〈世界〉の再配分
2009-07-03
前置きはなしで、いきなり本題。
まず〈世界〉の定義です。
〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉
私たちが今暮らしている〈世界〉は「ポストモダン」だと言われています。で、「ポストモダン」がどういった〈世界〉なのかといいますと、
つまり「ポストモダン」の〈世界〉とは、〈システム〉が極大化〈生活世界〉が極小化して、
〈世界〉=〈システム〉
になりつつある時代だといえます。
そうしますと、『〈世界〉の再配分』とは、〈システム〉を縮小し〈生活世界〉を拡大して、〈世界〉をもう一度
〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉
に戻すことになります。これは要するに、当ブログが繰り返して述べている「近代の超克」であり「トランス・モダン」です。
まず〈世界〉の定義です。
〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉
私たちが今暮らしている〈世界〉は「ポストモダン」だと言われています。で、「ポストモダン」がどういった〈世界〉なのかといいますと、
「ポストモダン」とは〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を空洞化してしまった時代です。これは〈システム〉の全域化が達成された時代ともいえます。では〈モダン〉とは何かと考えれば、全域化が可能な〈システム〉が生み出され、その〈モダン・システム〉が拡張していった――これを「進歩」と称する――時代だといえるでしょう。
『底が抜けた〈システム〉を』(愚樵空論)
つまり「ポストモダン」の〈世界〉とは、〈システム〉が極大化〈生活世界〉が極小化して、
〈世界〉=〈システム〉
になりつつある時代だといえます。
そうしますと、『〈世界〉の再配分』とは、〈システム〉を縮小し〈生活世界〉を拡大して、〈世界〉をもう一度
〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉
に戻すことになります。これは要するに、当ブログが繰り返して述べている「近代の超克」であり「トランス・モダン」です。
「だれのものでもないもの」は胡散臭い
2009-07-02
久しぶりに『404 Blog Not Found』を覗いてみたら、面白いことが書いてありました。
『梅田望夫と中川淳一郎の共通点 - 書評 - ウェブはバカと暇人のもの』(404 Blog Not Found)
が、この「だれのものでもないもの」はどこか胡散臭い。
『梅田望夫と中川淳一郎の共通点 - 書評 - ウェブはバカと暇人のもの』(404 Blog Not Found)
だから、分かってないんだよ、二人とも。だれがわかっていないかはどうでもいいですが、「それ」が何かは重要です。『404 Blog Not Found』では「それ」をウェブだと指摘していますが、もちろん、それだけではありません。政治とか経済とかも同じ。地球環境。それから言葉だって、「だれのものでもないもの」です。しかし、これらは同時に「だれのものでもあるもの」。それが【public】です。
この二人がわかっていなこと。それは「だれのものでもないもの」。
パブリック、と言い換えてもいい。
が、この「だれのものでもないもの」はどこか胡散臭い。
〔トランス・モダン〕を阻むもの
2009-07-01
当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」〜好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に
『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論)
『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)
の順序でご覧になってください。
『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論)
『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)
の順序でご覧になってください。
紀州の思い出(1)
2009-06-29
ちょっと休憩というわけでもないんですが、ここのところ重たい話題が続いたので、少し目先を変えてみます。
和歌山から山梨に引っ越してきて、落ち着いたらこのテーマは取り上げてみたいと思っていました。引越しで荷物を整理していたら、いろいろと懐かしいものが出てきたりして、どうしてもブログに書いてみたいな、なんて思ってしまうわけです。私自身のごく身近なことですが、ブログなんてやろうという人間ですから自己顕示欲が強いのでしょうね、見てもらいたいな、と(笑)。
そんなことで、今回ご紹介するのは、和歌山にいるときに勤め先から書けと言われて書いたもの。「緑の雇用」という国の林業&雇用対策の枠の中にいましたので、まあ、要するに“田舎はいいぞ”というPR文みたいなのを書けという要望だったと思います。お役所が出すパンフレットみたいなのに載せるから、ということで。
こんなのです。
和歌山から山梨に引っ越してきて、落ち着いたらこのテーマは取り上げてみたいと思っていました。引越しで荷物を整理していたら、いろいろと懐かしいものが出てきたりして、どうしてもブログに書いてみたいな、なんて思ってしまうわけです。私自身のごく身近なことですが、ブログなんてやろうという人間ですから自己顕示欲が強いのでしょうね、見てもらいたいな、と(笑)。
そんなことで、今回ご紹介するのは、和歌山にいるときに勤め先から書けと言われて書いたもの。「緑の雇用」という国の林業&雇用対策の枠の中にいましたので、まあ、要するに“田舎はいいぞ”というPR文みたいなのを書けという要望だったと思います。お役所が出すパンフレットみたいなのに載せるから、ということで。
こんなのです。
A案は「国定道徳」である
2009-06-28
衆議院を通過した臓器移植改正法A案は、参議院で提出された対案のE案と共に審議入りしたとの報道が伝えられています。
その報道のなかで私の関心をひいたのは、「脳死が人の死」ということが国民に広く受け入れられているかという点をめぐっての、A案E案提出者のそれぞれの見解の違いです。報道されているところによりますと、A案提出者は「脳死が人の死」が国民の合意を得ているとするのに対して、E案はまだ得られていないとしているそうです。
私はこの2つの見解、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではないと見ます。見方によって、どちらも正しいと言える。そうした類のものでしょう。どういうことかというと、臓器移植の前提として「脳死を人の死」だと考えることについては、国民的な合意は得られている。が、自分自身や身内の者の死について「脳死を人の死」だと考えることについては得られていない。有り体に言ってしまえば、他人事なら「脳死は人の死」だけれども、自分自身については「脳死は人の死」ではない、とうことでしょう。
その報道のなかで私の関心をひいたのは、「脳死が人の死」ということが国民に広く受け入れられているかという点をめぐっての、A案E案提出者のそれぞれの見解の違いです。報道されているところによりますと、A案提出者は「脳死が人の死」が国民の合意を得ているとするのに対して、E案はまだ得られていないとしているそうです。
私はこの2つの見解、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではないと見ます。見方によって、どちらも正しいと言える。そうした類のものでしょう。どういうことかというと、臓器移植の前提として「脳死を人の死」だと考えることについては、国民的な合意は得られている。が、自分自身や身内の者の死について「脳死を人の死」だと考えることについては得られていない。有り体に言ってしまえば、他人事なら「脳死は人の死」だけれども、自分自身については「脳死は人の死」ではない、とうことでしょう。
幸福な死、幸福な生
2009-06-27
報道で時折「孤独死」という言葉を目にしたり耳にしたりすることがあります。
「死」にはどうしても暗いイメージがつきまとってしまいますが、「幸福な死」というものだってあることは誰もがよく識っていることだろうと思います。熟した果実が自然に枝から落ちるように...、という表現は「死」には似つかわしくないかもしれませんが、「死」は誰にとっても必然で不可避ですから、迎えるのは「自然な形」が好ましい。「自然な死の形」は「幸福な死」のイメージと、ごく自然に結びついていきます。
「孤独死」といったとき、私に湧き上がるイメージは「不幸な死」です。ひとりで誰にも知られず死を迎えたからといってそれが不自然な死であったとは言い切れないのですが、それでも私たちは、「孤独死」の響きの中に不幸な色合いを見てしまう。「孤独死」は、死に逝く人個人としては自然なものであったかもしれなくても、私たちが識っている「幸福な死」のかたちには、どうしても一致しない部分があるのですね。「ひとりで死ぬこと」そのものが「自然な形」ではないということを私たちは識っています。「死」は自分ひとりだけのものではないではないのです。
これは、とあるところで出会った文章をお借りしてきたものです。もうおわかりだろうと思いますが、「持っているのに上げなかった」とは、大切な人の身体の一部分、すなわち臓器のこと。
臓器移植についての議論が当ブログでは続いています。当エントリーは、その議論へ一石を投じることを意図したものです。上の「問いかけ」についても考えてもらいたいと思うのです。
私が上の文章と出会ったときに、すぐに思い浮かんだ言葉が「セカンドレイプ」です。臓器移植が想定される「死」が「自然な形」であることは考えられません。大切な人を失いつつある悲しみの中にある人に、臓器移植の提案は追い打ちをかけるものになりかねない。まだ温かい身体が、冷たい手術台の上で切り刻まれることになるのです。その光景が直視に耐えるものだとは、私には思えません。まして「喜び」が感じられるようになるなど、どこかが壊れでもしなければなれそうにない。
私は臓器移植を「強欲」だと表現しました。この表現に違和感と怒りを感じられる方も多いようです。ですがそれでも私はこのが不適切なものとも強すぎる表現だとも思いません。
臓器移植は、提供者遺族の感情に二次的な被害をもたらすことになります。それは提供者遺族が、移植を待ち望む人の切実さを想像できる人であればあるほど、深刻なものになっていく。強欲な臓器移植の救いがたさです。
臓器移植に賛成に人は、大切な人の生命の一部が他者のなかで生き続けるのだと言います。それは事実でしょう。しかし、私の空想力は考えます。「死」にも「幸福な死」と「不幸な死」とがあるように、「生」にだって両方あるのだ、と。他者のなかで生き続ける「生」が「幸福な生」だと、どうして断定出来るのか?
臓器移植を受けた患者は、終生、免疫抑制剤なしでは生きていくことが出来ないと言います。「わたし」と「あなた」とを区別し続ける免疫の作用は、生物が「喜び」や「悲しみ」といった感情を獲得するずっと以前からもっていたもの。その免疫の作用を抑制されつつ生きながらえることが「幸福な生」であるなどとは、私の空想力の及ばぬところです。
「死」にはどうしても暗いイメージがつきまとってしまいますが、「幸福な死」というものだってあることは誰もがよく識っていることだろうと思います。熟した果実が自然に枝から落ちるように...、という表現は「死」には似つかわしくないかもしれませんが、「死」は誰にとっても必然で不可避ですから、迎えるのは「自然な形」が好ましい。「自然な死の形」は「幸福な死」のイメージと、ごく自然に結びついていきます。
「孤独死」といったとき、私に湧き上がるイメージは「不幸な死」です。ひとりで誰にも知られず死を迎えたからといってそれが不自然な死であったとは言い切れないのですが、それでも私たちは、「孤独死」の響きの中に不幸な色合いを見てしまう。「孤独死」は、死に逝く人個人としては自然なものであったかもしれなくても、私たちが識っている「幸福な死」のかたちには、どうしても一致しない部分があるのですね。「ひとりで死ぬこと」そのものが「自然な形」ではないということを私たちは識っています。「死」は自分ひとりだけのものではないではないのです。
私は
大切な人を失った辛さと一緒に
「切実に欲しかった人に、持っているのにあげなかった」という辛さも持って
ずっと生きていかなければならないのでしょうか。
これは、とあるところで出会った文章をお借りしてきたものです。もうおわかりだろうと思いますが、「持っているのに上げなかった」とは、大切な人の身体の一部分、すなわち臓器のこと。
臓器移植についての議論が当ブログでは続いています。当エントリーは、その議論へ一石を投じることを意図したものです。上の「問いかけ」についても考えてもらいたいと思うのです。
私が上の文章と出会ったときに、すぐに思い浮かんだ言葉が「セカンドレイプ」です。臓器移植が想定される「死」が「自然な形」であることは考えられません。大切な人を失いつつある悲しみの中にある人に、臓器移植の提案は追い打ちをかけるものになりかねない。まだ温かい身体が、冷たい手術台の上で切り刻まれることになるのです。その光景が直視に耐えるものだとは、私には思えません。まして「喜び」が感じられるようになるなど、どこかが壊れでもしなければなれそうにない。
私は臓器移植を「強欲」だと表現しました。この表現に違和感と怒りを感じられる方も多いようです。ですがそれでも私はこのが不適切なものとも強すぎる表現だとも思いません。
臓器移植は、提供者遺族の感情に二次的な被害をもたらすことになります。それは提供者遺族が、移植を待ち望む人の切実さを想像できる人であればあるほど、深刻なものになっていく。強欲な臓器移植の救いがたさです。
臓器移植に賛成に人は、大切な人の生命の一部が他者のなかで生き続けるのだと言います。それは事実でしょう。しかし、私の空想力は考えます。「死」にも「幸福な死」と「不幸な死」とがあるように、「生」にだって両方あるのだ、と。他者のなかで生き続ける「生」が「幸福な生」だと、どうして断定出来るのか?
臓器移植を受けた患者は、終生、免疫抑制剤なしでは生きていくことが出来ないと言います。「わたし」と「あなた」とを区別し続ける免疫の作用は、生物が「喜び」や「悲しみ」といった感情を獲得するずっと以前からもっていたもの。その免疫の作用を抑制されつつ生きながらえることが「幸福な生」であるなどとは、私の空想力の及ばぬところです。
「選択の限界」〜好き嫌い
2009-06-25
![]() | 理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性 高橋 昌一郎 |
『理性の限界』というタイトルも堅いですが、副題の「不可能性・不確定性・不完全性」なんてのも堅い。目次を覗いてみますと、
序章:理性の限界とは何か
第1章:選択の限界
第2章:科学の限界
第3章:知識の限界
という感じで、これまた堅い。実際にページを開いていきますと、中身は架空の人物たちによる対談形式になっていて、柔らかくするように工夫が為されているのですが、それでも読み進めていくと、やっぱり堅いのですね。なかなか前へは進まない。
『理性の限界』で紹介されている内容は、どれもこれも重要なことなのですけれども、でも、この無味乾燥ともいうべき「堅さ」は、あまり好きになれないというのが正直なところです。この「堅さ」をバリバリ噛み砕いていくには、かなり特殊な才能――ふつう、それを“アタマガイイ”とか言いますが――が必要みたいです。
さて、当エントリーではアタマノヨクナイ愚樵が噛み砕けもしない「堅さ」を取り扱おうという試みですけれども、もとより噛み砕けないのですから、取り扱い方は自ずと限られてきます。すなわち、「堅さ」をペロッと舐めてみて、思いっきり「好き嫌い」で語ってみようというわけです(笑)
私たちの消費生活は、まもなく突然死する?
2009-06-25
どう考えても奇妙奇天烈なこの事件。
2邦人所持の米国債、大半は偽造 伊当局捜査
【ローマ=南島信也】総額1345億ドル(約13兆円)相当の米国債をイタリアからスイスに持ち出そうとして、日本人2人がイタリア財務警察に身柄を拘束された事件で、所持していた米国債の大半が偽造されたものであることが分かった。イタリア捜査当局は日米両捜査当局とも連携しながら、入手ルートや背後関係などの捜査を進めている。
伊当局などによると、2人は今月2日、ミラノ市内のホテルに宿泊、翌日にミラノ中央駅から普通列車に乗った。国境を越えてスイス側に入ったキアッソ駅で、2人を尾行していた財務警察の捜査員が所持品を調べたところ、二重底になったカバンの底に額面5億ドルの米国債249枚などを隠し持っていた。
(asahi.com 6月16日配信記事より )
renshiさん経由で知った情報分析が恐ろしい。
『ミラノの奇妙な事件』(ビジネス知識源:特別号)
若干の金融知識も持ち合わせていない私には、リンク先の記事を書いた著者が行った論証の正誤は判断できません。できないけれども、上述「ミラノ事件」は、何かがおかしいと感触だけは否めない。
ちなみにこんな情報もあります。
「カリフォルニア州 デフォルト」で検索してみてください。
これらを眺めていると、7/28にカリフォルニアが破産するかもしれない、という情報が得られます。カリフォルニアが破綻するとどうなるか? カリフォルニアの経済規模は、いまBRICsの一端として著しい経済成長を遂げているブラジル一国よりも大きく、しかも、カリフォルニアの債権は米連邦政府が直接保証しているといいます。素人の私などがこういった情報から安易に想像するのは、
カリフォルニア破綻→アメリカ破綻→アメリカへの日本の債権が紙くずに→日本も破綻→円が紙くずに
という連鎖です。
まったく根拠はありませんが、奇妙奇天烈な「ミラノ事件」のわけのわからなさは、「安易な想像」の 裏打ちであるような気がして仕方がない。
「安易な想像」が、ほんとうに安易な想像であることを願います。
2邦人所持の米国債、大半は偽造 伊当局捜査
【ローマ=南島信也】総額1345億ドル(約13兆円)相当の米国債をイタリアからスイスに持ち出そうとして、日本人2人がイタリア財務警察に身柄を拘束された事件で、所持していた米国債の大半が偽造されたものであることが分かった。イタリア捜査当局は日米両捜査当局とも連携しながら、入手ルートや背後関係などの捜査を進めている。
伊当局などによると、2人は今月2日、ミラノ市内のホテルに宿泊、翌日にミラノ中央駅から普通列車に乗った。国境を越えてスイス側に入ったキアッソ駅で、2人を尾行していた財務警察の捜査員が所持品を調べたところ、二重底になったカバンの底に額面5億ドルの米国債249枚などを隠し持っていた。
(asahi.com 6月16日配信記事より )
renshiさん経由で知った情報分析が恐ろしい。
『ミラノの奇妙な事件』(ビジネス知識源:特別号)
若干の金融知識も持ち合わせていない私には、リンク先の記事を書いた著者が行った論証の正誤は判断できません。できないけれども、上述「ミラノ事件」は、何かがおかしいと感触だけは否めない。
ちなみにこんな情報もあります。
「カリフォルニア州 デフォルト」で検索してみてください。
これらを眺めていると、7/28にカリフォルニアが破産するかもしれない、という情報が得られます。カリフォルニアが破綻するとどうなるか? カリフォルニアの経済規模は、いまBRICsの一端として著しい経済成長を遂げているブラジル一国よりも大きく、しかも、カリフォルニアの債権は米連邦政府が直接保証しているといいます。素人の私などがこういった情報から安易に想像するのは、
カリフォルニア破綻→アメリカ破綻→アメリカへの日本の債権が紙くずに→日本も破綻→円が紙くずに
という連鎖です。
まったく根拠はありませんが、奇妙奇天烈な「ミラノ事件」のわけのわからなさは、「安易な想像」の 裏打ちであるような気がして仕方がない。
「安易な想像」が、ほんとうに安易な想像であることを願います。
「私」でも「あなた」でもないものになる
2009-06-22
要するに「死」です。死んでしまうと、「私」でも「あなた」でもないものになる。ただのモノになる。
これはなにも「私」とか「あなた」とかいう意識の問題のことを指しているわけではありません。脳死になっても、アルツハイマーが進行して自分で自分が分からなくなっても、はたまた精神が分裂して多重人格になってしまっても、身体は「私」は「私」。「あなた」は「あなた」です。
そもそも、「私」という意識には「私」が何かよく分かりません。「私」とは一体何なのでしょう? 「私」は「私」である意思を持っているから「私」なのでしょうか? では、母子の区別もつかなかった赤子の頃の「私」は「私」ではなかったのでしょうか? また「私」は「私でない」という意思を持つことが可能なのでしょうか?
身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。
ただし、植物はわかりません。接ぎ木といったことしたりしますから、植物には動物のような自己と非自己の厳格な区別はないのかもしれない。また原始的な単細胞生物などもわかりません。しかし、動物といわれる存在では、自己と非自己を区別する能力こそが生命だと言ってしまってよいのではないか。そしてその能力は、生命が意識などという自己認識能力を持つずっと以前から備わっているものです。
今、脳死が人の死か否か、議論されています。脳が死ねば生き物としての人も死ぬ。当たり前の話です。けれども、現在は医療技術の進歩で、脳が死んでも身体は人工的に生かしておくことができるようになった。
脳死の人に取り付けられている生命維持装置を外すと、その人はいずれ死にます。だからといって、脳死は人の死なのか? 「いずれ死ぬ」ということと「今、ここで死んでいる」ということは、時間が経過すればやがて同じ状態になるとはいっても、大きく異なります。
「一時間後に間違いなく死ぬから、今、殺しても同じ」。 犯罪を犯す意志でもあるならともかく、通常、こんな論理を振り回す人はいないでしょう。
今ここに脳の機能が停止してしまって、やがて死にゆく人がいるとします。もちろん「死にゆく人」は「死んでいる人」ではありません。その身体はいまだ「私」と「あなた」の区別、自己と非自己の区別を続けている。すなわち、生き続けている。脳が機能を停止して、意識が「私」が「私」であることを認識出来なくても、身体は「私」が「私」であることを確認し続けている。
身体は、脳の機能の発露である意識が「私」を認識するよりずっと以前から「私」と「あなた」とを区別しています。また脳が「私」を認識出来なくなっても、身体は「私」を認識し続けている。これが正しいのなら、そして「私」でも「あなた」でもないものになることが「死」であるとするなら、脳に「死」を定める権利などないことになる。しかし脳死の概念は、「死」を定める権利を身体から奪うもの。
人間の肥大した脳は「強欲」な臓器です。胃や腸なら、食べられるだけ食べれば満足する。脳が求めるのは快感ですが、この臓器は満足ということを知らない。「支配の快感」を追い求めて倦むことを知らない。自分の身体を支配し、他者を支配し、モノの世界も支配し、生命の仕組みをも支配しようと目論んでいる。そしてついには自分の「死」までをも支配しようとしているのです。
これはなにも「私」とか「あなた」とかいう意識の問題のことを指しているわけではありません。脳死になっても、アルツハイマーが進行して自分で自分が分からなくなっても、はたまた精神が分裂して多重人格になってしまっても、身体は「私」は「私」。「あなた」は「あなた」です。
そもそも、「私」という意識には「私」が何かよく分かりません。「私」とは一体何なのでしょう? 「私」は「私」である意思を持っているから「私」なのでしょうか? では、母子の区別もつかなかった赤子の頃の「私」は「私」ではなかったのでしょうか? また「私」は「私でない」という意思を持つことが可能なのでしょうか?
身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。
ただし、植物はわかりません。接ぎ木といったことしたりしますから、植物には動物のような自己と非自己の厳格な区別はないのかもしれない。また原始的な単細胞生物などもわかりません。しかし、動物といわれる存在では、自己と非自己を区別する能力こそが生命だと言ってしまってよいのではないか。そしてその能力は、生命が意識などという自己認識能力を持つずっと以前から備わっているものです。
今、脳死が人の死か否か、議論されています。脳が死ねば生き物としての人も死ぬ。当たり前の話です。けれども、現在は医療技術の進歩で、脳が死んでも身体は人工的に生かしておくことができるようになった。
脳死の人に取り付けられている生命維持装置を外すと、その人はいずれ死にます。だからといって、脳死は人の死なのか? 「いずれ死ぬ」ということと「今、ここで死んでいる」ということは、時間が経過すればやがて同じ状態になるとはいっても、大きく異なります。
「一時間後に間違いなく死ぬから、今、殺しても同じ」。 犯罪を犯す意志でもあるならともかく、通常、こんな論理を振り回す人はいないでしょう。
今ここに脳の機能が停止してしまって、やがて死にゆく人がいるとします。もちろん「死にゆく人」は「死んでいる人」ではありません。その身体はいまだ「私」と「あなた」の区別、自己と非自己の区別を続けている。すなわち、生き続けている。脳が機能を停止して、意識が「私」が「私」であることを認識出来なくても、身体は「私」が「私」であることを確認し続けている。
身体は、脳の機能の発露である意識が「私」を認識するよりずっと以前から「私」と「あなた」とを区別しています。また脳が「私」を認識出来なくなっても、身体は「私」を認識し続けている。これが正しいのなら、そして「私」でも「あなた」でもないものになることが「死」であるとするなら、脳に「死」を定める権利などないことになる。しかし脳死の概念は、「死」を定める権利を身体から奪うもの。
人間の肥大した脳は「強欲」な臓器です。胃や腸なら、食べられるだけ食べれば満足する。脳が求めるのは快感ですが、この臓器は満足ということを知らない。「支配の快感」を追い求めて倦むことを知らない。自分の身体を支配し、他者を支配し、モノの世界も支配し、生命の仕組みをも支配しようと目論んでいる。そしてついには自分の「死」までをも支配しようとしているのです。
「いのちは闇の中のまたたく光だ!」
2009-06-20
これ、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のクライマックスのカットです。あ、これはよく知られている映画ではなくて、マンガの方です。マンガの『ナウシカ』は、ご存知の方にはいうまでもないことでしょうけど、そこに盛り込まれた中身は映画を遙かに凌ぐものです。![]() | 風の谷のナウシカ 7 宮崎 駿 |






