愚慫空論

三度 『この世界の片隅に』




メインで取り上げるのは3度目です

 1度目はコチラ (^o^)っ リンク
 2度目はコチラ (^o^)っ リンク
言及した文章はたくさんあります
1度目以降をたどってもらうと 高確率で『この世界の片隅に』に出くわします
取り憑かれています (^o^)

だもんで 3度目はあるだろうなと自分でも思っていました
漫画版を読んだら きっと何か書かずにはいられない

  


実は もうすでに入手してあるのですが

ところが『君の名は。』を観てみると 語りたいことが湧き上がってきました
それで図らずも 3度目になってしまったわけです



『君の名は。』は良い映画でした
特級の美酒です
心地よく酔わせてくれます

で 後に何が残るのかというと 特段 何もない

映画を見終わって 映画館から出ていく
入ってきた通路を逆にたどって シネコンの入口に戻り
シネコンの建物を出て 街に戻る

この過程で「酔い」は醒めていきます
周囲に拡がるのは 映画館に入る前と同じ風景
時間が経過しているので その分の変化はありますが
心象的には 同じ風景 です


『この世界の片隅に』は ちょっと違います
同じはずの風景が 同じ風景 に見えない
少し違ったふうに見えてくる 見える気がする


「つながり」だと思うんです

『君の名は。』の世界とは つながりは感じられない
『この世界の片隅に』の世界とは つながっていると感じる

この違いは 何なのでしょうか?

『君の名は。』は架空の話
『この世界の片隅に』は史実を下敷きにしている

この違いはあります
だけど この違いだけで 
視聴者であるぼくの心象風景に違いが生じるとは思えません

客観的な「つながり」であるなら
影響があるのも客観的なはずで
でも 客観的には風景は変わらないのだから
「見える風景」だって変わらないはずです

それが 変わった のだとしたら
変化が「つながり」によるものだとしたら
その「つながり」は客観的なものではないはず

主観的な「つながり」であるならば 
当人が(ぼくが)つながりたいと思ったか 思わなかった
それに尽きるのかもしれませんが
そんな結論では面白くありません


『君の名は。』はラブストーリーです
天地動転して 若い男女が出会う
出会いの過程を 魔術を駆使して 盛り上げて見せた
乱暴に端的に言ってしまえば それだけです

見終わってみれば 彗星が衝突したことなんて 

 どうでもいい

ことになってしまっています
大げさな彗星衝突も 大げさだけど アクセサリーにすぎなかった

この「どうでもよさ」が「つながりのなさ」になるんだと思います


『この世界の片隅に』は その点が違います
ここの世界で描出されている風景には「どうでもよさ」はありません

いえ
本当にそうか?
確かに 戦中の暮らしぶりは 本物のように描かれいるのでしょう
だけど そのことが どうでもよくない「大切なこと」になるのか
疑問です

というのも
 「どうでもいい」
 「大切」
は ぼくにとって だからです

現在の世界にとって暮らすぼくにとって
戦前戦中の暮らしぶりは どうでもいい ことです
描出されていた風景にリアリティは感じますが
そういうなら 『君の名は。』の風景にだってリアリティはあった
現代の東京の風景など 現実そのままなんだからリアリティがないわけがない

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」は関係がありません
それはおそらく 「ふたつの現実」を生きる 〔人間〕 の特性でしょう

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」が関係ないなら
『この世界の片隅に』だって 乱暴に端的に言ってしまえば 
すずと周作のふたりが 「生きていることを確認する話」 にすぎません

 『君の名は。』が出会い すなわち「出発点」なら
 『この世界の片隅に』は 「確認と再出発」

これでは何の回答にもなりません


ぼくの心象風景に違いを生む「つながり」
ぼくにとっての「どうでもよさ」と「大切さ」につながっているはずです
それは『この世界の片隅に』の何処にあるのか
このことはやはり 「ふたつの現実」に関係するのだと思います


『君の名は。』と同様に 『この世界の片隅に』も
 起承転結
で語ってみましょう

『この世界の片隅に』は セオリーの通り

 「起」 「承」 「転」 「結」

の順序で構成されています

「起」に相当するのは すずが結婚するまでの暮らしぶり
「承」に相当するのは すずが結婚してからの暮らしぶり

結婚は「転」ではありません
自然に「起」から「承」へと推移する 「ふつうのこと」に過ぎない

すずが結婚して呉へ移り住んでから
水兵になった幼なじみが すずが嫁いだ北条家に訪ねてくる場面があります
危うい展開になる場面ですが
そこで水兵の水原哲は すずに幾度も「ふつう」という言葉を投げかける

すずは危うい言葉も吐きますよ

 水原さん
 うちはずっとこういう日をまちよったきがする・・・
 ・・・・
 うちは今 あの人にハラが立って仕方がない・・・!


このすずの言葉に
哲はすずの主人から暗黙のうちに了承されていたであろう「企て」を放棄して

 あーあー 普通じゃのう
 当たり前のことで怒って 当たり前のことで謝りよる
 すず お前はほんまに普通の人じゃ


この成り行きは 恋愛や結婚を「転」あるいは「結」とする
『君の名は。』的世界からは了解不能のものでしょう

けれど すずのこの「ふつう」は行きすぎでもある
ぼうっとしていて 「ふたつの現実」のうちのひとつに気がつかなくて
だからこそ 「ふつう」でいられる



 すぐ目の前にやってくると思うた戦争じゃけど
 いまはどこでどうしとるんじゃろう


この動画の20秒過ぎにでてくるすずのセリフです

 「いまはどこでどうしている」 ですと?
 目の前にあるではないか
 すずは 戦争がある日常生活に生きいるではないか


視聴者であるぼくには 戦争 は見えている
すず以外のキャラクターにも見えている
水原哲は 戦争という日常生活 に生きている
だけど すずだけは 単なる「ふつうの日常生活」を営んでいて
戦争が見えていない
いえ 戦争もまた日常生活だと思っている
戦争を異常だとは思っていない
戦争の異常さを認識できていない

すずにとっては 兄の戦死も「どうでもいい」ことです
そのことを「曲がっとる」と すず自身自覚するシーンもあります

 鬼いちゃん死んで 良かったと思ってしまっている


その「曲り」は別の形 それももっと過激な形で現れています

玉音放送を聞かされた後の すずの怒りのセリフ

 そんなん覚悟のうえじゃないんかね?
 最後のひとりまで戦うじゃなかったんかね?
 いまここへまだ五人も居るのに!
 まだ左手も両足も残っているのに!!
 うちはこんなん納得できん!!!


この怒りの後に訪れるのが「転」です

 暴力で従えとったという事か
 じゃけえ暴力に屈すという事かね
 それがこの国の正体かね
 うちも知らんまま 死にたかったなあ・・・・。


余談ですが、このシーンと真逆の「転」をぼくは思い浮かべることができます
暴力と思っていたものが 実は「思いやり」だったということを理解するシーン
 
 (^o^)っ 『小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉』

すずはずっと〈織りなす世界〉に棲んでいました
棲んでいるつもりでした

冒頭に掲げた画像は そのことをよく表現しています
すずの心象風景です


「結」においてすずが為すのは 再選択 です
それまでは 自覚できなかったがゆえに
無自覚に行っていた「選択」を
こんどは自分の意志で為すという「再選択」

不安ベースの【不機嫌】な世界を
【不機嫌】へのレセプターに欠けていたがゆえに
〈上機嫌〉に内発的に生きていた すず

そのすずにも【不機嫌】へのレセプターが生じます

【不機嫌】への芽生えのシーンは
姪御と右手を失った爆発から意識を取り戻したときです

 昨日 ない事を思い知った右手
 六月には 晴美さんとつないだ右手
 五月には 周作さんの寝顔を描いた右手
 ・・・


これらのセリフがハウリングする
すずの「ゲシュタルト崩壊」がよく表現されています


このシーンを 少し別の視点から眺めてみます

これは「喪失」です
『君の名は。』では 「喪失」が「転」になりました。
「喪失」が「転」になったのは  主人公ふたりの「喪失」と
 ぼくの「喪失」とが一致したからでした

『この世界の片隅に』においては 
すずの「喪失」と ぼくの「喪失」は 一致しません
なぜなら すずがこの場面において崩壊に至った「ゲシュタルト」は
ぼくにとっては とうの昔に崩壊済みのものですから
いまさら「喪失」ではない
だから ここでは 新海誠監督が労したような「魔術」は働きません

原作のこうの史代さんと監督の片渕須直さんが用いるのは魔術ではありません
だから その機序が理解できても 効力は霧消しない

すずは ぼくたちが知らずのうちに崩壊させてしまっている
 「ゲシュタルト」を見せつけてくれます
それは 戦争がそのなかに含まれていようがいまいが

 「ふつうの日常」を生きる

ということです
ぼくたちは 戦争を含む日常が「ふつうの日常」ではないことを すでに知っています
それは『この世界の片隅に』によって知らされたのではなく
この映画を観る前からすでに知っていたことです
すず以外のキャラクターもみんな知っていることです
幼い晴美でさえ知っていること
ただ すずひとりだけが知らないこと

それが【不機嫌】へのレセプターが生まれ
玉音放送を聞かされたことで

 ぼくたちと「同じ」になる

すずは その特殊性を消し去ることで 特別な存在になりました
ぼくたちがイメージできない「現実の二重性」が生まれるさまを
すずは劇的に見せつけてくれる
劇的に ぼくたちと「同じ」 になることで 

 特別に「同じ」存在

だというポジションに座ることになります

それまでのすずは 特異な存在だったんです
象徴的なのは たとえば 憲兵に詰問される場面です

呉軍港を写生していたすずは 憲兵に見とがめられ 間諜だと疑われる
憲兵はすずの特異性を知らないので その当時の情勢からすれば 当然でしょう
でも 家人は笑わずにはいられない
特異なすずには ありえないことだから

だけど 「転」以降のすずは違います
特別な存在ではあっても 特異な存在ではありません

そのすずが
ぼくたちと「同じ」になったすずが もう一度

 〈上機嫌〉な存在たるべく再選択

します
それが「この世界の片隅に」というタイトルの意味ですね


話を「どうでもよさ」「大切さ」に戻します

ぼくにとって大切なことは 日常 です
ぼくにとってどうでもいいことは 戦争 です

すずは「大切なこと」しか見なかった
いえ 見えなかった
見えるようになって以降も 「大切なこと」を見ようと再選択した

そのすずの「同じ」から「再選択」への意志が
ぼくにとっては「大切なこと」です

「どうでもいいこと」が 
「どうでもいいはずのこと」になって
 いつの間にやら
「どうしようのないこと」になってしまった結末が 戦争です

「大切なこと」は
 本当は
「大切にしたいこと」です
意志が入っている

すずの「再選択」は ぼくの中にもある「意志」を再確認してくれます

「二重の現実」の中で生きているぼくたちは
「どうしようもないこと」から免れることができません
だから 知らずのうちに【不機嫌】になってしまっている

 「したいこと」をする人間は〈上機嫌〉
 阻害される人間は【不機嫌】

ごく単純なことです

そんな【人間】であるぼくにも 〈上機嫌〉への〈意志〉はある
その確認ができたことが「つながり」です

そういうふうに「つながり」ができて
ぼく自身の「意志」のありようが変わると
自身の心象風景も変わります

当たり前に「どうしようないこと」として受け容れていた風景が
「どうにかなるもの」として見えるようになる


「どうしようもないこと」を受け容れてしまっている者にとっては

 「どうにかなるもの」として見える

ということが「魔術」に思えるでしょう
そうした者にとっては 『この世界の片隅に』も『君の名は。』と同等の

 消費物

にすぎませんです。
【不機嫌】な日常からの 一時的な避難場所

この視点から見れば、『君の名は。』のほうが おそらく上等です
興行収入がその傍証です

『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで育った作品だと聞いています
この事実が示すのは

 『この世界の片隅に』という作品そのものが
 「どうにかなるもの」として育ってきた

ということなんだろうと ぼくは思っています

※ やっと 3度目にして 感じたことを余すことなく表出できたような気がします (^o^)




「アルバイトにはお金以上の価値がある」

Livedoorニュースから 話のネタを



  「アルバイトにはお金以上の価値がある」広告コピーが物議 
    「それは世の中に余裕があった頃の話」というツッコミも

アルバイトというか もっと一般化して

 「仕事にはお金以上の価値がある」というのは真実

でしょう?
いえ 真実でなければならないでしょう? そもそも?

 お金は社会を回すための必要条件(最低条件)

なんだから
仕事は社会を構成する最も重要な要素で
それが最低条件しか満たさないということは

 その社会は最低なものになってしまっている

ということに他なりません




「健康」ということを考えてみましょう

豊かな人生を送るにあたって 「健康」は 必要条件 と言えます
では 十分条件に相当するのは?



上の図において 「健康」は「お金」に置き換えても成立します



人生や社会において 
 健康
 お金
といった 必要条件は十分条件を満たすためのもの
ゆえに 

 必要条件 ≠ 十分条件

当たり前です
当たり前なんですが そうでないことが起こるのが【社会】です

 「健康」が必要十分条件になる
 「お金」が必要十分条件になる

ネタとして取り上げた記事から感じるのは

 昔は「お金」は必要条件だったが
 現代は「お金」は必要十分条件だ

です

僕の感触に違和感を抱く人は多いだろうと予想します


現代でも 「健康」が人生の必要十分条件だ という人は少ないと思います

 「健康」でありさえすれば幸福
 だから どんどん「健康」になるようにガンバル
 あらゆる労力を「健康」になるために費やす

こんなふうになってしまったら 

 それは逆に不幸じゃないの?

と感じます
そう感じるのが健全な感性だと思う

そこのところを踏まえるなら

 「健康」は「幸福」を支えさえすればいい

という考えに至ります
こうした余裕のある考え方から

 Quality Of Life

といった概念も生まれます

クオリティ・オブ・ライフ(英: quality of life、QOL)とは、一般に、ひとりひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。QOLの「幸福」とは、身心の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な住環境、十分な教育、レクリエーション活動、レジャーなど様々な観点から計られる。



同じことが「お金」についても考えられるはず
はずなのですが できない
できない社会になってしまっていると感じます


 上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」について - Togetterまとめ



上野千鶴子さんへの批判殺到のようです
批判の論旨は

 オマエが言うな!

に集約されるようですが それは反論ではない...

じゃあ、だれが言えばいいの?

上野さんの意見への反論文章をいくつか読んでみましたけど
納得いくものはありませんでした

 「みんなで貧しくなろう」と言える立場の者はいない
 ゆえに 「みんなで貧しくなろう」は誤り

そんな論旨の文章ばかり
まったく論理的ではありません
「立場」なんて関係がない


元の記事に戻りましょう
「アルバイトにはお金以上の価値がある」
これも批判を浴びています

上野さんへの批判と異なるのは 批判の的となる「立場」の人がいないこと
それは たまたま アルバイト雑誌の広告だったからそうであっただけで
もし 仮に どこぞの社会学者の発言だったとしたら
その発言主が批判を浴びる「立場」に立たされたでしょう


QOLの考え方は「健康」に対して適用されます
医療や介護の世界ではスタンダートな思考法になっているはず

ところが「お金」に対して適用されない
貧しくなるのは不可能だという社会的な結論として提示されます
すなわち

 「お金」は必要十分条件だ

です

「健康」においてのQOLを否定する者は
 「健康」が強迫観念になっていると見なされます

だったら

「お金」においてのQOLを否定する者もまた
 「お金」が強迫観念になっていると見なされるはず

強迫観念から自由な者ならば

  「みんなで貧しく」

をなんらの感情的反発を覚えずに受け容れられるはずなんですがね?



自由になる方法にはふたつあります

 1.欲求を十分に満たす
 2.欲求を感じなくする

そもそもの〔自由〕というは1.です
1.の方向性で問題を解決していこうとする構えが〔自由〕です
ゆえに〔自由〕は「貧しくなる」という構えからは根本的に相容れない

1.の方向性でQOL的な考え方は成立しないのか?
成立します
それは 

 Life-Work Balance

ワーク・ライフ・バランス(英: work–life balance)とは、「仕事と生活の調和」と訳され、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」ことを指す



この文言だけをみれば QOLに近いのですが。


 日本人の働き方をホリエモン×ひろゆきが本音で指摘
  「やりがいや生きがいを求めず、稼ぐための手段と割り切るほうがいい」


この考え方においては 「お金」と「幸福」との関係性が切り離されています
ある意味 「お金は必要十分条件」に近いのですが
それは 真逆だから
「お金」は「幸福」にとって必要条件でも十分条件でもない

不思議なのは「お金」についてのQOLが高そうなふたりが
そのような主張をすること

 オマエが言うな!

という批判が聞こえてくるかどうか?
あっても不思議ではないはずなんですけどね


〔自由〕は現在 資源と環境の有限性という物理的現実的な問題に突き当たっています
そこを考慮に入れると 「お金」は「幸福」を切り離すのは 理に適っています
「みんなで貧しくなる」のと同様に
ただ 行き方
    生き方 の問題

1.の意味において「お金」に自由になることができる人は
「お金」と「幸福」との関係性が維持されるQOLの高い生き方を選択可能です
そうでない人はQOL的な考え方を捨てる以外に選択肢はない


締めの音楽に相応しいのは



これのような気がします
必要十分な あるいは 必要でも十分でもない 「天国」



『君の名は。』




観ました
映画館に足を運んで観てきました (^o^)/

この映画はDVD発売までガマンするかなと思っていました
さほど期待もしていなかったし


けど、結局はミーハー(←もしかしたら死語)?
興行成績好調を伝える記事たちに釣られたんでしょう
僕の身分では高いコストを支払って観てしまいました


うん、まあ、1800円は妥当だと思います
思わぬ収穫もありましたしね




期待をしていなかったというのは本当です
「期待をしないという期待」は映画が始まってからも継続していました。


男子高校生とJK(←なぜにこの表記w)が入れ替わる
改めて指摘するまでもなく どこかで見た展開です
ストーリー展開はそれなりに工夫があった面白いのですが
気持ちはさほど入っていきません

  他人事を眺めてるのは 気楽で楽しいなあ〜

半ば突き放して ニヤニヤ眺めているという感じ



身体というのは正直です
映画館の座席に座って観ていたわけですが
にやけて観ていると身体もだらるんですね

ぼくはそうでなくてもまっすぐ座っているということが苦手なたちで
腰に負担がかかるのはわかっていても
ふんぞり返るような座り方が楽で そうしたくなってしまう

今は映画館で観ると 上映が始まる前に
ご丁寧に「あれはダメ これもダメ」って注意を促すじゃないですか
そのなかにも座り方への注意喚起がありますよね
前の座席に足を投げ出すなって

さすがにやりははしませんが できるならそうしたい身体だったりします
そういう注意があるということは 多くの人がそうしたいということなんでしょうけど

足は投げ出さないけど できるだけそういう姿勢になりたいから
前の座席の背もたれに膝をつっぱって できるだけふんぞりかえるw
が それも前の座席に人がいるとできないから ちょっと居心地が悪いww

そういう居心地の悪さを覚えつつ ニヤニヤ眺めていたわけです 前半戦


それが途中から 姿勢を正すというと大げさだけど
普通に椅子に座って鑑賞するようになっていた
惹き込まれたんですね



ストーリーの構成は
 起承転結
がセオリーと言われます

とはいえ 必ずセオリー通りに展開しなければならないわけではなくて
『君の名は』の場合 

 「起」「転」 「承」「 結」

の流れ
もう少し踏み込むならば

 「起」「転1」 「承1」「転2」 「結」

という構成です


今さらネタバレもないでしょうから具体的に書くと
「転1」は ふたりの主人公の入れ替わりが終了してしまうこと
つまり

 「喪失」

です

この「喪失」は3者にとって そう
3者とはつまり
立花 瀧宮水 三葉

のふたりに加えて

 ぼく

の3者

ここは 三者三様に「喪失」であることが大切なポイントです
三者三様でありながらも「喪失」であるから
ぼくは惹き込まれることになりました

主人公ふたりの「喪失」が何かを書くと
それこそネタバレですので触れるのはやめておきます

が ぼくの「喪失」については触れておく必要があるでしょう
それは

 「愉悦」

です
ぼくは 「起」の展開を
 他人事
 所詮は作り話
と半ば突き放しつつ だらけて眺めていただけなんですが
それでも「愉悦」はあったんです
感覚的な快楽です

その「愉悦」は ぼくが溺れたタイミングで奪われてしまいます
「喪失」に直面したぼくの身体は 「喪失」を補おうとする「運動」を始めます

一方で 「転1」に続く「承1」では
ふたりの主人公がそれぞれの「喪失」を補おうとして「運動」します
 立花 瀧のそれを「運動1」
 宮水 三葉のそれを「運動2」
しましょう

「運動1」と「運動2」を追いかけているぼく(の意識)と
「喪失」を補おうとしているぼくの身体の「運動3」

このような状況での「運動3」は ほぼ完全に無防備です
「運動1」および「運動2」が相当にデタラメあっても ほぼ抵抗なく受け容れてしまう
受け容れることで喪失を補おうとすることが「運動3」だと言ってもいいでしょう


ぼくが『君の名は。』で得た収穫は

 無防備への認識

です
 彗星が降ってきた(←「セカンドインパクト」?) 
 過去の出来事の体験(←「タイムリープ」?)
どこかで観たようなアニメ要素が 現実にはありえない形で展開されます

彗星落下ややタイムリープがありえないのは「設定」だからまだいいとしても

 三葉が住む田舎に高校なんて ありえなくね?
 本当に彗星が落ちたなら 東京だって無事で済むはずがないよね?

とか ツッコミどころは各所にあるんですが
そんなことはもはや どうでもいい んです

極めつけだと思ったのは 彗星の破片の隕石が落下して
集落が破壊されていくシーン
こうした悲劇的なシーン(悲劇が連想されるシーン)には悲劇的な音楽が相応しいはず
それなのに 背景で流れるのはポップな音楽
そこだけを切り取れば 感覚的にありえないと思うんだけど
文脈的にはありだと感じてしまう
デタラメさを感じない

「喪失」を補おうとする身体の本来的な動きをうまく利用して
相当にデタラメでツッコミどころ満載であったとしても

 どうでもいい

という状態に身体を誘導してしまうこと
この「誘導」が『君の名は。』の魔術の正体です

魔術はデタラメではないんです
そういう現象が起こる機序がある
その意味では科学と同じ
ただ 魔術の場合 機序が理解できるとその有効性を解除することができます
その点は 科学とは違う
科学は 機序を理解しようがしまいが 万人万物に平等に働きます


『君の名は。』の意地が悪いところ(←称賛です)は
この「魔術」が二段構えになっているところです

「承1」で展開される主人公ふたりの「運動1」と「運動2」は
視聴者であるぼくの期待通り
ふたりの邂逅という形でいったんは実現します
するが すぐに「転2」になって またしても奪われる
しかも 互いに認知したはずの互いの名前まで互いの記憶から「喪失」する

なぜそんなことになるの?
理由はありません
デタラメです

でも 魔術にかかっているぼくにはもはや どうでもいい
重要なのは またしても「喪失」したということ
またしても「運動」が始まったということです

『君の名は。』のタイトルの由来が「転2」にあることは明白です
が このタイトルがこの物語を端的に表しているわけではない
『君の名は。』の主題は「喪失」です


思い返せば 『秒速5センチメートル』もテーマは「喪失」でした


もそうでした
してみると 新海監督のテーマが「喪失」なんだろうという推測が立つます



こちらも

これら3作品は 「喪失」というテーマが 描かれ方は異なるけれど 剥き出しで出ている
その意味で 作品に監督個人のメッセージ性がある
その点 『君の名は。』は 視聴者の欲求に寄り添っています
そうすることでエンターテイメント性が高まった
では その分 メッセージ性は失ってしまっているのか?

相対的にはそうかもしれません
エンターテイメント性が大きくなった分 メッセージ性の比重は小さくなったとは言える
だけど そのエンターテイメント性の源泉もまた「喪失」にあるわけだから
内実的には より充実した作品だと言えるのではないか


「喪失」というテーマは 〔人間〕にとって 相当に根源的なテーマだと思います
ということは 「喪失」の「埋め戻し」もまた〔人間〕には根源な欲求だということです

『君の名は。』の興行収入が
多くのジブリ作品を抜き去って上位にランクインしていることが話題になっています

宮崎駿夫さんの作品と比較して感じることは 思想性です
宮崎さんの作品には 某かの思想性がある
一方 新海さんには思想性はあまり感じられないんですね

そういった作品が エンターテイメント性だけで 興行成績とはジブリ作品を凌駕している
実はぼくは 残念なことだな と思っていたんです
「期待していなかった」というのは 思想性は期待できないと思っていたから

けれど 視聴後の感想は違います
残念などでは 決してない
それだけの作品だと思う
言葉でできた思想性より深いも深い 感覚的根源性があると思います
リピーターが多いのも頷けます

もっとも ぼくは もう一度観たいとは思いません
魔術の仕組みが理解できてしまって 次 観ても もう魔術にはかからないだろうから



余談ですが 『君の名は。』を観た後
また 『この世界の片隅に』も観てきました

ぼくにとっては 『君の名は。それだけの余力を残してくれる作品だったわけです
『この世界の片隅に』については 近いうちに 三度 語りたいです

『天国への階段』




MoonLight Sonata
月光ソナタ
ベートーヴェンです

ぼくはもう ほとんど聴くことがなくなりました
陳腐に思えてしまんです

youtubeで こんな動画を見つけました
月光ソナタの第三楽章
ハデなところをエレクトリックギターで奏でたもの



なかなか面白い――
と思ったものの すぐに飽きてしまいました
楽曲が持つカタストロフを電気的に増幅しただけ

いえ 「だけ」は言い過ぎだけど 
感覚的なところの基本部分ははそう言って差しつかえない
ぼくはもう この手の刺激はすぐ「お腹いっぱい」になってしまいます

こういった刺激を欲する向きは多いと思うし
現にこうした刺激は満ちあふれていますけど
こういったものを求めて止まない心身というのは 異常事態なんだと感じます


そうした刺激を欲しているのなら それを求めるのは悪いことではない
それがその時の欲求であるのなら 節制などせずに従うのがいいと思う
だけど その状態は異常事態なんだということは
知識としてでいいから 頭の隅に置いておいたほうがいい
そうしておくだけで 異常でない状態への探求がいずれ始まる
自然な心身とはそういうものだと ぼくは思っています

そうあって欲しいという ぼくの願望かな...


それはともかく
エレキ版『月光ソナタ』に出会って 思い至ったことがあります
これは【不機嫌】な音楽なんだ と
言い方を変えれば 「怯え」
不安がベース

出だしは神秘的です
富士山にはお月さんがよく似合う
月光に輝く秀麗な富士の山容は 『月光ソナタ』の響きに似つかわしい

しかし
『月光ソナタ』を作曲したころのベートーヴェンの心身からはかけ離れていた
瞑想してみたら 奥底の情念を吹き出してきた

 第1楽章 瞑想
 第2楽章 平穏
 第3楽章 激情

と 言葉にしてみて またふと思い当たりました
『月光ソナタ』をエレクトリックにオーバーアチーブすると これになる



『月光ソナタ』 1801年の出版
『天国への階段』 1971年に発表

170年の時間を隔てて世に出された作品に 似通っているものがあったとしても
それは単に偶然かもしれませんし そう考えるのが普通でしょう
が 普通には考えないのが ぼくの流儀 (^o^)

大胆に(いつものように?)言ってみます

 平穏の奥に激情が隠蔽されている
 この構造はキリスト教の精神構造だ



前回 こういう音楽を紹介しました



J.S.バッハの『マタイ受難曲』 その核心部分
  「このお方は神の子なりき」

この驚愕と畏怖には沈黙せざるを得ません
沈黙といっても 維摩のそれとはまったく正反対
前者は言葉を奪われる 後者は言葉を超える

言葉を奪われてしまうと 平明になったように感じられます
だけど 真に平明になったわけではない
自ら言葉を鎮めて瞑想・沈黙へと至ると 隠蔽されていた激情が吹き出してくる
そして その激情を「救済」だと勘違いしてしまう

洗脳 とまで言ってしまうと言い過ぎでしょう
〔人間〕は 自ら求めてそうした隷属を求めるところがありますから


おまけ

こちらも前回紹介したヴィヴァルディの『四季』の一部を
エレクトリックにしたものの紹介
「冬」の部分です
嵐の描写です



このご機嫌さも【不機嫌】か?
そう聞えなくはないですね

ヴィヴァルディ『四季』





ヴィヴァルディの『四季』です

誰もが聞いたことのあるメロディ
誰からも受け容れられる音楽
すこぶる〈上機嫌〉な音楽

前回 『けものフレンズ』を取り上げたときに 

 〈上機嫌〉 

という言葉を(ぼくの)キーワードとして登録する なんてことを書きました
そのとき 湧き上がってきたのは mozart の K.136 だったのですけれど
一晩経って 脳裏で響いていたのが『四季』でした

ああ これもまた〈上機嫌〉だなぁ と

加えて 芋づる式に浮かんできたのが
くらっしく音楽の名曲を取り上げた本で
誰の文章だったかは忘れてしまいましたけど

 『四季』こそ古今随一の名曲だ

といった内容の文章です

難解なところがまったくなくて 親しみやすく
ポピュラリティに溢れる曲だ と
一般大衆には 正直 縁の遠いクラシック音楽だけれど
そんな中で『四季』は 大衆に広く受け容れられている
この事実は 名曲の基準として評価すべきだ――

ぼくは なるほど一理あるとは思ったものの
持って回った理屈だな と感じたものでした


そんでもって もうひとつ芋づるなのが 吉田秀和さんの文章
どこで書かれていたいたものなのかは失念しましたが
 モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』やら
 ドヴォルザークの『新世界より』やら
 『四季』も名指しされていたかどうかは忘れましたけど
そうしたポピュラリティの高い音楽は 
良いには良いんだけど 私はどうも好きになれない
俗受けするような音楽には 何か掛けているものがあるような気がする――

そんな内容の文章でした


当時のぼくは 吉田秀和に軍配をあげていました
最近まで そうでした

けれど ここのところ 気がついてみれば
『アイネ・クライネ』をよく聴くようになっています
『新世界から』は ちょっと引っかかるところがあって好みから外れるんだけど
同じドヴォルザークの音楽は 聴いていることが多くなりました

これなんて 最近 大のお気に入り (^o^)




実は始めて聴いたのは アニメ『のだめカンタービレ』でだったりするんですけど
そこでは マニアックなんて言われていたりしたんですけど
これもまた とても〈上機嫌〉なんです
「場」に埋め込まれている感じがする

このドヴォルザーク第5交響曲に比べると
有名な第9番『新世界から』は 寂しいと感じるんです
つまり【不機嫌】なんです

第4楽章の有名なテーマは勇ましくて良いんですが
最近のぼくには 痛々しく響く
無理してるなぁ って思ってしまいます
「場」から浮いてしまっていているオノレを鼓舞する感じ

その点 第5交響曲は ずっと素直な構えで通っている

いわゆるクラシック音楽の名曲基準でいえば
軍配はやはり『新世界から』なんだろうと思います
そっちのほうが深刻だから
【不機嫌】だから

名曲と評価されるのは
 【不機嫌】だけど そこから 立ち直らなければならない
 【不機嫌】から救済されていなければならない
その振幅が大きいことが 名曲といわれるものの基準

その基準でいけば ドボルザークの第5交響曲や『四季』は外れています
「振幅」がありませんから
ずっと〈上機嫌〉

でも それでいいんじゃないの?




そもそも〔ヒト〕は
 いえ
そもそも〔生命〕は
 〈上機嫌〉なものだと思います
 〈生き生き〉したもののはずなんです

それがいつの間にか【不機嫌】がベースになってしまって
【不機嫌】からの脱出を目指すことが生きる目的になっている

その方法論によって
 解脱(自力の場合)
 救済(他力の場合)
と言ったりしますが 出発点は同じです 

よく「生きることには目的なんかないんだ」と言います
それはその通りなんですが
それが言えるのは〈上機嫌〉だからです
〈生き生き〉と生きるのに 目標なんて必要はありません


だけど【不機嫌】がベースだとすると
そこから脱出することは 立派に目的たり得ます

というより 本来の〈上機嫌〉に復帰するというのは
ごく自然な欲求のはずです
その ごく自然な欲求が言語的に「目的」として認識されるだけ

お腹が空いたら「お腹が空いた」
喉が渇いたら「喉が渇いた」

「お腹が空いた」「喉が渇いた」を「目的」とは言いません
 同様に
【不機嫌】からの脱出も「目的」ではない
どれも自然な欲求でしかない

自然な欲求が満たされないなら
 誰だって
 ヒトではなくても
【不機嫌】になるでしょう
【死に物狂い】になります

ごく単純なことです
その単純なことがわからなくなっている


今のぼくの関心は歴史への傾きが増していますが
その理由を当記事の文脈に沿って言えば

 単純なはずのことがわからなくなっている

からです
見失ったのには 理由があり原因があるはずです


締めに 最高の名曲として評価の高い
つまり もっとも【不機嫌】だとされている音楽を



う~ん これにはどうしても「持って行かれて」しまいます...
イエスを処刑してしまった後
「このお方は本当に神の子だったんだ」と気がついてしまうところの驚愕と畏怖



【不機嫌】を快感として受け取ってしまう救いのなさ。
けど それでいいじゃないかな?

『けものフレンズ』

とても気持ちがいいということで
話題になっているということなので観てみました
とりあえず 第5話まで

ここのところ 気が滅入る文章が続いていますし...



すこぶる上機嫌な作品です
根っこから上機嫌
ゆえに 子どもっぽい

「ゆえに」というのは正しくないか

上機嫌さを際立たせるには 
 子どもと
 動物が
素材としては適切 ということなんでしょう

なぜそうなのかはわかりません
そんなふうに感じるように〔ヒト〕という生物はできている
おそらく

自然現象世界秩序 です

ということで 『けものフレンズ』 についての話は終わり




いえ
せっかくですから もう少し話をつづけましょうか



先日取り上げてみましたが 再度

ダイジェスト版には出てこないのですが 
この対談の中で宮台さんは

 居場所 それも自然環境やそこに生きる生き物たち
  地域、地域の人々、家、家族、身の回りの雑貨・・
 そういうもろもろを含めた「場」に僕らは埋め込まれていて
 それが自分を自分たらしめているんだ


といった発言をします
この発言は



について語ったものなんですけど
「自分を自分たらしめているもの こと」が伝わってくる映画
それが 『この世界の片隅に』 

「自分を自分たらしめる」原理が伝わってくるということでは
『けものフレンズ』も同じです

ただ その伝え方は少々あざといものですが


『けものフレンズ』の主人公は “かばん”という名の女の子です
もちろん“かばん”は正式名称ではなくて 暫定ネーム
アニメの流儀に則ったと言えばいいか
そういう名前の付け方が為される

要するに 主人公は記憶喪失状態なわけです

記憶喪失ということが示すのは 
 「場」に埋め込まれていないということ

「場」に埋め込まれていない者
ヤノマミの言葉でいうと 「ナプ」でしょう

「ナプ」なんだけど 始めから「敵」ではない
「敵」といったような存在は想定外――といった設定の作品
それが『けものフレンズ』です

そのことをよく表しているのが OP です

 はじめまして
 きみをもっと知りたいな


と上機嫌に歌われています

 あなたは「ナプ」のようだけど
 私たちはあなたを私たちの「場」に埋め込みたい

意訳すると こんな感じでしょうか


『けものフレンズ』 の中の“かばん”の行動は 一見すると「自分探し」です
図書館と呼ばれる場所に行くと 自分が何者なのか知ることができるらしい
それで旅をする

「物語」のよくあるパターン

だけど『けものフレンズ』はちょっと違います
その旅は 「場」に埋め込まれていく道程として描かれています


「場」に埋め込むと行為を不機嫌になすことは不可能です
というより 

 「場」に埋め込む・埋め込まれている    = 上機嫌
 「場」から排除する・埋め込まれていない = 不機嫌


とただちに等号で結んでしまっても なんら不自然に感じないくらいに「等価」です

『けものフレンズ』は ある意味で 
この「等号」を『この世界の片隅に』以上に際立って表現していると言えます

それは逆に言えば あざとい
意識的に つまり 架空の物語の「設定」として
不自然な形で 「等号」 を提示しているわけですから


『けものフレンズ』の物語はこの先
不自然な「等号」提示のカラクリ暴露へと進行していくのだろうと予想します
おそらくそこには 悲しく不機嫌にならざるをえない「現実」がある...

予想も何も 原作があるのだから ネットで調べてみればわかるのでしょうけどね

今後のストーリーの展開しだいでは 『その2』を書くかもしれません



で というわけで(?)

 上機嫌
 不機嫌


は ぼくの「キーワード」へ登録することにします

「上機嫌」は基本 開放系なので 記号を付記するなら〈上機嫌〉
「不機嫌」は 閉鎖系でしょうから 【不機嫌】



純粋に上機嫌 つまり 子どもっぽいということで 湧き上がってくるのは




『サピエンス全史』その6~想像上の秩序

当記事は 前回 および 『その5』 からの続きです


 


『サピエンス全史』シリーズは すでに第2部に突入しています

第2部 農業革命

 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
   贅沢の罠
   聖なる介入
   革命の犠牲者たち

 第6章 神話による社会の拡大
   未来に関する懸念
   想像上の秩序
   真の信奉者たち
   脱出不能の監獄

 第7章 書記体系の発明
   「クシム」という署名
   官僚制の驚異
   数の言語

 第8章 想像上のヒエラルキーと差別
   悪循環
   アメリカ大陸における清浄
   男女間の格差
   生物学的な性別と社会的・文化的性別
   男性のどこがそれほど優れているのか?
   筋力
   攻撃性
   家父長制の遺伝子


当記事は 第6章を取り上げています

いつものように引用を多用します
今回はここから始めましょう

ここまでの数段落を読みながら、椅子の上でで身もだえした読者も少なからずいたことだろう。今日、私たちは多くのそうした反応を見せるように教育されている。



第6章は『サピエンス全史』のなかでも圧巻の部分だと思います
ここからページを開いてみるのも 読み方としては有効かもしれません
身悶えせずにいられない記述に溢れていますから

ここに展開されている記述は
もしかしたら多くの人が薄々気がついていることなのかもしれません
気がついてしまってはいけないこと
気がついてしまうと危険なこと

ヴォルテールは神についてこう言っている。「神などいないが、私の召使いには教えないでくれ。さもないと、彼に夜中に殺されかねないから」と。



想像上の秩序
ぼくの言葉で表現すると 言語現象世界秩序

本章で例として取り上げられているのは

 ハンムラビ法典
 アメリカ独立宣言


ハンムラビも自分のヒエラルキーの原理について同じことを言ってもおかしくないし、独立宣言の大部分を起草したトマス・ジェファーソンにしても然りだ。ホモ・サピエンスには自然権などないし、それはクモにも、ハイエナにも、チンパンジーにも自然権がないのとまったく同じだ。だが、私たちの召使いには教えないでほしい。さもなければ、私たちは彼らに殺されかねないから。

そのような恐れはしごくもっともだ。自然の秩序は安定した秩序だ。重力が明日働かなくなる可能性はない。たとえ、人々が重力の存在を信じなくなっても。それとは対照的に、想像上の秩序はつねに崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。



  努力し続けることが欠かせない

この「欠かせないもの」は農業革命から始まっています
『サピエンス全史』に明確に指摘はされていませんが
流れとして明らかでしょう

 人は救済と思い込んで 隷属を求めて闘う

スピノザの言葉です
救済と勘違いてしまった隷属への希求が始まったのも
やはり農業革命から

隷属を求めての闘い すなわち「懸命の努力」が
暴力や強制という形を取ることになるのは 必然です

暴力や強制の元となる心因を ぼくは
 
 【恨】 

と表現することにしていますが
これについてはまた別のところでまとめることにします

ここでは 流れに逆戻りしてしまいますが ひとつだけ振れておきます
「第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇」の中の「革命の犠牲者たち」から

人間と穀物とのファウスト的な取引は、私たちサピエンスが行った唯一の取引ではなかった。ヒツジやヤギ、ブタ、ニワトリといった動物たちの運命に関して行った取引もある。野生のヒツジを追い回していた放浪の生活集団は、餌食にしていた群れの構成を少しずつ変えていった。おそらくこの過程は、選択的な狩猟とともに始まったのだろう。


とはいえ、羊飼いではなくヒツジの視点に立てば、家畜化された動物の大多数にとって、農業革命は恐ろしい大惨事だったという印象は免れない。彼らの進化上の「成功」は無意味だ。絶滅の瀬戸際にある珍しい野生のサイのほうが、肉汁たっぷりのステーキを人間が得るために小さな箱に押し込められ、太らされて短い生涯を終える牛よりも、おそらく満足していただろう。満足しているサイは、自分が絶滅を待つ数少ない生き残りだからといって、その満足感に水を差されるわけではない。そして、牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない。



人間と家畜の関係は
【システム】と〔人間〕の関係に そのままアナロジカルすることができます



ついでにこの動画も




話を元に戻して ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言です

ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根ざしていると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は2つの性と3つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)にそれぞれの性と階級の成員の価値はみんな違う。女性の一般自由人の命は銀30シュケル、女奴隷の命は銀20シュケルに相当するのに対し、男性の一般自由人の目は銀60シュケルの価値を持つ。


彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの神によって定められた最も重要な原理には、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。 

我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。



ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言の共通点
 ⇒ともに 普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしている

両者の相違点
 ⇒ 前者は「万人は平等でない」とし 後者は「万人は平等だ」とする

では どちらが正しいか
 ⇒ どちらも間違い

ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな創造力や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、客観的な正当性はない。



平等と人権の擁護者は、このような論法には憤慨するかもしれない。そしておそらく、こんなふうに応じるだろう。「人々が生物学的に同等でないことなど承知している! だが、私たちは本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。私は、それに反論する気はさらさらない。それこそまさに、私の言う「想像上の秩序」に他ならないからだ。私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じていれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪や陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。ただし、覚えておいてほしいのだが、ハンムラビなら、ヒエラルキーについての自分の原理を、同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は、本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。



下線を引いた部分
ここがぼくと『サピエンス全史』著者の相違点です。
ぼくは 反論する気満々です (^o^)

想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ。



「自由」に向かうしかないのなら そのとおり
が そんなことは一体 誰が決めたのか?

想像上の秩序から逃れる方法がないことには同意します
〔ヒト〕が〔人間〕である以上 どうしようもないことです

が 想像上の秩序(言語現象世界秩序)は
ユヴァル・ノア・ハラリさんが指摘するように 造り変えることが可能なもの
今後も造り変えられていくことに間違いはありません

本書のもっとも大きな価値は

 想像上の秩序は造り変えられてきたのだ

ということを指摘しているところだとぼくは考えます
その意味において 第6章はまさに圧巻です
その上 さらに 

 どのように造り変えられてきたのか

も記述がなされている
つまり 歴史 です
この意味における圧巻は科学革命における記述だと思います
科学革命については 後述します
 
想像上の秩序がどのように造り変えられてきたのかの記述を通じて
判明してきたことは

 〔自由〕に向かっては もはや行き詰まっている

ということです

〔自由〕というのは おそらく

 〔ヒト〕が〔人間〕になろうとすること

そのものなのでしょう
ぼくとても その価値を認めないわけではありません

ですが 行き詰まっていることが明らかなのなら
価値を認めた上で 別の方向性を模索する必要があるでしょう

 もはや〔人間〕は もう十分に〔人間〕になった

だったら どうするか

 〔ヒト〕に戻る

いえ 〔ヒト〕には戻れません 不可能です
ですが そのように信じることは可能だし
そのように信じた上で 想像上の秩序を構築することも可能なはずです

問題は不可能だと理解しつつ 信じることができるのかという点ですが――

 ⇒ 愚慫空論 『自在主義』

そういうことをやろうとした人物
いえ 正確には 

 やろうとしたと 拡大解釈可能な業績を残した人物はいる

とぼくは思っています



『その7』へと続きます

「ニューロティピカル」と「エイティピカル」

20170217ニューロティピカル1

このタイトルが適切かどうかは 正直 疑問です
疑問ですが 今のところ 他に適切な言葉が思い浮かばなくて
ご容赦ください

ここで語りたいのは 前々回 前回 で取り上げた

 >言語現象世界秩序

すなわち

 〔システム〕

についてです

一応 「ニューロティピカル」の定義を挙げておきます

定型発達(ていけいはったつ、ニューロティピカル、英:Neurotypical, NT)は、自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す。

いわゆる健常者の発達のこと。

定型発達の人々は、(行動学上)大多数の人が「普通」とみなす神経学上の発達をとげており、特に言語情報やソーシャル・キュー(社会的合図)を処理できる能力をもつ。


〔システム〕が滞りなく運営されるには

 ・言語情報
 ・ソーシャル・キュー(社会的合図)

が共有される必要があることは 言うまでもないでしょう

たとえば 大多数の者が“イヌ”と呼ぶ動物を
大多数の者が“ネコ”と呼ぶ動物だと思っていた者がいたとします
当然 話は通じません

日本語と英語で考えてもいいでしょう
日本語話者が“イヌ”と呼ぶ動物を
英語話者は“dog”と呼ぶ

いずれも 言語情報が異なる ということです

この程度の単純な差異ならば 
 思い違いを正す(多数の思い込みの方に少数者が合わせる)
 翻訳をする
といったことで解決できます

ですが
そうした言語情報の総体からできあがっている言語現象秩序が異なるとなると
解決は簡単ではないでしょう

言語現象世界秩序の観点から「ニューロティピカル」を定義すると 次のようになるでしょう

 同じ言語をコミュニケーションする集団の中で
 ほぼ共通した言語現象世界秩序を共有する者たち

対して「エイティピカル」は

 同じ言語をコミュニケーションする集団の中で
 大多数の者とは異なった言語現象世界秩序を持つ者


そのように定義をし直した上で
ニューロティピカル/エイティピカルの差異が生まれる機序について
アナロジカルに語ってみたいと思います




またしてもクラドニプレートです

同じ〔ヒト〕であっても棲息環境が異なれば
言語現象世界秩序は異なったものになる

これは前々回に述べました
たとえば
 主に大ブリテン島と生成した英語という言語と
 主に日本という島々で生成した日本語という言語が
互いに異なる ということです

このことをクラドニプレートの構成要素に即して考えてみます
クラドニプレートは 3つの要素で構成されています

 ・振動を与える装置
 ・振動する膜
 ・振動を可視化する「触媒」

話を単純化するために ここでは振動装置は同一と見なします
クラドニプレートにとって振動装置とは動力源であり
生命の源 です

「膜」に相当するのは ここでは〔ヒト〕の言語機能を司る
大脳 だと考えておけば良いでしょう

「触媒」に相当するのは 環境から入力されてくる情報です
日本と大ブリテン島では 〔ヒト〕が受け取る環境情報が異なる
言語を成立させるに至った「偶然」も異なる

「触媒」が異なれば「膜」の上に出現する幾何学的模様もまた異なったものになる
幾何学的模様とは言語現象世界秩序です

「触媒」のちがいの他にもうひとつ 幾何学的模様の差異を生む要因があります
「膜」です

「触媒」が同じであっても
「膜」の質が異なれば
描かれる幾何学的模様は異なったものになる
言語現象世界秩序は異なったものになる

「膜」の質の違いで生まれた言語現象世界秩序の差異
これが
 ・ニューロティピカル
 ・エイティピカル
の違い(だという仮説)です


「触媒」の違いも
「膜」の違いも
どちらも異なる言語現象世界秩序を生み出します

「触媒」の違いから生まれる言語現象世界秩序の違いは
〔システム〕の違いとして認識される
〔システム〕が異なると コミュニケーションが難しくなりますから
そこに諍いが起こる

この「諍い」が戦争のもとであることは言うまでもないでしょう


「膜」の違いから生じる秩序の違いが生み出すの様相は異なります

喩えるなら  〔システム〕を「OS」だとすると
エイティピカルの言語現象世界秩序は 「OS」に適応しない「アプリ」です
「アプリ」はそれ自体 完成したものであっても
「OS」と整合しないので 「バグ」があると見なされる

「バグ」 すなわち 「障碍」です



大切なのはここからです

〔人間〕の考え方では 重要度が高いのは

 「OS」 > 「アプリ」

になります
そう考えるから 「OS」に合わない「アプリ」は「バグ」だと見なされる
「OS」のほうに「バグ」があるとは考えないのが
〔人間〕というよりも ニューロティピカルの考え方です

ですが 〔ヒト〕を構成する生命の原理からすると 
この考え方は転倒しています

前回記したように
ニューロティピカルもエイティピカルも 同じく〈フラクタル〉です
大きな〈円環〉の世界の片隅に たまたま そのように出現したにすぎない存在です

生命現象を生む〈円環〉の中で たまたま〔ヒト〕に生まれ
〔ヒト〕を生む〈円環〕のなかで 
 たまたまニューロティピカルに
 たまたまエイティピカルに
生まれただけ

そうした〈円環〉に遡って考えるならば

  「OS」 < 「アプリ」

でなければおかしい
「アプリ」は 〔ヒト〕が〔ヒト〕である次元
〔人間〕がどうこうするべきではない次元の問題
すなわち 自然現象世界の問題

一方、「OS」は 言語現象世界の問題
〔人間〕がどうこうするべき次元の問題です

〔人間〕がどうこうするべきではない次元の問題と
〔人間〕がどうこうするべき次元の問題とが 転倒してしまいます


この「転倒」を告発するのが




「転倒」は【逆接】です
〔システム〕が【システム】になってしまいます。

人類に【逆接】が生じた歴史上の出来事があります

では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物群だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。



 


今や【システム】は 誕生時よりもずっと巨大化してしまっています
巨大化につれ その言語現象世界秩序は より
 単純に
 厳密に
なってしまっています

その現実を指摘しているのが 



単純で厳密になってしまった【システム】は
ニューロティピカルですら疎外するようになってしまっています

この本は あくまで「指摘」にとどまっています
「告発」にまで至らない
ニューロティピカルだからです

 「OS」 > 「アプリ」

だからです

サピエンスの集合的な力の劇的な増加と、表向きの成功が、個人の多大な苦しみと密接につながっていることを、私たちは今後の章で繰り返し目にすることになるだろう。



というわけで 当記事も
『サピエンス全史』シリーズ『その6』へと続きます



【再掲載】 「触媒」 【追記】


前回

 「言語現象にもオートポイエーシスは働く」

なんてことを書きました

書いてみて 以前 そのような内容のことを書いたことを思い出しました

さほど長くないので そのまま再掲載してみます

* * * * *

コミュニケーションの失敗から必然的に生まれるもの、責任と秩序と権力。
とはいうものの、コミュニケーション失敗から即、それらが生まれるわけではない。
コミュニケーションの失敗は、それらが生まれる土壌のようなもの。
責任や秩序や権力が土壌から発芽するのは、きっかけ、気づき、といったようなものが必要。
しかもわかりやすい形で社会に共有されないといけない。

責任・秩序・権力が発芽する、社会に共有されるきっかけ。これを「触媒」と呼んでみたいと思う。

「触媒」をイメージするのにちょうどよい動画がある。



この動画は、
『自然の幾何学とアーカイブ』(雑念する「からだ」)
から
『「世界」は振動という「空(くう)」に満ち満ちている』(光るナス)
という順序でここへやってきた。

『光るナス』のアキラさんは、クラドニプレートを「世界」と解釈し、振動を「空(くう)」と見、そして

「世界」には、こういうありとあらゆる振動が満ち満ちていて、その振動と振動との狭間に、粗いものが吹き寄せられていく。
その「集まり」を、僕らは「姿」や「形」や「状態」として認識しているのではないか?


と投げかけてこられる。うん、腑に落ちるものがある。視覚や聴覚のような感覚はこのようなイメージで立ち上がるのだろうと思う。振動数の高い者ほど、緻密な「姿」「形」になる。

感覚には「触媒」は特に必要とされない。
なぜなら、それはもともと身体にビルトインされているから。

人間は、振動するクラドニプレートによってイメージされる「世界」をもうひとつ抱えて、そちらは「触媒」を必要とする。
プレートの振動を“可視化”する砂。
この砂がなければ、プレートが振動していることが理解されない。社会に共有されない。
社会で共有されることがなければ、いかに土壌(振動するプレート)が整っていても発芽はない。

責任・秩序・権力といった観念。
そればかりではなく、言葉も貨幣も「触媒」である。

* * * * *


続きを読む »

〔世界〕と〔システム〕



当記事の内容は

 『サピエンス全史』 その0

からの続きになります

『サピエンス全史』シリーズは『その5』まで進んできましたが
このあたりで 体系的なことを記してみたいと思います

 〔世界〕
 〔社会〕
 〔システム〕
 〔人間〕
 〔ヒト〕

『その0』では 5つのキーワードを提示しました

〔人間〕と〔ヒト〕は存在としては同一です
〔人間〕であると同時に〔ヒト〕でもある存在を「サピエンス」と呼びましょう

サピエンスにおいて 〔人間〕と〔ヒト〕の分離が起きました
その出来事が認知革命です

認知革命には確たる証拠はありません
蓋然性は高いが推測です
仮説です

認知革命以前のサピエンスがまだ地球上に生息しているか?
いるとすれば それはピダハンだろうというのが ぼくの仮説です



ピダハンは「直接体験」で生きているサピエンスです
すなわち「一重の現実」しかない

認知革命以降のサピエンスは
ピダハン以外は「二重の現実」の中で暮らしています

「二重の現実」をもたらしたのは言語です
私たちの言葉にあって ピダハンの言葉にないもの
それは リカージョン(再帰) です

人間の脳が限られたものであるのに、ほぼ無限と言えるほどの文章を生みだすことができるのはなぜなのかを最初に命題としてたてたひとりがチョムスキーであるのは論をまたない。言語学者がよく言うように、「有限の方法を無限に使う(――科学的な観点から厳密にこの表現が何を意味するのか、満足のいく解説をすることのできる言語学者はいないと思うのだが)」ことを可能にする道具であるに違いない。チョムスキーは人間の言語に無限の創造性を与えている基本的な道具がリカージョンであると主張した。

リカージョンは従来、文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力と定義されている(もっと数学よりの言い方をすると、実行すると自分自身を参照するような手順ないし命令系である)。鏡と鏡を向かい合わせて持つと、互いの鏡像がどこまでも果てしなく見えるというのが、目で見るリカージョンの例だ。耳で聴くリカージョンの例としては、フィードバックがある。アンプが自分自身の出力した音を拾い、増幅してさらに出力し、それをまた拾って増幅し、延々と出力しつづけるような場合である。

これが一般的なリカージョンの例だ。統語的にはある語句の塊を、同じ種類の塊に入れ込むことと解釈できる。たとえば「ジョンの弟の息子」という名詞句だ。これは「ジョン」「彼の弟」「彼の息子」という名詞句を含む。あるいは「わたしはおまえが醜いと言った」という文には、「おまえは醜い」という文が含まれる。

(『ピダハン』p.318より)



人間の言語に無限の創造性
言い換えれば「デタラメ」です

ただし 「デタラメ」は無秩序を意味しません
デタラメのなかにも秩序は自生的に生成いきます
自然現象もそうだし 言語現象もそう

秩序の自然発生のことを「オートポイエーシス」といいます
言語現象にもオートポイエーシスは働く――これはぼくの仮説です


リカージョンによって言語の複雑性が増す
複雑性は増すほどに
オートポイエーシスの作用で自己組織化されていく秩序は独自のものになる
言語現象秩序は独自のものになるにしたがって
自然現象秩序から乖離していく

そうして 「二重の現実」 が誕生します

はじめに言葉があり,言葉は神と共にあり,言葉は神であった。
この言葉ははじめに神と共にあった。
すべての物は彼を通して造られた。造られた物で,彼によらずに造られた物はなかった。
・・・



コチラでも引用した 『ヨハネの福音書』の冒頭です

「言葉は神であった」の言が示すのは

  言語現象秩序の独自性

と言っても 的外れではないと思います

言語現象秩序が自然現象秩序から分離した独自性をもつとき
「二重の現実」がサピエンスの中に生成され
〔ヒト〕と〔人間〕に分離します

自然現象秩序に従う〔ヒト〕
言語現象秩序の従う〔人間〕

同時に〔世界〕と〔システム〕も誕生します

「一重の現実」においては

 〔世界〕=〔社会〕

認知革命以前のサピエンス 
 および
認知革命以後のサピエンスを除く生命種
 にとっては
「コミュニケーション可能なものの全体」が全世界
自然現象秩序の法則が働く世界だけが〔世界〕


認知革命以後のサピエンスの「二重の現実」には

 自然現象世界
 言語現象世界

のふたつの世界(現実)があります

言語現象世界が生まれたことで〔世界〕は拡張されます
〔世界〕は拡張されることで それまでは同一だった〔社会〕から分離する

〔システム〕とは 言語現象世界秩序 のことです

コミュニケーション可能なものの全体である〔社会〕は
そもそもは自然現象世界秩序に従うものでした

認知革命以降のサピエンスは
自然現象世界秩序と
言語現象世界秩序の
デュアル・スタンダードでコミュニケートします
このデュアル・スタンダードでコミュニケーション世界が
認知革命以降のサピエンスにとっての〔社会〕です

が その〔社会〕の中に言語現象世界秩序だけは入れ込むことができません

なぜか?
言語現象世界秩序はデタラメだからです

自然現象世界秩序は すべての生命にとって同一です
生物種によって感覚装置は異なるので
「秩序の見え方」は異なるでしょうが ベースは同じ

ところが言語現象世界秩序はデタラメです
それぞれの風土において 独自にオートポイエーシスなされたもの
全生命は ひとつのオートポイエーシス(大きな円環)において
それぞれに 発生したもの

サピエンスも その「それぞれ」のひとつです
「それぞれ」とは言い方を変えると「個的」です

サピエンスという〔それぞれ〕の中に
サピエンスが生息する環境(風土)によって
重ねて「それぞれ」に言語現象世界秩序が自生的に生成されます

棲息環境を共有する〔ヒト〕たちにとっては 
生成される言語現象世界秩序のベースは共有だから
〔システム〕もまた共有されます
〔システム〕共有によって 〔ヒト〕は〔人間〕になります

棲息環境が共有されなければ  〔システム〕は共有されない
〔システム〕が異なれば 同じ〔人間〕でも 「仲間」ではない

この分離は ピダハンにすでにあるものです

棲息環境(風土)が異なるがゆえに
同じサピエンスであっても「それぞれ」が生じ
「それぞれ」に〔システム〕が生成して
「仲間」と「仲間でない者」が生成する

「仲間」と「仲間でない者」は言語現象世界での現象です
自然現象世界は共有されています
その証拠に 仲間でない者同士でも 「交配」は可能です

言語現象世界のなかに「仲間」と「仲間でない者」が生まれ
それぞれが個別の〔システム〕を持っているという認識が生まれる

異なる〔システム〕どうしは コミュニケーション不可能なものです
ここにおいて〔世界〕が〔社会〕から分離することになります


こうして見てみると 〔世界〕と〔システム〕が兄弟 だという言は誤りのようです
〔システム〕と〔社会〕の交配によって〔世界〕は生まれた

では〔システム〕は?
サピエンスと「何か」の間の子どもでしょう

その「何か」の正体はよく分かりません
進化だと言っておくのが 科学的でしょうけれども




『サピエンス全史』その5~農業革命の罠

『その4』はコチラ

 


人類は250万年にわたって、植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。そして、これらの動植物は、人間の介在なしに暮らし、繁殖していた。ホモ・エレクトスやホモ・エルガステル、ネアンデルタール人は、野生のイチジクを摘み、野生のヒツジを狩り、どこでイチジクの木が根付くかや、どの草原でヒツジの群れが草を食むべきか、どのオスヤギがどのメスヤギを孕ませるかなどを決めることはなかった。ホモ・サピエンスは、東アフリカから中東へ、ヨーロッパ大陸とアジア大陸へ、そして最後にオーストラリア大陸とアメリカ大陸へと拡がったが、サピエンスもどこへ行こうが、野生の植物を収集し、野生の動物を狩ることで暮らし続けた。他のことなどする理由があるだろうか? なにしろ、従来の生活様式でたっぷり腹が満たされ、社会構造と宗教的信仰と政治的ダイナミクスを持つ豊かな世界が支えられているのだから。

だが、一万年ほど前にすべてが一変した。それは、幾つかの動植物の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。人間は日の出から日の入りまで、種を蒔き、作物に水をやり、雑草を抜き、青々として草地にヒツジを連れて行った。こうして働けば、より多くの貨物や穀物、肉が手に入るだろうと考えてのことだ。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった。



認知革命によってサピエンスは〔虚構〕を操ることが可能になりました。

〔虚構〕を操ることで生物学的限界を超えた協力が可能となり
食物連鎖ピラミッドのなかほどに位置していたであろう
取るに足らない種でしかなかったサピエンスが
一気に食物連鎖ピラミッドの頂点に躍り出ることになった。

その過程でサピエンスは
かつては自分たちより上位にいたであろう種をいくつも駆逐しました。

『サピエンス全史』の第4章は 「告発の通り有罪」というタイトルですが
この章については割愛します。


サピエンスは生物学的ピラミッドの頂点に立ち
豊かな原初の暮らしを送っていました。
その物質的生活水準は ピダハンやヤノマミに見られるように
現代の文明人が享受している豊かさの水準からからすれば厳しいものでしょうが
精神的なものも含めた全体的水準で見れば 果たしてどうか?

かつて学者たちは、農耕社会は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、次第に知能の高い人々が生み出された。人々はとても利口になり、事前に秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。

だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採取する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食料の総量を確かに増やすことはできたが、食料の増加は、より良い食生活やより長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。



農業革命が史上最大の詐欺とは。
文明人の常識とは真逆です。

ですが、豊かさがかえって貧困を真似ている現代社会の状況を鑑みれば
この「真逆」が誤りだとは言い切れません。

真に真逆なのは、次の記述。

では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物群だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。


ぼくがいうところの【システム】の誕生です。

先のここのところを引用しておきましょう。

歴史の数少ない鉄則のひとつに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。人々は、ある贅沢品についていったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。そのうち、それに頼り始める。そしてついには、それなしでは生きられなくなる。私たちの時代から、別のなじみ深い例を引こう。私たちは過去数十年間に、洗濯機、電気掃除機、食器洗い機、電話、携帯電話、コンピュータ、電子メールなど、時間を節約して生活にゆとりをもたらしてくれるはずの、無数の機械や手段を発明した。以前は、手紙を書き、封筒に宛先を書いて切手を貼り、ポストにまで持っていくのはけっこうな手間だった。そして、返事が来るまで何日も、何週間も、ことによると何ヶ月もかかることがあった。それが今では、電子メールを地球の裏側までさっと送り、(相手がオンラインならば)二分後には返事が受け取れる。私は以前の手間と暇をすべて省けたわけだが、前よりもゆとりある生活を送っているだろうか?


サピエンスは希望を抱く生き物です。
希望は〔虚構〕にすぎませんが
〔虚構〕と現実の区別が付かないのが認知革命以後の「人間」。

その希望が【システム】を生み出す。
【システム】の種になる希望は、【希望】です。

ぼくはかつて、こんな文章を書いています。

 『【良心】ほど始末に負えないものはない』
 『魔法少女まどか☆マギカ』
 『メフィストーフェレスは合理性の中に棲む』

今読み返すと、なんとも読みづらい文章ですが (^_^;)
それはともかく、
ぼくがこれらの文章で書き表わしたかったことの出発点が、農業革命でした。

農耕技術が確立されて行くにつれ、狩猟採集民は徐々に定住生活を始める。
永続的な村落に移り、食料の供給が増えると
 女性は毎年子どもを産むことができるようになる。
赤ん坊にお粥や家畜たちの乳を与えることができるようになる。
定住生活は放浪生活よりも乳幼児死亡率は高かったが
 それでも出生率が上回るようになって、人口が増える。
農耕の導入で村落の人口が100人から110人へと増えたなら、
 もはや放浪生活には戻れない。
人口の増加はゆっくりと何世代もかかって起こっただろうが、
 その期間に狩猟採集で生き延びる技術も失われていった。

サピエンスは、より楽な暮らしを求めたわけではないでしょう。
ただ「孤独な決断」から逃れたかった。
それが〔システム〕によって可能になるなら、それに頼らない法はありません。
たとえ〔システム〕によって〔希望〕が【希望】へと変質し
 自分たちを苦しめることになろうとも。
いや、そもそも、そんな先のことを予見できるほどサピエンスは賢くはなかった。


農業革命以後の歴史は、【システム】の分化と複雑化・強大化の歴史です。
というより、それこそが歴史そのものです。

サピエンスの集合的な力の劇的な増加と、表向きの成功が、個人の多大な苦しみと密接につながっていることを、私たちは今後の章で繰り返し目にすることになるだろう。



『その6』へと続きます。

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『夕凪の街』


『この世界の片隅に』のマンガ版を読んでみようと思いました
注文しようと思って ネットのページへ行くと 目に留まったのが

 『夕凪の街 桜の国』

でした
同じ作者の 『この世界の片隅に』よりも前の作品です

 先にこちらを読んでみるかな
 『この世界の片隅に』は 必ず読むだろうから

そんなふうに思って 『夕凪の街 桜の国』を手にすることになったのでした



こちらを先にしようと思ったのは 先にしたいと感じたのは
少し軽いものを期待したからかもしれません
ここのところ重いものが続いていたし
感性への負担を和らげたかった

『この世界の片隅に』は柔らかい作品だけど 手応えはずっしり重い
こちらは過去作だから 軽めだろうと勝手に思い込んでんですね

ところが...

ぼくの勝手な期待は見事に裏切られることになりました
30ページあまりのマンガを見ただけでお腹いっぱいになってしまって
その先の『桜の国』を まだ読み進めることができていません
読み進めるためには、少し僕の思いを吐き出す必要があります


舞台は『この世界の世界の片隅に』と同じく 広島です
場所は同じだけど 時間は違って 『夕凪の街』のほうは戦後
戦中であっても戦後であっても
作者の目線というか タッチというか 筆遣いというか
そうしたものは変わらない
絵がとても柔らかい


本書を眺めてみて改めて気がついたのは
この柔らかさのカギは 背景画にあるということ

マンガといえども 骨格は「物語」です
そして物語を織りなすのは「人間」
ということは マンガも人間中心
当然のことです
だから 当然のなりゆきで 絵もキャラクターが中心になる

ところがこうの史代さんの絵はそうではない
背景には もしかしたら キャラクターの造形以上に重きが置かれいるかもれない

読者は無意識のうちにキャラクターに焦点を合わせます
描き手の「当然のなりゆき」と読者の「無意識」が重なると
キャラクターが際立つ
もちろん それは悪いことではありません
ひとつの特長です

こうのさんの絵は それとは違う特長がある
読者は無意識のうちにキャラクターに焦点を合わせるのだけど
背景の作画がキャラクターと同等に丁寧だから際立たない
融ける
輪郭ははっきりあるのに 「感じさせない」というか
「引き算」があるというか
その「感じさせない感じ」を、読者は「柔らかい」と感じる

あ 「読者は」ではなく 「ぼくは」ですね (^_^;)


こうした感じは アニメ映画『この世界の片隅に』にもあることです
今 思い返しても際立った印象があまりない

強い印象が残っているシーンはありますよ
いろいろ
でも それは際立つというのとは違う
強いて挙げるなら、爆弾の絵かな
米軍が街を空襲するシーンの爆弾の絵
あれは際立っていた
一瞬 CGか? と思ったくらい


『夕凪の街』のページを開くと、そんな感じの絵を眺めることができました
好きです こういう絵
懐かしい感じすらします
始まるストーリーも、優しい物語
ここまでは期待通りだったんですが


『夕凪の街』の物語の特徴を一面だけ切り取ってしまうなら
悲恋の物語です
といって 「悲恋」という言葉からイメージされるような際立ったものは ない

どう言えばいいのか
そう 「芽が出ない」という言い方がいいかもしれません

なるべきものが そうならない
そうならない悲しさ
ならずに壊れていく悲しさ


生命というのは ある種の奇跡です
物理学的な法則があって
化学的な法則があって
その上に生物学的な法則がある
さらに生物学的な法則の上に 種それぞれの生態学的法則がある
その上に 人間の場合 歴史的・文化的な積み重ねが法則として作用する
恋などといった現象は そうした厖大で奇跡的な組み合わせの中で生まれた奇跡です

ただ 人間はそうした奇跡を意識しません
奇跡の上に積み重なった歴史的・文化的な「現実」のなかに生きていますから
若い男女が恋をするのは ごく自然なこととしか感じない
そしてごく自然に、「なるべきもの」をイメージします

ところが そうならない
物理的なところで、生物学的な法則に沿わないことが起こってしまう
物理学的な法則には沿っているんだけど、生物学的ではない現象が起こる
そのような現象は人間にとっては不自然なことです
その不自然を人間が引き起こす

不自然な現象をわが身をもって引き受けてしまったときの情景
それが際立ったものなしに表出されている


際立ったものがあれば、読者としては救われるんです
際立ち方は個性ですから、自分とは異なる存在として認識しやすい
異なる存在と認識できれば、同情できるんですよ
同情して「悲しい思い」を愉悦として消費することができる


 嬉しい?

 十年経ったけど
 原爆を落とした人はわたしを見て
 「やった! またひとり殺せた」
 とちゃんと思うてくれとる?


愉悦が感じられるのは、このセリフくらいのものです
これだけは ちょっとだけ 際立っている
際立っていて チクリと痛くて
だから 他人事を感じることができる

「他人事」という表現は違うな。
恨みを感じさせる思いを吐き出してくれて、ホットしたというか。

「なるべきものが そうなる」
一言でいうと 「育つ」
『夕凪の街』は「育たないお話」しです
それが『桜の国』で どう育つのか

やっと前へ進めそうです


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『鹿の王』を思い起こす 【追記あり】


毒多さんからいただいたコメントに返答しているなかで、
 新しい〈ことば〉が名乗りを上げてきました。

 どうしようもないものをどうにかする

このままでのっぺりしていて物足りないので修飾を付けましょう。

 【どうしようもない】ものを〈どうにかする〉
 〈【どうしようもない】ものをどうにかする〉


後者の方がしっくりくるかな?

「どうしようもない」も
「どうにかする」も、
どちらも意志です。

「どうしようもない」はネガティブな意志。
だから【どうしようもない】。

「どうにかする」はポジティブな意志。
ゆえに〈どうにかする〉。

閉じた【意志】。
開いた〈意志〉。

閉じた【我】からは閉じた【意志】が。
開いた〈わたし〉からは開いた〈意志〉が。


「どうしようもないものをどうにかする」という〈ことば〉が立ち上がってくるときに
 引っ張ってきたのが『鹿の王』でした。

  


「父は、〈鹿の王〉を見たことがあったそうだ」
「我が身を賭して、群れを守る鹿?」

「飛鹿は足が速いし、断崖絶壁にも強いから、めったに狼や山犬などにやられることはない。それでもな、平地で狼や山犬に襲われると、追われて走るうちに仔鹿が遅れてしまうことがある。
 そんなとき、群れの中から、一頭の牡鹿がぴょん、と躍りでて、天敵と向かい合ったのを見たことがある、と、父は言ったんだ。もう若くもない、いい歳の牡が、そんなことをした、というんだよ」

「群れはどんどん逃げて行く。逃げ去っていく群れを背にして、その牡鹿は、ひとり狼たちの前に立ち、まるで挑発するように、跳ね踊ったのだそうだ」

「一頭になってしまった鹿は弱い。いかに体格の大きな牡鹿でも、狼の群れの前に、敢えて残るなど無謀なことだ。それなのに、まるで、目の前に迫った死を嘲笑い、己の命を誇るように跳ね上がり、踊ってみせていたそうだ」

「馬鹿な奴だ、と、父は言ったよ。いかに強かろうと、何頭ものも狼に囲まれたら逃げられん。自ら窮地に跳びこんで、自分の命を危険に晒すなど、馬鹿がやることだ、と。
 俺たちは若かったからな、むっとしたよ。そんなことはない、群れを守るために我が身を犠牲にするなんて、凄い。それこそ、群れを守る〈鹿の王〉だ、そう口々に反論した」

「そうしたらな、父は笑った。――おまえらも馬鹿だ、と
 ひとり、ひとりを指さして、父は言ったよ。おれは英雄になれる。氏族のために命を捨ててみせる、とでもおもっているだろうが、思い違いも甚だしい。
 おまえらみたいな、ひよっこはな、生き延びるために全力を尽くせ。己の命を守れたら重畳。戦の最中では、我が身を守ることすら、なかなか出来やしない。敵が圧倒的に強ければ、必死に逃げろ。逃げて命を繋ぎ、子を産み、増やせ。それがおまえたちの務めだ、と」

「だけど、逃げられない人がいたら? と、おれは父に問うた。逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の努めじゃないか、と」

「・・・お父さまは、なんと?」
「いきなり真顔になって、言ったよ。――それは、それが出来る者がやることだ、と」
「敵の前にただ一頭で飛び出して、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授かってしまった鹿なのだろう。
 才というものは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす。そんな才を持って生まれなければ、己の命を全うできただろうに、なんと、哀しい奴じゃないか、と」




後ほど、追記を書きます。

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『ヤノマミ』 その2


『その1』はコチラ



同居を始めた頃、僕たちについてもヘレアムゥでこう伝えられた。

「今いるナプは敵じゃない。安心してくれ。災いを運んできたのではない。彼らはヤノマミを知りたいと言っている。みんなで教えてあげなさい。食べ物は分けてやり、一緒に食べなさい。バナナを与えるときは、こんなバナナが採れる土地は素晴らしいと言って渡しなさい。歌も聞かせてあげなさい。ヤノマミがどれほど強いかも見せて上げなさい。顔を縫って、飾った姿も見せて上げなさい。そうすれば、ナプは喜ぶはずだ。情けない姿はみせないようにしなさい。怠け者だと思われないようにしなさい。ナプより早く起きなさい。シャボノのウンゴをしたら、すぐに片付けなさい」



この記述を読んだ時は、笑ってしまいました。

その1では中国人観光客を話題にしましたが、
その昔、中原を支配していた華人の王たちも
このようなことを城砦を訪れた北狄南蛮東夷西戎たちに言っていたことでしょう。

ウンコは、片付けてくれる奴隷がいたことでしょうが...


著作『ヤノマミ』の著者は国分拓さんという方です。
NHKのディレクターだそうです。

国分さんたちがヤノマミの集落を訪れた目的の一はおそらく、
TV番組を制作すること。
その目的は、NHKスペシャルの番組となって結実していて、
NHKオンデマンドで視聴することが可能です。

著作としての『ヤノマミ』は副産物と言ってしまうのは不適切でしょうが、
取材の実りが思いのほか豊かだったために、
NHKスペシャルの制作だけではもの足りなくなって
 生まれたものなのかもしれません。

さらには、劇場用公開用の映像作品も制作されたみたいで、
そのDVDも販売されています。



映像作品の『ヤノマミ』の方(NHKスペシャル)は、
 著作とは違って、禍々しい印象は受けません。
カメラによる撮影が可能になったのは、
 上記引用のようなセレモニー(?)があってからだろうということは、
想像に難くありません。

その1で紹介した禍々しさとの遭遇は、今回引用した記述よりも前のできごと。
取材班は、災いをもたらすナプである疑いが掛けられていた。
疑いが晴れて、平穏に同居を続けることができるようになり、
撮影も可能になったということでしょう。


話はいささか変な方向(?)へ飛びます。

NHKスペシャルで放映された映像作品は、
NHKオンデマンドで視聴可能なのは、 先に述べた通りです。

NHKオンデマンドでの視聴は、有料です。
NHKの受信料を払っていても、話は別。有料なんです。
単品で、税込み216円の支払いが必要です。

ところが、無料で視聴する選択肢がある。
敢えてリンクを張りますが、「Dailymotion」というサイトで視聴可能
もちろん、無料です。

有料であるはずのものが無料で視聴可能だという事態は、
ある意味、理不尽です。
無料の方は違法なものなのでしょうが、
法的解釈はさておき、
有料と無料が同時に存在するという事態は、何かがおかしい。

現代的常識で考えるなら、無料の方は、違法で、悪しき存在。
そんなものが蔓延ると、優良なコンテンツが制作されなくなる。
つねに語られる理由です。

しかし、ぼくはそんなふうに考えていません。
システムのあり方で悪になってしまっているだけであって、
システムのあり方しだいでは、悪しきものでなくすることも可能なはずだと考える。

現行のシステムでは、著作物や映像作品には著作権があって、
どのような形で読者や視聴者に提供するかを決める権利は、著作権者にある。
これはこれで合理的な考え方ではあります。

ですが、半面、このシステムは、読者や視聴者の主体性を奪ってしまう。
読者や視聴者は、まだ観ぬ作品を購入しなければならない。

作品の価値を決めるのは、読者・視聴者です。
にもかかわらず、価格を決めるのは、著作権者です。

価値と価格は違うのか?
確かに違う。
違うけれども、まったく違うものではないはず。
価値の主体と価格の主体が、正反対の立場になってしまうほどには違わないはず。

そのようにしないと、作品そのものの制作が難しいという理屈は理解できます。
その理屈は、歴史的な経緯を経たものですから、それなりの必然性があります。
が、未来を保証するものではない。


歴史的な経緯があるとして、
では、その第一歩を踏み出したのはどこか。

『ヤノマミ』には、その一歩を踏み出す前の原初の姿があります。
原初の姿は、映像作品の方がよりリアルに伝わってくるような気がします。



 

精霊か、人間か、全てを母親が決める

ヤノマミの女は必ず森で出産する。ある時は一人、ある時は大勢で、必ず森で出産する。

女たちが森へ消える姿を初めて見たのは満月の夜で、子どもが生まれたのは東の空が白み始める直前のことだった。許されて近くに寄ると、生まれたばかりの子どもが地面に転がっていた。月明かりにへその緒や胎盤を濡らして、地面に転がっていた。

ヤノマミにとって、生まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊なのだという。精霊として生まれてきた子どもは、母親に抱き上げられることによって初めて人間となる。だから、母親は決めねばならない。精霊として生まれた子どもを人間として迎え入れるのか、それとも、精霊のまま天に返すのか。

その時、母親はただじっと子どもを見つめているだけだった。森の中で地面に転がっている我が子をじっと見つめているだけだった。

僕たちにとって、その時間はとてつもなく長い時間のように感じられた。


子どもを見つめる母親が何を考えていたのか、僕たちには分からない。僕たちが聞いても、女たちは何も答えない。精霊のまま我が子を天に送る母親の胸中を女たちはけっして語らない。ナプに対しても、身内に対しても語らない。ワトリキでは、「命」を巡る決断は女が下し、理由は一切問われない。母親以外の者は何も言わず、ただ従うだけだ。



主体性というものの原点が、ここにあるような気がします。

主体性を行使する者は孤独です。

ぼくは男なのでわかりませんが、
女性が子どもを胎内に宿している状態というのは、実に窮屈なものなのだそうです。
異物が身体の中心に居座っている感触だとか。

そのようなものを、何十時間にもおよぶ陣痛に耐えて、この世に生み出す。
医療技術が発達した現代の先進国でも、出産は女性にとって命懸けです。
技術的には未発達のヤノマミならば、その度合いはもっと大きいに違いない。

そうして生み出した我が子に対して、
 「天に返す」などという選択肢がなにゆえ存在するのか?
ここではその疑問はスルーしておきましょう。

とにかく、その選択を母親は成さなければならない。
誰も何も言ってはくれない。
孤独でしょう。
絶対的に。



映像作品では、母親の主体性が示されたあとに、
 画面一杯に満月の姿が映し出されていました。

出産の日が満月の夜だったのは、偶然か?
現代人の感覚なら偶然でしょうが、
 女性の月経と月齢に深い関係があることは知られています。

その日が偶然であろうとなかろうと、この場面に満月はふさわしい。
理由はわからない。
分析不能です。
太陽がふさわしい気もしますが、やはり違う。
三日月でも半月でもない。
満月が、もっともふさわしい。


ヤノマミは、子どもが4、5歳になるまで子どもに名を付けることがないそうです。

男の子は〈モシ〉。
女の子は〈ナ・バタ〉。

〈モシ〉とは男性器、〈ナ〉とは女性器のことで、
〈バタ〉とは、「大きな」とか「偉大な」とかいう意味。

なぜ、女には「偉大な」という形容が付くのか。
母親に課せられた生命に対する主体性を考えれば、得心が行くような気がします。


主体性をもってなされた決断を、誰もが無条件で受け容れる。
孤独と寛容の大きな対比。
この対比こそ尊厳でしょう。
尊厳の原初の姿。

この厳しい主体性を奪うのもまた寛容です。
孤独に手を差し伸べるのは、優しさ。
だけど、主体性の厳しさを侵す優しさは、人間を弱いものにしてしまいます。
果ては、【システム】に隷属していかないと生きていけなくなってしまう。

本当の〈いのち〉というものは、そんな弱いものではないはずです。


生きる主体としての尊厳を取り戻す。
ヤノマミのような原初の姿にまで戻るのは、僕たちには不可能かもしれません。
だけど、その方向に向かって歩み始めることは、できないはずはない。

価値と価格との一致は、その歩みの最初の一歩になると考えています。


『その3』も、たぶん、あると思います。

『ヤノマミ』 その1



今朝、見るともなしにTVを見ていました。
朝の報道番組か流れていた中国人観光客の振る舞いについての情報。

北海道の無人駅、札幌と小樽の間にある朝里駅が舞台でした。
海の見える無人駅。
今の季節は雪景色ですから、雪と海が一緒に見える。

TVに出ていた中国人観光客がいいます。
「中国には、雪と海が一緒に見える場所はないんです」

東北地方(旧満州)あたりに行けばあると思うけど?

まあ、いいか。

朝里駅に中国人観光客が良く来るようになった理由は、
そこが「聖地」になったから。
巡礼の地になってしまったんですね。苦笑。


「聖地巡礼」の言葉をグーグルさんに投げかけてみると、
上位に『NEVERまとめ』が出ていて、

 『「聖地巡礼」の人気まとめ一覧 - NAVER まとめ』

ページを覗いてみると、



2017年2月7日AM10時では朝里駅に話題がトップに出ていて、笑、
「まとめ」が作成されていました。

これ、「まとめ」というよりTV番組の「写し」なんだけど、
「写し」とはいえ、こういうページは瞬く間にできあがってしまうんですね。
ちょっとビックリ。

プロの仕事(笑)なんでしょうね。


話がどんどんズレていってしまっていますけど、
ぼくが何を思ったのかというと、
この番組で報道されていた中国人観光客たち振る舞いが、
――日本のルールがわからずにか、無視してかは知りませんが――
電車を何度も緊急停止させるような迷惑な振る舞いになっていて、
それが、僕たち(←日本人)の敵意を招いている。

その情景が、『ヤノマミ』の


第一章で描かれている情景とよく似ているな、と思ったんです。

彼らは僕たちをナプと呼んだ

・・・・・・

〈ナプ〉とは「ヤノマミ以外の人間」、あるいは「人間以下の者」を指すヤノマミの言葉で、敵意と差別が込められた最大級の蔑称だった。世の中には様々な蔑称・差別用語があるが、アマゾンの奥地で聞いたナプという蔑称ほど、冷たく、恐ろしく、肝が縮み、心がザワザワと騒ぎ、耳にこびり付いて離れないものはなかった。

どんな言語でも侮蔑の言葉は語感が禍々しい。だからなのか、ヤノマミの言葉をほとんど知らなかった僕らでも、ナプという言葉だけは聞き取ることができた。やはり、差別される方は直感的に分かるものなのだ。



朝里駅での情景は禍々しいものとは言えません。
迷惑な振る舞いを眺める僕たちの気持ちも、禍々しいものにまで至っていない。
個人差はあるかもしれませんが。

禍々しさにまで至っていなくても、【不機嫌】はすでにそこにある。
彼らなりの行動様式にしたがって純真に振る舞う中国人たちを
僕たちは(TVを通じて)眺めているわけですが、
そこにはすでに【不機嫌】があることを認めないわけにはいきません。

「直接体験」ではないにもかかわらず。

〈ヤノマミ〉とは、彼らの言葉で「人間」という意味だ。彼らはブラジルとベネズエラに跨がる深い森に生きる南米の先住民で、人個は推定二万五千人から三万人。「文明化」が著しい先住民にあって、原初から続く伝統や風習を保つ極めて稀な部族だった。

西暦1492年にコロンブスがやって来る以前、南米大陸には一千万から五千万人(諸説あり)の先住民が暮らしていたと推定されているが、その後の500年で彼らの人口は1パーセントいかにまで激減した。多くの部族が虐殺は〈文明〉側によって持ち込まれた病原菌によって絶滅したのだ。現在、ブラジルに生きる先住民は二百二十部族・三十万人に過ぎない。

ヤノマミは〈文明〉による災厄から免れることができた奇跡的な部族だった。アマゾンの奥の、また奥にある未踏のジャングルで暮らしていたため、虐殺や病原菌による絶滅から逃れることができたのだ。一定の人口を維持し、独自の伝統と風習を保ち続けはなかった。



ヤノマミの人たちが、
 本当に「原初から続く伝統や風習を保つ」人たちかどうかはわかりません。
そうだとしても、
 「原初からの精神性を保つ」かどうかは、もっとわからない。
わからないけれど、そうだと仮定すると、
ヤノマミの人たちには、禍々しさにつながるような【不機嫌】がすでにある。

それは、あくまで本の記述を通して、
すなわち著者の視点を通してではありますが、『ピダハン』にはなかったものです。



この【不機嫌】を、ぼくは、「認知革命」以後のものではないかと推測しています。


上に引用した、『ヤノマミ』著者の、「ナプ」という言葉への印象。

 「ナプという蔑称ほど、冷たく恐ろしいものはなかった」

偽らざるものなのか、
ドキュメンタリーをドラマチックに仕立てるためのレトリックなのか。
おそらく両方なのでしょう。

【不機嫌】を隠蔽するのが〈文明〉とやらの効用だとするなら、
 隠蔽の洗練度が文明度だとするなら、
中国人観光客の振るまいを眺める僕たち日本人の文明度は、
 明らかにヤノマミよりは上でしょう。

が、いくら洗練されても【不機嫌】そのものがなくなるわけではない。
【不機嫌】そのものがないならば、洗練の必要もない。


以前にも引用した『ピダハン』の記述です。

(前略)
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。そんなときわたしは、神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。

わたしたちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、とわたしは言った。.以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、わたしは幸せになり、人生もよくなった。急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、まったく考えていなかった。自分では意味をなすと思っていた。そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた――これを話せば、神とともにある人生.がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。

「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた、彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、実際のところこの話はまったくの逆効果、彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。



ピダハンたちのこの反応の理由を、ぼくは、
 現象界と象徴界が未分離だから
と推定しました。

今度は別の言い方をしてみます。

 【不機嫌】を実存させていない人たちに、
 【不機嫌】の取り扱い方を教授しようとしたときの反応。


ヤノマミの人たちには、すでに【不機嫌】は実存するようです。
禍々しいものに直結するほど、剥き出しの【不機嫌】が。
ならば、その取り扱いの仕方、洗練の方法の教授は可能でしょう。


『その2』へと続きます。


本を読んでいるだけでは物足りなくなって、
オンデマンドにあるNHKの番組を視聴しています。
映像は、やはり生々しい。  
Dailymotionでも、観られるみたい。)

劇場版DVD
もあるみたいですね。

【マル激20170107】内山節氏:座席争いからの離脱のすすめ



2017年最初のマル激は内山節さんでした。



内山さんはぼくの大好きな哲学者で、このブログでも、何度も何度も取り上げました。
ここのところは取り上げなくなったけど...



この本が出たのは、もう10年も前のことになるんですね...

マル激でもこの本は紹介されています。
議論がこの本にまで及ぶことはなかったけれど。

それにしても、宮台さんと内山さんが議論を交わすようになるとは。
ぼくにとっては、ちょっと感慨深いものがあります。
正反対の印象を持っていたので。

以前にビデオニュースドットコムを視聴していた頃に、
リクエストのメールを送ったことがあるんですよ。
ぜひ内山さんを呼んでくれ、と。

どんなリクエスト文を送ったかは忘れましたけど、
『日本人はなぜキツネに』のことにも触れたと記憶しています。

宮台さんの趣味(?)では実現しないだろうなぁと思っていたんですが。
よかった。


議論の内容もよかったです。
ダイジェスト版ではなく、フルバージョンで見てほしいところです。
有料ですけども。
考えさせられることが、いっぱい。


もっとも、ぼくにとっては正直のところ、特に目新しい話はなかったのですが。
 内山さんの話も。
 宮台さんの話も。

目新しい話がなく、おふたりの話が接近していることに、ぼくは安心しました。
ぼくがずっと感じ考えていたことは、大筋、間違いはなさそうだ、と。

まあ、間違いだったとしても、いいんだけど。


もっとも、ちょっと物足りない部分もある。
おふたりの議論は、やっぱりニューロティピカルな議論だな、と。

ダイジェスト版の、ちょうど10分あたりのところに出てきます。
宮台さんの発言。

 「強い個人はありえない。
  関係性が個人を支えて、
  強いたたずまいとして現象することがあるんですよね。」


エイティピカルはこれに当てはまらないケースが多い。
関係性が個の尊厳を毀損していくケースが多いので、
「個人の強さ」が切実な問題になってくる。

もちろんエイティピカルとても、周囲との関係性なしに生存はできません。
それがたとえ逆接であったとしても。
エイティピカルだから逆接になるとは限らないけれど、
逆接になってしまう可能性は高い。
逆接になってしまうと、問われるのは個人としての強さになってしまう。

この構造は、ぼくは思うに、生物進化の構造と相似形です。
逆接というのは、進化の構造でいうと、淘汰圧。
淘汰圧に耐えることができる「強い個」が、「次」を作る。

その意味で、エイティピカルとは、
進化――というのはやめておきましょう、
変化のための「消耗品」です。


誤解してほしくないのは、ここでいう「強い個」とは、
たとえば
 ドナルド・トランプや
 ウラジーミル・プーチンや
 習近平
ではない、ということです。
彼らのように「システムに呼ばれた」者のことではない。
現代は【システム】そのものの淘汰圧も凄いですから、
そのトップに立つには運や才能に恵まれるのはもちろん、
圧に耐えきるだけの「強い個」でないといけない。

【システム】から呼ばれるような人ではなく。
もっと別なものから呼ばれる人。
「神」とか。「天」とか。

文明史の転換点というおふたりの予測、
おふたりだけではなく少なからぬ者がなんとなく予感していること、
そうした雰囲気のようなものが当たっているとするなら、
呼ばれるのは「ひと」ではないかもしれません。

ここいらの話は、サピエンス全史シリーズの締めのあたりで語りたいと思っています。

立春

昨日は節分でした。
鬼は外はやらなかったけど。
僕自身が鬼のようなもの(異世界のもの)なので(^o^)

したがって、今日は立春です。


一年の区切りにも、いろいろあります。
代表的なものが、「年」です。
今年は西暦で2017年。
平成という年号を用いるなら、29年。
遡ること35回の日の出にプラス6時間ほど前に、2016から2017へ。
あるいは、28から29へと切り替わりました。

この区切りは国際標準でもあります。


「年度」という区切り方もあります。
3月末で終わり、4月1日から始まる区切り方。
この区切りは日本国マイナーです。
日本国の行政が用いる区切り方。
学校制度と関係が深いので、若い人にも馴染みが深い。

3つ目が、節分/立春という区切り。
歴史的といえばいいのか?
どのような根拠に基づいているのか、僕は未だに把握していませんが、
それでもなぜか、この区切りがもっとも身体的なような気がする。


あ、誕生日という区切りもありましたね。
他に、一部の人には結婚記念日とか。
区切りにもいろいろありますね。



立春はもはや社会とリンクした区切りではありません。
ゆえに、社会からの統制は何もない。
いつもの朝です。

今は冬です。
冬は身体が渇きます。
就寝中は水分の補給が出来ないので、起床時の渇き感はなかなか強烈です。

教えに従って、白湯を飲みます。
1時間くらい時間をかけて、1リットルくらいは飲む。
飲むというより、飲めてしまう。
この朝の時間は至福のひとときです。
生きていることが実感できる。
大げさなようですが、本当に感じます。

身体に水が行き渡っていく感じと共に、覚醒感も強くなってきます。
十分に覚醒したと感じたら、コーヒーを淹れます。
今朝はモカ・イルガチャフェでした。

豆で買ってきてあって、
カリタの安い手引きミルでゆっくり挽く。
このときの香がいい。
機械でガーっとやってしまうのは、もったいないことです。

イヌどもを散歩に連れて行くのを忘れていました。
白湯を飲む1時間の間に、イヌの散歩にも行きます。
今日のように日差しが豊かだと、心地よい。
身体の起動感がより大きくなります。




「年」という社会的な区切りで見たとき、
 愚慫と名乗るぼく――ブログ上の人格――にとって昨年の最大の収穫はこれでした。

 


この収穫を活かすことが、今年の課題だと思っています。

一方、身体的と感じている節分までの区切りで言うなら。



 『この世界の片隅に』

まだ再度の鑑賞を果たせてはいないのですが、
 そうでなくても余韻は未だに強く残っています。

三度語るのは、ちょっと気が引けますが、別の作品と合わせて語ることにします。




ヤナーチェクのこのオペラについては、以前に一度、取り上げています

自身の文章を改めて読み直してみて、自身で共感しています(^_^;)
書き足りないところはたくさんありますが。

以前の記事に書きましたが、ぼくはこのCDを一度、手放しています。
再度購入したのですが、実は、そのCDもまた手放した。
興味を持ってくれた友人がいたので、対訳の本と共に進呈したんです。
そして三度、購入した。

ぼくは進呈したつもりでしたが、友人のほうは借りていたつもりだったようです。
それで、先日、返却されてきた。
というわけで、今、ぼくの手元には同じCDが2組ある。

返却されてきたCDジャケットを眺めながら、ふと、思い当たりました。

『この世界の片隅に』の絵を見ながら、なんとなく感じていたこと。
渇望感のようなもの。


ぼくはずっと、この物語をアニメで観てみたいと思っています。
なぜだかわかりません。
この音楽には、アニメがしっくりくるとずっと思っています。
それも日本のアニメーションです。


実はこの作品には、イギリスBBCが制作したアニメがあって、
YouTubeで観ることができます

そのことを知ったときにはとても期待して観てみたのですが、
ぼくにはしっくりこなかった。
残念な思いをしました。
もちろん、BBCには何の咎もありません。

なんというか、優しくないんです。
諧謔が勝ってしまっているというか。
キツネもヒトも、カエルもトンボも全部同じ生命ですが、
 人間と他の生命との間に、抜きがたい区切りがあると感じてしまう。
その区切りを前提に、
 人間をヒトという動物として、
 敢えて区切りの向こう側の存在として描いているような印象を受けます。
だからとても諧謔的。


『この世界の片隅に』は、表面的には、「人間の物語」です。
ストーリーだけを抜き出せば「人間の物語」以外のなにものでもない。
だけど、映画作品の絵は、そうではない。
ヒトも、野の草花も、同じように描かれていると感じます。

BBCの『女狐』も、同じといえばそうです。
だけど、同じくあちら側。
『この世界の片隅に』の絵には、あちらもこちらもない。

あちらもこちらもないといえば、すずが作中で描く絵がそうです。
海上の白波を白ウサギが飛び跳ねるように描いた絵。
ああいった絵は、あちらこちらの区切りがあったらならば出てこないと思うし、
『この世界の片隅に』の絵が、そういう絵だと感じる。


あちらこちらがないといえば、ジブリの絵もそうです。
あちらこちらはないが、自我は立っている。
キャラクターもそうだし、ストーリーもそうです。

そして『女狐』はといえば、これもまた自我が立った作品です。

でも、なぜか、『女狐』にはジブリの絵ではないと思う。

なぜか。
おそらくは、その自我が殺されてしまうからです。
主人公のビストローシュカは、密漁されて、襟巻きになってしまいます。
はなはだ理不尽です。

だけど、娘が生き延びる。
生き延びて、生のサイクルが異なるものと再会する。
年老いた森番。
ひい爺さんの、そのまたひい爺さんから伝え聞いているというカエル。

それぞれにそれぞれのサイクルがあって、
それぞれに生きていて、
それぞれが全体として「大きな輪」になっているという結論。

この結論の前では、自我は「いろどり」です。
仏教の言葉で言うと「色」でしょうか。
儚いからこそ、鮮やかで、美しい。

『この世界の片隅に』にも、そうした趣があると感じます。
理不尽はあるけれども、
そしてそれは巨大なものだけれども、
それぞれがそれぞれに生きている。

自分が中心だとは言わない。
片隅だという。
「大きな輪」の一部。

「この世界の片隅に」は、
この言葉だけをみれば自己否定のように捉えてしまいがちだけど、
でも、本当の意味は真逆です。
大きくてしなやかな自己肯定。

この世界こそが〈私〉の居場所。
大きな世界のなかの、「この場所」に生きている。
それは「たまたま」そうなのであって、
「たまたま」だからこそ、その「いろどり」が鮮やかに映える。
ヒトも、野の花も同じ。


『この世界の片隅に』も、『利口な女狐の物語』とならんで、ぼくの宝物になりました。




『ベビーカー利用者たちの悲しい本音』


ライブドアニュースから、ネタを頂戴。

『ベビーカー利用者56.8%が嫌な思い
 「邪魔者扱い」「蹴られた」公共機関での悲しい仕打ち』
 
言いたいことは、ただひとつ。

 ベビーカー利用者は「障害者」である。

女性が子どもを産むことは「普通のこと」。
子どもが赤ん坊のうちは、親が世話をするのも「普通のこと」。
世話の役割を主に母親が担うのも「普通のこと」。

小さな子どものいる母親といえども、社会生活を営むのは「普通のこと」。
母親が社会生活を営むならば、子連れで出かけるのも「普通のこと」。
子連れで出かけるならば、ベビーカーを利用するのは「普通のこと」。


「普通のこと」をしているだけなのに、どうして障害者なのか?

ベビーカー利用者のママたちは、この事態をどのように思っているのだろう。
一番多い回答は「事情を理解し、優しく接してほしい」で、61.6%にも上る。
次点は「不快に思う」で9.3%だった。



 事情を理解し、優しく接してほしい。

これはまさに「障害者」が望むことでしょう。
自立した障害者は「事情を理解したうえで、「普通に」接してほしい」と言うだろうけれども。


「事情を理解してほしい」と望む心は孤独です。

赤ん坊を抱えているというのは「普通のこと」なのに。
外に出かけるのは「普通のこと」なのに。
なのに、ベビーカーを使うと障害者になってしまう。

「普通のこと」なのに理解が得られない。
なぜか?

理解したくないから。
理解してしまうと、怒りを発動できないから。
本当は怒りに塗れて生きているのだけれど、
つねに怒りを発動させているのは「普通のこと」とは見なされないので、
普段は怒りを制御している。
いつも怒りを発動させる理由を探している。
怒りに塗れているものにとっては、優先すべきは他者への理解ではない。
残念ながら。

人間は優しい生き物です。
少なくとも僕はそう思っている。
同時に弱い生き物でもある。
だからこそ、集団で社会を営むことができる。

優しく弱い人間は、自分が塗れている怒りに抗えるほど強くはない。
怒る人間には怒るだけの事情がある。
ただ、その事情を忘れている。
あるいは忘れようとしている。


「障害者 定義」で、Googleさんに問い合わせてみます。
トップに出てくるのは、wikipediaの記述です。

障害者基本法では、第二条において、障害者を以下のように定義している。 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。) その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。) がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。



障害および社会的障壁により?
純粋に障害といえるのは、精神障害くらいではないのか?

社会的障壁が「障害」を際立たせます。
社会的障壁が低ければ、機能障害があったとしても、
 「継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態」にはならないでしょう。

制限を受ける原因が主に社会的障壁の側にあるとするならば、
身体障害、知的障害、精神障害、発達障害、
そしてベビーカー利用者も、同列の「障害者」です。
彼らが障害者扱いされる理由は、彼らの事情にあるのではなくて、
 社会を営んでいると自認する健常者側にあるのだから。

一次的にせよ、恒常的にせよ、社会的に不利な事情を抱えている者を
障害者扱いするという障害。
ニューロティピカル症候群の特徴だと僕は思っています。


彼らは言います。

  事情はわからなくはないけど、迷惑なものは迷惑なんだよね..

そういう言が、どれほど迷惑な言なのかに気がつきません。

  それでは伝わらない。
  伝わらなければ意味がない。


こういった言が、拒絶に響くことに気がつきません。


気がつかないということには、しかし、理由があります。
彼らには彼らの事情があります。
気がつかない方が安心だから。

だから逆に、気がついた方が安心なことには、よく気がつきます。
儀式などを経て、権威を身にまとった者の言には気がつこうとする。

プジョーSAの場合、決定的に重要な物語は、フランス議会によって定められたフランス法典だった。フランスの立法府の議員たちによれば、公認の法律家が正規の礼拝手順を踏み、儀式を行い、みごとな装飾に施された書類に必要な呪文や宣誓をすべて書き込み、いちばん下に凝った署名を書き添えさえすれば、あら不思議――新しい会社が法人化された。1896年に会社の設立を思い立ったアルマン・プジョーは、法律家を雇って、こうした聖なる手続きを一つ残らず踏ませた。その法律家が正しい儀式をすべて執り行ない、必要な呪文と誓いの言葉を残らず口にし終えると、何百、何千もの廉直なフランス市民が、プジョー社が本当に存在しているかのように振る舞った。


 


何百、何千もの廉直な市民。
ニューロティピカルな人たちです。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、
 妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。


 『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」』

儀式によって成立する共同幻想を
 ニューロティピカルな人たちは妄想や強迫観念だとは、思わないでしょう。
自覚がない。
自覚の欠如は障害者の特徴です。


ちなみに僕は、こうした「儀式」の意味がよくわからない。
多くの人にとって意味があるらしいことは、間接的には理解できます。
だけど、直接的には響かない。
「儀式」にはつねに強制感があります。


私はようやく知ったのだ、“姉は私とは違う考えを持っている”と。
私はそれでも、姉も私と同じように思考しているんだと思っていた。私と同じように感じ、私と同じように物事を見ていると違いないと、思い込んでいたのだ。姉だけではない。この世にいるすべての人が、私と同じように感じ考えていると思っていた。





「儀式」を共有できる人たちには
 このような「気づき」を得たときの孤独感は理解できないでしょう。
薄々理解はしても、大半は
 安心を得るために、
 理解から目を背けようとする。

ぼく自身の経験から言えることです。


いえ。
「儀式」を共有できる人たちにも、理解が届かないわけではないはずです。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。





ここにある孤独感。
孤独からの救済感。
理解不能だとは思いません。
老夫婦は、「儀式」の意味を直観できる人ではあったでしょう。


ただ。
『歎異抄』が長らく秘書であったことを考えると、
 このような孤独感を正面から肯定することは危険なことなのかもしれないと
  思わざるを得ません。


『サピエンス全史』その4~原初の豊かさ

『その3』はコチラ


 


私たちの性質や歴史、心理を理解するためには、狩猟採集民だった祖先の頭の中に入り込む必要がある。サピエンスは、種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。過去200年間は、次第に多くのサピエンスが都市労働者やオフィスワーカーとして日々の糧を手に入れるようになったし、それ以前の1万年間は、ほとんどのサピエンスが農耕を行ったり動物を飼育したりして暮らしていた。だが、こうした年月は、私たち祖先が狩猟と採集をして過ごした厖大な時間と比べれば、ほんの一瞬にすぎない。

隆盛を極める進化心理学の分野では、私たちの現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前のこの長い時代に形成されたといわれている。この分野の学者は、私たちの脳と心は今日でさえ狩猟採集生活に適応していると主張する。私たちの食生活や争い、性行動はすべて、私たちの狩猟採集民の心と、現在の脱工業化の環境、具体的には巨大都市や飛行機、電話、コンピュータなどとの相互作用の結果だ。この環境は、これまでのどの世代も享受できなかったほど豊富な物質的資源と長寿を私たちにもたらしたが、しばしば私たちに疎外感や憂鬱な気分を抱かせたり、プレッシャーを感じさせたりもする。その理由を理解するには、私たちを形作り、私たちが今なお潜在意識化で暮らしている狩猟採集民の生活を深く探求する必要がある、と進化心理学者たちはいう。



少し復習しておく必要がありそうです。

サピエンスが種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だったのはその通りなのでしょうが、
狩猟採集期は、大きく2つに分割されます。

 ・サピエンスは、15万年前に東アフリカで誕生した。
 ・7万年前までは、他の人類種と同じく、取るに足らない種でしかなかった。
 ・なのに、なぜか、7万年前に突如変化をした。

以上が事実だとすれば、
そして、サピエンスが全歴史を通じてほぼ狩猟採集民だったとすれば、
狩猟採集という生活スタイルは変らないにせよ、
社会的特徴や心理的特徴は変っているはずです。

7万年前にあったこと――認知革命でした。

くどいですが、7万年前のサピエンスを想像するモデルは、僕が考えるところでは、



もうひとつ、面白そうだと思っているのが



いわゆる家畜と呼ばれる動物たちが「人類社会」に加わるようになったのは、農業革命以降です。
ただ、イヌだけは例外であったようです。

イヌは認知革命以前にも、「人類社会」に加わっていたのか?
もしかしたら、イヌの「人類社会」への参加が、
サピエンスの認知革命に関わっているのかもしれません。

興味深いところです。


7万年前以降は、ピダハンと同じくアマゾン奥地で暮らす



あたりが適当でしょうか。
認知革命以後は、他にもいろいろと「資料」はありそうです。

 『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』
 『ヤノマミ』

両本は、いずれ紹介するつもりです。


原初の豊かな社会

・・・

たいていの場所でたいていのとき、狩猟採集で手に入る食物からは理想的な栄養が得られた。これは意外ではない。何十万年にもわたってそれが人類の常食であり、人類の身体はそれに十分適応していたからだ。化石化した骨格を調べると、古代の狩猟採集民は子孫の農耕民よりも、飢えたり栄養不良になったりすることが少なく、一般に背が高くて健康だったことがわかる。平均寿命はどうやら30~40歳だったようだが、それは子供の死亡率が高かったのが主な原因だ。危険に満ちた最初の数年を生き延びた子供たちは、60歳まで生きる可能性がたっぷりあり、80代まで生きるものさえいた。現代の狩猟採集社会では、45歳の女性の平均余命は20年で、人口の5~8パーセントが60歳を超えている。

・・・

健康に良く多様な食物、比較的短い労働時間、感染症の少なさを考え合わせた多くの専門家は、農耕以前の狩猟採集社会を「原初の豊かな社会」と定義するに至った。とはいえ、これらの古代人の生活を理想化したら、それは誤りになる。彼らは確かに農耕社会や工業社会の人の大半よりも良い生活を送っていたが、それでも彼らの世界は厳しく情け容赦のない場所になることもあった。欠乏と苦難の時期は珍しくなく、子供の死亡率は高く、今日ならどうということのない事故であっさり命を落とすこともありえた。ほとんどの人は、ともに歩き回る集団内部の親密な関係をおそらく享受できただろうが、その集団の仲間の敵意や嘲り招いた不幸な人間は、たぶん非常に苦しんだだろう。現代の狩猟採集民は、歳を取ったり障害を負ったりして集団について行けなくなった人を置き去りにしたり、殺したりしさえすることがある。望まない赤ん坊や子供は殺すかもしれないし、宗教心から人間を生贄にする場合すらある。



原初の狩猟採集民は身体的には健康な生活を送っていた。

 多様な食物。
 短い労働時間。

ただし、危険に満ちた世界ではあった。

世界は危険に満ちているという事実。
俗な言葉で言い換えると、弱肉強食。

弱肉強食の世界に抗って生きていくのがサピエンスを含む生命のあり方です。

ただ、全生命のなかで、認知革命を経たサピエンスだけは
 他の生物種とは異なったやり方で抗うようになった。

サピエンス以外の生物種の生き方は“身体的”です。
サピエンスとても基本は身体的であることに変わりはない。
ただ、サピエンスは加えて“精神的”な生き方も可能になった。

ゲノムを迂回する

言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬものとどうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。・・・・・・ これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。

他の社会的動物の行動は、遺伝によっておおむね決まっている。DNAは専制君主ではない。・・・・・・ 行動におけるそのような劇的変化は、チンパンジーのDNAに変化があったときしか起こらない。

・・・・・・

それとは対照的に、サピエンスは認知革命以降、自らの振る舞いを素早く変えられるようになり、遺伝子や環境の変化をまったく必要とせずに、新しい行動を後の世代へと伝えていった。その最もたる例として、カトリックの聖職者や仏教の僧侶、中国の宦官といった、子供を持たないエリート層が繰り返し現れたことを考えてほしい。そのようなエリート層の存在は、自然選択の最も根本的な原理に反する。チンパンジーのアルファオスが権力を利用してできる限り多くのメスと交尾する(そして、その結果、群れに誕生する子供の多くの父親となる)のに対して、カトリックのアルファオスは、性交や子育てをいっさい控える。この自制は、極度の食糧不足あるいは配偶者候補の不足といった、特殊な環境条件の結果ではない。一風変わった遺伝子の突然変異の結果でもない。カトリック教会は、「独身主義遺伝子」を歴代の教皇が継承することによってではなく、新約聖書とカトリック教会法という物語を継承することによって、何世紀にもわたって存続してきたのだ。



生き方が身体的でしかありえない場合、生き方の変化はDNAの変異に依存します。
つまり、生物学的です。
生き方に精神的要素が加わると、その変化は文化的になる。
文化的変化の集大成が歴史です。

では、身体的なことと精神的なこととは、分離できるのか。
可能ならばそれはそれで幸いなのでしょうが、 残念ながらそうではない。

認知革命以降のサピエンスは「二重の現実」の中で生きることになった。
二重のうち、
 ひとつめは身体的現実。
 ふたつめが精神的現実です。
2つの現実が人間という一個の身体のなかで接合している。

歴史の大きな流れが示すのは
 ふたつめの現実が
 ひとつめの現実を
徐々に圧倒してきているという事実です。
そういうことになってしまったのには、理由がある。
その理由が見えれば対処法も見える。
対処法が見えれば、絶望から抜けだす道が見えるはず。

「見えるはず」というだけでなく、
 具体的に理由を提示し、
 具体的に道を示すことが
僕の目指すところ。

それが説得力のあるものになるかどうかは、また別問題――


『その5』へと続きます。

『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ』


またしてもライブドアニュースから拾った話題をネタに。

 「電通の先輩『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ』」 
  ブロガー・はあちゅうさんのツイートに反響




なんというか...


この本を思い起こさせる、興味深いツイートです。

ツイートと一冊の本を同列に語るのは乱暴ですけど、
『言ってはいけない』が言わんとしていること
 「残酷すぎる真実」とやらと、
このツイートが言わんとしているところはほぼ同じという印象を持ちます。

もっとも、僕は、これらが真実とするものは間違っていると思っていますけど。

 ひとは幸福になるために生きているけれど、
 幸福になるようにデザインされているわけではない


否。
僕に言わせれば

 ひとは幸福になるために生きていて、
 幸福になるようにでざいんされているけれど、
 人間が作り上げた社会は幸福になるようにデザインされてこなかった


です。

これは結論です。
言い換えれば直観です。
そして、結論を先に立てれば、

 いかなる理由と経過で私たちの社会は不幸になるようにデザインされてきたのか

という問いが生まれます。
この問いに対する回答が納得いくものであるならば、
直観で立てた結論も納得できるものになるはず、、、です。

だけど、僕の直観では、納得は得られない。
回答がどれほど合理的でも、なかなか納得は得られないでしょう。

納得を拒否する理由が納得をしない者のなかにあるから、です。
そして、その理由となるものが僕のなかにもある。

その理由となるものを、僕は【怨】と表現しています。
ニーチェの言葉でいうなら、ルサンチマンが相当するでしょうか。


【怨】は、僕の中にある。
僕の中に実存することで、それがそのままレセプターとなっています。
すなわち、実存が「同感」する。

上掲のツイートは、そのレセプターに引っかかるわけです。


ツイートの内容を、僕なりに分析してみます。

テレビという機械がある。
テレビ放送というシステムもある。
そのシステムを支えているのがCMという仕掛けです。
CMにスポンサーが資金を提供し
その資金で「番組」が制作される。
視聴者は「番組」を視聴するつもりでCMを視る。
ある種の詐欺ですが、それで誰もが幸せになっていたわけだから、罪はなかった。
CMは優れた仕掛けでありシステムでした。

近代社会という大きなシステムがあって、
そのサブシステムに学校というものがある。
偏差値というのは、学校というサブシステムを効率よく運営するための仕掛けです。

偏差値概念を支える正規分布やら何やらは面倒なので説明は省きますが、
偏差値40という数値は、全体を1から100へと序列づけたとき、
下から16番目を位置するということを意味します。
すなわち偏差値さ40とは全体の84%に相当しますから、
 「偏差値40の人に理解できるようにする」と教えは、
非常に合理的です。

84%を指して「普通」というのも、合理的です。

社会というシステム(電通はそのシステム上位)にいるということが意味するのは、
「偏差値」という数値が、
単なる客観的数値ではなく、
学校というサブシステムを通過したという体験を持つ者にとって、
非常に主観的でもあるということです。
いいかえば「身をもって理解」できる。

凄い教えです。
役に立ったというのも頷けます。

さらに凄いのは次。

 「この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ」

偏差値という指標を用いて客観的にいえば、
 普通ではないのは事実です。
電通に入社するのに必要な偏差値は70程度だと推測されるとすると、
 70以上は全体の2%強です。
「普通ではない」のは、そのとおりです。

ですが、ここで語られている「普通ではない」は、客観的以上の意味を持つ。
主観的にも普通ではない。

ツイート主が「役に立った」と言っているということは、
 「普通ではない」を主観的に捉えているということです。
そして、主観的に捉えているのはツイート主だけではない。
このツイートが反響を呼んだという事実が意味しているのは、
 多くの人もまた「普通ではない」を主観的に捉えたということです。


では、その「普通ではない」電通という会社の実態はどうなのか?
ソースは持ち出しませんが、「普通ではない」。


ここで気がつくことがあります。

客観的な「普通ではない」には、解釈はひとつしかありません。
客観的だという以外にない。
ところが主観的解釈になると、解釈はいくつも出てきます。
話を単純にするために、〈善〉/【悪】に二分することにします。

「普通ではない」ことが役に立ったと言っているツイート主にとっては、
 その言葉を額面どうりにかいしゃくするならば、
  「普通ではない」ことは〈善〉です。
そして、そのことから推測されるのは、
 電通の実態もまた善だと解釈しているかもしれない可能性です。

過労自殺が出るような実態だとしても、〈善〉。


驚くべきこと?
いえ、まったく「普通のこと」です。

「普通ではないこと」は、いろいろなことに置き換えることが出来ます。
たとえば「靖国神社で顕彰されること」。

歴史は示しています。
靖国神社で顕彰されるという「普通ではない」ことのために、
 多くの人間が自らの生命を賭し、失っていったこと。

これは、ある時代においては「普通のこと」だったし、
 現代でも「普通のこと」として捉える向きが多いのも事実です。

主観的な記号(〈 〉/【 】)を用いて書き直しましょう。

 靖国神社で顕彰されるという〈普通ではない〉ことのために、
  多くの人間が自らの生命を賭し、失っていったこと。

 これは、ある時代においては〈普通のこと〉だったし、
  現代でも〈普通のこと〉として捉える向きが多いのも事実
です。


現代は幸いなことに、かつての時代とは違います。
電通の「普通ではない」は【普通ではない】と一般的には捉えられ、
 批判を浴びているし、国も【普通ではない】という解釈をしているようです。

ですが、安心はできない。
【普通ではない】ことが
 〈普通ではない〉ことになって
  〈普通のこと〉になってしまう危うさがなくなったわけではない。
危うさがなくなっていなことの証左が
 このツイートへの反響のありようだと僕は捉えています。


件のツイート文章も、〈善〉【悪】を用いて書き換えてみましょう。

 CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。
 この会社にいる時点で〈普通ではない〉と自覚しろ。
 世間にはおそるべき量のおそるべき【普通ではない】人がいる。
 そしてそれが日本の【普通の】人だ」


問題は、ツイート主の

 「役に立った」



 〈役に立った〉

なのか

 【役に立った】

なのかです。

額面どおりだと〈役に立った〉でしょうが
 反面教師として【役に立った】としている可能性は排除できません。

そして、その曖昧さが、ツイートを読む読者の主観的判断を招いています。
ツイート主にとって〈役に立った〉と読者は読むならこの文書全体は【悪】になる。
【役に立った】と読むなら現実の醜さを指摘する教訓、すなわち〈善〉になる。

〈善〉と読むか【悪】と読むか。
僕を含めた読者のなかにある【怨】へのレセプターのありように左右されます。


【怨】へのレセプターが広く行き渡ってしまっている社会は危うい。
プロパガンダしだいで、容易に【悪】が〈善〉へと転ぶからです。

その危うさの根っこはシステムにあると僕は考えています。
システムの中で生きざるをえない人間、
 学校というサブシステムを経由してヒトから人間になることを強制される現代人。
正常な現代人にとって、 偏差値70以上に位置するということは

 〈普通ではない〉

ことです。
この根幹は揺るいでいません――
――僕には揺るぎつつあるように見えますけども。

システムを作動させているのは、
 認知革命を経てヒトが獲得した虚構生成能力です。
システムへの【過適応】、
 すなわち【普通ではない】こと
そうした人たちがリードしないと保たれていかない【システム】
現に保たれている【システム】
そして、制度疲労によって崩壊しつつある【システム】


【怨】への機序は、また改めて語ることにします。


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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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