〉はからだの外にある』





「〈心〉はからだの外にある」だなんて、常識外れです。
だけど、常識外れだからといって、真実ではないとは限らない。考え方によっては、筋の通ったものになり得ます。

本書の出発点はアフォーダンス理論です。
ご存知の通り、アフォーダンスがまず、常識外れ。一般的常識では物事の価値は“後付け”で決まると考えられている――つまり、価値を決定する「何ものか」があって、その「何ものか」が、物事に価値を“後から”付加していくと考えます。

対して、アフォーダンス理論は、物事の価値は予め定まっていると考える。物事への知覚があって価値が跡づけされるのではなく、価値が在るからこそ物事は知覚されると考える。そして、その考え方は、常識に反しているけれども、科学的には首尾一貫したスジの通ったものだと言えます。

価値を後付けする「何ものか」とは何か。それは〈心〉です。内面にあるはずの〈心〉。その前提に立つからこそ価値は圧付けされているという錯覚を生んでしまう。そして、その錯覚をみんなが共有してしまっているので、錯覚には気がつかない。

本書は、その錯覚の犯人をデカルトだと告発しています。

  我思う、故に我有り。

みんながこれを、そのとおりだと思ってしまったから、錯覚が生じるようになった。そういう錯覚を「心理主義」と言います。

なぜ人を殺すことはいけないのか

(前略)

ある行為を評価するには、その効果から測らなければならない。たとえば、ある教師の授業の仕方がうまいかどうかを測るには、教師本人ではなく、学生たちにたずねるべきだろう。それと同様に、ある行為が善いことか悪いことかは、その行為を為した本人に聞くべきものではなく、その行為によって影響を受ける人(たち)に問いたずねるべきである。
(中略)
殺人が悪であるかどうかも、殺す側でなく、殺される側に聞くべきである。それが殺される側にとって不幸であり、悲しみであり、激しい怒りと憎悪を惹起するかぎり、殺人は惡以外の何ものでないはずである。

しかし以上のことは、「殺人は被害を受ける側にとって悪である」ということを証明しただけに過ぎず、「なぜ、私が殺人を犯してはならないか」を説明したことにはならない、という反論がありうる。
(中略)
しかしここで私が主張したことは、人間の行動の相互性である。

自分が一方的に常に殺す側に属するということは、人間社会においてはありえない。

(中略)

よって、「人を殺してはいけない」という道徳律は、国際的な停戦協定、あるいは捕虜交換の取引のようなものである。戦争を恐れるがゆえに停戦に達したのであり、戦争状態に戻りたくないゆえに停戦協定を守るのである。この意味で、「人を殺してはいけない」という道徳律は、参加者同士の取り決めであり取引であり、相互的な呼びかけなのである。


心理主義が忘却しているもの

私名以上の自分の解答を、きわめて常識的な答えだと思っている。読者が以上の回答に納得していただけたなら、私が問いたいことはつぎのことである。なぜ多くの論者たちがこの単純素朴に思われる青年の問いに答えられなかったのか、である。

それは、おそらく、殺人を禁止する理由(ないしは基礎付け)を、人間の相互性にではなく、自分(心)のなかに、つまり、心理的な動機のなかに探していたからではないだろうか

(後略)


僕は、この議論を正解だとは思わないけど、満点だとも思いません。

「人を殺してはいけない」が「取引のよびかけ」だというには同意です。だけど、それは「いけないのか」と問いかけるからそういう答えになるのであって、その問いが惹起する前提――人はそもそも人を殺したいのか、殺したいとするのならその理由はなぜか――への問いを阻むから。

この問いが生まれないと、そもそも人はなぜ人を殺すのか、取引が別の具合に成立すれば、たとえば被害者を全滅させてしまうことが技術的に可能であるなら、ナチス・ドイツの行為は未達成だから非難されるのであって、完遂されていれば批判されるべきものないのかという、もっと怖ろしい疑念が生まれてしまいます。

一定の正解というのは、つぎの問いを阻むという性質があります。


それはさておき、心理主義が道徳律が「取引へのよびかけ」であることの実体を隠蔽してしまうということはその通りだと思います。

ここで語りたいのは犯罪の完全性などではなくて、「心の誕生」です。


私たちは、根本的に、隠し立てのない表出的な行動をとる存在として生まれる。乳幼児は、直接的な行動をとるばかりである。それは動物の行動と同じである。動物も相手を欺き、罠にかける行動をすることがあるとはいえ、乳幼児と同じくその行動は根本的に表出的である。デカルトにおいて、動物は自己意識がないゆえに心がないと断じられていたが、幼児期の私たちもその意味での心はもっていないだろう。幼児において思考とはすなわち語ることであり、感情とは内面性である以前に状況に対する即時的な反応であり、欲求とはなしつつある行動だからである。子ども自体の私たちは、まさしく行動すなわち心の世界で生きている。



ギブソン(アフォーダンス理論の提唱者)もやはり、人間の行動は根本的に表出的であると考えます。彼によれば、「動物や他人は、触れば触り返すし、叩けば叩き返す。つまり私たちと相互に関係し合う」。

が、私たちは成長するにつれ、自分の表出を抑制し、統御することを憶える。自分の意見をそのまま口に出さず、発声を抑えてミュート状態した「内語」として語るようになる。内語は、音読を黙読にするような訓練から生じるものであり、不可思議なものでも神秘的なものでもありません。

また、私たちは、自分の怒りの表情やふるまいを抑制し、他人には怒りが識別できないようにします。自分を隠すことで、他人を思い通りにしようと試みる。こうした振る舞いは、フロイトによるならば、主体的な行動です。


それらのふるまいの制御は、人目を避けることを意図しているものであろう。その意味において、まさしく他人の視線から隠蔽されているゆえに、内側であり、内面と呼ぶことができるのかもしれない。しかしそれは、原理的に隠されている私秘的なものではなく、表出の折り返しに過ぎない。それは表出の抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇の類いである。フロイトが鋭くも見抜いていたことは、内面性が表出の制御から生まれたということである。
(中略)
つまり、内面性とは、直接的な行動や表出を妨げ禁止しようとする自分の外から来る(権)力に対抗するための、主体の側の応答の表れなのである

(中略)

したがって、フロイト的な立場に立てば、相手の内面を知るということは、相手が抑圧したものを見抜き、相手のうそを見透かし、策略や隠蔽を見破ろうとする種類の行為に他ならない。そして逆に、内部の表現とは、真の自己の表現というよりは、押し殺した表出行動をふたたび公然と提示することであり、そうした心的内容を公に告白することである


僕は、この主張は3/4当たっていると考えます。

1/2は、まず、内面性の起源は外部からの力にあるということ。それが自然環境であれ社会環境であれ、外部から「力」が働かないことなどありえない。外部からの力に対抗して一定の「かたち」を維持しようとすることが生命の本質。言語を持ち、名付けられる存在である人間が、言語的コミュニケーションの失敗から外部に権力を感じ、言語的コミュニケーションの主体を“形作る”ことは、一定の「かたち」を維持しようとする生命活動の延長であって、本質に沿っていると思います。

が、後の1/2の1/2,つまり1/4は違うと思う。

そうやって生成した内面的主体の応答が、常に(権)力に対抗するためとは限らないはずです。

「名付けれること」と「コミュニケーションの失敗」が統合されて生成した内面的主体が、その名において表出しようとする欲求は、「抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇」において実現する場合、つまり内面的にしか実現できない場合と(「逆接」)と、素直に表出することで外面的に実現する(「順接」)とがある。そうした「順接」と「逆接」の記録のうち、人間社会に適応するのに都合の良い記録を「物語」として編集することで生成されるのが「自我」。

本書の副題は、“「エコロジカルな私」の哲学”となっているのですが、愚慫の哲学(w)で言うならば、「順接の自我」が形成されたならその時点ですでに「エコロジカルな私」です。なので、本書の引用以降の議論(p.124以降)は、本質的なものでなく、派生的なものを本質的なものと勘違いした議論に映ります。まあ、僕の独りよがりですけどww


ちなみに、その1/4の方に注目した人が、私見ではありますが、アドラーです。
アドラーは「順接」「逆接」を事後の再編集可能なものだとしました。僕はその見解に同意する――いえ、同意したいと思います。



さて、余談です。

「エコロジカルな私」とは、儒教でいうならば「君子」でしょう。「エコロジカルな私」であることを求める姿勢が、ガンジーのいうところの「サティヤーグラハ」。

「抑制、抑圧、隠蔽、うそ、騙し、策略、忍耐、躊躇」の暴発によって生じるのが「暴力」です。ヒトは「裡なる欲求」を抱えるエネルギーの塊なのですから、そうした代償行為的な態度でいつまでもいられるはずがない。だから、どこかで暴発せざるを得ないことになります。

現代社会は、暴発を生む抑圧をシステマチックに生産し、一定の暴発を合法化することで維持されている社会です。その系譜は、人類に文明が生じてからずっと発展進化しながら受け継がれています。

ソクラテスや孔子や釈迦が、紀元前6世紀ころに、ほぼ同時に生まれたのは、偶然だろうけど、それなりの理由はあったと想像します。暴力をシステマチックに生んでしまう【システム】が顕在化した時期。そのことにいち早く気がついた人物ということでしょう。

『飼い犬が手を噛むので』

人生を旅に例えるのは、ごくありふれた言い回し。慣用句のようなものですね。そして、旅の妙といえば出会いです。

 互いに違う世界を認めることから

内田 俺が見ている世界が真実の世界で、お前が見ているのは幻想の世界だ、と。誰もみなそう思っているわけですよ。そう心に思うことは止められない。でも、それを口に出していうかどうかは別の問題です。すべからく人間はかくあるべきである、人間社会はかくあるべきだというのを自制する。どこで手を打つかといえば、ぎりぎり「人として」というぐらいのところですね。

例えば、目の前で死にかけている人がいたら、駆け寄って介抱する。飢えている人がいたらご飯を食べさせる。寒空に行き場のない難民がいたら、一宿一飯ぐらいお世話しましょうかと申し出る。そういうことだと思うんです。それくらいのことなら、原理原則とか大義名分とか要らないでしょ。「惻隠の情」があればできることじゃないですか。「まあ、人として、それくらいのことは当然じゃないか」というレベルで他者と向き合う。それ以上のことは求めない。理解も共感もできないし、言葉も通じないが、相手の生身の身体の上や痛みや苦しみはわかる。それがわかるなら、その水準で関わればいい。そういう共生です。

理解や共感の上にコミュニケーションを基礎づけるのではなくて、理解も共感もできないけれど、現に傷ついたり損なわれたりしている生身の人間が目の前に「人として」放置しておくわけにはいかない。そのレベルでの共生。




旅路で出会った内田さんのこのセンテンスはどこかで紹介しようと思っていたんですけれど、そのきっかけがまさかこれになるとはww


 俺が見ている世界が真実。お前は幻想を見ている。
 そのことの「証拠」があるなら、“狩り”をしていい。
 ただし「証拠」がないなら俺もお前も狩られる側だ
――

と、大槻ケンヂは絶叫していますwww

その「証明」がなにかについて大槻ケンヂは触れません。触れる必要もないことなのでしょう。それは正しいと思う。アーチストとして。

ただ、思想家は「証明」に触れないわけにはいきません。内田樹、姜尚中ふたりの思想家は、その「証明」のデタラメさを告発し、その「先」を示そうと務めています。もっとも、その仕事とて「独りよがり」の批判からは原理的には免れません。内田さん自身、そういう原理をしてして、その上でなお、共生の在り方を問うています。



先日『シン・ゴジラ』を、久々に映画館へ行って観てきました。映画の内容については、ここでは触れません。後日、触れるかどうか、わかりません。僕にとって是が非でも語りたい何ものかがあるような映画ではありませんでした。が、何かきっかけがあれば、語りたくなるかもしれません。

今、ここで語りたいのは、「映画館で観た」ということです。当初は、いずれDVDが出るのは間違いないから、安くレンタルできるようになってから観ようと思っていました。が、これもきっかけがあって映画館で観た。

映画館で観てよかったと思います。パソコン画面で見るのとは、やはり感触が圧倒的に違います。

現在の映画はとてもよく出来ているんですね。特撮映画だということは前もって理解しています。そう理解していても、映像と音響に飲まれてしまう。ゴジラが街を破壊するシーンなど、本当にその場に居るかのように錯覚してしまいます。がれきが自分の頭上へと崩れ落ちて来たと感じてしまいました。

もちろん、それはあくまで錯覚。錯覚だけど、実感です。「これは映画だ、フィクションだ」という自制が働いているので、実感が具体的な行動に移ることはありませんでしたが、その自制が働かなければ、身体が動き出してもおかしくはない。

錯覚を実感たらしめているものが、自我です。こういった場合、自制を働かせているものだけを自我としてしまいがちですが、実感たらしめている方もまた自我。自我同志がせめぎ合うからこそ、こうした映画に快感を感じます。

がれきが頭上から降ってくると実感した僕は、三脈を採ってみました。もし実感が現実なら、身体は危機を察知しているはずですから。幸いなことに、三脈は同期していました。当たり前ですけどwww



内田さんが意識しているかどうかは知りませんが、述べていることは儒家の思想に近いものだと考えます。

いつものように「論語」とせず、儒家とするのは「惻隠の情」は孟子だからです。儒家の基本は「惻隠の情」、つまり理屈抜きの身体の作動です。

そのように言わなければならないのは、現実社会はそのようにはなっていないから。自我が肥大してしまって、ありもしない「証拠」に基づいて“狩り”をしてよいという社会になっている。孔子の時代からすでにそうだったということです。

儒家の思想は身体の動作を基本に置き、共感によって社会秩序を組み立てようと考えるもの。身体の動作だけなら老荘の無為自然です。

 俺が見ている世界は真実だ。だから、お前の見ている世界も真実だろう――

これが共感です。そういう共感の上に、調和が成り立つともともとの儒家は考えた。

 君子和而不同
 小人同而不和


とは、そういうことです。なお、「同」というのは、「理解」であり「証拠」です。

このことは、逆に言うならば、共感が成立しない相手とは付き合わない方がいい、ということでもあります。

孔子が言ったのは「共感が成立しない相手とは付き合うな」ではありません。「共感を成立させようとしない相手は友にするな」です。


秩序を考えるなら前者で十分。自身の成熟を望むなら後者の言葉に耳を傾けたいものです。

前者については、また機会を改めて述べます。ここでは後者について。


「共感を成立させようとする姿勢」は、「ありのままの自分でいようとする姿勢」から生まれると孔子は言います。身体の作動に耳を傾け、ありのままの自分でいようとするなら、共感は自ずと涌き起こる。

なぜ、自ずと涌き起こるのかは説明できません。神秘です。神秘であるが故に「信」を置くしかない。そして、ここに「信」を置くならば、そうでない現実の理由を探ることになる。神秘を阻害するものへの探求であり、合理的な神秘主義者の構えです。

 俺が見ている世界は真実だ。だから、お前の見ている世界も真実だろう。

この「だから」に理由はありません。神秘であり「信」です。ゆえに、「だから」になることを阻害するものを探求します。

 學而時習之 不亦説乎 
 有朋自遠方來 不亦樂乎
 人不知而不慍 不亦君子乎
 


それが三段目の「慍」。つまり「イライラ」です。「手を噛む飼い犬」です――が、この解釈は、大槻ケンヂのそれとは異なっています。

そうなる理由は、ケンヂが歌全体で示そうとした自我自体が、すでに「イライラ」を内包しているものだからと考えます。いえ、感じます。「証拠」示す示さないという構図がすでに「イライラ」です。その「イライラ」の反映として「手を噛む飼い犬」が出てくる。飼い犬という発想は秀逸です。

が、それは、反転してしまっています。「イライラ」の上に「飼い犬」に手を噛まれたら、さらに「イライラ」は募るでしょう。これは「呪い」です。呪縛です。すなわち『飼い犬が手を噛むので』という歌は「呪い」を訴える歌です。アーチストとしては、それでいい。


僕ががれきが降ってくると感じた「実感」は、それが映画であるという自制がなければ、身体的な行動にまで至ったでしょう。この自制は理性です。

僕たちは普段から、自我を経由して感じる「実感」の中で暮らしています。が、社会を虚構だとは思っていない。そのことを告発した映画もありましたが、



「告発」自体が虚構としか受けとめられない――それがアーチストが奏でるアートというものの宿命でもあるのでしょう。だからこそ、快感の中に浸ることができる。自我の中でのせめぎ合いという枠のなかでに収っていられる。

これは、言う言わないという自己表明上の自制ではありません。イスラームあたりはこのレベルの自制、つまり意識上の自制に焦点を合わせているようですが、身体の自制はそれよりも深い無意識のレベルでの自制です。自制が無意識のレベルであるからこそ、それを「呪い」といいます。


冒頭に戻ります。

人生を旅路に例えるアナロジーは正鵠を射ていると思います。しかし、ど真ん中かというと、ちょっと違うと思う。旅路だと考えるのもまた、自我の作用です。自我とは「物語」。自意識の物語です。自身の身体の反応をモニターする自意識の記録のなかの、「都合のよい歴史」が自我です。

では、この「都合」とはないか。生存への都合です。

「ありのままの自分」でいることが自己の生存にとって都合がよかったならばそういう〈物語〉を。
「ありのままの自分」でいることが自己の生存にとって都合が悪かったのならば、そのような【物語】を。

ケンヂが唄った自我が【物語】に裏打ちされていることは言うまでもないでしょう。イライラとさせる音響。裁判に見立てたストーリーはそれ以外に解釈しようがないと僕は思います。

【物語】に裏打ちされた【自我】を持つ者にとって「手を噛む飼い犬」は、気がついた時にはすでに、つまり自意識が成立した時点ですでに自分のなかに棲んでいる存在です。ですから、わざわざそれを育てようとするなどということなどありえない。

とはいうものの、それをわざわざ育てようとしたいというのは、その人の「実感」であるだろうことには違いないはずです。そういった人は〈物語〉の方に裏打ちされている人だと推測でき、【自我】の者とは深い部分で異なるだろうけれども、それは決して決定的なことではない。決定的なこととするならば、それは自ら置いた「信」を裏切ることになります。


【自我】の者にとって「手を噛む飼い犬」は、飼い慣らすべきものとして認識されるようになる――

が、この話は次回への持ち越しとしましょう。次回で取り上げる飼い慣らすべきものは犬ではなくキツネですが。




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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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