愚慫空論

『サピエンス全史』 その0


やっと、『サピエンス全史』を語る段になりました。

 


何度かに分けて語ることになります。
幾度になるのかは、現段階では僕にもわかりません。
いつものように気ままに書き連ねさせてもらいます。


『サピエンス全史』の読書は、僕にとっては「ミッシングリングの発見」です。
『サピエンス全史』によってつながった僕の体系を記すのが、当記事およびその続きの目的です。


 〔世界〕
 〔社会〕
 〔システム〕
 〔人間〕
 〔ヒト〕

体系を語るのに、これまでも用いてきたキーワードです。
今後は、キーワードを中立的に用いるにあたっては“〔 〕”の括弧記号を用いることにします。

各キーワードの定義らしきものも記しておきましょう。

〔世界〕:あるとあらゆるもの全体。客観的に存在するものも、虚構上に存在するものも、すべて。
〔社会〕:コミュニケーション可能なものの全体。
〔システム〕:コミュニケーション可能なものなかの、虚構上のもの。
〔人間〕:虚構とのコミュニケーションが可能になったヒト。
〔ヒト〕:生物種としてのヒト。


〔世界〕は〔世界〕でしか、ありえません。
〔ヒト〕もまた〔ヒト〕でしか、ありえない。
〔世界〕も〔ヒト〕も、「あるがまま」でしかありえないからです。

ただし、あるがままにしかありえないには、限定が付きます。
生物学的にいう進化が有効であるようなタイムスパンでは、〔世界〕も〔ヒト〕も変化していきます。
変化しても、それはそれで「あるがまま」とは言い得ますが、そこは除外して考えることにします。

〔社会〕〔システム〕〔人間〕は、逆に「あるがまま」ではありえない存在です。

なぜ「あるがまま」になれなくなったのか?
カギは認知革命にあります。
詳細は後述します。

認知革命によって〔社会〕は〔世界〕から分離した。
同時に〔システム〕の萌芽もあった。
分離した社会は〔世界〕とのあり方で、〈社会〉もしくは【社会】になる。

〔世界〕と順接の関係にあるのが〈社会〉。
〔世界〕と逆接の関係にあるのが【社会】です。



本書は上下2冊4部構成になっています。

第1部 認知革命
第2部 農業革命
第3部 人類の統一
第4部 科学革命

とりあえず構成の順に進めるつもりですが、とりあえずです。

この構成で面白いのは、第3部に 「人類の統一」が入っているところです。
本書によれば、人類は3つの大きな革命を経験した。
認知革命、農業革命、科学革命の3つです。

その3つの革命の、第2と第3の間に「人類の統一」が入っている。
この構成の意味するところは何か?


〔システム〕は認知革命で萌芽します。
大きく発展するのは、農業革命以降です。

〔社会〕と〔システム〕は連動します。
すなわち、
 〔システム〕が〈システム〉だと〔社会〕は〈社会〉だし、
 【システム】であるなら【社会】になるということです。

農業革命で〔システム〕は【システム】へと変貌し、発展した。
その【システム】が、人類を統一へと導く原動力になっている。
第3部に「人類の統一」が入る意味です。


では、第4部の意味は?
ここを語るのは、かなり先のことです。
意味が未確定だから。


順接/逆接のカギは〔システム〕にあります。
〔システム〕が〈システム〉だと〈社会〉だし〈人間〉です。
【システム】だと【社会】だし【人間】になる。
人間が人間である以上、全部地続きです。

ただ、〔世界〕と〔システム〕が地続きであるかは、微妙なところ。
スケールの順でいうならば

 〔世界〕 > 〔社会〕 > 〔システム〕 > 〔人間〕=〔ヒト〕

ですが、誕生順でいうと違います。

 1.〔ヒト〕/〔社会〕
 2.〔人間〕/〔世界〕/〔システム〕。

2.を生み出したのが認知革命です。

また認知革命は、〔ヒト〕に起こった現象だと言えます。
〔ヒト〕は認知革命によって〔人間〕になり、同時に〔世界〕と〔システム〕を生んだ。
つまり〔世界〕と〔システム〕は兄弟です。双子の兄弟。似ていない兄弟です。

血縁の濃さでいうなら、親子関係のほうが兄弟関係よりも濃いといえるでしょう。
親子は間違いなく「地続き」ですが、兄弟はそうとは言えない可能性がある。

その可能性が、どちらに振れるか?
振れ方で順接にもなれば、逆接にもなるのです。


では、次に、認知革命へと斬り込んでいきます。

『この世界の片隅に』



観てきました。

いつもの書き方だと、予告編の動画を貼り付けて、そのまま本文を始めるのですが、
この作品については、本文は【追記】のほうへ書くことにします。

(【追記】も表示されているなら、一度、トップページ戻ってください)

理由。
まっさらで観てほしいから。

ストーリーのネタばらしを書いているわけではないのですが、
いつものように、とりとめもなく思ったことを書いているだけなのですが、
いつものように、踏み込んで、僕なりの解釈を書いてしまっています。

それは、参考程度にしていただければ幸いという程度のものですが、
本作については、未視聴であるなら、「参考」もなしがいいと思います。

というわけで、すでにご覧になった方は、安心して【続きを読む】をクリックしてくださいますよう。


あ、本文の締めだけ、ここに記しておきます。
これならば、視聴に影響はないと思いますから。

  ***

『この世界の片隅に』、もちろんオススメです。
それも、大切な人と一緒に観るのがいいと思います。

だけど、観るべきかというと、微妙です。
そういう「べき」といったような 論法には似つかわしくない映画だと思うから。
そういう論法で語りたくないし、語って欲しくない。

この映画を観る機会あるいは機縁に恵まれない人は、残念です。
残念に他意はありません。
ただ単に残念だという以外にない。

機会と機縁に恵まれるなら、迷うことはありません。
そのような迷いに労力を取られるのは、もったいない。
人生そのものが試される映画と言っていいかもしれない。
そんな作品は、そんじょそこらにあるものではありません。

  ****

では。

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三度、『ピダハン』



はじめに言葉があり,言葉は神と共にあり,言葉は神であった。
この言葉ははじめに神と共にあった。
すべての物は彼を通して造られた。造られた物で,彼によらずに造られた物はなかった。
・・・



三度『ピダハン』を語るにあたって、ヨハネの福音書から始めようと思ったのですけど、

 やめます。(^_^;)


久々に、『ビデオニュースドットコム』を見ました。
ダイジェスト版がアップされているので、貼り付けておきます。



『ピダハン』を語るにあたってはちょっと遠いのですが、



『サピエンス全史』

 


の前振りとしはありかな、と。

(ビデオニュースドットコムの番組の全編視聴は有料です、スミマセン...)


ご出演の水野さんの主張。
金利の時代的推移をもとにしての考察。
説得力があると思いました。

世界が中世に戻るかどうかは、別として。


15,16世紀が中世の危機の時代で、まだ「近代」は見えていなかった。

利子率≒利潤率≒未来への期待値

宮台さんは、「未来を買ったときの割引率」という表現をしています。
いい表現だと思います。


近代以前はほとんど成長のない時代だった。
では、なぜ、近代は成長のある時代になったのか?

この疑問は『サピエンス全史』の回答は、サピエンス全史に出てきます。
出てきているというのが、僕の解釈です。

ここではそれがさておき、近代ももはや成長が難しくなった。
ダイジェスト版には出てこないのが残念ですが、
番組後半冒頭の、コンビニの例え話がわかりやすくて秀逸でした。


『ピダハン』につながるのは、
水野さんの主張の展開を受けての宮台さんのコメントです。

現代は、社会から「成長」がなくなった時代。
その状況をを反映しているのが、金利。


金利が限りなくゼロに近づき、「未来を買う」メリットがなくなる。
構造的にメリットが消失したのに、メリットを探し回らずにはいられない。

宮台さんは、それを

 「歴史は終わっている」のに、それを認められずにのたうちまわる

と言いました。

 
では、次の「歴史」は?

宮台さんが、「未来を買わなくなった」と言ったとき、
僕は反射的に、

 じゃあ、「今」を買えばいい

と思いました。
「全生」です。

 未来を売り買いするのではないコミュニケーションに、今、ならざるをえないから、
  いち早く適応して、新しい「実存」にならないと。


宮台さんの言葉です。
その通りだと思います。

では、新しい「実存」とは?
「全生」でしょう? と僕は思う。


議論はアメリカのトランプ政権への危機感に行きます。
近代の理念と価値観をトランプ政権は、蔑ろにしそうに感じられる。
同感です。

だが、一方で、

 仲間内では今まで以上に大事にするかもしれない、フェアネスとか(いった近代的価値観を)
 仲間たち以外の人たちには逆に差別的になりそう


という神保さんの所感を述べます。
それを受けて、

 そこがコミューナルなコスモポリタニズムになるかかどうかのポイントで、
 テクノロジー、あるいはある種の情報ネットワーク、
 いろいろなやり方はあると思うけど、
 どうやって、想像力や感情のあり方を支えていくのかだと思うんですけどね...


と、宮台さん。
いや、まさにその通り。

どうやって?
これは、テクノロジーの問題だと僕は思います。
テクノロジーをいかに使うかという問題。

コスモポリタニズムを可能にするテクノロジーは、すでに出現していると僕は考えます。問題は使い方です。

「未来を買う」ような使い方しか想像できない。
確かに現状の【システム】はそのように出来ているし、
そのように使わなければシステムそのものが崩壊します。

けど、そうはいっても、もはや「未来は買えない」のだから、
どっちにしたって崩壊するんです。

じゃあ、「未来を買う」のではないテクノロジーの使い方を考えるしかない。

「今を買う」には、どうしたら?

現状でも「今を買う」ことができる人はいます。
でも、ハードルが高い。
一部の人しかできない。
だから、「次の歴史」にはなれないんです。

大半の人が「今を買う」ことができるようになれば、
そういう〈システム〉を構築していくことが「次の歴史」。
そして、「次の歴史」が始まれば、「買う」という行為そのものが無意味になる。

ごく単純な話だと僕には思えます。


番組の最後に、宮台さんが

 言葉は危険だね...

と感想を漏らします。


おお、それを言うか!
そうです、私たちの言葉は危険です。

その「危険な言葉」の典型的な例が、当記事冒頭に掲げた「言葉」です。

 言葉は神であった


「危険な言葉」を語ることが出来るようになった進化(?)した人類の、
そのどん詰まりで生きているのが、私たち現代人です。

だからこそ、「危険な言葉」を持たないピダハンたちが、生き方の参考になる。


『ピダハン』の著者ダニエル・L・エヴェレットさんは、
どのように言葉を弄しても、ピダハンを不機嫌にすることはできなかったといいます。

言葉で不機嫌にできない。
言葉で不機嫌にできるからこそ、言葉で救うこともできる。
「言葉で不機嫌にする」という前段がなければ、
「言葉で救う」ということもない。


わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。



ピダハンたちは、自殺の話を聴かされても不機嫌にならなかった。
だから、「イエスを受け容れる」ということもわからなかった。
言葉で不機嫌になることへの「レセプター」に欠けていた。

その「レセプター」が生じるという出来事が、人類の生じます。
それを“認知革命”と『サピエンス全史』では紹介しています。



余談ですが、
久々に見た宮台さんは様子が少し変わっていました。

不機嫌さが後退してました。

以前は、端々に不機嫌さがにじみでていて、
不機嫌さに敏感な僕は、どうしても不機嫌にさせられたんですけど、
今回を感じることがなかったんです。

なにか、内的な転換があったんだろうと推測します。

善悪の〔おりあい〕(追記あり)


さっそく本筋から外れてしまうのですが、前記事への付け足し的記事を挙げておきます。

・ものごとの把握には、必ず善悪の二面がある。
・善悪の比率は、必ずしも等分ではない。

善悪の比率を定めるのは、
 1. 〔個〕
 2. 〔社会〕

そもそもの順序でいえば、1⇒2です。
なのに、現代はその順序が逆転して、2⇒1になってしまっています。

なぜ逆転したのかということを見てみるのが、歴史です。
本筋です。

 


が、ここは本筋ではないので、別のほうへと話を進めます。


善と悪にも、〈知〉の構造と類似の構造があります。

〈知〉の構造とは、

  知/不知 ⇒ 知

と書き表すことができる構造。

 知之為知之、不知為不知。是知也。

と書き表わされている構造です。
すなわち、

 知と不知との差異を十分に知れば
 それがそのまま〈知〉となる

という(書き表わすことが不可能な)ヒトの理解の仕組みに沿って顕現する現象です。

善悪の場合、

 善/悪 ⇒ 善



 善/悪 ⇒ 悪

の両方のパターンがあります。

両者を分かつのは、意志です。
〈知〉の機序とは違って、善悪の機序には意志が絡みます。
この意志は、〈生〉への意志だと言っていいのだと思います。

善と悪を分離した上で、善と為すか、あるいは悪と為すか。
この選択が、ここでいう「おりあい」です。
〈生〉の意志に従うのなら、選択肢はない――
 これが孔子の思想の核心だというのが、僕の解釈です。

が、実際は、両方あると思う。

善への折り合いを〈おりあい〉と記述し、悪への折り合いを【オリアイ】と記述しましょう。


さて、次は〔主体〕の問題です。
〈折り合い〉にせよ【折り合い】にせよ、それを為すのが〔主体〕です。
つまり〔主体〕とは、善悪の比率を定めるもの。

  1.〔個〕であり、2.に〔社会〕です。

ところがこれが、逆転している。
この逆転現象が、【疎外】と呼ばれる現象の発生源です。

〔社会〕が〔個〕から〔主体性〕を奪う。
結果、社会の存続が〔個〕の主体性よりも優先されることになる。
すると、【疎外】が始まる。
【疎外】を為すように、善悪を【オリアわせる】社会は【社会】であり【システム】です。

なお【ハラスメント】とは、【疎外】という社会現象に即して〔個〕に対してなされる個別的現象のことです。


では、なぜ、1.と2.の優先順位が逆転してしまうのか。

そもそも〔折りあい〕とは、〔個〕と〔個〕の間で為される行為です。

身体は〔個〕によって異なります。
身体が異なれば〈生〉への意志の具体的な形も異なる。
すなわち善と悪の区分の仕方も異なる。

単純な例でいえば、同じ行為が、大人にとって善でも子どもにとって悪であることがある。
男性にとって善でも、女性にとっては悪であることがある。
ごく当たり前のことです。


「ヒト」はひとりだけでは「人間」はありません。
「ヒト」一人では、善悪を〔折り合う〕ための主体性は必要ないからです。
すなわち「人間」とは、善悪を折り合う〔主体〕をもった存在のことです。

〔個〕と〔個〕が互いの善悪を折り合わせる。
この作用を司るための発達した器官が大脳です。
「ヒト」の大脳には、150人の他の〔個〕と〔折り合う〕ことができるスペックがある。

〔おりあい〕とは非常に複雑な化学的演算です。

大脳のスペックで納まるうちは、〈生〉への意志に沿ったものになる。
すなわち

 善/悪⇒善

となす〈折り合い〉です。

ところが社会の成員の数が、大脳のスペックを超えるという現象が起きました。
その理由は本筋に譲るとして、
その結果、人間は、ひとつひとつの〔おりあい〕に費やすコストを削減する必要に迫られた。

「コストを削減する」という行為は「規則を作る」という行為であり、
「規則に従って行動する」ことは、〔主体〕を失うという現象に落着いていきます。

〔個〕の〔主体〕が失われるのと、規則を定める〔社会〕の主体性が優位になるというのは、
同時並行で起こる現象です。

規則は「書き表わされたもの」です。
「書き表わされたもの」によって社会が原理づけられると、
 その社会は【社会】になる。

なぜそうなるのか、その機序は、再び本筋に戻ってから考えてみることにします。


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再度、『仏教思想のゼロポイント』


『サピエンス全史』について書きたかったのですが、
 書き始めたら前振りがどうしても長くなってしまいました。

というわけで、長くなり過ぎないように、まず前振りを区切ってアップしていくことにします。

  ***

去年の僕の体験のなかの、ナンバーワン。

 


思い返せば、去年は実り多い一年でした。
実生活のほうは相変わらずさっぱりですが
 (実はそうでもないんですが、そういうことにしておきます、笑)
  それを補ってあまりある読書体験が得られました。

体験した順番にも恵まれたように思います。

まずは、『仏教思想のゼロポイント』


この本が僕に与えてくれものは、「通眼」とでも呼ぶべきものでした。

(それにしても通眼は大げさ (^_^; 
 適切な言葉が思い浮かんだら、置き換えます。)

僕は普段からゴチャゴチャいろいろなことを考えています。
 考えることをどうしてもやめれらにない質(たち)なのですが、
その「ゴチャゴチャ」に、本書は“一撃”を与えてくれた。
おかげで通底する筋ができて、ゴチャゴチャが、すべてではないにせよ、整理できた。

ゴーダマ・ブッダは「一切皆苦」と考えました。
 どのような道筋を経てそのような考えに至ったのか。
 「一切」とは、どのような深さで言っているのか。
本書がブッダの考えとして提示しているのは、

 「感じること」がすでにして「苦」

ということです。
これには驚きました。


人間はまず、ヒトです。
ヒトは生物です。

人間は考える生物ですが、
生物は感じることで行動する存在です。
ブッダの考えに従うなら、あらゆる生命は「苦」の中で生きているということになる。

ブッダの世界“観”は、僕の世界“感”とは真逆です。

とはいえ、さすがにゴーダマ・ブッダの論理は筋は通っています。

筋が通っていて、「観」あるいは「感」が真逆になるということは、
 根底が真逆になるということです。
根底さえ入れ替えれてしまえば、「筋」はそのまま通る。


ものごとの把握には、必ず裏表があります。
とある現象は、見方によっては良いものだとも言えるし、悪いものだとも言える。
このことは、善悪の比率が半々だということを意味するわけではありません。
圧倒的に悪の側面が多い現象もあるし、
 現代の社会現象の多くは、悪の比率が高いものです。

ですが、そうであっても、100パーセント悪ということはない。
絶対にない。
現実的な善悪の比率はともあれ、
 そこの善を見るか、悪を見るかは、見る者の見方による。
善を見たい者は、いかに悪の比率が高い現象であっても、
 そこに善を見出すことができる。
逆もまた然り。

とどのつまりは、観察者の意志の問題です。
第一義は意志ですから主観です。
主観が出発点であっても、筋の通った理を組み立てることができる。

理を組み立てられるということは、実現可能だということです。
言葉でできた「理」によって、社会を組み上げるのが人間という存在なのですから。



そのように理解が成立すれば、
 「ゴチャゴチャ」とは、現実の善悪の配分比率に惑わされてしまっているだけ
  ――と整理がなされます。

と、同時に、
「ゴチャゴチャ」とは、仏教的な用語で言えば「煩悩」に相当するだろうという推測も成立する。


〈私〉は、善を見たいのか、悪を見たいのか。
 善を見たいのなら、その意志を貫徹しているのか。

善を見たいと思っているにもかかわらず、
 その意志が貫徹できないのならば、
  貫徹を阻害しているものは何か。


『仏教思想のゼロポイント』は考えを推し進めて
  阻害を〈生〉そのものにまで煮詰めました。
であるからこそ、反転も可能になった。
いったん反転が可能になれば、どの地点で善と悪とがゴッチャになったのかも把握できるようになります。

こうなれば、もはや善悪の発見/分離は技術的な課題です。
技術的課題を推し進めるあたって課題になるのは、精度の問題。
精度をあげるという課題を解決しようとすると、構造的な問題に行き着きます。
心身の構造的問題。

今、僕という存在が成立している構造。
過去の〈生〉の結果として、今の僕という「構造」が成立している。
その構造が善悪分離の精度を下げるということが認知できたなら、
 次の課題は構造改革ということになります。


同じことは、社会についても言えます。

歴史という過去の結果として、現在の社会が成立している。
その構造が、善悪をゴッチャにし、悪の比率が高い現象をシステマチックに生み出している。
だったら、構造改革が為されれば、善悪分離の精度があがり、
 善を選択できる可能性が高まる。

あくまで選択可能性です。
100パーセント善になることは、原理的にありえない。
100パーセントはなくても、20パーセントより80パーセントのほうが良いに決まっています。



次は『ピダハン』です。



――が、続きは記事を改めることにして、ここで一区切り。

『秒速5センチメートル』


『君の名は。』は、まだ観ていません。

観てみる心づもりはあります。
おそらく、今年中には観ることができるのではないかと。
楽しみにしています。

映画館に出向くほどには、期待はしていないんですけどね。


というわけで(何が「というわけ」なんだかw)、
同じ新海誠監督の『秒速5センチメートル』を観てみました。



僕はこういう作品、きらいじゃないです。

断絶と哀愁。

アタマデッカチなものであれ、なんであれ、
 切断されたものを繕い直そうとするのは、人間の性(さが)なんだと思います。

愚慫的な言い方をするなら、人間は霊的な存在だから。
自己の中にある幻想を、あるいは虚構を、
 幻想であるとは知ってはいても、断ち切れることができないところがある。

その断ち切れなさを「純粋」だと言ってみたりする。


「疎外」という現象に対する「慈しみ」という反動もまた、「純粋」という形容をするのにふさわしいものでしょう。
ただ、こちらの場合、「純粋」だけでは足りないものも感じますが。


『秒速5センチメートル』は、純粋に「純粋」です。
 言い変えれば、青臭い。

それはそれで、いいと思います。
エンターテイメントとして楽しむ分には。



せっかくですから(なにがどう「せっかく」なのか、わけがわかりませんがw)
少々嫌らしい見方も披露しておきます。

(全編を視聴していることが前提。1時間ほどの作品)

この作品が醸し出す「哀愁」の正体というか起源は、じつは「違和感」なんです。

小学6年生の男女が別れを惜しむ。
その惜しみ方が、なんというか、おませさんなんですよ。

『秒速5センチメートル』は3編にわかれているんですが、
その第一話が小学生のときの話。
そのラストが、『北の国から ’87初恋』を彷彿させるようなシーンです。
ど田舎で、雪の中で、誰もいない物置小屋で、ふたりで一晩を過ごすという。

その情景を縁取るのは、尾崎豊の『 I Love You 』でした。



『 I Love You 』には悲壮感がありますが、
 『秒速~』のほうにはそういう趣がなくて、
  むしろ、希望、期待がある。
「成長」への。


その期待は第二話で裏切られてしまいます。
主人公の「成長」は、期待に呪縛されていく。

「呪縛」を助長するのが、第二話でのヒロインなんです。
悲しいことに。

主人公もヒロインも、純粋なんです。
過剰に。

どちらもキャラも、純粋さへの感受性が高いんです。
共に高いから、純粋が過剰になっていくことを止められない。


この作品のクライマックスは、第二話の終わり。
ロケットの打ち上げシーンです。
「秒速5センチメートル」という言葉の意味も絡んでいます。

第一話の冒頭、桜の花びらが舞い落ちる速度が「秒速5センチメートル」と提示されます。
第二話の途中に、ロケットが運搬されるシーンがあって、その速度もまた「秒速5センチメートル」。
そのロケットが、
 過剰な純粋と、
  ごく自然な男女の欲求の間で
   揺れ動く心理描写のシーンの中に、
    割って入る。
ロケットは期待の象徴です。

非常に技巧的なのに、しかも技巧を感じさせない演出。
憎いヤツだと思います。
新海監督。


第三話はあっけなく終わります。
主人公の純粋が、過剰な「おませ」だったということが暴露されてしまう。
なんの展開もなく、ただそれだけ。

憎いのは、そこに過剰で純粋な歌を被せてくるところ。
予告編でも出てきています。
山崎まさよしの『One more time,One more chance』ですね。



このチョイスは見事だと思います。
『秒速5センチメートル』という作品が、
『One more time,One more chance』のプロモーションだと思ってしまうほど。


もしかしたら、この『秒速5センチメートル』は、
エンターテイメントの純粋形に近いのかもしれません。

・過剰さ。
・過剰さの隠蔽。
・隠蔽を不自然に感じさせない技巧。

この3つの要素がシンプルに、かつ高い品質で詰め込まれています。

エンターテイメントを楽しむことをできるのは、
 そもそも「人間」が、過剰なものを持ち合わせているからでしょう。
  その過剰さを上手に隠蔽してやると、気分が良くなる。

気分よくするのがエンターテイメントの使命ですよね。


『君の名は。』
 楽しみです。

〔自由〕と〔自在〕の狭間


去年、話題になったTV番組です。

『NHKスペシャル「終わらない人 宮﨑駿」』



この番組の特に終盤、宮﨑駿さんが怒りを露わにしたシーンが話題になりました。
動画だと49分あたりから。ご覧になった方も多いと思いますけど。


宮崎さんは、いったい何に怒ったのか?
何に生命への冒涜を感じたのか?

僕の言葉で勝手に解説させてもらうなら、〔自由〕に対して、という回答になります。
宮崎さんは〔自在〕の人だから。


〔自由〕と〔自在〕なんて、言葉にする哲学的で難解な印象になってしまいますが、じつは単純なことです。
単純な動作を試してもらうだけで、〔自由〕と〔自在〕の差異を体感することが出来ます。

手を前へ突き出して肘を曲げてみる。

この動作をしたとき、手はどこにあるか。
旨の前にあるはずですね。

「手を前へ突き出して、肘を曲げる」

〔自由〕の観点から見たとき、上の文章には省略した部分があります。
〔自由〕の観点から省略せずに文章を書くと、次のようになります。

「手を前へ突き出して、肘を内側に曲げる」

「内側に」とわざわざ付記するということは、「外側に」と書くことができる可能性を示唆します。
文章の自由度でいうならば、そのように記述することは可能ですよね。
でも、そんな文章を書いて宮﨑駿さんに提出したら、

 生命への冒涜だ

といって叱られるでしょうね。

肘は内側にしか曲がりません。
膝もそうですね。後ろにしか曲がらない。
それを外へ、あるいは前へ曲がると想像したする。
想像するのは〔自由〕です。

マニュピュレーターという機械があります。
人間の腕と手を模倣して、その機能を実現させる機械です。
機械に適用される原則は、 僕の言葉でいう〔自由〕です。
 肘に当たる部分が外の曲がろうが、
 手首に当たる部分が360度回転しようが、
それが技術的に実現できさえするなら、まったくもって自由です。
宮﨑さんだって、「生命への冒涜だ」と怒りはしないでしょう。

が、身体はそうはいきません。
機械とは原則が異なる。
僕はそれを〔自在〕という。
〔自在〕には「肘が外へ曲がる」という現象はありません。
理由は簡単です。肘はそんなふうにはできていないから。

そんなふうにできていないものに、敢えてそんなふうにするように強いると、そこに感じられるのは苦痛です。
機械の〔自由〕には苦痛はありません。
が、身体の〔自在〕にはある。
それを無視すること。
宮崎さんが怒ったのは、このことだと思います。

(川上さんははじめから「ゾンビだ」と断っているので、無視したわけではないんですが...)



〔自由〕と〔自在〕を比較してみたとき、自由度という観点でみれば、〔自由〕のほうが圧倒的に大きい。
〔自在〕は〔自由〕に比べると、制約が多い。
その制約こそが、制約を感じることこそが、〈生きる〉ということを感じること、です。

〈生きる〉ためには〈制約〉は、むしろ必要です。
だから〈制約〉を大切にすることが、誠実に〈生きる〉ということにもなる。
あらゆる制約から解放されフリーになった〔自由〕には、もはや生命はありません。


以前に引用した文章です。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。





この文章に僕が感心するのは、その端的さにです。
どのように端的なのかというと、物理学・化学・生物学という順に、「制約」が大きくなって自由度が下がっている点です。

次に具体的に取り上げるつもりですが、『サピエンス全史』という本が記述しているのは「生物学」と「歴史」の狭間です。

ここで示した順序でいくならば、自由度という観点から見たとき、

 生物学 > 歴史

でなければおかしい。
ここでいう「生物学」とは僕のいう〔自在〕だと解釈してもらっていいし、
「歴史」のほうは〔自由〕です。

ところが、私たちの社会では

 〔自在〕 < 〔自由〕

なっている。
ということは「何ごとか」があったんですね。
「何ごとか」があって、〔自在〕と〔自由〕の立場が逆転した。
その「何ごとか」を歴史と捉えて記述しているのが、本書です。

ここから先は、次です。



当記事を閉じる前に、〔自由〕と〔自在〕にかかわると思う別記事を紹介します。


『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」
   ~相模原障害者殺人事件から考える』


この記事は、ふたりの対談です。

光岡英稔さんは武闘家だそうで、内田樹さんと対談本を出しているようですが、まだよく知りません。
福森伸さんは、氏が主催する団体が奏でる「音楽(?)」を取り上げてみたことがあります。
これです。



僕の記事はこちら⇒『心地よい「不揃いな音」』

改めて『OTTO & ORABU』の「音」を聴いてみて、気がついたこと。
彼らの音を生で聴いてみたこともあって、その記憶は鮮明に残っているんだけど、
不思議に具体的な「音」は覚えていない、ということ。

理由はたぶん、「定型」ではないから。音楽としての。
「定型」ではないぶん、生の「音を出す行為」そのものはよく覚えています。
パフォーマーたちの表情とか。

これもまた不思議なんです。
表情だけ見れば、生き生きしているようには見えない。
だけど、「音」は生きている。
視覚と聴覚にズレがある。
そのズレは、私たちが「定型」だと無意識下で決めつけているところから生まれる。

見方によれば、この「決めつけ」は障害だ――と福森さんは指摘するわけです。
こういう「見方」はとても大切だと思いますし、イデオロギーとしての〔自在〕ということにかかわってくる大切なところだと思います。

福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。ちょっと資料を読みますね。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。

・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。

・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。

・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。

・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。


光岡 実におもしろい。


光岡さんに同意です。
実におもしろい。


ニューロティピカル症候群への指摘は、資本主義社会を分裂症だと診断した『アンチ・オイディプス』の指摘とつながりますし、
そうした障害がどのような過程を経て生成された――「歴史」――という疑問にもつながります。



『しょうぶ学園』を題材したこのような映画があるんですね。
知りませんでした。
ぜひ、観てみたい。

/

自在主義


やはり、年明けには大げさなことを書いてみます。

  自在主義

「主義」というからには、イデオロギーです。
対になるのは、自由主義です。


「自由」と「自在」は似て非なるものです。
  あくまで、僕の語法ではありますが。

自由 - Wikipedia
自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。


自在 - Wikipedia
束縛が無く自由な状態のこと。


ほとんど同じ意味ですね。

ではイデオロギーになると、どうか。

自由主義- Wikipedia
自由主義(じゆうしゅぎ、英: liberalism、リベラリズム)とは、国家や集団や権威などによる統制に対し、個人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語。


この記述によるならば、「自由」の対義語は「統制」になります。

  社会の統制 vs 個人の自由

という対立軸があるという捉え方ですね。

自由という観点からみて、個人と社会とが対立するのは必然である――。
  私たちにはそうした感覚があります。
  上掲の文章も、この感覚が暗黙の前提にあって記述されている。
僕は感覚こそが「自由」というものの源泉であると考えると同時に、
 この感覚に疑問を持ちます。
 この感覚に疑問を持たないことに不満を覚えます。

以下、この感覚を〔自由感覚〕と呼ぶことにしましょう。

〔自由感覚〕はヒトという生物の生来的なものではありません。
後天的なもの。
歴史によって醸成された、後付けの、文化的なものです。


人類にとって、文化は大切なものです。
そして、文化と文明は一対のものです。

人類は文明的な存在ですが、文明的でなければならないというわけではない。
人類は生存戦略として社会的であることを選択しましたが、
その選択は文明的であるということでは必ずしもない。

現代でも、文明的でない社会を営んでいる、いわゆる未開な人たちは存在します。
そうした人たちの存在は、人類は文明的でなければ生存がかなわないわけではないことを証明しています。
歴史が証明するのは、むしろ文明的であることが、文明的でなくても生存していくことができる人間を駆逐してきたことです。


〔自由感覚〕は人間が文化的文明的な存在であることによって後天的に習得したものです。
新たな感覚を学習することそのものには何の問題もありません。
ですが、新たな感覚を学習することによって、生来的で、ヒトとしてより基本的な感覚を阻害するようになってしまうなら、それは問題といわざるをえない。

ヒトのヒトとしての生来的感覚を「自在感覚」と呼ぶことにしましょう。


依存症という病があります。

依存症- Wikipedia
依存症(いそんしょう、いぞんしょう、英: dependence)とは、世界保健機関の専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態のこと



現代人が患っている病は、〔自由感覚〕依存症です。
しかも、具合の悪いことにその病識がない。

快感や高揚感を伴う「自由感覚」を追い求める行為を繰り返し行った結果、
それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、
その刺激を追い求める行為が優位となり、
その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態に陥ってしまっています。

なのに、その病識がない。
病だからただでさえやめるのがむずかしいのに、
病識がないからなおのこと、やめられない。


〔自由感覚〕の際立った特徴は、
そして、その特徴ゆえに病識を持ちがたいのは、
 〔自由感覚〕は言葉でできている、ということです。

〈生きる〉ということそのものを表現し尽くすことは、不可能です。
 だけど、ヒトには、〈生きる〉ことを表現したいという欲求が存在する。
 欲求が存在するということは、その欲求の元になる感覚があるということで、
 その感覚が〔自在感覚〕です。

表現し尽くせない感覚。
ゆえに、〔自在感覚〕は言葉では出来ていない。

ところが、この表現欲求が誤動作することがある。
あるというより、現代文明人は、誤動作がデフォルトになってしまっている。
言葉でできあがった感覚を、生きる目的だと勘違いして、追い求めてしまう。

言葉できた欲求というのは、「他人の欲求」にすぎません。

その人固有の、身体的な欲求は、表現し尽くせないものなんだから、
 察することは可能かもしれないけれど、
  その欲求そのもの自己のものとするのは、原理的に不可能なはず。

ということは、他人と共有可能な欲求(欲望)とは、言葉でできあがった〔自由感覚〕にすぎない。
他人と共有できるがゆえに、〔自由感覚〕は獲得するすると快感がある。
優越感という快感。
優越感に渇望してしまうような状態になると、それが手に入らないと劣等感に苛まれてしまう。
現代社会を蝕むルサンチマンです。

現代社会は、言葉でできた欲望が蔓延している。
言葉でできた欲望は、言葉で出来ているがゆえに、
貨幣で購うことができる。

貨幣とは言葉です。
言葉の究極進化形が貨幣です。

すなわち〔自由感覚〕依存症の現代人は、貨幣依存症でもあります。


イデオロギーとしての自由主義は、貨幣に基づく「自由」に根ざしています。

貨幣は悪ではありません。
人間の感覚的には、酒と同じようなものです。

暮らしに必要な資源を手に入れる交換という行為においては、貨幣は要です。
酒とは比べものにならない。
あくまで感覚としての話です。

交換という経済行為において最重要の存在であるがゆえに、
感覚的に依存症に陥ってしまうという悪循環。
その悪循環に対する開き直りが、悪しき意味での自由主義です。


自在主義は、感覚の観点に立ってのイデオロギー的主張です。
貨幣は、感覚的に酒と同等である。
嗜むのは良いけれど、依存は心身へ健康を損なう羽目になる。

とはいえ、経済においては、貨幣こそ最重要。
貨幣という下部構造が、政治や文化といった上部構造を規定してしまう。
そうした構造の中で、どのように生きれば良いのか?

イデオロギーというからには、社会構造への問題提起です。
個人的な生き方としての「自在主義」もありだし、実践している人も少なからずいます。

僕にとって、実践できる人は問題ではありません。
実践したくてもできない人こそが、問題。
だから、イデオロギーになってしまう。


いや、ちょっと違うかな。

言葉でできていることを、言葉によって否定し肯定し、昇華させる。
そうした言葉を追究することが、おそらくは僕の生き方なんだろうと思います。

〔再掲載〕性善説



ここ二ヶ月ほど、更新が滞りがちになってしまったのですが...(^_^;)

一年の締めくくりに何か文章を書こうと思って、自分の記事を見直し始めたら引っかかりました。
我ながら、いい文章書いているじゃん。(^o^)v

誰が見てもいい文章ということにはならないことは百も承知ですが、
ボクにとってはいい。
ここに書き表したことは、まったくそのままです。

なので、再掲載します。
お茶を濁す、ともいいますが...笑

   ***



いまさらですが、性善説です。

ヒトの本性は善か悪か?

ボクは善の立場に立ちます。
そのように確信しています。
その確信を改めて自分の言葉にしてみたいと思って、この文章を書いてみます。


いつもながら、少し遠くから文章を出発させてみます。

「反知性主義」という言葉が昨年はよく取り上げられたようです。
どうやら、特定の人物を政治的かつ人格的に揶揄する言葉として多用されていたようです。
ボクも少々興味を惹かれて、こんな本を読んでみたりしました。
あ、揶揄に惹かれたんではないです。
それは後から知りました。


反知性主義とは、佐藤氏の定義によるならば、

実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度


だそうです。
この定義は、妥当であるように思えます。
そして、この定義に従って、人間の性善/性悪を判定するならば、それは性悪だとするのが妥当でしょう。
してみれば、ボクの性善説への確信は、反知性主義だということになります。

でも、ボクはそうは思いません。
性善への確信から出発することこそが知性だと思っています。


揶揄の言葉としての反知性主義とは、要するに“バカ”ということのようですが、
本来の意味は異なります。
反知性主義であるには、知性的であることが必要です。
そうでないと、自分が欲するような理解ができないんです。
「理解を選別する」というのも、それなりに知性的ではあります。

ここではまず、そういう知性の使い方をしてみます。
ボクの確信、つまり、ボクが欲するような世界の理解に都合のよいものを引っ張ってきます。
またしても内田樹さんなんですけど。

内田さんも、反知性主義について、著作をものにしています。



実はボク、この本は未読なんです。
未読なのに都合のよいものを引っ張ってくるなんて、それこそ都合が良すぎると思われるかも知れません。
けど、知性の定義だけを引っ張ってくるなら可能です。
ネット上で紹介されていますから。
それも、相当、批判的に。
内田さんの知性は没落した、と言われるほど。
例えば、こちらの記事とか。

その記事から、内田さんの知性の定義らしきものを孫引きさせていただきますと、

人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。



まさに内田さんなんですが、
これって、「自分が欲するように世界を理解する」のと区別がつきません。
いえ、ボクは付かないと思いません。
ボクは思いませんが、批判的な人たちは、付かないから批判しています。
まあ、つかないものは仕方がありません。

こういうのを読んでいると、かつての「理論派vs共感派」の思い出しますね。
もっとも、こちらはずっと知性的ですが (^_^;)


話が逸れそうなので、本筋に戻します。
繰り返しますが、この内田さんの定義はボクの「確信」には都合がいいんです。
それはなぜかを述べてみるのが、本筋です。


そもそも、“善”とは、なんなのか?
この問いは、知性とはなんなのか、という問いと大いに重なります。

まず知性の方から答えを試みてみますと、
それは、「正しさ」を追及する、ということになるでしょう。
正しくなければ「生き残る」ことができない。

自分の都合の良いように世界を理解する態度は、
たとえ、その振る舞いの一つ一つは知性的であったとしても、
必ずしも自身が生き残ることに寄与しない。
佐藤氏などは、そういったことを実例を上げながら、国家の指導者を批判しています。
これは的を射た批判だと思います。

でも、ボクは納得しないんです。気持ちが片付かない。
どこに?
その前提に、です。
「生き残る」という前提に。

「生き残る」ということは、人間性悪が前提になっているんです。
だから「生き残る」ことが必要になっていく。

何ごとも生きていなければ始まりません。
それはそうです。
けれど、「生き残る」というとき、その背後には恐怖があります。
そして、その恐怖は、同じ人間への恐怖です。

同じ人間に恐怖しなければならない。
だったら、そんな人間は性悪に決まっています。
現在の世界の有様を実証性と客観性を基準に眺めたら、どうしてもそうなってしまいます。

「確信」というのは、それとは違います。
世界の有様がどうであれ、自分が基準です。
徹底的に主観的です。
けれど、独善ではありません。
ボクだけが「善い」と言っているのではないのですから。
みんなが「善い」と言っている。

本当に「善い」かどうかは、実のところ、わかりません。
現実は「善くない」ばかりです。
このボクの周囲でも。
「善い」と決めてかかって接すると、痛い目に遭うのが現実です。
その意味では、佐藤氏は正しい。

けれど、だからといって「悪い」とはしない。
ボクは悪くないから。
確かに「善くない」ことはいっぱいある。
けれど、出来ることなら、「善く」したいと願っています。
現実がそうでないから、かえって「願い」は切実です。

知性の本性は、この「切実さ」のことです。
ボクはそんなふうに思います。

「切実」に客観性はありません。
実証も出来ません。
あくまで主観的です。
そして、この〈切実〉は、人間を「善」としなければ起動しない。
人間を「悪」としてしまうと、それはそれで別の【切実】なものが起動するのですが、
それは、もう、「独善」なんです。
ボクが、ボクの周囲が、ボクの所属する何かが、「生き残る」ことへの【切実】。

【切実】は、それが切実であるほど、【死にものぐるい】に陥ります。
で、それが果たして、「善」か?
ボクは、確信をもって、それは違うと答えたいと思います。

【死にものぐるい】は不幸ですから。
不幸が善であるわけがない。

善とは、幸福であることです。
「正しい」かどうかは、とりあえず関係がない。

二次的には関係があるんですよ。
「正しい」というのは、社会的だから。
そして人間は社会的な生き物だから。

ヒトが生き残るためには、社会的であることが必要です。
ヒトにとって、社会的であることは生存戦略なんです。
これは揺るがない事実でしょう。

そして「正しい」ということは、社会的には必要なことです。
「正しい」に基づいた秩序がないと、社会が成立しないから。
 
実はボクは、「正しい」とは別の基準に基づいた秩序は構築可能だと思っています。
でも、現実は、歴史は、「正しい」以外の方法で秩序付けがなされた文明社会は成立しなかった。
あくまで文明社会ですからね。
だから、とりあえず、社会的であるなら「正しい」は必須と考えておきます。

これは逆にいうなら、人間が社会的でないなら「正しい」ということ自体に意味がないということです。
そして、ここで問うているのは、社会的な人間のことではない。
個としてのヒトです。
ヒトが善か悪かを問うています。

ヒトにとってもっとも重要なことは、その個が幸福であるかどうかでしょう。
してみるなら、個としてのヒトが幸福であるかどうかが、「善」であるか否かということになります。


個としてのヒトは性善であるに決まっています。

なぜ決まっていると言えるのか?
それは、ヒトは、いえヒトに限らず、生き物はもともと健康になるように出来ているからです。
そういう身体を持って生まれてくる。

そして、ヒトにとって、身体と心は同じものです。
身体と心を別のものになったのは、社会がそうしたのです。
社会がなければ、心身を分ける意味がない。
個としてのヒトにとっては、心身は同一です。

ならば、話は簡単です。
身体が健康になるように生まれついているのなら、心もまた幸福になるように出来ているに決まっています。
幸福がヒトにとって善なのですから、ヒトはそもそも性善です。

実にシンプルです。
ボクは、本当のことは実はシンプルなんだと思っています。
問題を難しくするのは、問いの前提を誤るから。
前提の整理が出来さえすれば、問いの答えはみなシンプルですし、
そうでなけば得心がいったり、腑に落ちたり、気持ちが片付いたりはすることはないでしょう。


人間は性善か性悪かの問いは、個としてのヒトを対象に問うのか、社会を構築しなければ生き残ることができない生き物として問うのかで、答えが違ってきます。
現状の社会の有様を元に答えるなら、後者が妥当でしょう。

同じことは知性についても言えます。
知性/反知性の基準のうち、佐藤的なものを採用するのが妥当か内田的なものが善いかは、
これも、どの前提に立つかで違うことになる。

そして、どういった前提に立つかということが、その人間の態度です。
社会に立つか。
個に立つか。

社会に立つなら、必然、「公」は「私」より優先度が高いということになります。
滅私奉公が尊ばれる。
そこを追及することが知性の発露ということになる。
しかし、現状の社会を見る限り、社会の上位にいる人間ほど滅私奉公に遠いといわざるを得ない。
この現状を反知性主義というのは正しい。

一方、個に立つなら、「私」の優先順位が「公」よりも高くなる。
社会はあくまで「私」を幸福にするためのものに過ぎない。
なので、知性はあくまで「私」の幸せを追求するするために発揮されることになる。

ボクはもちろん、後者の立場に立ちます。
その前提としての人間性善説です。
だから、あくまでボクの主観的な確信なんです。

その選択は、反知性的滅私奉公が蔓延る現在社会の状況からしても、妥当だと思っています。
過激ですけどねww


  ****

締めくくりの音楽だけ、別のものにしておきます。
年初の音楽は「希望」のものだったけど、
締めくくりは「祈り」で。

いや、これはむしろ「感謝」だな。






『バグダッド・カフェ』





この映画を鑑賞するのは二度目です。

一度目に観たのは二十歳のころ。
『バグダッド・カフェ』の制作は1987年だとありますから、勘定が合います。

どんな理由でこの映画を観たのかは思い出せません。
暇つぶしで入った映画館でたまたまやっていたというだけのような気がします。

観た場所はなんとなく覚えているんです。
たしか大毎地下劇場という、リバイバル上映専門の映画館。
大阪梅田の毎日会館という建物の地下にありました。


先日、月一で参加しているとある映画鑑賞会で
オマエが観たい映画をチョイスしろと言われて、この映画が思い浮かんだんですね。

思い浮かんだのは他にもありまして。





どれもアメリカがまだ輝いて見えていた時代のものですね。
ベトナム戦争関連の映画が多数制作される一方で、
ここに挙げたような、「しあわせな映画」も作られていた。

そう、幸せな映画を観てみたかったんです。

若き日のトム・ハンクス主演の『ビッグ』は、いうなれば、子どものしあわせ。
名作かどうかはさておき、アメリカンな楽しさ抜群の『ブルース・ブラザース』は、青年のしあわせ。

となれば、『バグダッド・カフェ』は、大人のしあわせ。
そう、大人のしあわせ。

大人のしあわせって、なに?


『バグダッド・カフェ』は良い映画です。
なんとなく、良い映画。
どんなふうに良いかを言い当てるのが難しい。

しあわせってものがそういうものです。
とくに大人のしあわせは。

子どもならば、「子どもらしい」という言葉にそのまま「しあわせ」という感触がある。
青年でも、「青春」といえば、多少苦さや酸っぱさは混じるものの、「しあわせ」の感触がある。
ところが大人は、大人としあわせは、一筋縄ではないかない。
「家族」とか「仲間」といったようなコミュニティを一枚噛ませないといけない。

『バグダッド・カフェ』は、大人のしあわせに不可欠に絡むコミュニティのありようを映し出した映画。


ラスベガス近辺という舞台設定なのでしょう。
黒人夫婦が経営するバグダッド・カフェという名の、これは日本語でなんて言えばいいんだろう?
ガソリンスタンドがあって、アルコールやコーヒーや軽食を出す店があって、モーテルもある。
トレーラーハウスに住んでいる人や、キャンプをする人もいる。
雑多な人たちが、なんとなく集まる場所。

そんな場所が、なにゆえ「バグダッド」なのかは不明。
同じように、なんとなく集まっている人が、どういう理由でそこのいるのかも不明。
最後まで不明。

理由など、どうでもいい。
ただ、「そこにいる」ということが大切。

そのバグダッド・カフェの主人が、ブレンダという名の黒人女性。
夫がいて、いい人みたいだけど、不精者。

バグダッド・カフェを切り盛りするブレンダには、暮らしの垢とでも言えばいいのかな? 
暮らしを成り立たせていく上での負荷を、一身に背負っている。
夫を筆頭に、場のみんながブレンダに寄りかかり甘えていて、
だから、ブレンダはいつも不機嫌。
だから、バグダッド・カフェも不機嫌な場所。
不機嫌な場所なのに、そこはスルーして、それぞれ好き勝手にやっている。


ブレンダの不機嫌から募ったイライラが爆発して、不精者の夫を追い出すしたところに、
これまた夫婦げんかで夫に置き去りにされたドイツ人女性がやって来る。

この夫婦げんかの理由も不明。
ただ、とにかくやって来る。

この女性、ドイツだからドイツの名前があるんだけど、そんなのもどうでもよくて、
バグダッド・カフェでは「ジャスミン」という名前になる。

このジャスミンが、ブレンダの「垢」を落としてやる。
きれいさっぱり洗い流すというのではなくて、半分か、三割か、
そのあたりの加減は不明だけど、
とにかく、いくぶん「垢」を落としてもらったブレンダは元気になって、
バグダッド・カフェというコミュニティが上機嫌な場になっていく。


大人って要するに「人間」です。
コミュニティを構成するメンバー。
構成しているんだから、責任が当然、ある。
責任を負うからこそ、大人。

コミュニティを構成する大人が、その人なりにその責任を負担する。
大切なのは「その人なり」ということ。
なんとなく、その人なりに。

「その人なり」がそれなりにうまく機能して、それなりにコミュニティが機能する。
「それなり」で、なぜかコミュティは上機嫌でしあわせな場になる。

そうしたコミュニティのしあわせに参画するのが、おそらくは大人のしあわせというやつ。

『ヒミズ』(追記あり)


今朝の地震は気味の悪いものでした。

ここ富士吉田では大きな揺れではなかったけど
 揺れている時間が長かったから
  どこか遠くで大きな地震があったなと思ったら
   福島で震度5弱とか。

そうこうするうちに津波警報まで出て
 被害はたいしたことはないようだけど
  嫌な感じはぬぐえません。

いい加減、原発、止めろよ。





さて、『ヒミズ』です。
 園子温監督。

見たには見たけど、スルーしようと思っていた。
 だけど、今朝の地震で気が変わりました。


感想を一言で評するなら、潔い。

園子温監督の作品は幾つか見たけど、
 これまではよくわかりませんでした。

ここの作品については、
 「伝えたいこと」は、わからなくはないんですけどね。
なぜ、そんな伝え方をしたいのか? 
 ここがよく飲み込めなかった。

だけど、『ヒミズ』でわかったような気がしました。
 言い直すと、僕の中で言語化された。

言語活動によってなされる人間の思考はデタラメです。
 いかようにも世界を切り刻み、いかようにもつなぐことができる。
 
園子温さんは、そのデタラメさを、取り繕うことなく提示する。
 そこが潔い。
  潔さがあるから、表現の過剰さに、一本筋が通る。

ちなみにこの「潔さ」は
 『絶歌』の「正直さ」に通じるような気がします。
  もっともこれは、僕の言語作用のデタラメかもしれませんが。
 

園子温監督の「筋」はわかったような気はしたものの
 『ヒミズ』自体はいささか混乱した作品という印象を持ちました。
  制作中に大地震があって、途中でプロットを大幅に変更したとのこと。

『ヒミズ』には原作のマンガがあるらしく
  僕は未読なんですが
   調べてみると、バッドエンドらしい。

映画の方は、ハッピーに向かって終わっている。
 そうせざるを得なかったことは、わからなくはありません。
  わからなくはないけど、とってつけた感じはぬぐえない。


ストーリー全体の枠組みは「がんばれ!」というメッセージです。

主人公は中学生の男女。
 染谷将太と二階堂ふみ。
 住田クンと茶谷サンです。

「ガンバレ!」のメッセージは、わざとらしく出てきます。
 中学校の授業だか、ホームルームだか。
 教師が薄っぺらい「がんばれ」を自己陶酔気味に展開し、住田クンに絡む。
  住田君は一蹴する。
  茶谷サンは歓喜して叫ぶ。
  
  ふつうバンザイ!

最後
 父親を殺してしまって普通でなくなった住田君は
  「ふつう」を取り戻すために
   茶谷サンに「ガンバレ!」と声を掛けられながら
    自首するために警察署に向かって駆けていく。


「ふつう」を奪ったものは何か?
 象徴するシーンが中程にあります。

住田クンのお友達だかパラサイトだかの老人(渡辺哲)が殺人するシーン。
 その行為の背後でテレビに映った宮台真司さんが「原発の不条理」を説いている。

 住田クンを襲った不条理。
 福島を襲った不条理。

ふたつの不条理の二重写し。


けど、やっぱり、映画の主題は住田クンの不条理の方です。
 園さんが二重写しにしたい意図はわかるけど、とってつけた感は否めない。

こういったことが可能なのも
 言語思考はデタラメで
  いかようにも切り結ぶことができるから。


でも、全部が全部、デタラメというわけではありません。
 とってつける前の『ヒミズ』の方は、感性に沿った説得力があります。

たとえば、音楽。

モーツァルトのレクイエムの冒頭部分が繰り返し出てきます。
 これ、とても嫌な使い方なんですけど
  だからこそ効果的。

以前に書きましたが、この音楽は底の見えない深淵に向かって沈み行くような音楽です。
 だけど救いがある。
  それは人間の「生の声」です。

  楽器の音も心地よいものだけど
 感覚的な「救済」という点において
人間の声に優るものはない。
 ベートーヴェンが『第九』において提示したところのもの。

園さんはその「救い」を切り捨てて映画に用います。
 キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』を倣ったのか
  同じフレーズが壊れた時計のように何度も何度も出てくる。
   「救い」を切り捨てられた音たちが、何度も何度も。

こういう“嫌な”感性には、うなってしまいます。

挙げ句がバーバーの弦楽のためのアダージョ。
 『プラトーン』からパクったな。


感覚的救いという観点で見るならば
 すなわち「生」という点で見るならば、
  文字通り目を惹いたのは
   二階堂ふみの「乳房」でした。


僕がこの『ヒミズ』において、クライマックスだと感じたところ。
 ストーリー全体の方向性が決定づけられるシーン。
  それは、住田クンの父親(光石研)の演技でした。

予告編の動画にも出ています。
 住田クンに

  オマエ、本当に要らないんだよ。

と"愛情を込めて”伝えるところ。

こういう生理的に"嫌な”シーンが、園子温監督の真骨頂なんでしょうね。
 見事に気持ち悪いシーンになっています。

言葉が伝えるメッセージと身体が伝えるメッセージが見事に真逆。
 壊れています。
  壊れたメッセージを伝えられて
   受け止めて
    壊れる。

 まったくもって「健全」です。
 身体性に沿っている。

ここから『罪と罰』が始まる。
 住田クンはラスコーリニコフになり
 茶谷サンはソーニャになる。

そしてソーニャは「ふつう」で住田クンを救済しようとする。 
 茶谷サンだって不条理の中に生きているのに。
  不条理の中で生きているからこそ。

その「ふつう」をもって救済を試みるシーンで
 強調されているのが「乳房」。
  「生」。否、「性」。
ここもまた身体性に沿っています。


以上のように記すと、まったくデタラメではなさそうなんですが
 全体としてみると大きな違和感があります。
  少なくとも、僕は大きな違和感を感じる。
たとえばいえば、エナジードリンクを飲んだような感じです。

身体に「効く」成分は入っていて、かなり強烈に効く。
 だけど、その効き方は違うんじゃない? という感触。
  飲めばいっとき元気になるかも知れないけど
   それは「元気の前借り」だよ、という。

こうした映画が「効く」人はそれなりにいると思います。
 だけど、それは危ういんでないかい?

この映画が謳い上げられる「ふつう」は想像上の「ふつう」であって
 確かに【アタマ】はそういう「ふつう」を欲するけれど
  〈からだ〉のほうは違うんじゃないかな?

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〔追記〕 『ピダハン』 〔読了〕


ようやく読み終わりました。



楽しくて、かつ充実した読書体験でした。

 読了前のエントリーはこちら (^^)つ リンク

もっとも印象に残った場面の記述。

コーホイとわたしが聖書の翻訳に役立つと思われる言葉についてやりとりしていたときだ。

まずわたしが尋ねた。「誰かをとても好きだとして、その相手をなんと呼ぶ?,」

「bagiai バギイ」コーホイが答えた、

わたしはすぐに試してみようと、笑みを浮かべて「きみはぼくのイだ」と言ってみた.

「違うよ!」コーホイは笑いながら否定した。
「どうして、ぼくを好きじゃないのか?」
「好きだよ」コーホイは笑いを噛み殺しながら答えた。「おれはおまえが好きだ。おまえはおれのバギイだ。だが bagiai イというのもあって、それは好きでない相手のことだ」

その解説をわたしが理解できるように、コーホイはふたつの単語をゆっくりと口笛で表してくれた。

わたしはようやく違いを聴き取ることができた。友人にあたる言葉はバギアイで、最後のaにだけ高い声調がくる。ところが敵を表すバギアイはaの両方が高くなる。このささやかな違いがピダハン語では友と敵を分ける違いだ。このふたつの単語はピダハンにとっては相通じるものをもっている,バギアイ(友)とはもともと「触っているもの」愛情を込めて触れる相手という意味であり、バギアイ(敵)には「団結を起こさせるもの」という意味があるのだ



ビックリ仰天です。ピダハン語って、こんな言語なんだ...
 イントネーションで、言葉の意味が正反対になる言語。

イントネーションの違いで、言葉の意味が異なる言語は、日本語もそうです。
 たとえば「くも」。漢字表記だと「雲」もしくは「蜘蛛」。
 「雲」と「蜘蛛」の違いは、話し言葉であるならイントネーションで区別されます。
  関東と関西では、イントネーションの違いが正反対というおまけつき。

そんなわけだから
 イントネーションで言葉の意味が違うということそのものは
  それほど驚くべきことではない。

 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」
   という箴言がありますが
 ピダハン語の「バギアイ」は、
  この箴言を一語に凝縮したようなものだと言っていいと思います。

言葉の身体性です。

「愛」には愛の身体反応がある。
「憎悪」には憎悪の身体反応がある。
一方で、「無関心」には身体反応がない。

身体反応があることを前提に語義の「愛」の対義語を問うと
 「憎悪」が答えです。
身体反応の有無を軸に対義語を問うと
 「無関心」が答えになる。

日本語を含め、僕たちの言語は、
 身体反応と言葉との関係がデタラメです。

  愛はなぜ"愛”と呼ぶのか、
  友はなぜ"友”と呼ぶのか。

シニフィエとシニフィアンの関係は恣意的、つまりデタラメです。

ところがピダハン語は、必ずしもそうではないという。
 「友」と「敵」というシニフィアンは
  「バギアイ」というシニフィエを共有しています。
シニフィアンを区別するのはイントネーションです。
 「バギイ」か「イ」かで意味が異なる。

イントネーションは身体の作用です。
 「バギイ」という言葉が催す身体反応。
 「イ」という言葉が催す身体反応。
   その違いは音素の違いよりももっと身体に近い作用によって区別される。


著者ダニエル・L・エヴェレットさんがあげるピダハン語の最大の特徴は
 直接体験の原則
というものです。

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない。



エヴェレットさんがピダハンたちと暮らすことになった目的はキリスト教布教です。
 キリスト教布教のためには聖書のおしえを伝える必要がある。
  「伝える」には翻訳という作業が不可欠。

キリスト教布教者は、それまでの経験ではどの部族にも存在した創世神話を
 聖書を伝えることで上書きしようと試みてきた。
  そして、その試みはたいてい成功を納めてきた。

ところが、ピダハンには上書きされるべき創世神話がない。
 それどころか、ピダハンの言語には創世神話を造り出す能力がない。

  直接体験の原則。
  言語の身体性。

ピダハン語は言語と身体のつながりが断たれていないがゆえに
 デタラメにはなりえない。
  〈世界〉の整合性が、そのままピダハン語の整合性になる。


だとするなら、
 ピダハン語には、ラカンの三界の概念も通用しないということになるでしょう。

  現実界
  象徴界
  想像界

ラカンは、、現実はけっして言語では語りえないといいます。
 語りえない世界――現実界です。
が、私たちは、語り得る世界に暮らしている。
 象徴界で暮らしている。

現実界と象徴界は分離してしまっています。
 その分離をなんとかして接合しようとするのが想像界。
後期ウィトゲンシュタインがいうところの「言語ゲーム」の回答集が想像界。
 だが、そもそも分離しているがゆえに、回答は難しい。
  「言い当てる」というくらいのことしかできない。
   「言い当て」の世界が想像界。

現実界を〈からだ〉の世界だと考えるなら
 象徴界は【アタマ】の世界だとすることができるでしょう。

現実界と象徴界の分離は
 〈からだ〉と【あたま】とが分離したことの証左と考えられます。
言語が〈からだ〉と【あたま】とを分離した。
 言語は現実界を分割し、デタラメに接合する。
  〈世界〉がデタラメに見えるのは
    私たちが象徴界に生きていて
     かつ、言語のつながり方がデタラメだからでしょう。


言語のデタラメの象徴はパラドックスというやつです。
 有名なところでクレタ人のパラドックス。
  自己言及のパラドックスともいいます。

あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。
 クレタ人の言が真なら、その言及が偽となり、言は偽になる。
 クレタ人の言が偽なら、その言及は偽であり、言は真なる。
  【アタマ】の中だけの言語操作であり、身体性は皆無です。

そもそも「クレタ人」という〈世界〉の分割からして
  身体性が棄却されてしまっています。
   クレタ人はある人の属性ではある。
     属性は「主に従うから「属」なのに
      属が主に置き換わっている。
     その「置き換わり」の際に、身体性は棄却される。
   
身体性が棄却されているがゆえに、アタマ言語はいかようにも繋がることができます。


ノーム・チョムスキーやスティーブン・ピンカーといった学者たちが、
 言語と文化とを、まったく別次元のものだと考えたのも、
  言語が身体性を持たなくなったということを前提にすれば、
   おおいに頷けることです。
    トートロジーだとすらいってよいかもしれません。


ところが、どうやらピダハンたちには、このトートロジーが成立しない。
 現実界と象徴界は分離していない。
  ゆえに「言語ゲーム」も成立せず、想像界もない。

ピダハンたちにとって、言葉とは、身体表現の一部に過ぎない。
 他の文明人たちのように
  身体表現を超えた「真実」とやらを言語に託すことをピダハンたちはしない。


ピダハン語には「数」の概念は存在しません。
 が、ピダハンたちが数を数えないわけではない。
  数を数えるという身体行為は、ピダハンもする。
 ただ、「数」という超身体的真実は認識しない。
  その必要がない。

ピダハン語にリカージョンが成立しないのも
 超身体的真実不成立の原則によるものでしょう。


(前略)
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。そんなときわたしは、神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。

わたしたちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、とわたしは言った。.以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、わたしは幸せになり、人生もよくなった。急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、まったく考えていなかった。自分では意味をなすと思っていた。そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた――これを話せば、神とともにある人生.がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。

「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた、彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、実際のところこの話はまったくの逆効果、彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。



この記述は、現実界と象徴界とが未分離の人たちの、ごく自然な反応だと思います。
 ただ、敬虔なキリスト教とには衝撃的な体験であろうことは想像に難くない。
 
こうした体験を否定的に侮辱と捉えても、何ら不思議ではありません。
 なのに、エヴェレットさんはそうは捉えなかった。
  敬服に値すると感じます。




こんな話を思い出します。
 進化という現象の機序についての話です。


生物が生存するには栄養素が必要です。
 栄養素は食物を摂取し、消化器官で消化することによって吸収される。
  消化という現象には、酵素という生化学物質が作用します。

栄養素Xを含む食物Aがあるとします。
 そこには、Aを消化する酵素F(A→X)が存在します。

ところがあるとき、何らかの原因でF(A→X)が生成されなくなった。
 F(A→X)の生成プログラムである遺伝子情報の欠落といった事故によって。

そのままでは生物は生き残ることができません。
 が、その生物には、
  Aから生成されうるBをXへと消化する酵素F(B→X)が存在した。
ならば、Bを摂取すれば、その生物は生き残ることができます。

ただ、Aは生存環境に豊富にあるものの、Bは乏しい。

そうした状況で進化が起きます。
 その生物は、AをBへと消化する酵素F(A→B)を生成することが可能になった。
  突然変異でF(A→B)を生成する遺伝プログラムが書き加えられた。

そうなると、生物は、環境中に豊富にあるAを摂取することが再びできるようになります。
そして
 
 A / F(A→X) / X

という消化回路に替わって

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という消化回路が新たに成立する。

これが進化という現象のモデルケースなのだそうです。



人間が〈生きる〉ためには、〔しあわせX〕という栄養素が必要です。

〔しあわせ〕という栄養素もまた、環境から食物Aを摂取することで得られる。
 「食物A」は言語という消化酵素によって〔しあわせX〕に分解され、吸収されます。

ピダハンの言語は、「A」から直接〔しあわせX〕へと消化できる酵素のようです。
 ここでいう「A」とはは、素のままの自然環境です。

現代の私たちは、「A」から直接〔しあわせ〕を生成することができません。
 「A」をいったん、人工環境「B」へと転換しないと〔しあわせX〕を生成することができません。

私たちの中に存在する回路は

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という回路です。

しかも、どうやら酵素F(B→X)の性能が良くないらしい。
 F(A→X)に比べ、質の悪いXしか生成できない。
  ゆえに〔しあわせ〕になるには大量のXが必要とされる。
   Xへの大量の需要は、大量のBへの需要となり、
    大量のBへの需要は、大量のAへの需要となる。

 その結果、自然環境Aは、急速に枯渇しつつある。

そして具合が悪いことに、
 酵素F(A→X)を使う回路をもつ形態よりも、
 酵素F(A→B)と酵素F(B→X)を使う形態の方が生存能力が高いらしい。

1酵素で済む回路のほうが2酵素必要な回路よりも合理的なはずなのに、
 不合理なものの方がなぜか支配的になる。
  進化という現象においてよくみられる不合理が、ここにも存在するようです。




想像をさらに逞しくしてみましょう。



この本によるならば、現行人類ホモ・サピエンス・サピエンスは
 先行する人類ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスを絶滅に追いやったそうです。

その試みは二度行われたそうです。
 10万年前の一度目は失敗し、
  7万年前から始まった二度目で成功した。

一度目の二度目のあいだにあったのが、認知革命。

ホモ・サピエンス・サピエンスは
 認知革命を経ることで
  虚構を操ることが可能になった。
   より大きな集団(社会)の運営が可能になった。
    大きな集団の力で、ネアンデルターレンシスを追い詰めた――
あくまで推測ですが。  

虚構を操ることが可能になるためには、ある前提を満たさなければなりません。
 現実界と象徴界の分離です。

認知革命が言語革命だったと想像することは、難しいことではありません。

(だとすると、なぜ、ホモ・サピエンス・サピエンスであるはずのピダハンが
 アマゾンで棲息しているのかが大きな謎になりますが。
  ピダハン語は認知・言語革命以前の言葉なのか?  
  あるいは、革命の揺り戻しによって性質した言葉なのか?)


旧約聖書に「イサクの燔祭」という逸話があります。

神に命じられたアブラハムが
 年老いて生まれた一人息子のイサクを
  生贄に捧げるよう神に命じられ
   その命令を実行しようとした。

こんな逸話はピダハンたちには爆笑ものでしょうが
 この逸話から推測されるのも身体性の棄却。


乱暴な推測です。

ホモ・サピエンス・サピエンスは言語革命によって
 身体性を破却できる方法を確立したがゆえに
  ネアンデルターレンシスとの生存競争に勝ち抜くことができた。

ネアンデルターレンシスは、きっと、生存競争など望んでいなかったでしょうけど。

旧約聖書の神が
 裁きの神であり
 戦いの神であるという事実は
  身体性を破却する言語革命の残滓を色濃く残しているからかも。 
 
繰り返しますが、乱暴な推測です。

トランプ大統領...


最近、小林よしのりさんに注目しています。

注目しだしたきっかけは、宮台真司さんと絡むようになったから。
 なんだかんだいって、宮台さんは注目しています。

こんな本が目にとまって読んでみたんですね。
 目に留まって買ったはいいが、読んだのは最近なんですけど。 


感心はしませんでしたが、まあ、言いたいことはわかります。

それから、小林さんにわりと共感するのは、天皇制についての発言です。
 "保守”ですね。
   賛同するかどうかはともかく、考え方にスジは通っていると思います。

また、こんな本も読んでみました。



これにはかなり感心しました。
 小林さんの根っこにあるのは「反抗心」なんだと思いました。
  僕と同じ七種体癖かな、とも。笑。

権威に屈するな――。
 それは正しい。
だけど、そういう小林さんが権威になりつつある。
 その矛盾を感得してはいるようだけど....

いろいろ思うところはあるにせよ、小林さんの考え方、感性は、
 時代の半歩先を行っている
  ――というのが、今のところの所感です。
 だから、注目しています。

トランプ大統領誕生のニュースについても、小林さんはどう考えているのかな?――と。

こんな感じのようです。

 (^_^;)つ 『トランプ大統領誕生、愉快だな』

 グローバリズムは終焉?
   んなわけ、ないでしょ。

確かに、今回の結果はグローバリズムへの反発です。 
 僕とても、現状のグローバリズムという名のアメリカリズムには反感を持っています。
  だから、その部分は共感します。

だけど、共感とは区別して考えなければならないことがある。

グローバリズムは必然です。
 グローバリズムという体制が出来上がったからこそ、アメリカリズムがあった。

アメリカリズムに、アメリカそのものが反発することは愉快です。
 でも、アメリカリズムとグローバリズムを混同してはいけません。

グローバリズムは技術の進展によって出現した〔システム〕です。
 技術の進展は人類史の必然ですから、グローバリズムも必然。
  必然に反感を抱くのは、保守の一つの在り方ではありますが、
   とくに「反動保守」と言います。

小林よしのりさんの天皇制に対する発言は
 真正保守だと思います。
  女系になっていくという歴史的必然を踏まえた上で
   天皇制を保守しようとしている。
    だから、共感します。
  
  必然を無視して反動に墜ちている連中に対する批判も痛快に感じます。

だけど、経済体制については、小林さんは反動保守だと思う。


反動は、良い結果をもたらしません。
 なぜかというと、【怨】の発露かだからです。
  トランプ大統領誕生は、
   かつては繁栄を満喫したアメリカ中産階級が
    没落を強いられた結果による【怨】。
   宮台式で言えば「感情の劣化」です。

【怨】や「感情の劣化」は、それを晴らすことができれば、一時的には愉快です。
 だけど、良い結果はもたらさない。


繰り返します。
 グローバリズムは歴史の必然です。
  必然の秩序なんです。

使い古された例えで言いますが、
 秩序とはリヴァイアサンという怪物です。



トマス・ホッブス著『リヴァイアサン』の、有名な口絵です。
 ここでは「リヴァイアサン」は王制という形をとっています。
  つまり、歴史ということです。
   歴史の一場面です。
 かつては王制という技術的つながり方をしていたということです。

今日では、王制ではなく、グローバリズムがリヴァイアサンです。
 王制からグローバリズムへの歴史的変化は、
  つながりの技術の変化の結果です。

リヴァイアサンは怖ろしい怪物ですが、効用があります。
 より怖ろしいベヒモスという怪物を抑え込んでいる。

リヴァイアサンもベヒモスも、ともに聖書に登場するバケモノだそうです。
 リヴァイアサンが秩序の例えなら、ベヒモスは無秩序の例えです。

【怨】や「感情の劣化」が召喚する怪物は、ベヒモスでしょう。
 直観ですけどね。

リヴァイアサンが退けられて、ベヒモスがやってくるかもしれない――
 杞憂で済めばいいし、そのように祈りますが、楽観的ではいられない。
  愉快にはなれません。



ベヒモスを制御するには、剥き出しの暴力が必要になってくるでしょう。
 剥き出しの暴力の制御には、より粗暴な権威が必要になるはずです。

権威に屈するな、は確かに正しい。
 だけど、より正しいのは屈服を要求するような権威を呼び出さないことのはず。

権威への反抗を正義としてしまうと
 その正義を全うするために、
  より強力な権威を呼び出したいという願望を抱きかねません。

小林よしのりさんの言う「愉快」に、僕は、そのような【願望】を感じてしまいます。
 そして、それが「時代の半歩先」だとしたら――。

『神様ドォルズ』


このアニメ作品、放映してのは何年前だったけ?



けっこう、好きでした。
このオープニングの曲もお気に入りでした。

OPの曲のタイトルは『不完全燃焼なんだろ?』なんですけど
 アニメの方も不完全燃焼のまま終わってしまいます。
  続き(2期)があるのかと思って楽しみにしていたけど、それもなくて。
    なんだか残念なアニメでした。

で、いつだったか、ブックオフに行ってみたら、原作の漫画が
 100円(税抜き)であったんで、買い込んでみました。
  それで不完全燃焼も、多少、解消されました。

で、で、先日
 グチャグチャになった本を整理していたら、この漫画がでてきた。
  手にとってパラパラッとめくってみると、目にとまったのがこの場面です。



なぜ、よりにもよって、こんなのが目に留まるんでしょう?
 そういうつもりではなくても、「見たいもの」を見てしまうんですね。笑。

『神様ドォルズ』は、特にオススメというわけではありません。
 たまたま目にとまった場面が、ハマっただけ。



   「お前の言うように、この村がたとえ歪んでいるとしてもだ」

   「そんなものは
     この国の
      この世界の
       どこにでも当たり前に存在する歪むに過ぎん」 
   「あえて
     あげつらうのも
      バカバカしいほどにな」
   「この村は
     特殊かもしれないが特別ではないのだ

   「そして我々は
     生まれてくる社会を選べん」

   「なら
     与えられた条件の中で
      うまくやってゆくしかあるまい?



あらためて気がつきましたがこのセリフ、名言です。
 赤字にした部分以外は、事実です。

赤字は村の支配者の主観です。
 だけど、支配者だけのものではありません。


マルクスによれば、

 ある時代の支配的イデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギー

だそうです。

赤字は支配者のものであると同時に
  ほとんどの社会構成員によって共有されている支配的なものでもある。

 支配階級のものであると時に、被支配階級のものでもある

ということです。

   この【同】は、僕が大嫌いなものです。




こんな本を少し前に読みました。
 この本の特徴は、「あえてあげつらうのもバカバカしいもの」を論っているいるところです。
  「バカバカしいもの」をあえて論うことで

被支配階級が気がつかない――のではなくて
 気がつきたくないであろう「事実」を提示します。


その「事実」とは、

 ・人間が社会のどの階級に属するようになるかは概ね知性で決まる。
 ・知性は遺伝的によって概ね決まる。

です。



「事実」には説得力があります。

その説得力は、事実のすべてではなく、
 イデオロギーに合致する事実のみを選択して提示したときに
  もっとも大きな  を発揮する。
      プロパガンダ



こんな本を、今、読みかけています。



出だしが名文だと思います。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。



ただし、瑕疵があると思う。

物理学を、化学を、生物学を
 
 物語

と捉えたのは慧眼です。
なのに、なぜ、歴史を物語としなかったのか。

「物語」とは編集作業を経て成立するものです。
  編集作業において恣意は免れません。
   だから、「物語」とは都合の良いもの。プロパガンダになりうるもの。

歴史こそ「物語」です。
 (だからあえて「物語」とはしなかったのかもしれませんが。)

『言ってはならない』が提示する「事実」は

  歴史的事実
 
に過ぎません。すなわち「物語」です。

物理学や、化学や、生物学といった「物語」そのものを再編集するのは人間業ではありません。
 人間にできるのは、発見だけ。
が、歴史は人間業です。
 歴史を学ぶということは、歴史が人間業であることを識るということ。
  歴史そのものも再編集可能であるということを知るということです。

歴史が人間業であることを識るということは
 自身の〈生〉もまた歴史であるということ識ること。

「識る」というのは、そういう意味です。
歴史という「物語」は今後、いかようにも再編集できる可能性があるということです。


『言ってはならないこと』が言っているのは、
  
  人間は幸せになるようにデザインされていない

ということです。

『サピエンス全史』はまだ読了していませんが、
  僕が見たいと期待しているのは、

    人間が幸せにならないような社会はどのようにデザインされて行ったのか?

です。

ここが見えれば
 幸せにならない社会がデザインされていった
  という歴史的事実を踏まえて

     幸せになる社会をデザインしていく

方法論が見えてくる可能性があります。

 「あげつらうのもばかばかしい
 「与えられた条件の中でうまくやるしかない

といった態度は怯懦です。

初めから人間業の可能性を放棄していると僕は思います。




蛇足。

僕にとって【同】は「観たくないもの」です。
 なのに嫌というほど観えてしまう。

   【逆接】だからです。


「富士山」





上の画像は10/31の10時頃に撮影したものです。
 場所は、富士急行富士山駅のある建物の6階展望台から。

今年は富士山の初冠雪が遅かったんです。
 初冠雪はこの3、4日前でしたけど
  そのときに雪を被ったのは山頂部分がわずかにという程度。
   この日は7合目くらいまで、雪になっています。

富士山は、僕にとっては特別な存在です。
 富士山は日常の風景ですが、風景というカテゴリーをもはや超えています。
  富士山は眺める存在であると同時に、眺められる存在でもある。
   富士山からの視線を感じるような気がするんです。

もちろん、それは錯覚に過ぎないことは重々理解しています。
 だけど、それにしてはリアルなんです。

晴れていて
 「今日は富士山が顔を出しているだろうな」
  と思うのと同時に富士山からの視線を感じる。
   それで振り向くと富士山がいる

   「ある」ではなく「いる」です。


こんな感覚を抱くようになったのは、わりと最近のことです。
「note」というSNSを始めた頃
 面白がって毎日のように富士山を撮影してはアップしていたことがありました。

半年くらい続けていたと記憶していますが、やっぱり飽きるんですね。
 飽きてしまって、撮影はやめてしまった。
  SNSの方も中断してしまって、意識して富士山を眺めることも辞めてしまった。

それからしばらくして、去年の今頃だったと思いますが
 秋晴れの日に街を歩いていたら
  後ろから視線を感じたような気がしたんです。
 誰か知り合いでもいるのかいな? と思って振り返ったら誰もいない。
  不審に思ったのですが、はたと気がついた。
  
    あ、これは富士山だ

そう思ったときは、おかしくてひとりで笑ってしまいました。

そのときから、富士山はそこにある風景でなく
 そこにいる人格になりました。


こんなことを書いていると思い出すことがあります。
 昔、そんなことを言っていた人に出会ったことがあるんです。

富士山業界では有名な写真家さん。
 南アルプスの山小屋に居た頃のことです。

その人が有名な写真家であったことは知っていました。
 だけど、僕はへそ曲がりなんで、「有名? ふ~ん...」
  てなもので、関心を寄せていませんでした。
 その人は不思議な感覚の面白い人で、人柄は好きでしたけど。
  要するにキワモノだと認識したんですね。

当時は写真というものをバカにしていた。
  記録という意味での写真ならわかるけど
   風景を切り取っただけのものが、芸術に値するとは考えていませんでした。

だけど、ある一枚の写真が、写真が芸術に足ということを教えてくれました。
 それは高山植物の一種、イワベンケイの写真でした。

イワベンケイというのは、高山植物のなかでも、どちらかと言えば地味な存在です。
 高山は気象条件の厳しい場所ですが
  イワベンケイは、なかでもとりわけ厳しい場所に咲く。
   吹きさらしで乾燥した岩稜地帯が彼らの住処。
  ゆえに、葉は厚くなり、花弁との差もハッキリしない。
 可憐な花にはならないんです。

そのイワベンケイが、とびきり可憐な姿で写真に収められていた。
 湛えた朝露がきらきら光って、ニッコリ笑っているような。
イワベンケイは嫌というほど見てきましたけど、そんな姿は見たことがなかった。

驚いて、この写真は誰が撮ったのかと尋ねたら、富士山専門の写真家が撮った、と。

で、当人に尋ねてみました。
 あんな写真、どうやって撮ったんですか?
  ――こんなふうに撮ってくれと、花の方から言ってきたんだよ。

いかにもキワモノらしい答え。

 素晴らしい写真だと思うけど、発表しない?
  ――ん~、これは、僕に個人的に見せてくれた姿だからね。

 じゃあ、富士山にも、個人的に見せてくれた姿とかあるんですか?
  ――もちろん、ある。
      そういう写真は公表しない。
       そんなことをしたら、富士山に嫌われるから。

というような会話を交わした記憶があります。


その人にとっては、イワベンケイも富士山も、立派な人格です。
 が、当時の僕には、その感覚がまったく理解できませんでした。

  今はなんとなくわかる気がします。





『ピダハン』の読書は、楽しすぎて、遅々として進みません。
 こういった本は、一気に読破してしまうのはもったいない。
  行きつ戻りつしながら、読み遊んでいます。

この「富士山」についても、『ピダハン』からの派生です。



富士山には、「木花咲耶姫」という人格が与えられています。


僕自身は、そういう名前のついた人格として、富士山を認識しているわけではありません。
 ただ、そういう認識はありだと思います。

歴史的な伝承として「あり」というのではなく
 現に、そこにいる存在として、そういうのもあり。

現にいる存在。
 「神」や「精霊」と呼ばれるもの。
  現にそこにいるので、当然、観ることができる。
 人格として認識しているなら、人格として観る。
それが「精霊」です。

『ピダハン』の著者には、ピダハンたちが観ている精霊は見えません。
 いくら観ようとしても見えない。
ピダハンたちを信頼し、彼らが観ているであろうことは認めても
 それでも観ることができない。
  心の底から、そういう人格が存在するのだということを認めていないのでしょう。


心の底から認めるというのは、とても難しいことです。
 意識してそうなるものではありませんから。
  無意識のうちにそうなってしまうもの。
 意識していることを、意識して無意識に落とし込むというのは、至難の芸当です。

ああ、違います。「落とし込む」ではない。
 ベクトルはむしろ逆。抱え上げる?
  いえ、しっくり来ません。

別の言葉で言い換えた方がよさそうです。
  惚れる
という言葉。あるいは
  萌える
とか。

「落とし込む」は"単純なものへと整理して”という経過を踏みますが、
「惚れる」とか「萌える」は、"より複雑なものだと想い為して”という経過を踏む。
 そして
「落とし込み」は【アタマ】の認識作用ですが、「惚れる」「萌える」は〈からだ〉の認識作用。

意識して為すのは難しいけど、 〈からだ〉は勝手にやってしまう。


とはいえ、【落とし込み】も身体的に作用します。
 これが人間の哀しいところ。

映画『ロルナ』の祈りにおいて、象徴的に使われていた紙幣。
 【アタマ】の認識作用によって〈からだ〉にまで【落とし込まれた】紙幣は
  視聴者である私たちの注意を無意識のうちに惹く。
 その無意識の惹きつけによって
  私たちは登場人物たちがお金に支配されていることを感知し
   現に支配されているがゆえに同感
    支配に追い詰められて抗わざるを得なくなったロルナに共感します。

 その共感
  ベートーヴェンのアリエッタに置き換えて良しとしたことは、
   理解はできるし共感もするけれども
    ずるいとも思うというのは、先に記した通りです。

「卑怯者の発想」


興味深い記事を見つけたので、所感を。


江川達也氏 安冨歩氏が基地反対派に授けた「戦法」に「卑怯者の発想」




江川発言の元になった琉球新報の記事。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを
 安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授)




江川さんのFaceBook記事 ⇒ リンク

  

江川さんの発言は、ある前提のもとに立っています。
 これを考えるには、まず、
 
   沖縄vs日本国

 という構図を設定する必要があります。
沖縄のなかにもいろいろな考え方の人がいますから
 この構図は安直なものですけれど、わかりやすい理解のために。

この構図の元、江川さんは

 日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない

という現状認識をしていると推測します。
 だから

 >安冨氏の発言に対して「暴力の奨励じゃないのかな」と指摘

するようなことになってしまいます。
 が、この現状認識は正しいの? という話です。


日本国の沖縄における活動が合法かどうか。
 裁判で争えば、合法という判断が出るかもしれません。

だけど、合法=非暴力 ではない。
 国家が暴力装置だということを鑑みると、
  合法であるということは、暴力をふるってよい条件のことでしかない。

だから、合法=暴力 ということがありえます。


安冨さんは、このように指摘しています。


猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。
今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。


この安冨発言の基底にあるのは、

 差別構造は差別意識から生まれる

ということです。
そして、もうひとつ重要なことは、

 差別意識は、差別を為している当人からは見えない

ということ。
精確には「見えない」ではなくて、「観ようとしない」ですけれど。

江川さんには、安冨さんのこの文章は見事に見えないようです。


差別意識が見えないと、差別構造が見えない
 差別構造が見えないと、現に暴力行為が行われていることも見えない

繰り返しますが

      合法かどうか

ではありません。そういう見方ではない。

日本国の暴力行為が見えないと

    日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない

という現状認識になり、安冨発言が

   暴力の奨励

 に見えてしまう

ですけど、「沖縄」の人はもちろんですが、「日本国」以外の人にも
 暴力行為は見えている
  差別構造も見えている
   さらには差別意識も可視化させた

この可視化がどんどん進めば
 必死で「観ようとしない」人たちも
  周囲から攻撃されて観ざるを得なくなるはず
 
これが安冨戦術の骨子でしょう。
 現に暴力が振るわれていることが見えれば
  可視化戦略は卑怯なものでも何でもないということは
   何の疑問もなく理解できます。

米国は人権を重視する国のはずだから、沖縄人を土人呼ばわりする日本の警察に米軍が守られている状況をどう思うか、聞いてみたらいい。


「はず」は、実は、怪しいんですけどね。


江川さんにその意識はないでしょうが
 実は江川さんには「沖縄」に対する差別意識が
  無意識下にあることが露呈してしまいました。

何が観えて、何が見えないのか。
 その事実で、その人の意識がわかるということ。

江川「卑怯」発言。
 成り行きが興味深いところです。
 

『ピダハン』


追記前提のフライング・エントリーです。

今、思っていることを、今、書き留める。
完成形ではなく、未完成のままで表出してしまう。
 
そうした“形式”が、なぜか楽しいと思うようになってきています。

というわけで、読みかけの本。



予想していた以上に、楽しい読書を味わっています。
 当初、予想し期待していたのは「懐かしさ」でした。
  『逝きし世の面影』を読んだ時のような。



読書をしていて懐かしいと感じるとき。
 それは、本の中にある現象の記述が
  私たちが普段体験している文化的現象の震源だと感じられたとき。
   普段、何気なく為している言動のルーツを見出したと思ったとき。

その文化的現象が失われつつあるものだとしたら
 懐かしさはさらに強調されることになります。
『逝き世の面影』は
  僕たち日本人が失いつつある日本人としての文化的の震源を
   再発見させてくれる読書でした。


あるいは、『浜辺の歌』。


浜辺を彷徨った経験などないにも関わらず
 歌を聴いていると、いつの間にやら同調して 
  “昔を偲ぶ”という気分に誘導されてしまう歌。


「懐かしさ」の発見は、根源への思索を誘うものです。
 『ピダハン』もまた根源への思索を誘うものですが
   これは「懐かしさ」を超越しまっています。

懐かしいというには、逞しすぎる。
「生」と「死」の距離が
  僕たちの文化的体験から想像不可能なくらいに近い。

いえ、想像不可能ではないかもしれません。
 ただし、その近さは異常事態です。
  敵と殺し合う戦場でならあり得るかもしれないと思うくらいの近さ。
   その近さが、ピダハンにおいては、健全な日常生活になっています。


ピダハンのある女性が赤ちゃんを産んだ。名をポコーという。
 母子とも順調に生育したけれど、母親が病気になって死んでしまう。
  同時に赤ん坊も弱ってしまう。

ピダハンの集落で暮らしていた著者は、その赤ん坊を救おうとします。

私たちは、誰がポコーの娘の面倒をみるのかみんなに尋ねた。
「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」みんなは言った。
「ケレンとわたしが世話をしよう」私は言ってみた。
「いいだろう」ピダハンたちはうなずいた。「だが赤ん坊は死ぬよ」

ピダハンたちには、死が見えるのだ。いまはそれがわかる。だがわたしは赤ん坊を助けると誓ったのだ。


(前略)ジョギングから戻ってみると、我が家の片隅に数人のピダハンたちが集まっていて、強烈なアルコール臭が漂っていた。集まっていたピダハンたちは、何やら申し合わせたような顔でこちらを見据えてくる。怒っているように見える者、恥じ入っているように見える者。自分たちが取り囲んでいる地面のあたりにただ目を落としている者もいた。わたしたが近づいていくと彼らは場所を開けてくれた。ポコーの赤ん坊が地面に横たわり、死んでいた。カシャーサ(酒)を無理やり飲ませて死なせたのだ。
「赤ん坊はどうしたんだ?」わたしは、目に涙がにじんできた。
「死んだ。これは苦しんでいた。死にたがっていた」


しかしこの出来事について考えれば考えるほど、ピダハンの立場からすれば最善と思われるやり方で始末をつけたに過ぎなかったのだと思えるようになってきた。彼らは意味なく冷酷にふるまったわけではない。生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見抜けてしまうのだ。ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。わたしが素晴らしい思いつきだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。



「死相が見える」ということがありえることだという感覚がなければ
  上記の出来事は野蛮人の蛮行にしか見えないでしょう。
僕には「ありえること」という感覚はあるという自負があるので
 野蛮に見えるピダハンたちの行為の合理性は理解できなくはない。
  だけど、それでも、驚かざるを得ません。
   ここまで「生」と「死」は近くはない。
  アタマでは「生」と「死」は表裏一体だと理解はしていても
  〈からだ〉はそのようにはなっていません。


現在、読書はピダハンの言語について
 著者が体験を綴っているところにさしかかっています。

読書のさなかに僕のアタマに浮かんできたのは

 「真如」

という言葉です。



「真如」とは、「言葉以前の言葉」を表す言葉です。

僕たちにとって言葉とは〈世界〉を“分割するもの”です。
 言葉に〈世界〉は分割され、分割されたことによって「輪郭」が与えられる。

言葉が“分割するもの”であるという理解が生まれれば
 論理的帰結として“分割以前”という発想が生まれてきます。
 「真如」とは、現実を越えた“発想”です。
   
仏教とは、現実を越えた発想から現実世界を観る方法論だと思っています。
 だから、発想は現実的ではない。
  むしろ現実的であってはならない。


現実は小説より奇なり。

ピダハン語は、言葉でありながら、どうやら〈分割するもの〉ではなさそうな雰囲気です。
 だとすれば、「真如」だということになる。
  「真如」でありながら、
  コミュニケーションを可能なさしめるツールとして機能しているように思えます。

が、これもまた、現段階での僕の発想です。
 読書を進めて確認してみたいと思います。

『ロルナの祈り』


ずるい映画だと思いました。



この映画は、僕がチョイスして観たわけではなかったんです。
 とある会で、観ることになった。
  なんの予備知識もなしに観ました。

なので、エンドロールで
 僕には耳馴染みの音楽が流れてきたときには
  かなり面食らってしまいました。

また、ここでもベートーヴェン。
  しかも、最後のピアノ・ソナタ作品111

 そういう閉じ方をするか――。



ロルナという名前。
 ヨーロッパの人ならば、その名前だけで出身地は察しがつくのかもしれません。
  移民も身近な存在なのでしょう。
 合法的に国籍を得る為の偽装結婚。
  もちろん違法なビジネスです。
   ロルナは犯罪者です。
ロルナにはその自覚がありません。

もちろん、ロルナは自身の状況を知らないわけではない。
 知っていても、わかっていない。
  アタマではわかっていても、〈からだ〉にまで届いていない。
 なので自身のおかれた状況からは許されない振る舞いをしています。
  偽装のはずが偽装ではなくなってしまいます。


この映画のなかで重要な役割を果たしているキーアイテムがあります。
 紙幣です。
  幾度も幾度も“お札”が画面に出てきます。

お金を知ってしまっている人間はお金を無視することができません。
 お金の効用を実感として識っているので
  その【価値】が〈からだ〉まで届いてしまっています。
なので、視聴者は
 登場人物がロルナも含めて
  お金に支配されていることを理解することができます。

加えていうならば、お金の使い方で「愛」の存在がわかる。
 そのように作られた映画です。

映画の中の現実では、お金の支配から逃れることができません。
 「現実」から逃げられないから
  「現実」ではないところに逃げる。
 その「逃避」を祈りだといい 奇跡だといい
  ベートーヴェンの音楽を被せて
   美しいものであるかのように印象づけようとしていると感じる。

ショパンならまだしも、ベートーヴェンでは嘘くさい
 僕は、嘘くさいと感じます。

ショパンであったなら
 製作者には「逃避」の自覚はあったろうと思ったでしょう。
  「逃避」してしまうことから逃れられない人間。
    弱い人間。
  「逃避」から逃避することなく
    人間の弱さを真正面から見つめるなら
     それは大いにありだと思います。

だけど製作者自身が「逃避」してしまうことは、どうか。
 

映画の「現実」のなかでロルナは追い詰められてしまいます。
 ロルナは身の程を弁えていませんでした。
  ロルナの“身分”では、〈からだ〉を素直に発動させることは許されない。
 なのに、ロルナはそれをしてしまったがために、追い詰められることになります。
  理不尽な「現実」です。

追い詰められて、ロルナは想像の世界に逃げる。
 想像と現実の区別が付かなくなっていく。
  区別が付かなくなってしまうことが
   当映画がいうところの「祈り」であり
    予告編がいうところの「奇跡」です。

繰り返します。
 「逃避」することが避けられない弱い人間の「現実」を描くのはありです。
が、「逃避」しているフィクションの人間のなかに
 製作者自身が「逃避」してしまうのは、どうかと思う。

僕はずるいと思うし、
 もっと強い言葉で言えば、怯懦です。
  現実に怯えていると感じてしまいます。


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『仮想通貨革命』


なんとも迂闊なことです。



こんな本が、もう、2年も前に出ていたんですね。

まだ未読なのにエントリーにあげるのは、いつも以上にフライングですけれど。

技術革新で貨幣そのものにイノベーションが起きて、社会の在り方そのものが大きく変化する――

歴史の大きな流れからすれば
 ごく自然なことであるはずなのに
  なぜか、そうした「大問題」を正面から取り上げる著作に出会わない。

僕が迂闊なだけだったんですけど。

著者の野口悠紀雄さんは、超絶スペックな頭脳で有名な人。
そうした人が予想する社会の未来図は
 僕なんかが夢想する図とはかなり食い違っているだろうと思います。

思うけれど、でも、読んでみたいです。
 

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『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』


楽しい映画です。



まあ、娯楽作品ですし。
 いろいろ違うよなぁ~とは思うんだけど
  目くじらを立てるのも野暮なこと。


だけど、みっつだけ言わせてもらいたい。


ひとつめ。

前半の見せ場で105年の木を伐るという場面があります。
 が、あの腰高はありえない。
伐る位置が高過ぎます。

ほぼ腰の高さで伐っていますよね。

そのあとのシーンに原木市のシーンがありました。
 伐りだした105年の木は市で競りにかけられて高値がつく。
  35万とか、36万とか。

あれ、一本の値段ではありませんから。
 立米単価です。

原木の体積は末口(細い方)の直径の二乗×長さで計算します。
仮に直径80センチで、長さが50センチとすると、
 
  0.8×0.8×0.5=0.34立米です。

で、立米単価を30万円とすると、

  0.34×30=10万2千円ナリ

腰高に高く伐るということは、
 それだけのお金を山に捨てるということです。

ありえません。

市から帰る車のなかで親方が良いことを言います。

「植えた木が育って価値が分かるまで見届ける事は出来ない馬鹿みたいな仕事だ」

人間の都合を越えた、息の長い仕事だということですよね。
 なのに、せっかくの木を腰高に伐って
  山に捨てるだなんて、ありえません。


ふたつめ。

気になったのは、伊藤英明演じる役がイヤーマフをしていたこと。

ありえないとは言わないけど、僕の感覚ではない。

映画では追い口を入れている最中に風が吹いて
 伐っている木が揺れて
  そばにいる人が肩を叩くシーンがありました。

イヤーマフなどしていると、ああいうことになる。
 風の気配に気がつかないんです。

これはとても危険なことです。
 突風など吹こうものなら、自分の想定外の方向へ倒れることがある。

そのような時は無理な力がかかりますから、どんなことが起るかわかりません。
 突然、木の幹が真っ二つに裂け上がったりする。
  そういうことは一瞬で置きますから、気がついたときには遅いことがある。
だけど、気配は察知できるし、身体が察知していれば
 すでに身体はアタマが意識するよりも先に逃げる準備をしている。

だから間に合うんです。
 なのに、大切な聴覚を封じ込めるなんてありえない。

あれは「社会の都合」なんです。
 長年のチェーンソー使用で難聴になると、労災認定がおります。
  林業業界の労災保険は大赤字ですから。
だから、難聴防止のための策が奨励される。

『WOOD JOB!』も、そうした部分では「社会の都合」に沿ってしまっています。
 聴覚を塞ぐと、生命の危険があるのに。

「社会の都合」によって身体知が抑圧される良い例です。


みっつめ。

大山祇の神の大祭があるということで開かる寄り合い。
 研修生の主人公の、祭りへの参加資格が問われるシーン。 
  これもありえません。

このような設定の下のあるのは、

 村人=杣人(そまびと)

という図式です。
 だから、一年しかいない人間(非村人)は
  杣人ではないということになるし
   そのように提示されても違和感を憶えません。

だけど、村人=杣人の図式が成立したのは戦後の話です。
 戦前は、必ずしも杣人は村人ではなかった。
長年の伝統を踏まえるはずの祭りが
 そういうカンジンカナメのところを外すはずがないんです。

山の神の祭りは、杣人の祭りです。
 だから、村の長といえど、参加資格を云々できる立場ではない。


本来の杣人の集団は、この『WOOD JOB!』で描き出されたものとは違います。
 少なくとも、僕が感じていたものとは違う。
むしろ『WOOD JOB!』より『攻殻機動隊』のほうが近い。
 STAND ALONE COMPLEXE です。

杣人は技能集団なんです。
 それも、子孫を残すという期待をかけられていない人間たちの集団。

村人とは、子孫を残す義務を負った人たちですから、そこが決定的に違う。


だから、大祭のクライマックスシーンで、
 女性器に男性器が突入するするというのも、ない。
「五穀豊穣」は、農地をベースにし、
  農地の守り手であると同時に子孫を残す義務を負う村人のテーマであって
   杣人のテーマではないんです。

もっとも、山の神をお祭りするときには男性器を掲げます。



僕が昔、撮影したものです。
 山の神の日ではなく、新しい現場に入る日にお祭りしたもの。

「山の神」には女性のイメージがあります。

大山祇の尊(おおやまずみのみこと)は男性神ですけど、
 「山の神」というと
 大山祇の尊の娘であるところの岩長姫(いわながひめ)とされます。
大山祇の尊には娘が二人いて
 もうひとりは木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
  富士山です。

神話では、天皇家の子孫である瓊瓊杵尊(ににぎにみこと)に
 大山祇の尊は娘を二人差し出したことになっています。
  ところが岩長姫のほうはリジェクトされてしまった。

富士山は見目麗しいですが、それ以外の山はそうでもない。
 リジェクトされた岩長姫は無聊を託っているに違いない――
  だから、男性器を祀る。
そういう意味合いですから、五穀豊穣、子孫繁栄の意味合いはあまりありません。


このことは、当時の経済状況も反映しています。

林業は、現在では地場産業のイメージがあります。
 木は動かないので地場に間違いはないが、人間は動く。
  林業は、人的には地場産業ではなかった。

現代では、以下のようなイメージ。
 ある場所に大手企業が新しく工場を新設。
  雇用が生まれ、地元民も、非地元民も働くようになる。
このようにして成立した産業を、ふつうは地場産業とはいいません。

かつての林業もそれと同じです。
 大きな林業地には大きな雇用があって、他所から大勢の杣人がやってきた。
  その杣人たちは、たいてい次男、三男、です。
    長男は、地元で、農地を守り、血筋を守る義務があるから
      杣人のように死亡率の高い職業には付かなかったのが普通です。

現代的にいうなら、杣人とは、ノマドワーカーだった。
 山の神の祭りはノマドワーカーの祭りですから
  半人前の主人公にだって参加資格は初めからある。



ノマドワーカーに必要なのは、その職に適合したスキルです。
 樵ならば、樵としての身体知でしょう。
ムラを維持するためのコミュニケーション能力の優先度は低い。

が、なかにはノマドであってもコミュニケーション能力が高い個体もいます。
 そういう人材は、地元で目をかけてもらうようになり、
  なんらかの理由で後を継ぐ男子がいない家系に採用されたりした。
そうなると、杣人は村人に“昇格”するわけです。

これは、地元部落にとっては、“外部の血”と優秀な人材を確保の方法論。
 そのようにして、地元にだけで固まると停滞しがちになってしまう共同体を
  活性化したのでしょう。
が、ムラ社会が全域化してしまった現代では
 そうした「回路」もあまり機能しなくなったようです。


林業地をよく取材したはずの『WOOD JOB!』は、
 林業をテーマしにしながら、
  現代的な意味でのムラ社会を描いたものになっています。
もはや林業そのものからも、本来の精神が失われたということなのでしょう。

大衆受けを狙った娯楽作品だからこそ、大衆に響くように作品は作られます。
『WOOD JOB!』もまた、そうした作品のひとつ。
  ムラ社会に供された娯楽作品です。

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プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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